ラベル カタカムナ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

4(混沌)から5(位置)へ。それは世界に広がりをもたらす。

今日(10月24日)は霜降(そうこう)。そして、21日から土用に入っています(地球暦のサイト参照)。
土用は季節の移り変わり目。地球は今、秋を終わらせ、冬を迎えようとしています。

先の地球暦のサイトには「霜降」について以下のように書いてあります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

一年を一日にたとえたら、「霜降」は夜8時くらい。家族団欒で食卓を囲み、一日の出来事を回想しているような頃合いです。今年の収穫を感謝し、来たる冬を迎えるための心づもりをするときです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

そう、霜降の日は、今の自らの行いを振り返るのに良い時期と言えるのではないでしょうか?

意図していないことに自分が現れている。
最近、よくそう思います。

例えば、何かをしようとしている時、別の用事を頼まれる。
その時、自分の中にどんな感情が沸き起こるか、どんな反応をするか?
そういうところに自分の人間性が現れると思うのです。

もっと言えば、その意図していない出来事を招いているのは自分自身です。
自分の中の自覚していない部分がその出来事を引き起こしている。
そんなふうにも言えるのです。

なので、意図していないことに開かれることで、
自分を知り、学びを深めていけると思うのです。

意図していないこととは無意識。
だから僕は秋分の日に、


と宣言をしました。

秋分から30度経過した今、その宣言を新たに意識していこうと思います。

社会に目を移せば、フォルクスワーゲンによる排ガス不正問題や旭化成のマンション傾斜問題、東洋ゴムによる免振ゴム及び防振ゴムでのデータ改ざんなど大手企業によるデータ改ざんが話題になっています。

これらはそれぞれの企業にとって意図していないことしょうが、データを誤魔化していた普段の姿勢が表に現れたものです。まさにそれぞれの企業の実態を表していると言っていいでしょう。

その背景には、過度に経済成長を求める現代社会の歪みがあるように思えますが、なんにせよ、それぞれの企業は問題を通して自分たちを知り、改善をすることが出来るのです。
そして、もしその背後に社会の歪みがあるならば、企業の改善は社会の歪みの改善にも繋がっていくのでしょう。

そう考えるとそれは天からの恵みとも言えるのではないでしょうか?

時代は今、闇のピークを越え、光の時代へと向かっているのです。
 ※2012年12月21日 太陽系は約25800年振りに銀河の冬至を迎えました。

僕は?
 空っぽへのあこがれ

これらの記事に描かれている僕の滞りは意図していないものでした。
ですが、そこに自分の現状、「よごれ」「よどみ」が現れているのです。

 ☆彡 

話しは少し変わって、僕は毎朝、富士山を眺めて「お祈り」をしています。
 ※「お祈り」については「あわりーぬ」のブログを参照して下さい。


10月24日(霜降)富士宮からの富士山です。※AM6時頃


今日は、山中湖にお弁当配達に行った時も「お祈り」をしたので、
富士山を挟んで南西と北東で「お祈り」を捧げたことになります。


10月24日(霜降)山中湖からの富士山です。※お昼ごろ


湖で「お祈り」を捧げていると、波の音や風の音が
「お祈り」に合わせて変化する感じが心地よかったです。

ところで、このお祈りはカタカムナを取り入れているのですが、
僕の名前、よしふみ「よ()」は「4」であり混沌を表す思念です。

「よ」(4)は、「い」(5)の方に進めば、「よい」となるのですが、
「み」(3)の方に戻ると、「よみ(黄泉)」となり、死の世界に入っていきます。
「よ」はどちらにも転がりえる、混沌の中にあります。

「よ」がつく言葉を見ると、喜び、良い、淀み、汚れなど両義的なのはその表れでしょう。

自分の中には混沌がある。

それは確かで、その混沌が「相応しいものになっていく」や「空っぽへのあこがれ」で
描かれているような滞りを時々僕にもたらしてきました。

それは「いやなもの」に感じます。

ですが、思いは満ちた(3)後、混沌(4)の中で広がり、
意志(5)の元、この世界に位置(5)を得るのです。

混沌はこの世界に広がりをもたらすもので、必要なものでもあるのです。

「よ」を名前にいただいた僕は、自らの持つ混沌としっかり向き合い、
この世界に広がりと豊かさをもたらす役割をいただいているのです。

だから僕は混沌を愛する。

そう宣言し、混沌「よ」(4)の中に天の意志「い」(5)を見出し、
それらが描く未来を楽しんでいこうと思います。

そんなふうにわくわくする未来のビジョンを描きたい方!
以下の2つのイベントがお勧めです。是非、ご参加下さい(^ー^)

☆彡 ☆彡 ☆彡

10月31日・11月1日 古代日本と遊牧民族の叡智が融合し、未来を創造する~モンゴルの草原から来た青年の吹きおこす風 ~第1章「大地」



最近、永世中立国を目指すことが伝えられたモンゴル(高知新聞「小社会」参照)。
中国、ロシアと大国に挟まれたモンゴルのエルベグドルジ大統領は
永世中立を旗印にアジアの紛争防止に力を尽くそうとしています。
そこからは国の理性が感じられます。

そのモンゴル出身の若者ムルンくんと木の花ファミリーは、今年の8月に出会いました。
ムルンくんは木の花ファミリーに「天の故郷」を感じ、このイベントは企画しました。
(※出会いの様子は「あわちゃんのウルルン木の花滞在記『お祈り』」をお読みください)

今回のテーマは「大地」。
ムルンくんといさどん、そして参加者が大地をテーマに語り合うことで、
未来社会のあるべき姿を描き、行き詰まった現代社会の突破口を示します。
 ※9月10日に行われた2人の対談は「地球談話を実践する人々」をお読みください。
是非、共に語り合い、希望ある次世代の生き方を地球上に実現しましょう!






真の平和を地球にもたらすために今わたしたちにできることは、
一人一人が広い世界観を持ち、個々の自我を超越することです。

それは精神革命と言えるでしょう。

第9回の大人サミットとなる「地球会議in木の花ファミリー」は、
精神革命が引き起こす次世代の「クニツクリ」の場となっていくでしょう。

是非、共に語り合い、これからの未来を本気で創り上げていきましょう!




カタカムナ文明はどこにあったのか?

雨に地球の心を感じる」で紹介した網野善彦さんの話をもう少ししたいと思います。毎日新聞の書評では網野さんの研究について以下の3点の特徴を挙げています。

(1)日本列島社会論

国号日本が出来たのは七世紀末頃から。縄文弥生の時代には、日本も日本人もいませんでした。日本列島には列島人がいるだけで、アイヌ、琉球、西国、東国、畿内など地域によって多様な社会を形成していました。近代の日本国の概念で日本史を観ることは出来ません。

(2)水田農業中心史観への批判

列島人の生業(なりわい)は稲作だけではありません。海山では漁業商業・採集があり、関東では大半が畑作でした。水田農耕が進んだ畿内が先進地で、東北、関東、九州など周縁は後進地と言うことは出来ない。

(3)海民の日本論。

日本には海山の民がいる。江戸時代の鎖国の影響により、日本列島は海で守られた孤立した完結社会との固定観念が生まれていますが、海で大陸など外界と活発に交流していました。日本国の境界を曖昧にし、地域が直接に列島外と繋がっていました。北海道産の多い昆布が沖縄で最も食べられているそうです。

網野さんは上記の問題提起により日本認識そのものを世に問うていました。日本国という国家の枠からではなく、もっと広い人類の視点から物事を見ていたのです。

これを読んだ時、カタカムナ文明のことを思い出しました。そして、それがどこにあったのか疑問になりました。地域により多様な列島社会。それらすべてにカタカムナは浸透していたのでしょうか?

8月24日、25日と木の花ファミリーではカタカムナ研究会が開催されていました。丁度良い機会だったので、僕は上記の質問を講師の芳賀さんにしてみました。芳賀さんは以下のように話してくれました。

カタカムナ講師の芳賀さん


☆彡 ☆彡 ☆彡

カタカムナ文明はアシヤ族と言われています。アシヤ(芦屋)市は、兵庫県にあります。もしくは、アシヤ(芦屋)町というのが九州の福岡県にあります。カタカムナ文明があった場所は、そのどちらかでしょうが、楢崎皐月が平十字に出会い、巻物を写し取ったのは兵庫県六甲山です。それを思うと兵庫の可能性が高いとも言えます。この地域でカタカムナ文明は発展しました。ただ、これはこの場所で8鏡文字が生み出されたということであり、カタカムナの精神、波動は広く伝わっていったと思われます。網野さんが言う通り、この時代、国家という概念はありませんでした。国家など関係なく地域毎に交易し、それによりカタカムナの精神も広がっていきます。カタカムナは中国にも伝わり、レベルダウンし老荘思想となっているのです。列島内にも当然伝わっていたのです。※ちなみに木の花ファミリーの近くにも大鹿窪遺跡という当時の遺跡があります。

余談ですが、この時代、勾玉というものがありましたが、勾玉があのような形をしているのは、重なることにより交易が成立することを示すことにありました。勾玉は最初丸い形をしていたのですが、交易の発展の中であのような形になったのです。地域と地域が国家という枠組みを超えて繋がっていたのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

カタカムナは宇宙物理学です。それはこの世界の発生と消滅のプロセスを表現している普遍的な法則です。カタカムナを生きる時、群れとなる(人と人が協力し調和する)必要があり、それは一つの地域での実践となります。ですが、カタカムナが実践される時、その精神は地域を超えて宇宙に広がるものなのです。

一昨年の11月、楢崎皐月さんが復活させたカタカムナに木の花ファミリーは出会いました。カタカムナを学ぶ人は増えていますが、実際に群れで暮らしているのは今のところ木の花ファミリーだけなのではないでしょうか?

カタカムナの実践は波動となり世界中に広がり宇宙へ達します。それは一人一人のエゴのより歪んだ流れを元に戻すことであり、時代の流れを促進するのです。その精神は普遍的なものであり、それを通して人は今持っている枠組みを超えていくことが出来ます。当然、国家という枠組みも超えていきます。

今の思考の枠組み、常識を超えていく。

それがカタカムナを生きるということであり、網野さんの研究の姿勢でもありました。
木の花ファミリーで暮らすことにより僕はその実践をし続けようと思っています。
その先にある未来はきっと僕の想像ははるかに超えたものです。
それがどんなものか? とっても楽しみです(^-^)

8月24日、25日に開催されたカタカムナ研究会の様子(詳細はこちら


カタカムナを生きるとは?

一昨年の11月、木の花ファミリーはカタカムナと出会いました。その後、昨年の4月から講師に芳賀さんを迎えてカタカムナを勉強し、学びを深めていきました。1月26日、27日の2日間。自分たちの学びの状況、そして、カタカムナを生活に取り入れ、生きていくとはどのようなことかを確認するため、芳賀さんも交えて話し合う時間を持ちました。

カタカムナを生きるとは?

このことを考えるためにはお互いについて深く理解し合う必要があります。芳賀さんに僕たちのことをより深く理解してもらうために、まず以下の文章を読みました。

2015年「船出の年」を迎えて (いさどんブログより)

東洋の叡智が花開く時代 ~雑誌「世界建築」より (木の花ファミリーブログより)

いさどんの心と鬼の面 (宇宙の秘密みかこのブログより)

僕といさどんと木の花ファミリー (このブログの記事です)

カタカムナから観た経済システム (このブログの記事です)

今 地球上に生きる全人類の皆さんへ (いさどんブログより)

そして、芳賀さんからも人生をカタカムナに掛けてきた想いが語られ、お互いをより深く理解し合う時間となりました。その中で確認し合ったことは以下のようなことです。

みんなで丸くなって話し合っていました。
大切なのはカタカムナを生きることであり、カタカムナの知識はあくまでそのためにあります。知識ばかりに目を奪われると、本来の目的、カタカムナを生きることから離れてしまう恐れがあります。カタカムナとは宇宙の法則です。つまりカタカムナを生きるとは、宇宙の法則を生きることであり、それが出来ていれば、カタカムナの知識は不要となります。宇宙の法則は、直観からもたらされます。直観を磨くこと。そのためのツールの一つとしてカタカムナはあるのです。
そして、今年2015年はどんなことが起こるか想像が出来ません。フランスでのテロ、イスラム国により邦人誘拐事件など年の初めから大きなうねりを感じさせます。世界の先は見えません。ですが、それは悪い意味ではないのです。時代が新しくなるということなのです。人類は大きく変化していく必要がありますが、未来は明るい。そんな予感は確かにあります。今、次の時代を担う新しい魂が沢山降りてきています。僕たちは未来に繋ぐために直観を磨き、宇宙の法則に沿って生きていくのです。

まとめてしまえば、上記のようになりますが、木の花のみんなの意識が纏まらない場面、お互いの意思疎通が行かない場面など、様々な場面があり、とても学びの多い時間となりました。

例えば、26日の夜に、こんな場面がありました。

芳賀さんは人生の危機をカタカムナに賭けることで乗り越えた経験を持っています。話し合いの中でその経験が語られた時、僕は以下のように伝えました。

芳賀さんが今、とても大切な話をして下さっているのは分かります。ですが、それは個人的な人生の話ですよね?カタカムナが何のためにあるかと考える時、今の社会を変えるためにあるのだと思うのです。世界と自分が一つだという事実。その事実に気づき、自分ごとを超えて、世のため人のために生きること。カタカムナはそのためにあると思うのです。カタカムナを生きるとはそういうことだと思っています。

それに対して芳賀さんは以下のように答えました。

幸せでない人は他の誰かを幸せにすることは出来ません。世界平和を願ったところで、自分が不幸ならば、その波動が人々に伝わります。だからまず、個人が幸せになる必要があるのです。幸せな個人の波動が世界に伝わっていくことで、世界は良くなっていきます。

芳賀さんの言葉を聴きながら、浮かんでくる想いはあったのですが、僕は言葉を飲み込み、その場では話しませんでした。それは上手く伝えられる自信がなく、芳賀さんと不毛な議論になることを怖れたからです。

その僕の判断を聞いたいさどんは以下のように話しました。

今回の話し合いは、お互いを理解し合うことが目的です。ならば、正直に本音を語り合うことが重要になります。なかのんは「上手に伝える自信がなかった」と言いますが、なぜ上手に伝える必要があるのでしょうか?それを必要と思うのは、なかのんが結果を所有しているからです。「分かり合う」とか「理解し合う」とかそういう状態を頭で思い描き、そちらの方に持っていこうとしているからです。ですが、それでは本当の意味でお互いに理解し合うことにはなりません。まずは正直に思ったことを伝えることが大切です。

結果を所有している。

木の花ファミリーメンバーの多くがその状態だったため、充分な話し合いとはならなかったのです。そして、僕が飲み込んだ言葉は翌日、みんなから様々な切り口で芳賀さんに伝えられました。

個人が幸せでなければ、人々を幸せにすることは出来ない。そのことは僕たちも充分承知しています。それでも僕たちは、自分ごとを超え、自分を手放して生きる道を選んでいます。それは、その時、他者の幸せが自分の幸せとなるからです。そんなふうに生きる時、どんな時も自分は幸せでいることが出来ます。なので、自分の幸せについては考える必要がなくなるのです。ただ天と共に生きることを心掛けていればよいのです。それが宇宙法則を生きることであり、カタカムナを生きることなのです。

そんな僕たちの生き方についてあらためて芳賀さんに共有しました。そして、さらにお互いを理解し合うことが出来たのです。学びの多い時間を過ごすことが出来ました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

思惑を持って結果を所有する。

その姿勢は時に視点を歪め、真実が見えなくなります。そして、その結果思わぬ影響を及ぼすことがあります。例えば、後藤健二さんの安全が気になるイスラム国による邦人人質事件ですが、識者と言われる人の中には、「安倍政権の積極的平和政策が中東諸国の対日不信感を深めていたところに、今回の安倍総理の中東歴訪が、この不信感を呼び覚ました」と論じている人がいるようです(野口雅昭さん「邦人人質事件に関する「識者」の論調」より)。これなどは明らかに安倍政権に対して批判的な人が、その視点から論じているように思えます。なぜなら、中東諸国に目立った対日不信感などはないようなのです。加えて、この意見は、イスラム国と中東諸国を同一視してしまっているのです。残忍なテロ組織であるイスラム国と中東諸国を同一視するこの発想は、中東諸国に対する偏見に繋がるのではないでしょうか?偏見は差別、そして時には争いに繋がります。そんな可能性に識者と言われる人たちは気づいているのでしょうか?

そして、僕はイスラム国について残忍なテロ組織と書きました。ですが、そのイスラム国は僕らが生み出したとも言えるのです。見つからなかった大量破壊兵器を口実にイラクを攻撃したアメリカ。その攻撃がイスラム国の台頭を生み出しています。日本はその戦争を支持しています。日本はイスラム国の誕生にしっかりと繋がっているのです(イスラム国による人質事件。の巻 -雨宮処凛より)。この時、アメリカ政府や日本政府は、自分たちに都合のよい別の未来を思い描いていたことでしょう。思惑通りにはいかず、大きな不幸を生み出している。この現実に目を向ける必要があるでしょう。

それぞれの国が、自分の立場から過去を眺め、思惑を持って結果(未来)を所有しようとしています。それが現代の混乱や苦しみを生み出しているのではないでしょうか?そして、それは個人個人の人生にも言えるのではないでしょうか?

先に紹介した「今 地球上に生きる全人類の皆さんへ 」を読んでみて下さい。そこでは、そんな人々に新たな視点を提供しています。この文章についていさどんは大人ミーティングで以下のように語りました。

この世界が因果応報によって動いているのは確かです。ですが、因(過去)にとらわれる必要はないのです。現象に反応して、それに合わせて次に現象を生み出していく。それは因果に翻弄されている状態です。経験にとらわれていてはいけません。太陽はこの宇宙を未知なる空間へ螺旋を描きながら回っています。まだ一度に行ったことのない空間、未知の空間です。人生も同じです。常に新しい未知の世界へと進んでいるのです。そこでは、「今までこうだったからこうなる」という約束はありません。常に新しいがあります。だから、それをただいただくだけなのです。

過去も未来も所有しない姿勢となり、ただ今を頂いて生きていく時、人は自由になります。宇宙法則に基づいて生きることになり、カタカムナを生きることになります。そして、その視点から世界を見た時に多くのことに気づくはずです。

正しいを考えることは、悪も生み出します。今までたくさんの主義主張が、この世界に正邪をもたらし、それが争いに繋がりました。それらすべてを融合し、超えていくことで未来を顕していくことが出来ます。そのためにはただ心の目を開けるだけでいいのです。

上記の文章でいさどんは以下のように述べています。

今地球上に生きる人類の皆さん、なぜ一つの生命である地球上で人類は他の生命の存在を無視するのでしょうか。なぜ地球上で一つの種である人間が、違いによって戦う必要があるのでしょうか。あなたも私も同じ一つの体の一部です。それは互いを生かし合う美しい無限な生命の調和とつながりの連鎖です。たったそれだけのことに気付くだけです。これまで生命が時と共に変化してきたように、地球の歴史の中では大陸が移動したりと変化はありましたが、陸地同士が主張し合い戦ったことは一度もありません。今の時代に限って、地球上に存在している細胞(人間)が、癌化しているだけなのです。今、それを私たちは気付き、その習性を改めればいいだけです。

すべての存在はみんな一つ。みんなで共に未来を描いていきましょう。


お金とは何か ~カタカムナの単音思念から~

ティク・ナット・ハンの病と木の花ファミリーの暮らしとお金でも書きましたが、お金をカタカムナの単音思念で見ると以下のようになります。

「金(かね)」

「か」はこの世界に遍満する微細な見えないエネルギー、そして「ね」は「根(ね)」、根源のもの、無限に広がる思念です。つまり「金(かね)」とは、この世界に時空を超えて無限に遍満している微細なエネルギーのことを現わしています。

ちなみにこの思念とは、宇宙の発生、発展、消滅に伴う「響き」のことであり、それは耳には聴こえてこないけれども宇宙空間に満ち満ちて鳴り響いています。その「響き」を人間の可能な発生に合わせて、48音の記号に定めたもので、言葉の定義とは違い、幅広い意味を包含しているのです。それは厳密に定義するのではなく、直観からのイメージを膨らませることで、そこに近づくことが出来る性質のものです。お金に関しても、その単音からイメージを膨らませることで、それがこの世界にどのように発生し、発展しているのかが掴めるのだと思います。漢字はその助けになっています。上記の「金(かね)」に関する記載はそんな方法による考察です。

この世界に時空を超えて無限に遍満している微細なエネルギー

それがお金です。

今村仁司さんが書いた『貨幣とは何だろうか』という本があります。この中で今村さんは、人間特有なものとして、墳墓と貨幣を挙げ、それらが死の観念に結びついていると語っています。この視点はとても面白いと思いました。

すべての生命は死を迎えますが、自らの死を意識して生きているのは人間だけだと思われます。そこに人間の独自性があります。「死」と向き合う方法が求められます。

木の花憲章世界観概要にも書かれていますが、この宇宙には「想い」のみが存在している地点がありました。その「想い」が圧縮して爆発し、相反するものが生まれました。相反するものは離れては惹かれあい、宇宙の振動(響き)を生み出しています。

生きることは死に近づくこと。

生命のその姿はまさに生と死という相反するものが離れては近づく(惹かれあう)姿でしょう。

離れたものが再び近づく。

そこには媒介となるものが存在します。それが墳墓であり貨幣であると考えられるのです。

それぞれ別々の存在としてこの世界に誕生した生物。個性を磨き際立たせることは、全体から離れることでもあります。ですが、無限に遍満している微細なエネルギーである「金(かね)」が、離れていく個を繋ぎ合わせるのです。

お金とは媒介物であり、それは関係性のあり方を現わしています。

とまあ抽象的なことを書いてきましたが、わけが分からないかもしれません。
そこでもう少し違う書き方をしてみます。

生と死、善と悪、光と闇など相反するものが存在するこの世界では、それらを再び近づける媒介物が必要となります。その一つがお金ということです。お金は人々を繋げるのです。ということはお金がどんな姿をしているかで、その世界の人々の関係性が分かるのです。

お金はニュートラルなもので、人々の心がお金を通した関係性を生み出します。
ということは、お金のあり方は自分自身の心を振り返る材料になります。

今、アベノミクスの是非が問われていますが、国民一人一人がアベノミクスという政策を通して、社会全体の心を振り返る機会となればよいのだと思っています。アベノミクスは簡単に書けば、通貨の流通量を増やすことで景気を活性化させようとする取り組みですが、そこに自然への配慮は果たしてあるのか?人々にとって何が幸せかについての検証があったのか?そういうことを真剣に考える機会とすることが大切だと思います。

木の花ファミリーの暮らしはそんな視点を持って営まれています。


2014年決算月を迎えました。決算報告書は、社会と僕たちの関係(交流)を現わす数字であり、そこにはたくさんの物語があります。野菜の売上からは畑作業をしているみんなの姿が浮かびます。そして、落花生の売上からは龍姿郎の姿が、お米の売上からは田んぼ隊のみんなの姿が、生はちみつの売上からはいさどんやちなっぴーの姿が、食事の売上からはキッチンスタッフ恵みいただきますに来て下さるお客様に姿が・・・。挙げたらきりがありませんが、こんなふうに一つ一つの数字に物語があり、それは僕たちの心を現わしています。

木の花ファミリーに関わるみんな、そして世界を意識して、決算に臨みたいと思います。


「恵みいただきます」にてみんなで撮った写真です。食事の売上の背後のある姿の一つです。

ティク・ナット・ハンの病と木の花ファミリーの暮らしとお金

ティク・ナット・ハンはベトナム出身の禅僧です。「行動する仏教(Engaged Buddhism)」の命名者で、ベトナム反戦運動を非暴力で貫きました。南軍北軍分け隔てなく両方の兵士を助けることで、両軍から誤解され、命を狙われるというシビアな状況に陥り、ティク・ナット・ハンは亡命を余儀なくされますが、仲間は非暴力を貫き両軍を助け続けたようです。1967年にはキング牧師の推薦でノーベル平和賞候補にもなっています。
現在は南フランスにあるプラムビレッジで暮らしています。そして、気づきの瞑想を実践し世の中に広げています。呼吸と共にあること、呼吸に意識を向けることを大切にしています。

ティク・ナット・ハンは次の時代の仏陀について以下のように述べています。

次の仏陀は人間の姿で現れることはないだろう。次の仏陀はコミュニティの姿で現れるかもしれない。それは他者を理解しようと努め、互いに慈しむ優しさを持ち、大事なことを常に意識しながら、人々が暮らすコミュニティである。これこそ地球の命をつなぐために私たちにできる、最も大事なことではないだろうか

ティク・ナット・ハンは今、プラムビレッジというコミュニティで暮らしています。それは次の時代の仏陀を現わすための実践なのでしょう。そして、それは木の花ファミリーも同様です。上記の言葉は木の花ファミリーが目指し実践していることを現わしています。そのため僕たちはティク・ナット・ハンの存在にずっと親しみを感じていました。

そのティク・ナット・ハンは現在、脳内出血のため入院中で厳しい状態にあるようです。プラムビレッジの僧侶は、マインドフルネス(気づき)の実践(一人一人が目覚めること)により、ティク・ナット・ハンにエネルギーを送って欲しいと求めています。そして、私たちはみんな、一つの大きな身体の細胞なのだから、この瞬間、一人一人が安定し、平和な心で過ごすことが、ティク・ナット・ハンへの一番の支えになると続けています。

一人一人が目覚めることが、お互いを支え合うことになり、遠く離れた人たちにもそのエネルギーは届いていく。心が通じ合っていれば、離れていてもお互いの思いや行動がシンクロしていく。この世界はそのように出来ているのです。

木の花ファミリーでは今、いさどんやようこちゃん、みちよちゃん、まゆちゃんがインドに出張しています。いさどんという精神的支柱がいない中、自分たちでどこまで場を創っていけるのか?また物理的な距離を超えてどこまで心をシンクロさせることが出来るのか?つまり、一つの大きな身体を現わすための実践の機会となりました。

ですが、それは僕たちがまだまだ心の解放や洞察が足りていないという現状を再確認する機会となりました。みんなの思いが響きあわず、なかなか良い場が創れない日が続きました。どうすればよいか?そんなことを模索する日々でした。そんな中、11月26日の大人ミーティングは繋がりを実感出来る時間となりました。



11月26日大人ミーティング後の写真
この日は、ケア滞在者の心のシェアや「僕といさどんと木の花ファミリー」を共有することで、メンバーの中で感動が響きとなって人から人へと伝わっていく時間となりました。そして「繋がること」の大切さを確認し合う時間となりました。そこに別室で書道をしていたまっちゃんが戻ってきました。まっちゃんはなかなか納得がいく作品が書けずにいましたが、とうとう書けたと言うのです。そして、「繋がり」の大切さに気づいたとシェアしました。一文字一文字は上手に書けていたのに、全体としてみたらしっくり来ない。そんな作品を何度が書く中で、字と字との繋がりの大切さに気づいたというのです。そして、それを意識して字を書いた時、心の底から納得がいく作品が出来たのです。まっちゃんの感動がその作品に入り、その作品がみんなを感動させていきました。こんなふうにしてみんなの心が一つになった時、今度はインドにいるようこちゃんからメールが届きました。それは「28日に木の花に帰った時、みんなと心を一つにして迎えたい」とい内容でその場で起きていることとまさに一致していました。「すご~い!」とみんなで感動を共有することが出来ました。

大切なのは、感動する出来事から、それを生んだ要素を学び、持続していくことです。その点はまだ不十分で27日は課題を再確認する時間となりました。

そして、今日、インドからみんなが帰ってきます。大きく成長し大きなうねりを持ってくることは間違いありません。そのうねりに乗れるように。これからが本番で、とっても楽しみです。

この僕たちのエネルギーはティク・ナット・ハンにも届いていくことでしょう。


☆彡 ☆彡 ☆彡

こんなふうに心は物理的距離を超えて人と人とを繋いでいき、みんなで一つの身体を表現することを可能とします。それは「木の花ファミリーで金庫番になって・・・・」で描いている世界です。この中で僕はお金を血液と表現していますが、お金は心と同じ機能を持っています。お金は時空を超えて存在し、知らない人同士の交渉を成立させることが出来ます。

「金(かね)」

カタカムナで見ると、「か」はこの世界に遍満する微細な見えないエネルギーです。そして「ね」は「根(ね)」、根源のもの、無限に広がる思念です。つまり「金(かね)」とは、この世界に時空を超えて無限に遍満している微細なエネルギーのことを現わしています。

お金とは何か?

この問いについては、お金とは何か?~「自分のお金」と「みんなのお金」~で書いていますが、
またあらためて別の角度からも書いてみたいと思っています。


すべては自分を映す鏡

天然循環経済学への系譜/二宮尊徳と大原幽学 を読んだ森野さんからメールをいただきました。以下、そのメールを紹介しますね。

☆彡 ☆彡 ☆彡 ☆彡

学生時代、ひょんなことで農業経済の教室に出入りすることになったのがきっかけで、農業やその歴史に関心を持ち来ることなっちゃいましたが、専門的な研究をするというよりか、もう少しじぶんに内在する不分明な気持ちに近いところで暇をみながら楽しみ半分で読書したりしてきただけで、あまり語ることもしませんでした。

ましてや、金融再編でいまはなき相互銀行業界で活躍された大内健二さんは、『虜囚』という著作のなかで、

どうも日本人は同じ日本人の言ったことには目をくれない癖がある輸入ものは粗悪品でも上等品だという外国崇拝の考え方が残っている」

と、書かれていますが、それはいつの時代でもそうらしいので、農学や農業の歴史に登場する人物の思想や実践は趣味の範囲にとどめおこうと考えてきたわけです。

それに、ぼくの生まれたのは、かつて那須烏山藩の相模の国の飛び地で、那須烏山で尊徳仕法を手がけて領民を救済した円応和尚らがそこでも仕法を実施しようとし病に倒れることになる(円応を失った尊徳の悲しみはたいそうなものであったそうですが)場所で、阿夫利嶺を望むところでした。尊徳の生地、栢山(かやま)のある足柄平野とは箱根、足柄、丹沢の三方に山をみる地ですが、違う方向から同じ山嶺を望む場所でしたので、どことなく親しみがあり、皮膚感覚的なレベルでの関心でもありました。

最近、少しそういう方面のこともツイしゃべっちゃうようになり、歳のせいかな(笑)。

かつての思想や実践に尋ねる場合、人々は、それを鏡にして自分を写しているんですね。尊徳なら尊徳という鏡にじぶんを写している。

尊徳の一元相対の思想は、戦前なら日本主義的な方向から一生懸命読まれた。敗戦後は民主報徳です。時代時代で、その鏡に写す人は変わり、映る姿も変わるようです。

近世の経済論で有名な、平田篤胤の学統に属する佐藤信淵など、かつては、例えば、羽仁五郎がそこに独自の社会主義があるとして喜んだり、大川周明が、近代を乗り越えた戦時統制経済の預言者と読んでみたり、帝国主義の先駆者だとか、古臭い封建主義だとかいう人がいたり、評価がさまざまというよりは、そこにじぶんを写す人の数だけ佐藤信淵がいたということにすぎないのでしょう。

東アジアの風土で育まれた農法・農業という鏡に外国の方々が自らを写してみて、その姿に「パーマカルチャー」なんて言ってきたのは微笑ましいですね。

じぶんを写して見る鏡はたくさんあったほうがいい。なにしろじぶんというものが最大の謎で課題であるかもしれないですから。たやすくなにかに心酔しがちな精神を昨今、よくみかける気もしますし。

☆彡 ☆彡 ☆彡 ☆彡

森野さんからメールからいただくと、そこには自分にあまり馴染みのない言葉があり、思索を巡らすきっかけとなります。


相互銀行という言葉から、無尽会社、そして無尽へと日本の金融の歴史へと思索は巡ります。
無尽とは日本の金融の一形態で、人々や法人が無尽講(むじんこう)もしくは頼母子講(たのもしこう)と呼ばれる相互扶助組織に加入します。そして、加入した人々は、組織に一定額の払い込みをし、その組織の規定に基づいた給付を受けます。日本では鎌倉時代からあるという無尽ですが、明治以後、営業を目的として無尽業者が発生し規模の拡大に伴い、1915年の無尽業法の制定、1951年の相互銀行法の制定と進んでいきました。その後、相互銀行は、相互掛金という独自の金融商品を扱いましたが、1968年の金融機関の合併及び転換に関する法律を受けて、ほとんどの相互銀行は、普通銀行となり、1992年には相互銀行法は廃止されています。
相互銀行はなくなりましたが、沖縄の模合(もあい)など機能している無尽もあり、金融機関から融資を受けられない社会的弱者に対する扶助としても機能しているようです。

無尽には、個人のお金をみんなのお金へ変換する機能があり、人々を繋がる機能があるように思えます。ですが、沖縄以外の多くの地域では衰退してしまっているようです。そこには人々の仲間意識や共有意識などが関係しているのではないかと思います。人の心がシステムを生み出し、心が変わればシステムも変わるものです。相互扶助のシステムが衰退するのは、人々の中でその意識が弱まっていたからだと思われます。日本全体で一人一人がそんな自分たちの心について振り返ることが大切で、木の花ファミリーの暮らしはそんな実践の一つです。

二宮尊徳は宇宙の万物は混沌とした一つの根元に起源し、相対する各々の事象は、独立の存在ではなく、相関連して一つの円相をなすと考えました。相対的に見えるこの世界も、元を辿れば一つとなります。この考えは、木の花ファミリーの世界観、そして昨年出会い学びを深めているカタカムナの世界観とも共通するものです。この世界観に基づき、数多くの農村の復興を果たしたことに素晴らしさを感じますが、大切なのはやはり精神性のようです。
高平市民館福島県南相馬市)のバーチャル報徳講座に「なぜ報徳仕法が続かないのか」という文章が掲載されています。至誠・勤労・分度・推譲。天の意志に従って日常生活を送り、無駄をなくし、余剰分は人に分け与えていく。尊徳が勧める道徳的態度を第一の目標にすることが大切で、それが出来ていないと、経済が豊かになると共に報徳仕法は廃れていくようです。信仰心がとても重要となります。上記の文章では、信仰に基づいて生きている例としてアーミッシュが挙げられていて、とても心に残りました。
どんな暮らしも世界観から切り離れてしまうと、抜け殻のようになってしまうのだと思います。木の花ファミリーの暮らしも、暮らしを維持することが目的なのではなく、世界観を暮らしの中で表現することを目的としています。そして、一人一人が自分を見つめ、心を磨いていくのです。

いろいろ書いて来ましたが、ここで書いていることは、森野さんのいうように僕を映す鏡なのだと思います。起きること、出会うこと、そのすべては自分を映す鏡と言えるでしょう。

鏡については、木の花ファミリーの創立メンバーの一人、古田偉佐美(通称:いさどん)は以下のような話しをみんなにしてくれています。


☆彡 ☆彡 ☆彡 ☆彡

鏡は神社の奥に祀られているご神体です。すべての人はお互いを映し合う鏡です。ということは、すべての人がご神体ということです。「鏡(かがみ)」という字は真ん中に「我(が)」という字が入っていますが、この「我(が)」を取ると「神(かみ)」となります。相手に映る自分の姿を見て自分の「我(が)」を知ることが出来ます。「我(が)」を知ると、それを取り除くことも出来るようになります。心を磨き「我(が)」を取り除くと「神(かみ)」となり、そこには宇宙の秩序が映るようになります。内なる鏡に宇宙の秩序を映し合う時、すべては繋がり一つになっていくのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡 ☆彡

鏡(心鏡)は太陽を象徴していると言われています。
すべては一人一人を映し出す鏡です。語る言葉はその人自身を現わしています。そして、一人一人の人間は主観を持ちます。相対主義の立場からすると、このことから絶対的な真理はないという結論に至るかと思います。ですが、「鏡(かがみ)」は「我(が)」を取ると「神(かみ)」となります。「神(かみ)」となった「鏡(かがみ)」が映し出す世界は、現象世界の背後にある絶対的真理を映し出します。二宮尊徳もカタカムナも木の花ファミリーもそんな世界観を持っています。
大切なのは、今、この瞬間何を感じ、どんな判断を下していくかにあると思います。その際、歴史を振り返っておくと、現在を俯瞰してみることが出来るようになります。過去から未来に向けての大いなる流れ。それを感じることが出来るようになるのです。


10月に開催された木の花塾で語っているいさどん

カタカムナの潜象界と二宮尊徳の一元は同じことを言っていると思われます。
木の花ファミリーではその世界観を「農」に生かし天然循環法と名付けました。
そして、それを日常生活にも広げ、実践しています。
そんな話を聴きたい人は是非、11月30日に千葉市にお越しください。
出張木の花塾@千葉「すべては響き~宇宙視点の農」が開催されます。
今、インドに出張中の塾長いさどんがパワーアップして帰ってきます。




衆議院解散と木の花ファミリーの暮らし

ある日の大人ミーティングの様子です。
木の花ファミリーでは毎晩、大人メンバー全員が集う「大人ミーティング」を行っています。大人ミーティングでは、日々の連絡事項から一人一人の心のこと、この宇宙の神秘に及ぶまで様々なことをみんなで話し合い学びあいます。みんなで共に暮らすためには、心を合わせることが重要で、この大人ミーティングはそのための核としてずっと機能しています。昨晩、ひとみちゃんから、その大人ミーティングで衆議院解散について話そうという提案があり、みんなで話し合いました。そして話し合いのきっかけとして、まず僕から以下のような説明をしました。


☆彡 以下、説明のための用意しておいたメモからの転記です ☆彡

今後の日程
  • 衆議院解散 1121
  • 衆議院選挙 122日告知 1214日投開票


衆議院解散とは?
  • 司法(裁判所)、立法(国会)、行政(内閣)の三権分立を踏まえて、内閣が国会に対して持つ権利。※国会は内閣に対して不信任決議案の権利を持つ。


なぜ解散するか? (安倍首相の言葉)
  • 7月~9月期GDP速報値が実質年1.6%減という数字。2四期連続のマイナス。
  • それを受けて消費税率の引き上げ時期を、201510月から20174月に先伸ばしをする。
  • それは大きな決断なので、国民の信を問う必要がある。加えて、アベノミクスについての判断も国民に仰ぎたい。


この理由がおかしい理由
  • 消費税の増税についてはもともと景気を見て判断すると明記されている。増税の見送りは、それほど大きな政策の変更とは言えない。


問題点
  • 本来、1130日まで続く予定だった臨時国会が21日で終了してしまう。→審議できない法案(女性活躍推進法案など)が生じる。
  • 選挙費用が700億円掛かる。


想定される本当の目的
  • 衆議院の任期はあと2年だが、今、再選されたら、今後の任期は4年になる。国民の信を得る形で長期政権となることが出来る。
  • お金に関する不祥事があったが、それほど傷口は大きくない。だが現状は、景気の低迷などのマイナス要因がある。それが広がる前に、国民の70%が反対している消費税の増税を延期した上で解散をする。そうすることで自民党に有利になる。
    ※野党は選挙の準備ができていないと言われている。

☆彡 メモはここまで ☆彡


僕からの説明を受けて、田んぼ隊のまこっちゃんがさらに詳しい話をしてくれました。まこっちゃんは3年間の引きこもり経験があり、その間に政治について沢山調べていました。その知識を余すところなく披露し、その知識の広さにみんなを感動していました。

話しの中で、以下のことを確認し合いました。
  • 日本のトップの立場にある人が自分の都合で動いている。
  • そして、そういう人を選び、生み出しているのは国民一人一人であるということ。
  • 国民一人一人の意識レベルが今の政治を創り出し、それは機能していない。
  • それだからこそ、木の花ファミリーで一人一人が自分の視点を超えて、みんなで共に生きていくことに意味があり、その実践が世界へ向けたメッセージになる。

そんな流れの中で、みかちゃんがホワイトボードを使って話し始めました。
そして話は、「クニツクリ」「マツリゴト」へと発展していきます。

みかちゃんが描いたホワイトボードです。


政治とは「国づくり」で、「クニ」をカタカムナの単音思念で見ていくと、
「ク」は自由、潜象界の意志を表し、「二」は定着することを表します。
そうすると「クニ」とは、「潜象界の自由な意志が定着したところ」となります。
潜象界とは「ない世界」であり、この世の現象を生み出す元で、神さまの世界です。
神さまの中でも、宇宙の創造を司り、宇宙そのものと言えるのがアメノミナカヌシさまです。そのアメノミナカヌシさまの意志を通し、現象世界に顕すことで1本の芯が通るのです。ですが、今の政治には、そのような観点はなく、バラバラの状態になっています。
アメノミナカヌシさまの存在を感じ通すこと。それがとても重要なのです。
そして、政治とは「マツリゴト」です。世界観を顕す「お祭り(お祀り)」でも書いた通り、「マツリ」は豊穣への祈り、感謝を起源とし、宗教的でもあり、政治的でもあり、経済的でもあり、社会的でもある総合的な取り組みです。「マツリ」の「マ」には、この世界の真実「真(マ)」を入れて芯を通す必要がありますが、現在は個人個人の欲望である「魔(マ)」が入ってしまっています。そのためお祭りにも政治(マツリゴト)にも人々を束ねる力がないのです。

木の花ファミリーの暮らしは、現象世界にアメノミナカヌシさまの意志を通し、「マツリ」の「マ」を「真」にするための実践です。木の花ファミリーも一つのクニと言えます。世界の縮図が日本という説がありますが、僕たちはその説を踏まえ、木の花ファミリーをさらにその日本の縮図と捉え、日々を営んでいます。

僕たちの心が一つに揃わないこと。それがバラバラな世界を顕しています。
心を揃え、調和の心の元にみんなで暮らすこと。
それが出来る時、その心は波動となって世界に広がっていきます。

このようになった時、宗教(信仰心)や政治、経済、これらすべては社会に組み込まれ、みんなが繋がり一つの暮らしを生み出します。その暮らしは安心安全な暮らしで一人一人の個性が輝く暮らしです。

そんな社会へ向けて、日々の出来事から自分を振り返り、みんなで共有していく。
木の花ファミリーの暮らしはそんなふうに営まれています。

ちなみにみかちゃんも「宇宙の秘密みかこのブログ」の中でこの日の大人ミーティングについて触れています。良かったら読んでみて下さいね。

シンクロニシティとカタカムナ

10年ぐらい前、僕は、F・D・ピートの『シンクロニシティ』という本を読みました。
シンクロニシティは共時性と訳されますが、
虫の知らせや偶然の一致などの現象を現わす言葉です。
シンクロニシティが生じる時、直感的な意識と行動が調和し、
物事の流れがスムーズになります。
分析心理学者のユングは、この現象の背後に法則性を感じ、
普遍的無意識元型などの概念を生み出していきます。

F・D・ピートは、この本で、シンクロニシティを題材に精神と物質の本質に迫ります。
※記憶が曖昧な部分がありますが・・・

精神の本質は「動き」、流動性にある。
そして、物質の本質は「固まり」、固定性にある。
この本ではまずこんなふうに精神と物質の本質を定義します。

ですが、ことはそんなに単純ではありません。
流動性を本質としている精神ですが、
トラウマや心のしこりなど固定した要素を合わせもっています。
そして、固定しているように見える物体の中では、素粒子が常に動き続けています。
つまり物質は、流動的な特徴を持ち合わせているのです。

こんなふうに観ていくと、精神と物質の境界が曖昧になり、
この2つは分かることが出来なくなります。
精神と物質とが重なる領域、その領域からすべては生まれていて、
この領域と意識が調和する時、シンクロニシティは生じるというのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

ところで、11月10日、11日と、木の花ファミリーでは、カタカムナ勉強会が開催されました。

カタカムナ勉強会(講師の芳賀さん)
「カタカムナから観た経済システム」でも触れましたが、カタカムナ文字は八鏡文字(はっきょうもじ)と呼ばれ、イロハ48音を表しています。
一つ一つの文字には魂が込められていて、
それは「言霊(ことだま)・音霊(おとだま)・数霊(かずたま)」となり、宇宙を創り上げています。

カタカムナの図象は、「ない世界」から「見えない世界」、
「ある世界」へと物質が生まれてくる過程が現わされています。

この世界には、トキ軸とトコロ軸があります。
ある存在が生まれる時、まずはトキ軸を、自転と公転により旋回します。
この時点ではまだ物体にはなりません。
この動きに螺旋と循環が加わることにより、トコロ軸が伸びていき、
質量を帯び、質的転換をし、物体となっていきます。

その姿は太陽系の運行を描いたVORTEXの映像が見事に表現してくれています。
星の運行は物質生成の姿を見事に表してくれていて、それは僕らの身体にも共通します。

膨張と収縮、精神と物質、相反する二面性を帯びた運動により渦が生まれます。
相反する運動を続ける二つの渦が生まれ、支えないながら共に育っていきます。
一つの渦に固執し、動きをなくすと両方の渦の力が弱まります。
物質偏重で来た現代社会は、そのために渦の力を弱めていると言えます。
渦と渦とを「うずうずしながら」ダイナミックに動いていくことにより、安定し発展します。

この講義を聴いている時、僕は上記の本の存在を思い出しました。
相反する存在の境界を曖昧にし、自由に移動すること。
カタカムナが示す生き方が、そのままシンクロニシティを生み出す土台となるのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

経済を英語で言うと、エコノミーです。
その語源はオイコス(家・人々の結びつき)のノモス(規則)です。
その土台にはエコロジー(オイコスのロゴス=人々の結びつきの真理)があります。
人々の結びつき(=社会)の運営を司るのが経済です。

そうすると、大切なのはエネルギーが循環し、すべての人々へ行き渡ることです。
天然循環経済学はその実践方法を示すと共に、その実践を記述していきます。
直観を磨いていくことで、相反する存在の境界を越えていくこと。
それは、すべての存在の元となる「ない世界」=潜象界へ意識を向けていくことです。
そうすることにより、この世界のすべての出来事、存在が繋がっていき、シンクロしていきます。
この時、すべての存在は潜象界からの無限のエネルギーに満たされているのでしょう。

そんな未来を思い描いて。
心を磨き直観を磨いていきます。


カタカムナ勉強会の様子です。





量的金融緩和の心と木の花ファミリーの暮らし

10月31日、日本銀行は追加の量的金融緩和を決定しました。
このことに関しては、肯定的な記事と否定的な記事、両方あるようです。
例えば、以下のような感じです。

肯定的な記事: Business journal

否定的な記事:東洋経済ONLINE

この金融緩和を受けて、日経平均株価は755円上昇し、
為替は1ドル112円まで円安が進みました。

円安が進むことで輸出産業は有利になり、
輸入原材料の値上がりにより中小企業は苦しくなる。

今まで言われてきていることです。

ここでは今回の金融緩和の是非はおいて、
それがどんな心から生まれてかを考えてみたいと思います。

デフレマインドを克服して消費が活発になることにより景気回復を図ること。
簡単に言ってしまえば、量的緩和(アベノミクス)の目的はここにあると言えます。
それは全体を考えての政策なのでしょうが、欠けている視点がいくつかあります。

まず1点目は、有限な自然環境への配慮がないこと。
次に人口が減少している現実を踏まえていないことです。
このあたりのことは、「持続可能な福祉社会」に書いているので、読んで見て下さいね。

それらに加えて、この政策には、人々の意識に対する視点が欠けています。
人々の消費を活発にすると言いますが、
その前提となっているのは「自分のために消費する人々」です。
人のため。みんなのため。そんな消費を促すような視点はありません。
一人一人がバラバラの自分のために消費していく。それは自己完結の消費です。
なので、人々の間に一体感は生まれず、
国家予算に対してもみんなのお金という感じが生まれません。

一人一人が自分の消費の先にあるものを意識すること。
それは繋がりの感覚をもたらし、人々の意識の転換を促します。
この意識の転換が今後もっとも重要になってくると思います。
量的金融緩和では決して育てることが出来ない心。
そんな心を木の花ファミリーでは、日々の生活を通して育てていっています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

その木の花ファミリーでは今日、出航祈念祭という神事が行われました。


11月3日の朝の富士山です。
11月15日。木の花ファミリーメンバーのいさどん、ようこちゃん、まゆちゃんは、親しい友人のあわちゃん、じゅんぞうと共にインドに旅立ちます。
そして、GENOAの総会に出席するためにすでにインド入りしている道代ちゃんと合流し、
ハルトラビレッジやオーロビルを訪れます。
※道代ちゃんは今回を最後にGENOAの代表を降りる予定で最後の役割です。




この旅の安全、成功を祈って開催された祭りですが、それは精神的な意味では、この暮らしの意味・大切さを世界に広がるための船出を祝うものでもありました。
※天教山(富士山)より地教山(ヒマラヤ)への旅となっています。

神祭式の様子

暮らしの中で行われる神事は、カタカムナで言う潜象会(ない世界)へ意識を向けることであり、大いなる意思の流れを生活に呼び込むことになります。

僕たちはみんな大いなる意思の流れの元に生を受けています。
それを思い出すことはすべての存在との繋がりを回復することになります。
こんな意識を育むことで、すべてのお金はみんなのお金になって、ただ循環するだけになっていきます。
その時は、格差も貧困もきっとなくなっているでしょう。

そんな日が訪れることを信じて、僕らは淡々とカタカムナを取り入れた日々を送っています。
以下、お祭りの写真を何枚かお届けします。


花の舞


榊鬼


三つ舞


獅子舞


みろくの世


祈念祭後の空


みんなで記念撮影


みんなでお祈りです。


乾杯しています。



Your left Slidebar content. -->