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カタカムナを生きる ~「ズレ」から「スレ」へ~

追い求める人生ではなくいただく人生を生きることを決めている僕ですが、いただく人生とは決して受け身なものではなく、積極的な行動を取ることもあります。どんな時に積極的な行動を取るかと言ったら、それが流れと感じた時。流れとは何かと言ったら、必然性だと思っています。その行動を取ることが必然であること。この必然性とはあらゆる立場を含んで超えた視点からのものです。行動を取ることが必然である時、未知なる未来へ向けて行動し結果をいただいていくのです。

ここ一年ぐらい自分の中に想いが生じた時、必然とは言えない想いは手放して来ましたが、一つ自分の想いを手放すと、その想いの奥に行く感覚があります。自分自身のより深い部分に入っていく感じがするのです。そして思ったことは、自分の思考や感情、情動の奥に本当の自分がいて、その自分は常に全宇宙と響き合っているということです。そして、その自分は宇宙時間を生きているのです。宇宙時間については以下の文章に分かりやすく書かれています。

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かつて、「死」さえも天が統治して導いてくれているということを感謝と共に受け入れていた時代がありました。身体を持った「生」の時間と、身体から離れた「死」という時間を、行ったり来たりすることは、"悠久の宇宙時間"の中に在る魂にとっては何も怖いことではなかったのです。

しかし、「生」にあった時、「出逢った大切な人・時間と共にいつまでも在りたい」という当たり前の欲求によって、"宇宙時間"から自分達のための"人間(物質)時間"への執着が生まれたといいます。

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悠久に流れる宇宙時間、そこから生まれる流れはすべての存在にとって必然性を持つものです。常にそこを意識して生きていこうと思っています。とはいえ生きているということは人間(物質)時間も生きているわけで、その自分の想いと宇宙時間との間にはズレがあるものです。ズレがあるというとネガティブな印象ともなっていくものですが、そのズレこそが世界に彩りと豊かさを与えているのだと思います。自分の想いと宇宙時間という必然性とのズレ。それがそれぞれの人の物語を生み出していきます。ズレを放置し、そのズレが拡大していけば、人生は混乱したものとなりますが、ズレを認識し、そのズレを埋め合わせようと努力することで人は成長していきます。ズレは人を混乱へと導くこともあれば、成長へと導くこともあるのです。

先月、いさどんからカタカムナプレゼンがメンバーに対して行われましたが、プレゼンには以下のような記述があります。

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個々の生命は自らに偏っている。現象界では、偏った現象に出会うことにより、個々が偏りの実態(自らの姿)を学べるようになっている。さらに、偏りから、つながることの大切さ(宿命)を学ぶようになっている。

相反する二つが存在することによって、世界を認識することができ、それが仕組みと成った。=宇宙を生命として活性させ循環させるメカニズム。

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自らの偏り、これはズレと同じことを言っているのだと思います。ちなみにズレをカタカムナで読み解くと以下のようになります。

ス:・・・する。極限までの進行
レ:エネルギーが過剰の状態。九つを超え、限りなく十に近い9.999・・の思念。

「スレ」は、10(統合)直前まで限りなく進行している思念と言えます。統合とはすべてと一つになること、まさに宇宙そのものとなることで、そこに限りなく近づくけれども、そこに至っていない状態が「スレ」です。そして、「スレ」に濁点(余分なもの、個人的なもの)が加わると「ズレ」となっていきます。自らの「ズレ」から濁点(余分なもの)をなくし「スレ」となることで偏りから調和が生まれる豊かな世界が表現出来るのだと思います。

個々の生命は偏りを持つ以上、完全に一つとなることはありません。そして、認識があるのは相反する二つが存在することによります。ということは、統合に至り宇宙そのものとなった時、認識は消滅します。統合(10)は無(0)へと至るのです。ですが、無(0)へ至ったその瞬間に新たな「ヒ」(1)が動き出します。そして再び、ヒフミヨイムナヤコ(1・2・3・4・5・6・7・8・9)と進み、「スレ」を経て統合(10)、宇宙そのものへと至り、無(0)となっていく。そしてまた・・・・というように個々の生命は本来、全宇宙とダイナミックに響きあっているのです。ですが、自我を持つ人間は、「スレ」に濁点がつけ「ズレ」としその動きに停滞を起こします。個人の想いが強まると、「スレ」は「ズレ」となり、統合(10)へとは進まずに分断が生まれ、人間は自我の世界に埋没していくのです。だから僕は自分の生み出す思考や感情、情動の奥を見ていくのです。その先に待っているのは、全宇宙と響き合って進化していく自分です(^-^)






カタカムナを生きる ~自分のヒビキを究める~

僕はずっと叶わない願いを持っていました。その願いが僕を自分の反応パターンを超えていく自己否定へと導いてくれたのです。もし願いが叶っていたら、僕は今でも目の前の出来事に一喜一憂し翻弄されていることでしょう。ここに至る過程では、何度も何度も自分には生きている意味も価値もないと思ったものですが(間違えた自己否定ですね)、今はただ出会う出来事をいただくだけ、そこに意味と価値を見出しています。思惑や感情を超えたところで現実と向き合って生きています。だから僕はカタカムナを生きていると言えるのです。

自己否定の先に環境と響き合って変化し続ける自分がいます。その行きつく先は大宇宙生命のヒビキ、いつもそこに心を向け続けています。

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上記は、「カタカムナを生きる ~自己否定の先にあるもの~」に書いた文章です。ここに出て来る「生きている意味も価値もない」という言葉、これは僕の自我が生み出した言葉ですが、こういう言葉は嘘なのだと思っています。最も、自我は自らを暗示に掛けているような状態なので、嘘をついている自覚はなく、本気でそう思っているのですが、この言葉はやはり嘘なのだと思います。意味も価値もないならば、今、生きているという現実を説明することが出来ません。意味があるからこそ生かされているわけで、そういうことを本当は分かっているのです。当時、自我は思うように行かない現実にぶち当たっていました。思うように行かない現実に苦しみ、落ち込み、駄々っ子になっていたのです。だから、そういう気持ちをアピール出来れば、どんな言葉でも信じ込み、採用していくのです。僕の自我はこのような反応を起こすということです。それを常に見通し続けていこうと思っています。

この世界はヒビキで出来ている。

それがカタカムナが教えてくれる世界の真実です。僕の持つヒビキが出会う現実を生み出していて、そして、その現実に対する反応があらたなヒビキを生み出していきます。思うようにしようとして駄々っ子でもなる自我のヒビキ。そんなヒビキが生み出す現実はいらないから、だから僕は自我を超えていくのです。

とにかく出会う出来事がすべてです。それが自分の今まで生に対する答えであり、それにどう反応するかでこれからの未来が決まっていきます。だから思惑や感情を手放し、出会う出来事をそのままいただいていこうと思っています。

思惑や感情の奥に本当の自分がいて、その自分はこの宇宙と一体で常に響きあっています。自我が生み出すヒビキを超えることで、世界と響き合っている本当の自分のヒビキを生きることが出来ます。それは円が縁を紡ぐこの世界の中で与えられた自分の位置、誰とも比べることが出来ない自分独自のヒビキです。

自分の中には自我を含めていろいろな層があり、それぞれの層が発しているヒビキがあります。自分の意識がどのヒビキとチューニングしているかによって、そのヒビキに相応しい心の状態となって現実を生み出していきます。だから自分の持つヒビキを見通していこうと思っています。そして、この世界に心を開いて、世界とヒビキあっていこうと思っています。

ところで今日から水星が逆行するようです。そのことについて天下泰平ブログ「今年最後の水星逆行」には以下のように書かれています。

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12月のラストの水星逆行期間は、

12
31634分から12231050分まで

124日の満月、1218日の新月、1222日の冬至などのすべての宇宙のイベントも含んで天皇の誕生日に終わります。


個人的にオススメなのは、この12月の水星逆行中の3週間は、これまでのことを振り返るにはぴったりの時期。

2017年を振り返って、どうだったか。あっという間に過ぎ去った1年だったかもしれませんが、このタイミングに見直すと多くの気づきがあると思います。


余裕があれば、これまでの人生を長く深く振り返っても良いタイミングかもしれません。

そして逆行中は、普段うまくいかないこと、挫折したことに再チャレンジするタイミングにも向くといいます。

うまくいかなかったことも振り返り、それまでとは違ったやり方、違った意識状態で取り組むと思わぬ良い結果につながるかもしれません。

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振り返りにぴったりのこの期間。今までの自分が発していたヒビキを見通していこうと思っています。そして、これから自分の持つヒビキを究めていきます。


カタカムナを生きる ~自己否定の先にあるもの~

先月、いさどんから木の花ファミリーのみんなにカタカムナプレゼンが4回に分けて行われました。それを受けて、今思うところを書いておきます。プレゼンの中には以下のような記述がありました。

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原始の脳も神経も持たない単細胞の生物は、外界の物質が我が身にとって有害か有益かを直観して、「有害な物は避け、有益なものは細胞内に取り込む」という働きを営んできた。

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これは単細胞生物が環境と響き合っているからであり、思考や感情を超えたところに「生命カン」というものがあることを表しています。現代の人々は日々、前頭葉を使い思惑を巡らせていますが、カタカムナの実践はその状態を超えて、松果体を震わすことです。そうすることで目の前の現実、環境と響き合って生きていく。そして究極的には、大宇宙生命のヒビキを直接感受していくのです。

環境と響き合って適応、そして進化していく「生命カン」

それは現代人が退化させてきているものです。例えば、よくいさどんの話に出てくるのですが、今の社会では子育て本が沢山出版されています。ですが、他の動物でそのようなものに頼って子育てをしているものはいません。動物たちは、本能的に子どもに必要な関わりを察知しているのです。多くの現代人は、目の前の出来事を感じて動くよりも、頭で正解を求めそれに基づいて行動しようとしています。そのような中で失われている「生命カン」。それを取り戻すことがカタカムナの実践と言えます。

その方法は端的に言って、自己否定にあると思っています。自己否定というと「自分は駄目だ」、「自分は出来ない」などの言葉を連想する人が多いと思いますが、ここで言う自己否定とはそのようなものではありません。善悪や能力のあるなしなど、あらゆる価値判断を超えて自分の反応パターンそのものを超えていくのです。

人は日頃、自我に基づいてこの世界を認識し行動していますが、その状態では今の世界の混乱を超えることは出来ません。人間の自我が今の社会を生み出しました。だから今の社会に適応することは出来ますが、その社会は環境破壊や貧困や飢餓、そして戦争や紛争を生み出しているのです。その先に未来を見通すことは出来ません。だから自我に基づいて思考し、この世界に反応している自分を否定し超えていく必要があるのです。自己否定とはそういうことで、自己否定をした先に、奥に眠っている生命カンが働き本当の意味で自分から自由となれるのです。そのことを今年の7月、僕は以下のように書いています。

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この道は言ってみれば、自己否定の旅だと思っています。それはもっと大きな自分、世界と一つになるための自己否定です。常に否定し続け、それが即、肯定へと変容し続けます。それは自分を手放すことが出来ることへの誇りであり、大いなるものへと自分を委ねる覚悟となります。

この道は山登りに例えられます。山のすそ野は広くどこからも登ることが出来ますが、頂上は一つ。登れば登る程、道は限られていきます。同じように、この道は究めれば究める程、道は狭くなり、今まで良かったことも駄目となり、自らの選択はどんどん限られていきます。

不自由の自由。

一見、不自由に見える心の道ですが、それを進むことが本当の自由への道です。

なんでもいいけど道は一つ。

そんな感じです。

多くの人は自分の想いのままに行動することが自由だと思っています。ですが、思い通りにことが運ぶことはほとんどありません。結果、自らの想いに翻弄され、現実の中で右往左往するのです。平和を求めて争ったり、平和のために核武装したり。人々は自らの想いに翻弄され、それが矛盾に満ちた社会を生み出しているのです。



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この世界は人々の意識の総和となっています。多くの人が自らの想いに翻弄されているからこそ、世界全体も混乱の極みにあるのです。

自己否定をし自分の反応パターンを手放し、ただ出会う出来事と響き合っていく。思考や感情を超えたところで直観に従い行動し生命カンを磨いていく。それがカタカムナの実践であり、みんながそのようになった時、みんなで環境と響き合ってこの世界に美しいハーモニーが生まれてことでしょう。ここで2015年7月にいさどんが語ってくれた言葉を紹介したいと思います。

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常に意識を全体性に持っていく必要があります。あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?それが重要です。個人的願望が全体性と共通していればいいのです。例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、全体性と個人は本来、共通していることなのです。ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



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僕はずっと叶わない願いを持っていました。その願いが僕を自分の反応パターンを超えていく自己否定へと導いてくれたのです。もし願いが叶っていたら、僕は今でも目の前の出来事に一喜一憂し翻弄されていることでしょう。ここに至る過程では、何度も何度も自分には生きている意味も価値もないと思ったものですが(間違えた自己否定ですね)、今はただ出会う出来事をいただくだけ、そこに意味と価値を見出しています。思惑や感情を超えたところで現実と向き合って生きています。だから僕はカタカムナを生きていると言えるのです。

自己否定の先に環境と響き合って変化し続ける自分がいます。その行きつく先は大宇宙生命のヒビキ、いつもそこに心を向け続けています。


カタカムナを生きる ~天が与えた僕の物語~



昨晩、いさどんによるカタカムナプレゼン第4弾が行われました。プレゼンの冒頭で語られたことは、今の人たちは表面上の出来事に反応しているということ。そのため立場が変わればば意見も変わり、一つの出来事に対して様々な見解が生じることとなっているのです。それが現代社会の混乱となって表れています。

カタカムナを学ぶということは、表面上の出来事の奥に流れる法則性を理解するということ。そして、カタカムナを生きるとは、この世界の法則性、天の意志に基づいて生きていくということです。

ヒフミヨイムナヤコト

プレゼンで世界の始まりから語りだすいさどんの言葉に木の花ファミリー憲章世界観「概要」を思い出しました。以下、引用します。

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宇宙の成り立ちや生命の神秘は、いまのところ科学で完全には解き明かされていません。したがって、それは心を通して認識することになります。

現在、過去、未来、そして全宇宙へと、心はどこまでも思いを馳せることが出来ます。

人間が自らの視点を離れ、この世界をありのままに眺めたときに、一つの大きな法則が見えてきます。また五感を超えた感覚、すなわち直観を通して見出すことが出来る宇宙や生命の姿もあります。私たちがこの憲章で語る宇宙や生命は、こうした方法で導き出したものです。

私たちは宇宙に始まりも終わりもないと考えていますが、ある地点を区切り、そこを「始まり」と見なすことも出来ます。現象をありのままに眺めていると、すべての現象が「想い」という種から生まれていることが見えてきます。宇宙も同じです。「はじめに言葉ありき」と聖書にありますが、言葉とは「想い」のことです。「想い」のみが存在している時点。そこを始まりと見なします。

「想い」は圧縮して爆発し、「相反するもの」を生みだしました。磁石の両極のように、相反するものは惹かれ合い、新たな振動を生みだします。それがこの世界を創っています。

相反する存在により、比較が可能となり価値判断が生まれます。光と闇、善と悪、美と醜、大と小などは比べることによって生まれた価値判断です。

この世界で生かされている人間は「自分」という意識、すなわち自我を持ち、自他を区別するようになりました。それによって所有の概念や欠乏感、そして欲が生まれます。そうした欲にもとづいて、人々が自分に都合の良い世界を作ろうとしてきた結果、人々は病み、争い、自然を壊してきたのです。

自我を通して物事を認識する人間は、こうした現象を「問題事」としてとらえます。それを解決しようと目の前の現象を深く見つめた者は、ある事実に気付いていきます。それは、すべての存在が「想い」から創られているということです。

「想い」はあらゆる価値判断を超えた善意と愛、そして調和から成ります。これは自然界から教えてもらえる事実です。自然界では、お互いの存在が生かしあっています。これは利他の精神の顕れです。善意により繋がり、愛が生まれ、愛により絆が生まれ、調和をもたらしているのです。悪、醜、偽、欲、貧など、この世でマイナスの価値を与えられている事柄も、すべてはこの「想い」、善意と愛と調和から生まれています。「想い」に立ち返れば、すべてはひとつなのです。

私たちは目の前の「問題事」を通して、この世界を創っている「想い」を認識する道を与えられています。「想い」を認識した時、人は善意と愛と調和に目覚めます。これは心磨きの道です。より多くの人が心を磨くようになれば、世界は善意と愛と調和で満たされていくでしょう。それが、私たちの生きている世界なのです。


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ここで語られている「想い」の圧縮とは「ヒフミヨイムナヤ」で飽和安定している状態、そして爆発とは「転がり出る」ことです。このようにして相反するものが存在するこの世界が生まれ続けているのです。

すべての存在が「想い」から創られている。この「想い」とは元の「想い」であり、天の意志とも言えます。個々の人間はそこから分かたれ、自分の「想い」を持つようになります。この自分の「想い」が人との差を強調し「問題事」を生み出してきました。ですが、「問題事」の奥を見通せば、元の「想い」へと至り、そこから世界や自分を見通せば、人との差で協調し繋がり合う豊かさを表現出来るようになるのです。

僕が持っている自分の想い。そこには感情や情動、思考などが含まれ、一つの視点、一つの世界を生み出します。それに囚われず、かと言ってそれを否定するわけでもなく、天の視点に立って、それが何を生み出していくのか、そしてどのように変化していくのかを見ていこうと思っています。その変化変容こそが天が与えた僕の物語。人との差で協調し繋がり合う豊かさを表現する物語です(^-^)



カタカムナを生きる ~心を美しくすればいい~

一昨日の晩、大人ミーティングにていさどんによるカタカムナプレゼン第3弾が行われました。この時、「いさどんによるプレゼンを聴く → 何か大事な話を聴く」というように心が動いたのですが、気づかぬうちに受け身の姿勢になっていました。場創りをするという意識が薄れ、そのためか途中で10分ぐらいウトウトしてしまいました。

それで何のためにこの場に参加しているのか?とあらためて自分自身に問うてみました。僕は最初からこのプレゼンを、ブログを書く機会にしようと思っていました。ですが、ただそこで話された内容を知識のように発信してもあまり意味はありません。ここ最近、カタカムナプレゼンをきっかけに2つの記事を書きましたが、どちらもプレゼンの内容よりむしろそれをきっかけとして自分に湧き上がったことを書いています。いさどん自身、プレゼンの際、パワーポイントの内容を語るのではなく、それをきっかけに浮かぶことを自由に語っています。そして、以下のようにも語っています。

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今、何回かに分けてこのプレゼンを行っていますが、終わった時、「結局、こんなことどうでもいいんだよ」と言うことになる。それは今から分かっているのです。大事を共有する過程として、こういうプレゼンを行っていますが、大切なのは、心をきれいにすることです。日々の暮らしを通して、心を美しくし、そして世界を美しくしていく。それが出来れば、知識は大切ではないのです。

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そう、だからプレゼンでいさどんが語っていることを知識として発信してもあまり意味はなく、こういう話で大切なのは揺さぶりとなることです。人は放っておくと自分の思考で凝り固まる傾向があるので、揺さぶりをかけ、常に進化し続ける真実へと人々が目を向けるきっかけとなることが大切なのです。真実は知識として誰かから教わることではなく自分で探求し続けるものです。その際、木の花ファミリーでは語り合うことを大切にしています。

プレゼンの最中、いさどんは何度も日馬富士の話題を取り上げていました。

日馬富士と貴ノ岩との間に起きたことは一つ出来事です。ですが、立場の違いによって様々な異なる見解が語られ、騒ぎが大きくなり収拾がつかなくなっています。一部報道ではモンゴル大統領が安倍首相との面会を希望しているとも報じられています。ただ2人の力士の間で起きたことがここまでの大騒ぎとなっています。これは様々な思惑を持った人たちの言葉をそのまま紹介し注目を集めようとしているマスコミの姿勢から生じています。前頭葉で思惑をぐるぐる回す人間が集まるとこのような混乱へと発展する恐れがあるのです。カタカムナで語られていることは、松果体を震わすことです。そこには思惑はなくただ出会ったことを感知していくことで、直観を磨き、現象そのものを捉えて人それぞれの立場を超えていきます。そうすることで一つの事実に基づいてみんなで認識を共有し気持ちよく生きていくことが出来るのです。

それで話しを戻して場創りです。プレゼンの時間、どのように場創りをしようかと考えました。それで思い浮かんだのが、部屋の前の方に行って、いさどんと同じようにみんなの方を向いてみることでした。そんなふうにして見ると、いさどんの能動的なエネルギーが感じられ、このエネルギーで場に臨むことが大切だよなとあらためて思いました。受け身の姿勢から発せられるエネルギーとは明らかに違うものです。それで、そんなふうに過ごしていると部屋の後ろの方からエネルギーを感じて、そちらを見てみると、しゅうくんが立ち上がって身体を揺すっていました。しゅくんといさどん、そして僕で三角形を作るイメージで部屋にエネルギーの空間をイメージしてみました。その後、みかちゃんが立ち上がりホワイトボードにカタカムナ文字を書き出しました。これで四角形になる。そんなふうにエネルギーの場をイメージして過ごしました。それが場にとってどんな効果があったかは分かりませんが、僕自身は能動的エネルギーでとても元気になっていきました。

話しをしなくても場創りは出来る。そんなことも心掛けたいと思っています。

僕は今、経理の仕事が忙しくなっているので、大人ミーティングに出ないで、帳簿の打ち込みなどをして過ごすことが多くなっています。一人でパソコンの前にいる時間が多くなっているので、自分自身の精神の健全さを保つことに細心の注意を払う必要性を感じています。だから大人ミーティングに出ている時は、最大限に場創りに努め、自分の状態をクリアにしていこうと思いました。

すべてはプロセスの中にあることでよいも悪いもなくて、ただただいただいていくだけなのです。要は自分から離れていられたら、どんなふうに物事が動いてもそこから天の意向を感じ学びを深め未来に活かせていけるのです。

そんなふうに日々楽しんで暮らしています。

11月お誕生日会の様子です。

カタカムナを生きる ~神話は更新される~

カタカムナを生きる ~トキのズレ~」に書いたように、先日、いさどんからメンバーに向けてカタカムナプレゼンがされましたが、楢崎皐月氏がカタカムナの解読をする時、日本の神々の名前が参考になったそうです。

アメノミナカヌシ、クニノトコタチ、イサナキ、イサナミ、アマテラス

これら日本の神々は、カタカムナの単音思念で読み解くと、この宇宙の物理性を表しているのです。その物理性から生まれた物語が神話となっています。そのため、神話を読み解くことはこの世界の法則、この世界の奥に流れている意志を読み解くヒントとなるのです。

先日、いさどんは隠された神さまと言われるセオリツヒメについて以下のように読み解いています。

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ヒメとは女性のことだろう?秘かなメ。メは芽が出る・これから始まるということ。ヒとメはどちらかというと陰を示していて、奥にあって現象化の始まり。セは狭い。オはひとまずおいておいて、リは分離、ツは集う・番う。だから、セオリツとヒメのふたつに分けるとすると、セオリツなのかセヲリツなのか。オなのか、ヲなのか?つまり、オは六方向に拡大・収縮という意味で拡大のこと。しかし、それがヲになると、奥に達して収まるという意味でそぎ落とすということになる。男性が拡散することに対して、どちらかというと女性はそれを仕分けて必要なものを収めるということだから、「セヲリツヒメ」ということになる。でも、ヲはなかなか使われないね。トータルしてみると、エネルギーが集中している狭い道、いわば探究の狭い道(セ)の真理の奥に達して収まり(ヲ)、分離して(リ)、集う(ツ)芽(メ)が秘かに出ている(ヒ)。つまり、奥のほうにあって真理の芽がそこで今構えている状態。だから、セヲリツヒメというのは、今はまだなかなか真理が出てこないけれど、それが準備して待っているということ。この世界にはなかなか出てこないのだけれど、いよいよ出てきたら極めて狭くて奥のほうにある真理が引き出されるということだ。

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セヲリツヒメはアマテラスの伴侶です。アマテラスは古事記では女神として描かれていますが、本来は男神だと言われています。そのことはアマテラスという言霊にも表れています。アマテラスをカタカムナの単音で読み解くと以下のようになります。

宇宙空間の(アマ)正と反が露わになった(テ)場所が(ラ)極限に達する(ス)

これは拡散し分離して行く動きと言え、男性性と言えます。女神であるセヲリツヒメが隠され、そして男神であるアマテラスが女神とされている。それは本来、女性の領域であるところにも男性が浸食していることを表していて、男性が支配的となり分断が極みに達している現代社会の状況を表しています。

セヲリツヒメの復活。それは今生まれつつある神話であり、宇宙の物理性、そして時代の表現です。

話しは変わって。

世界の神話の中にはドラゴンスレイヤーに分類される話が多数存在すると言われています。それはどういうものかというと、財宝を守る龍が存在し、人間がその龍を倒し財宝を持ち帰るというものです。僕はこの神話は「現在の人間の特徴」を表しているのではないと思っています。

今、多くの人は自分の外に障害や悪を見出し、それを克服しようとしています。その姿は神話に登場する龍を退治する人間の姿に重なります。今の人間は、英雄になることに憧れ求めていますが、英雄になるためには克服すべき課題や悪を必要とします。そのため世界に課題や悪はなくならず存在し続けます。加えて、彼が英雄となった結果得るものは財宝という自分の望みとなっています。龍は神聖な生き物です。自分の望みを追い求める結果、神聖なものを失っていく。ドラゴンスレイヤーの神話はそのことも示唆しており、それは人々が自分の望みを追い求めた結果、人との繋がりが希薄となり、地球環境が悪化し続ける今の社会となって表れています。これは時代が生み出した人間の形であり、だからこそ世界各地にドラゴンスレイヤーの神話があったのです。

ですが今、新たな神話が生まれ、それは新たな人間の姿を示唆しています。例えば、「虹の戦士」の話。

地球が病んで動物たちが姿を消しはじめるときまさにそのときみんなを救う虹の戦士たちがあらわれる・・・。

そんなふうにアメリカ・インディアンが信じつづけてきた、最後の再生への物語。これは何かを倒すためではなく救うために立ち上がる人間の姿を示しています。そして望みは自分の幸せではなくみんなの幸せです。

そして日本では、艮の金神、国之常立神(クニノトコタチ)の復活です。地の大神様、地球神である国之常立神は、八百万の神々に対して心の掟を厳しく説いていましたが、そのため神々に煙たがられ、艮の方角に封印されました。その際、天の大神様は国之常立神に以下のように伝えたと言います。


「すまないが、一度この世の表から退いてくだされ。しかし、いつか必ず世が立ち行かなくなる時が来る。その時再び現れ、この世界を立て直してくだされ。」

その国之常立神が復活する神話が今、生まれています。富士浅間木の花祭りはそのことを表現するお祭りであり、それは「艮の金神と翁の問答」に表されています。

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艮の金神と翁の問答              

 
  
伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間 ところは当初の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色(こんじき)の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。

金神  

この方(ほう)は、艮の金神と申す。
時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界(みちよかい)。 汝らの宇宙(うつ)、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢れ(けがれ)逆巻く魔釣りの世。

      

艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう

金神
この方(ほう)は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙(うつ)の天意転換(たてなおし)、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢れ(けがれ)汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢れ(けがれ)混じること、適わぬ(かなわぬ)世となるべきなり。古き仕組みに変わりたる、新たな仕組み始まれり。
縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯 済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換(たてなおし)、汝らご用に使うてやる。


一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出る(いでる)と申されるか

金神  

いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人(かみびと)、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。
故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。
神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球(くに)の日月の神々じゃ。
一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹にまことを据えるのじゃ。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。

      

引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。

金神  

一度は渡したその榊。天の元に供えられい

(金神は後ろを向く。翁が榊の枝を金神の腰に差して退場する。
金神、根付きの榊に持ち替えて、四方でへんべいを踏んだ後、神座に戻る)

皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、嬉し嬉し、愉し愉しの世となりて、真(まこと)の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真(まこと)次々現れくるぞ。
あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。
オー、オー、ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト オー。
真(まこと)の神が現れる。神人(かみびと)共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。
真(まこと)の真釣り(まつり)始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。



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虹の戦士も艮の金神の復活も世のため人のために生きる人の姿を示しています。これらは時代が今、生み出している神話であり、この世界の奥にある意志の顕れです。これらの神話が世に広がり、それを生きるものが増えて行った時、世界は自ずから変化していきます。僕ら木の花ファミリーはその先駆けとしてみんなで助け合い学び合う暮らしをしています。それは新たな神話という時代の意志を受けた世直しであり、生きることがそのまま世直しになる暮らしです。





カタカムナを生きる ~トキのズレ~

トキのズレ


11月18日20時43分は蠍座新月です。木星が蠍座にある今、その蠍座での新月ということでとても幸運な星回りと言われています。ならば、ブログのUPもそれに合わせようかという心も働くのですが、そういう意図はいらないなと思いました。欲の心が働くので。

天体のリズムが大きな流れであることは間違えありません。ですが流れは単層ではなく多層的になっていて、そこには「トキのズレ」が存在するのではないかと思うのです。例えば、新月は新しい何かを始めたり、宣言をするのに適した時と言われていますが、すべての人間のリズムがそれと一致しているわけではなく、多少の「トキのズレ」を含みながら、そのズレが立体的な動きを生み出して、シンフォニーとなりこの世界を豊かにしているのではないかと思うのです。

だから頭で知った新月という情報に合わせて書くのではなく、湧いて来た時にそのまま言葉を紡いでいけばいいのです。それが僕のリズムです。天体のリズムに完全に一致することもあれば、ズレる時もある。一致すれば大きな流れの支援を受け、ズレたらズレたで、それは「トキのズレ」としてこの世界に奥行をもたらしていくのです。なんにせよ、僕はこの世界の多層の流れの一部であり、「トキのズレ」が大きな流れとの間で美しいハーモニーを奏でるように心掛けようと思っています。

ヒフミヨイムナヤコト(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10)

カタカムナが伝えるこの世界の宇宙法則は至るところに多層的に存在しているのです。カタカムナは13,000年前に存在したと言われる文明ですが、カタカムナの人々は、現象界の奥にあって、現象界を支える潜象界の存在を直観のよって感知していました。そして、この世界が48音の響きによって出来ていることを感知し、八鏡文字を用い、宇宙の創造、発展、消滅について体系づけました。木の花ファミリーは2013年にカタカムナに出会い、生活に取り入れて来ましたが、先日、あらためていさどんからみんなにプレゼンをする時間が持たれました。

カタカムナプレゼンはこんな言葉で始まりました。

~ 因果応報の奥にある天の意志 客観背後を学ぶ ~

人はみな、目の前の出来事にその人独自の反応をしています。その反応が新たな「因」となり結果を生み、その結果に対する反応がまた「因」となり・・・という形で繰り返されていきます。プレゼンの際は、株価の上昇が例として挙げられましたが、投資家はそのニュースを喜びますが、株を購入しない人々にとってはどうでもよいことです。そして、もっと長いスパンの流れを見る人ならば、経済成長による地球環境の悪化が見えてきます。どんな反応をするかであらたに生まれる結果が変わっていきます。自我の赴くままに反応していると状況に翻弄されますが、因果応報の奥を見通すことでこの世界の本質が見えてきます。

大切なのは本質に基づき生きることでそのためには自我を超えていく必要があります。自我を超えることで因果応報の奥を見通す目を育み、天の意志を感じるようになっていきます。その時大切なのは知識ではなく感じる力です。このプレゼンは、りゅうしろうくんが知意行一体を深めたいと言ったことがきっかけとなり行われたのですが、知意行の「知」、これは思考的能力ではなく、感じる力なのです。直観で何が大切かを感じる力。それが知意行の「知」ですべての基盤となるのです。

そんな感じで。カタカムナの知識を得ようとするのではなくその前提となる世界観を確認することから始まったプレゼン。プレゼンを聴きながら思ったことがあるのですが、そのことはまた稿を改めて書こうと思います。

「トキのズレ」が多層になって因果応報の海となっているのがこの現象世界です。この文章は最初に書こうと思ったことではないけれども書こうとしたら浮かんできた言葉です。その言葉をそのまま少しずつ書いていたらUPするタイミングは結局、11月18日となりました。時間まで見ると、まだ新月にはなっていませんが・・・そのズレを意識し生きていこうと思います。




世界のみんなと悟りを共有する

宇宙創成のプロセスは、「ヒ・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナ・ヤ・コ・ト」という数理で表すことができる。その始まりである「ヒ」から最終の「ト」までのプロセスを理解し、それらを統合して成り立つ存在が、ヒトだ。それが時代人(じだいびと)であり、時代主義(Eraism=エライズム)を生きる存在だよ。

~ 中略 ~


ヒトというのは、人間という地球上で物理的に進化してきたもののことではないんだよ。それは、物理的に進化してきたものが最終的に到達する目的地点であり、宇宙にはもともとヒトという意識レベルの存在があったはずだ。なぜなら、ヒトとは宇宙の仕組みをマスターした存在を言うのだから。
ついつい人間たちは、ヒトのことを人間と勘違いする。人間とヒトでは、定義が違う。ヒトは形ではない。宇宙の法を理解し、マスターした存在をヒトと言うのであり、それは目覚めということでもある。


~ 中略 ~


宇宙は奇跡の連続だ。なぜなら、もともと人間の思考のキャパを超えたところで成り立っているのだから。だから宇宙を生きるという意識レベルを考えるのならば、科学や理屈を超えたところでものごとを受け取る器を持つことが必要だ。そうでなければ、真実は観えてこない。それには、人間壊しをすることだ。人間を壊して、ヒトとして存在する。それがヒトイズムだ。




☆彡 ☆彡 ☆彡

上記のように語るいさどんですが、人間については、「ヒト」の間(アイダ)の存在とも語ります。「ヒ」から「ト」へと至っていないということです。そして人間は、紙と文字の発明によって二元的思考(平面的思考)をするようになったと語り、平面的思考についてはこんなふうに説明しています。

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3次元世界に暮らしながらも人間は物事を2元的に観ている。それは、出会うこととそれに対する自分の反応で物事を見ているから。それで平面的になっていく。だけれども、その奥にはこの世界を動かしている意志がある。出会うこととそれに対する自分の反応、そしてその奥にある意志。それらすべてを意識した時、この世界を立体的に観ることが出来る。

出会うことに反応することで人は一喜一憂する。それが人間で一喜一憂しなければ生きている意味がない。一喜一憂しながらも、出来事の奥にある意志を感じて、一喜一憂している自分を離れて観る。そして流れをいただいていく。それが生きていることの醍醐味で、人生に翻弄されずに楽しむことが出来るようになる。
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出会う出来事に平面的に反応する人間。そんな人間の特徴を受けて、今年の1月、僕は以下のように書きました。

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出会うことに反応する人間。その時、人は出会う出来事を固定して捉えています。

紙や文字が発明されることにより人は記録を取ることが出来るようになりました。一つの形にして残しておく。書かれた言葉は変化せずに残り続けます。それは変化を本質とするこの宇宙の法則からしたら異質なことなのだと思います。

固定された記録。それが人に囚われをもたらし、一喜一憂することになります。ですが、この世界で出会うことはすべてプロセスの中にあり、本来、固定はされずに流れ続けていくのです。出来事の奥にある意志を感じた時、その流れが見え、自分を固定から解放することが出来ます。

出会う出来事の奥を探求する」より


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物事の表面だけを見ていると、出来事は現在だけに固定され、そして違いが際立ちます。例えば、「ヒト」と人間についてのいさどんの言葉ですが、「定義が違う」と語ったり、「ヒトの間が人間」と語ったりしています。表面だけ見ているとそこに違いを感じるかもしれませんが、その奥を見ていくと、同じこと、共通した想い、「ヒト」へと至る大切さを語っていることが見えてきます。

今、この瞬間の出来事の奥には、過去から未来へと続く宇宙の流れが存在しています。「ヒト」となり宇宙の法を理解し、物事を立体的に捉えるようになった時、すべての出来事が一つの流れに集約されていくのです。そこでは善悪の違いや他者との対立はすべて解消されていきます。

善の中に悪があり、悪の中に善があります。善悪は自我(エゴ)の生み出す偏りであり、行き過ぎたエゴが善と悪という一対を生み出し対立していくことになります。

ミサイル発射、核実験などで国際的に非難されている北朝鮮ですが、北朝鮮からすれば、それは自衛の手段であり、アメリカをはじめとする核保有国の脅威を感じていることでしょう。テロリストであるISは様々な残虐行為を行っていますが、それを生み出したのはアメリカによるイラク進攻であり、もっと遡ればイギリスによる中東への侵略へと至ります。

各国のエゴが自国の利益を追求し、それが善悪という一対を生み出し争いへと発展しているのが現代社会であり、物事の奥を見れば、すべての人間に共通するエゴが見えてくるのです。だからこそ、今大切なのは、人間一人ひとりがエゴを超え、「ヒト」へと目覚めていくことなのです。それが宇宙の流れが示すメッセージであり、僕は心を磨き、木の花ファミリーのみんなとそんな暮らしを生み出していきます。

文字は世界に固定を生み出し、そして平面的思考へと誘います。それでも書き続けるのは、文字には広がっていく力もあるからです。そして、人は文字という固定したものをきっかけに、その奥を感じることも出来ます。行間に心を込め、そしてそれを感じあって、また新たな言葉を生み出していく。すべてをプロセスの中で立体的に捕らえていけば、文字だって「ヒト」へと至るにきっかけとなるのです。

世界のみんなと悟りを共有する。

そんなことを夢見て、僕は書き続けていこうと思っています(^-^)

富士浅間木の花祭りに登場する榊鬼、心磨きの象徴とも言えます。


突破口は気づきにある

ともこ:
だから、「これじゃあいけない、なんとかしよう」の延長線上に突破口はないんだね。

ない。それはない。

くわっち:
「活かす」という視点だということ?

いさどん:
違うよ。「気付く」という視点だよ。


カタカムナによると、宇宙は、八つで飽和安定だね。八鏡文字で言えば、円があってそこに宇宙最極小微粒子の「カ」が集まっていって、そして「ヒフミヨイムナヤコト(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10)」とエネルギーが集まることによって現象化して、この世界ができる。「コ」で転がり出て「ト」で統合する、その現象化の前の「ヤ」、つまり八の状態は、とても安定した状態だよね。そうすると、そこでは現象化は起きないんだよ。だからそれをわざわざ九まで進めた。八の飽和安定はそのまま止まっている状態だけど、九まで行くと、常に変化変容を繰り返すということ。それは地球の実体であり、宇宙の実体でしょう。飽和安定した世界も、そこを超えると、現象化ができて、それが宇宙の実体なんだよ。
宇宙というのは、本来はないもの。飽和安定の先に、「ある」ということを認識するために九を創ったのだから、その前の飽和安定の状態では「ない」んだよ。だから「ない世界」なんだよ。何もないんだから。

だけど、「アマ」というのは「ある世界」の元を創った。その「ある世界」ができたことによって、この世界はもともと「ない世界」だったけれど今は「ある」んだな、ということが理解できる。そこでトキとトコロが統合して、悟りになるんだよ。統合とは、理解なんだよ。だからさっきの話でも、「そうか、こういうふうになっているんだ」と理解したところで終わるんだよ。それが悟りだ。


くわっち:
じゃあ普段のことでも、気付くことで ―――

いさどん:
進んでいくんだよ。だけど自分の言っていることがどういうことなのかにも気付いていないでしょう?それは宇宙から外れているということだよ。でも気付かないのも、そういう人だということで、放っておけばいいんだよ。そうして気付かない状態を積み重ねていくと、10が限界であるとしたら、1で気付くのか2で気付くのか、はたまた気付かないまま10まで行ってとんでもない現象を起こして気付くのか。それを、10にならなければわからない者に1の段階で気付けと言ってもわからないのだから、放っておけばいい。

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上記はいさどんが9月に大町ビレッジを訪問した際にみんなと交わした会話です。

突破口は気づきにある。

それを意識し生活することが大切だと思っています。

多くの人は現状に問題を感じた時、その分析をします。その分析の奥には「こうあって欲しい」というイメージがあって、そのためには「こうする必要がある」と訴えることになります。それは自分の想いを実現しようとする姿勢であり、自分の視点に対する理解を周りに求めることになります。この姿勢のまま「これではいけない、なんとかしよう」と一生懸命になっても突破口を開くことは出来ないのでしょう。

我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。

気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。

先に紹介した話に続けて、いさどんは「生きていれば、変遷を見ていくことが出来る。変遷を見るということは、客観的視点で見るということであり、それが悟りだ」ということを言っています。

変化変容がこの世界の法則です。宇宙は常に新しいところへと進み、季節は巡り巡ります。囚われを外せば、すべてのものは自ずから変化していきます。自分のことも他者のことも世界のことも客観的視点に立って、その変遷を見ていく。人は兎角、今の状態に反応し判断しがちですが、そういう反応を置いておいて、奥にある流れを感じていく。その姿勢が人にゆとりと余裕を与え、その波動はきっと希望となって世界に広がっていきます。

突破口は気づきにある。

それを意識し生活する時、今この場に桃源郷、ロータスランドが誕生することでしょう。

カフェ&ショップ・ロータスランド外壁のです。



10次産業を実現している場所

木の花ファミリーの経済について説明している時、いさどんはこんなふうに語りました。

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うちの経済は本当に面白いよ。NPO法人や農事組合法人、合同会社などがあって当然それぞれが独立した帳簿を持っているんだけれども、その奥には生活共同体木の花ファミリーがあって、生活共同体がすべての組織の運営をしているんだよ。だからどこにお金があってもみんなにとっては同じ。みんなのために使われている。それで6次産業化も完全に実現している。いや、6次どころではないな、1次+2次+3次で6次産業、うちはそれに4次も加わるから10次産業だよ。「4」は「死」。生きるものが行きつくところ。つまり究極。そして、「10」はカタカムナで言えば、統合。1+2+3+4=10、ヒフミヨイムナヤコト、「ヒト」を生み出す暮らしを木の花はしているんだよ。

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聴いていて面白いなと思いました。そしてネットで10次産業という言葉を調べたら、いくつかの記事にヒットしました。10次産業、使われ始めている言葉なのですね。

その一つがYahooニュース「農業・漁業の再生は第10次産業化の発想で!〜知的コーディネート力がカギ」ですが、そこにはこんなふうに記載されています。

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4次産業が1次、2次、3次産業を新発想でコーディネートすることが重要だ。足し算すると第10次産業。まさに大学などの研究機関が起点となって、産学連携をダイナミックに進めるということだ。これは本気で行うなら価値がある。どれだけ本気になってできるか、にかかっている。大学や研究所、学会が起点となって、様々な分野の連携を促しながら、新たな展開をすることができるなら、まだまだ、日本の社会が伸びていく余地はある。

日本の社会は蛸壺化してしまった。横断的な繋がりや発想が出にくい社会になったのだ。

 ~ 中略 ~



第10次産業化が閉塞した日本の起爆剤になる。第10次産業によって何ができるか、何が生まれるか。日本の新たな挑戦だ。

☆彡 ☆彡 ☆彡

4次産業とは情報産業や医療産業、教育サービス産業など知的集約産業に対して使われるようになってきている言葉ですが、上記の記事では4次産業が持つコーディネート力に注目して、そこに6次産業成功の鍵があると述べられています。

現在、多くの6次産業の取り組みが失敗に終わっているようです。そんな中、木の花ファミリーでは特別な努力なしに6次産業が実現しています。それは木の花ファミリーの産業は、生きることそのものであり、そこにはすべての取り組みが含まれているからでしょう。そのため、それは経済的成功だけではなく、生活の充実、人格の向上、人生の意味の探求など様々なものをもたらすのです。そして最終的には僕らは「ヒト」となります。「ヒト」とは何か?いさどんはこんなふうに語ります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

ヒトというのは、人間という地球上で物理的に進化してきたもののことではないんだよ。それは、物理的に進化してきたものが最終的に到達する目的地点であり、宇宙にはもともとヒトという意識レベルの存在があったはずだ。なぜなら、ヒトとは宇宙の仕組みをマスターした存在を言うのだから。
ついつい人間たちは、ヒトのことを人間と勘違いする。人間とヒトでは、定義が違う。ヒトは形ではない。宇宙の法を理解し、マスターした存在をヒトと言うのであり、それは目覚めということでもある。

 ~ 中略 ~

人間は何か滞りに出会うと、それを不愉快なものだと捉え、滞りを避けようとする。しかし滞りを乗り越えた時、そこでは必ず一回り進化した新たな世界に出会う。つまり滞りとはとても大切なものであり、我々にはその滞りの正体を見極めるだけの余裕が必要なんだよ。

 ~ 中略 ~

この世界は人間の理屈を超えたところで成り立っている。だから科学や理屈で考えて納得できるところを超えた時に、奇跡が起きるんだよ。

宇宙は奇跡の連続だ。なぜなら、もともと人間の思考のキャパを超えたところで成り立っているのだから。だから宇宙を生きるという意識レベルを考えるのならば、科学や理屈を超えたところでものごとを受け取る器を持つことが必要だ。そうでなければ、真実は観えてこない。それには、人間壊しをすることだ。人間を壊して、ヒトとして存在する。それがヒトイズムだ。


☆彡 ☆彡 ☆彡

人間として生きていると様々な滞りに出会います。その時、人間としての自分の思考を超えて、余裕を持ってそれを受け取り、そこから学んでいく。そうすることで新たな自分と出会います。それは絶えず続く人間壊しであり、それが「ヒト」への道です。そして、そこを歩むことが生きる本来の目的です。

今、社会は細分化され、産業も1次、2次、3次、4次と分かれています。そして人々の関心は経済的なものに特化し、マスコミは消費を煽り、政府は経済成長を求め続けています。そのような中、社会的分断や対立、環境破壊が進んでいます。これは人類が出会っている大きな滞りです。

大切なのはこの滞りを余裕を持って受け止め、大きな視点から見つめることです。

先に紹介した記事にもある通り、今の社会は蛸壺化することで人々から繋がりを奪っています。そして産業は生活から切り離され、細分化されています。その状況から非効率や無駄、孤立が生まれ、それが滞りを生み出し続けているのです。そこには滞りから学ぶ人間壊しはありません。

木の花ファミリーにとって産業とは生きることそのものであり、そこにはこの世界のすべてが含まれます。宇宙に想いを馳せ、季節の移り変わりと共に作物を育て、恵みをいただき、みんなで喜びを分かち合います。それがそのまま経済活動ともなっています。すると失敗事例が多い6次産業化の取り組みが努力なしに実現していきます。

それはなぜか?

きっとすべてが繋がり無駄なく生かされているからです。もちろん、その暮らしの中にも滞りはありますが、僕らはそれを人間(=自分)壊しの機会とし、「ヒト」への歩みを進めるように努めています。

今、人間社会に求められていることは様々な繋がりを取り戻すことであり、その過程で人間(=自分)を壊し、「ヒト」への道を歩むことです。その時、社会の産業は至るところで繋がりたくさんの10次産業が現れることでしょう。

そんな未来の先駆けとして暮らしていこうと思っています(^-^)

ジャガイモ一斉収穫の時の写真です。

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