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『サピエンス全史』から時代主義へ

一昨日放映されたクローズアップ現代「幸福を探して 人類250万年の旅」を観て、『サピエンス全史』の存在とその著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の存在を知りました。そして、いくつかの書評と著者インタビューを読んでみました。それがとても面白くいろいろな考えが浮かんできました。

僕の理解だとハラリ氏の考えを要約すると以下のようになります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

現生人類ホモ・サピエンスが他の競合種を圧倒し、現在の繁栄に至った理由は、「虚構(フィクション)を信じる力」にあります。約7万年前の認知革命により、ホモ・サピエンスは「虚構」を使う力を得ました。「気を付けろ!ライオンだ」と言える人類種は多くいましたが、ホモ・サピエンスはこの時「ライオンはわが部族の守護霊だ」という能力を獲得したのです。このように、虚構、架空の事実を物語ることにより、多くの人の共感を得て協力し合うことが可能となりました。人々は共通の目的を持ち大きな組織を創っていきます。

宗教、国家、法律、企業、貨幣など。


これらもすべて人間が生み出した虚構なのですが、これらを信じることで複雑で高度な社会を営むことが出来るようになりました。共通の物語を持つことで人類は統合の道を辿りました。現在社会ではマスコミやインターネットにより世界の情報は瞬時に共有されます。そして、その情報により世界は動いていきます。


この動きの中で人類全体の富、そして力は飛躍的に増大していきます。ですが、一人ひとりの人間に目を向けた時、富を握るのは一握りの存在であり、多く人の暮らしは貧しくなっています。文明の発展は一人ひとりの人間の幸福には繋がっていないのです。


そして、それは個人の持つ知識や能力に関しても同じです。自然の中で自分の力で生きることが求められた狩猟採集時代の人々は現代人よりも多くの知識や能力を持っていました。彼らは、与えられた環境に自分たちを適応させて暮らしていました。それは自分たちの都合のよい世界を創ってきた現代人とは対照的で、これからの時代、人々は狩猟採集民の姿勢を取り入れる必要があります。なぜなら、現代の資本主義は行き詰まりを迎えており、これから大きな変化が起きようとしているからです。その変化に適応していくことが求められます。


ホモ・サピエンスは石器時代から多くの生物を絶滅に追いやっています。その中には、ネアンデルタール人やデニソワ人といった人の仲間も含まれます。社会の近代化や工業化が進む以前から生態系を破壊してきているのです。


このような事実は広い視点から歴史を学ぶことによって見えてきます。歴史を学ぶことにより現在信じられている価値観が虚構であり、それが生み出された過程を知ることが出来ます。そうすることで、虚構を超えたところにある真実に辿りつけるのです。


現代社会を覆っている一番大きな虚構(宗教)は「リベラリズム」です。それは何か重大な問題に直面してとき、個人が自分の内面の声に耳を傾けて判断を下すべきという考え方です。個人が重視されるため政治の問題も選挙で決めていきます。


それに対して今、シリコンバレーではあらたな宗教が生まれています。それは内面の声よりデータの判断に身を委ねる方がよいという考えです。例えば、アンジョリーナ・ジョリーが両乳房を切除したのは、遺伝情報で乳がんの発病する確率が87%であり、親族に乳がんを患った人が多いからです。


人々は中世の頃、聖典に答えを求めていました。そして、近代になると内面の自由な声に従いました。未来は膨大な情報を有するデータベースから引き出された「解答」に従う人が大半になるかもしれません。


それだけではありません。科学技術の進歩は、感情や欲望を含めて、ホモ・サピエンスそのものを変える可能性もあるのです。それがどのような変化になるかは分かりません。その鍵を握るのは、私たち人間が欲望をコントロールできるかどうかです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

歴史を観て、現在を覆っている価値観の背後にあるものを探っていく。その姿勢はとても刺激的で面白いものです。そして多くの示唆を与えてくれます。そのためこの本は多くの人の支持を得ているのでしょう。

ところで昨年末、木の花ファミリー通信特別号が発行されました。題して「時代主義が始まった」です。ここでもハラリ氏と同じ試みをしています。広い視点で歴史を辿ることにより、現代の価値観の背後に流れているものを明らかにしているのです。ファミリー通信ではビッグバンから辿っています。そして、「時代が生命そのもの」であることを明らかにしていきます。その文章は以下のように締めくくられています。

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今こそ、私たちは自らを自我の枠から解き放ち、この無限なる宇宙の中で自由自在に生きる時が来たのです。私たちの中から願望や野心が消えた時、宇宙の真理が湧き出し始めます。そして、人類が誕生した目的にのっとった最もふさわしいポジションに立つことができるのです。その真理に目覚めた時、私たちは時代を読み、流れを感じ、今を生きる「時代人」となります。それは時代主義の始まりです。

それが、21世紀初頭にあたり、時代が私たち人類に伝えているメッセージです。

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ハラリ氏とファミリー通信。同じように歴史を辿りながら、描く未来のヴィジョンには大きな違いがあります。それはハラリ氏が個人の幸せに囚われているからだと思います。

確かにハラリ氏が言うように、現代は富の総量は増えたけれども、個々人は幸福にはなっていないのだと思います。ですが、個々人は幸福を求めていました。個々人が幸福を求め欲望を追求した結果、資本主義が生まれ、経済成長へと繋がっていったのです。その原動力は個々人の欲望であり、自分「が」幸せになることを願う自我の心が人を苦しめているのです。だからこそ、自らを自我の枠から解き放つ必要があります。ですが、ハラリ氏にはそのような視点はありません。人々を苦しめている自我の延長上に未来を描いています。それは「解答」や「結果」を求める姿勢に現れています。

本来、この世界には固定した「解答」などありません。すべてはプロセスの中で変化していきます。自我の枠から自らを解き放った時、そのプロセスそのものを味わい楽しむことが出来るようになります。その姿勢が人々に真の自由をもたらし未来を切り開いていくのです。

そして、ハラリ氏は物質にも囚われています。

ハラリ氏はライオンを事実とし、守護霊を虚構としています。ですが、なぜ物質的存在が事実であり、精神的存在が虚構となるのでしょうか?そこには一つの前提があり、そこに対する検証がされていません。認知革命は文字通り認知の革命なのだとしたら、今まで知りえなかったことを知るようになったとも言えます。宇宙のチリの中から物質が生まれ、物質から精神が生まれました。それは神の自己開示であり、それにより認識を深めていくプロセスとも言えるのです。事実、ハラリ氏も言うように世界は統合に向っています。統合とはつまり全体を貫く視点を得るということです。精神に目が開かれることにより、この世界の実相、すべてが一つである事実が見えるようになったのです。それらは変幻自在に変化しますが、物質も時間と共に変化していきます。精神的存在が虚構であるならば、物質的存在も虚構です。すべては時代が生み出したものなのです。

精神と物質、すべてを含めた虚構の奥を見通した時、天の意志が見えてきます。それは個人の幸福を超えたものでありながら、個人が幸福になるためにはそれに沿う必要があるのです。大きなパラドックス(矛盾、逆説)ですが、歴史はそのことを教えてくれています。

僕らの未来は予測不能です。それは現代が混乱の極みにあるからではなく、それが生命の本質なのです。なぜなら、僕らは自らの意思で生きているのではなく世界に生かされているからです。自分のコントロールを超えています。出会うことをいただいていく。そして、それを踏まえて真剣に考えていく。その姿勢が人を成長させるのです。それが時代人の生き方であり、今、時代主義が始まっているのです(^-^)




※このブログは以下の記事を参考に書きました。

ユヴァル・ハラリが語る「シリコンバレーで生まれる21世紀の宗教」

人類の繁栄とは”虚構”の上にあるのです

「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ氏 「虚構の力」を超えるために

貨幣や宗教は虚構「サピエンス全史」ユダヤ人著者が語ったこと

虚構が起こした革命ー『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』



あなたの未熟もみんなに役立つ

弱さの情報公開


9月29日放映のクローズアップ現代+「生きづらさを抱えるあなたに~障害者殺傷事件が投げ掛けたもの~」を観ました。その内容を要約すると以下のようになります。

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相模原市の知的障害者施設で起きた殺傷事件。
その容疑者は「障害者は役に立たない」という供述をしています。
そして、「障害があって家族や周囲も不幸だと思った。
事件を起こしたのは不幸を減らすため」とも述べています。

そのため多くの障害者が身の危険を感じるようになっています。

この「役に立つ」という言葉。
効率を追求する現代社会を表す言葉で、その言葉が社会から多様性を奪い、
障害者だけでなく、健常者も生きづらさを感じるようになっているのです。

ですが、「障害のある人たちが働ける企業は成長する」し
「多様性こそ人間の繁栄を支えてきた」ということが最新の研究で分かってきました。

偏った価値観を超えて共生社会をいかに実現するかが課題となります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この番組の中で「べてるの家」向谷地生良(むかいやちいくよし)さんは、
弱さの情報公開」というキーワードを挙げていました。

この言葉はとても印象に残りました。

もし社会が人々の多様性を認めるようになれば、
そして一人ひとりが自分と向き合い自らを受け入れたならば、
共有された「弱さ」はみんなに生かされていくのです。

「弱さ」だけではありません。
一人ひとりがしっかりと自分と向き合い受け入れたならば、
すべての特性がみんなの中で生かされていきます。

そんな話を一つ紹介します。

あなたの未熟も場創りに役立つ


1年前の10月2日、大人ミーティングでいさどんはこんなふうに話しています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

我々は何をするかというと、僕と同じような話をみんなにしろって言っているのではないのです。
「みんなで」という気持ちで暮らし、それを人々に見てもらいたいのです。
こんな素晴らしい世界がいっぱいに広がって欲しいから、人々に見て欲しいのですよ。
たったそれだけです。

それは日常、みんなが気持ちよく「さーと」心が通っていって、
「ああこれだったんだね。これがやりたかったんだね。」
そういうことを言葉ではなく空気を感じて、
「神さまの目的はこういう世界だったんだ」と理解することです。

これはとても身近にあって、アカデミックでもなんでもありません。
哲学とか立派な話でもなんでもありません。

「あぁ、いい空気だね。」
「こういうところに生涯身を置きたいね。」
「こういう生き方を自信を持って、安心の場所でやりたいね。」

そう感じたら誰だって出来るんですよ。

 ~中略~

みんなで良い響きを生み出していく。そんなふうでありたいです。

なので、お願いだから、人の心を調整するような時間をこの場に持ち込まないで下さい。
自分の心は自分で調整して下さい。もうそういう段階です。

それでも、残念ながら、充分に果たせなかった時に、
それを投げやりにならないで、表に出して、みんなにそれを正す方法を請うて下さい。
自分に実力がないのですから。

そして、みんなに助けてもらって、心から「ありがとうございます」と言って進んで下さい。
そうしたら、あなたの未熟も「良い場創りに役だったね。」ということになります。

みんなが他者のことを思い合う。
そういう心の表現に繋がるのですから。

だから未熟でもいいのです。
本当にみんなに託していく。そういう場創りが大切です。
そしてそういう場はいつでも表現出来るのです。
道を難しい道だと思わないでください。




☆彡 ☆彡 ☆彡

この日のミーティングでは僕の滞りが話題となり、みんなに沢山の時間を掛けてもらいました。
その滞りは僕が長年向き合ってきたテーマであり、人生最大の課題となっていました。
1年前、大きな滞りの中で僕はそのテーマと向き合いました。
そして今、その課題を超えています。

あれから1年が過ぎ、そして今日は新月です。

この節目にそのテーマについて書くことで、自分の歩みをより力強くしていこうと思います。

僕の父さん


僕の父さんは僕に対しとても強い愛着を持っていました。
自分の中心を投げ出し僕に置いていたのです。
僕の行動が気になり、僕の一挙手一投足に一喜一憂する状態でした。

そんな父さんとの間にはいろいろなエピソードがあります。
以下いくつか紹介しますね。

エピソード(1) 体育祭の打ち上げ


僕が高校生の頃、体育祭の打ち上げでクラスのみんなとカラオケに行くことがありました。
カラオケボックスで21時ぐらいまで遊んで家に帰るのは22時過ぎになったのですが、
父さんは家に帰った僕を見るなりいきなり頬っぺたをビンタし怒りだしました。
加えて、僕が家に帰ってくるまでの間に、
心配で心配でクラスの子の家に電話までしていたのです。
これには参りました。
そして挙句の果てには、
「カラオケセットを買うからうちにみんなを呼んで遊べばいいだろ」
とまで言い出しました。
ただ僕を側においておきたいだけで、他の子のことは全然考えていないのですよね。
困ったものです。f(´-`;)ポリポリ
もちろん、こんなナンセンスな言葉に僕は応じませんでしたが。

エピソード(2) 駅に迎えに来る父さん


大学生になって帰りが23時過ぎになった日のことです。
家の最寄り駅で電車を降りると自転車に乗っている父さんと出会いました。
僕のことが心配で心配で様子を見に来たのです。
その姿に僕は不機嫌になるのですが、
そんな僕を見た父さんは「散歩していたんだよ」と言ってそそくさと帰っていきました。

エピソード(3) 今生の別れの杯を交わす


23歳の春、僕は友人とハワイのオワフ島に行くことにしました。
初めての海外旅行です。
それを聞いた父さんはショックを受け大慌てとなります。|゜□゜;|┐ガーン!!

飛行機が落ちる

銃で撃たれる。

父さんにとって飛行機は落ちるものであり、海外は銃で撃たれるところなのです。

これはもう理屈ではないのです。

そんな父さんに僕は語りました。

父さんの気持ちは分かりますが、僕は自分の可能性を広げたいし、広げる必要があるのです。
だから海外に行かないという選択肢はありえません。
そう、僕はこの機会に死んでしまうかもしれません。
それでも僕は行くのです。
僕が死んだ時は不幸な息子としてお許しください。

こんなふうに伝えて一緒にお酒を飲みました(^-^)


とまあこんな感じです。
まだまだ例を挙げたらきりがありませんが、とりあえずこんなところで。

自分の中心を投げ出し僕に置き、僕の言動に一喜一憂する。

僕が苦しめられた父さんのこの特性は、僕の心と身体に染み渡り、
そのまま僕自身の特性となり僕の中の爆弾となっていきました。
そして遡ればきっと、これはじいちゃんの特性でもあり時代の中で生み出された歪みなのです。

ここで紹介した父さんの姿はそのまま僕自身であり、時代の一つの現れです。

僕は長い間この特性に向き合いきれずに翻弄されてきました。
そんな中、一番苦しい時期には以下のような状態にもなりました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

10年前の10月、中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、
そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。
そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、
僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。

僕はその頃、毎晩泣いていて、
人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。


そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、
心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。



空っぽへのあこがれ」より(年数を修正)

☆彡 ☆彡 ☆彡

こんな感じで、この特性は僕の中の爆弾となり、定期的に火がついていたのです。

1年前、僕は再び自分の中心を他者に投げ出し滞りを経験しました。
ですが今、僕はその滞りを克服しています。
それは「物語の終焉、そして始まり」に書いた通りです。

僕は少しずつ天から自分に柱を降ろしてきました。
そして、それは今も続いています。
今、僕の中心は天から僕へと貫く柱となっています。
まだ細い柱ですが、日々の生活を重ねる中でどんどん太くしています。
その柱を意識している限り、僕は自分の中心を他者に投げ出すことはありません。
だからもう二度と再び同じ滞りを経験することはないのです。

自分の中心を他者に投げ出し、他者に依存していく。

僕が向き合い乗り越えた「弱さ」は今、一つの物語として完結しています。
それをみんなと共有することで、僕らは人間に対する認識を深めていけます。
そして、その学びは僕らの人間性を向上し、豊かな世界へと繋がります。

僕の弱さ、未熟はこんなふうに生かされています。
そして、僕を謙虚な気持ちへと導いてくれています。

あなたの未熟もみんなに役立つ。

そう、だからただただ思い切り生きるだけなのです。

思惑は何もいりません。

そして出会うことをいただき学びを深めています(^-^)

みんなが思い切り生きることで個性豊かな多様な場が生み出されます。

それはきっと宇宙の実相へと至るのです。

9月27日朝、人参間引き中の写真です。

揚羽蝶を見つけました。










変化に富んだ物語を紡いでいく

たとえばオリンピックで人を感動させるのは、メダルを取ったという事実だけでなく、
その演技の素晴らしさであったり、そこに至る過程、選手やコーチ、仲間の物語であったりします。

もしメダルを取ったという事実だけが語られるならば、
それは勝った負けただけの世界となり、面白みがなく貧しい世界となってしまうでしょう。

ですが今、多くの人は勝った負けた、もしくは成功失敗という事実に囚われ暮らしています。
そしてそのことが世界を狭くし、貧しくしているのですが、その事実にはなかなか思い至りません。
それは、他者(社会)からの評価という報酬が人々に染み渡っていて、
それが判断や行動の基準となってしまっているからです。

今、社会全体が様々な価値基準に囚われています。
勝ち負け、成功失敗、拡大発展など。
それが人々の世界を狭くし、変化に富んだ物語を描く可能性を奪っているのです。

宇宙は過去から現在、そして未来へ向けて変化し続けています。
変化の中で星々は様々な物語を生み出し続けています。
人間一人ひとりはその中の一部を担い独自の物語を生み出しているのです。
その視点が人々を目の前の出来事から解放し、広い視点へと導きます。

例えば、先日、NHKスペシャル「縮小ニッポンの衝撃」が放映されました。
番組では、北海道夕張市や島根県雲南市など
行政サービスが縮小し、住民が苦労している姿を紹介していますが、
2020年には東京にも人口縮小の波が襲い掛かると予想されています。
その内容は衝撃的で視聴者からは絶望の声が相次いだようです。
 ※NHKスペシャルの縮小ニッポンの衝撃の内容に、絶望の声が相次ぐ

ですが、木の花ファミリーではこの番組を明るい気持ちで観ました。
例えば、番組では、建物が取り壊される姿が描かれていますが、
みかちゃんはその姿を見て「自然に還ることであり、バランスを取り戻している」と感じたそうです。

そしていさどんは番組を観て、以下のように感じたといいます。

☆彡 ☆彡 ☆彡

「大変だ!」と感じるのは現状に執着しているからです。
変化に身を委ねたら、怖れることはありません。
人間は最終的にはみんな死ぬのです。

今は変動の時代です。
天変地異が世界各地で起こっており、テロや紛争も絶えません。
人口減少は混迷を極める現代社会の中の一つの事象に過ぎません。
今、人間社会は行き詰まっていますが、それは時代が変化を求めているということです。

そんな現実に向き合い乗り越えるためには、
一人ひとりが自らと向き合い個性を発揮して繋がっていく必要があります。
そんな人間力を育てているのが木の花ファミリーの暮らしであり、
その暮らしは世界に調和をもたらし豊かな場へと変えていくのです。

この暮らしはこれからの未来の雛形です。

☆彡 ☆彡 ☆彡

今の価値観に囚われていると、番組の内容は絶望的に映ってしまいます。
ですが、そこを離れ、宇宙や地球、人類の物語という視点で見ると、
それはプロセスであり、一時の困難は未来への希望へと繋がっていくのです。

そのような例は他にもあります。

たとえば以下2つのブログによるとアメリカ政府やドイツ政府は、
国民に緊急事態に備えて食料や水を備蓄するように呼び掛けているようです。

 アメリカ政府が、国民一人ひとりに食料、水、武器、金銀、現金の準備を呼びかけ

 天下泰平ブログ:2016年秋から始まる大変革の流れ

この状況について、上記の天下泰平ブログでは以下のように書かれています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

ドイツ政府が、国民に対して「備蓄」を呼びかけているというニュースが話題となっています。


主に“テロ”などによる社会情勢の混乱に備えるための準備のように伝えられていますが、最近はイタリアの地震にしろ、イギリスのEU離脱にしろ、自然災害や経済危機などにおいても、ヨーロッパでは今何が起こってもおかしくはない状況となっています。

「この秋に何かが起こる」

各方面において、2016年の秋というのは1つの大変革の節目のタイミングとなることが言われていますが、その中で有名なのはエササニという惑星からの宇宙人「バシャール」の見解です。

 「未来予測などと言うものはありません。不確定だからです。可能性のある現実が、いくつもあるだけです。けれども今、この瞬間の、あなたたちの個人的、集団的エネルギーから感じる可能性は、おそらく変動することなく、三次元的現実に現れるでしょう。2016年の秋、そうした可能性の種は芽吹き始めます。もしくは数年後に起きた変化を振り返った時、その原点となるのが、2016年なのです。」(バシャール)

     ~ 中略 ~

またバシャールは、この秋から現在の金融(経済)システムの変化が起こることも予測しています。

この秋より、再びリーマンショックの後のような経済の低迷が続き、そのままの流れで2020年までに現在の金融システムが破綻するかもしれないと。そして、2025年頃から新たな金融システムによって経済社会も復興を遂げるようです。

そうすると2020年から2025年までの過渡期の間、世界経済は窮地に立たされ、食糧危機などの様々な問題が起こるかもしれません。

一方で、やはり2020年頃までにエネルギー問題も大きく動きがあり、原発が世界各地でメルトダウンを続けて崩壊していくようで、その中で新たな代替エネルギーが台頭するとも予測しています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

ここでバシャールの語っていることは、破壊と再生であり、新しい世界への予感です。
それは銀河の夜明けを経て光の時代に入った太陽の螺旋運動とも一致しており、
未来への希望の物語となっているのです。

こんなふうに人は一時の困難を未来への希望に繋げることが出来ます。
そのために必要なのが自分を超え続けることであり、
変化に富んだ独自の物語を未来へと紡いでいくことなのです。


太陽。2012年12月21日銀河の冬至を経て、今は銀河を光の方向へと進んでいます。





僕は流れに導かれる

分断し対立し続ける社会


子どもの貧困問題を扱ったNHKのニュース番組が放映されました。
そして、そこで自らの体験を語った一人親家庭の女子高生がインターネット上で中傷され、
それに対する抗議デモが起きています。(※以下のリンク先を参照)

子どもの貧困 語った高校生を批判、・・・・

貧困たたき 新宿で緊急講義デモ

こんなニュースに触れると社会が本当に分断されてしまっていることを感じます。
人々は分断され、自分の視点からのみ社会を眺め反応しているのです。

女子高生を批判している人々は「彼らの正義」で動いています。
彼らなりに真実を明らかにしようとしています。
ですが、それは偏った視点であり、事実の確認や他者への思いやりが欠如しています。

その一方、抗議デモをしている人たちも正義の下に動いています。
それは彼らなりに真実に基づいた行動であり、その真実は正しいのかもしれません。
ですが、事実の確認をしていないという点ではおそらく前者と同様です。

事実の確認なしに大きな対立となり、そしてそこには対話がありません。
そこで行われているのは感情の発散であり、自己主張であり、
何かが積み上がることはありません。
自らを正義の立場に置くことで、真実や自分自身に対する探究はストップし、
対立の構造は続いたままとなるのです。
今の社会では、こんな事例は他にもいくらでもあるのではないかと思いました。

大きな流れのもとに生きていく。


ところで最近僕は、木の花ファミリーを離れた人が当時書いていた文章を読む機会がありました。

彼は自分と向き合い自分を超えていくことを誓い木の花ファミリーのメンバーとなったのですが、
心変わりをし、今は木の花ファミリーを離れて暮らしています。

メンバーだった頃、彼は言葉では「自分を超える」と話しながら、
実際は多くの時間を自らの感情に翻弄されて過ごしていました。
そして、そんな自分を正当化し他者が変わることを求めることもありました。
木の花の暮らしに共鳴し、頭ではその大事を理解し追究しながらも、
実際の人間性が追い付いていなかったのです。

そんな彼が当時「すべての出来事が有難い」と書いていました。
僕はそれを見て、何が有難かったのだろうと思いました。

すべての出来事は、それが生かされた時、本当に「有難い」ものとなります。
生かされなければ、「痛み」は「痛み」、「苦しみ」は「苦しみ」のままとなります。
自分の感情に翻弄され続けていた彼は苦しかったのではないかと思います。

途上の苦しみはおそらく誰にでもあることです。
ですが、それを超えた時、真の喜びに出会えます。
僕自身今までいくつもの山を越え、その度に喜びに出会ってきました。
その喜びを糧にこれからも「自分という山」に向き合い登り続けていきます。

彼は自分に向き合う決意をし、その苦しみとも向き合いました。
ですがその苦しみを超えることなく、木の花ファミリーを離れていきました。
苦しみながらも自分と向き合った彼の時間は生かされなかったのです。

そして今は分断と対立が溢れる社会の中で暮らしています。
そんな中、自分と向き合うのはより困難になっていることでしょう。

出来事を生かしていくには、出来事を超えていく必要があります。
そして、自分を生かしていくには、自分を超えていく必要があるのです。

この世界を運営する視点に立ち、自分のことも他者のことと同じように眺めます。
そして、自分も他者も同じように生かしていく。
それは自分を正当化することでもなく、正義の立場におくことでもありません。

自然界ではすべての存在が繋がり生かしあっています。
生きているものが生きているものを支える。
そんな循環の中で生命は育まれています。

そこには正義や悪という概念は存在しません。
ただすべての存在が繋がり生かされているのです。

そんな視点に立ち、自分たちの体験を生かしていくことが大切です。
その時、社会は分断と対立を超えてすべての経験は生かされていくのです。

最近、木の花ファミリー通信 Vol.87 - 2016年夏号【医療革命】 が発行されました。
そこにはこんなことが書かれています。



☆彡 ☆彡 ☆彡

この世界には、流れがあります。出来事の表面ではなく、
その奥に心の目を向ける時、全ての出来事の背後を常に変わることなく流れ続ける、
大きな流れがあることが観えてきます。
自らの立ち位置を離れ、その流れに乗って生きると、
不思議なほど色々なことが連鎖し、とんとん拍子に物事が進み、
自力で何かを成し遂げようとしていた時には想像もできなかった世界が現れるのです。

その流れの中では、余分なものは自然とそぎ落とされ、
人々の中に眠る無限の可能性が花開いて、
様々な個性が響き合いつながり合い、美しく循環していくことでしょう。
それは個人の満足をはるかに超える、ダイナミックな生命の喜びにあふれた世界なのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

こんな世界をみんなと表現していこうと思っています(^-^)

僕は流れに導かれる。




高揚感を生み出していく

バーチャルな世界に熱狂する人々


日本中がオリンピックで盛り上がる中、昨晩の大人ミーティングでは、
いさどんブログ「ポケモンGOに熱狂する人々がロシアドーピングを批判出来るのか」を、
みんなで共有し、以下のような話をしました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

東ドイツやロシアのドーピング問題の背後には、国威発揚があり、
そして、それはお金を稼ぐためにはなんでもする西側諸国の風潮が広がったものとも言えます。
スポーツは今、お金を求める手段となってきています。

最近、話題になっているポケモンGOについても、社会はその経済効果を歓迎しています。
ですが今、検索サイトで「ポケモンGO 依存症」と入力するとたくさんのサイトが出て来ます。
バーチャルなポケモンGOの世界に夢中になる人々は、薬物依存と変わりがないのです。
ですが、社会は経済効果を歓迎し、ポケモンGOが持つ問題点には目をつぶっているのです。

それは社会全体がお金という麻薬の中毒になっているからです。
そのお金も今、株式市場などを通してバーチャルな世界を生み出しています。

そして、スポーツを観戦し熱狂する人々。
彼らにとってスポーツは日常とは関係のないバーチャルな世界です。
試合の結果は彼らの日常生活に何の影響も与えません。

このように見ていくと、多くの人が自分の日常とは関係のない
バーチャルな世界に熱狂していることが分かります。
バーチャルな世界は自分を忘れさせます。
自分の実態は置き去りとなり、一人一人が未熟なままで、
社会に様々な混乱を生み出し、環境破壊をもたらしています。
社会全体がバーチャルな世界の依存症となり、
この地球の暮らしは立ちいかなくなってきているのです。

ですが、多くの人は自分の姿勢を疑うことはありません。
そして社会の中に悪を見出し、それを批判するだけなのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

依存症の背後にあるもの


人々は高揚感を求めてバーチャルな世界に夢中になっている。
そんなふうに思えます。
ですが、その高揚感はずっと続くわけではありません。

例えば、テレビゲームですが、やり始めは興奮したとしても、
続けているうちに感覚が麻痺していきます。
ですが、それに嵌まっていると止めることが出来なくなるのです。

それはおそらくパチンコなどのギャンブル、株取引なども同様でしょう。

高揚感を求める心。

それがバーチャルな世界に依存する人々を生み出していますが、
結局、彼らは求めた高揚感を得ることが出来ず、苦しんでいくのです。

大切なのは、自らの日常に立ち返ることです。
そして、日常生活を豊かにしていくのです。
そのために自分と向き合い、自分を高めていきます。

例えば高揚感ですが、それを外に求めるのではなく、自ら生み出していくのです。

そのような姿勢で努力をしていけば、日常生活はとても魅力的な場となります。
だから常に挑戦し続けることが大切です。

自分を高めるために。
この世界にために。

自分に何が出来るのか?

そのことを常に考え挑戦し、結果をいただき続けるのです。
それはドキドキわくわくする試みで、外に何かを求める必要はなくなります。

例えば、僕。

僕の中には受け身の性質が根強くあります。
自分の気持ちを曖昧にし、誰かが代わりにやってくれるのを待とうとするのです。
今、僕はその受け身の性質を振り切ろうとしています。

自分の気持ちを曖昧にせずしっかり把握します。
そして流れを感じながら然るべき行動をし、
表現していくことを心掛けています。

それがこの世界に何をもたらすかは常に結果を見て判断することですが、
日常がどんどん楽しくなり豊かになってきています(^-^)

一人一人の日常が豊かになれば、世界の豊かになっていきます。
その結果、地球も豊かになり、今ある様々な問題は解決していくでしょう。

そんなふうに思って日々を大切に過ごしています。

最後に、一昨日、木の花ファミリーのみんなといった川遊びの様子を紹介しますね。












真実を明らかにする

インターネットと暴力


2016621日、夏至の日にオープンしたサイト「木の花ファミリーで起きたことを検証する」に新たなページが加わりました。題して「インターネットと暴力」です。夏至の日から地球が30度動いた722日、大暑の日に加わったことに宇宙の流れを感じます。

上記のページに書かれていることを簡単にまとめると以下のようになります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

私たちは一人一人独自の世界観を持って暮らしています。そのため同じ出来事に出会ってもその捉え方は人それぞれ異なります。一つの出来事が人間に多種多様な体験や解釈を生み出すのですが、そこにその人の人間性が現れます。
この世界は70億人の人々の心が折り重なり出来ています。一人一人の自我が生み出すイメージは自然界から自由であるため、それはともすれば実体からかけ離れたものともなるのです。今、この世界は巨大なバーチャルな空間となっています。例えば、お金です。今、お金はただの数字となりつつあります。世界の大部分のお金はコンピューター上でやり取りされ、それは人々の欲望や熱狂、不安や恐怖などにより価格変動を繰り返しています。そして、インターネット。誰でも気軽に発信できるこの空間は、実態とかけ離れた内容も検証されることなく拡散されていきます。そこでもてはやされるのは、上手に表現できる人であり、実際の人間性は問われることはありません。評価や注目を集める言葉が氾濫し、それらは現実から遊離し、この世界は混乱の極みにあります。インターネット上での風評被害は社会問題となり、中には自殺にまで繋がる事例まで存在しているのです。
木の花ファミリーは、このような社会の中、地に足の着いた生活を大切にして来ました。そして、自我が生み出すイメージを離れ、実際の自分を知り、人間性を育んで来ました。そこには現代社会の混乱を超える揺るぎない価値、そして希望があるのです。

20146月、「木の花ファミリーで起きたこと」というサイトが立ち上がりました。このサイトでは「これから書くことはあくまで可能性に過ぎません」と巧みな表現を用いながら、木の花ファミリーについて、暴力的で危険なマインドコントロール集団という物語が創作されました。木の花ファミリーでは、同サイトを管理する「コミュニティの課題と可能性を考える会」に対し、真実を検証する場を持つことを提案して来ましたが、同会が応じることはなく、上記サイトは今も存在し続けています。

彼らは木の花ファミリーを悪と見立て、社会正義の側に立っています。ですが、その情報は歪んだものであり、真実とは異なります。その証として、どんなにバッシングを受けようとも木の花ファミリーの暮らしが揺らぐことはありませんでした。それはこの暮らしが宇宙の法則に基づいたものであり、実態が伴った本物の生活だからです。だからこそ、実際に木の花ファミリーを訪れる人々にはその価値が伝わっていきました。その事実こそが、木の花ファミリーをバッシングする人々の心を浮かび上がらせます。そこで語られていることは彼らが創り出している世界なのです。

彼らは社会正義の立場に立ちます。ですが、その心に奥にある動機は純粋なものとは言えません。現代の社会規範がその行為を許したとしても真実は心の奥にあります。自分自身の中にある歪みや悪意の存在に真に向き合う時、この世界の実態に触れ、人は生を受けた本当の意味を知ることが出来るのです。それこそが木の花ファミリーの実践です。

今、多くの人が自我に囚われ、己に都合のよいイメージの中で暮らそうとしています。それが社会の混乱を生み出し、木の花ファミリーへのバッシングも生み出しています。私たちはそんな社会の風潮を懸念し、「木の花ファミリーで起きたことを検証する」を立ち上げました。その目的はあくまで人々を真実、そして新しい時代に誘うことにあるのです。

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※「木の花ファミリーで起きたこと管理人とのやり取り」も同時にUPしています。

片山佳代子氏とプロバイダーの対応


「インターネットと暴力」にも触れられていますが、「木の花ファミリーで起きたこと」を情報源とし木の花ファミリーを訪れたことのない人々までもがネット上で木の花ファミリーへの批判を展開しました。ガンジー研究家である片山佳代子氏はその一人で、ホームページやブログで木の花ファミリーの批判を展開しています。


片山氏は「木の花ファミリーで起きたこと」の情報を鵜呑みにし、私たちの言葉を聞き入れることはなく、実際に木の花ファミリーを訪れることもありませんでした。それは真実から目を閉ざし、対話も拒否している状態です。

例えば、片山氏は「集団で共同生活をするとなると、どうしてもリーダーを置いて、そのリーダーに従うような組織にならざるを得ない」と書いています。そして、「木の花ファミリーはリーダーが間違え、組織全体がおかしくなった」と結論づけます。ですが、共同生活にリーダーが必要な根拠はどこにも示されていません。そして、木の花ファミリーで起きた出来事を具体的に検証することもしていないのです。もし出来事の背景、そして、そこに至る流れを検証する姿勢があれば、全く違う景色が見えるはずなのです。

検証をせずに暴力やマインドコントロールという物語を真に受け、それを広げていく。

そこに片山氏の人間性が現れています。

私たちは、そのような片山氏の姿勢を受けて、プロバイダーにサイトの削除申請を行いました。それは真実を明らかにするための取り組みです。

NIFTYへの削除申請


私たちはプロバイダー責任法に則り、NIFTYに対して削除申請をしましたが、郵送した2日後には「通知書」が返送されました。「通知書」には「貴依頼書の記載内容からは、貴殿の権利が不当に侵害されていると信じるに足りる相当の理由があると判断できない」と書かれ、NIFTYがサイトに削除には応じることはありませんでした。
2日後に通知書が返送されてくる速さからすると、NIFTYは片山氏に削除申請について照会を掛けることもしていないと思われます。つまり削除申請の内容について吟味をしていないのです。そこに顧客からの利益を優先するNIFTYの姿勢が伺えます。その姿勢が社会に何をもたらしているかをNIFTYには問いたいです。

Hatenaへの削除申請


HatenaNIFTYとは違い、片山氏へ削除申請についての照会を掛けました。
ですが、片山氏は週刊文春の存在を根拠とし、記事の削除を断りました。その際、以下のページの文章を引用し、私たちが週刊文春の記事を事実と認めていると結論づけています。

「私たちも望んでいない不幸なことが起きたことは、外部の人たちからご指摘を受けるまでもなく、私たち自身が大切にすべきこととして学び、今後同様のことが起きることのないことを確認し合いました。そのことを改めてここに宣言します。」
      (「木の花ファミリーの総意として 〜「週刊文春」への掲載を受けて」より)

ですが、私たちは週刊文春の記述について事実と認めたことはありません。週刊文春の記事により、インターネット上にてバッシングが広がり、私たちを支援して下さっている方々に心配や迷惑を掛けることになりました。そのことを不幸なことと表現し、同様のことが起こらないように努めているのです。上記のページ全部を読めば、そのことは理解できるようになっているのですが、一部分のみを取り上げるところに片山氏の作為を感じます。

このことをHatenaに伝えたのですが、Hatenaが取り合うことはありませんでした。「照会を再び掛けることは、発信者に削除を強いることに繋がる」という理由です。そして、このブログも削除されずに今に至っています。片山氏の作為についてはそのままです。
Hatenaの対応にも形式的なものを感じました。

加えて、片山氏が普段から週刊文春の記事を信頼しているのかどうかも疑問です。なぜなら週刊文春の記事を名誉毀損で訴える事例が多々あるからです。非暴力を掲げる片山氏ならば、人を傷つけている週刊文春の記事は批判の対象なのではないかと思います。ここにも片山氏の作為を感じます。

ちなみにマツコ・デラックス氏も週刊文春の報道姿勢を疑問視し、以下のように述べています。(【マツコ・デラックスが週刊文春の報道姿勢を疑問視「抹殺したいのかな」】)

(現在のインターネット社会では、週刊誌で報じたことが、週刊誌だけでおさまらず、インターネット上で)「世論が形成されてしまって、ひとりの人生をボロボロにすることが簡単にできてしまう」

「唯一、週刊誌が攻撃できるメディアだった時代と、同じ論調でやっちゃっていいのかなと思う」「ネットを含めた世論の形成のされかたを見てると恐怖は感じるよね」

片山氏、そしてHatenaこのような言葉に耳を傾ける必要があるのではないかと思います。

真実を明らかにする


この記事の目的はあくまで真実を明らかにし、人々や社会を解放し、未来への希望へと繋げていくことにあります。そのために人間は自身の闇と向き合う必要があるのです。これをきっかけに一人一人が自分自身との対話が始め、それが他者との対話へと繋がり、豊かな世界が実現することを願っています。


木の花ファミリーのみんな@マヤの式典(2016年7月26日)


人類の可能性を切り拓く

昨晩、頭が痛く、身体も節々が痛いので、熱を測ってみたら、37度8分ありました。
本来ならゆっくり休むところですが、
「今日の大人ミーティングは出なければならない!」と感じて参加しました。
そうしたらとても面白い時間となりました。

ミーティング後、熱があるから寝ようと思って布団に入ったのですが、
なかなか眠ることが出来ませんでした。

書きたいことがある。

だからきっと眠れない。

そのため、それを書いてから寝ることにして、今、パソコンに向かっています。

ということで、これから書きたいことをつらつらと書いていきます。

バッシングサイトとキジの卵


いさどんブログ「真実を発信していく」で紹介されている8個のキジの卵のうち、3個が孵りました。「真実を発信していく」には以下のように書かれています。



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今、インターネット上に、真実を歪めて木の花ファミリーをバッシングしているサイトが横行している。ものすごいエネルギーを使ってここを貶め、封印しようとする力が働いていることに対して、そのエネルギーを逆に、真実を発信していくためのエネルギーに転化できると気付いた。
多くの人が興味を持っているからこそ、ああいったサイトを見る。そこで、彼らが見ているバッシングサイトの情報に対して、その情報の出所の元にある心がどのようなものであり、そこに表現されている現場の実態は実際にはどうだったのかということを提示してあげれば、彼らはバッシングサイトを見ていたのと同じエネルギーで、真実は何なのかということを感じ取ることになる。それは、バッシングサイトが描いて訴えようとしているイメージと実際は違うということや、それを見る自分自身の視点の偏りに気付くチャンスになる。
バッシングが始まって3年目となり、ある程度それが社会に浸透した今だからこそ、トキが来て、そこに表現されたエネルギーは一気に逆転する。うたた寝から目を覚ました僕は、養蜂の一段落と、バッシングが逆転へ転じるトキが同じタイミングで来たことを感じた。

そのタイミングを感じた時に、台所に8個のキジの卵が置いてあるのを見た。それは日中に草刈りをしていた畑隊が見つけて持ち帰って来たもので、ステンレスのボールに入れて流し台の上に置いてあった。巣の周りの草を刈るだけでも、人間の匂いが付いて親鳥は寄り付かなくなる。そこで畑隊が持ち帰って来たのだが、僕はそれを見た瞬間に、そこから生気が湧き出ているのを感じた。あんなにも生きようとするエネルギーがあふれ出しているものを、ステンレスのボールに入れて置いておくということがあるだろうか。


懐中電灯で卵を透かして見ると、幸いなことにまだ分裂を始めていなかった。今から温めてやればまだ間に合う。これは食べるものではなく、命として孵してやらなければいけないものだ。そういうことを感じられることが大切なのだ。

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木の花ファミリーへのバッシングサイトとステンレスのボールに入れてあるキジの卵。
一見関係ないように見えるこの2つには大きな類似点があります。

それは両方とも可能性を潰そうとしているということです。

木の花ファミリーの暮らしは一人一人が自らの自我を乗り越え、
全体と一つになって生きていく暮らしです。

それはある意味、未知なる取り組みであり、
7年間暮らしてきた僕自身、この暮らしの価値がどこまで分かっているかは疑問です。

知れば知れほど奥深く、自分が知らないことを痛感します。
ですが、この暮らしが人類の未来を切り拓くことは確信しています。

今、多くの人が個人の願いを叶えることが大切だと信じています。
その結果、今の世の中があるのですが、
それでも程度の問題と考えている人が多いのだと思います。

そんな中、自らの意思で自我を乗り越えていこうとする木の花の暮らしは、
多くの人の理解を超えているのだと思います。

理解を超えたものに接した時、人はそれを自らの理解の枠組みに収めようとします。
そこで、強制やマインドコントロールという物語が生み出されるのでしょう。

ですが、これはその人の心の反映であり、決して、木の花ファミリーの実態ではありません。
実態はインターネット上ではなく、現場にあり、僕たちの日々の暮らしの中にあります。

日々の暮らしの中で人類の未来の可能性を示していく。

それが木の花ファミリーの暮らしであり、それをバッシングすることは、
人類の可能性を潰すことに繋がります。

それはちょうど、生きようとしているキジの卵を食べようとするようなものなのです。

大人ミーティングの言葉から


昨晩の大人ミーティングでは、いさどんは医療について以下のように語っています。

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医者は特定の研修を受けて、診療報酬の中で治療をしています。
医療は現代医療の枠組みの中で行われるものです。
それは対処療法で真の解決には至りません。
そして、そこに製薬会社の利害なども絡み、
病気という不幸が経済を支えるようにもなっています。

ですが、例えばガン。ガンとは本来、精神病で心から生まれています。
病気になることは、その症状に自らを誘導した精神状態を振り返り、理解する機会となります。
それをしながら、症状に対して対処療法をしていくのです。
姿勢から病気という結果が生まれます。
姿勢を改めると、病気を生み出す元がなくなり、
新陳代謝により病気の箇所が新しいものに変わっていきます。
心にメスを入れることが出来れば、治療はいらなくなるのです。

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これは医療における新しい可能性へ向けての言葉です。
そして、いさどんは今、実際にそんな実践をしています。

先に紹介した「真実を発信していく」にはこんな文章も掲載されています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

今、僕ときょうこちゃんは、新たなプロジェクトに取り組んでいる。それは、新しいきょうこちゃんをつくること。僕は彼女にこう伝えた。「それはきょうこを壊すこと。自分を壊すことだぞ」と。自分を壊さなければ、奥に眠っているものは出てこない。
これまでのきょうこちゃんは自分のことばかり考えて生きてきて、その姿勢の結果ガンになった。彼女は命がかかっている。それは自分がつくってきたことであり、それをつくった自分自身を壊さなければ、命は取り戻せない。とても真剣なことだが、人間はその段階へ行く時が来たのだと僕は感じている。
このプロジェクトが始まって、最初は僕がきょうこちゃんにヒーリングをしていた。きょうこちゃんは毎日まじめにやって来るが、僕はだんだんきょうこちゃんにヒーリングをする気が起きなくなった。そうすると、逆にきょうこちゃんに、僕に対して何かしたいという気持ちが湧いてきた。きょうこちゃんが僕に癒しを提供することで、きょうこちゃんが癒されている。
僕は最初自分がやってあげるつもりでいたのにだんだんやる気が起きなくなって、この意識の変化は何だろうと思っていたが、そこで答えが出た。そうだ、人のためになるという心をきょうこちゃんに目覚めさせるということだ、と。自分のことばかり考えてガンを作った者が、人のために生きたら、ガンは消える。(「癌」は、品物を山のように抱えてなる欲深な病気と書く。)
何日か続けているうちに、お腹にあったしこりがやわらかくなって、確認できなくなってきた。病院での検査結果がどう出るかはわからないが、今、きょうこちゃんのお腹の中から、悪いものを発している波動を感じられなくなってきた。


僕がきょうこちゃんにやっていることは、単なる病気治しではない。人間の能力を引き出す実践をやっている。それはキジを孵すことと同じだ。

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こんなふうに日々の実践で未来の可能性を切り拓いているのが木の花ファミリーです。

そのために大切なのが、現象に囚われず、その奥を観ていく姿勢であり、
自らの思考の枠組みを超えていくことです。
そして奥を観たら、すべての出来事が一つであり、
大いなる流れの中で生み出されていることが観えてきます。

その大いなる流れが人類を新たな可能性へと導いていくのです。





どんどん分からなくなってどんどん喜びに溢れていく

多くの人で暮らす木の花ファミリー。スリッパや靴も沢山あります。
そして、そのスリッパや靴が乱れている時もあるのです。

そんなスリッパの状態を見て、

「菩薩の里」を目指しているここがこれでいいのだろうか?

そんな憤りを感じる人もいて、昨晩の大人ミーティングではそんな気持ちがシェアされました。
その話の中でいさどんは以下のような話をしました。

☆彡 ☆彡 ☆彡


現象に出会って感情的になる人は自分の求める答えを欲しがっているのです。

人はこの世界に生かされています。
どこに自分で生きている要素があるのでしょうか?

自分の意志で呼吸をしていますか?
心臓を自分の意志で動かしていますか?

人間は生きているのではなく生かされているのです。

ですが多くの人にはそのことが見えず、生きていると思っています。
そして自分に権限があると思っています。
だから自分の思う通りの答えを欲しがっているのです。

思う通りにしたければ、この世界の流れに沿う必要があります。
流れに沿っていれば、自分の見通しに沿った出来事が起きていきます。
ですが、その時、それは自分の想いではなくなっているでしょう。

宇宙の流れに乗ってしまえば、その流れはどこにでも通用します。
それは毎日の生活で確認できることです。

「神は物理性」、この世界の現象の中に顕されているのです。

みんなはこういう生活をなんのためにしているのでしょうか?
日々、それを問い掛けてみて下さい。
その姿勢でいろいろなことに出会ったら脇道にそれずに進んでいけます。

今、国会では保育園の待機児童をなくすことに一生懸命になっています。
ですが、待機児童よりも外で働かなければ暮らせない経済の方が問題なのではないでしょうか?

本人が望むならば、外で働くのも良いでしょう。
ですが、母親が子どもと一緒に過ごせるのも良い暮らしです。

安倍首相は一億総活躍社会の実現を掲げています。

お母さんが家のことをきっちりやるのも活躍ではないでしょうか?
家にいても活躍は出来るのです。
それなのにお金を稼ぐことだけが大切になっていないでしょうか?

本当の大事、大本はどこにあるのでしょうか?

大本の話がなく、物理的な話をしても上滑りをするだけです。

スリッパのような細かいことに気がいくのは大きな心を持つ人の姿勢です。
ですがそこだけに気が行くと大きな心を失ってしまいます。

バランスが大切なのです。

昔、近所の公園の掃除をしている人がいました。
彼女はそれをしていることで「自分は出来ている」と思っていました。

自らの人間性を見詰めずに、トイレの掃除をしたら「出来ている人間」となっているのです。
そんな彼女に僕は伝えました。

~ ~ ~

あなたが掃除をしているのは公園のトイレが汚れているからです。
ではなぜ公園のトイレは汚れるのでしょうか?
多くの人は自分のトイレではないから汚く使うのです。
ですが、あなたがキレイにしてしまうとみんなそのことに気付きません。
みんなに汚い状態で使わせることが大切なのではないでしょうか?
あなたは人が気づくチャンスを奪って、「自分は出来ている」という頑なな姿勢をしているのです。

~ ~ ~

これはトイレの掃除を問題にしているのではありません。

その行為が何をもたらしているか?

常にそのことを考える姿勢が大切だと伝えたのです。

そして、その時は自らの感情をフリーにすることが大切です。
フリーの状態で考え、フリーの状態でみんなに語るのです。
その時、自らが語ることで起きる反応に開かれ、変化していくのです。

会話する際、相手に関心があるのではなく、
「自分が理解されたい」と思っている人が多いのではないでしょうか?

ですが、僕は自分を理解してもらおうとは思っていません。
関心は相手にあるのです。
相手の思考の動きに注意し、コミュニケーションを円滑にすることを考えています。
その時、その場に生み出さることは常に新しいことになるのです。

常に新しい見解を求めていく姿勢。

その姿勢があれば、自分の中から新しいものが沸いてくるのです。
そしてその時、起きる現象も変化していくでしょう。


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こんないさどんの話を受けて、みんなで以下のことを確認しました。

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人の話しを聴いて、「分かった!」と思うことがあるが、実はその「分かった」も怪しいのです。
なぜなら、その「分かった!」が自分の範疇のこともあるので。
本当に分かった時、人は反省するものです。

分かっていないことは実は喜びです。
「分からない」と苦しんでいたとしたら、
そのこと自体、宇宙の仕組みを理解していないのです。
なぜなら、この宇宙のことはどこまで行っても分かることはないからです。
知れば知るほど、新たな疑問が生まれます。
どんどん分からなくなってどんどん喜びに溢れていくのです。

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こんな感じの大人ミーティング。とっても面白かったです(^-^)

木の花ファミリーのみんな@恵みいただきます


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