大海として生きる

2013年12月、天から僕の下に「海(カイ)」という名前が降りて来ました。この名前、それ以来ずっと意識にありましたが、特に使うということはありませんでした。

それから4年後。

2017年の立春正月、僕はひっくり返ったのですが、それ以降、僕はブログで自分のことを海と表現するようになりました。例えば、以下のような感じです。

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僕は海。そして浮かんでは消える波として人生を送ります。

波としての自分に焦点を当てれば、それは自分の人生と感じるかもしれませんが、僕は本来、海そのものなのです。だから、波(自我)としての自分は他のすべての波(自我)と同様で、世界の彩りの一つに過ぎず、それはみんなのものなのです。

僕は自分を通してみんなの人生を生きる。

それは僕の人生が僕だけのものではなくみんなのものでもあるということです。




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そして昨日書いたブログでも自分を海と表現しています。

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世界の中に浮かび上がった波としての自分。それが自我。その自我を天に向かって導くこと。それが今生の自分の役割です。長い間、波としての自我を自分と勘違いして来ましたが、それは本来の自分ではなく、愛し導く対象として与えられたものです。自我は反応体で目の前の出来事に独特のパターンで反応しますが、その反応を識別し、調和へと導くこと。それが僕に与えられた使命です。

自我は盲目だから、今までいろいろなトラブルを起こしてきましたが、僕はそれらすべてを刻み込んだ上で許します。なぜならそれらは見えない中で現実に翻弄されながら一生懸命に生きてきた結果だから。ですが、これから先は不調和な振る舞いは許されません。なぜなら、海としての僕が波としての自我を導くからです。もうこれ以上、自我が愚かな行いをすることを許しません。僕の自我は天へと導かれます。


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2018年5月4日の朝日です。

僕は海。2013年に天から頂きそのままになっていた名前を身近に感じるようになっていました。そして、昨日の朝、昇ってくる朝日を前にして新たな名前が天から降りてきました。その名前は「大海(タイカイ)」。大きな海。

僕は今年の2月、祖母が亡くなった時、「自分自身が大海の表れであるように」という文章を書いています。大海という言葉を使った趣旨は以下の通りです。

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人間はみんな一滴としてこの世に生を受け、そしてこの世を旅立つ時、この世界という大海と一つとなります。ですが、あの世に旅立つ前にこの世にいながら大海と一つとなって歩むことも出来ます。それが心磨きの道だと僕は思っています。

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大海として生きる。それはずっと心磨きを続けるということです。

話しは変わって。

最近、僕のまわりで「自立」や「自分の足で立つ」という言葉が聞かれるようになっています。それで思うのは、こういう時、波としての自分が立つことをイメージすると、世界から際立ち離れていくのではないかということです。そもそも波は浮かんでは消えるもの。それをずっと保とうとするのは不自然な努力となります。

大海とはこの世界そのもの。大海として生きればすべてが自分だから、自分という波が立つ必要はなくなります。大いなる流れに合わせて浮かんでは消える、ただそれを繰り返すだけ。大いなる流れを柱とし、自分に芯を通し、出会う出来事を通して変化変容を繰り返すだけなのです。

海(カイ)から大海(タイカイ)へ

カタカムナでは、「カ」は無限絶対空間に於いて普遍的に存在する極微小の最小単位、その「位置(イ)」が定まった状態が「カイ」です。2013年、「カイ」という名前が降りてきたのは、自分があるべき位置に収まった証と言えます。そして、昨日の朝、「タイカイ」という名前が降りてきました。「タ」は分離独立。すべてのものは、エネルギーの蓄積が高まると、二つに分かれて独立する性質があると言います。大海(タイカイ)とはこの世界そのもの。この世界そのものでありながら分離独立した位置に立つ。それはこの世界の中で自分独自の役割を担うことであり、それこそが真の自立です。

この世界そのものでありながら分離独立した存在、大海(タイカイ)。

僕はこれから大海として生きます。


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