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正直に誠実に自分の役割をこなす

人と自然が共にある生き方を学びたい、と、お母さんと一緒に木の花ファミリーにやってきた台湾人のビリーさん。シルク・ド・ソレイユのダンサーでもある彼は、昨夜、富士浅間木の花祭りのために用意された和太鼓を使って見事に舞い踊り、まるで祭り前の「神寄せ」がなされたかのようでした。
今日の午前中はヨガ教室を開き、午後はリゾットを作ってみんなに振る舞い、夜は木の花祭りのハイライトである「四ツ舞」の稽古に参加してみんなで大盛り上がり。稽古後に、こんな感想を教えてくれました。
  
「僕はダンサーとして世界中の様々なダンスを見てきたけれど、コミュニティのダンスほど大切で、素晴らしいものを見たことがない。これはダンスを超えるもの。
木の花祭りでは、世界中の水が集まって釜の中でひとつになることで、エネルギーが大きくなっていく。同じように、その周りを舞い踊る人々も、みんなで舞い踊って、エネルギーがどんどん大きくなっていく。踊りに参加していないおばあさん達も、心は参加していて、この場を支えている。音楽からも、おばあさん達からも、そのエネルギーを感じた。
今、世界の人々は、まるで水がいっぱいに入ったコップのよう。自分のコップがいっぱいで、もうそれ以上入る余地がない。僕が木の花ファミリーで学んだことは、みんながからっぽになっていくこと。からっぽだから、ここには世界が入ってくる。」
 
祭りまであと10日。ビリーさんとお母さんは明日の夜明け前に台湾へと旅立ちますが、きっと祭りの日も、心は共に舞い踊っていることでしょう。(ともこ)


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上記は先日木の花ファミリーを訪問して下さった台湾人のビリーさんとの交流を描いたものですが、このようなお客様にも恵まれ、今、木の花ファミリーでは全体が富士浅間木の花祭りへ向けて軽やかに大事な暮らしを営んでいます。

そんな中、僕は木の花ファミリーを批判する人々の言葉と向き合い、体調も崩し、重たい気持ちで過ごしていました。特に背中と胸の痛みはひどく、歩くだけでも振動が響き、痛みで眠れない日もあり、祭りで舞うことが出来ないのでは?という不安がよぎり、全体の流れと自分の違いを強く感じ「いけない」と思い苦しんでいました。そういう自分と向き合いながらブログを綴り少しずつ軽さを取り戻していって、そして「何ももらっていなくても」という言葉、そして記事へと繋がり、僕はこの記事を大人ミーティングでシェアしました。みんなにシェアしたのはこの記事が大事な話だというフィードバックを貰ったからなのですが、重たい気持ちを出発点として生まれたこの記事が軽やかな全体の中で大事な話として共有されたことに不思議な感覚を持ちました。なにせ記事を書いた時は、あくまで自分と向き合う中で出て来た言葉であり、全体の流れには沿っていないと感じていたのです。それが全体に大事な話として共有され、そして不思議とあれだけ痛かった背中と胸の痛みがなくなりました。

これで祭りで舞うことが出来る!

それもみんなと同じ気持ち、そして軽やかさで。それが確信となりました。

僕にとってこの経験はとても大きなものとなりました。自分が全体の流れと違うと感じていたのですが、僕は好き好んで木の花を批判する人々の言葉に向き合っていたのではありません。役割としてこの時期に一度しっかりと向き合っておく必要があると思いそうしたのです。ですがそれが全体の流れと違っているように感じて苦しくなりました。でも、そうではないのです。流れはもっと多層的になっていて、メインとなる流れだけでなく常に潜在している流れがいくつもあって、きっとそれがこの世界に厚みと彩りを与えてくれているのです。重たい気持ちが軽やかな全体の中で生かされていくこともあれば、今現在、次の流れとして潜在している流れもありそれも大切なものと言えます。だから正直に誠実に自分の役割をこなしていくだけなのです。それが目に見える目立った流れとは違っているように感じても、全体性を意識していれば、きっといつかどこかでそれは生かされていきます。目に見える全体の流れと違うと感じると落ち込んだり、被害的になったり、ふて腐れたりする気持ちも生じますが、こういう気持ちが本来生かされるはずのものを殺してしまうのです。そのことを強く感じました。

ところで、富士浅間木の花祭りは地球の神様である国之常立神(クニノトコタチ)の復活を描いたお祭りですが、かつていさどんは国之常立神について以下のように語っています。

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インテグラル・ヨーガの創始者でもあったオーロビンドのアシュラムに行った時のこと。いさどんは初めて、オーロビンドの魂を感じました。
その魂はいさどんの視線を誘導し、そこにある様々なものに目を向けさせました。植物の葉っぱ、大理石の柱、壁の傷。その視線と共に、いさどんの指も、その一つひとつを指さしていました。そしてひとつ指さすごとに、「そこに私はいる」「そこにも私はいる」「どこにでも私はいる」という言葉が降りてくるのです。それは全てに遍満している存在なのだ、といさどんが思うと、「全てに遍満しているということは、無である」という言葉が降りてきました。全てに遍満しているということは、全てが自分であり、自分(自我の特定)はないということ。その時にいさどんは、これは地球の魂ではないかと直感しました。シュリ・オーロビンドの魂は、地球神・国之常立大神、つまり艮の金神の魂なのです。
オーロビンドの魂は言いました。「私を知っているであろう。今まであなたは私と一緒にいた。その私にあなたは会いに来た。」そこでいさどんは尋ねました。「あなたは私の中においでになりますね?」オーロビンドは答えました。「私は、あなたの内にも外にも、どこにもいる。




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艮の金神、国之常立神の復活は、世の中のひっくり返しを意味し、それは立脚点の転換でもあります。自分の側から世界を見て、自分の価値観で世界を評価してきたのが今までだとしたら、これからは世界の側から自分を見て自分を正していくのです。世界というみんなが共通する地点に立って学びを共有し一つになっていきます。

その世界とは?

地球神・国之常立神は「私は、あなたの内にも外にも、どこにもいる」「全てに遍満しているということは、無である」と言います。それはどこにも固定されないものです。だから世界という視点も固定をしてしまったら、それは気づかぬうちに自我の視点となっていくのです。

例えば最近の僕には、富士浅間木の花祭りに向けて軽やかに進む世界が見えていました。そしてそれにそぐわない自分を感じていました。ですが、それは表面的な見方であり、その奥には様々な流れがあってそのすべてが全体を生み出しています。

軽やかな世界とそれにそぐわない自分。

その視点は「そぐわない自分」を際立たせるものともいえ、それに固定してしまったら、そぐわないものとしての自分が強化されていくのです。それは世界から自らを分け際立たせる自我の動きです。

世界の側から自分を見る。

その世界とは無限に広がり変化変容を繰り返すもので自分の視点で捉えきれるものではありません。だから固定せずに常に変遷として見ていく必要があるのです。そして、与えられた役割をこなしながら「内にも外にも、どこにもいる」国之常立神の視点へと想いを馳せ自分をからっぽにしていこうと思っています。その先にあるのは、生まれ清まり舞い踊るうれしたのしの世の中です(^ー^)


ビリーと木の花ファミリーのみんな(ヨガ教室後)







何ももらっていなくても

昨日の朝起きた時、「何ももらっていなくても」という言葉が浮かんできました。この言葉は僕の中で、2年前の2月にいさどんが語った言葉と結びついています。それはこんな言葉です。

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生きていることが天の意志であり、計らいであるとしたら、ある程度地上を生きる者の事情も加味して計らってもらわないと、天の計らいを意識して生きる者にとっては、生きることが人によっては辛いことばかりになってしまうことがある。そして、歩みが遅れる。だからこそ、少しは天に向かってありがたいと思えるように、その計らいを感じられるようにしていただかないと、と思っていた。そうしたら、それに対する答えが降りてきた。

天に計らいをしていただかないといけない、という自分の心の中に、困ったことが起きたという、ある意味緊張と言うのか、心の筋肉が張っている状態があった。そうしたら、ふぁーっと、それに対する回答が返ってきた。それを何と表現したらいいのだろう・・・・水鉄砲からぴゅーっと水が発射されたような感じのものが何本も降りてきて、それは霧のようなものだけど水ではなく、虹のようでもあって、光でもない。それはいったい何だろうと探っていくと ――――― 響き。

カタカムナでいう潜象界から「カ」がヒフミヨイと進み、マワリテメクルで現象化の自転公転の動きが起き、そしてムナヤコトでアマ界に至り現象化してみこと(命)になって出て来るでしょう。アマ界から現象化して出てくる時に、最初は響きとして出て来る。その響きが、現象界の水のようにちりちりちり・・・と破線のような感じで、いくつもいくつも平行にしゅーっと降りて来る。そういう景色が、返事として返ってきた。

それで、わかったぞ、と思った。そして今、それを伝えようと思い、その前段となる自分が天に向けた想いを語り始めた。配慮をしていただかないと、ことが起きることばかりを受けていては、人間は道を信じていただくことを忘れがちになります。それは困ったことが起きましたという感じで心の筋肉が緊張している状態であり、そういうふうになると道が遅れます、と。僕がそう意識を向けたことに対して、ちりちりちり・・・といくつも降りてきたものは、その緊張をふーっと取ってくれた。

緊張をふーっと取られて、その瞬間に「回答が返ってきた」と思った。ところが、こちらが天に向けた想いを説明して、さてその回答を言葉にして語ろうと思ったら、言葉は何も出てこない。ただ緊張だけを取ってくれた。

それをあえて言葉にするならば ―――――
最初に思っていたのは、「私は天の意志をいただいて生きる者ですから、どんなことでもいただきます」という心。それは、いつも自分の中にベースとして持っている心。だからこの道を歩んできた。けれどもあまりにもこういったことが起きると、人間が苦痛を感じて道を歩むことが遅れます、という言葉を上へ伝えたことに対して、もともと持っていた心へ戻りなさい、という意味で、緊張をさーっと取ってもらった。

その時に、なぜ人の道が遅れるのかというイメージがあった。滞りが起きる時、自分が一人でそれを受け取るならば、天意だから何でも受け取りますという心はある。けれども、例えば自分がこの人だったら、と考える。人のことを想うと、みんなはそれぞれに目いっぱいになるから、それでその者たちの道が遅れます、ということを僕は思った。

けれどもそこを解き放つのが、それを束ねてみんなを道へ進ませる自分の役割であり、一人ひとりの滞りを正すのも自分の役割だと思っている。だからそう考えた。
それはある意味、現世的には人に対する想いやりでもある。もう一つの奥にあるのは、私の道が楽になりますように、ということ。もう面倒くさく煩わしいから。僕の心の動きを観ると、人の道に滞りがないようにと想うのも、ある意味その背景に「私が楽になるように」という想いがあるとしたら、僕のベースにある「何でもいただきます」という心と、それに十分成り切っていないギャップの心があるということを示している。

それに対して、「ギャップがあって未熟だぞ」という指摘はまったくされない。ただ無言で、響きを持って、その緊張だけをほぐしてもらえた。それをある意味意志として返してもらったのだと思い、それを言葉にしようとしたら何も出てこなかった。

このメッセージを別の解釈をすると、何も答えはない。もしも負荷がかかったならば何も考えずに負荷の状態を解き放てばよい、ということ。それはよく僕が言っていること。ダメだと思ったならやめればいい。ダメだと思うということは、気付いたということなのだから。ダメだと思わなければ、進めばいい。それが滞りの種であれば、滞りが起きるだろうから。そして滞りが起きたら、それ以上進めるのをやめればいい。

先案じをして取り越し苦労せずに、今を生きるということだよ。そう。誰よりも真剣に生きているのだから。誰よりも道にふさわしい歩みをしているのだから。迷うことは何もない。

今言葉を語ったのは、頭を回したのではなく、中空にある絵を観て語った。頭を使ったとしたら、その絵から受け取れるものを言葉にしただけ。

僕も頑固者だな。誰と比べて頑固者かというと、出口王仁三郎聖師。彼は警察に捕まり牢獄に入れられて、そこで尋問を受けた。その時に、自分の姿勢を曲げずに、尋問をするものに道を説いて聞かせた。そのくらい頑固者だよ。
その時の精神は、今の自分の状態と一緒だと思う。僕は監獄には入れられていないし、状況は違っても、ものごとに動じて道を踏み外すことはない。

ただ、これは万人の道。人として地上に降りてきて目指すべき、万人の道。そのことをわかるものは、この時代の変わり目を迎えても、まだまだ少ない。
ただ、出口王仁三郎聖師の時代とは違い、切り替えの時がもう来てしまったから、時期にその証が現象化されるということでは、希望のある時代だ。彼はその夜明けを見ないで終わったのだから。僕は土台を生きるとしても、夜明けを見て終われるんだよ。子どもたちは、その夜明けの向こうを創っていく子どもたちだ。

ありがとうございます。

何ももらってはいないのに、ありがとうございます。

ただ今があるだけなのに、ありがとうございます。

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僕がこういう言葉をこんなふうに思い出すのは、僕が弱く未熟だから。僕の未熟が揺るぎない心を求めているからです。いろいろ経験してこの道を歩む意志は強く確かなものとなっています。だから僕の中の弱さがなくなったかと言ったら、そんなことはありません。自我を持つ僕は日々の出来事に一喜一憂し、揺れ動きます。だけれども僕は強くなったとも思っています。その強さとは何かと言ったら、いつでもすぐに揺るぎのない心と繋がれることです。揺るぎのない心を支えに僕は日々揺らいでいるのです。

自分の自我の弱さや未熟さが僕を謙虚にしてくれます。そしてそれは他者の未熟を理解する助けともなります。だからこの弱さや未熟さはなくなる必要がないのです。その奥にある揺るぎのない心をいつも感じていたら、すべての出来事は祝福となっていきます。

揺らぎと揺るぎのない心。

両方を生きることで僕の幅は広がっていきます。

上記の文章で天がいさどんに対してしたことはただ緊張を解いただけ。それだけでいさどんは元の「すべてをいただく心」に戻りました。天に心を向ければ、いつでも緊張はリセットされ、再スタートをすることが出来るのです。それは揺るぎのない真実です。だからいつでもどこでも

何ももらってはいないのに、ありがとうございます。

ただ今があるだけなのに、ありがとうございます。

という心となれるのです。

そして、同時に思い出したのは、堕天使ルシフェルの存在です。地獄でサタンとなったルシフェルについては以下のように書いている本があります。

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私達が悪魔と呼ぶサタン、ベルゼブルこそが、身の毛もよだつような分の悪い役割を自ら担い、人間の心に生ずるありとあらゆる悪の部分は、すべて彼のものとして位置づけし、彼の仕業であるということで、人々は自分自身を救ってきたのです。

 ~ 中略 ~ 

「ねえお母さん、天国の扉の鍵はルシエルが持ってるんだって。私たち人間が、この世にはびこる悪というものを本当によくわかるようになるまで天の国の扉は開かずに、みんなその前でウロウロしているらしいよ」


ルシフェルは悪い役割を自ら担いました。なぜそのような存在が必要だったかというと、人々が自分のことを見て来なかったからです。悪とは何かと言ったら、自分の都合を求めてきた人々に排除された存在です。人間は自分の都合を求めていろいろなものを切り捨ててきました。その結果、地球環境は悪化し、社会の分断と孤立が深まっています。その状態は偏りであり均衡を取り戻す必要があります。だから、人々が切り捨てているものが何かを教える存在が必要となるのです。役割としての悪。それは人々の姿を映すことで学びへと導いているのです。

人類はずっと正義の名の元に争ってきました。自分の行為を正当化し、争いを生み出している心の種を見ることはありませんでした。悪は自分の中にあるのにそれを認めずに外を改善しようとしてきたのです。それは自分の都合を求める心です。自分の都合を求めて争いが起き緊張しているのが今の人間社会と言えます。だから天に心を向けてすべてリセットするのです。そして「すべてをいただく心」でみんなが再スタートをすれば、全ての存在と出来事が認められ、今ある問題はすべてなくなっていくでしょう。なぜならいつでもどこでも、

何ももらってはいないのに、ありがとうございます。

ただ今があるだけなのに、ありがとうございます。

という心で生きていけるからです。

ありがとうございます(^-^)



自我は惑いの中にある

多種多様な経験をし、様々な立場の人たちが共に暮らすこの世界では意見の相違があるのは当然です。違う立場の人が敵となって表れる。それも不思議なことではありません。その時、それを有難いこととして受け止め、そこから学んでいけば、敵は好敵手となり人は成長しあらゆる立場を超えた視点を育むことが出来るのです。

たとえば僕は老若男女100名近くと血縁を超えて共に暮らしていますが、このような暮らしをしているといわれのない非難を受けることもあります。それらは経験や立場の違いから生まれる偏見と言えますが、彼らの視点を理解すれば、僕らの決意を試す有難い言葉ともなります。そんなふうに僕らは成長して来ました。それがなくなって欲しいと思う必要もなくてただ道理を通して暮らし変遷として見ていけばいいのだと思っています。

過去から未来へと続いていく天の物語。その長い物語の中に自分は位置し物事に出会いますが、すべては流れの中にあります。敵に出会うのもその流れの中であり、そこから学ぶことで敵は消え、また新たな敵が表れるのでしょう。敵の存在を認め尊重していれば、それは絶え間なく続く成長のプロセスであり、すべては役割でありそこには「有難い」しかないのです。




☆彡 ☆彡 ☆彡

この文章にあるように、時に木の花ファミリーのことを批判する人に出会いますが、そのような時、第三者にその出来事の意味を説明することもあります。そんな時、僕は木の花を批判する人たちの言葉を徹底的に読み込んでいます。繰り返し繰り返し読み、彼らの視点から木の花を眺め、その言葉を実感を持って味わうようにしています。すると実際を離れて本当にその通りに思えてきます。今や彼らの言葉は僕の言葉ということが出来るぐらいです。こんなふうに彼らの視点を確認した後、そこから抜け出しいつもの自分の位置に戻ってきます。これは数年前からやり続けている作業で、僕はずっと批判者の文章を読み続けていますが、こんなふうにお互いの立場を行き来しながら、どちらの視点にも立たない言葉を紡ぐようにしています。

誰の側にも立たずにみんながそうだねと思える言葉を紡いでいく。

それが僕の目指すところで日々そのための努力をしていますが、批判者の実感を味わいながら自分を保つのはなかなかしんどい作業でここ最近の苦しみはそこから生まれていました。

木の花ってひどいところ。

そんな言葉を実感を持って味わいその視点で日常を送りながら、この道を歩む意志を固めていくのです。年始に批判者たちの文章をまとめて読み込みその視点を沢山味わって彼らに共感し、共感することで今、その奥をさらに見通すことが出来たのはないかと思っています。それは自分自身の奥を見通すことにも繋がります。

自我は惑いの中にある

これが今浮かんでいる言葉です。

みんな様々な出来事に出会いその中で自分の考えを育んでいて、そこにはそこに至るワケがあり、その人の正当性があります。人間の自我は目の前の出来事に反応し一喜一憂しながら自分の利益を求めていきます。それは多分みんな共通していて、だからその人の立場に立ったらその気持ちになるなと理解し合うことが出来るのです。僕はこんなふうに批判者たちの言葉を理解しています。ですが、これはあくまでそれぞれの状況に対する反応です。だから状況が変われば心も意見も変わります。なぜなら自我が求めているのはあくまでも自分の利益であり正当性だからです。そして、それは僕らの意見にも同じことが言えます。もし僕の言葉が自我からの言葉ならば、それはあくまで自分の立場や状況から生まれているものです。状況が変われば気持ちは変わります。だからもしその状態で言葉を保とうと思ったら自分に「大丈夫だ」と言い聞かす必要があるでしょう。自我からの言葉は状況に左右されますが、変化変容を本質とするこの世界では未来は未知であり絶対はありません。自我の思惑から世界を眺めたらどうしても惑うことになり、逆に一つの視点に固執したら、そのことが世界を見えなくさせます。そこに自我による決心の弱さや危うさがあり、自我による共感はそれぞれの都合を認め合うことで分断が進んでいく今の社会を追認するのです。

先に僕は奥を見通したと書きました。それは僕の言葉が自我からのものではないことの確認です。僕が生きているのは自分の意志で生きる前に生かされているからであり、自我の奥には自分を生かしている働き掛けがあります。今、僕がここで暮らすのも自分の意志より前にその働きかけがあるからであり、それは自分の損得を超えたものでありその事実は揺るぎがないものです。そこに立つ時、僕は自我の惑いを超えて思惑を超えたところでみんなと繋がっていけるのです。そして、この視点が今の社会の行き詰まりを突破するものだと感じるから、ひどいところと言う人がいたとしても僕はここの大事をみんなが分かる言葉で伝えていくのです。そしてそれは大切な繋がりや心の豊かさを生み出しているという事実を伝えることでもあります。

自我の思惑を超えたところに「みんなでそうだね」と奥のところで感じ合える言葉があります。それは自我による共感を超えたものであり、様々な立場にいる人々を繋いでいきます。そんな本当の絆が広がるように。最後に一つの文章を引用して終わりにしたいと思います。

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思惑や感情の奥に本当の自分がいて、その自分はこの宇宙と一体で常に響きあっています。自我が生み出すヒビキを超えることで、世界と響き合っている本当の自分のヒビキを生きることが出来ます。それは円が縁を紡ぐこの世界の中で与えられた自分の位置、誰とも比べることが出来ない自分独自のヒビキです。

自分の中には自我を含めていろいろな層があり、それぞれの層が発しているヒビキがあります。自分の意識がどのヒビキとチューニングしているかによって、そのヒビキに相応しい心の状態となって現実を生み出していきます。だから自分の持つヒビキを見通していこうと思っています。そして、この世界に心を開いて、世界とヒビキあっていこうと思っています。




木の花ファミリーパンチームのみんなです。年始に美味しいパンを作ってくれました。

突破口は気づきにある(5)

今週はずっと体調が悪く苦しい1週間でした。ちょうど、「敵は自分であり有難い存在となる」を書いた後から風邪をひきそうな予感がして、昼間長めに休んだのだけれども、やっぱり風邪をひいて、頭痛、咳、鼻水、加えて、背中が強く痛み、肩と首が凝り、腰も痛み・・・というような状態で立っていても座っていても歩いていても寝ていても何をしていてもしんどい日々でした。そして、長めに休んだことで仕事が溜まり情報の整理をするのが大変になっています。

12日の夜、癒し処たんぽぽの鍼灸師、じゅんぞうくんに指圧とお灸をしてもらいかなり楽になりましたが、パソコンに向かうとやはり腰や肩、背中に痛みは発生します。年始早々なかなかな状況を迎えていますが、これも当然、自分の心が生み出しているわけです。この状態のきっかけとなった「敵は自分であり有難い存在になる」に僕は以下のように書いています。

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多種多様な経験をし、様々な立場の人たちが共に暮らすこの世界では意見の相違があるのは当然です。違う立場の人が敵となって表れる。それも不思議なことではありません。その時、それを有難いこととして受け止め、そこから学んでいけば、敵は好敵手となり人は成長しあらゆる立場を超えた視点を育むことが出来るのです。

たとえば僕は老若男女100名近くと血縁を超えて共に暮らしていますが、このような暮らしをしているといわれのない非難を受けることもあります。それらは経験や立場の違いから生まれる偏見と言えますが、彼らの視点を理解すれば、僕らの決意を試す有難い言葉ともなります。そんなふうに僕らは成長して来ました。それがなくなって欲しいと思う必要もなくてただ道理を通して暮らし変遷として見ていけばいいのだと思っています。

過去から未来へと続いていく天の物語。その長い物語の中に自分は位置し物事に出会いますが、すべては流れの中にあります。敵に出会うのもその流れの中であり、そこから学ぶことで敵は消え、また新たな敵が表れるのでしょう。敵の存在を認め尊重していれば、それは絶え間なく続く成長のプロセスであり、すべては役割でありそこには「有難い」しかないのです。


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今現在、役割として僕の敵になってくれている存在がいるのですが、この文章はその存在を意識して書いたもので書いた後に僕は調子を崩しました。そこには僕の弱さが表れています。僕には僕の役割があります。そして、その役割は敵の存在を認め尊重しながら務めるものですが、尊重するとは慣れ合うことではありません。相手の立場を理解しながらも情に流されず道理を通していく必要があります。しんどい状況からあらためてその覚悟を深める必要性を感じています。

ベトナム反戦運動を主導し、北軍南軍双方の兵士を助けることで誤解を生み、両軍から攻撃を受けても非暴力を貫いた仏僧ティク・ナット・ハン氏は、非暴力主義の鑑と言えます。そのティク・ナット・ハン氏は、何らかの理由で引きこもり家から出て来なくなった青年に対して、その青年の家を焼き、社会生活をするように促したことがあるようです。その行動は心を鬼にしてとった行動であり厳しいものですが、その奥には青年に対する理解と愛があります。今僕は、昔、本で読んだこのエピソードを思い出しています。

そして今、1月27日に開催される富士浅間木の花祭りに向けて稽古が本格的になってきていますが、僕はこのお祭りで鬼を演じます。鬼は人々に忌み嫌われていますが、鬼は本来、人びとに道理を説く存在です。鬼についてカタカムナの単音で調べると以下のような意味となります。

「オ」 6方(前後左右上下)へ限りなく拡散、または凝縮する思念。大きい 重い 奥の方・潜象の場  ※潜象界とはカタカムナでは「ない世界」のこと

「二」 定着する

この意味を発展させて「いさどんと鬼の面」では鬼について以下のように説明しています。

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「オニ」とはマクロにもミクロにも限りなく広がる現象界、および現象界の元になる潜象界をも含む、両方の世界の働き(仕組み)を定着させるものである。そして、「鬼が云う」と書いて「魂」となる。魂とはこの世界の仕組みのもとにある心で、鬼は人間に、この世界の道理を伝えるものなのである。

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「鬼が云う」で魂、鬼の言葉が魂となります。魂とは本来の姿であり、一人ひとりの自我(エゴ)を超えた存在です。相手を理解する時、そこに相手の自我に対する理解も含まれますが、尊重するのは相手の自我ではなく魂です。すべての存在が魂では通じ合っています。だから魂を尊重するとは、すべての存在に通じる道理を通すことなのです。それは相手の自我にとったら認められないこともあり反発を受けることもあるでしょう。ですが僕は僕の情に惑わされずただただその道理を意識して役割を務めていきます。この言葉が僕の傲慢ならば、結果がそれを教えてくれます。だから常に変遷を見ていけばいいのです。ここで昨年の10月に書いた言葉を思い出しました。

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突破口は気づきにある。

それを意識し生活することが大切だと思っています。

多くの人は現状に問題を感じた時、その分析をします。その分析の奥には「こうあって欲しい」というイメージがあって、そのためには「こうする必要がある」と訴えることになります。それは自分の想いを実現しようとする姿勢であり、自分の視点に対する理解を周りに求めることになります。この姿勢のまま「これではいけない、なんとかしよう」と一生懸命になっても突破口を開くことは出来ないのでしょう。

我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。

気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。




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役割としての敵が存在する今の状態は問題がある状態とも言えます。ですが、僕はそのことに対する理解も結果も求めません。そうではなく世界と他者を理解していく。そのことを心掛けそこから見える道理を通し変遷を見ていく。それはきっと新しい動きとなって僕を未来へと導くことでしょう(^-^)

「突破口は気づきにある」僕の中でこの言葉はこのとセットになっています。



敵は自分であり有難い存在となる

賢者は己の敵から多くのことを学ぶ

これは古代ギリシアの喜劇作家アリストファネスの言葉。
風呂場の日めくりカレンダーで目にしました。

この世界は自分の鏡と言います。

敵が目の前にいるということは自分が敵を生み出す心をしているということです。
敵と向き合うことは己と向き合うことになり、
そのためそこから多くの学びを得ることが出来るのでしょう。



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上記は昨年の3月に書いた言葉ですが、この言葉を見た時、「敵も自分だよな」ということを思いました。大きな視点で見たら、この世界は天の意向によって動いていて、自分も相手も役割を果たしているだけで、奥を辿ればすべては一つなのです。だからこの人生で出会うものはすべて自分と言えるのです。

そして「敵がいる」というとネガティブな印象を与えますが、必ずしもそうではないのだと思っています。

賢者は己の敵から多くのことを学ぶ

ということは、敵がいる状態は学びがあるということです。ライバルという言葉を日本語に直すと好敵手と書きます。好ましい敵です。ライバルという好ましい敵がいることにより成長する機会となるのです。2年前、僕は「敵が目の前にいるということは自分が敵を生み出す心をしているということですと書いていますが、この時の僕は、敵という存在を超えていくべきものと捉えていました。最終的には敵がいなくなることを良しとしていたのです。ですが、好敵手であるライバルは自分を成長させてくれる存在です。生きている間、成長し続けるならば、敵がいることは常に有難いことなのです。そのことに気づきました。

そして、この「敵はいない方が良い」という心は曲者だなと思いました。それは都合の悪いものを排除する心にも通じるもので、争いを避けているようで争いを増幅していくのだと思います。実際に人類は長年、平和を求めて争ってきています。そして、この心が敵を好敵手ではなくただの敵にし、それが学びのない不毛な争いとなっていくのでしょう。

多種多様な経験をし、様々な立場の人たちが共に暮らすこの世界では意見の相違があるのは当然です。違う立場の人が敵となって表れる。それも不思議なことではありません。その時、それを有難いこととして受け止め、そこから学んでいけば、敵は好敵手となり人は成長しあらゆる立場を超えた視点を育むことが出来るのです。

たとえば僕は老若男女100名近くと血縁を超えて共に暮らしていますが、このような暮らしをしているといわれのない非難を受けることもあります。それらは経験や立場の違いから生まれる偏見と言えますが、彼らの視点を理解すれば、僕らの決意を試す有難い言葉ともなります。そんなふうに僕らは成長して来ました。それがなくなって欲しいと思う必要もなくてただ道理を通して暮らし変遷として見ていけばいいのだと思っています。

過去から未来へと続いていく天の物語。その長い物語の中に自分は位置し物事に出会いますが、すべては流れの中にあります。敵に出会うのもその流れの中であり、そこから学ぶことで敵は消え、また新たな敵が表れるのでしょう。敵の存在を認め尊重していれば、それは絶え間なく続く成長のプロセスであり、すべては役割でありそこには「有難い」しかないのです。

このようにみんなで成長を続けていたら、みんながみんなの好敵手となり成長し合い不毛な争いはなくなっていくのでしょう。敵の存在を認め尊重すること。その心が平和への第一歩となり人類の目覚めへと繋がります。それは暗闇の中に立ち上がる光の柱となっていくでしょう(^-^)



積極的に自分を探求するために夢を描く

1月2日スーパームーンと富士山(ちなっぴ撮影)です。

2018年の振り返って書く2018年の目標という記事を読みました。この記事では今年1年を通して引き寄せたい、現実化させたい未来の出来事を手帳に書くことを勧めています。以下、一部引用します。

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過去形で未来のことを書くことに違和感を感じる人もいるかもしれませんが、なかなか集中できない人へのオススメの書き方は、自分が未来にタイムスリップしていて、2018年の目標を書くなら、2019年のお正月に2018年の振り返り日記をつけている感覚で書くと良いかもしれません。

1年後の自分が、この1年間を振り返った状態。

1年後の自分はどんな自分となっているのか。

やりたかった、あの夢は叶っているのか。

どんな人が身の回りにいるのか。誰が一番近くにいるのか・・・。

「冬はこんなことがあったなぁ・・・」

「秋にはこんなことも始まって・・・」

2018年も半分が過ぎた頃には、予定通り目標も半分達成して・・・」

すべて、妄想で良いので、とにかく書くときだけでもいいから、意識を未来にタイムスリップし、過去を振り返りながら2018年に実現したいことを過去形で書きます。

自分の過去の経験上、何でもかんでも願望が実現するわけでもなく、それでも70%くらいは実現します。

実現しなかった目標は、ちょっと早すぎて、その翌年に実現したり、また頭で考えた願望は実現しにく、心がワクワクと踊る中でインスピレーションで降りてきた目標や数字は、現実化しやすいです。

だから、なるべく目標を書くときは、自分の心がリラックスしていて、頭ではなくハートに意識を持っていきながら、思いのまま浮かんだことを過去日記を書くようにすると良いと思います。

はたから見たらバカみたいなことですが、どれだけバカになって自分自身を信じれるか・・・信じるといえば綺麗ですが、自分を騙せるか、自分を洗脳できるかがポイントです。

潜在意識や脳は、一度設定したら、それを実現するために、フル回転で起きている時も眠っている時も稼働しています。

「そんなこと自分には無理」

いつも伝えていますが、自分に自信がない人、自分を否定する人は、一体どの自分を自分と思っているのでしょうか。

顕在意識、人間の脳、DNAにしても、使われているのは数%程度。

未知なる可能性が無限に近いほど誰にでも残されているのに、僅かに知っている自分をすべての自分と思い込み、自分で自分を制限してしまっています。

90%以上の、まだ見ぬ自分。


自分が知らない自分があることを認識するだけで、無限の可能性の扉が開かれます。

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この記事を読んで自分も実践してみることにしましたが、これは願いを叶えること、思い通りにすることが目的なのではなく、天との対話なのだと思いました。目標という形で想いを天に投げてみる。そしてそれがどのように展開するかによって自分を知っていくのです。

今、世界は様々な分野で行き詰まりを迎えていますが、それは人間が思い通りの世の中を生み出そうとしてきた結果です。自らを分けると書く自分。そこから生まれる自我は世界から自分を切り離し際立たせます。その動きが行き過ぎたものとなり人々に分断や対立が生まれているのです。

大切なのは、自我の動きを超えることです。目標や願いを書く時、自我の想いを叶えようとするならば、叶ったとしても、それは社会や自分の混乱を深めていくだけとなります。だから実現不能に思えるようなことを思い切り書くといいのだと思いました。その後はそれを手放し日常をただ真剣に送るのです。そしてそれがどのように展開するかで自分の心を知っていくのです。積極的に自分を探求する姿勢として夢を描き天に投げてみるのです。こんなふうにしてただ受け身で天からの意向を待つのではなく天を主役としながらも現実を共に創り上げていこうと思いました。それが個としての存在する人間の役割なのだと思っています。

銀河の夜明けを経て、今、時代は真の女性性が蘇り統合する時代へと向かっています。ここでその意味が明確に表現されている文章を引用します。

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 新たな時代への潮流の中で大切なことは、(それが一番良い方法だと信じて)全てを自分でやろうとするあり方(誤解)から自分自身を解き放つことだ。自分が望む結果よりも、遥かに偉大な結果へと天が導いてくれるということを信じて委ねられるか。それは、また宇宙時間への回帰の大切さを意味している。』

 ~ 中略 ~


宇宙には天が意図した「ひふみの法則」というものがあります。

無意識に統合の時代を生きていた時代(ひふみの「ひ」=源)から、我々は「個」の体験を重ねるという分離の時代(ひふみの「ふ」=分離)を過ごしてきました。そして、今、まさに私たちは「生」の本来の目的を想い出そうとしているのです。(ひふみの「み」=意識をもって統合の時代を生きていく)。


『全ての生命(いのち)が響きあう場所で天に導かれて愛を生きる。』


競争やエゴ、自分(たち)さえ良ければ、今さえ良ければ、という世界ではなく、皆がひとつの真実の方向に向かって響き合う、「大いなる循環」の中で自らの輝きを活かしていく時代の到来。


統合の時代へとシフトする今このとき、宇宙時間の中で、自分の輝きを、自分の中心で、真の女性性を取り戻しながら神の子として蘇る。天と自分の魂との約束を果たす時が今まさにやって来たのです。


自分自身を籠の中に閉じ込めているのは、「自分のやり方こそがベストだ」と信じ込んでいる自分自身なのです。その観念を一旦天へと戻して、認めたくない自分やもう二度と感じたくはない感情と再び出逢い、向き合い、その奥に在る、分離の時代には成しえなかった


『自分の中にある本当の想いや愛と繋がりなおす。』


そういうチャレンジを体験することが、閉じ込めた籠の中から輝ける自分自身を解き放つことにつながっているのです。


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自我は波のようなものでその奥には海である自分がいます。海の表面に波があるように心の表面にも自我があり、そこでは常に感情の浮き沈みを繰り返しています。人はそこに目を奪われ感情の波に飲み込まれていきますが、真の自分、海であることに気づくためには波の奥へと潜っていく必要があります。

日々湧き上がる感情。その奥に潜っていくことで本当の想い、愛と繋がることが出来ます。それは毎日地道に続ける実践です。僕は思い切り夢を描き、感情を離れ日々の出来事をそのままいただいていきます。そして、それがどのように展開するかを楽しもうと思っています(^-^)





思い通りにならないことに向き合うことで心が育まれる

思い通りにならないことは向き合うことで心を育んでくれます。そして心が育まれると思いもよらない出来事に出会い感動します。感動し嬉しくなると気が緩むものです。ですがこの時、気が緩んでしまうと思い通りにならないことに苛立ち心が貧しくなっていきます。そうするとせっかく積み上げたものが一気に崩れてしまいます。これでは元の木阿弥で人生は同じことの繰り返しとなっていきます。

思いもよらない出来事に出会うということはそれだけ価値のあるものになれというメッセージで、より責任が大きくなり心を引き締める必要があります。心を引き締めることで何が起きても心は育まれ続け価値を高めていけるのです。

クリスマスの日、木の花ファミリーでも12月のお誕生日会を兼ねてクリスマス会が行われ、みんなで楽しい時間を過ごしました。クリスマス会ではサンタさんから子どもたちにプレゼントが贈られますが、今年は僕にもプレゼントがありました。思いがけないことに胸が温かくなりましたが、翌日、子どもたちがプレゼントのおもちゃに使う電池を求めて僕のところに来て、数が足りなくなったけれども注文してある分がなかなか届かなくて何度も何度も確認に来る子どもたちがいたり、プレゼントのオーディオプレイヤーの使い方を調べて欲しいと言ってくる子の対応をしたりでペースが乱されました。

忙しいところ時間を取られてしまった。これはまずい!

という思いが浮かびましたが、冷静に観れば、多少仕事に遅れが出ただけのこと。大騒ぎをするようなことではありません。それでも、まずい!という思いが浮かんでくるのは自己主張で、その奥にはペースを乱されていることに対する負担感、もっとよく見れば苛立ちがあります。それを認識すれば、その感情を超えていくだけなのです。

子どもたちはただ喜んでいるだけだから、その喜びには気持ちよく応じたいものです。

仕事が進まない。まずい!

というのは責任感がある言葉のようにも聴こえますが、心の奥を観ればペースを乱されることに対する苛立ちがあり、それをきれいにカモフラージュしているだけです。

自らを分けると書く自分、そこから生まれる自我は自らを際立たせます。それは刺激に対する反応なようなもので、多くの場合、そこには冷静な判断は含まれていません。押されたら引きたくなるし、引かれると押したくなる。目的は自らを際立たせることあるから言うことがコロコロ変わるのです。人はそんな自我の動きをきれいごとでカモフラージュします。先に挙げた、仕事が進まない。まずい!というものもそんな心の動きの一つです。

自らの価値を高めることは自我から自由となることであり、だからこそ思い通りにならないことは向き合うことで価値を高めてくれます。思いもよらない出来事はそんな中与えられるご褒美のようなものですが、そこで自我が疼いたらまた元の木阿弥となるのです。

だから常に心を観察し続けることが大切です。

そんなことを思っていると、静岡新聞の社説が目に入りました。

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素手に棒を握り、はいつくばって砂浜をつついて進む。手応えがあると慎重に砂をのける。現れるのは円形の地雷。信管の抜き取りをわずかでも誤れば目の前で爆発。死と隣り合わせの作業に幼い面立ちのナチス・ドイツの敗残兵が当たる

ちょうど1年前に公開された映画「ヒトラーの忘れもの」。第2次大戦後のデンマークを舞台にナチスが海岸線に埋設した地雷の除去に駆り出された少年兵と、指揮するデンマーク軍の軍曹との葛藤を描いた。史実に基づくリアルな場面が胸に迫った

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ナチス・ドイツの敗残兵に地雷処理をさせる。それを命令する側には当然の報いという理屈があるのでしょうが、その奥にある心を見て超えていく必要があります。そうでないとお互いの正当性を主張しながらの悲劇が繰り返されていきます。先の記事はこんなふうに続きます。

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残念ながら、その悲劇は今も終わらない現実でもある。先日、非政府組織の連合体、地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)が発表した報告によると地雷や不発弾による2016年の死傷者は世界全体で8605人。うち8割は子どもを含む一般市民だった

地雷の中でも対人地雷は命でなくけがを狙って設計される。恐怖心をあおり救護に要するコストで敵を消耗させる。安価で大量に装備でき、いったん埋設されれば半永久的に作動し無差別に殺傷する。「悪魔の兵器」といわれるゆえんだ

廃絶を目指した対人地雷禁止条約(オタワ条約)ができて20年。130以上あった地雷保有国は半分以下まで減ったものの、なお地球上に残る地雷は数千万とも1億とも推計される


条約に米国、ロシア、中国などが背を向ける中、日本は地雷を廃棄し除去へ資金や技術的支援にも積極的に取り組む。道のりは長いが、まずは地雷全廃。そして核という非人道兵器も“人類の忘れ物”にしてはならない。



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人生は思い通りにならず人類は数々の悲劇を経験してきました。それに向き合う時、人類の心が育まれ、思いもよらない出来事、実現不能にも思える平和が訪れるのだと思います。地雷にしろ原爆にしろ自分の思い通りにしようとする心から生まれています。その思いにはそれぞれ正当性があるのでしょうが、軍拡競争となり歯止めが利かなくなっています。思い通りにしようとすると心が貧しくなっていきます。平和運動が対立に繋がるのも思い通りにしようとする心の表れです。だから自分の正当性の奥にある心を見て、それを超えていく必要があるのです。それはきっと日々の生活の中でみんながする必要がある実践で、その積み重ねが本当の平和へと繋がっていくのでしょう。

思い通りにならないことに向き合うことで思いもよらない出来事に出会い感動するのです(^-^)

12月お誕生日会&クリスマス会の様子です。


カタカムナを生きる ~「ズレ」から「スレ」へ~

追い求める人生ではなくいただく人生を生きることを決めている僕ですが、いただく人生とは決して受け身なものではなく、積極的な行動を取ることもあります。どんな時に積極的な行動を取るかと言ったら、それが流れと感じた時。流れとは何かと言ったら、必然性だと思っています。その行動を取ることが必然であること。この必然性とはあらゆる立場を含んで超えた視点からのものです。行動を取ることが必然である時、未知なる未来へ向けて行動し結果をいただいていくのです。

ここ一年ぐらい自分の中に想いが生じた時、必然とは言えない想いは手放して来ましたが、一つ自分の想いを手放すと、その想いの奥に行く感覚があります。自分自身のより深い部分に入っていく感じがするのです。そして思ったことは、自分の思考や感情、情動の奥に本当の自分がいて、その自分は常に全宇宙と響き合っているということです。そして、その自分は宇宙時間を生きているのです。宇宙時間については以下の文章に分かりやすく書かれています。

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かつて、「死」さえも天が統治して導いてくれているということを感謝と共に受け入れていた時代がありました。身体を持った「生」の時間と、身体から離れた「死」という時間を、行ったり来たりすることは、"悠久の宇宙時間"の中に在る魂にとっては何も怖いことではなかったのです。

しかし、「生」にあった時、「出逢った大切な人・時間と共にいつまでも在りたい」という当たり前の欲求によって、"宇宙時間"から自分達のための"人間(物質)時間"への執着が生まれたといいます。

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悠久に流れる宇宙時間、そこから生まれる流れはすべての存在にとって必然性を持つものです。常にそこを意識して生きていこうと思っています。とはいえ生きているということは人間(物質)時間も生きているわけで、その自分の想いと宇宙時間との間にはズレがあるものです。ズレがあるというとネガティブな印象ともなっていくものですが、そのズレこそが世界に彩りと豊かさを与えているのだと思います。自分の想いと宇宙時間という必然性とのズレ。それがそれぞれの人の物語を生み出していきます。ズレを放置し、そのズレが拡大していけば、人生は混乱したものとなりますが、ズレを認識し、そのズレを埋め合わせようと努力することで人は成長していきます。ズレは人を混乱へと導くこともあれば、成長へと導くこともあるのです。

先月、いさどんからカタカムナプレゼンがメンバーに対して行われましたが、プレゼンには以下のような記述があります。

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個々の生命は自らに偏っている。現象界では、偏った現象に出会うことにより、個々が偏りの実態(自らの姿)を学べるようになっている。さらに、偏りから、つながることの大切さ(宿命)を学ぶようになっている。

相反する二つが存在することによって、世界を認識することができ、それが仕組みと成った。=宇宙を生命として活性させ循環させるメカニズム。

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自らの偏り、これはズレと同じことを言っているのだと思います。ちなみにズレをカタカムナで読み解くと以下のようになります。

ス:・・・する。極限までの進行
レ:エネルギーが過剰の状態。九つを超え、限りなく十に近い9.999・・の思念。

「スレ」は、10(統合)直前まで限りなく進行している思念と言えます。統合とはすべてと一つになること、まさに宇宙そのものとなることで、そこに限りなく近づくけれども、そこに至っていない状態が「スレ」です。そして、「スレ」に濁点(余分なもの、個人的なもの)が加わると「ズレ」となっていきます。自らの「ズレ」から濁点(余分なもの)をなくし「スレ」となることで偏りから調和が生まれる豊かな世界が表現出来るのだと思います。

個々の生命は偏りを持つ以上、完全に一つとなることはありません。そして、認識があるのは相反する二つが存在することによります。ということは、統合に至り宇宙そのものとなった時、認識は消滅します。統合(10)は無(0)へと至るのです。ですが、無(0)へ至ったその瞬間に新たな「ヒ」(1)が動き出します。そして再び、ヒフミヨイムナヤコ(1・2・3・4・5・6・7・8・9)と進み、「スレ」を経て統合(10)、宇宙そのものへと至り、無(0)となっていく。そしてまた・・・・というように個々の生命は本来、全宇宙とダイナミックに響きあっているのです。ですが、自我を持つ人間は、「スレ」に濁点がつけ「ズレ」としその動きに停滞を起こします。個人の想いが強まると、「スレ」は「ズレ」となり、統合(10)へとは進まずに分断が生まれ、人間は自我の世界に埋没していくのです。だから僕は自分の生み出す思考や感情、情動の奥を見ていくのです。その先に待っているのは、全宇宙と響き合って進化していく自分です(^-^)






カタカムナを生きる ~自分のヒビキを究める~

僕はずっと叶わない願いを持っていました。その願いが僕を自分の反応パターンを超えていく自己否定へと導いてくれたのです。もし願いが叶っていたら、僕は今でも目の前の出来事に一喜一憂し翻弄されていることでしょう。ここに至る過程では、何度も何度も自分には生きている意味も価値もないと思ったものですが(間違えた自己否定ですね)、今はただ出会う出来事をいただくだけ、そこに意味と価値を見出しています。思惑や感情を超えたところで現実と向き合って生きています。だから僕はカタカムナを生きていると言えるのです。

自己否定の先に環境と響き合って変化し続ける自分がいます。その行きつく先は大宇宙生命のヒビキ、いつもそこに心を向け続けています。

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上記は、「カタカムナを生きる ~自己否定の先にあるもの~」に書いた文章です。ここに出て来る「生きている意味も価値もない」という言葉、これは僕の自我が生み出した言葉ですが、こういう言葉は嘘なのだと思っています。最も、自我は自らを暗示に掛けているような状態なので、嘘をついている自覚はなく、本気でそう思っているのですが、この言葉はやはり嘘なのだと思います。意味も価値もないならば、今、生きているという現実を説明することが出来ません。意味があるからこそ生かされているわけで、そういうことを本当は分かっているのです。当時、自我は思うように行かない現実にぶち当たっていました。思うように行かない現実に苦しみ、落ち込み、駄々っ子になっていたのです。だから、そういう気持ちをアピール出来れば、どんな言葉でも信じ込み、採用していくのです。僕の自我はこのような反応を起こすということです。それを常に見通し続けていこうと思っています。

この世界はヒビキで出来ている。

それがカタカムナが教えてくれる世界の真実です。僕の持つヒビキが出会う現実を生み出していて、そして、その現実に対する反応があらたなヒビキを生み出していきます。思うようにしようとして駄々っ子でもなる自我のヒビキ。そんなヒビキが生み出す現実はいらないから、だから僕は自我を超えていくのです。

とにかく出会う出来事がすべてです。それが自分の今まで生に対する答えであり、それにどう反応するかでこれからの未来が決まっていきます。だから思惑や感情を手放し、出会う出来事をそのままいただいていこうと思っています。

思惑や感情の奥に本当の自分がいて、その自分はこの宇宙と一体で常に響きあっています。自我が生み出すヒビキを超えることで、世界と響き合っている本当の自分のヒビキを生きることが出来ます。それは円が縁を紡ぐこの世界の中で与えられた自分の位置、誰とも比べることが出来ない自分独自のヒビキです。

自分の中には自我を含めていろいろな層があり、それぞれの層が発しているヒビキがあります。自分の意識がどのヒビキとチューニングしているかによって、そのヒビキに相応しい心の状態となって現実を生み出していきます。だから自分の持つヒビキを見通していこうと思っています。そして、この世界に心を開いて、世界とヒビキあっていこうと思っています。

ところで今日から水星が逆行するようです。そのことについて天下泰平ブログ「今年最後の水星逆行」には以下のように書かれています。

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12月のラストの水星逆行期間は、

12
31634分から12231050分まで

124日の満月、1218日の新月、1222日の冬至などのすべての宇宙のイベントも含んで天皇の誕生日に終わります。


個人的にオススメなのは、この12月の水星逆行中の3週間は、これまでのことを振り返るにはぴったりの時期。

2017年を振り返って、どうだったか。あっという間に過ぎ去った1年だったかもしれませんが、このタイミングに見直すと多くの気づきがあると思います。


余裕があれば、これまでの人生を長く深く振り返っても良いタイミングかもしれません。

そして逆行中は、普段うまくいかないこと、挫折したことに再チャレンジするタイミングにも向くといいます。

うまくいかなかったことも振り返り、それまでとは違ったやり方、違った意識状態で取り組むと思わぬ良い結果につながるかもしれません。

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振り返りにぴったりのこの期間。今までの自分が発していたヒビキを見通していこうと思っています。そして、これから自分の持つヒビキを究めていきます。


カタカムナを生きる ~自己否定の先にあるもの~

先月、いさどんから木の花ファミリーのみんなにカタカムナプレゼンが4回に分けて行われました。それを受けて、今思うところを書いておきます。プレゼンの中には以下のような記述がありました。

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原始の脳も神経も持たない単細胞の生物は、外界の物質が我が身にとって有害か有益かを直観して、「有害な物は避け、有益なものは細胞内に取り込む」という働きを営んできた。

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これは単細胞生物が環境と響き合っているからであり、思考や感情を超えたところに「生命カン」というものがあることを表しています。現代の人々は日々、前頭葉を使い思惑を巡らせていますが、カタカムナの実践はその状態を超えて、松果体を震わすことです。そうすることで目の前の現実、環境と響き合って生きていく。そして究極的には、大宇宙生命のヒビキを直接感受していくのです。

環境と響き合って適応、そして進化していく「生命カン」

それは現代人が退化させてきているものです。例えば、よくいさどんの話に出てくるのですが、今の社会では子育て本が沢山出版されています。ですが、他の動物でそのようなものに頼って子育てをしているものはいません。動物たちは、本能的に子どもに必要な関わりを察知しているのです。多くの現代人は、目の前の出来事を感じて動くよりも、頭で正解を求めそれに基づいて行動しようとしています。そのような中で失われている「生命カン」。それを取り戻すことがカタカムナの実践と言えます。

その方法は端的に言って、自己否定にあると思っています。自己否定というと「自分は駄目だ」、「自分は出来ない」などの言葉を連想する人が多いと思いますが、ここで言う自己否定とはそのようなものではありません。善悪や能力のあるなしなど、あらゆる価値判断を超えて自分の反応パターンそのものを超えていくのです。

人は日頃、自我に基づいてこの世界を認識し行動していますが、その状態では今の世界の混乱を超えることは出来ません。人間の自我が今の社会を生み出しました。だから今の社会に適応することは出来ますが、その社会は環境破壊や貧困や飢餓、そして戦争や紛争を生み出しているのです。その先に未来を見通すことは出来ません。だから自我に基づいて思考し、この世界に反応している自分を否定し超えていく必要があるのです。自己否定とはそういうことで、自己否定をした先に、奥に眠っている生命カンが働き本当の意味で自分から自由となれるのです。そのことを今年の7月、僕は以下のように書いています。

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この道は言ってみれば、自己否定の旅だと思っています。それはもっと大きな自分、世界と一つになるための自己否定です。常に否定し続け、それが即、肯定へと変容し続けます。それは自分を手放すことが出来ることへの誇りであり、大いなるものへと自分を委ねる覚悟となります。

この道は山登りに例えられます。山のすそ野は広くどこからも登ることが出来ますが、頂上は一つ。登れば登る程、道は限られていきます。同じように、この道は究めれば究める程、道は狭くなり、今まで良かったことも駄目となり、自らの選択はどんどん限られていきます。

不自由の自由。

一見、不自由に見える心の道ですが、それを進むことが本当の自由への道です。

なんでもいいけど道は一つ。

そんな感じです。

多くの人は自分の想いのままに行動することが自由だと思っています。ですが、思い通りにことが運ぶことはほとんどありません。結果、自らの想いに翻弄され、現実の中で右往左往するのです。平和を求めて争ったり、平和のために核武装したり。人々は自らの想いに翻弄され、それが矛盾に満ちた社会を生み出しているのです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

この世界は人々の意識の総和となっています。多くの人が自らの想いに翻弄されているからこそ、世界全体も混乱の極みにあるのです。

自己否定をし自分の反応パターンを手放し、ただ出会う出来事と響き合っていく。思考や感情を超えたところで直観に従い行動し生命カンを磨いていく。それがカタカムナの実践であり、みんながそのようになった時、みんなで環境と響き合ってこの世界に美しいハーモニーが生まれてことでしょう。ここで2015年7月にいさどんが語ってくれた言葉を紹介したいと思います。

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常に意識を全体性に持っていく必要があります。あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?それが重要です。個人的願望が全体性と共通していればいいのです。例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、全体性と個人は本来、共通していることなのです。ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



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僕はずっと叶わない願いを持っていました。その願いが僕を自分の反応パターンを超えていく自己否定へと導いてくれたのです。もし願いが叶っていたら、僕は今でも目の前の出来事に一喜一憂し翻弄されていることでしょう。ここに至る過程では、何度も何度も自分には生きている意味も価値もないと思ったものですが(間違えた自己否定ですね)、今はただ出会う出来事をいただくだけ、そこに意味と価値を見出しています。思惑や感情を超えたところで現実と向き合って生きています。だから僕はカタカムナを生きていると言えるのです。

自己否定の先に環境と響き合って変化し続ける自分がいます。その行きつく先は大宇宙生命のヒビキ、いつもそこに心を向け続けています。


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