天とは何かを尋ねると・・・

天とは何かを尋ねると、

自分の意図したもの以外すべて

という答えが返ってくる。(天から)

そこで想いを巡らせてみました。

自分の意図したもの以外すべてが天ならば、
自分以外の存在はすべて天と言えるのではないでしょうか?
毎日の生活で出会う自分以外のすべてのものが
天の顕れであり天からのメッセージ。
そういう気持ちで毎日を送ることが天と対話することであり、
それが天との共同作業となるのでしょう。

さらに想いを巡らせます。

自分はどうなのだろう?
僕は僕の心臓を自分の意図で動かしているだろうか?
意図して呼吸をしているだろうか?

意図していません。僕は僕の意図とは関係なく生かされています。
ならば、僕自身も天の顕れということです。

僕も僕以外のものもすべて天の顕れ。
そこに差はなくなります。
そして「差取り(さとり)」こそ「悟り(さとり)」なのです。

ならば意図とは何なのでしょう?

僕の意図は?
何かをしようとする想いは?

「幻(まぼろし)」という答えが浮かんできます。

すべては天の顕れであり一つであるこの世界で、
僕は意図を持ち、判断を下し、この世界に「差」や「違い」をもたらします。
「差」や「違い」はこの世界に彩りをもたらし豊かにしていきますが、
それらを生み出したのは僕ではありません。

僕の意図は何も生み出しません。
ただ彩りを与えるだけです。

意図は幻(まぼろし)。

消えてはまた現れる。

だから一瞬で変化することもあり得るのです。

ところで、熊本で震災が起きて翌日、
僕はいさどんと2人で富士に出掛けました。
その日はとても天気が良く富士山がとてもきれいに見えました。
とてものどかな1日です。

そんな富士山を観て、いさどんは熊本の地震を想い憂鬱になったそうです。
と同時に地球から観たら、今回の地震はちょっとした振動に過ぎないということも語りました。

視点を地球や宇宙に移す。

それは大いなる流れの中に自分を位置付けることに繋がります。

今、自分の目の前で起きていることを通して、
僕は僕の歴史を刻むと共に、宇宙の歴史も刻んでいるのです。

その流れは僕の意識を超えてずっと続いていくのでしょう。

朝、散歩をしながらそんな想いを巡らせました。

※以下、今朝6時前の富士山と太陽の写真です。

※震災についてのいさどんの言葉は以下のブログをお読みください。
  「1ヶ月間の真学校@木の花ファミリー:災害はメッセージ









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