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円が縁を紡ぎ、宇宙の中心へと繋がっていく

自分がここにいる理由を考えていた時、「結局、縁なんだよな」という言葉が浮かんで来ました。そして、その言葉をきっかけにいさどんブログ「円が縁を紡ぐ~人間からヒトへ~」を思い出しました。そこにはこんなことが書かれています。

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トキは一方通行に、コッ、コッ、コッ、コッ、と確実に刻まれてゆく。それが昨日から今日、明日へと進むのを一直線に見ているのは、思考の幅が狭いからだ。単純な発想で見ていると左から右に動くように見えるが、ものが動くということは、そこに必ず中心となる一点がある。そして縁のあるものがその周りに集い、回転するという形になって初めて、ものが動くことが持続する。直線ではなく、円運動をしているのだ。
それは「縁」というもので紡がれる。「円運動」とは、「縁運動」でもあるのだ。縁とは、約束事。縁という見えない糸があり、それがバラバラであったものを約束のようにつないで、全体が回り、巻き込んでいく。それはあたかも銀河のようだ。
円の中心の一点は、止まっているかのように見える。しかしその一点も、さらに大きな役割のもとに何かの周りを回っている。中心が止まっている状態になったら、外の円運動も起きない。すべてが連動して動いているからこそ、個々の円も成り立つのだ。

~ 中略 ~

この世界の成り立ちは円運動から成り、それは秩序のもとに、約束通りに動いている。約束通り動くには、軸が必要だ。すべてのものの中心には軸があり、それがもう一つ大きな軸の周りを回っている。地軸があるから地球は自転し、振動し、歳差運動をしながら、太陽の軸のもとにその周りを回っている。そして太陽もまた同じように自転しながらセントラルサン(銀河の中心)の周りを回り、銀河も同じように、さらに大きなものの周りを回っている。単独で存在しているものは何ひとつない。すべてが無限に連鎖して、その関係の中で互いの存在を成り立たせている。ということは、世界がひとつだということだ。

~ 中略 ~


すべての現象は、円運動をしている。その円運動の関係の中で出会う現象に自らがどのような縁を持っているのか ――― 近いのか遠いのか――― それによってトコロが移り変わり、互いに対向発生をしながら円運動を続けていく。それが人生だ。
円(縁)は無限にあり、そのすべての中心をトキ軸が貫いている。つまり、この世界はいたるところがトキ軸だらけだ。我々の体はおよそ60兆個の細胞から成っているが、その細胞の一つひとつをトキ軸が貫いている。なんという宇宙ロマンだろうか。

~ 中略 ~

縁は、意図が働くことで生まれる。意図とは、糸だ。縁という見えない糸がバラバラのものをつなぎ、回転が起きて、現象(形)が生まれる。
人間には、自らが認識している自分と、認識できていない自分とがある。それはどういうことかと言うと、人間はある段階に至ると、それまで認識せずにいた新たな自分を発見する。しかしその自分とは、認識する以前からずっとあり続けたものだ。
現在の自分が成立する以前から、自分というものはある。過去の自分がつくったものが因となり、その結果として現象が現れる。それを因縁という。この世界は、因縁にふさわしく現象が起きる因果応報の仕組みで成り立っている。遠い過去からずっと続いてきた物語として現在があり、今この瞬間も紡いでいる縁が次の出来事につながり、そこからまた新たな縁が生まれて次の出来事へとつながって、物語は未来へと続いていく。因縁の始まりは宇宙の始まりであり、因縁の終わりは宇宙の終わりだ。それは永遠に続くということ。すべての存在は、宇宙の始まりから終わりまでをつないでいるひとコマだ。

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宇宙と自分は一つ。その中で過去から続く因縁によって今この場にいて、そして今の自分の言動が新たな縁を生み出していきます。それは円運動によって究極的には宇宙の中心と繋がっていきます。日々出会う出来事は、視点を高くすれば、無限なる宇宙の円運動のひとコマとして出会っているものであり、それは自らの生の結果でもあります。

何かに出会った時、自分の中にはいろいろな反応が芽生えますが、それは今までの生の結果であり多様な因縁があるからこそ、多様な反応をしているということです。その中で何を選ぶかで解消される因縁もあれば強まる因縁もあります。そして、それは無限に連なる宇宙の中心へと繋がっているのです。

今年の3月21日、太陽が春分点を通過して最初の朝にカフェ&ショップ ロータスランドがオープンしました。そして、5月26日、蟹座新月の日に合同会社ロータスランドが設立されました。この新しい動きを受けて、木の花ファミリーの経理の質と量は変化し、自分にとってはチャレンジの時を迎えています。そして、自分の心の中には様々な感情が芽生えます。自分の今までの生、因縁によって芽生える様々な感情。その中で自分が選んだ感情が波動となって宇宙の中心へと繋がり、この世界の一翼を担っていく。それは本当に些細なものであっても自分一人分、この世界に対する責任です。

僕は毎朝散歩をしていますが、最近は空を羽ばたく鳥がよく目に止まります。鳥瞰図。鳥に視点で自分や周りを常に眺めていること、それは感情に囚われず、ただただ流れのままに展開を見届けいただくこと。それはきっと自分の中の因縁をきれいにしていくことになると思っています。

縁が円を紡ぎ出会った木の花ファミリーの仲間たち。みんなと一緒にたんたんと日々を過ごして、自分の因縁をきれいにして、その波動を宇宙の中心に伝えて、僕は生きていく。

それは宇宙の歴史のひとコマであり宇宙そのものなのだと思っています(^-^)

木の花ファミリーのみんな、玉ねぎの苗取りをしています。

ドキドキからワクワクへ

瞬間瞬間の選択の連続によって「道」ができる人生ですが、その選択が「愛(ワクワク)の選択」「怖れ(ドキドキ)の選択」によって、進む方向性、待ち受ける結果は180度変わってきます。

何事に対してもできない理由を考えるよりも先にできる方法を考える人は、人生の選択においても愛の選択をする人。

自分はもちろん、誰かや全体もすべてが調和する選択であり、その根底には「自己愛」が満たされており、自分のことよりも全体をバランス良く見れる視点があります。

逆にできる方法を考えるよりも先にできない理由を考える人は、どちらかといえば怖れの選択をする人。

常に「うまくいくはずがない」「失敗するのではないか?」という不安や恐怖の感情にとらわれており、自分自身にも自信がなく、深い部分で自己愛にも欠けている部分があったりもします。

自分に方向性が向いている限りは、自分以外との調和を図ろうにも、潜在意識は常に自分の欲、不足している愛を満たそうと動き、やることなすことすべてが自分のため、エゴの選択へと進むこともあります。


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これは今年の3月に読んだ記事からの引用ですが、「愛の選択=ワクワク」「恐れの選択=ドキドキ」という言葉がとても印象に残っていました。僕は新しい行動をする時、ドキドキすることの方が多かったのですそのドキドキが恐れの選択と表現されているのを見て、自分自身の振り返りをしていました。それで確かに僕の中には「恐れ」の感情があったのですただそれは「うまくいかない」とか「失敗する」とかそういう思考から来る恐れではなく、変化を促されることに対する抵抗のようなものでした。そして、それがどこから来ていたかと言ったら、立脚点の違いから来ていたのだと気づきました。

新しいことを始めようとする時には想いが湧いてくるのですが、その想いの側に立つと「湧く湧く(ワクワク)」した気持ちとなります。そうではなく、思考(今の自分)の位置に立つとその想いは自分の変化を促すものとなり、自分は変化を促される対象、受け身となっていくのです。そんな時、僕はドキドキし、その奥には確かに変化に対する恐怖があったのです。僕は恐怖をコントロールしてきたので、そんな時も行動し結果を楽しんできたのですが、エネルギー的には自分に大きな負担を掛けてきました。そして、「今を生きる」で紹介した状態へと至ったわけです。

自分自身の立ち位置によって湧いてくる想いがワクワクにもなりドキドキにもなるのです。ということは、ワクワク、ドキドキをきっかけに自分自身の立ち位置のチェックが出来ます。そんなふうに自分を見ていきます。そして、僕は今、ドキドキからワクワクへとどんどん移行しているのです。それは新しい体験に常に開かれていくということですね。

そして大切なのは、想いを実現させることではなく想いに心を開くことです。湧いてくる想いから行動する時、いつも思い通りになるわけではありません。予期せぬ出来事に出会うこともあります。そのような時、出会う出来事に心を開いていれば、当初の想いは変化していくものです。当初の想いが自分をどこに導くかは先に行ってみなければ分からないものです。湧いてくる想いの奥には天からのメッセージがあります。それを探り感じることが人生に奥行を与え豊かにしてくれるのです。そんな生き方についていさどんはこんなふうに語っています。

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3次元世界に暮らしながらも人間は物事を2元的に観ている。それは、出会うこととそれに対する自分の反応で物事を見ているから。それで平面的になっていく。だけれども、その奥にはこの世界を動かしている意志がある。出会うこととそれに対する自分の反応、そしてその奥にある意志。それらすべてを意識した時、この世界を立体的に観ることが出来る。

出会うことに反応することで人は一喜一憂する。それが人間で一喜一憂しなければ生きている意味がない。一喜一憂しながらも、出来事の奥にある意志を感じて、一喜一憂している自分を離れて観る。そして流れをいただいていく。それが生きていることの醍醐味で、人生に翻弄されずに楽しむことが出来るようになる。
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現象の奥に流れている意味を感じ探ること。それが人生を立体的にし、この世界の本質探求にも繋がります。そして、それはそのまま自分自身に対する理解ともなっていきます。ここでまたいさどんの言葉を紹介しますね。

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みんな自分が世直しを託されているとは思っていません。
だけれども、みんな間違えなくこの宇宙の法則の中で生きていて、
人類の70億分の1、この世界を託されているのです。

人は育っていく過程で欲求し、欲求を満たしながら成長していきます。
健全な秩序の中で欲求を満たしていく人もいれば、
秩序なく際限なく欲求を満たし求め続ける人もいます。
そういう経験の中で自分という人間性が出来てきます。

その中で、それぞれが自分の成り立ちを振り返って見ると、
それが宇宙の歴史や地球の成り立ちと一緒だということが見えてきます。
この世界は全部相似形なのです。

小さなところの集合が大きなところを創りだし、
大きなところの法則が小さなところに指針を与えています。

13,000年前のカタカムナの時代。
厳しい自然の中、人類は天然の法則を感知してすり抜けてきました。
ですが、その感覚は時代と共に失われてきました。
その叡智が天とつながることで現代に蘇るのです。

カタカムナの生き方を現代に表現していく。
それは、科学が発展したところに天然の精神を加えることです。
これはまさに新しい時代の生き方で、
木の花ファミリーはそれを表現していくのです。

2012年12月21日。太陽系は銀河の冬至を迎えました。
これからは少しずつ明るくなっていきます。
宇宙的には明るくなる現象が起きて、人間を後押しするのです。

健康に生きることは素晴らしいことです。
ですが、ただ健康になりたいだけで終わってしまったら
人生は深まりません。
生きている過程でいただく病気や滞り。
その奥にあるメッセージを理解していくことが大切です。
そこを理解した時に現代人も天然の意識で生きていくことが出来ます。

この世界は心と肉体(物質)で出来ています。
まずは心、魂を磨くことが大切です。
物質のことは考えなくてもいいのです。
今の世の中はまだ物質的豊かさを求めていますが、
そういう世の中はひっくり返ります。

そのようなターニングポイントを今、迎えているのです。

人間の欲が戦争を生み出し、第二次世界大戦で大きな犠牲を出しました。
これは世の中の欲の心が壊れて一度リセットされた状態です。
ですが、戦後の復興は、もう一度、欲の心でなされました
そして、現代の混乱に至っています。

自分の健全、健康を求める心の奥にメッセージがあり、
それを通して自分がどう生きるべきかが見えてきます。
大切なのは、自分が健康に生きることだけではないのです。
自分のことばかり考えることで人間は不健康になっていったのです。
そのからくりを見通すこと。その先に世の中作りがあるのです。

世の中を良くするとみんなが良くなっていくのです。
自分が・・・と考えると住みにくい世の中になっていきます。
自分が・・・という心を超えていく。
それが天と共に生きることです。

 ~ 中略 ~

ここで健全な場を創り出すことが時代の流れをあらわすことになります。
世界のことを思い、自分を超えていく。
そのことが宇宙の中に光をさすことになるのです。

それを本当に信じて取り組むことです。

時代も神も目には見えません。人間の理解を超えています。
ですが、この世界にはそういう秩序が確実にあるのです。
そこに一人一人の人間が理解を示すことが大切です。

宗教はご利益を求める人により発展しましたが、
本来はそういうものではありません。

信仰とは宇宙の法則性の理解です。

法則性を理解し、自分が・・・という心を超えていく。

そのような本当の信仰心の下、天と共に生きていくのです。
それが世直しであり、この世界に平和をもたらします。


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現象の奥に流れているメッセージから自分がどう生きるべきかが見えてきます。そして、そのような心で生きることがそのまま世直しへと繋がります。そんな世直しに向けて。今、僕はワクワクしています(^-^)

木の花ファミリーの子どもたち(なんとなくこの写真を使いたくなりました)





世界のみんなと悟りを共有する

宇宙創成のプロセスは、「ヒ・フ・ミ・ヨ・イ・ム・ナ・ヤ・コ・ト」という数理で表すことができる。その始まりである「ヒ」から最終の「ト」までのプロセスを理解し、それらを統合して成り立つ存在が、ヒトだ。それが時代人(じだいびと)であり、時代主義(Eraism=エライズム)を生きる存在だよ。

~ 中略 ~


ヒトというのは、人間という地球上で物理的に進化してきたもののことではないんだよ。それは、物理的に進化してきたものが最終的に到達する目的地点であり、宇宙にはもともとヒトという意識レベルの存在があったはずだ。なぜなら、ヒトとは宇宙の仕組みをマスターした存在を言うのだから。
ついつい人間たちは、ヒトのことを人間と勘違いする。人間とヒトでは、定義が違う。ヒトは形ではない。宇宙の法を理解し、マスターした存在をヒトと言うのであり、それは目覚めということでもある。


~ 中略 ~


宇宙は奇跡の連続だ。なぜなら、もともと人間の思考のキャパを超えたところで成り立っているのだから。だから宇宙を生きるという意識レベルを考えるのならば、科学や理屈を超えたところでものごとを受け取る器を持つことが必要だ。そうでなければ、真実は観えてこない。それには、人間壊しをすることだ。人間を壊して、ヒトとして存在する。それがヒトイズムだ。




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上記のように語るいさどんですが、人間については、「ヒト」の間(アイダ)の存在とも語ります。「ヒ」から「ト」へと至っていないということです。そして人間は、紙と文字の発明によって二元的思考(平面的思考)をするようになったと語り、平面的思考についてはこんなふうに説明しています。

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3次元世界に暮らしながらも人間は物事を2元的に観ている。それは、出会うこととそれに対する自分の反応で物事を見ているから。それで平面的になっていく。だけれども、その奥にはこの世界を動かしている意志がある。出会うこととそれに対する自分の反応、そしてその奥にある意志。それらすべてを意識した時、この世界を立体的に観ることが出来る。

出会うことに反応することで人は一喜一憂する。それが人間で一喜一憂しなければ生きている意味がない。一喜一憂しながらも、出来事の奥にある意志を感じて、一喜一憂している自分を離れて観る。そして流れをいただいていく。それが生きていることの醍醐味で、人生に翻弄されずに楽しむことが出来るようになる。
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出会う出来事に平面的に反応する人間。そんな人間の特徴を受けて、今年の1月、僕は以下のように書きました。

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出会うことに反応する人間。その時、人は出会う出来事を固定して捉えています。

紙や文字が発明されることにより人は記録を取ることが出来るようになりました。一つの形にして残しておく。書かれた言葉は変化せずに残り続けます。それは変化を本質とするこの宇宙の法則からしたら異質なことなのだと思います。

固定された記録。それが人に囚われをもたらし、一喜一憂することになります。ですが、この世界で出会うことはすべてプロセスの中にあり、本来、固定はされずに流れ続けていくのです。出来事の奥にある意志を感じた時、その流れが見え、自分を固定から解放することが出来ます。

出会う出来事の奥を探求する」より


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物事の表面だけを見ていると、出来事は現在だけに固定され、そして違いが際立ちます。例えば、「ヒト」と人間についてのいさどんの言葉ですが、「定義が違う」と語ったり、「ヒトの間が人間」と語ったりしています。表面だけ見ているとそこに違いを感じるかもしれませんが、その奥を見ていくと、同じこと、共通した想い、「ヒト」へと至る大切さを語っていることが見えてきます。

今、この瞬間の出来事の奥には、過去から未来へと続く宇宙の流れが存在しています。「ヒト」となり宇宙の法を理解し、物事を立体的に捉えるようになった時、すべての出来事が一つの流れに集約されていくのです。そこでは善悪の違いや他者との対立はすべて解消されていきます。

善の中に悪があり、悪の中に善があります。善悪は自我(エゴ)の生み出す偏りであり、行き過ぎたエゴが善と悪という一対を生み出し対立していくことになります。

ミサイル発射、核実験などで国際的に非難されている北朝鮮ですが、北朝鮮からすれば、それは自衛の手段であり、アメリカをはじめとする核保有国の脅威を感じていることでしょう。テロリストであるISは様々な残虐行為を行っていますが、それを生み出したのはアメリカによるイラク進攻であり、もっと遡ればイギリスによる中東への侵略へと至ります。

各国のエゴが自国の利益を追求し、それが善悪という一対を生み出し争いへと発展しているのが現代社会であり、物事の奥を見れば、すべての人間に共通するエゴが見えてくるのです。だからこそ、今大切なのは、人間一人ひとりがエゴを超え、「ヒト」へと目覚めていくことなのです。それが宇宙の流れが示すメッセージであり、僕は心を磨き、木の花ファミリーのみんなとそんな暮らしを生み出していきます。

文字は世界に固定を生み出し、そして平面的思考へと誘います。それでも書き続けるのは、文字には広がっていく力もあるからです。そして、人は文字という固定したものをきっかけに、その奥を感じることも出来ます。行間に心を込め、そしてそれを感じあって、また新たな言葉を生み出していく。すべてをプロセスの中で立体的に捕らえていけば、文字だって「ヒト」へと至るにきっかけとなるのです。

世界のみんなと悟りを共有する。

そんなことを夢見て、僕は書き続けていこうと思っています(^-^)

富士浅間木の花祭りに登場する榊鬼、心磨きの象徴とも言えます。


ただただすべてを委ねるだけです。

今を生きる」に書いている滞りは「嫌な予感に囚われて反応出来なくなる」というものでした。そんなことは今までにも何回もありましたが、今回は「許されないことをした」という感覚を強くもっています。こんなことは初めてです。なぜかな?と考えてみました。

それは何かをしてはいけないとか具体的な行動がどうこうではなくて、自分の感情に捕まらないということ。自分の感情に捕まること、囚われることを許してはいけない。そういうことなのだと気づきました。

なぜなら、僕は今までそれだけのことを話し書いてきているからです。これだけ悟ったようなことを書いていて、感情に捕まることを許すわけにはいかないのです。ということは書けば書くほどそれが許されなくなっていきます。だからこそ。だからこそ僕は文章を書いていきます。なぜなら、それが僕の進む道だからです。

今年の7月、僕はこんな文章を書きました。

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この道は言ってみれば、自己否定の旅だと思っています。それはもっと大きな自分、世界と一つになるための自己否定です。常に否定し続け、それが即、肯定へと変容し続けます。それは自分を手放すことが出来ることへの誇りであり、大いなるものへと自分を委ねる覚悟となります。

この道は山登りに例えられます。山のすそ野は広くどこからも登ることが出来ますが、頂上は一つ。登れば登る程、道は限られていきます。同じように、この道は究めれば究める程、道は狭くなり、今まで良かったことも駄目となり、自らの選択はどんどん限られていきます。

不自由の自由。

一見、不自由に見える心の道ですが、それを進むことが本当の自由への道です。

なんでもいいけど道は一つ。

そんな感じです。


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その行きつく先は天。僕はそこまで昇っていきます。

・・・・とここまで書いて。

「許されないことをした」という感覚も感情のようなものだから、それにも当然囚われるわけにはいかないわけで、結局なんでもいいんですけれどもね(^-^)

ただただすべてを委ねるだけです。

11月3日文化の日の朝日です。

未来は常に自分の手の中にある

無駄遣いが出来るということは、感謝の気持ちを忘れているからであり、日常生活では、どこか意識がぼけていて、安直に物事を進めてしまうことに繋がります。そんな時は人に対する態度も繊細さや優しさが欠けたものになりがちです。

今はそんな自分たちを振り返る機会となっています。その際、落ち込むのではなく、無駄を生かしていくことを心掛けるようにしています。先のことは誰にも分かりません。今の無駄が後になって生きることもあり得るのです。大いなる流れに心を委ねること。出来事の背後にある意思を感じること。そういう姿勢も大切になります。

地球は人類が生きていくのに十分な恵みを与えてくれています。ですが現状は、格差が広がり、貧困や飢餓が生じてしまっています。分かち合う心により、現状を変えて社会的共通資本を育むことが可能となります。そして、それは人々に安心感を与えてくれるでしょう。

その安心感は土台となり、人々を更なる成長へと導きます。安心に浸り感謝の気持ちを忘れてしまってはいけません。安心出来る暮らしを土台にして、日々の中で自分の振り返り心を磨いていくこと。それがみんなで出来るようになった時、理想の世界が実現していくのだと思います。僕たち木の花ファミリーはそんな世界を目指しています。



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上記は3年前の11月に書いた文章です。無駄をなくすことについて書いているのですが、それはただの節約貯金とは異なります。大切なのは、物事を有効に生かしていくことであり、この世界には貯めることで生かされないお金もたくさんあります。今年の秋分頃にいさどんはこんなふうに語っています。

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お金があるからと言ってお金を貯めていくと、それは拡大傾向の守りの姿なんだよ。縮小ではなく拡大傾向の結果、そうなる。持たない、手放すという意味からいったら、お金をどんどん使うと景気が良くなる。でも必要なものだけを購入するという意味では縮小になる。それが織り混ざっている。そこを仕分けていくということだろう。

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お金を使う場合も貯める場合も自らの欲得からその行動を行っていたら、お金の流れに影響し格差や貧困など様々な矛盾を生み出していきます。そうではなくニュートラルな姿勢でたんたんと必要なお金を使っていけば、それは世界へと循環していきます。大切なのは一つ一つの選択や行動に心を込めることです。心を込めることで、本当に必要なものが仕分けされていきます。そして、お金の循環に心が入り、それは豊かな繋がりの表現となっていくのです。

それはお金の流れだけではなく、日々の行動にも言えることです。ニュートラルな心で日々を送り自分を表現していくと、それは人との繋がりの中で生かされていきます。ですが、そこに「自分が・・・」という「我」が入ると、何らかの滞りや軋轢となって表れるものです。とはいえ、滞りも無駄と同様で、自らの学びとした時に生かされていくものです。出会う出来事から学び自らをきれいにしていく。それこそ人間が生きる目的で、いさどんは以下のように表現しています。

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皆さんは地球で肉体を持って生き、自分が生きた結果、どういう行いをしたら、どういう人生が得られるかを学習する力を持っています。つまり生きることは学習なのです。そして、生きることの目的は、学習して自分が高い意識のものとなり、自我の汚れを取って、美しくなって、この世界がよい世界になることに貢献することです。それが、人生が終わった時に、よい人生だったなぁと気持ちよく旅立っていける、人生の完全燃焼です。



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生きることは学習です。そしてそれは常に過去から未来へと続くプロセスの中にあります。「今を生きる」に書いた咳ですが、今も続いています。それが「恐怖」という僕が抱えてきた汚れが生み出したものならば、咳を通して行っている浄化が未来を生み出していきます。今の状態に囚われず先を見て自分の判断や状態を確認していこうと思っています。

過去の積み重ねが今の自分を創っていて、そして今の自分が未来を生み出していきます。過去から学び、過去から自由となれば、今までとは違う未来を生み出していけます。だから常に未来は自分の手の中にあるのです。

今、世界の至るところに無駄や軋轢が溢れていますが、それは今までの人類の姿勢が生み出したものです。ですが、未来を生み出すのは今の姿勢です。自分一人分きれいにして美しい未来を生み出していこうと思っています。

木の花ファミリー10月お誕生日会の様子です。


今を生きる

自分の中には恐怖がある。

恐怖がどこから生まれるかと言ったらまず第一に「欲」が挙げられます。「こうなって欲しい」という願望があるからこそ、そうならないことを恐れるのです。本人が自覚していようがいまいが、これは事実です。

未来がどうなるかは分かりません。だからただ委ねて、結果をいただいていけばいい。

僕は常日頃からそんなふうに考えているので、恐怖のコントロールをしています。「恐怖」を脇に置いておいて、そして起きる出来事を見ていくのです。そうすると思いもよらない出来事に出会い、日々を楽しんでいくことが出来ます。

北朝鮮の脅威。世界で多発するテロ。異常気象や地球温暖化。日本の財政問題や少子高齢化。

ニュースを耳にすると不安や恐怖が湧いてくるかもしれませんが、その感情のままに生きると、世界に不安や恐怖の響きを広げていきます。そしてその延長線で思考しても、明るい未来へとは繋がっていかないものです。今の政治や経済は、人々の不安や恐怖を代弁しています。そのため未来へと突破口を開くことが出来ないです。

まずは恐怖や不安をコントロールすることが大切です。

ですが、コントロールすればそれでいいかと言ったらそんなことはありません。恐怖をコントロールして生きてきた僕が、先日一つの滞りに出会いました。今思うと、その時、僕は「恐怖」に捕まり思考と身体が固まっていました。そして、そのことをあまり認識していませんでした。コントロールはあくまでコントロールです。「恐怖」がなくなったわけではありません。ちょっと油断をすれば気づかぬうちにそれに飲み込まれ思考や行動に影響していくのです。そんなことを実感した出来事でした。

「恐怖」は世界や天に対する不信であり、汚れと言えます。

過去から未来へと続く天の物語。僕はその中で役割をいただいているに過ぎません。そして、天の意向を果たすために必要な能力はすべて与えられているのです。だからただ今を生きていればいいのです。出来ないことも天の意向だから、どうしようなんて思い煩う必要もありません。ただ今を生きて結果をいただき、そこから学びを深めていくだけなのです。

今を生きる。そのことについてりゅうしろうくんはこんなふうに書いています。

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「今を生きる」、それは過去からのプロセス、未来への眺望を含んだ立体的な捉え方です。その人がやるべき役割、その人が取り組むべきテーマ、その人の今の実態、その人に宇宙が与えているもの、それら全ては目の前に現れている。だから、目の前にあることを積極的に次々こなしていくことが、宇宙の大輪に乗っていくこと、勢いよく生きていくことになります。



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今を生きる。そこに恐怖は必要ありません。

自分の中には恐怖がありました。それは僕の汚れです。ここ数日、咳が止まらず苦しいのですが、それは浄化のプロセスだと思っています。

咳が止まらなくとも、苦しくともなんでもいいのです。

これから物心共に厳しい時代が来る。

いさどんは先日、そんなことを言っていました。物資的な厳しさは大型台風をはじめとする異常気象にその兆候は表れています。そして、心。心に関して言えば、AI(人工知能)の開発を挙げていました。人は今まで便利になればなるほど能力が退化し心を貧しくさせてきました。例えば、マザーテレサは、1981年、豊かな国、日本に来て以下の言葉を残したそうです。

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日本に来てその繁栄ぶりに驚きました。日本人は物質的に本当に豊かな国です。
しかし、町を歩いて気がついたのは、日本の多くの人は弱い人、貧しい人に無関心です。
物質的に貧しい人は他の貧しい人を助けます。精神的には大変豊かな人たちです。
物質的に豊かな多くの人は他人に無関心です。精神的に貧しい人たちです。
愛の反対は憎しみとおもうかもしれませんが、実は無関心なのです。

憎む対象にすらならない無関心なのです。


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ですが、多くの人は未だに物質的豊かさ、便利さを求めています。それが人々の心にどんなものをもたらすのか?その行きつく先にみんな気づいていません。ですが、これも天の意向の顕れです。だから、ただただ見ていって、みんなでその先をいただいていけばいいのです。

それでも気づいたものとしての役割があると思っています。天からのメッセージは常に自分を手放すことだから、そしてその先に繋がり合う豊かさがあるのだから、だからただただそんなふうに生きていくだけなのです。

ロータスランドに飾られている絵です。


ただ天のみが頭上に広がる

1年前の9月6日、僕は「自分ごと」から全体性へと至る道を書きました。この投稿は、自分の衝動に翻弄され続け、そしてそれに向き合い続けた僕にとって一つの到達点です。以下、その一部を引用します。

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宇宙の法の下では、自他の区別を超えてすべてが繋がり生かしあっています。それから外れた「想い」や「行動」はすべて「自分ごと」なのです。世界のことを考えていても、社会貢献をしていても、「自分が」という想いに基づいていたら、それはやはり「自分ごと」となります。

そして、「自分ごと」の想いや行動は、たとえそれが実現したとしても、この世界に偏りを生み出し、いずれ対立や格差、喪失などの滞りとなって現れるのです。

だから「自分ごと」を超えていくことが大切です。

自我が与えられた人間は、当然のように「自分ごと」の願いや想いを持ちます。そして、それは意欲にも繋がるものです。だから、それらを追い求めることは大切なことではあるのです。ただ、その際、宇宙の法を意識する必要があるのです。

宇宙の法とは天の流れあり、それは時代が生み出しています。

自らの希望を追い求めながらも、天の流れを感じ、結果をいただき学んでいく。

そんな姿勢でいると、自分が高まり、自然と全体性へと至るのです。

それは自分と向き合う旅であり、その旅は果てしない冒険であり、新しい発見は尽きません。新しい発見により自分がどこまでも果てしなく広がっていくのです。


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これは叶わない「自分ごと」の望みを追い求めた末に至った一つの答えです。追い求め苦しむ過程。それは全体性へと至る道でした。今の僕にとって「自分ごと」は幻であり、全体性という客観視点のみが存在しています。

「自分ごと」は幻。それでも人はそれを追い求めたいものです。そして目の前の出来事に一喜一憂し振り回されていくのです。それは宇宙の法の中で人間の自我に許された戯れ。宇宙からの大いなる愛とも言えますが、人がそれに気づくのは「自分ごと」を超えた時だけです。「自分ごと」を超えた時、人は大いなる愛に包まれます。

今、僕の心にはいさどんの以下の言葉が響いています。

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なかのんの言うことは難しいね。彼は哲学者だからね。
だけど、なかのん流の表現をするものだから、ちょっと難しいときもある。
それを、相手の状況に応じて、いさどんのように通訳すればいいのだけどね。
なかのんの悟りのレベルは、自分が求めていく悟りだからね。
スピーカーになりきればいいんだよ。
スピーカーになると、勝手に降りてきて出てくる。
そこには一切私情ははさまない。自分のためもない。

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自分が求めていく悟り。そのレベルを超える時が来ているのではないかと思っています。そこで浮かんでくるのが二宮尊徳の言葉です。

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仏者も釈迦が有難く思われ、儒者も孔子が尊く見ゆる内は能く修行すべし、その地位に至る時は国家を利益し、世を救うの外に道なく、阻の中に益ある事を勤るの外に道なし。譬えば山に登るが如し、山の高く見ゆる内は勤めて登るべし、登り詰れば外に高き山なく、四方共に眼下なるが如し、此場に至て、仰ぎて弥々高きは只天のみなり。


新しき村2017年8月号「二宮尊徳に就いて」より

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山を登り切れば、天のみが頭上に広がります。この地点に立てば、世を救う以外に道はないのです。そこには「自分が求める」要素はありません。今年の7月、僕は以下のような文章を書いています。

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この道は言ってみれば、自己否定の旅だと思っています。それはもっと大きな自分、世界と一つになるための自己否定です。常に否定し続け、それが即、肯定へと変容し続けます。それは自分を手放すことが出来ることへの誇りであり、大いなるものへと自分を委ねる覚悟となります。

この道は山登りに例えられます。山のすそ野は広くどこからも登ることが出来ますが、頂上は一つ。登れば登る程、道は限られていきます。同じように、この道は究めれば究める程、道は狭くなり、今まで良かったことも駄目となり、自らの選択はどんどん限られていきます。

不自由の自由。

一見、不自由に見える心の道ですが、それを進むことが本当の自由への道です。

なんでもいいけど道は一つ。

そんな感じです。

多くの人は自分の想いのままに行動することが自由だと思っています。ですが、思い通りにことが運ぶことはほとんどありません。結果、自らの想いに翻弄され、現実の中で右往左往するのです。平和を求めて争ったり、平和のために核武装したり。人々は自らの想いに翻弄され、それが矛盾に満ちた社会を生み出しているのです。




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山を登る過程。それは自分が求め究める道です。僕はそこを歩んでいました。そこには否定する必要がある自分が存在していたのです。ですが今、僕はそこを卒業しようとしています。「自分ごと」は幻です。消えてなくなれば否定する必要もなくなります。

「自分ごと」を超えた時、人は大いなる愛に包まれます。そしてそこには全体性という客観視点のみが存在します。それは過去から未来へと宇宙を貫く柱であり流れ。ただただそれに基づいて生きていく。ただそれだけなのです(^-^)



時代の意志を受けて生きる

ずっとずっと続く天の物語があって、その一部として僕はこの世に生を受けました。だから僕が生まれた意味を本当の意味で読み解くには、天の物語を読み解く必要があります。そして天の物語を読み解くには、天の流れを感じる必要があります。

天の流れは天体の動きとなって示されます。その大きな流れとしては、2012年12月21日に迎えた銀河の冬至、その前後7年間の銀河の夜明けがあります。銀河の冬至、闇のピークへ向けて、人間は個々の欲望を追求し分断と対立を極めていきました。ナチスのヒトラーはそんな中で生まれた人ですが、ヒトラーについていさどんは以下のように語っています。

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ヒトラーが上行菩薩であるという捉え方もこの世界にはあるのです。ヒトラーという魂が地上に降りる前、天の神様はたくさんの優れた魂たちに、「この役割は地上では人々のうけは悪いが、大切な役割であるゆえ、誰かそれを引き受けてくれる者はおらんのか?」と尋ねました。しかし、地上で悪人とされる役割を引き受けようとする者はなかなかいなかったのです。そのときに、勇気ある魂が「それではわたしがその役割を引き受けましょう」と言って、地上に降りてきました。そして見事、その難しい役割を成し遂げたのです。役割を終え、天に還っていったとき、天にいる魂たちからは「難しい役割だったが、おまえはよくやった」と褒め称えられ、その魂は上行菩薩として悟りに至りました。わたしたちの中には、ヒトラーという存在は悪の権化としての認識が定着していますが、あのような出来事を起こす人間がいることによって、人々は自らの行いを戒めることができるのです。

もしも、そういった悪人の人生を生きる者たちがわざわざそれを役割として生まれてきているとしたならば、善人と言われる人々はそういった悪人の役割をする人々に支えられて、善人の立場にいることになります。ですから、この世界には善も悪もなく、ただ人間の可能性の枠の中の役割があるだけなのです。そういったことを自らの感情や特定した視点から判断するのではなく、広い世界観のもとにすべてのことを情報として判断し理解した上で、活かしていくことが大切なのです。



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人はみんな生まれる前に使命を与えられますが、誕生の瞬間にそれを忘れる。

そんな言葉をよく聴きます。使命を忘れた人間は、狭い自我に基づいてこの世界を経験し、感情を育み、目の前の出来事に一喜一憂するようになっていきます。自我は様々なことを願い、望みます。それらは叶うこともありますが、叶わないこともあります。

自我の望みが叶わないことは最大の祝福です。

なぜなら、それは自我を超えるきっかけとなり、忘れてきた使命を探るきっかけとなるからです。どんな使命であったとしても、それは人間の可能性の枠の中の役割です。それを引き受ける覚悟が人を尊いものとしていきます。

ヒトラーはその時代の要請に応じた使命を生き抜いた。だから尊いと言えるです。

今、木の花ファミリーで暮らす僕の使命は?

2年前の8月。夜空を歩きながらいさどんはみちよちゃんに以下のように語っています。

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ぼくたちは
とても大それたことをしているんだよ。

大それたということは、
恐れ多くも、ということを言っているのではなく、
非常に重要で誇らしい生き方をしているということなんだよ。

いずれ、
人々が到達すべきことを
先に知ってしまうということは、
まわりにはまだ知らない人がたくさんいるということなのだから、
孤独にもなる。

しかし、
世界観が広ければ、
そのカラクリがわかっているのだから、
たとえどのような無理解に出会ったとしても、
やり続けることができるんだよ。

時代を切り開いていくことが使命だとわかっていたらね。

そうやって
世の中は開かれていくし、
惑星の動きや時代もそれを後押ししていくんだよ。

そこで、
そのようになっていくから
放っておけばなるのかといったら、
必ずそのようになるときには
ぼくたちの生きる現象世界では、
誰かがそれを受けて示すことが必要になる。

それを示すものたちは
どのような意識であるのかというと、
星の意志や時代の流れを
受け取れるものであるわけだ。

それが高い意識であり、
天とつながることだよ。

しかし、
その役割を受けたものであっても、
役割を怠っていたら、
代わりは他にもいるということでもある。

星のサイクルのように、
時代の流れのように、
時は刻んでいく。

木の花は、
確実に時代の意志を受けている。

なぜなら、
それを提唱している僕がそういう人だから。

そして、
それに共鳴した人たちと共に
歩んでいるのだから。

だから、
わからないからわかりたいとか、
こういった立場に立ちたいとか、
自我に囚われることは禁物だよ。

星の意志や時代の流れを受け取るものとして、
そこでは明快な覚悟があるからこそ、
時代の意志(天)と共に歩めるんだよ。


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すべては人間の可能性の中の役割。そして、時代は闇のピークを過ぎ、光へと向かっています。それは宇宙全体が光へ向かって上昇しているということです。自分の与えられた役割が自我の思惑と違っていたとしても、それは光へと向かう途上にあるものです。だからただただ有難くいただくだけです。それが自分ごとを離れるということであり、尊い道を歩むことに繋がります。

自我の望みが叶わないことは最大の祝福です。

感情が波立ち自分の未熟を知り、そして自我を超える道へと進めます。

人は皆、使命を忘れて生を受け、そして狭い自我に閉じ込められ、目の前の出来事に一喜一憂するようになります。喜びも悲しみも浮かんでは消える儚いもの。それに囚われ苦しんでいきます。ですが自我を超え、自らの使命を思い出し、ただ淡々と役割をこなしていけば、人は常に宇宙の流れ、時代の意志と一体となります。

出会う役割が自分の使命。その役割を果たすことで天と共に歩んでいます(^-^)







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