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カタカムナを生きる ~トキのズレ~

トキのズレ


11月18日20時43分は蠍座新月です。木星が蠍座にある今、その蠍座での新月ということでとても幸運な星回りと言われています。ならば、ブログのUPもそれに合わせようかという心も働くのですが、そういう意図はいらないなと思いました。欲の心が働くので。

天体のリズムが大きな流れであることは間違えありません。ですが流れは単層ではなく多層的になっていて、そこには「トキのズレ」が存在するのではないかと思うのです。例えば、新月は新しい何かを始めたり、宣言をするのに適した時と言われていますが、すべての人間のリズムがそれと一致しているわけではなく、多少の「トキのズレ」を含みながら、そのズレが立体的な動きを生み出して、シンフォニーとなりこの世界を豊かにしているのではないかと思うのです。

だから頭で知った新月という情報に合わせて書くのではなく、湧いて来た時にそのまま言葉を紡いでいけばいいのです。それが僕のリズムです。天体のリズムに完全に一致することもあれば、ズレる時もある。一致すれば大きな流れの支援を受け、ズレたらズレたで、それは「トキのズレ」としてこの世界に奥行をもたらしていくのです。なんにせよ、僕はこの世界の多層の流れの一部であり、「トキのズレ」が大きな流れとの間で美しいハーモニーを奏でるように心掛けようと思っています。

ヒフミヨイムナヤコト(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10)

カタカムナが伝えるこの世界の宇宙法則は至るところに多層的に存在しているのです。カタカムナは13,000年前に存在したと言われる文明ですが、カタカムナの人々は、現象界の奥にあって、現象界を支える潜象界の存在を直観のよって感知していました。そして、この世界が48音の響きによって出来ていることを感知し、八鏡文字を用い、宇宙の創造、発展、消滅について体系づけました。木の花ファミリーは2013年にカタカムナに出会い、生活に取り入れて来ましたが、先日、あらためていさどんからみんなにプレゼンをする時間が持たれました。

カタカムナプレゼンはこんな言葉で始まりました。

~ 因果応報の奥にある天の意志 客観背後を学ぶ ~

人はみな、目の前の出来事にその人独自の反応をしています。その反応が新たな「因」となり結果を生み、その結果に対する反応がまた「因」となり・・・という形で繰り返されていきます。プレゼンの際は、株価の上昇が例として挙げられましたが、投資家はそのニュースを喜びますが、株を購入しない人々にとってはどうでもよいことです。そして、もっと長いスパンの流れを見る人ならば、経済成長による地球環境の悪化が見えてきます。どんな反応をするかであらたに生まれる結果が変わっていきます。自我の赴くままに反応していると状況に翻弄されますが、因果応報の奥を見通すことでこの世界の本質が見えてきます。

大切なのは本質に基づき生きることでそのためには自我を超えていく必要があります。自我を超えることで因果応報の奥を見通す目を育み、天の意志を感じるようになっていきます。その時大切なのは知識ではなく感じる力です。このプレゼンは、りゅうしろうくんが知意行一体を深めたいと言ったことがきっかけとなり行われたのですが、知意行の「知」、これは思考的能力ではなく、感じる力なのです。直観で何が大切かを感じる力。それが知意行の「知」ですべての基盤となるのです。

そんな感じで。カタカムナの知識を得ようとするのではなくその前提となる世界観を確認することから始まったプレゼン。プレゼンを聴きながら思ったことがあるのですが、そのことはまた稿を改めて書こうと思います。

「トキのズレ」が多層になって因果応報の海となっているのがこの現象世界です。この文章は最初に書こうと思ったことではないけれども書こうとしたら浮かんできた言葉です。その言葉をそのまま少しずつ書いていたらUPするタイミングは結局、11月18日となりました。時間まで見ると、まだ新月にはなっていませんが・・・そのズレを意識し生きていこうと思います。




世界のみんなと悟りを共有する

宇宙創成のプロセスは、「ヒ・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナ・ヤ・コ・ト」という数理で表すことができる。その始まりである「ヒ」から最終の「ト」までのプロセスを理解し、それらを統合して成り立つ存在が、ヒトだ。それが時代人(じだいびと)であり、時代主義(Eraism=エライズム)を生きる存在だよ。

~ 中略 ~


ヒトというのは、人間という地球上で物理的に進化してきたもののことではないんだよ。それは、物理的に進化してきたものが最終的に到達する目的地点であり、宇宙にはもともとヒトという意識レベルの存在があったはずだ。なぜなら、ヒトとは宇宙の仕組みをマスターした存在を言うのだから。
ついつい人間たちは、ヒトのことを人間と勘違いする。人間とヒトでは、定義が違う。ヒトは形ではない。宇宙の法を理解し、マスターした存在をヒトと言うのであり、それは目覚めということでもある。


~ 中略 ~


宇宙は奇跡の連続だ。なぜなら、もともと人間の思考のキャパを超えたところで成り立っているのだから。だから宇宙を生きるという意識レベルを考えるのならば、科学や理屈を超えたところでものごとを受け取る器を持つことが必要だ。そうでなければ、真実は観えてこない。それには、人間壊しをすることだ。人間を壊して、ヒトとして存在する。それがヒトイズムだ。




☆彡 ☆彡 ☆彡

上記のように語るいさどんですが、人間については、「ヒト」の間(アイダ)の存在とも語ります。「ヒ」から「ト」へと至っていないということです。そして人間は、紙と文字の発明によって二元的思考(平面的思考)をするようになったと語り、平面的思考についてはこんなふうに説明しています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

3次元世界に暮らしながらも人間は物事を2元的に観ている。それは、出会うこととそれに対する自分の反応で物事を見ているから。それで平面的になっていく。だけれども、その奥にはこの世界を動かしている意志がある。出会うこととそれに対する自分の反応、そしてその奥にある意志。それらすべてを意識した時、この世界を立体的に観ることが出来る。

出会うことに反応することで人は一喜一憂する。それが人間で一喜一憂しなければ生きている意味がない。一喜一憂しながらも、出来事の奥にある意志を感じて、一喜一憂している自分を離れて観る。そして流れをいただいていく。それが生きていることの醍醐味で、人生に翻弄されずに楽しむことが出来るようになる。
☆彡 ☆彡 ☆彡

出会う出来事に平面的に反応する人間。そんな人間の特徴を受けて、今年の1月、僕は以下のように書きました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

出会うことに反応する人間。その時、人は出会う出来事を固定して捉えています。

紙や文字が発明されることにより人は記録を取ることが出来るようになりました。一つの形にして残しておく。書かれた言葉は変化せずに残り続けます。それは変化を本質とするこの宇宙の法則からしたら異質なことなのだと思います。

固定された記録。それが人に囚われをもたらし、一喜一憂することになります。ですが、この世界で出会うことはすべてプロセスの中にあり、本来、固定はされずに流れ続けていくのです。出来事の奥にある意志を感じた時、その流れが見え、自分を固定から解放することが出来ます。

出会う出来事の奥を探求する」より


☆彡 ☆彡 ☆彡

物事の表面だけを見ていると、出来事は現在だけに固定され、そして違いが際立ちます。例えば、「ヒト」と人間についてのいさどんの言葉ですが、「定義が違う」と語ったり、「ヒトの間が人間」と語ったりしています。表面だけ見ているとそこに違いを感じるかもしれませんが、その奥を見ていくと、同じこと、共通した想い、「ヒト」へと至る大切さを語っていることが見えてきます。

今、この瞬間の出来事の奥には、過去から未来へと続く宇宙の流れが存在しています。「ヒト」となり宇宙の法を理解し、物事を立体的に捉えるようになった時、すべての出来事が一つの流れに集約されていくのです。そこでは善悪の違いや他者との対立はすべて解消されていきます。

善の中に悪があり、悪の中に善があります。善悪は自我(エゴ)の生み出す偏りであり、行き過ぎたエゴが善と悪という一対を生み出し対立していくことになります。

ミサイル発射、核実験などで国際的に非難されている北朝鮮ですが、北朝鮮からすれば、それは自衛の手段であり、アメリカをはじめとする核保有国の脅威を感じていることでしょう。テロリストであるISは様々な残虐行為を行っていますが、それを生み出したのはアメリカによるイラク進攻であり、もっと遡ればイギリスによる中東への侵略へと至ります。

各国のエゴが自国の利益を追求し、それが善悪という一対を生み出し争いへと発展しているのが現代社会であり、物事の奥を見れば、すべての人間に共通するエゴが見えてくるのです。だからこそ、今大切なのは、人間一人ひとりがエゴを超え、「ヒト」へと目覚めていくことなのです。それが宇宙の流れが示すメッセージであり、僕は心を磨き、木の花ファミリーのみんなとそんな暮らしを生み出していきます。

文字は世界に固定を生み出し、そして平面的思考へと誘います。それでも書き続けるのは、文字には広がっていく力もあるからです。そして、人は文字という固定したものをきっかけに、その奥を感じることも出来ます。行間に心を込め、そしてそれを感じあって、また新たな言葉を生み出していく。すべてをプロセスの中で立体的に捕らえていけば、文字だって「ヒト」へと至るにきっかけとなるのです。

世界のみんなと悟りを共有する。

そんなことを夢見て、僕は書き続けていこうと思っています(^-^)

富士浅間木の花祭りに登場する榊鬼、心磨きの象徴とも言えます。


突破口は気づきにある

ともこ:
だから、「これじゃあいけない、なんとかしよう」の延長線上に突破口はないんだね。

ない。それはない。

くわっち:
「活かす」という視点だということ?

いさどん:
違うよ。「気付く」という視点だよ。


カタカムナによると、宇宙は、八つで飽和安定だね。八鏡文字で言えば、円があってそこに宇宙最極小微粒子の「カ」が集まっていって、そして「ヒフミヨイムナヤコト(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10)」とエネルギーが集まることによって現象化して、この世界ができる。「コ」で転がり出て「ト」で統合する、その現象化の前の「ヤ」、つまり八の状態は、とても安定した状態だよね。そうすると、そこでは現象化は起きないんだよ。だからそれをわざわざ九まで進めた。八の飽和安定はそのまま止まっている状態だけど、九まで行くと、常に変化変容を繰り返すということ。それは地球の実体であり、宇宙の実体でしょう。飽和安定した世界も、そこを超えると、現象化ができて、それが宇宙の実体なんだよ。
宇宙というのは、本来はないもの。飽和安定の先に、「ある」ということを認識するために九を創ったのだから、その前の飽和安定の状態では「ない」んだよ。だから「ない世界」なんだよ。何もないんだから。

だけど、「アマ」というのは「ある世界」の元を創った。その「ある世界」ができたことによって、この世界はもともと「ない世界」だったけれど今は「ある」んだな、ということが理解できる。そこでトキとトコロが統合して、悟りになるんだよ。統合とは、理解なんだよ。だからさっきの話でも、「そうか、こういうふうになっているんだ」と理解したところで終わるんだよ。それが悟りだ。


くわっち:
じゃあ普段のことでも、気付くことで ―――

いさどん:
進んでいくんだよ。だけど自分の言っていることがどういうことなのかにも気付いていないでしょう?それは宇宙から外れているということだよ。でも気付かないのも、そういう人だということで、放っておけばいいんだよ。そうして気付かない状態を積み重ねていくと、10が限界であるとしたら、1で気付くのか2で気付くのか、はたまた気付かないまま10まで行ってとんでもない現象を起こして気付くのか。それを、10にならなければわからない者に1の段階で気付けと言ってもわからないのだから、放っておけばいい。

☆彡 ☆彡 ☆彡

上記はいさどんが9月に大町ビレッジを訪問した際にみんなと交わした会話です。

突破口は気づきにある。

それを意識し生活することが大切だと思っています。

多くの人は現状に問題を感じた時、その分析をします。その分析の奥には「こうあって欲しい」というイメージがあって、そのためには「こうする必要がある」と訴えることになります。それは自分の想いを実現しようとする姿勢であり、自分の視点に対する理解を周りに求めることになります。この姿勢のまま「これではいけない、なんとかしよう」と一生懸命になっても突破口を開くことは出来ないのでしょう。

我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。

気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。

先に紹介した話に続けて、いさどんは「生きていれば、変遷を見ていくことが出来る。変遷を見るということは、客観的視点で見るということであり、それが悟りだ」ということを言っています。

変化変容がこの世界の法則です。宇宙は常に新しいところへと進み、季節は巡り巡ります。囚われを外せば、すべてのものは自ずから変化していきます。自分のことも他者のことも世界のことも客観的視点に立って、その変遷を見ていく。人は兎角、今の状態に反応し判断しがちですが、そういう反応を置いておいて、奥にある流れを感じていく。その姿勢が人にゆとりと余裕を与え、その波動はきっと希望となって世界に広がっていきます。

突破口は気づきにある。

それを意識し生活する時、今この場に桃源郷、ロータスランドが誕生することでしょう。

カフェ&ショップ・ロータスランド外壁のです。



10次産業を実現している場所

木の花ファミリーの経済について説明している時、いさどんはこんなふうに語りました。

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うちの経済は本当に面白いよ。NPO法人や農事組合法人、合同会社などがあって当然それぞれが独立した帳簿を持っているんだけれども、その奥には生活共同体木の花ファミリーがあって、生活共同体がすべての組織の運営をしているんだよ。だからどこにお金があってもみんなにとっては同じ。みんなのために使われている。それで6次産業化も完全に実現している。いや、6次どころではないな、1次+2次+3次で6次産業、うちはそれに4次も加わるから10次産業だよ。「4」は「死」。生きるものが行きつくところ。つまり究極。そして、「10」はカタカムナで言えば、統合。1+2+3+4=10、ヒフミヨイムナヤコト、「ヒト」を生み出す暮らしを木の花はしているんだよ。

☆彡 ☆彡 ☆彡

聴いていて面白いなと思いました。そしてネットで10次産業という言葉を調べたら、いくつかの記事にヒットしました。10次産業、使われ始めている言葉なのですね。

その一つがYahooニュース「農業・漁業の再生は第10次産業化の発想で!〜知的コーディネート力がカギ」ですが、そこにはこんなふうに記載されています。

☆彡 ☆彡 ☆彡


4次産業が1次、2次、3次産業を新発想でコーディネートすることが重要だ。足し算すると第10次産業。まさに大学などの研究機関が起点となって、産学連携をダイナミックに進めるということだ。これは本気で行うなら価値がある。どれだけ本気になってできるか、にかかっている。大学や研究所、学会が起点となって、様々な分野の連携を促しながら、新たな展開をすることができるなら、まだまだ、日本の社会が伸びていく余地はある。

日本の社会は蛸壺化してしまった。横断的な繋がりや発想が出にくい社会になったのだ。

 ~ 中略 ~



第10次産業化が閉塞した日本の起爆剤になる。第10次産業によって何ができるか、何が生まれるか。日本の新たな挑戦だ。

☆彡 ☆彡 ☆彡

4次産業とは情報産業や医療産業、教育サービス産業など知的集約産業に対して使われるようになってきている言葉ですが、上記の記事では4次産業が持つコーディネート力に注目して、そこに6次産業成功の鍵があると述べられています。

現在、多くの6次産業の取り組みが失敗に終わっているようです。そんな中、木の花ファミリーでは特別な努力なしに6次産業が実現しています。それは木の花ファミリーの産業は、生きることそのものであり、そこにはすべての取り組みが含まれているからでしょう。そのため、それは経済的成功だけではなく、生活の充実、人格の向上、人生の意味の探求など様々なものをもたらすのです。そして最終的には僕らは「ヒト」となります。「ヒト」とは何か?いさどんはこんなふうに語ります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

ヒトというのは、人間という地球上で物理的に進化してきたもののことではないんだよ。それは、物理的に進化してきたものが最終的に到達する目的地点であり、宇宙にはもともとヒトという意識レベルの存在があったはずだ。なぜなら、ヒトとは宇宙の仕組みをマスターした存在を言うのだから。
ついつい人間たちは、ヒトのことを人間と勘違いする。人間とヒトでは、定義が違う。ヒトは形ではない。宇宙の法を理解し、マスターした存在をヒトと言うのであり、それは目覚めということでもある。

 ~ 中略 ~

人間は何か滞りに出会うと、それを不愉快なものだと捉え、滞りを避けようとする。しかし滞りを乗り越えた時、そこでは必ず一回り進化した新たな世界に出会う。つまり滞りとはとても大切なものであり、我々にはその滞りの正体を見極めるだけの余裕が必要なんだよ。

 ~ 中略 ~

この世界は人間の理屈を超えたところで成り立っている。だから科学や理屈で考えて納得できるところを超えた時に、奇跡が起きるんだよ。

宇宙は奇跡の連続だ。なぜなら、もともと人間の思考のキャパを超えたところで成り立っているのだから。だから宇宙を生きるという意識レベルを考えるのならば、科学や理屈を超えたところでものごとを受け取る器を持つことが必要だ。そうでなければ、真実は観えてこない。それには、人間壊しをすることだ。人間を壊して、ヒトとして存在する。それがヒトイズムだ。


☆彡 ☆彡 ☆彡

人間として生きていると様々な滞りに出会います。その時、人間としての自分の思考を超えて、余裕を持ってそれを受け取り、そこから学んでいく。そうすることで新たな自分と出会います。それは絶えず続く人間壊しであり、それが「ヒト」への道です。そして、そこを歩むことが生きる本来の目的です。

今、社会は細分化され、産業も1次、2次、3次、4次と分かれています。そして人々の関心は経済的なものに特化し、マスコミは消費を煽り、政府は経済成長を求め続けています。そのような中、社会的分断や対立、環境破壊が進んでいます。これは人類が出会っている大きな滞りです。

大切なのはこの滞りを余裕を持って受け止め、大きな視点から見つめることです。

先に紹介した記事にもある通り、今の社会は蛸壺化することで人々から繋がりを奪っています。そして産業は生活から切り離され、細分化されています。その状況から非効率や無駄、孤立が生まれ、それが滞りを生み出し続けているのです。そこには滞りから学ぶ人間壊しはありません。

木の花ファミリーにとって産業とは生きることそのものであり、そこにはこの世界のすべてが含まれます。宇宙に想いを馳せ、季節の移り変わりと共に作物を育て、恵みをいただき、みんなで喜びを分かち合います。それがそのまま経済活動ともなっています。すると失敗事例が多い6次産業化の取り組みが努力なしに実現していきます。

それはなぜか?

きっとすべてが繋がり無駄なく生かされているからです。もちろん、その暮らしの中にも滞りはありますが、僕らはそれを人間(=自分)壊しの機会とし、「ヒト」への歩みを進めるように努めています。

今、人間社会に求められていることは様々な繋がりを取り戻すことであり、その過程で人間(=自分)を壊し、「ヒト」への道を歩むことです。その時、社会の産業は至るところで繋がりたくさんの10次産業が現れることでしょう。

そんな未来の先駆けとして暮らしていこうと思っています(^-^)

ジャガイモ一斉収穫の時の写真です。

世界に向かって転がり出る

5月20日で木の花ファミリーに移住し、丸8年となり、今は9年目の日々を過ごしています。「9」という数字から思い出すのは、小学校6年生の時、校長先生が語っていた以下の言葉です。

苦(9)を超えなければ、充(10)の喜びは得られない。

当時の校長先生(服部先生)は、卒業式の時、色紙にこの言葉を書きみんな(160名ぐらい)に贈ってくれました。その色紙は今も実家の部屋に飾ってあります。

そしてこの言葉は、遠藤周作さんや河合隼雄さんが生前に語っていた「くるたのしい」という言葉に通じるのではないかと思い、ネットを検索すると以下の文章に出会いました。

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「くるたのしい」とは、苦しさと楽しさとが同居している様子をいうようですが、もう少し掘り下げて考えてみましょう。

作家が書いた小説というものは、その作家が頭で描いた構想を膨らませてできたものですから、作家が思うようにコントロールしてできたもののように思われますが、『ケアの本質』の著者であるメイヤロフ氏は、小説というものは作家が思いつくままに書いたものではなくて、小説を書くとは、自分が選んだある構想が自分の中で成長していくのを援助すること、あるいは、その構想が持つと考えられる本質的な特徴を発見し探索することであると言っています。

同時に、作家の関心は、自分にではなく、自分が取り組んでいる構想自体に向けられているとも言っています。

要するに、小説とは作家が構想を練ることによって出来上がるわけですが、その「練る」とは、作家が勝手にコントロールすることではなくて、その構想が自ら成長していくのを援助することが「練る」ことであって、創作活動の主体は構想の側にあって作家の側にはないということです。

メイヤロフ氏はこのように言っているわけですが、書く者としては、やはり自分が主体となって書こうとするでしょう。そうすると、行き詰って書けなくなり苦しくなるという事態に追い込まれるというわけです。

そこで、自分が主体になっていることに気づき、それを棚上げして構想の方に主体を移し、構想に耳を傾けることができるようになったとき、作家の筆はなめらかとなり、苦しみはいつの間にか楽しみに変わっているのではないかと想像します。

この辺のところを河合さんは、植物は太陽の熱と土とがあればゆっくりと成長していく、そのゆっくりとした成長に心を合わせてやると、植物の成長がとても楽しみに思えてくるが、植物の成長をこっちがコントロールしてやろうとすると、思いのままにならないことが出てきていやになってくるのではなかろうか、と言っておられます。



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「自分が・・・」という思いに基づき行動すると、思いもよらない出来事に出会いいらだち苦しくなります。ですが、「自分が・・・」という思いを手放す時、思いもよらない出来事を楽しむことが出来るようになるのです。世界を楽しむコツは自分を離れることにあるようです。

冒頭の、苦(9)を超えて、充(10)の喜びを得る。という言葉。

それは「自分が・・・」という心を超えて、天の法則、流れに身を委ねることなのだと思います。

視点を変えて、カタカムナでみると、「9」は「転がり出る」です。「7」で質的転換し、「8」で飽和安定した存在は、「9」で転がり出て、「10」で統合へと至ります。

転がり出る先は???

きっと世界です。魂は自らの感情や身体と出会い、様々な経験を通して自分を育んでいきます。世界から分かれた自分を育んでいく。その状態が飽和し安定した時、世界に向けて転がり出ることで、世界と一つとなり存在は完成していくのです。

「自分が・・・」という心を超えて、世界に転がり出ることで、天の法則の下、世界と一つとなり、充の喜びを得て統合へと至ります。

今年は木の花ファミリー9年目。世界に向けて転がり出ることで10年目、2018年での統合へと至りますが、2018年には平成の終了が予定されています。平成は「イワト(平=一八十)成る時代」。その終了と共、僕の木の花での1サイクル(ヒフミヨイムナヤコト)も終わるわけで、そんな時代の流れも意識して日々を送ろうと思っています。

そんな感じで世界に目を向けたら、「9」と言えば、憲法9条です。9条は前文と共に平和憲法の核となる部分ですが、今、改憲に向けた動きが加速しつつあります。

世界が平和でありますように。

そんな思いはきっとみんな共通しているのに世界は争いが絶えません。きっとそれはみんなが自分都合の平和を求めているからだと思います。自分「が」平穏でいたいから・・・だから平和であって欲しい。そんな動機から平和を求めていたら、他人の痛みや苦しみは目に入りません。そして、その態度は争いを生み出す原因ともなります。

争いを排除することで争いを引き起こす。

多くの人が自分都合の平和を求めているからそんな世界が展開するのだと思います。

憲法9条は平和を謳っています。ですが、改憲にしろ護憲にしろ、それを自分都合で求めていたら、生まれる世界は争い、いがみ合いの世界です。

自分都合、自分が・・・という心はこの世界に苦しみをもたらすのです。

だから大切なのは、思いもよらない出来事に心を開いていくことです。自分の都合、自分が・・・という心を手放し、ただ出会う出来事を楽しんでいく。みんながそんな姿勢で世界に転がり出る時、個性豊かな存在が繋がり合い、真の統合が生まれるのでしょう。

そんな未来に向けて、僕は世界に転がり出ます。

5月20日、木の花ファミリー蓮池の写真です。






天の真理を皆で降ろす

昨日から1ヶ月間の真学校が始まっています。毎年、初日はスタッフや講師、そして受講生で自己紹介の時間を持ちます。僕は経済の講師としてこの時間に参加し、以下4つの質問に答えながら自分の話をしました。(昨年の自己紹介については「予測不能の一本道を進む」に書いています。)

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1 ニックネーム

なかのん

2 好きな食べ物

「かぼちゃ」

子どもの頃、一番嫌いだった食べ物が今は一番好きになっています。
人は変化するということです。
※これ、毎年同じ話をしています。

3 自分を一言で表すと 

「海」

3年前、僕は天から「海(かい)ちゃん」という名前を貰いました。それをたまたま思い出しました。海はこの地球で全部繋がっています。一人ひとりの人間も一緒で、僕らは波にように個性を際立たせますが、奥ではすべての存在と繋がっているのです。そして、人生で出会う波(人や物事)はすべて海から生まれるもので、元は一つで全部自分と出会っているのです。

4 真学校に期待すること

世界の側から自分を見る。

この世界には一つの流れがあって、すべての出来事の奥にはその流れがあります。その地点からみんなが自分を眺めて、映画を観るようにそれを楽しんで、それぞれの特性について語り合ったら楽しいだろうなと思っています。

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こんな感じです。

僕が自己紹介をした後、ようこちゃんが自己紹介をしましたが、ようこちゃんには「天女」という言葉が浮かんでいたそうです。そして、天は「あま」、それは海にも繋がっていて、海という言葉も書こうと思ってなんとなく止めたら、たまたま僕が「海」という言葉を書いていたということでした。

ちなみに「アマ」はカタカムナ単音豆辞典を見ると以下のように述べられています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

「ア」音の響きわたっている範囲の空間(マ)、すなわち宇宙空間を意味する。アマは現象に属し、アラユルもの(生命・物質)の出現の前の状態を言う。万物を生み出す根元というところから、天・海・女等に通じる。※「ア」は高次の響きを意味します。

カタカムナについてはこちらを参照して下さい。
 →真学校2016年レポート「4日目カタカムナ」

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ようこちゃんは天女、そして真学校に期待することは「天の真理を皆で降ろす」です。その言葉を受けて、ここでいさどんの真学校開講挨拶の言葉を一部紹介します。

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実は、皆さんへの講座で使うプレゼンテーションを今用意しているのですが、その半分ほどは、もしかするとちんぷんかんぷんかもしれません。その、よくわからないものを皆さんにプレゼントしようとしています。「これを聞いてもきっと理解できないだろうな」と思いながら、プレゼンテーションを準備しています。

それはなぜかというと、もしも皆さんがわかることを得るとしたら、皆さんはきっと納得することでしょう。しかしそれでは、あなたの心は満足するかもしれませんが、あなたが変わることにはならないのです。

多くの人は、自分が納得できるものだけを得ようとします。しかし納得できるということは、それは自分の理解の範囲内のものだけを得るということですから、そこに進化はありません。時代は常に進化し続けているのですから、今の考えのままでい続ければいつかは必ずそこに矛盾が発生し、行き詰まるようになっています。ですから、皆さんのために、「きっとこれは理解できないだろうな」と思いながらプレゼンテーションを用意しています。

新たなものに出会うということは、「そういう捉え方があるのか!」と、これまでの自分の枠を突破することになります。ですから、皆さん一人ひとりにできる限り寄り添いながら、理解できるようにお話ししていきますが、わからなくてもいいんですよ。なぜなら、わからない話に出会っている、というだけで、すでにあなたは、今までのあなたの枠を外し、新しい世界にいるからです。


そうでしょう?自分がわからないところへ積極的に行こうとするなんて、普通はしませんね。そこにいるというだけで、新たなものを得ようとする姿勢があるということなのです。それは、進化しようとする姿勢の証です。


☆彡 ☆彡 ☆彡

天の真理は人間の理解を超えています。それは常に分からないところに人間を導きそして人間の枠を広げてくれるのです。みんなで分からないところに心を開いていくことで天の真理を降ろしていく。この場がそんな場になれば、その波動は世界に広がり世界の枠も広げてくれることでしょう。

1ヶ月間の真学校がスタートしました。それがみんなをどこに導くか?

とっても楽しみです(^-^)

真学校受講生と木の花ファミリーのみんなです。


納得がいらない世界を創る

3年前の11月に書いた「僕といさどんと木の花ファミリー」で紹介しているエピソードは、自分の納得を超えることを受けとる体験でした。それまで自分の納得の元に生きてきた僕にとってそれは大きな出来事となりました。その体験について僕はこんなふうに振り返っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

もし僕が自分の正当性を主張したら、
(世間の)多くの人は僕の言葉に耳を傾けたのではないかと思います。
なぜなら表面で起きている出来事だけを見ていたら、僕は被害者にも見えるので。
そして、僕はみんなに正しいと認めて貰います。
でも、その先に何があるのでしょうか?
優越感に伴う自己主張の心が育ち、
それは新たなる対立を生み出すのではないでしょうか?

虐げられた状態から逆転し見返す。

僕の無意識はこんな物語を好んでいました。
そのため僕は虐げられる状況を自ら創り上げてきました。
自分で自分を苦しめることになります。
僕の正当性が認められた時、僕は喜びます。
ですが、それはその不調和な心を強化していくのです。

これは僕だけの問題ではありません。
この僕の不調和な心が世界で起きているテロリズムに波動として繋がっていきます。
そして、悲しみの連鎖が続いていくのです。

いさどんはそんな僕の心にメスをいれてくれたのです。

表面的に見たら僕の方が正しいように見える。
そんな状況だったかと思います。
そして、僕は反発をしていました。
それでもそんな僕に対して大事を伝えてくれたのです。
その心労はとても大きかったかと思います。
それに気づいた時、受けた恩の大きさを感じました。



※具体的な内容については「僕といさどんと木の花ファミリー」をお読みください。

☆彡 ☆彡 ☆彡

人間の自我は納得を求めますが、納得は自我を強化します。もしあの時、僕の正当性が認められ、僕が納得のいく結果となったら、僕の中で自我が強化されていたでしょう。そしてその視点で世界に眺め、世界を自分の色に染め、世界を狭くしていったと思います。

人は納得を求めて時に自己主張をします。ですが、自己主張は人との距離を生み出し人を孤独にしていきます。だから納得がいく結果になったとしてもどこか寂しさを感じることになるのです。そのため更なるアピールが必要となりますが、アピールのために自己主張をしても人との距離は広がる一方です。一見多くの人の希望を満たしたように見える現代社会で、孤独死などの問題が生じるのも納得を求め自己主張をしてきたことによる弊害なのではないでしょうか。納得を求めての自己主張、それは人を幸せにはしないのです。

子どもから大人に成長する過程では納得を求めることも重要になります。それは自分を確立する過程だからであり、健全な子どもは自己主張ではなく自己開示をしていきます。そしてそこから生まれる対話の中で納得し、自分を変化させていくのです。それは確立することを通しての成長です。

ですが、大人の自己認識は固まっています。そのような中、納得を求めることは今の自分を貫くことになり、その結果、変化を拒むことにもなるのです。

納得を超えたものに出会い、それを受け取る時、人の器が一つ大きくなります。それが人を成長させます。そして、納得を超え続けていると、いつの間にか納得がいらなくなるのです。ただその時の流れを感じて行動するようになります。そうなると、人の器は常に広がり続け、変化し続けることになります。それは世界と一つになる方向への変化です。

納得を超えるということは自我を超えることです。流れの中で世界と一つになっていく。そんな人々が集まった暮らしについていさどんはこんなふうに語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

ロータスランドのオープンに向けて、今、みんなで一丸となってひとつのことをやっている。一丸となってひとつのことを越えていくというのは、たくさんの心がそこに共鳴しあって、人に希望を与えることだ。


その中で、誰か一人でも自我にまみれていては、そのような場はできない。自我を忘れて、みんなが渦になる。カタカムナで言えば、「マワリテメクル」ということ。それは地球の動きだ。地球は自転し、公転し、歳差運動をし、微振動をしながら進んでいる。これは、古くから日本人の中にある、「マツリ」の精神だ。

 ~ 中略 ~

宇宙は、動いている。我々は毎日を認識し、時が過ぎていくが、これは巨大なエネルギーがうねっている「マワリテメクル」の世界だ。その中の一環としてこの仕組みがあるということを理解すると、すべてのところにその法則が遍満していることが観えてくる。それを意識しながら生きていくことが大切だ。

この理論が体得できるようになると、自我は消え、この世界を構成するものとして、大いなる生命としての役割を果たしながら、宇宙の実体のままに生きていくことになる。現代の人々は大いなるものから離れ、自我にまみれていがみ合っているが、そういったことがすべて帳消しになってしまう世界が、いがみ合いの奥にいつでもちゃんと控えているのだ。

それを語っていくことは、物理的な現状の地球を見ていると不可能なように思えるかもしれないが、ここではその存在を知って、語り出した。いずれ必ず、人間たちがそれを理解する時が来る。既に扉は開き、その動きは始まっているのだと思うと、やはりテンションは上がる。それこそ病魔に侵されて死にかかった者が生きることの本当の意味を知って「死んでなんかいられない」となるように、僕も、夜中だけど寝てなんかいられないよというテンションになった。まあ、語ったらまた寝るけどね()。しかし何か、この今のときめきを語っておかなければいけない、と思った。

 ~ 中略 ~

「祭」という字は「サイ」とも読む。「何々祭」というと、それは日常の生活から離れた儀式の場で使う用語になる。そこには天と地があり、地が天を崇めて祭典をするという「サ」=差のある状態だ。「サイ」は「マツリ」とは違い、まだマツリに至らない段階の儀式に用いられる。

それが「マツリ」になると、「マ」は宇宙空間であり、生命が躍動する特定の場、宇宙の法則が表現される場所のことであり、「ツ」は集い、「リ」は離れるということ。自我から離れた者たちが集い、宇宙の法則のままに生命が躍動する。それがマツリだ。そのような無我の境地で、美しく、日々を舞い踊るように生きたいものだ。



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先日、トランプ大統領は初の単独記者会見をしましたが、それは自己主張に溢れていました。その自己主張は人との距離を生み出し、アメリカ社会は分断が進んでいます。それは一人ひとりの意識の表れで、日頃、多くの人が納得を求め自己主張をしているのではないかと思います。そのような時だからこそ、自我を離れた人々が集い、流れの中で一つになり大きなうねりを生み出していきたいと思っています。

明日から1ヶ月間の真学校が始まり、3月21日には異次元空間カフェ&ショップロータスランドがオープンします。盛りだくさんの毎日、毎日が「マツリ」です。


ロータスランド完成イメージ図です。


以下、ロータスランドオープンに向けて開発中のメニュー写真を紹介しますね。


日替わりランチ。500円(税抜き)です。


富士山ひまつぶしです。
鉄板ナポリタンです。
スコーンです。
豆乳クリームとトマトソースのパスタです。

シナモントーストです。
ほうじ茶ラテです。
抹茶パフェです。
ヒマラヤ焼きカレーです。
富士山ひまつぶし御膳です。



時代が世界を変え、僕を変える

天皇陛下がお気持ちを表明した8月8日はスピリチャルな世界の人々の間では「ライオンズゲート」と呼ばれています。以下、そのライオンズゲートについての説明を天下泰平ブログ「ライオンズゲートが開く88(8月8日)」より引用したいと思います。

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スピリチュアルな世界の人々の間では、毎年88日には「ライオンズゲート」と呼ばれる宇宙の整列が起こり、地球が銀河の中心と一直線になる時で物質世界と霊的な世界との間にある宇宙のポータルが開く時であると言われています。

毎年銀河における新年は、マヤ暦における元旦726日であり、この日から「スターゲート」と呼ばれる銀河の中心からのエネルギー量が増え、それは812日までの18日間続くそうです。


そして、そのピークが88日であり、この日に「ライオンズゲート」が開いて膨大なエネルギーが地球に降り注ぎます。

スピリチャルな世界の人々の間では、毎年8月8日は「ライオンズゲート」と呼ばれる宇宙の整列が起こり、地球が銀河の中心と一直線になる時と言われているようです。

 
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同じ日の8月8日。人類は1年間で使える地球資源を使い果たしたそうです。今、自分たちが使っている資源は未来の世代から奪っていることになります。「1年分の資源を使い果たす日」をアース・オーバーシュート・デー」というそうですが、この日は年々早くなっています。

2000年には10月だったオーバーシュート・デーは、2014年には8月19日、2015年は8月13日、そして今年はライオンズゲートが開く8月8日です。
 (※「人類、1年間で使える地球資源を8ヵ月で使い果たす」を参照して下さい。)

宇宙では物質世界と霊的な世界との間にあるポータルが開いた時、地球には物質文明の限界を知らせる合図が訪れ、人間世界では天皇陛下が生前退位の意向を示されました。

これらはすべて繋がっている。

僕はそう感じました。

「8」はカタカムナでは飽和安定を示す数字です。
その後、「9」で(異次元に)転がり出て、「10」で統合し、一つのサイクルが完了します。
そして、また「1」が生まれ、新たなサイクルが発生していく。
このサイクルがらせん状に繰り返され、進み続けるのがこの世界です。

今、宇宙や地球は「飽和」し、新たな次元に転がり出ようとしています。
天皇陛下はそのタイミングで生前退位の意向を示されました。

これが時代の流れというものなのでしょう。

ところで最新のいさどんブログのタイトルは、「この世界は時代によって動いている」です。
以下、その文章を少し引用します。

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この世界は、時代によって動いています。ですから、人間が現状に対して問題を感じ、それを改善しようとする必要は本来はないのです。それは人間も含めてすべて、宇宙が世界に現象を引き起こしているからです。

同時に、この世界の現象は人間も含めた物語として紡がれているのですから、本来、わたしたちはそこで何をするべきなのでしょうか。それは、時代の動きや意志を感じ取り、それと連携して生きていくべきなのです。

これまで人々には、「時代が意志を持って動いている」という視点はありませんでした。人々はどこかで、「自分たちが時代を創っている」と思い、画策してきたのです。しかし厳密に言えば、誰一人、時代を動かした者はいないのです。ナポレオンであろうがヒトラーであろうが、キリストであろうが釈迦であろうが、自らの思い通りに生きられた人は誰もいません。なぜならば、世界は常に時代の意志によって運営されているからです。


その意志は思惑を持っていません。常に変化・変容・変態を繰り返し、進化し続ける宇宙の実体が、淡々と世界を紡いでいるだけなのです。

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続けて昨晩いさどんが僕に語ってくれた話も紹介します。

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宇宙は常にあなたの想いが表現されることを後押ししています。
そして相応しく「こと」が展開されていくのです。
それは本来、満ち足りた世界のはずなのです。

そんな宇宙の中で、自分の意思で想いを叶えようとすることは、そこに不足がある証です。不足があってそれを埋めようとしているのです。

その不足を生み出しているのは自分自身、自我の欲です。
そこに無理が生じていくのです。

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上記の文章は両方とも同じことを伝えているように思います。
世界のことにしろ、自分のことにしろ、自分の意図でなんとかしようとする必要はないです。
大切なのは、変化・変容・変態を繰り返す時代の流れを感じ取り、心を開いていくことです。
そうすることで、時代が世界を変え、僕を変えていくのです。

時代は今、物質社会が飽和し、精神世界へと転がり出ようとしています。
物質社会は人間が自我の可能性を追求する中でここまで発展しました。
その過程で、自我は他者と離れ離れとなり、孤独になっていきます。
自我の欲は不足感を生み出し、そこに無理が生まれ、社会に混乱をもたらしていきました。
そして、その結果、地球は限界を迎えているのです。

精神世界の探求は、人間が自我を超えることで深まります。
そして、時代は今、そちらの方へと転がり限界を超えようとしているのです。

自我を超えること、自我の超越について、上記のブログでいさどんは語っています。

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「悟る」ということ、「超越」するということは、無になることでも、何かから救済されることでもありません。それは、宇宙の実体の側に立ち、同時にヒトであることにふさわしい思考回路を有している状態になることなのです。

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自分独自の視点を持つと同時に宇宙の側に立つこと。

それが自我を超えるということであり、
その時、自分オリジナルの想いが時代の流れの中で表現され、
満たされていくのです。

そこに不足はありません。
不足がないということは自我の欲もないということです。

そこがこれからの僕の立ち位置。

その立ち位置でみんなの中で自分を高めていきます。

木の花ファミリーのみんな@タイ留学生出発





未知の境地に心を開く


昨日(12月22日)は冬至でした。冬至について地球暦のサイトでは以下のように書かれています。

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地球暦が二十四節気のひとつ「冬至」をお知らせします。

The day when the length of a day becomes shortest.
春分から270度経過した仲冬の半ばの地点です。

“日短きこと至(きわま)る”という意味の「冬至」は、
一年で太陽が出ている時間が最も短い日。つまり、夜が最も長い日です。

“陰極まりて陽に転ず”の一陽来復(いちようらいふく)のときで、
今日から少しずつ太陽の出ている時間が長くなり、
反対側の夏至へ向けて光が増えていきます。
冬至は、古くは生命の終わりを意味し、
新しい命の再生復活のときと考えられていました。

これまでの厄を払い、禊や浄化、大掃除などで清めることで、生活を一新し、
心機一転して新年を迎えるときです。


無病息災を願い、かぼちゃや芋類をはじめとした陽性の食べ物を食べて免疫力を高め、
冬を乗り切りましょう。

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冬至は「古い生命が終わり、新しい命の再生復活の時」です。

そんな冬至を前にして、木の花ファミリーから2つの文章が発信されました。



2013年11月に出会ったカタカムナ
2014年は毎月勉強会を開催し、2015年3月からは研究会を開催してきました。
それを終了するのは、知識欲を満たすのではなく、その精神を実践するということであり、
生活で実践するためのカタカムナの学びを構築していく試みでもあります。

カタカムナを実践するということは、自分の願いを満たすことではありません。

自分のご利益のために学ぶ。
自分の視点で解釈をしていく。

そんな姿勢ではカタカムナの精神を極めることは出来ず、
ただ知識欲を満たすだけになってしまうのです。

カタカムナの精神を極めるために必要なのは、
木の花ファミリーで20年間最も大切にしてきた、
群れで成立するための心磨きです。
心磨きについて上記の文章では以下のように説明しています。

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これは、己の外に出て自らを観察する能力を磨く事であり、誰の側にも立たない、
言わば宇宙視点で自分さえも突き放して観ることができる境地を指すものです。

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このような実践を日々行うことが何よりも大切であり、
その中で新しい学びを構築していくのです。

カタカムナ研究会の終了はその決意の現れでもあります。

そんな決意の下、迎えた冬至ですが、
大人ミーティングではメンバーの未熟さが目立つ結果となっています。

そんな大人ミーティングについて、いさどんは以下のように言いました。

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大人ミーティングには、未知のものに心を開く姿勢が足りないのです。
未知のものの心を開くとは、自分の解釈を超えていくことであり、
その時、無限の世界、無限の可能性が開かれていくのです。
もし、その場に高い視点からの言葉が降りてきたとしても、
自分の解釈の中にいたのでは、それを受け取ることは出来ないのです。

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話しを聴いていて、それは日常の姿勢が現れているのだなと思いました。
日常生活を自分の解釈の下に送っているから、
それがそのまま大人ミーティングに現れているのです。

例えば、僕は昨日、みきちゃんひとみちゃんから
一年に一度の境地」についてのフィードバックを貰いました。
それは「苦しみに焦点が行き過ぎている」
「わざわざ苦しみに行きたがっているように見える」というものでした。

この投稿で僕は「苦しみを超えて、一年に一度の境地にいく」と書いています。
そして、そのことを前向きな態度として捉えていました。
ですが、これは僕の解釈であり、僕の物語なのだと気づきました。

一年に一度の境地。

ということは、それは過去に経験したことがある境地ということです。

なぜ過去に経験してことがある境地を求める必要があるのでしょう?
その態度が、自分を狭い世界、自分の解釈の中に閉じ込めるのです。

あー、あぶない、あぶない(^_^;)

こんなふうに気付かぬうちに自分を自分の中に閉じ込めていくのです。
ですが、群れでの生活がそんな僕を助けてくれるのです(^-^)

そう、なんにせよ、過去の特定の心の状態を求めるのは執着です。
それがどんなに素晴らしいものであったとしてもです。
未来は無限に開かれていて、未知(みち)の道(みち)なのです。

冬至を迎えて。

過去の特定に境地を求める自分は死んで、未知に心を開く自分が復活しました。

未知(みち)の道(みち)を満ち満ちた気持ちで楽しもう!!!!

冬至の朝の太陽です。
12月16日 収穫感謝祭にて
冬至の朝の富士山です。



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