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海そのものとして生きていく

2009年の12月、僕らは木の花ファミリー憲章の制定に向けていろいろ話し合っていました。当時のことを思い出していたら、その頃ジイジ(当時はいさどん)が語った以下の言葉に出会いました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

今朝は、起きた途端にネガティブな想いが湧いてきた。
世の中にはいろいろな人がいる。
フリーな立場にいる人たちが、
ここの活動や発信していることについて
どのように考えるだろう。

最近の僕のブログにしろ、
木の花が発信している情報にしろ、
非常にマニアックだと思っている。
ここの世界の中だけにある、
内弁慶のようなものと取れないこともない。
それに対する外からのブレーキや
メッセージを客観的に検証してみると、
たとえば、以前ここを訪れた方から、
「対外的に発信することは、多少調整して、
出すことと出さないことを
考えるべきなんじゃないだろうか」
というメールがあった。

元メンバーからは、事実を捻じ曲げて、
自分の都合のいいように解釈する手紙が送られてきた。
「結局、いさどんワールドなんだよ。
理想のところに共鳴しようと思ったけれど、
強制が強いから出てきてやった」と。

ここのところ、
体験ツアーの参加者の人数が落ちてきたり、
野菜などの消費者の伸びも落ちてきたりしている。
これも、ここが発信しているものが
影響しているのではないか。

また、ブログに対するコメントが
最近少なくなったことについても、
ここが非常にマニアックな世界に
入っていくことに対して、
ついていけないということの表われではないか。

ここには、沢山の人たちが訪れるけれども、
継続してここに関わるということが定着しにくい。

ここは、今まで人々が歩んできた
価値観を否定する存在である、という見方もできる。

私たちが進めようとしている綾部のプロジェクトも、
とんとん拍子にはいかない。
そういったことも、
私たちが一方的に事を進めていこうとする結果として
起こっているのではないか、
と考えてみる必要がある。

僕がバランスを欠いて、
マニアックなところへ走っていることに対して、
皆を巻き込んですまない、と
皆に伝えるべきかなと。
なぜかというと、ある見方からすれば、
確かに一つ一つの言葉や
ここの在り方について話していることは、
筋道が通っていて、その通りである。

しかし、筋道を通していった時に、
誰もがそれを正しいんだと思ってしまって、
一種のマインドコントロールのような世界になり、
内弁慶のような場をつくってしまうことになる。

今朝、なぜ自分に
いきなりこんな発想が浮かんできたかということを、
客観的に検証してみようとするのだけれど、わからない。
「朝の想いは、神の意志」ということからしたら、
神様の意思であるという見地からものを観る必要もある。

全くここに利害を持たないところから、
ここはどんなふうに見えるんだろうとずっと考えてみた。
超否定的な、非難的なメッセージが、
そこにはありえるなと思う。
では、どうしてそういうことが起きるのかというと、
自分たちがやっていることを一方の方向だけから観て、
他方の方向を観ないから。
一方をいいものにして、
他のところを一切観ない時に、
陥りやすい現象である。

それを追っていった時に、
今朝のこの想いは何だろうと。
未来に対して暗くて孤立したここの景色が観えてくる。
ここの存続が危ぶまれるような状況になっている。
そういう発想にもなってくる。

それをさらに展開させると、
そういう懸念があるからこそ、
それをかき消そうとして、
最近の僕のブログにしろ、
ここから出ているメッセージがあるのだとも思う。
見えない危機を感じて、見えない意識を働かせて、
そういうところに陥っていくのではないか。

私たちはここで、
一般社会とはちょっと違う生き方をしている。
ことによっては、大いに違う生き方をしている。
それは全ての人に否定されるものではないけれど、
一般社会という枠からすると、
なかなかできないことであったり、
アレルギー的に否定されるものである。

それを私たちが、
新しい社会の概念として捉えている。
それはこちらにとって都合のいい勝手な解釈で、
マスターベーションのようなものだ。

今、ここに対して
ネガティブに受け取った場合の表現を全部出してみた。
僕自身としては、
巧みに語ることによって、
皆をそこへ巻き込んで、
もっと悪い言い方をすれば、
皆をマインドコントロールしている。
だから、皆に詫びなきゃいけないという心が湧いてきた。

こういったネガティブな考え方を
心の専門家として見ると、
うつ病の始まりになる。
物事を悪く悪く、
どんどん悲観的に取っていった時に、
心の病気になっていく。

ここ23日、僕は重い夢を見ていた。
それから、ここのところ、
ちょっと疲労が溜まっている。
僕はうつ病を患っている人に
「まずは休みなさい。
環境を変えてフリーな時間を持ちなさい」と
提案するんだけれど、
自分にもそう言えるなと思っていた。

今、湧いてきたネガティブな思考は、
ただネガティブなだけなのか、
それとも、そこのところへ
気づかずに進んでいった結果なのか、
どういう捉え方をしようとも、
いずれにしろ、
ここの状態を否定する考えがずっと出てきた。

大人のメンバーに対しては、
そこへ皆を引っ張ってきた自分がいて、
申し訳ない。
子供たちについては、
皆の未来を極端な強制の中に置いて申し訳ない、
ということを想っていた。

これを、うつ病の始まりとも言えるな、と診断していた。
今、ひとつずつ挙げてきたことを検証していくと、
そうとは言えない。
どれも、「それはこういうものの見方をしたらこうなる」という、
違う解釈ができる。

世の中にはいろいろな人がいて、
人々の受け取り方は自由である。
マイナスな発想は、私たちの中にも常にあるはず。
自分の願いを叶えて、
自分の好きなように生きていきたいという心は、
誰にでもある。

それを、自分の意思で制御して
生きていくことが大事という心も出てくる。
その葛藤はなんだろうと思う。
私たちがどちらを選んだかというと、
自分の中から湧き出てくる葛藤をコントロールして、
自分の中に秩序を持たせようとしてきた。

悪く考えていけば、
うつ病のようになっていくし、
自分の中にある欲望をどんどん叶えていけば、
体のバランスを崩す。
それは、自分の内には心や体の不健康、
外には社会の不健康をもたらすから、
コントロールして生きているのが私たちである。

神様に、この想いは何ですかと問うてみた。
最近、全然心を向けていなかった。
一人で歩んできたなと思って、心を向けてみた。
そうしたら、何も回答がない。
かすかにあるなと思うのは、進んでいけばわかる。
そこには、何も問題はなしともあるとも、何もない。

それを、見捨てられていると捉えることもできれば、
もう十分に託してあるので自分の道を歩め、とも取れる。
「我即神也」である。

ずっと今朝の想いを挙げながら、
常にいい方向いい方向へ誘導しようという心を、
もし一方通行としたならば、
逆の悪い方向へ悪い方向へ、
いろいろと考えてみた。

僕は、そういう一方通行で
皆を誘導しているのではないか。
それこそが、
マインドコントロールなんだというところに行き着いた。

そこから、さて、どうしていくのか。
僕のワールドの押しつけ、
マインドコントロールを皆に問うて、
一人一人にどうしていきたいのか考えてもらう。
それが必要なんだなと。
でも、必要なんだな、と言うと、
必要なということをもう既に押し付けている。

つまり、今の世の中に、右と左があって、
だから真ん中があって、この世界ができている。
いろいろなことが移り変わって、
今の世の中の状況があり、
その中に私たちもいるのだから、
一人一人がそのことに気づいて、歩む道を選択する。
それが大事だと思った。

僕の中には、
さっきの悲観的なものの見方に対する代替案がある。
マイナスだとしたら、
それを打ち消すプラスの考え。
プラスだとしたら、
それを打ち消すマイナスの考えや見方がある。
今までも、そこのところを社会や人の
トラブル、不健康と捉えて、
私たちがどちらの方向へ行くべきか考えて歩んできた。
それが一方通行であるということ。

しかし実際、世の中にはいろいろな考えがあって、
人間がどちらへ行くかは自由である。
そうしたら、自分の進む方向を
一人一人がもう一度、自分で検証して、立つべきだと思う。

それをまた、大事というと、
それもまた方向付けになる。
そこで、一切方向付けをしない。
材料だけを提示する。
敢えて、今は「こちらの方向が大事」という
ポジティブな発想は語らないで、
ネガティブな発想だけを語った。
ずっと今まで、ポジティブなことばかり示して、
「そちらに行くことが大事」と語ってきたから。
敢えて、そちらのほうは全然語らず、
ネガティブな発想だけを語り、
それ自体も自由な選択肢の一つですよ、と。

誘導は一切なくて、個が自分の道を選んだ結果、
もし共にあるとしたら、結果同じだったね、と。
共通の意識を持つ人が集まったね、ということ。
今もそうなんだけれど、
よりそのことをしっかりと確認したい。
敢えてこんなことはする必要はないのかなとも思うんだけれど、
敢えてする必要があるのかなと。

私たちがどうするべきなのかということには、
もう一つ、尺度があって、
この社会やその中にいる私たちの位置。
それは、心の位置であったり、
具体的な生活の位置であったりする。

この世界ができてきた成り立ち、
人間的な概念を超えた自然や地球、
宇宙というものの見方から、ここを観ることもできる。
この世界は、創られて維持されている。
そこから捉える。
未来についてはわからない。
過去と現在の視点から、これを捉える。

その視点と合わせて、
さらにこのフリーな世界で、
どう私たちが生きていくのか、
考える必要があるなと思う。

この結論は、個々に任せようと思う。
憲章を創る前に、
これを皆に提示しようと思っている。

そうやって、僕の縛りから皆を解き放ちたい。
皆に皆を預けたい。

もしあなたの中に神がおられて、
それを信じたら、行動して下さい。
あなたの意思として、行動して下さい。

決して一つの方向や、
イデオロギー的なことや
宗教的な方向に誘導して、
それに誘導されたものたちが集まって
生きている場所ではない。
独立した個人が、その個人それぞれの思考の中で
大事と思うことを選んで、
選んだ時に共通するものに出会って、
それが集ったものである。

だから、これは特定の誰かワールドではない。


皆ワールドである。


☆彡 ☆彡 ☆彡

当時、この言葉はいろいろな人たちの心に響きました。ブログ「ひとりひとりに問う」にはいくつかコメントがついているし、ファミリーメンバーはこの言葉をきっかけにそれぞれがそれぞれの想いを「ひとりごと」として語りました(「皆のひとりごと」参照)。

語ることが道理に適っているから多くの人に影響を与えて、こうやってみんなで暮らす生活が始まったことでみんなの人生にも責任を感じてきたジイジ。そのジイジが向き合ってきたプレッシャーは僕の想像をはるかに超えるものなのだと思っています。そしてそれがそのままジイジという人の大きさを生み出しています。

みんなで共に暮らすトキ、みんなをまとめる心が必要になります。それが一人の人から出続けると、外から見たら、誘導や強制に見えることもあるでしょう。共感できない人が一緒にいたら反発する心も生まれてきます。

僕ら木の花ファミリーの暮らしは、一人一人が自分の自我を超えていく取り組みです。自らを分けると書く「自分」。そこから生まれる自我は、自らを世界から際立たせることで自らの存在を示そうとしています。「違い」を示そうとすることで、時と場合によって違うことを主張したりします。

普段、子どもがうるさいと怒っているのに、他の人が同じように怒っているのを見ると、「そこまで怒ることはないだろう」と感じて止めたくなる。

例えば、そんな感情が芽生えたら、目の前の状況に自我が反応し、自分を際立たせているだけなのかもしれません。自我の反応を超えたら、怒るだけでなく、冷静に伝えたり対話をする道も拓けます。

自我は自らを世界から際立たせます。みんなと一つになることを理想に掲げても、自我は一つになることを拒みます。自我にとって、一つになることは自らの消滅を意味します。

自我は浮かんでは消える波のようなもの。消滅しても次の自我が表れます。その動きを見通すことで海そのものである自らの本質へと至るのですが、自我の視点からは、その事実が見えないものです。

違いを生み出す自我の反応の奥にすべての人が分かり合える視点があります。その視点から見たトキ、自我の動きも全体の中で生かされていくのです。この暮らしはその視点へと至る道ですが、その過程では様々な反応に出会います。誘導や強制だという反発も、過度な称賛も、すべてはそこへと至る過程でそれぞれの自我から生まれるものです。

自我を超えていく。

この道は何かを期待して始めるものではありません。真理は固定したものではなく動きの中で変化し続けるものです。集い語り合うことで常に新しい真理を見出して、それにそっていく心を育んでいくことが生きる目的です。何かを得ることが目的ではなく、自分の心を磨き続けることが目的となります。

真理は誰から出てもどこから出てもいいのです。それは表面的な形のことで重要なことではありません。例えば、一人の人から真理が出続けるならば、それは全体としての未熟さの表れではありますが、大切なことは形の奥にあります。形は一人一人が成熟することでおのずと整っていきます。ジイジがこの言葉を語ったトキから9年が経っていますが、今は僕や他の人から生まれる真理もあります。それはコミュニティの成熟を表していると思っています。

なんにせよ大切なのは形ではありません。反発や称賛、そして期待や不安。これからも様々な波に出会うと思いますが、常に波の奥を見通して海そのものとして生きていく。そして未来は天に委ねます。

9年前のジイジの言葉に触れてこんなことを思いました。

木の花ファミリーのみんなです。

ただいただいたものを答えとして逞しく生きていく

1年前の今日、僕はジイジ(当時はいさどん)と一緒に夕食を食べました。その日は僕の慰労のための食事会だったのですが、そのトキ、ジイジはこんな話しをしてくれました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この暮らしを始める時、自分の持っているものが自分ものでなくなることの喜びがありました。それは最初、お金や私有財産だったりしましたが、それが血縁や身近なものを手放していく喜びに繋がっていきました。ところが、これをやってきて、それが素晴らしいと思えば思うほど、そして究めれば究めるほど世の中とのギャップを感じてきました。そして、たくさんの無理解者と出会ってきました。周りに理解がないと人はくじけるものです。だけれども大事を持っているからこそ、これを続け、くじけそうになったら広い視点から見てその大事を確認してきました。そして歩むことを恐れません。その結果は、思い通りになるということではなく、ただいただいたものを答えとして逞しく生きていくのです。そうやって価値を積み重ねてきました。時代の流れを見るとこれは必要な生き方だから、それを先駆けとして生きていくのは尊いことです。ところが今の評価を欲しがると人は崩れていきます。今の評価と先駆けとしての生き方をどう織り交ぜるか?そんなことが問われ続けます。

そんな中、なかのんは風当りの強いところで役割をこなしてきました。それは定めということもありますが、その定めは僕に寄りそってきたからです。批判の対象は本来、僕。僕の近くにいるからそういう役割をこなしてきたのです。それがここのところ、なかのんは自分で立って、自分の道として、その役割をこなすようになって来ています。それに対して僕は感謝の言葉は掛けません。なぜなら、なかのんが自分で歩んで自分の価値を高めているのだから。ただ、その孤独と辛さを僕は知っています。だからその歩みに対する慰労の気持ちがあって、それでこの場が持たれました。

その位置に立つと誰かに頼ることは出来なくなります。支えになるのは自分自身のこの道に対する覚悟だけです。自分で生き方を確立し、それを自分に伝えていく。自問自答しかないのです。
☆彡 ☆彡 ☆彡

あれから1年、僕は1年分、歩みを進めてきました。僕らは今の社会で生きているのだから、今の社会からの評価を完全に無視することは出来ません。ですが、それは欲しがる対象ではなくて生きていくためのただの情報と言えます。

情報として社会からの評価を意識しながら、自らの道を歩んでいます。

評価は外からの刺激であり、それは自他を区別するから生まれます。自他を区別することで優越や劣等の価値基準が生まれ、生きるために一定の評価が必要となります。そして人は評価を求めて一喜一憂することになります。現代社会では、薬物やたばこ、お酒や買い物など様々な依存症が社会問題となっていますが、それらはすべて外からの刺激であり、外からの刺激に依存し自分の中心を見失っていくのが依存症と言えます。今、社会は評価や評判の良し悪しで動いています。それは人々にとって外からの刺激であり、今は社会全体が評価への依存症となっている。そんなふうにも言えると思います。人々は自らの中心を失い、そして社会も同じように中心を失っているのです。

そんな中、自他の区別を超えて一つになっていこうとする木の花ファミリーの暮らしはとても大切な取り組みだと思っています。自他の区別がなければ、毎日の生活はただ必要なことを淡々とこなすだけとなり、そこに喜びと充実があるのです。それは評価や評判に奪われた自分や社会の中心を取り戻す取り組みと言えます。

自らを分けると書く自分。自我を持つ人間は自らを他から際立たせることで、自他の区別を生み出します。それは絶えず起きる心の動きです。だから社会には一定の価値基準があり、一定の評価は当然必要となります。ですが、それが行き過ぎると依存症のような状態となり人は自らの中心を失い、社会も中心を失っていくのです。

自他の区別を超えていく。

それは表面的な評価を超えてすべてとひとつである本当の自分へと至る道です。

出会う出来事、そしてそこから起きる心の動きはただの情報であると共に今までの自分に対する答え。それらをいただき逞しく生きて、価値を積み上げていこうと思っています。

富士山です。



一つの滞りからみんなが学んでいく

7月5日、西日本を中心に集中豪雨が降り続き被害の拡大が予想される中、安倍首相と上川法務大臣は自民党の若手議員と懇親会「自民亭」を行っていました。集中豪雨は今、実際に大きな被害をもたらしています。7月6日には、オウム真理教の松本智津夫死刑囚ら7名の死刑が執行されたということもあり、その緊張感のなさを問題視する声が上がっています。それは当然の批判と言えますが、同時に以下のようなことも思います。


何かを批判したい気持ちが生じたトキ、自分自身がその対象と同じレベルに陥っている。

そんな経験をしたことがありますが、こうなっている時は、なかなかこの事実は見えません。それはきっと、自分は正しい位置にいて、正しいことをしていると思っていたり、必要なことを伝えようとしていると思っているので、自分が出している空気や波動、周りに与える影響が見えなくなっていくのです。

例えば、上記の出来事だけでなく、加計学園や森友学園、自衛隊日報問題など。安倍政権には批判されて然るべき問題がいくつもありますが、その批判ばかりに心を奪われていると批判の応酬となり、醜いやり取りになっていくことがあります。3年前の安全保障関連法案の際、与野党の議員がもみ合いとなった姿に子どもたちが困惑していたことを思い出します。

批判したい気持ちが生じたトキ、上記のようなことも意識する必要があります。

では批判はしてはいけないのかといったらそんなことはありません。上記の状況を生み出しているのは自我の反応と言えます。自らを分けると書く自分。自我の反応は自らを世界から分けて際立たせようとします。間違えに思えるものを遠ざけ自分を正当化します。その結果、違いが強調され分かり合えなくなるのです。ですが自我の反応を超えて、ただ見える景色を伝えることが出来れば、それは相手にとって有益なものとなりお互い分かり合え成長へと繋げることが出来ます。

冒頭で紹介した安倍首相や上川法務大臣は、集中豪雨の現場や死刑執行の現場から離れているので、それらと自分を完全に切り離しています。切り離すことで配慮を欠いた行動に至っているのですが、それは人類全体が持つ傾向とも言えます。

西日本を襲った集中豪雨ですが、集中豪雨などの異常気象は、天体の動きの影響もありますが、人為的要因も大きいと言われています。近代以降、人類は物理的豊かさを謳歌してきましたが、それが大気汚染や海洋汚染を生み出し、気候変動に繋がっていると言われています。ですが、多くの人は自らの生活と異常気象を切り離して捉え、傍観者や犠牲者となっていくのです。その態度は安倍首相や上川法務大臣の姿勢と変わりがありません。

そういうことを見通したトキ、滞りは批判の対象ではなくなり学びの材料となり、一つの滞りからみんなが学び、より良い世界を生み出すことが出来るのです。

世界との繋がりを取り戻す。

それが今、一人ひとりに求められることで、それは物理的な情報を得ることではなく心で通じ合うことです。自分自身の心の動き、そして日々に暮らしが宇宙との繋がりの中で営まれている。そのことを感じ大いなる流れに委ねて生きていく。そのトキ、一人ひとりの人生が宇宙全体の表れとなり、すべてが繋がりの中で生かされていきます。

そんな世界を木の花ファミリーのみんなと生み出していこうと思っています。

ジャガイモ収穫の様子です。



自分の感情は他者の喜びのためにある

明日7月7日は七夕ですが、昨年の七夕の日、天下泰平さんはこんな文章を書いていました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

本日は77日の七夕の日です。

すでに過ぎましたが、77日の午前1時頃に天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の3つが最も見頃になる時間帯となっていました。


この七夕の夜(77日午前1時頃)のことを別名で「夜明けの晩」と呼ばれています。


かごめの歌にもある「夜明けの晩」といえば「鶴と亀が滑る(統べる)」


天を舞う鶴と地を這う亀の「天地一体・陰陽統合」


七夕の夜の陰陽統合といえば、七夕物語に出てくる「織姫(ベガ)」「彦星(アルタイル)」の男女であり、これは日本の引き離されて隠された神を象徴していると言われています。


織姫は「瀬織津姫(セオリツヒメ)」であり、一方の彦星(牽牛星=スサノオ[出雲王])は「饒速日(ニギハヤヒ)」という話です。

この縄文の夫婦神の統合が起こる七夕ですが、どちらかといえば、やはりメインは女性性の時代、女神の象徴である瀬織津姫。


ちなみに77日は「かぐや姫が生まれた日」ということで「竹の日」とされていますが、このかぐや姫が出てくる竹取物語もまた、ミカド(帝)と姫の結ばれない悲しいラブストーリー。

物語の最後、月に帰ったかぐや姫は、置き手紙と不死の薬の入った壺を残していきますが、ミカドは天(月)に一番近い山として、日本でもっとも高い山である富士山(不死山)で手紙と壺を燃やしたとあります。

七夕の日、使い終わった短冊を川に流す方法もあれば、短冊を燃やす方法もあり、これはかぐや姫とも関係していると言われています。

天(鶴)に帰った天女と地球(亀)に残された男性。

富士山といえば、コノハナサクヤの女神が象徴ですが、コノハナサクヤといえば桜がシンボル。


ただ、実はコノハナサクヤは隠された女神である瀬織津姫であり、桜は瀬織津姫のシンボルであります。


月の女神としても知られる瀬織津姫。

~ 中略 ~

この解放と男女の統合・和合が始まっている今、今日の七夕を境にそのエネルギーはもっと加速するように思えます。



☆彡 ☆彡 ☆彡

そして、3年前の七夕の日、僕はジイジ(当時はいさどん)からこんな言葉を掛けられています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

常に意識を全体性に持っていく必要があります。
あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?
それが重要です。
個人的願望が全体性と共通していればいいのです。
例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。
個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、
全体性と個人は本来、共通していることなのです。
ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。
「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

個人的願望と全体性。個人的願望は自我、人智から生まれます。それは地の営み、かごめの歌の「亀」と言えると思います。そして、全体性は天の視点であり、かごめの歌の「鶴」と言えます。個人的願望と全体性との統合、それは天を舞う鶴と地を這う亀の「天地一体・陰陽統合」と言えます。

光だけが存在した時代、神は自らのことを認識出来なかったといいます。認識するためには対比が必要であり、そのために闇が生み出されました。この世界は神の自己認識の旅であり、そこに無限(∞)の深みを生み出しているのが自我という闇なのです。「我」がなくなればすべての認識は無に帰す、だからこそお釈迦様は「天上天下唯我独尊」と宣言したのです(「一人ひとりの認識がこの世界を創っている」参照)。

光を認識し、光を増すために闇は存在します。闇は光のためにある。自我という闇も全体性という光のためにあります。だから、自分の感情は他者の喜びのためにあり、自分の中を出たり入ったりしながら、自らの感情を味わうと同時にただの情報として客観的に見ていく。そしてそれを全体のために生かしていく。そんなふうに過ごすことできっと陰陽統合が実現し、世界は次のステージへと進んでいきます。

そのためには「いらなくなった状態」へと至る必要があります。

個人的願望を持つと同時に何もいらなくなる。

その状態ですべての想いを全体のために生かしていくトキ、この世界はきっととても美しく素敵なものへとなっていきます。それは前人未踏の世界。僕は今、そんな世界を木の花ファミリーのみんなと表現しようと思っています。

木の花ファミリーのみんな@ジャガイモ収穫



光に向かって



6月21日、夏至。木の花ファミリー通信「21世紀の死生観第2部 ある世界とない世界」が発行されました。そこでは永遠の旅を続ける宇宙の命の物語について綴られています。魂の旅は今生を超えてずっと続いていきます。

そして6月23日は沖縄慰霊の日。中学生の相良倫子さんが読み上げた平和の詩「生きる」が胸を打ちました。以下、全文を引用します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
 
私は今、生きている。
 
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。
 
私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
 
ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。
 
私はこの瞬間を、生きている。
 
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
 
たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
 
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
 
みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
 
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。
 
私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。
 
あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
 
今を一緒に、生きているのだ。
 
だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
 
私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。
 
大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
 
これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。
 
摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。
☆彡 ☆彡 ☆彡
鎮魂歌が必要なのは、今までの人類の歴史が積み上げてきた悲しい悲劇ためですが、その原因は人々の心の汚れにあります。無念、執着を抱えた魂たちは囚われから天へと昇ることが出来ず、その響きが地上を覆い人々の目覚めを遅らせていきます。そんな現状の中、死を迎えた時どうすればいいか、木の花ファミリー通信では以下のように述べられています。
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では、私たちは死を迎えた時に、どうしたらいいのでしょう。

死を迎え肉体から抜け出した魂は、少し上からその肉体を見ます。そこで自らの命に執着があると、肉体を見続けることになります。つまり下を見ているということです。あるいは、あれが欲しい、これがしたい、と物や予定をたくさん抱えていても、そちらに気を取られて地上を見ることになります。現代は、あれもこれもと自我の欲望をふくらませ、魂を汚していくことが魅力的に思われている時代なのです。
けれども、自らが死んだことを悟ったら、まず上を見てください。すると必ず、光が見えます。そこがあなたの向かうべき方向です。その時に、残していくものについては一切考えず、ただ真っ直ぐに、光へ向かうのです。そうすれば必ず昇天します。そこではお葬式も、お坊さんのお経も必要がありません。囚われを捨て、ただ真っ直ぐに光へ向かう。それだけで本住の地へと還ることができるのです。
これは、地球を霊的に汚さないという意味でも、とても大切なことです。私たち人間は今、地球を目に見える形で汚染しているだけでなく、見えないところでも汚し続けています。そしてそれが、地球のカルマとなっていくのです。ですからどうぞ、このことをいつも心に留めていてください。なぜなら死は、誰もに必ず訪れるものであり、それは明日かもしれないのです。

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生きていれば思い通りにならないことはたくさんあります。生きることは恵みをいただくことであり、思い通りにならないことに学びがあり祝福があるのですが、自我の欲望を膨らますとその事実が見えなくなります。そして自我の欲望は魂を汚し、争いをもたらし、地球を霊的にも汚してきました。

ですが、太陽の光は常に平等に生命に降り注いでいます。心を開けば、いつでも光が自我の闇を取り払ってくれるのです。それは死を迎えた時に限ったことではなりません。自我の欲望は心のモヤやしこりをもたらし、それがこの世界の問題事を生み出していきます。だから生きている時から常に光に向かって心を向けるのです。そうすれば、いつでも光が闇を取り払ってくれます。そしてその清々しい響きを世界に広げていくことができます。

光に向かって心を向けることで、世界に光をもたらすのです。

それが鎮魂歌となると共に美しい響きが未来へと繋がっていきます。

人間の自我が愚かな戦争を生み出してきました。その愚かさが自分の中にもあることを認めつつもいつも心を光へと向けています。それが僕に出来る鎮魂歌。真の平和へ向けての歩みです。






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