一人一人、そして「国体」=Country's Beingの解放

9月5日、木の花ファミリーでは、新嘗祭(にいなめさい)が行われ、みんなで稲刈りをしました。
※当日の様子はこちらをご覧ください。→KONOHANA FAMILY HARVEST
そして、9月6日の夕食、直会(なおらい)にて、みんなで刈った新米をいただきました。

稲刈り後にみんなで記念撮影しました。

直会の際、いさどんは以下のような話をしました。
 ※うろ覚えなので、僕の記憶による脚色が入っています。

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直会とは神さまと直接会うこと。神さまとはこの世の仕組み、法則のこと。つまり生命の循環です。私たちは生きること、その中でも特に食べることを通して、生命の循環の中に入っていきます。神である食べ物を自分の中に取り入れ、排泄することで他のものへと循環していきます。私たちは食べ物をいただく時、噛みますが、噛むことにより神が増していくのです。

カタカムナでは、「カ」はこの世界の最少構成要素、素粒子よりも微細な存在です。産(ム)すことによりそれが無限に広がっていきます。噛むことは無限に広がる循環を生み出していくのです。

それは今日だけでなく毎日のことです。毎日、毎食毎にそのことを意識すること。それが天と共に生きる生き方です。それは目の前に起きる出来事をいただいていく生き方でもあります。


わたしたちの暮らしに、「愛とお米があればいい」という言葉があります。お米は穀物の中で最高のもの。それと愛だけがあれば暮らしていけるのです。

多くの人は今、個人的願望に基づいて様々なものを求めていますが、それが人と人との対立や環境破壊に繋がっています。

時代は今、一人一人が自らのエゴを超えて調和して生きていく時代になっています。
毎食ごとに神さまをいただき、天を意識して、そのエネルギーを天に返していく。
そんな心で暮らしていきましょう。その心が新しい時代の扉を開いていくのです。

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毎食毎に、この世界の仕組みを意識し、それに感謝する心を育んでいこうと思います。

ちなみに新嘗祭は、宮中祭祀の一つで毎年11月23日(祝日)に行われています。天皇陛下が五穀の新穀に感謝し、新米を食していきます。それは天皇家と五穀、その中でも特にお米との繋がりの深さを示しています。

『僕の叔父さん 網野善彦』の中で著者の中沢新一さんと網野善彦さんは様々な話題について会話をしていますが、その中の一つに天皇制があります。その話題は以下のように展開されます。

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縄文時代(狩猟採集の時代)、日本は、助け合いといたわり合いの精神に満ちた相互扶助の共同体が作られていました(「国体」=Country's Being)。そして、大陸や半島から稲作を携えて渡ってきた人々も同じ精神の元に農業的社会を作りだそうとしてきました。

天皇制はそういう「国体」=Country's Beingの上に乗っかる形で支配を行ってきたのです。そのやり方が独特で、天皇は、律令制を支える官僚組織のトップでもあり、穀物霊をお祀りする神主のトップでもありました。天皇は、稲束の数で税を徴収し、その稲の霊を祀っていたのです。天皇の元、水田の国、瑞穂の国、として日本は統一されていくのです。

こんなふうに日本の表の歴史は展開していきます。ですが、すべての人々が稲作をしていたわけではありません。畑作をしている人たち、そして、海や山、川の民たちもいました。ここに日本列島の多様性があるのです。


海や山、そして川の民は農民が付き合っている自然よりも、荒々しい生の自然と渡り合っていました。そして天皇は、これらの人々も別のやり方で支配をしていました。稲籾の形で租税を取るのではなく、山や川、海で採れる産物を、神さまに対するお供え物の形で、直接納めさせていたのです。それはあいだにいろいろな役人が入る農民とは違い、天皇とのダイレクトな関わりとなっていました。そのため、彼らは天皇に対して特別な心情を育てていき、その心情は今日の右翼的なものへと繋がっていくのです。


このように天皇は、農民に対しては「穀物霊の王」として、そして、非農業民に対しては直接的な「神」として人々に崇められるようになりました。そして、相互扶助の共同体である「国体」=Country's Beingが権力としての「天皇制」に取り込まれてきたのです。

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日本人の心の奥深くへと染みわたっている天皇陛下の存在。戦後70周年の今年、玉音放送の原盤が公開されましたが、昭和天皇の言葉により太平洋戦争、日中戦争は終結しました。天皇陛下の言葉はそれだけの重みを持つものでした。

その存在の重みは反対に、戦争を開始する際にも利用されたと思われます。
天皇陛下の存在により国が一つの方向に纏まっていったのです。
その際、昭和天皇には多くの苦悩があったものと思われます。
その心情は明仁皇太子に宛てた手紙などに表れています。

  ちなみにいさどんと昭和天皇はとても深い縁で繋がっています。
  詳細は、いさどんの宇宙視点で見てみよう「昭和天皇が現れて」をご覧下さい。


人間はその歴史の中で、社会を形成し、様々なことを制度化してきました。
その中で自然との直接的な繋がりを失ってきました。

 「我思う。故に我あり」

デカルトがそう宣言した近代以降、
自我は自らを自らの中に閉じ込めてきたのではないでしょうか?
そして、日本人は、人と人、人と自然が調和した豊かな「国体」=Country's Beingを、
権力としての「天皇制」に閉じ込めてきたのではないでしょうか?

その精神構造が、現代人、現代社会の閉塞感に繋がっているのではないでしょうか?

歴史学者の網野善彦さんは、「非人」という概念を大切にしていました。
「非人」は中世の特定職能民・芸能民の呼称ですが、次第に被差別民の呼称となっていきます。
網野さんは、「非人」を取り戻すことによって、人間を自らの枠から解放させようとしていました。
上記の著作の中で、以下のような話しを網野さんと中沢さんは展開しています。

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非人とは、「非人間、人間ならざるもの、人間を超えた力の領域に触れているもの」です。
アイヌの人たちは、人間のふつうの能力を超えたものを「カムイ」と呼んでいました。
そこでは、「非人間=カムイ=聖なるもの」と考えられていました。
ところが、(天皇が権力を持った)西日本を中心として、
「非人間=非人=賤しい(いやしい)もの」というように意味の逆転が起こり、
そこに組織的な差別が発生するようになりました。
 ※東日本は歴史的に差別が少なかったと言われています。

非人=非人間は、自然との直接的な交歓のうちに生きます。
死のリアルに触れながら、生と死が不断に転換し合う、
ダイナミックに揺れ動く世界を生きています。

世界に堂々たる非人を取り戻すことによって、
人間を狭く歪んだ「人間」から解放するための歴史学が生まれます。
それは、「百姓」を「農民」から解放します。
人民を「常民(一般の町村に住む人」から解放します。
この列島に生きる人間を「日本人」から解放します。
そして、列島人民の形成してきた豊かな「国体」=Country's Beingを、
権力としての「天皇制」から解放するのです。

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冒頭のいさどんの言葉は、この世界の仕組みを理解することの大切さを伝えています。
それは、社会や制度のように人間が作りだしたものではなく、天が生み出したものです。
自分を超えた存在を意識すること。それが自分を解放することに繋がります。

地球談話に示されているように、宇宙的には、一人一人が目覚める段階に入っています。
これから人類一人一人の精神革命が国を変え、そして世界を変えていきます。

広い世界観を持って、個々の自我を超越してこと。

この世界に真の平和をもたらすために、木の花ファミリーでは凸凹しながらも
みんなでそのための生活を創り上げているのです。


※以下、新嘗祭の写真を何枚か紹介しますね(facebookページはこちらです)。


















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