「分かる」と「分からない」、そして「わく」

節目を迎え、ロータスランドでご馳走になりました。


先日、大人ミーティングにて、「境界線がなくなっていく」をシェアしました。この文章はバチルス菌について書いたものですが、そこにはこんな表現があります。

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Bt毒素は蛾の腸に穴をあけ死に至らしめるのですが、蛾はバチルス菌に害を与えるわけではありません。バチルス菌単体で見たらBt毒素を作る必要性は全くないのです。ですが、バチルス菌は大量のエネルギーを使ってそれをし続けています。ここで考えられるのは、バチルス菌はバチルス菌のためだけに生きているわけではなくて、生態系全体を円滑に循環させるために生きているということです。意味を持たないBt毒素を生み出すバチルス菌の行為は生態系全体で見たら意味を持つのかもしれません。少なくともそれは人間にとっては益となる行為になっています。きっとすべての存在はそのもの単体のために生きているのではなくて、この世界の大いなる循環の中でそれぞれ固有の役割を果たしているのです。自分の存在は他者へと繋がっていきます。そう思うと、この世界から境界はなくなっていきます。

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この文章で僕は、分からないものを分かろうとしていますが、そんな僕の姿勢に対して、ジイジは、「分からないものは分からないで置いておく」大切さを語ってくれました。それはこんな感じでした。

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出会ったことに対しては、それをそのままいただく姿勢が出来ていたとしても、未来に想いを馳せる時、いろいろ想像を巡らす中で分かろうとする心が生じてしまう。分かろうとする心は自我の動きで、人智であり、視野や可能性を狭めることになります。分からない時は分からないで置いておくことが大切で、そうすることで未来に柔軟に対応できるのです。それが究極のいただく姿勢であり、謙虚さです。

分からないことを分からないで置いておく

それは難しいことかもしれません。今の社会は分かろうとすることを評価しています。ですが、それは人間が強くなったからであり、歴史を見ると、強い存在は滅んできたのです。ティラノサウルスをはじめとする恐竜たち、ホモ・エレクトス、ネアンデルタール人などはみんな滅びてきました。そんな中、今の人類、ホモ・サピエンスが生き残ったのは弱かったからであり、弱く助け合う必要があったからです。今、社会が発展し、人間は強い存在となっています。ですが、強さは傲慢さにも繫がり、それが分かろうとする心にも繫がります。

分からないことを分からないで置いておく

それは弱さの自覚であり、謙虚さの顕れであり、とても大切な姿勢なのです。

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「分かる」と「分からない」

カタカムナで見ると、「わ」は空間の縁であり、現象が生じるところです。「分かる」は、宇宙最極小微粒子である「か」が「わ」の位置を維持していること、それは安定と同時に動きがないことも意味します。「分からない」は、宇宙最極小微粒子である「か」が「わ」の位置で質的転換をし、見えないエネルギーとなっている状態、どんなふうにもなり得る可能性を示しています。

大人ミーティングでは「わく(枠・湧く)」という言葉も話題となり、ジイジは以下のように語っています。

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「わ」は現象が生じる縁、そして「く」は自由。「わ」が自我の「わ」ならば、自我の枠の中で自由気ままに動くことになり、それは狭いものであり、世界に混乱を生み出します。ですが、「わ」が宇宙そのものならば、宇宙の法則の中で自由に動くこと、その時、人の中から湧き上がるものがあり、わくわくするのです。

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分からないという謙虚な心が、自我の枠を宇宙へと広げていき、わくわくする心へと繋がっていきます。

最近、自分は一つの節目を迎えました。節目を迎えたということは、自我の枠を広げたということであり、それは自我の視点から見たら、より不自由になったということです。僕は昨年の7月、そのことを以下のように表現しています。

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この道は言ってみれば、自己否定の旅だと思っています。それはもっと大きな自分、世界と一つになるための自己否定です。常に否定し続け、それが即、肯定へと変容し続けます。それは自分を手放すことが出来ることへの誇りであり、大いなるものへと自分を委ねる覚悟となります。

この道は山登りに例えられます。山のすそ野は広くどこからも登ることが出来ますが、頂上は一つ。登れば登る程、道は限られていきます。同じように、この道は究めれば究める程、道は狭くなり、今まで良かったことも駄目となり、自らの選択はどんどん限られていきます。

不自由の自由。

一見、不自由に見える心の道ですが、それを進むことが本当の自由への道です。

なんでもいいけど道は一つ。

そんな感じです。

多くの人は自分の想いのままに行動することが自由だと思っています。ですが、思い通りにことが運ぶことはほとんどありません。結果、自らの想いに翻弄され、現実の中で右往左往するのです。平和を求めて争ったり、平和のために核武装したり。人々は自らの想いに翻弄され、それが矛盾に満ちた社会を生み出しているのです。


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自我の視点から見たら、より不自由になること、それを天の視点から見たら、より確信をもって一つの道を進めるということです。確信をもって進む道は、「分からないことを分からないで置いておく」道です。未来は常に未知なる道で、分からないからこそ、湧き上がるものと出会い、わくわくすることが出来るのです。




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