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希望は思考の奥から湧いてくる

どんなに希望を見出そうとしても思考からは希望は生まれない。希望は思考の奥から湧いてくる。それは自分を生かしているこの世界の法則であり大いなる意思の力。そこから希望は湧いてくる。その力なしでは思考は空虚な空想となっていく。だから、思考は、大いなる意思に沿って展開するといい。そうするときっと、思考は希望の顕れとなり、人生は、人智を超えて無限の可能性に開かれていく。

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上記の言葉が僕に湧いてきたのは、ある日の大人ミーティングでジイジの話を聴いてから。その話はこんな感じの話でした。

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第二次世界大戦。当時の日本人は、全然違う情報を貰って、多少足並みの乱れはあったものの、国中が一丸となって、正しいと信じて、国策として戦争に突入し、その結果、日本中が焼け野原となりました。そしていよいよアメリカ軍が上陸してくるという時、人々はみんな竹やりを作って戦う準備をしていましたが、終戦を迎えて日本は負けました。その後、だんだん分かってきたのは、自分たちが聞いていた情報はまったく嘘だったということです。勝利どころか惨敗で、初めから勝てるわけがなかったのです。それで負けたのだと意気消沈していたところに米兵が上陸してきますが、そうすると日本人は、「男は全部、強制的に去勢される、日本人の種を無くすために。女は、米兵を見たら振り返ってはいけない。振り返ったらOKですよと言っているようなもの。笑うなんて絶対に駄目。もしも米兵が来て自分に近づいてきたら、自分は生理だと言いなさい。」ということがまことしやかに広がったといいます。
実際に米兵が来たらそんなことはなかったのですが、ではその発想はどこから湧いたのかと言ったら、日本人がそういう発想をしていたということです。何も情報がないのにそういう発想が出るということは、自分たちが、米兵が憎くて、「あいつらが来たらこうしてやろう、ああしてやろう」と思っていたからです。自分たちの心がそのような発想を生み出したのです。だから自分が発したことは自分の中にあることです。それを「ああだったから、こうだったから」と理由を話しだしたら、自分と向き合うことにはなりません。

そして、満州からは日本人の引き上げがありましたが、関東軍はソ連兵が満州に侵攻すると、何も言わずに逃げてしまって、残された満蒙開拓団の民間人は、なんか変だと思っていたら、ソ連兵による攻撃を受けて逃げ惑い、中国人は自分たちの田畑を奪いに来るのです。もともと日本人が中国人の田畑を取り上げて開拓に入っていたのだから、奪いに来るのは当然です。それでも中国人は意外に穏やかだったといいますが、ソ連兵は残虐でした。ソ連の精鋭部隊はヨーロッパ戦線に使われていました。そのためシベリアなど東方に向ける軍人が不足し、囚人を使うようになりました。囚人だから秩序が全くありません。もともと犯罪者なのだから、略奪や破壊、殺人、強姦を繰り広げます。満州の日本人はその中を逃げてきました。

人の生き方、死に方にはいろいろありますが、そういうふうに民族全体が狂っていた頃がありました。でもそれは団結することで正義になってきたのです。だから本当に真面目に振り返らなければなりません。戦争で、人類は正義を旗印にどれだけ残虐なことをしてきたか、そういうことを本当の学びとしていくにはどう分析しどう解釈したらいいのか、そういうことをしっかりとやっていかないと、命を懸けて狂った過去の犠牲を蔑ろにすることになります。

中国が建国70周年の式典で、その豊かさと繁栄を祝いましたが、それを誇るのが兵器、軍事力となっています。軍事力をもって何を誇り、祝うというのでしょうか。ですが、それが今の人間の実態です。日本では憲法9条改正の議論がされています。攻撃は最大の防御と言いますが、その奇妙な恐怖から人間が人間を信頼できなくなり、兵器を持って平和が保たれています。これは本当におかしな状態と言えます。

それで最近気づいたことがあるのです。あることに思考を巡らしている時に、思考と思考の隙間に出会います。あることに思考を巡らして一段落した時、次の思考に行く前に思考の隙間があるのです。その時にぱっと湧いてくるものがあります。それは思考ではありません。思考ではないもの。「だからもう一回、一からやり直そう」という想いです。生きていればいろいろなことに出会います。ドジをすることもあります。だからそれを良く振り返ってしっかり腹に落として次に生かすのだと。そういう想いが湧いてくるようになっています。それが生きているという証です。

そこで何回も同じことを繰り返すということは、生きているということに相応しくない思考をしているということです。生きているということは現象に出会うということ、現象に出会うとは、自分の言葉が具現化するということ、そして自分の行動が具現化し、自分自身が具現化します。具現化したことに対して、それを分析し、「だからこう生きるのだ」と学ぶことでヒトは成長していくのです。その繰り返しの中で、いろいろ振り返って、「だから満足だ、だからいい人生だ」と思えた時に逝く。それが人生を全うすることになるのです。

私たちは生きているのが当たり前になっているから、思考しているということは知っていますが、その思考と思考のつなぎ目の空間に生きていることの意味や癖があるということを知らずにいるのです。僕は最近そのことを発見しました。生きるということはそういうことなのです。生きるということは、一つの出来事が終わって死んで。次の出来事に出会い、誕生する。そして成就して終わって死ぬ。瞬間瞬間、生きる死ぬの繰り返しです。人の一生も魂の輪廻もそれと同じことでサイクルが少しずつ長くなっているだけです。つまりは枠の違いです。そして魂という大きな枠で捉える時、死に方の大切さが分かります。死に方を考えるということは、もっと身近な生き方を考えるということで、そしてもっと身近な瞬間瞬間を考えないといけません。この大事な想いは思考では生まれてきません。思考と思考の隙間の気づきによって生まれてくるのです。

魂の輪廻転生の仕組み:木の花ファミリー通信「ある世界とない世界」より


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思考と思考のつなぎ目の空間にある生きていることの意味や癖

そこに意識を向けることで、僕らは思考を自我から取り戻し健全にしていけるのだと思います。そしてそのことが、大型台風をはじめとする数々の災害に見舞われる現代社会の希望となっていくことでしょう。ということでそんな希望を語っている木の花ファミリー通信第99号「カタカムナ」からの文章を紹介してこの原稿は終わろうと思います。

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全身全霊とは、全身を構成する数十兆の細胞がパラボラアンテナとなり、脳の思考ではなく全身で響きを感受し、その響きを自らの命に染みわたらせ、言葉や姿勢を通して表現することを言います。私たち生命は、この世界を単独で生きているのではありません。まず大宇宙があり、その中に銀河があり、太陽系があり、地球生態系があり、人類がいて、私たち一人ひとりが存在しているという生命の序列のもとに生きているのであり、すべての生命は一番の大本である宇宙の根本原理に基づいて存在しているのです。自然界の動物や植物は自我による汚染がないため、細胞のDNAが純粋に宇宙と呼応しています。ですからその生命活動は、教わらずとも宇宙の仕組みを反映し、美しい表現となるのです。それに対し人間は、進化の過程において唯一、思考を持つ生きものとなりました。そしてその思考を自我によって実現する能力を与えられたことで、自らの欲望を満たす快感の虜となり、自我を肥大させ、自らが宇宙と呼応する存在であることを忘れてしまったのです。そして宇宙の根本原理から外れることで、現代人は今、生命世界を汚染し、破壊する存在にまでなっているのです。
人間が再び宇宙と呼応する存在となるために、私たちはもう一度、思考を自我から取り戻す必要があります。自我に翻弄されるのではなく自我をコントロールする立場に立つことで、思考を宇宙と呼応させるのです。その時に宇宙と対話するアンテナの役割となるのが、全身の細胞の中にあるDNAです。私たちが生命として生きる時、全身の細胞は既にその生命原理を持ち合わせ、女は女のように、男は男のように命を表現し、人生を全うします。それと同じように、宇宙生命の一部である私たちのDNAには、宇宙の始まりから終わりまでの情報が眠っているのです。そこには未来への設計図があり、私たちは生命として生きることで、それを体験という形で、次の時代への英知としてさらにDNAに刻んでいくのです。
その自らを自我の囚われから解放した時、私たちは本当の自由を生きることになります。「クニ」という思念をカタカムナでひも解くと、それは国境で区切られた領土のことではなく、自由「ク」が定着した場「ニ」を示しています。それが、クニ(地球)を生きることの真の意味です。自らを解放し、全身全霊をもって宇宙に語りかけ、全身全霊をもって宇宙からのメッセージを受け取るのです。
その時に、宇宙根源の純粋で美しい響きがあなた自身から発せられ、この世界に響き渡ることでしょう。その響きは、世界の歪みを解き、生命に活力を与え、壊れたものは自ずと修復され、正常に戻っていくことでしょう。それが天然循環の世界であり、カタカムナを生きるということなのです。


すべての土台は心磨きにある!

1週間ぐらい前、富士山を前にしてジャンプしながら腕を振り回していたら、肩が筋肉痛になってしまいました(-_-;)。余分な思考を振り払いたくてやっていたのですが、思い切り振り回し過ぎました・・・。

筋肉痛は予想外の事態ですが、これからも時々なこんなことをしようと思っています。
余分な思考から自由になって目の前の出来事に開かれているように。(^-^)。

早朝の富士山です。


ところで、16日~17日に掛けて池田志朗さんと勝芳邦さんが木の花ファミリーを訪れました。17日の午前中、僕はお二人を施設&圃場見学にお連れしました。

木の花ファミリーでは自給用に醤油を作っていますが、まずはお二人に醤油樽をお見せしました。ちなみに醤油作りの工程は簡単に書くと以下のようになります。

炒った小麦を挽き割りにして、種麹を混ぜたものに冷ました蒸し大豆を混ぜ合わせ、4日間ねかせます。そうするとモスグリーンの美しい麹が出来きます。それに水と塩を足して、毎日櫂入れをし、ふた夏越したものを絞ります。※詳細はやすえどんのFacebookページをご覧ください。

醤油のもろみです。
醤油樽に入っているもろみを見ながら、池田さんは以下のような話をして下さいました。

醤油樽と呼んでいますが、このように天井が空いていて、蓋が置いてあるだけのものは桶なのですよね。樽というと完全に密閉したもので、運搬に使用したり、ワインのように密閉した状態で長期間貯蔵するものに使用されます。醤油を醸造させているこれは桶なのです。

桶はに開かれています。醤油の醸造室は、桶から微生物が飛び出し部屋全体が微生物でいっぱいになります。それはそれは特別な空間を創り出します。そして桶自体にも微生物が住みつきます。桶に種麹を入れた段階では、微生物の種類は20種類ぐらいなのではないでしょうか。大手企業の醤油は、温度調整をして2ヶ月で醸造させてしまうので、微生物の数はそのままです。ですが、木の花のように桶でふた夏越したものは微生物の数がおそらく2000種類ぐらいに増えています。そのため味の深みは5倍になります。ここの醤油は本当に美味しいですよね。

そして桶は使いまわしをしますが、大切なのは桶を乾かさないことです。水分を含んでいると桶に含まれる微生物は死ぬことがなく次の醸造へと引き継がれていきます。そして、そこで醸造される醤油の味はどんどん深みを増していくのです。

天に開かれた空間の中で微生物の働きにより小麦や大豆から醤油へと変化し循環していく。木の花の醤油作りは、まさに天然循環と言える取り組みですよね。

カタカムナに出会うことによって、僕たちはこの暮らしを天然循環と呼ぶようになっています。池田さんはそれを別の切り口で表現して下さり、とても面白かったです。


その後、僕たちは鶏舎を経て、ナスやキュウリなど夏野菜が植えてある畑に移動しました。お二人とも畑を見て、その空気の清々しさ、そして整然と植えてある作物の姿に感動して下さいました。その上で池田さんは以下のような話をして下さいました。

夏野菜が植えられている畑です。


燕麦やソルゴーの漉き込み(すきこみ)や敷草などを炭素資材と言いますが、それは正確ではないのです。炭素よりも重要なのではむしろ珪素(けいそ)で、もみ殻や落ち葉は珪素が豊富に含まれています。作物は、光合成によって、炭素を大気からも取り込むことが出来ますが、珪素については落ち葉などの資材を投入する必要があるのです。

水晶は二酸化珪素が結晶化したもので、それは人の心と影響し合います。どんな気持ちで作物に関わるかが大切になるのです。例えば、欲の心から関わると、作物は成長しません。そうすると多くの人は窒素を投入します。窒素を投入すると窒素過多になり虫が発生します。欲しい欲しいと思う気持ちが悪循環を生み出しているのです。ですが、純粋な心で作物に接するならば、珪素はその心に反応し、作物はすくすくと育っていくのです。

僕たちは今、作物が持つ本来の響きを響かせることを大切にし、自らの心をきれいにして作物と向き合うことを心掛けています(天然循環法)。池田さんのお話を聴いて、珪素はそれを裏付ける元素だと思えました。
※天然循環法については『木の花ファミリー通信Vol.80』をお読みください。

生命活動を維持するために必要な農作物ですが、その土台は心磨きによって成り立っているのです。そして、心磨きとは日々の一つ一つのことを大切にし、自らの立場を手放していくことです。

小学校4年生のきよは、心磨きについて以下のように語っています。

『心をきれいにすること。みんなと、話し合ったり、伝え合ったりして自分を見ていくこと。あと無農薬とかの正しい食べ物を食べること。正しい食べ物を食べると心がきれいになるんだよ。』

続けて毎日を気持ちよく過ごす秘訣として以下のように語っています。

『いっぱい働いたり、体育で運動したりして、全部のエネルギーを全部使った日はいい日。だらだらしちゃった時はつまらない日なの。朝起きてエネルギーをありったけ使いきって、疲れて眠ってまた、エネルギーがたまってそれをまた使い切る!そんなふうに過ごせた日はいい日だよ!』

こんなことを語るきよと共に暮らせることはとても幸せなことです。

きよだけでなく木の花の子どもたちは本当にたくさんのメッセージを大人に知らせてくれます。例えば、天然生活in木の花ファミリー『木の花ファミリーで起きたこと~子どもから学ぶ~』には、昼食時、他の子どもが賑やかにしている中、自分だけ静かにしていることに怒っていたたくくんが描かれています。僕はたっくんの隣に座っていたのですが、そのたっくんの気持ちに全く気付きませんでした。ひとみちゃんが尋ねたことにより初めて気づいたのです。

人の気持ちに気づかない。たっくんはそんな自分の至らなさを教えてくれました。これでは1週間前に、筋肉痛になるまで腕を振り回した意味がありません。痛みを生かしてもっともっと心を開いていこうと思いました。きっとその姿勢がこれからの世界を明るいものにしていくことでしょう。

木の花の子どもたち(小学生) 右下の女の子がきよです。

木の花の子どもたち 黄色い服を着た子がたっくんです。





思考を超えて循環の中に入っていく

大人ミーティングでベトナム戦争の映像を観ました(僕はうとうとしてしまっていたのですが・・・)。映像はあまり観ていないのですが、映像を観終わった後、いさどんが語ったことがとても心に残りました。それを僕の言葉で表現してみようと思います。

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ベトナム戦争については、昔から『地獄の黙示録』や『プラトーン』などいろいろな映像で描かれています。それではなぜ、今ベトナム戦争の映像を観るのでしょうか?ベトナム戦争では、民族自決を掲げて戦った北ベトナムがアメリカの傀儡政権である南ベトナムに勝利しています。反共を掲げたアメリカは敗北し、サイゴンが陥落する時にはプライドがズタズタになる中、撤退していきました。その教訓が生かされていないのか、その後、アメリカはイラクを攻めることで、中東に混乱をもたらしています。

アメリカは現代の象徴と言えます。個人主義の元、自らに湧き上がる想いを満たし叶えていく。アメリカンドリ-ム。それは競争をもたらし、敗れるものも同時に生み出してきました。自由の国であり、人種の坩堝(うつぼ)であるアメリカ社会は世界の縮図ともなり、その個人主義が世界に広がっていきました。今、人は欲望を追い求めることにより欲望に翻弄されています。そして社会は行き詰まり様々な矛盾を見せています。

例えば、戦後の復興を遂げ経済大国に成長している日本。資本主義の恩恵により物質的には豊かになったかもしれません。ですが、戦後の復興を支えたのは、朝鮮戦争の特需であり、ベトナム戦争の特需です。人々の痛み、苦しみ、死を土台にした繁栄とも言えます。そして今現在の生活も多くの違法労働で支えられており(「流行に敏感な若者は、毎日27人の奴隷を雇っている」参照)、経済発展は地球環境に深刻な影響も与えています(政府間パネル(IPPC)第5次報告書参照)。そんな中、毎年3万人近い自殺者を出し、鬱やニート、引きこもりなど生きづらさを抱えた人たちを多数生み出しています。

ここで天体の動きや歴史に目を向けてみます。

2012年12月21日。太陽系は25,800年ぶりに銀河の冬至を迎えました。それと軌を一つにするように、冥王星は産業革命から太陽を1周しています。そして文明周期説ではこれから精神の時代になることが示されています。このように天体の動き、歴史の流れが時代の移り変わりを予告しているのです。

個人主義により自我を満たしていく時代。それが終わりを告げようとしています。

自我を超えて、あなたはわたし、わたしはあなたの世界に入っていく。これからはそんな時代です。昔、悟りは出家者のものでしたが、宇宙の法則から見たら悟り(「差」を取る)は当たり前のことです。なぜなら、私たちは一つの太陽・一つの大地・一つの水・一つの空気・一つの風の元に生かされているいのちの兄弟だからです(「東洋の叡智が花開く時代~雑誌「世界建築」より」参照)。
この世界は自分そのものなのです。

一人一人が自我を超えて個人のカルマ(業)を超えていく。その地道な作業が、国家カルマ、人類カルマを超えていくことに繋がっていきます。そして、それこそが人類がこの世界に生を受けた本当の意味なのです。

木の花ファミリーで日々、僕らがしている心磨き。それは自我を超えていくことであり、時代の流れを受けたと取り組みです。その先に時代が切り拓かれ、人と人、人と自然が調和した争いのない社会が生まれていくことでしょう。

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では、どのように自我を超えていくのでしょうか?

昨年の12月。僕は大人ミーティングの最中、天の扉が開かれ、暖かいエネルギーが降り注いで来るのを感じました(「天の物語を生きる。~1年の振り返りと来年の抱負として~」参照)。そして、その日以来、僕は天を感じるために手を広げて両腕を真上に伸ばすことが多くなりました。

青空のエネルギーを、手を広げて受け取っています。

天を感じて生きることを心掛けた僕は、今年の2月、仕事に段取りでいっぱいいっぱいになり、天を
失ってしまいました。(「みんなのお金が世界のお金になるように」参照)。その頃の僕の取り組みは不十分だったのです。今、僕は一日に一度、自分の仕事や感情、想いを天に返すようにしています。すっと力を抜き、頭と心を空っぽにする。そんな時間を大切にしています。受け取るだけでは循環になりません。天に返すことで天然循環が生まれる。そんなふうに思っています。

それは自らの思考を超える取り組みでもあります。

人間は本来、大きな可能性を持ち、自らの思考では把握しきれない存在です。それを思考で把握しようとする。自分を自分の考えの中に閉じ込める。それが自我の働きだと思うのです。自我は、自分を自分の考えに閉じ込めて、その狭い世界の中で自らの願いを叶えようとします。その狭さが対立や競争をもたらしたのではないでしょうか?

僕は動くことで思考を超えようとしています。足を上げることで天に柱を立てようとしています。

富士山をバックに足を上げて柱を立てています。

すべては循環してとどまることなく変化し続ける。それが宇宙の姿で自分も同様です。心を空っぽにして思考を超えていく。想いを天に返すことで、自我の囚われから自由になっていく。

僕は今、そんなふうに過ごしています。


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以下、新しい時代へ向けたイベント紹介です。是非、ご参加下さい。

5月17日 出張木の花塾@船橋 「人が変化する自然療法プログラム」
       
6月10日~12日 みんなで語り合おう「ニート・引きこもりも鬱も希望の光




天然循環する暮らし(こころ編)

天然循環の暮らし(経済)」で紹介したエントロピーの法則。

閉ざされたシステム内ではエントロピーは増え続け、エネルギーは均質になり特徴を失っていきます。ですが、外部に解放されているシステムでは、エントロピーの縮小が可能になり、エネルギーは個性を持ち強調的に振る舞いようになるのです。生命はそのようにして自らの存在を維持しています。ということは外部に無限に開かれていることが理想で、それを実現してくれるのが天の存在、無限の「ない」世界なのです。

こんな話をあわちゃん(あわりーぬ)としていると、「それは心にも当てはまるよね」というフィードバックをもらいました。そうなのです。きっと心も同じで、心を閉ざしていると、エントロピーが増大して人は無気力になっていきます。心を開いていると、外部にエントロピーは散逸させることで縮小し、人は活力に満ちていくのです。

そんなことを思っていたら、昔の文章を思い出しました。

木の花ファミリーに移住して1年が過ぎた頃、様々な滞りが続く中、自分の中に閉じこもっていく時期がありました(2010年の夏~冬)。その頃、僕のエントロピーは増大し続けていたのではないかと思います。「僕といさどんと木の花ファミリー」で書いたエピソードもその頃のものです。自分の心を開かずに閉じこもっていく。以下の文章はその頃の僕が書いたものです(2010年12月7日)。

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メッキがはがれたのだと思う。困難からは逃げて、自分の都合の良いように解釈し、嘘をつき、びくびくして、いつも自分をみんなが忘れてほしいと願う。自分は生きる資格のない人間で、本来なら死ななければならないけれど、死ぬことも許されない。だからもがき続けるだけ。そんなふうに思って生きてきた自分。
でも、ここ数年そんな思いは忘れていた。でも時々「しくしく泣いちゃう感じ」として出てきた。絶望感と無力感。僕はやり過ごしていた。
自分に別の人格を作り上げることで、最低人間の自分を超えようとしてきた。そして、超えたと思っていた。でも、今、自分が噴き出してくる。結局、僕が今までしてきたことはメッキを塗っていただけ。剥がれてくれば、最低の自分が噴き上がる。
あの苦しみはもう味わいたくない。もうこのままぼーとして無気力に生きていたい。そんな気持ちが湧き上がる。そうしたい。
でもそれはできない。僕はもうあまりにも木の花のみんなと関わりすぎた。僕の心はもうすでに僕だけのものではない。はじめからそうか。世界と僕は一つなんだから。ここでの暮らしはその事実を分かりやすくみせてくれているだけ。

僕はこの地球に対して自分ひとり分の責任を負っている。だから投げ出さない。

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心を閉ざすことで無気力になっていく。まさにそんな状態でした。

毎日嘘をつき、テストではカンニングをし、万引きをして捕まったこともある小学校時代。いつも何かに怯えていてびくびくしていました。中学校に入学する時、このままでは自分の人生はダメになると思って、「変わろう!」と決意したのをよく覚えています。嘘をつかないようにし、カンニングは止めて、万引きも当然しなくなって・・・。それからずっと「変わろう。変わろう。」と言い聞かせ、生きてきました。でも、それは本来の自分ではない別の自分を創り上げる取り組みになっていたのです。

学校の勉強には答えがあります。その答えを導きだすように思考を創り上げ組み立てていきます。同じように僕は「どんな自分であるべきか」という答えを設定し、そこに至るように思考し行動してきました。その時、本当にその時その時自分が感じていることが抜け落ちてしまっていたのです。立派に振る舞おうとしても心の奥にある絶望感や無力感が僕に影響を与え続けていました。そして、それが滞りを生み、その滞りを認めることが出来ない僕は心を閉ざしていったのです。

あれから4年以上が経過している現在。僕の中に絶望感や無力感はありません。「しくしく泣いちゃう感じ」という言葉を見て、そんな時期が確かにあったなと懐かしく感じます。

なぜ、絶望し、無力感に陥るのかと言ったら、自分の中に「あるべき自分」のイメージがあってそれと現実の自分とにギャップがあるからだと思うのです。そういう意味では絶望感や無力感は自分で創り上げているのです。でも自己イメージの延長には本当の自分はいないのです。なぜなら、本当の自分は自分の想像をはるかに超えた存在だから、そこに閉じ込めることは出来ないのです。それは価値判断(善い⇔悪い、凄い⇔ダメ、美しい⇔汚い)を超えた自由自在の存在なのです。

今の僕には「あるべき自分」のイメージはありません。ただ心を開いていればいいのだと思います。心を開いていれば、エントロピーは天に散逸し減少していきます。そして、心は活性化し僕の個性は勝手に花開いていくのです。それがどんなものかは天にお任せ。今はそんなふうに思っています。

天にエントロピーを散逸させる天然循環の暮らし。そこではすべての存在は繋がり互いに生かし合っていきます。心はみんなの中を巡り巡ります。その時、自分の心は自分だけのものではなくなり、みんなのものになっていきます。木の花ファミリーの暮らしはそんな暮らしで、その暮らしが僕を支えてくれています。心を閉ざし自分を消耗させすべてを投げ出したくなった時も、その暮らしが僕を支え、僕は踏ん張りました。そしてとても幸せな毎日を暮らしている今の自分があります。木の花ファミリーはこんな場所でこんな場所だから様々な奇跡が起きているのです。

その代表例が自然療法プログラムです。


自然療法プログラム卒業生の誕生日。みんなでお祝いをしています。


9年間原因不明の頭痛に悩み、どんな治療でも治らなかった人が、1ヶ月の滞在で頭痛が消える

統合失調症で日常のコミュニケーションもままならなかった人が、精神保健福祉士として人のために働くようになる

本気で自殺をしようと考えていた人が1時間の面談で元気になって帰って行く

上記は木の花ファミリーの自然療法プログラムの成果の一例です。千葉県船橋市で開催される出張木の花塾ではこの自然療法プログラムがテーマになっています。お近くの方は是非参加してみて下さい。そして、天然循環の暮らしが持つ力を感じてみてください。

※出張木の花塾の詳細についてはこちらをご覧ください → 5月17日出張木の花塾@船橋

ところで、ニュースではネパールでの地震が報じられています。4月の初めにはフィリピンを襲った異例のスーパー台風4号が話題になりました。昨年11月に出された国連気候変動に関する政府間パネル(IPPC)第5次報告書では温暖化について警鐘を鳴らし、温室効果ガス排出量の抜本的かつ持続的な削減が必要と報告されています。これからも様々な天変地異が起こることが想定されます。そんな中、循環型社会への取り組みや温室効果ガス排出量の削減など様々な対策が検討されています。ですが、議論は物質循環に留まっています。物質循環だけではエントロピーは増大していきます。現在の問題の解決には至らないのではないでしょうか?

必要なのは、天然循環の暮らしです。物質循環の奥にある心が天に開かれている時、それが成り立ちます。すべてを天に委ねる。その姿勢が人々に出来た時、エントロピーは縮小し想像を超える出来事が起こるのではないでしょうか?きっとこれは今、僕らが思い描く環境問題の解決を超える出来事です。それがどんなものなのか?これからの未来が楽しみです(^-^)


天然循環する暮らし(経済)

4月25日、木の花ファミリーにて月に一度の食事会「恵みいただきます」が開催されました。今月は「信州手打ち蕎麦と山菜ちらし寿司」をテーマに200名以上のお客様を迎え豊かな時間を過ごしました。(当日のお客様の感想はこちら→木の花ファミリーこの話!


お客さまに提供した料理です。

毎月たくさんの準備を重ねて当日を迎える「恵みいただきます」ですが、この「恵み」の意味についていさどんは以下のように語っています。

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「恵み」とは生きることそのもの。人間は何かを貰った時やご利益を得た時に「恵み」と考える傾向がありますが、人は生きることにより物事を認識していきます。その認識こそ「恵み」です。先にこの世界があり、自分という個性が組み合わさります。一人一人個性的な眼鏡でこの世界を認識していきます。人間は他の生命とは違い自由が与えられ、自己実現の願望を持ちます。そして広い視野を持ち尊く生きることも出来るし、狭い視野に陥り地獄を生きることも出来るのです。それらすべてが恵みです。

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人々の認識は初めての体験に出会うことで変化していきます。「恵みいただきます」はお客さまにそのような体験を提供することを常に目指しています。お客さまの想像を超えた料理や空間、人々の空気・・・。それは理想の世界であり未来の世界です。

思い返すと僕も、初めて木の花ファミリーを訪れてみんなと食事をした時、その料理の素晴らしさ、そして、その場の空気にとても心を動かされました。とても懐かしい感じがしましたが、それは初めての体験でもありました。魂の故郷に生まれて初めて出会った。そんな体験でした。
(※僕が食事をしたのは「恵みいただきます」ではありませんが・・・)

お客さまに多くの感動を与える木の花ファミリーの食事。それは天然生活の暮らし(経済)から生まれています。

カタカムナに出会うことによって、僕たちは自然循環と天然循環の違いを知りました。今、目指すべき社会の姿として循環型社会という概念があります。循環型社会を語る時、人々は資源の循環など物質循環に注目して語りますが、物質循環だけでは、生命エネルギーはいずれ枯渇してしまうのです。それは、熱力学の第2法則(エントロピーの法則:エネルギーは均質になっていく。熱湯+氷=ぬるま湯)に示されている事実でしょう。この状態が自然循環です。

エントロピーは増大し、エネルギーは均質になっていく(特徴がなくなり、無秩序になる)。

自然界(宇宙)はそのような法則で動いていると想定されますが、生命活動など一部の分野では、エントロピーが縮小し、複雑さを増していく(特徴を持ち、協調的に振る舞うようになる)のです。それは生命が外部にエントロピーを散逸させるからなのですが、生命はその繰り返しの中で次第に”揺らぎ”古い構造を捨て、新しい構造に変化していくのです。

生命を進化させるエントロピーの散逸。では生命はどこにエントロピーを散逸させているのでしょうか?

きっとそれが天であり、無限にエントロピーが拡大し続ける世界であり、無限の「ない」世界なのです。地球も生命です。地球も天(宇宙空間)にエントロピーを散逸させることにより成り立っています。無限の「ない」世界の支えられたエントロピーの縮小。それが天然循環です。

つまり、自然循環では世界のエントロピーは増大し、そのエネルギーは特徴をなくし無秩序になっていきます。ですが、天然循環では、世界はエントロピーを縮小し、エネルギーは個性を発揮し、協調的に振る舞うのです。

ここに今の社会の行き詰まりを解く鍵があります。

2ヶ月前の話になりますが、NHKのドキュメント72時間「金券ショップで掴む幸せは」をファミリーのみんなで観ました。番組では金券ショップに訪れる様々な人々が描かれていました。金券はいらない人から必要な人へと循環されていきますが、人々を繋ぐことはなく、人は自分の世界に閉じこもっていきます。どこか無機質な世界が展開される。これは自然循環であり人々の生きるエネルギーはいつか枯渇するのではないかと思うのです。

天然循環は天にエントロピーを散逸させます。それは人々を外に開かせ、繋がりを生み出します。循環を通して人々が繋がっていくのです。「恵みいただきます」では、自然からの恵みを収穫し、調理し、お客様に提供します。それを通して、人と人、人と自然を繋げていくのです。人々が語り合う豊かな会場がそのことを物語っています。繋がりを生み出す循環。それが天然循環です。そして、その繋がりを生み出すために欠かせない存在が天であり、無限の「ない」世界です。自分を手放し天に意識を向けることにより、エントロピーは天に散逸し、個性が花開き調和した社会が実現していきます。その雛形が木の花ファミリーであり、「恵みいただきます」は多くの人にその「恵み」を提供する機会になっているのです。

以下、当日の写真を何枚か紹介しますね。

手打ち蕎麦。大きなかき揚げが乗っかっています。

蕎麦職人のやじおさん
山菜ちらし寿司です。

会場の様子です。
外では苗も販売していました。こちらから注文も出来ますよ。
まりちゃん手づくりの麻ふんどしも販売しました。色鮮やかです。
恵み終了後はファミリーのみんなでお食事です

天然循環法がもたらす本質的平等

中国で、前最高指導部、周永康氏の共産党党籍が剥奪され、逮捕などの刑事手続きが進められています(NHKニュース参照)。周氏は、汚職が原因で初めて党籍を剥奪された最高指導部経験者となります。政権に蔓延している汚職が、共産党の政権党の地位を脅かすと考えた処置のようです。中国の行き詰まりを現わしています。

中国における経済成長の渦と循環型経済の渦にも書いた通り、そんな中国でグリーンビルディングの実践をする25名の人々が木の花ファミリーを訪れました。この出会いはとても貴重で今日の大人ミーティングでいさどんは以下のように語りました。(僕の記憶で書くので正確でない部分もあるかもしれませんが・・・)

中国人にしたプレゼン資料から
人間でも中途半端に苦しんでいる人はなかなか改善しないが、苦しみが行き着くところまで行った時、ぱっと改善していく。中国は行き着くところまで行っている。これから中国は大きく変わっていく。このタイミングで中国から木の花ファミリーに25名の人々が訪れた。とても大きな時代の流れを感じる。時代の流れとは生そのもの。時の流れが生命を生み出している。誰も自分で生きている人はいない。生命は時の流れに生かされている。そして、その仕組みは「満つれば欠ける世の習い」。どんな存在も経済もこの仕組みの中にある。


中国は共産主義の国だった。そこに資本主義が中途半端に入り変なことになっている。その中国が正常な状態に立ち返る。立ち返る先は共産主義ではない。それは天然循環法による暮らし。木の花ファミリーは今、中国と出会っている。それはまだ小さな渦かもしれないが、これからどんな未来が訪れるかとても楽しみ。

いさどんの話を聴きながら僕は思いました。共産主義は形で平等を現わそうとしました。そこには無理があり、文化大革命などの悲劇が起きました。一方、天然循環法は本質的な平等をもたらします。その実践をすることで木の花ファミリーはこれからの社会のモデルとなるのでしょう。

それでは本質的な平等とは何か?
木の花ファミリー憲章「家族・本質的な平等」には以下のように書かれています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

木の花ファミリーは全体としてひとつのいのちを構成し、すべてのメンバーはその一部として欠かせない役割を担っています。性別や職種といった社会的な役割や能力の違いを超え、誰もが互いに対等であり、完全に平等です。

大自然の中で、すべてのいのちは互いに生かしあって存在しています。いのちはそれぞれの個性に応じた欠かせない役割を持ち、互いに対等です。一方、自我を持ち、自他を比較する人間の心は、本来平等であるはずの人々の関係に格差や支配をもたらしてきました。
そこから生まれるさまざまな問題を解決しようと、人間社会は法にもとづいた形式的な平等を作りだしてきました。しかし、こうした方法は、本当に人々の個性を花開かせ、平和な社会をもたらすのに十分なものでしょうか。

私たちは、人間が真の平等に至るには、いのちの本質を見据え、その姿にならう必要があると考えています。自然の営みをある限られた視点から見ると、そこは互いの生存をかけた競争の世界にも見えます。しかし、より大きな視点で見れば、自然はいのちのバトンタッチで成り立っており、すべては循環していることが分かります。その視点に立ったとき、人はいのちが持つ本質的な平等を見出すことができるのです。

私たちは不平等を生み出す心を日々の暮らしの中で見つめあい、手放すように心がけています。皆で語り合い、自らの心の枠を広げることで、他によって生かされ、他を生かす存在としての自分に気付くことができます。そして、自らの役割に対する自覚とともに、他の存在への感謝の心が育っていくのです。

あなたはわたし。わたしはあなた。つながりの中で生かし合うこの世界で、すべてのいのちはひとつであり、本質的に平等です。互いを尊重し、信頼しあう暮らしの中で、私たちの絆はいのちの本質に限りなく近づいてゆくのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡 


天然循環の暮らしにおいて、現象はそれぞれに相応しく与えられます。我欲に基づいて生きれば、それはそのまま自分に返り、滞りを生みます。我欲をなくせば、時の流れとシンクロし、物事がスムーズに進みます。現象はすべての人々に平等に与えられ、常に自分自身を教えてくれるメッセージとなります。どんな現象も有難くいいただくことで人は成長することが出来るのです。このような生活に中で自分を知り、みんなと一つになり時代と一つになっていくのが木の花ファミリーの暮らしです。

経済(富の流れ)もこのような暮らしの中で、循環しすべての人々を満たしていくでしょう。

中国が変わっていく。

どんな未来が訪れるかがとても楽しみです。






田んぼ隊チェーン除草にみるスモール・イズ・ビューティフル

木の花茶会と7月~9月期GDP速報値でも引用しているE・F・シューマッハーの『スモール イズ ビューティフル』。この本は石油危機を予言したと言われ、当時ベストセラーになったそうです。

この本の概要をまとめると以下のようになります。
※この本を読んだのは数年前なので、記憶が曖昧な部分もありますが・・・

1970年代、世界は、生産を増やすことで貧困の撲滅を目指していました(ケインズ主義)。ですが、それは有効に働いていませんでした。生産を増やすことでは貧困は解決しないことが明らかになっていました。そして、資源は有限性も問題になりつつありました。この現状で、生産の拡大を続けることは人間社会の破滅につながります。

文明の核心は、欲望を増長させることではなく、人間を純化させることにある。シューマッハーはこのように考えます。そして、経済も人間性を純化させる必要があると考え、仏教経済学を提唱します。仏教経済学は、自然の循環システムに基づくもので、「足るを知る」人々からなる経済です。

この経済を実現するために必要となるのが、中間技術(適正技術)になります。中間技術とは、伝統技術よりは生産性で優れており、資本集約型の大量生産技術のような環境破壊はもたらさない技術です。それは、それぞれの地域に文化・経済・社会に適したものであり、人々のニーズを満たし、環境にも負荷をかけない技術です。

具体的にはどんな技術か?

現代社会では、多くの技術は機械によってもたらされますが、機械化には2つの種類があります。一つは人間の技能と能力を高める機械化、そして、もう一つは、人間の仕事を機械という奴隷に引き渡し、人間をその奴隷に従事者にしてしまう機械化です。

中間技術(適正技術)は前者、人間の技能、能力を高める機械化です。そして、中間技術(適正技術)は、地域の特性を活かすものであるため、地域毎にエネルギーや食の地産地消を促します。そのため規模も大規模なものにはならず、環境への負荷も抑えることが出来るのです。
本の中では、具体例として、小規模水車が挙げられていました。


富士山の麓でチェーン除草しています。
自給自足の生活を基盤とする木の花ファミリーの生活は、この中間技術(適正技術)により成り立っていると言えます。そのうちの一つが、田んぼ隊が行っているチェーン除草です。

天然循環法により作物を育てる木の花ファミリーは、農薬や除草剤は使うことはありません。よって除草作業がとても大きな作業となります。その除草を効率的に行うための技術がチェーン除草です。内径50mm長さ3メートルの塩ビパイプに長さ30cmのチェーンを3cm間隔で付けていく。それを引き摺って田んぼの中を歩くのです。この除草は、雑草が小さいうちにすることが大切で、適期にチェーン除草をすることが出来ると、雑草の生育を抑えることが出来て、その後の作業がとても楽になると言います。環境にも大きな負荷を掛けずに人間の身体を鍛える。そして、作業の効率性が大きく増す。まさに適正技術と言えるのではないでしょうか?

愛とお米があればいい

これは木の花ファミリーが大切にしている言葉の一つです。
僕たちはお米をとても大切にしており、お米の生育を重要な節目としています。
5月には田楽田植え祭り、9月には収穫感謝祭を行い、自然の恵みへの感謝の心を育みます。

5月の田楽田植え祭りの様子

9月収穫感謝祭後田んぼ隊で撮影


木の花ファミリーのお米は、天然循環法により、自然界の奥の響きを感じ、作物そのものが持つ生命力で育ったお米です。購入して下さったお客さまから素敵な感想もいただいています。
豊かな生命力あふれるお米を是非多くの方に味わっていただきたいと思っています。
ネットショップで購入することが出来ますので、是非お試し下さい。

晃ちゃん@人参畑~出張木の花塾にも参加します~

そして、天然循環法について興味を持たれた方は、11月30日に千葉県千葉市で開催される出張木の花塾@千葉「すべては響き~宇宙視点の農」に是非ご参加下さい。
農という切り口を通して、命、そして宇宙の本質を共に感じる時間となることでしょう。





みんなで落花生収穫をしています。





天然循環経済学への系譜/二宮尊徳と大原幽学

ゲゼル研究会を主催している森野栄一さんにこのBLOGを読んでいただいたことがあります。
農事組合法人木の花ファミリーと6次産業化」など農事組合法人について記載した文章に興味を持っていただき、江戸時代後期に大原幽学が設立した先祖株組合の存在を教えていただきました。

この先祖株組合は天保9年(1838年)に設立されたもので、世界で初めての農業協同組合です。
大原幽学は、先祖株組合の設立以外にも、農業技術の指導や耕地整理、質素倹約の奨励などを通して農民を指導し、長部村(※現在の千葉県旭市)の農村復興に貢献したといいます。

同時代には、二宮尊徳もいます。二宮尊徳は報徳思想を広め、農村復興に貢献していきます。報徳思想は、経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく、社会の貢献に努めることがいずれ自らの幸せに繋がるという思想です。この思想は、神道、仏教、儒教の教えと農業の実践から生み出されました。二宮尊徳の功績は大きく、大飢饉で疲弊した600以上の農村を復興させています。また世界で初めての信用組合である五常講を作りました。

この2人が活躍したのは、幕府の財政が逼迫していた江戸時代後期。人口も減少していたといいます。現代と共通する特徴があります。この時代に活躍していた2人からは学ぶ点が多いのではないかと思っています。

まずは協同組合や信用組合の設立精神から学ぶことがあるかと思います。
収益を上げながら社会問題を解決していく社会的企業
協同組合や信用組合はそれを支える組織形態として特にヨーロッパで取り組みが進んでいます。
日本でも2013年2月に放送されたNHKのクローズアップ現代『働くみんなが経営者~雇用難の社会を変えられるか~』で、協同労働が紹介されていましたが、それは協同組合に繋がります。
大原幽学や二宮尊徳の取り組みは、この社会的企業の始まりと考えらえます。
その設立の精神はこれからの社会に生かされていくことでしょう。

木の花ファミリーも、農事組合法人として、この協同労働の仕組みを採用し、一人一人が独立した経営者として働いています。これは人々が助け合って働く組織形態としてこれからの社会でより必要になってくると思っています。そして、それをさらに進めたものが生活も協同で創り上げる木の花ファミリーの暮らしです。それは生活することがそのまま社会のためになるシンプルで自然な暮らしです。

次に2人の思想からも学ぶ点は多いかと思います。
大原幽学も二宮尊徳も農業の実践からの学びを生き方に繋げていきます。
土を基盤とする農を大切にすること。それは自然への感謝。環境への配慮にも繋がります。
経済も人や自然への配慮、道徳と融合していきます。

道徳を忘れた経済は、罪悪である。

経済を忘れた道徳は、寝言である。

上記の二宮尊徳の言葉は今の社会に対しても大切なメッセージとなっています。

生姜畑で休憩中
木の花ファミリーも、農法である天然循環法を生活、そして生き方へと繋げています。そして経済もその生活を基盤としています。

いのちがいのちを支え循環していく。

そんな農法であり生活であり経済が天然循環法であり、天然循環経済学です。
この循環には「ない世界」から「見えない世界・ある世界」への循環も含まれます。
一つ一つバラバラに見える現象世界の物事も潜象界(ない世界)へ行くとすべて一つです。
いのちの源に還り、そこから存在や事象を読み解き、味わい、過去から未来へと繋げていく。それは宇宙の始まりから続く循環の流れに想いを馳せることであり、今この瞬間にそれを表現していくことです。

二宮尊徳や大原幽学の精神もこの流れの中で生かすことで、未来に繋がっていく。
そんなことを今、思っています。


※ちなみにゲゼル研究会のゲゼルとは、シルビオ・ゲゼルという20世紀初めに活躍した経済学者です。ゲゼルについては、機会をあらためてこのBLOGで取り上げようと思っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

天然循環法に興味を持たれた方は、11月30日千葉県千葉市で開催される出張木の花塾『すべては響き~宇宙視点の農』にご参加下さい。きっと刺激的で充実した時間になるかと思います。



前回の出張木の花塾の参加者です。

シンクロニシティとカタカムナ

10年ぐらい前、僕は、F・D・ピートの『シンクロニシティ』という本を読みました。
シンクロニシティは共時性と訳されますが、
虫の知らせや偶然の一致などの現象を現わす言葉です。
シンクロニシティが生じる時、直感的な意識と行動が調和し、
物事の流れがスムーズになります。
分析心理学者のユングは、この現象の背後に法則性を感じ、
普遍的無意識元型などの概念を生み出していきます。

F・D・ピートは、この本で、シンクロニシティを題材に精神と物質の本質に迫ります。
※記憶が曖昧な部分がありますが・・・

精神の本質は「動き」、流動性にある。
そして、物質の本質は「固まり」、固定性にある。
この本ではまずこんなふうに精神と物質の本質を定義します。

ですが、ことはそんなに単純ではありません。
流動性を本質としている精神ですが、
トラウマや心のしこりなど固定した要素を合わせもっています。
そして、固定しているように見える物体の中では、素粒子が常に動き続けています。
つまり物質は、流動的な特徴を持ち合わせているのです。

こんなふうに観ていくと、精神と物質の境界が曖昧になり、
この2つは分かることが出来なくなります。
精神と物質とが重なる領域、その領域からすべては生まれていて、
この領域と意識が調和する時、シンクロニシティは生じるというのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

ところで、11月10日、11日と、木の花ファミリーでは、カタカムナ勉強会が開催されました。

カタカムナ勉強会(講師の芳賀さん)
「カタカムナから観た経済システム」でも触れましたが、カタカムナ文字は八鏡文字(はっきょうもじ)と呼ばれ、イロハ48音を表しています。
一つ一つの文字には魂が込められていて、
それは「言霊(ことだま)・音霊(おとだま)・数霊(かずたま)」となり、宇宙を創り上げています。

カタカムナの図象は、「ない世界」から「見えない世界」、
「ある世界」へと物質が生まれてくる過程が現わされています。

この世界には、トキ軸とトコロ軸があります。
ある存在が生まれる時、まずはトキ軸を、自転と公転により旋回します。
この時点ではまだ物体にはなりません。
この動きに螺旋と循環が加わることにより、トコロ軸が伸びていき、
質量を帯び、質的転換をし、物体となっていきます。

その姿は太陽系の運行を描いたVORTEXの映像が見事に表現してくれています。
星の運行は物質生成の姿を見事に表してくれていて、それは僕らの身体にも共通します。

膨張と収縮、精神と物質、相反する二面性を帯びた運動により渦が生まれます。
相反する運動を続ける二つの渦が生まれ、支えないながら共に育っていきます。
一つの渦に固執し、動きをなくすと両方の渦の力が弱まります。
物質偏重で来た現代社会は、そのために渦の力を弱めていると言えます。
渦と渦とを「うずうずしながら」ダイナミックに動いていくことにより、安定し発展します。

この講義を聴いている時、僕は上記の本の存在を思い出しました。
相反する存在の境界を曖昧にし、自由に移動すること。
カタカムナが示す生き方が、そのままシンクロニシティを生み出す土台となるのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

経済を英語で言うと、エコノミーです。
その語源はオイコス(家・人々の結びつき)のノモス(規則)です。
その土台にはエコロジー(オイコスのロゴス=人々の結びつきの真理)があります。
人々の結びつき(=社会)の運営を司るのが経済です。

そうすると、大切なのはエネルギーが循環し、すべての人々へ行き渡ることです。
天然循環経済学はその実践方法を示すと共に、その実践を記述していきます。
直観を磨いていくことで、相反する存在の境界を越えていくこと。
それは、すべての存在の元となる「ない世界」=潜象界へ意識を向けていくことです。
そうすることにより、この世界のすべての出来事、存在が繋がっていき、シンクロしていきます。
この時、すべての存在は潜象界からの無限のエネルギーに満たされているのでしょう。

そんな未来を思い描いて。
心を磨き直観を磨いていきます。


カタカムナ勉強会の様子です。





天然循環経済学の誕生!!!

自然農法 → 天然農法 → 天然循環農法 → 天然循環法

この1年で僕たちは農法の呼び名をこれだけ変えてきました。
それは自分たちの実践の変化を踏まえて、より適した名前を求めてのことでした。

10月中旬、畑隊の晃ちゃんから天然循環農法(当時の呼び名)のプレゼンテーションがありました。


晃ちゃん@人参畑
実際の畑の写真を観ながら、現在、木の花ファミリーが行っている農法の説明をしてくれました。

団粒構造の土の様子やキャベツや人参、大根、苺、パパイヤなど、美しい作物の写真を通して、それを生み出している日々の営みが説明されました。

このプレゼンテーションを受けて、「これは農業の枠に留まることではないね」という話になり、天然循環法と名前を変えました。新しく発行された木の花ファミリー通信Vol.80には、この時の晃ちゃんの話が記載されています。以下、その一部を転記しますね。

☆彡 ☆彡 ☆彡

気付いたのは、肥料って本当にいらないんだ、ということです。今まではボカシをあげていたけど、ボカシは米ぬかなどの有機物を一度微生物の力によって分解し終えたもの。それよりも、命そのものである生きた作物を次の命へとつなげていくことが、より命を豊かにしていくということに気付いたんです。今年は実験的に、キャベツなどの畝間に大豆を蒔いています。大豆の根には根粒菌がいて、作物の養分となる窒素を固定するので、最初キャベツは余分な栄養が吸えません。
キャベツ畝間の大豆
だけど結球期に入る前のあるタイミングで大豆を切ってやると、今度は大豆が微生物やキャベツの養分となっていく。それには直感で「今だ!」と感じるタイミングがあるんです。こうして育てたキャベツは、本当にやさしい味をしています。人参ももうずっと無肥料ですが、とても清楚で、美しい姿をしています。
 潜象界から現象世界へと命が現れる時、最も小さなものから現象化する(形になる)といいます。そしてだんだん大きなものへとバトンタッチされていく。微生物を増やすといいということは、これまでの自然農法でも言われてきました。しかし天然循環法では、目に見える微生物たちのさらに奥にある世界を観ています。そこは響きだけの世界。現代の科学では捉えることのできない、神の世界です。

 僕は微生物を増やす行為をしている時も、カタカムナのうたいを上げる時も、意識は常にそこを向いています。全てがそこへの働きかけです。そしてそこに遍満する宇宙根源の響きがあるところに達した時、命となってこの現象世界にぽっと現れる。命とは「みこと」、つまり神そのものなんです。そこにたくさんの命があればあるほど、それによって支えられる作物の命は豊かなものになります。その豊かな命によって、僕たちの命もまた支えられていくんです。
全ての生命は、それぞれの響きを持っています。僕たちの発する響きが、そのまま命として表現されていく。天然循環法とは、完成形を作ろうとすることではなく、元の響きを響かせ、その命が本来の生命力のままに自ら完成形となっていく場を整えることなんです。

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命とは「みこと」。神の御言(みこと)から生まれた御事で神そのもの。
その命が命を支えていく。
天然循環法はその場を整えていきます。

天然循環法には大きな可能性が秘められていると思います。

今、学問は細分化されていると言われていますが、
天然循環という視点で細分化された学問を統合していくことが出来ます。
そして、天然循環は実践から生まれた理論であり、目指すべき姿勢を示しています。
つまり理論と実践の統一を図ることも出来ます。

宇宙の始まりから現在に至るまで。
「ひとつらなりのいのち」としての流れがあります。
この流れは未来に渡って続いていきます。
そんな大いなる視点の元に人間の営みを位置づけることが出来るのです。

もちろん経済も人の営みとして、この流れの中に位置づいています。

それは、天然循環経済学と言えます。

天然循環経済学は、「仕組みに頼るのではなく」で書いた、
仕組みを生み出す心を表現するものであり、流れを表現し人々に感じてもらう経済学です。

それは既存の学問から観たら科学とは言えないものかもしれませんが、
きっと人々に多くの希望と可能性をもたらすものになることでしょう。

そんな経済についてこれから少しずつ書いていきます。


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ところで11月30日に千葉県千葉市で「出張木の花塾」が開催されます。
テーマは「すべては響き~宇宙視点の農」です。
天然循環法について詳しく知ることが出来る絶好の機会です。
是非、ご参加下さい。

前回の「出張木の花塾」に参加された皆さんです。



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