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忘我。自分を忘れるほどの熱狂、狂気。
僕の中にはその状態を求める気持ちがあり、
それが時に無理な行動に繋がり、自分を壊していきます。
思考の停止状態。それは空っぽの状態とも言えるかもしれません。
ですが、この空っぽは自分を保ったまま、自分が消耗する空っぽです。
この狂気への憧れの残骸が現れて、ここ3ヶ月、僕は苦しみ消耗しました。
ですが、それももう終わりです。
自我を超えた本当の空っぽは別のところにあります。
それは日々、客観的視点に立ち、自分の感情を眺め、コントロールしていく。
その積み重ねの中で育まれていくものでしょう。
きっとそれは極端とは無縁の世界です。
その本当の空っぽを実現出来た時、生み出される世界。
それは持続可能で人と人が繋がるとっても豊かな世界。
人が集まれば集まるほど豊かで美しくなっていく世界。
その姿は今、いさどんが見せてくれています。
だから僕は一歩ずつそちらに向かって歩んでいきます。(^ー^)
「空っぽへのあこがれ」より
「空っぽへのあこがれ」より
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ところで昨晩の大人ミーティングでは「空気」が話題になりました。
いさどんは「空気」について以下のように語っています。
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僕は、冒頭の文章の中で「空っぽ」という言葉を使っています。
空っぽの「空(から)」は「空(そら)」でもあり、「空気」の「空(くう)」でもあり、
色即是空の「空(くう)」でもあります。
空っぽになるとは空気のようになることであり、空(そら)のようになること。
それらは地球上ですべての存在を包み込み、そして見守っています。
その中ですべての存在は相互に関連し合い依存し合っているのです(「空(くう)」)。
つまり、空っぽになるとはすべてのものと関連し合い一体となることなのです。
そのためには「僕」を超えていく必要があります。
数日前、「天を歩く」を大人ミーティングでシェアした時、いさどんは以下のように言いました。
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確かになかのんのブログには「僕」が多く使われています。
それはなかのんが自分を調整する必要がある段階だからで、仕方がないことです。
この文章に関して言えば、今、聴いていて、
8mmフィルムの映像がコマ送りで流れている様子が浮かんできました。
天を歩く。
天とは宇宙であり、地球も宇宙の一部です。
そして地球の反対側の人たちは、僕らが地面と思っている方向を天と呼んでいます。
すると僕らは毎日、天を歩いているのです。
そのことに気づくかどうかです。
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「僕が多い」という言葉を貰ったということは、その状態を超える時が来たということです。
自分の調整にはエネルギーを使わず、すべてのものと関連し合い一体となる。
それと同時に、空(そら)や空気のようにすべての存在を包み込み、見守るあり方。
それが本当の空っぽであり、そこを目指せというメッセージを今貰っているのです。
「僕」を離れて、空気を読んで必要ならば空気を変える。
そんな気持ちで日々を生きることが、本当の空っぽへと至る道だと思いました。
1年前にした「空っぽ」への決意。
それを新たに、これからもこの道を歩みます(^-^)
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これは「あなたの未熟もみんなに役立つ」で紹介している僕の課題についての宣言でした。
そしてこれはいさどんがしてくれた以下の話を受けてのものでした。
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なかのんは、自分の状態は問題だということは言います。
だけれども、駄目なところに情を掛けて執着してしまっているのです。
そこはシビアになって抜け出さないと次の段階に行けません。
そこに情を持って執着していると、言っていることとやっていることが違ってきます。
それは矛盾を創ります。
そんなことをずっとやっていたら霊的には罪を犯すことになります。
だけれども、駄目なところに情を掛けて執着してしまっているのです。
そこはシビアになって抜け出さないと次の段階に行けません。
そこに情を持って執着していると、言っていることとやっていることが違ってきます。
それは矛盾を創ります。
そんなことをずっとやっていたら霊的には罪を犯すことになります。
問題があると認識しているならば、そのことを認めて改善する意志を明快に示すことです。
そして、常に問題を意識して生きるのです。
毎日を冷静に見ていく。緻密に見ていく。
客観的に自分を離れてみていくことが必要なのです。
~ 中略 ~
客観的に見たら、そんな行動を取るのはおかしなことでしょう?
それなのに、なぜそのおかしな行動を取るかといったら、
その未熟な自分に執着しているからです。
それで、僕の話をしますが、僕も昔、同じところを通ってきました。
僕は、お釈迦さま、そして神さまに出会い、道理を伝えられてきました。
お釈迦さまが語られるのは仏道、道なのですよね。
プロセスをずっと見ていく客観視点を育てられます。
そうすると自分の感情が苛立っている状態を観なければいけなくなります。
普通の人は感情が出てくると、感情のままに出して、
それを主張することが自由だったり束縛されていない状態と思ったりしています。
ところが、僕にはもう一つの目線がありました。
それも強制的に示される目線です。
そちらの方から「お前の今の感情はこうだぞ」と言われると、
僕みたいな道理人間、理屈人間は理屈で負けてしまうのです。
それでどうするかというと、僕は理に叶った方に行こうとします。
自分の主張が愚かであっても、そこに執着したい自分がいますが、
理に適った方に行かなければなりません。
そのように、そちらを選べば選ぶ程、情がわいている自分を否定することになります。
理に適った方を選んでは自分を否定していく。
その繰り返しになりますが、その覚悟が出来ていないとだんだん辛くなるのです。
そこで「俺はつらいんだー」となって爆発したことがありました。
そうすると、お釈迦さまは「それなら止めるか?」と尋ねてきました。
「なんてひどい薄情なことをいうの?あなたは」と思いました。
そこでまた道理を考えました。
僕が執着して道を歩むことに辛い想いをしていることに対して、
そのまま執着して進むことは、その道を外れるということになります。
止めるか?という話に乗るのもこの道を外れることになります。
どちらの自分も認めることが出来ません。
道理のところに行くことによってのみ楽になれる。
自分で自分を本当に意味で認めることが出来るのです。
認めたくない自分に執着をしてそのままで行こうとしますが、
それはすごいバカなことをやっているのです。
それでも執着している時はつらいものです。
僕はその想いを怒りに変え、伝えました。
「何を言っているのですか。止めるわけがないではないですか。
これを知らずにいかない人は世の中に沢山いますが、
一度、これを知って行かないものがいるでしょうか?
絶対やめない。見ておれ。やめんから。」
逆切れしたのですよね。
さっきのなかのんの言葉もある意味逆切れですよね。
だけれどもなかのんは自分と向き合わない方向に切れていました。
僕は「絶対にあなた(お釈迦さま)のところにいく」という逆切れ。
同じエネルギーの掛け方でも違う方向に向かっているのです。
僕は辛いから泣きました。でもその涙は自分にとって肯定的です。
そこまでやるんだ。
その想いが自分を強くしてくれます。
なかのんの逆切れは心を強くするものではなく、ある意味逃げています。
そうやって逃げていくと悔やみの心が出てきます。
また自分が否定する、本当はそうではないという方向に行ってしまった
その繰り返しになり、だから定期的にその想いが湧いてくるのです。
自分が嫌いな自分を演じて、自分で苦しんでいる状態です。
※いさどんとお釈迦さまのエピソードは「木の花記~金神さまの巻~」をお読みください。
そして、常に問題を意識して生きるのです。
毎日を冷静に見ていく。緻密に見ていく。
客観的に自分を離れてみていくことが必要なのです。
~ 中略 ~
客観的に見たら、そんな行動を取るのはおかしなことでしょう?
それなのに、なぜそのおかしな行動を取るかといったら、
その未熟な自分に執着しているからです。
それで、僕の話をしますが、僕も昔、同じところを通ってきました。
僕は、お釈迦さま、そして神さまに出会い、道理を伝えられてきました。
お釈迦さまが語られるのは仏道、道なのですよね。
プロセスをずっと見ていく客観視点を育てられます。
そうすると自分の感情が苛立っている状態を観なければいけなくなります。
普通の人は感情が出てくると、感情のままに出して、
それを主張することが自由だったり束縛されていない状態と思ったりしています。
ところが、僕にはもう一つの目線がありました。
それも強制的に示される目線です。
そちらの方から「お前の今の感情はこうだぞ」と言われると、
僕みたいな道理人間、理屈人間は理屈で負けてしまうのです。
それでどうするかというと、僕は理に叶った方に行こうとします。
自分の主張が愚かであっても、そこに執着したい自分がいますが、
理に適った方に行かなければなりません。
そのように、そちらを選べば選ぶ程、情がわいている自分を否定することになります。
理に適った方を選んでは自分を否定していく。
その繰り返しになりますが、その覚悟が出来ていないとだんだん辛くなるのです。
そこで「俺はつらいんだー」となって爆発したことがありました。
そうすると、お釈迦さまは「それなら止めるか?」と尋ねてきました。
「なんてひどい薄情なことをいうの?あなたは」と思いました。
そこでまた道理を考えました。
僕が執着して道を歩むことに辛い想いをしていることに対して、
そのまま執着して進むことは、その道を外れるということになります。
止めるか?という話に乗るのもこの道を外れることになります。
どちらの自分も認めることが出来ません。
道理のところに行くことによってのみ楽になれる。
自分で自分を本当に意味で認めることが出来るのです。
認めたくない自分に執着をしてそのままで行こうとしますが、
それはすごいバカなことをやっているのです。
それでも執着している時はつらいものです。
僕はその想いを怒りに変え、伝えました。
「何を言っているのですか。止めるわけがないではないですか。
これを知らずにいかない人は世の中に沢山いますが、
一度、これを知って行かないものがいるでしょうか?
絶対やめない。見ておれ。やめんから。」
逆切れしたのですよね。
さっきのなかのんの言葉もある意味逆切れですよね。
だけれどもなかのんは自分と向き合わない方向に切れていました。
僕は「絶対にあなた(お釈迦さま)のところにいく」という逆切れ。
同じエネルギーの掛け方でも違う方向に向かっているのです。
僕は辛いから泣きました。でもその涙は自分にとって肯定的です。
そこまでやるんだ。
その想いが自分を強くしてくれます。
なかのんの逆切れは心を強くするものではなく、ある意味逃げています。
そうやって逃げていくと悔やみの心が出てきます。
また自分が否定する、本当はそうではないという方向に行ってしまった
その繰り返しになり、だから定期的にその想いが湧いてくるのです。
自分が嫌いな自分を演じて、自分で苦しんでいる状態です。
※いさどんとお釈迦さまのエピソードは「木の花記~金神さまの巻~」をお読みください。
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自分への執着、それは自分の感情に対する執着とも言えます。
自分の姿がみっともなくとも、自分が感じていることに従いたい。
そんな気持ちを超えることが出来ずにいたのです。
1年前、そんな自分を超えると決意しました。
そして、日々を大切に積み上げていきました。
ところが今年の8月、もう一度滞りを経験することになります。
情けない。どうしようもない。
こんな気持ちが生じましたが、これが僕の転機となりました。
この時、僕は自分の中を識別してそぎ落とすことが出来たのです。
情けない、嫌になる、投げ出したい。
そんな自分の感情を離れて、外から自分を眺め、
自分の中のいらない部分(ネガティブな感情や我欲)をそぎ落としました。
そして、自分と向き合う意欲は維持し続けました。
この時、僕は「超えた」と確信することが出来たのです。
滞りはチャンスであり、滞りを通して、僕は自分を変えて行きました。
そして、今の自分がいます。
情けない。どうしようもない。
こんな気持ちが生じましたが、これが僕の転機となりました。
この時、僕は自分の中を識別してそぎ落とすことが出来たのです。
情けない、嫌になる、投げ出したい。
そんな自分の感情を離れて、外から自分を眺め、
自分の中のいらない部分(ネガティブな感情や我欲)をそぎ落としました。
そして、自分と向き合う意欲は維持し続けました。
この時、僕は「超えた」と確信することが出来たのです。
滞りはチャンスであり、滞りを通して、僕は自分を変えて行きました。
そして、今の自分がいます。
ところで昨晩の大人ミーティングでは「空気」が話題になりました。
いさどんは「空気」について以下のように語っています。
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なぜ、今、空気はこの状態なのか。それは生命の歴史と連動していて、空気の成分は変化してきている。そうすると、そこにいる生命の存在も変わってきていて、空気も汚染されてきた結果、人間の歴史も変わってきている。つまり、我々は空気だ。
空気は絶対なくてはならないものだが、空気の存在によっては生命は対応できず、絶滅もする。だから、空気の存在は時代が動いていく中で、とても大きな役割を果たしている。空気は何でもなくあるようで、ものすごく大きな存在。気付けば気付くほど、その存在は大きく、あまりにも身近にありすぎて解釈できない。この空気と対話したり、空気の存在を解明したら、何か新しい世界が観えてくるのではないか。☆彡 ☆彡 ☆彡
僕は、冒頭の文章の中で「空っぽ」という言葉を使っています。
空っぽの「空(から)」は「空(そら)」でもあり、「空気」の「空(くう)」でもあり、
色即是空の「空(くう)」でもあります。
空っぽになるとは空気のようになることであり、空(そら)のようになること。
それらは地球上ですべての存在を包み込み、そして見守っています。
その中ですべての存在は相互に関連し合い依存し合っているのです(「空(くう)」)。
つまり、空っぽになるとはすべてのものと関連し合い一体となることなのです。
そのためには「僕」を超えていく必要があります。
数日前、「天を歩く」を大人ミーティングでシェアした時、いさどんは以下のように言いました。
☆彡 ☆彡 ☆彡
確かになかのんのブログには「僕」が多く使われています。
それはなかのんが自分を調整する必要がある段階だからで、仕方がないことです。
この文章に関して言えば、今、聴いていて、
8mmフィルムの映像がコマ送りで流れている様子が浮かんできました。
天を歩く。
天とは宇宙であり、地球も宇宙の一部です。
そして地球の反対側の人たちは、僕らが地面と思っている方向を天と呼んでいます。
すると僕らは毎日、天を歩いているのです。
そのことに気づくかどうかです。
☆彡 ☆彡 ☆彡
「僕が多い」という言葉を貰ったということは、その状態を超える時が来たということです。
自分の調整にはエネルギーを使わず、すべてのものと関連し合い一体となる。
それと同時に、空(そら)や空気のようにすべての存在を包み込み、見守るあり方。
それが本当の空っぽであり、そこを目指せというメッセージを今貰っているのです。
「僕」を離れて、空気を読んで必要ならば空気を変える。
そんな気持ちで日々を生きることが、本当の空っぽへと至る道だと思いました。
1年前にした「空っぽ」への決意。
それを新たに、これからもこの道を歩みます(^-^)
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