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結果を手放すことで心は変化する

心が変わればすべてが変わる


心が変わればすべてが変わる。

木の花ファミリーではよくそんな言葉が使われています。農業革命、医療革命経済革命と様々な革命を発信していますが、それらはすべて精神革命であり心が変わることの大切さを伝えています。

ところで現代科学の世界では「心が物質を生み出している」という推察も生まれています。例えば、「自らの意志で時代を表現する」でも紹介している記事では以下のような記述があります。

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量子論の世界では、最も基本的な思考原理である矛盾律(AがB、かつ非Bであることはない)が通用しない状態である「量子の重ね合わせ」が長らく世界中の科学者を悩ませてきた。「二重スリット実験」では、2つのスリット(細長い穴)を通った電子が壁に衝突して作る痕跡をもとに電子が波なのか粒子なのか確定されるはずだったが、観察者がいない場合、電子は“波”の性質に見られる干渉縞を作り、観察者がいる場合、“粒子”に見られる痕跡を残すという “非科学的な”事態が生じたことで大問題となる。

つまり、電子は「波であり、波じゃない」、「粒子であり、粒子じゃない」という矛盾する性質を抱えていることが判明したのだ。

ここで問題となるのは何より「観察者」の存在だ。物理的世界に直接の影響力を持ちそうもない「観察」という“意識的な”行為が、どういうわけか量子レベルでは大きな影響力を持ってしまっているのである。このことを量子論の生みの親であるマックス・プランクは、「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と驚きを持って受け入れ、ノーベル物理学者を受賞した理論物理学者ユージン・ウィグナーも「意識に言及することなしに、量子論の法則を定式化することは不可能だった」と語っている。


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観察者の意識(心)が量子レベルで影響を及ぼしていることが分かってきました。それは心が現実世界に対して持つ影響力の大きさを示唆しています。そして、その動きは人間の理解を超えたものであり、人間の思考では矛盾したものにも映るのです。


真の変化は人間の意図を超えたもの


心が変わればすべてが変わる。

この言葉は多くの人に希望を与えますが、その言葉にご利益や救いを求めるようだと結局変わらないことになります。例えば、病気を治すために心を変える。今の状況が嫌だから心を変える。そんなふうに思ったとします。ですが、もしそこに自分都合の現実を求める心があれば、その心に相応しい出来事が起こり続けます。

自分都合で思惑を持って変わろうとした時、表面的な行動の変化を起こすことは出来ます。それは日常に何らかの違いをもたらすのかもしれません。ですが、その違いが変化に繋がり長続きすることはあまりありません。なぜなら、自分都合で現実を求める心が変わらずあり続けるからです。奥の心がその人の本質で、天はその人の本質に相応しい出来事を与え続けます。

変化変容がこの世界の法則ですべてのものは変化し続けます。ですが、天は人に自我を与え、自我は天の法則から離れる自由を与えられました。自我は自分だけの想像の世界を生み出し、それを持ち続けることが出来るのです。そこから自分都合の思惑が生まれるのですが、それは法則と離れたところにあり、物事の流れが滞ることになるのです。多くの問題ごとは人が持つ自分都合の思惑から発生しています。

この世界の法則は変化変容にあります。地球や太陽系は宇宙空間を常に新しいところへと動き続け、それに合わせて自然は変化し続けています。自然界の存在としての人間は同じ法則の元、変化し続けています。赤ちゃんとして生まれた人間は必ず老い死を迎えるのです。本来、心も同じように変わり続けるものなのです。そして、それに合わせて出会う出来事も変化し続けるのです。それはこの宇宙の大いなる法則と共にあるということです。

ですが今、多くの人が自分都合の思惑を持ち、その思惑が自然に生まれる心の変化を阻害し、対立や分離へと至っています。そして、その状況に対して思惑を持って改善しようとしています。ですが思惑に思惑が積み重なり、心は変わらず、状況が改善することはありません。今、多くの人の心は真の変化を拒んでいるのです。

天の法則に基づく変化変容。それは人間の意図や想像を超えたもので、未来は常に分からないものです。思惑を持ち、なんらかの結果を求める人たちはその事実に不安となるものです。そして目の前の出来事に囚われいきます。結果に執着することで心が固まり滞りが続いていく、つまり特定の結果を求めることで変化を拒むことになるのです。

今、多くの人が思惑を持つことで変化を拒んでいます。ですが、時代は人間の意図を超えて変化し続けます。イギリスのEU離脱やアメリカのトランプ大統領誕生は人々の思惑を超えた出来事です。どんなに拒んでも時代は人々に変化を求め続けます。それが今、様々なところに表れてきています。

時代は今、変化の波を起こしています。その波を楽しむのも溺れるのもその人次第です。

何が起こるか分からない。

その事実は時に人を臆病にしますが、銀河の夜明けを経て時代は光の方へと進んでいます。思惑を超えて流れに委ねていけば日常からダイナミックな人生を楽しむことが出来るのです。2月19日から開催される一ヶ月間の真学校は受講生をそんな生き方へと導きます。興味がある方は2017年開催概要をご覧ください。木の花ファミリーで会いましょう。


2016年1ヶ月間の真学校の様子です。





だからひっくり返ることが大切!!!

調べものをするために昔のメールを探していたら、2013年9月にいさどんと交わした会話に出会いました。面白い内容だったので、ここに掲載しますね。

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いさどん:

人は思考をめぐらすでしょ。思考を巡らして答えを得ようとする。僕は思考を上から持ってくる。目の前の相手に合わせて思考が下りてくるんだよね。例えば精神性を求めている相手には、そういう話が下りてくるし、あんたと話していると哲学的な話になってくる。それは前もって学んだものを話すという感じではなくて、常にその場その場に下りてくる。知恵を上から持ってきて、僕もそれを一緒に聴いていて、なるほどな~と思っている。

なかのん:

質問があるんだけれども、自分らしく生きていることと自己主張をしていることの境界ってどこにあるのかな?

いさどん:

自己主張は主張でしょ?誰かに何かを主張している。分かって欲しいと求める対象がいる。自分らしく生きることには対象はない。ただただ淡々と生きているだけ。自分らしく生きている姿は美しく気持ちがいいけれども、自己主張は気持ちよくない。正直に生きていても、それが自己主張になってしまっている人がいる。それはアピールして人に分かって欲しいと求める気持があるため。そういう人は気持ちよくない。世界と自分、両方から離れて眺め、自己主張を超えていく必要がある。

なかのん:

何かを分かって欲しい気持ちがあるか?それが一つのチェックポイントになるんだろうね。僕は、自己主張はいろいろなところに入り込むって常々思っているんだ。例えば、一生懸命に働くことの中にも自己主張は入り込む余地がある。「俺はこれだけ仕事をしているんだぞー」みたいに。

いさどん:それは誰にアピールしているの?

なかのん:みんなかな・・・

いさどん:その時はみんなと自分を分けているんだよ。

なかのん:そうか・・・アピールするってことは分けているってことか・・・

いさどん:

そうだね。僕なんかそんな感じはまったくないよ。僕が淡々と仕事をすることは木の花全体の仕事を進めることで、全体に仕事が進むのは良いことだしね。

仕事に関しては、こんなことがあったんだ。今、家を建てているでしょ。その家の壁の漆喰塗りを進めようと思っていて、特に僕の部屋の部分は自分でしたいと思っていた。僕が一番丁寧に出来るし、これからずっと眺めるものだから。でも、普段から養蜂や面談などで忙しく、加えて、蜜蜂がスズメバチに襲われるなんていう突発的に事故が入ったりして、なかなか取り掛かることが出来なかった。そこでまっちゃんりょうちんが仕事を進めることになった。まあこれも流れかなと思っていた。これには良い面もあって、もし僕が漆喰塗りに取り掛かったら、僕が主となってやることになり、まっちゃんやりょうちんには従属する気持ちが生まれてしまう。でも、僕が取り掛かれなかったことで、2人とも主体性を持って伸び伸びと仕事に取り組んでいた。加えて、2人は僕の部屋の部分は後に取っておいてくれたので、時間が出来て僕が塗ることが出来た。僕は漆喰塗りを手放した。手放したらより良い形で僕がやる流れが来た。これは覚悟が出来ているから生まれる流れ。覚悟とは執着のない心。捕らわれない心。潔い心。覚悟が出来ていると、自分がやるべきことと手放すことの冷静な判断が出来て、結果良い流れを生み出す。

人間だから僕も人間的意識で物事を体験し捉える。と同時に上の意識でも物事を捉えている。日常生活の奥には現象を生み出すバイパスがあって、そこから物事を眺めているとすべての出来後が繋がってくる。この世界は一つだから現象の元を辿りバイパスに至ればすべての出来事が繋がっている。一人一人に相応しい現象が生まれるこの世界。生きてそれを味わい自分を知りあらためていく。それは一人一人オリジナルな体験で、いつでもどこでも出来る実践。お金も掛からなければ、誰かに頼る必要もない。日常の現象からただただ自分を知って改善していく。それは最も正攻法で手法もいらない、人生オール心磨きの実践と言える。

なかのん:

日常を眺める視点を頂いたように思える。背景に流れる意図を感じ、そこから眺める。そうすると一本の糸のようにすべての現象が繋がっていくように思えた。その視点を共有したい。

いさどん:


その視点をみんなで共有しようというのが、僕がずっと言ってきたこと。視点の位置は同じでも、みんなが僕の真似をするわけではない。それぞれの個性の応じた景色が見えてくる。独自の視点から流れを捉えることが出来る。それをみんなで共有することでこの場所はもっと豊かな場になっていく。これは現象を味わう身体を頂きながら、現象の作り手の位置へいこうとする道。人間でありながら、人間を超えていく道。

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アピールするということは自分とその対象を分けているというのはまさにその通りだなと思いました。元を辿ればこの世界と自分は一つ。ならば、出会うことはすべて自分自身です。それなのに、人は現象を選り好みし、特定のものを強く求めたり、拒絶したりしています。それは自分自身を選り好みしている状態で、その状態では本当の自分を生きることが出来ません。出会うことをそのままいただいていく。そしてそれを学びにしていく。その姿勢が人を本当の自分にしていくのです。そこにアピールは必要ありません。

僕はこの会話で「日常生活の奥に流れる一本の糸(意図)」という視点を貰いました。ですが、その後の自分を思い返すと目の前の現象に右往左往している状態でした。それは当時の僕が自分の感情に囚われ、自分の思惑で生きていたからで、結局、自分の感情や視点を超えられなければ、知識でそれを知っても奥に流れる意図に至ることはないのです。

当時の僕は自分の視点で世界や日常を眺めていました。そして世界を改善しようと思っていました。これは良いことをしているようでも、やっていることは広い世界を自分の狭い枠に閉じ込めていただけなのです。違う視点を持つ人にとっては、世界は全く違うものとなります。だからその先にあるのは対立や分断、今の世界の現状です。自分の視点なんでそんなものなのです。

今の僕は世界や日常から自分を眺めています。そして、自分を知り、自分をあらためています。それは常に変化し続けるということであり、自分が変われば、出会う世界が変わります。その変化は自分の意図や思惑を超えたもので、意図して世界を変えるのではなく世界はおのずと変わっていくのです。こんなふうに生きていると日常の奥に流れる意図が感じられます。世界と自分が一つだと実感出来るのです。

僕から世界を眺める視点から世界から僕を眺める視点へ。立脚点のひっくり返しです。

これからきっとひっくり返しによって世界は一つになっていきます。そんな世界の流れを感じ楽しく生きていこうと思っている人にお勧めの講座が2月19日(日)から3月18日(土)に掛けて開催される1ヶ月間の真学校です。昨日、木の花ファミリーブログ100人でお財布ひとつの暮らし~心でつながる「経済革命」がアップされましたが、こんな学びが目白押しです。

分離と競争の社会から「分かち合い」の社会へ



2016年1ヶ月間の真学校受講生です。



僕はひっくり返った。

昨日は立春でした。立春について杉山開知くんは以下のように書いています。

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春のはじまりであると同時に、春夏秋冬の「四季 Season」のはじまりでもあります。もともと節分は立春・立夏・立秋・立冬のそれぞれ前日で、四季の分かれ目を意味する日でした。なかでも立春の前日は春夏秋冬の終わりとなる特別な日であるため、1年の最後に邪気を払い、願掛けをする行事が盛大に行われ、年4回の節分は薄れて、次第に立春前日を節分とするようになったようです。

立春前後のこの時期は、旧暦を使っていた明治以前は、特に新年という感覚が強く、数え年でみながいっせいに誕生日を迎えて祝っていたため、節分が年の節目として大きな意味を持っていました。


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節分で邪気を払い、立春正月を迎えました。節分で払った邪気については「鬼は内、すると心がきれいになって福が来る(2017)」に書きました。一言で言えば、それは「立脚点のひっくり返し」です。

世界を自分の狭い想いに閉じ込めるのではなく、自分を世界に対して開いていく。
自分の想いから世界を体験するのではなく、世界の法則から自分を体験していく。

立脚点を僕から世界へと転換させる。僕はひっくり返りました。

ところで2月19日(日)から3月18日(土)に掛けて木の花ファミリーでは1ヶ月間の真学校が開催されます。今年で3年目を迎えるこの講座の特徴は、これからひっくり返るこの世界を読み解き受講生が自ら変化していくところにあります。昨年の1月、いさどんは真学校について以下のように語っています。



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みんな自分が世直しを託されているとは思っていません。
だけれども、みんな間違えなくこの宇宙の法則の中で生きていて、
人類の70億分の1、この世界を託されているのです。

人は育っていく過程で欲求し、欲求を満たしながら成長していきます。
健全な秩序の中で欲求を満たしていく人もいれば、
秩序なく際限なく欲求を満たし求め続ける人もいます。
そういう経験の中で自分という人間性が出来てきます。

その中で、それぞれが自分の成り立ちを振り返って見ると、
それが宇宙の歴史や地球の成り立ちと一緒だということが見えてきます。
この世界は全部相似形なのです。

小さなところの集合が大きなところを創りだし、
大きなところの法則が小さなところに指針を与えています。

13,000年前のカタカムナの時代。
厳しい自然の中、人類は天然の法則を感知してすり抜けてきました。
ですが、その感覚は時代と共に失われてきました。
その叡智が天とつながることで現代に蘇るのです。

カタカムナの生き方を現代に表現していく。
それは、科学が発展したところに天然の精神を加えることです。
これはまさに新しい時代の生き方で、
木の花ファミリーはそれを表現していくのです。

2012年12月21日。太陽系は銀河の冬至を迎えました。
これからは少しずつ明るくなっていきます。
宇宙的には明るくなる現象が起きて、人間を後押しするのです。

健康に生きることは素晴らしいことです。
ですが、ただ健康になりたいだけで終わってしまったら人生は深まりません。
生きている過程でいただく病気や滞り。
その奥にあるメッセージを理解していくことが大切です。
そこを理解した時に現代人も天然の意識で生きていくことが出来ます。

この世界は心と肉体(物質)で出来ています。
まずは心、魂を磨くことが大切です。物質のことは考えなくてもいいのです。
今の世の中はまだ物質的豊かさを求めていますが、そういう世の中はひっくり返ります。

そのようなターニングポイントを今、迎えているのです。

人間の欲が戦争を生み出し、第二次世界大戦で大きな犠牲を出しました。
これは世の中の欲の心が壊れて一度リセットされた状態です。
ですが、戦後の復興は、もう一度、欲の心でなされました
そして、現代の混乱に至っています。

自分の健全、健康を求める心の奥にメッセージがあり、
それを通して自分がどう生きるべきかが見えてきます。
大切なのは、自分が健康に生きることだけではないのです。
自分のことばかり考えることで人間は不健康になっていったのです。
そのからくりを見通すこと。その先に世の中作りがあるのです。

世の中を良くするとみんなが良くなっていくのです。
自分が・・・と考えると住みにくい世の中になっていきます。
自分が・・・という心を超えていく。
それが天と共に生きることです。

真学校ではそういうことを伝えていきます。

真学校の受講生はこの場で変化していきます。
その変化に触れることでこの場も変化していくのです。

ここで健全な場を創り出すことが時代の流れをあらわすことになります。
世界のことを思い、自分を超えていく。
そのことが宇宙の中に光をさすことになるのです。

それを本当に信じて取り組むことです。

時代も神も目には見えません。人間の理解を超えています。
ですが、この世界にはそういう秩序が確実にあるのです。
そこに一人一人の人間が理解を示すことが大切です。

宗教はご利益を求める人により発展しましたが、
本来はそういうものではありません。

信仰とは宇宙の法則性の理解です。

法則性を理解し、自分が・・・という心を超えていく。

そのような本当の信仰心の下、天と共に生きていくのです。
それが世直しであり、この世界に平和をもたらします。


☆彡 ☆彡 ☆彡

この文章の中に自分の健全、健康を求める心の奥にメッセージがあり、それを通して自分がどう生きるべきかが見えてきます。という言葉がありますが、1年前の僕はこの言葉を「自分が何かを求める時、そこには意味があり、求めることを通してその意味を読み解くことが大切でそこから自分の生き方が見えてくると捉えていました。

ですが、今は違う捉え方をしています。


自分が何を求めようと関係なく求める心を離れることが大切で、その奥には個人的な感情を超えた大いなるメッセージが存在する。その大いなるものに自分を委ねる時、ここにいながら広い宇宙そのものを生きることが出来る。それは常に変化し続ける果てしない物語。


これが今の僕の捉え方です。


1年前の僕には望みを追求したい心がありました。結果は委ねると言いながら、望みを追求していました。その態度は世界を望みの中に閉じ込めることになります。望みは世界を歪め出来事に一喜一憂する心を強めていきます。僕はひっくり返っていなかったのです。


それが分かっているから今は望みを追求しません。どんな望みが生まれようと気にしないようにしています。それは叶うこともあれば、叶わないこともある。どちらにしてもそのうち変化していきます。宇宙の本質は変化にあるのだから。


法則性を理解し、自分が・・・という心を超えていく。

その時展開される世界は自分の想像を超えていきます。想像を超えた流れを通して自分を見て、自分を知っていく。その時、広い世界の中に自分をしっかりと位置付けることが出来るのです。

1ヶ月間の真学校では受講生をそんな姿勢へと誘います。興味がある方は、こちらのページをご覧ください。新しい出会いを楽しみにしています(^-^)


木の花ファミリーのみんな@立春正月祭




みんながみんなの真ん中で溶けていく

僕の机の前には電話が置いてあります。僕は学校事務職員時代から電話が鳴るとぱっと反応する習慣があり、お金を数えている途中でも電話に出てしまうことがあります。そういう時は、電話を取り次いだ後、お金を一から数え直すことになります。

それだけならまだいいのですが、時には人を探しにいくように頼まれる時があります。そういう時は、一度お金を片づけてから探しに行くので、仕事に大きなロスが発生することになります。

僕の仕事のロスはみんなのロスです。なので、状況に応じて電話に出るまでに少し時間をおくように心掛けています。時間をおくと、他の人が電話を取ります。その時、その電話が僕宛だったりしたら、「はずした!」と思うわけです。相手の人を無駄に待たせて、他の人が電話を取り次ぐ手間も発生しているので。こういう時、天と呼吸があっていない自分を知ります。

電話のベルは常に天からのお試しです。それをどう判断しどう応じるか?これは天との呼吸合わせ。天は身近なところから僕と遊んでくれています。それに気付けば、なんでもない日常に鮮やかな彩りを見出すことが出来るのです。

この世界のものはすべて同じ法則の下、天から生み出されています。その中で特別に与えられた自分という意識。それは恩寵でもあり牢獄でもあります。自分に囚われていたら、広い世界を自分の中に閉じ込めてしまいますが、自分を超えたら、この世界のすべてを天からのメッセージとして認識することが出来るのです。するとすべての瞬間が祝福へと変化します。

ところで、1月28日は水瓶座の新月、旧暦の正月であり、すべての惑星が順行していました(詳しくは天下泰平ブログ「すべての惑星が応援してくれる水瓶座新月と2017年の本番」を参照して下さい)。天体の節目の日である1月28日、木の花ファミリーでは富士浅間木の花祭りが開催されました。新しい宣言をするに相応しい日に行われた地球のお祭り。そこにはとっても大きな意味があると思っています。
※富士浅間木の花祭りは立春前の土曜日に行われます。新月に行われたのはたまたまです。

木の花祭りは今年で5年目になりますが、昨年の木の花祭り後、僕は以下のような文章を書いていました。


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鬼の心を育む」に書いているように、木の花祭りで僕は鬼の役割をいただいています。
鬼はこの世界の道理を伝える存在であり、木の花祭りでは主役となっています。
鬼が怒っているのは、相手の心が汚れているからであり、鬼はそれを教えてくれているのです。
日々の生活の中で湧き上がる自分優先の心や気持ち、余計な感情。
自らが鬼になることによりそれらと向き合い当日を迎えました。

鬼の舞ではアップテンポで舞い踊るシーンがあるのですが、
頭を空っぽにして身体の力を抜いて、太鼓や笛の音、
みんなの掛け声に身を委ねると楽に動くことが出来ます。
それがただただ心地よいのです。

ずっと動き続けることが出来る。

そんなふうに思えました。

ところで、僕は昨日、ある人から以下のメッセージをいただきました。


- - -

この世界に降りてくる前に、神さまはあなたに3つの名前を用意していました。
3つの中で真ん中にあったものが「善文」であなたはそれを選んできたのです。
それは正解でした。

善悪の善。善が先に来ます。だけれども少し間違えると悪にもなります。
そのことを心に留めておくことです。

そして、あなたは「中野」の性を選んで両親のところに来ました。
真ん中の「中」。そして野原の「野」。山ではなく広く広がる野原なのです。

みんなの中の「なかのん」

みんなの真ん中でしっかりと固めていくのです。

中(なか)を守るのです。

でも目立つ必要はないのです。
目立つのではなく深く深く沈みこんでいく。
奥で自分を広げて固めていくのです。


- - -

僕はずっとどちらかというと端っこにいることを好んで来ました。
あんまり自分が真ん中にいるという意識を持ったことはありません。
その意識を転換させる時が来ているのだなと感じています。

真善美を兼ね備えた人間になっていく。
その誓いとして真ん中の字をとって「善(よし)」と付け、
そして卯年の守り本尊である文殊菩薩から字をいただき「文(ふみ)」と付ける。
※僕は卯年生まれです。

これは僕が勝手に創っていた名前の由来ですが、
「善」は真善美の真ん中の字となっているのです。

僕はみんなの真ん中を生きる。

でもそれは目立つことでも際立つことでもなく、みんなの中に溶けていくことなのだと思います。
目立とうとすると、きっとすぐに偽悪醜の方へと転げ落ちていくことでしょう。

鬼の舞にて、太鼓や笛、みんなの掛け声と溶け合っていったように、
日々、みんなの心の中で溶け合っていくことが大切なのだと思います。

溶けていく。その中で天と繋がり柱も立てていく。

これからそんなふうに変化していきます。




☆彡 ☆彡 ☆彡

木の花祭りは、日常が凝縮して現れる場。みんなの真ん中で溶けていく場です。今年もそんなふうに祭りを楽しみました。

みんなの真ん中で生きる。それは僕だけではなく誰にとっても当て嵌まることなのだと思います。みんな天から生み出された存在であり、天そのものです。すべてが天。ならば、すべての存在はいつも世界の真ん中にあるのです。自我で生きると真ん中で際立ちます。そしていつの間にかそれが端っこになっていく。自我を超えて自らを溶かしていけば、みんながみんなの真ん中になっていくのです。

木の花祭りでもそれぞれの人がそれぞれの役割を担い、全体の中に溶けていきました。みんなが主役となって、そして全体の中に溶けていって大きなうねりとなっていきました。

でもそれは祭りだけでなく日常のすべての場面がそうなのです。電話のベルのように天は常に僕たちと遊んで下さっています。天はこの世界に遍満すると同時にこの世界の中心でもあります。つまり僕らは常に世界の真ん中と共にあるということです。

鬼の心を育むのも同様です。鬼の心とは道理に従い道理を伝えていくこと。祭りに合わせて鬼の心を育むのではなく、毎日の生活の中で、天との遊びの中で、常に鬼の心を育み続けていけるのです。

木の花祭りは過去から未来へと続く物語の中での一つのアクセント。それは毎年開催され日常の中に溶け込んでいきます。みんながみんなの真ん中で溶けて一つのうねりを生み出していく。それは分断が進むこの世界を一つに溶かしていく希望の光となっていくことでしょう。それがささやかなものであったとしても。僕らは喜びと誇りを広げていきます(^-^)


木の花祭りクライマックスの湯ばやしの様子です。

心の空間を生み出していく

1月28日(土)開催の富士浅間木の花祭りに向けてリハーサルが始まり、全体のムードがお祭りに染まってきました。木の花祭りは新たな時代の幕開けを祝って、うれしうれし、たのしたのしと丸1日舞い踊る地球のお祭りです。その祭りでの舞について、いさどんは以下のように語っています。

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舞というのは流れるように舞うものです。木の花祭りは、愛知県奥三河地方東栄町の花祭りに由来していますが、地元には言い伝えがあり、積み重ねてきたものがあります。それは、言葉を超えたものなので、もし、教えてもらった通りに舞ったとしても、本場の舞を実現することは出来ないのです。舞の奥には、その舞や所作が生まれた意味が隠されていて、それが個性となっています。追究していく姿勢が大切なのです。追究していく姿勢から「溜め」が生まれます。それは1%の違いですが、大きな違いをもたらすのです。




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「溜め」は舞に深みを与えますが、それは舞だけではなく日常のあらゆる出来事に当て嵌まります。いさどんは大人ミーティングでこんな発言もしています。

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この場で、ホリスティックにまとめていく視点を提供出来る人が現れないか様子を見ていていましたが、出ませんでしたね。その原因を考えたのですが、6割~7割の人たちはこの話を聴いていませんでした。自分の発言する場ではないと決めて、もちきびの選別などの作業に集中していました。これだけの人数がいるので全員が発言するわけにはいきませんが、それでも、話題をみんなにとって大切な話として聴いていることが大切です。もしみんながこの話題を大切にしていたら、この場は自然と締まったはずなのです。発言をしない人も場を創っています。一人一人が見えないところでどういう姿勢をもっているか?それが「溜め」を生み出し、場を創っているのです。


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「溜め」を生み出すためには、「間(ま)」が必要になります。時間や空間があるからこそ、そこに「溜め」を生み出すことが出来るのです。それは思考にも当て嵌まることで、最近の僕のテーマである立体的思考を持つことの大切さに繋がっていきます。平面的思考と立体的思考について、いさどんは以下のように語っています。

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3次元世界に暮らしながらも人間は物事を2元的に観ている。それは、出会うこととそれに対する自分の反応で物事を見ているから。それで平面的になっていく。だけれども、その奥にはこの世界を動かしている意志がある。出会うこととそれに対する自分の反応、そしてその奥にある意志。それらすべてを意識した時、この世界を立体的に観ることが出来る。

出会うことに反応することで人は一喜一憂する。それが人間で一喜一憂しなければ生きている意味がない。一喜一憂しながらも、出来事の奥にある意志を感じて、一喜一憂している自分を離れて観る。そして流れをいただいていく。それが生きていることの醍醐味で、人生に翻弄されずに楽しむことが出来るようになる。


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物質生命は3次元世界の中で生み出されています。平面上には存在しません。出会う出来事とそれに対する自分の反応。それだけでの物事を見ていくのは2点思考であり、思考が平面となり薄っぺらとなっていきます。そして、それは3次元に存在する生命から生命力を奪っていくのではないかと思いました。

出会う出来事に翻弄され右往左往している人々は、自分の人生のコントロールを失っている状態です。そこに生命の豊かさを感じることは出来ません。例えば、トランプ大統領が誕生してダウ平均株価が2万ドルを超えたというニュースを観ましたが、これは人々の関心が自らの利益を増やすことにあるためです。自らの利益という視点で世界を眺め、それに反応しているのです。お金の増減に関心を向けている人々。そこには人生の深みはなく、生命力は感じられません。

平面的思考は世界を薄っぺらにし、世界から生命力を奪っていきます。それは平和などポジティブなことを願っている時でも同様です。平和とそれを願っている自分。その2点だけで物事を見ていたら、世界は薄っぺらとなり、真の平和が実現することはないでしょう。

生きていると何かに魅了される時があります。その時そのものだけを求めていたら、世界は薄っぺらとなり生命力がなくなっていきます。その奥にある自分の人間性、そして天の意志を感じた時、その魅力が生かされていくのです。ここでまたいさどんの言葉を引用しますね。

☆彡 ☆彡 ☆彡

地球温暖化や経済格差、紛争、難民、国々や民族の対立・・・・
現代社会は混沌としています。
混沌の中、その解決策を求める気持ちになるかもしれませんが、
そこには人生の深みがありません。

問題が生じている時、問題のないところにいって、みんなで幸せになろうとする。
それは良いことに聴こえるかもしれませんが、とても薄っぺらな話しです。
みんなで幸せになろうとする時、
幸せになるべき人間性があって初めて幸せになるのではないでしょうか?
人間性が高まらない状態で幸せを求めることが社会に何をもたらすのか?
そのことに想いを巡らせてみて下さい。

問題がある時、ただ解決策だけを求める。
それは新しい発想だけ貰って楽になろうとしている姿勢です。
その姿勢が人々を現実から引き離し停滞を生み出しているのではないでしょうか?
そこからは結局新しい発想も生まれないのです。

新しい発想は自分を放棄した時初めて生まれるものです。

この世界には法則性があります。
常にそれと対話していくこと。
それが天と共に生きるということです。

問題ごとに出会った時、ただそれを改善しようとしていく。
それは人間の知恵の中で良い生活を送ろうという心に繋がり、
その結果、天は離れていき、停滞が生まれます。

美しい蓮池を生み出しているのは水中で混沌としている泥の存在です。
表面に浮かぶ現象を生み出している奥の世界。
それを知り生かすことで人生は深まり花開いていくのです。

木の花ファミリーの暮らしは未来に対して一つの回答を示しています。
ですが、それを解決策として知識として取り入れても意味はないのです。

人は常日頃当たり前のように思考を組み立てています。
その思考は自分の枠内にあります。
知識として取り入れたものはその枠を超えることはありません。
ですが、自分の思考の背後にはこの時代の意志や物語があり、
自分がここにいる意味があるのです。

心を開くことにより、そういうものを織り交ぜて生きていく状態に変わっていく。

それは人間として生きる姿勢の変化であり、真学校の目指すところなのです。

生きるということは本来、変化すること、未知なるところの向うことです。
星々は常に新しいところを運行し、自然は変化し続けます。
天は分からない未来を生きているのです。

時代は未知なる世界へ向けた変化を人間に促します。

時代に応えるために。

何かを貰って新しい自分になるのではなく、
環境と響き合い変化していける人間になっていくのです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

出会う出来事と自分の反応、その奥には自分の人間性があり、そして天の意志があります。人はみんなそれぞれに相応しい出来事に出会い、それに反応していきます。その時、その刺激と反応だけに心を奪われていたら、その状態から抜け出すことはありません。その奥にある自らの人間性を知り、そこにメスを入れることで人は変化していきます。

出会う出来事と自分の反応、そこから離れた視点を育むことで心の空間が出来上がります。その空間に時(とき)、時代が流れ込みます。時代は天の法則を司り、人に生命力を与え、豊かな人間性を育みます。結果、自ずと人は平和で幸せになっていきます。

僕は少しずつそんな歩みを始めています。
それはとても楽しい取り組みです(^-^)

富士浅間木の花祭りもみんなで舞い踊ることでそんな空間を生み出していきます。是非、遊びに来て下さいね。




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