魂を入れていく


天の流れを忘れる人々


人が自然の一部だった頃は、人は天(天気、天候、気候、季節)のリズムと共に生きていました。
自然の流れを読み、それに沿って生きる必要がありました。

その後、近代文明が発達し、人は自然の影響からある程度自由になりました。
人工的な環境を作りだし、季節に関係なく1年中同じように暮らせるようになります。
そんな中、人は天のリズムを忘れていきます。

我思う、故に、我あり。(コギト・エルゴ・スム)

私が存在するのは、私が思考しているから。

自分の存在基盤を自分の思考に求めたこのデカルトの言葉は、
自我による自然からの独立宣言で、
他者の存在なしでも自分は存在出来るという幻想を生み出しました。

そして自然や他者との関係性を無視し、人々が思うがままに行動した結果、
現在の発展と混乱した社会があるのです。

自我は一人一人別々の認識や解釈をもたらします。
今、世界には70憶以上の認識や解釈が存在し、
多くの人がそれに囚われ、翻弄されて生きています。

今、世界をテロリズムが騒がせていますが、テロリストにもテロをする理由があり正義があります。
ですが、彼らは彼らの視点に囚われています。

そして、そんなテロリストを生み出しているのは、貧困や格差を生み出している社会であり、
それは個人的利益を追求することを良しとする人々が生み出しています。
そんな人々の視点も囚われています。

そこには天や自然の流れを意識する視点がないのです。

天の流れとは?


天の流れについていさどんは以下のように語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

天は流れを創る。
そしてその流れに具体的にことを乗せるのは、地の仕事である。
流れを観て、流れに応じた行動をする。そういうコラボである。

道理を考えて人智を回すことも大事だが、それをやり過ぎると人智だけになり流れを忘れるから、流れを観ながら人智を回していく。当たり前のことだが、ついつい出来事に意識が行き過ぎると、そのことを忘れる。

流れを観ていれば、ことはスムーズに進む。
それは流れているのだから、行きつくところに行きつく。
流れを観るとは、結論が出るということではない。
流れを観て、それに沿うと、行きつくところに行きつくから、その時に「ああそうか」といただく。結論はない。しかし流れをしっかり読める人間は行き着く先が想像できるものだから、思った通りにことが成るということだ。それは最初から成るべきことが成るように生きているということである。

このようなものの捉え方でいると、道理が常に通っているから、自分の考えている通りにすべてが回る。

☆彡 ☆彡 ☆彡



魂を入れていく


天はインスピレーションを通して流れを示唆します。
その時、それを結論としてしまうと、そこに囚われが生じ、流れを失います。
自分の都合で解釈をしても、流れはなくなります。

流れを観て、流れに沿う。

そのためには自分の視点を離れる必要があります。

最初のインスピレーションは種のようなもの。

それが育っていくためには、人はその都度、適切な関わりをしていく必要があるのです。

魂を入れていく。

僕にはそんな言葉が浮かびました。

天の流れを形にしていくのは、人の仕事であり、
関わる人たちがそこに自分の魂をのせていくのです。

その作業は自らの思惑を離れたものであり、天の意向に沿ったものです。

魂をのせることで流れが熟していきます。

それは自分の想像を超えたとても大きな出来事であり、
同時に日常の中でも表現されることであり、
大きなことと小さなことが繋がり、世界が一つになっていくのです。

こんなことを想像するととてもわくわくします(^-^)

一人一人が自らの自我に翻弄されずに、天の意向に沿って生きていけば、
そこには調和が表現され、争いやテロを必要としない世界になっていくでしょう。

そんな世界に向けて、最近、木の花ファミリーでは流れについて語り合っています。




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