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人生とは場創りである

大切なのは場創り。富士浅間木の花祭りには外からもお客様が訪れます。その人たちに来て良かったなと思って貰えるように、何かを感じて貰えるようにすることが大切です。そのために僕たちは極めていくのですが、それは単純に技術的なことを究めていくのではなく、心を究めていくのです。

「大切なのは心だね」

そのことが伝わるように日常をしっかりと送り魂を込めていくのです。

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これは木の花祭り開催前のいさどんの言葉ですが、この言葉を聴いて、場創りとは他者のために生きることであり、人生とは場創りなのだと思いました。

「場が人を癒す」ことがあります。そんな場所についてカタカムナでは「イヤシロチ」と呼ばれていて、船井幸雄さんの著書『イヤシロチ-万物が蘇生する場所がある』では以下のように説明されています。

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「イヤシロチ」というコトバを御存知ですか。「イヤシロチ」に対するコトバを「ケガレチ」といいます。この二つのコトバは、これから流行語になりそうに思います。
 イヤシロチというのは、ほとんどの人や動物、そして植物がそこにいると気分のよくなる土地、いわゆる癒される土地のことなのです。
 ケガレチは、その逆の土地のことで、ともに語源は古代日本人(カタカムナ人)が使っていたコトバから出てきた…といわれています。(転載終了)


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他者のために。

そう思った時、特定の他者を想定すると視点が狭くなり、囚われとなる恐れもあります。ですが、場を同時に意識していれば、視点は時空を無限に広げていくことが出来ます。そして、場が健全になれば自ずと人は癒されるのです。だから常に場作りを心掛けていくことが大切なのです。

視点を場に持って行くと自分からも離れることが出来ます。そして健全な場は人を癒すのだから、自分自身も癒されます。自分のことを考えなくても、場を意識していれば、自ずと自分のためにもなるのです。

自他の区別を超えてみんなのために。

場創りを意識していればそんなふうに生きることが出来るのです。

そんなことを確認し臨んだ木の花祭りが1月27日に開催され、みんなで一つのうねりを生み出しました。このお祭りには世界各地(海外21ヵ所、国内79ヵ所)からご清水を送っていただいていますが、祭事の前にはそれらを釜戸の中で融合させます。今回その儀式を行った後、ひろっちは以下のような想いを発信しています。

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先程、かまちゃんサポートの元、世界各地、日本全国から届けられた清水を、釜にて融合させていただき、ただ今火にかけて温めています。
 
いつもの事ですが、この瞬間は、何とも言葉で言い表し難いものがあります。
 
世界中、日本中の神々様、精霊様達がここ富士の麓にお集まりになり、一つに融合していくのです。

空を飛び海を渡り、陸を通って、遥か遠くの精霊が集まっておられるのです。
 
釜の中の水は、何処からどう見ても一つです。

そこには堺も何もありません。完全に一つに解け合い混ざり合っているのです。

まさに世界が一つになっていく弥勒の世界を完璧に表現しています。

そしてそこにはそれを届けてくださった沢山の皆様の想いも入っています。

この祭りの意味に賛同する人の想いが祈りが願いが集まり、そして一つになっていきます。

手に取り、釜に注いでいく一つ一つの水がとっても重いです。
その様を目の当たりにしてシビレます。あまりに尊くて、そして有り難くて涙が出ます。
 
本当に痺れます。
何とも大切な事をさせられていると実感します。
 
ありがとうございます。
ありがとうございます。
勿体のうございます。
 
惟神(かんながら)たまちはえませ

でわ舞庭で会いましょう。



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釜戸で融合され「弥勒の世界」を表現するご清水は、祭りのクライマックス「湯ばやし」の舞で湯だわしを使い一斉に振りまかれ場を清めていきました。そして、祭り終了後には湯だわしを絞ったご清水を川に流しましたが、それによりご清水は「調和の響き」を持って地球と一つになっていきました。

祭りでは様々な個性、役割の人がご清水のように一つに溶け合ってうねりを生み出しますが、それがこの空間をイヤシロチにしていきます。場創りということに関して言えば、個人的には至らないところはありましたが、みんなが生み出したうねりがそれを洗い流し大きな動きを生み出していきました。みんなで一人一人の未熟を超えていく。それは世を治めるマツリゴト(政)にも求められることであり、毎年のことながらこのような場を生み出し続けること、そして広げていくことの大切さを改めて感じました。

木の花祭りは年の一度の晴れの舞台ですが、晴れの舞台を生み出しているのはその準備であり、そして日々の日常です。日常が晴れの舞台に奥行を与えているのです。だから毎日、何でもないように思える日でも場創りを意識することが大切なのです。それは今、自分がいる場に何をもたらしているかを自覚することから始まります。

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私たちは自らが美しい響きを響かせ、美しい響きのものを生産し、そして健全に生きていく。それを社会に還元し、社会を健全にしていくのが私たちの生きる本当の目的です。

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上記は昨年の収穫感謝祭にていさどんが語った言葉ですが、木の花祭りも同じ目的の下に行われています。毎日を健全に生きて、この場に美しい響きを生み出し、それを社会に広げていくのです。祭りの場で一つに融合し、そして世界に還っていくご清水はその象徴と言えます。

だからこそ日常から魂を込めて生きること。そしてみんなと一つになっていくこと。そのことを忘れずに成長し続けて、それが更なるうねりへと繋がっていくように。心掛けて生きていこうと思っています。

人生とは場創りである。

それは今この場に一人一人が美しい響きを響かせることです(^-^)

「湯ばやし」です。



融合したご清水が場に振りまかれ場を清めました。

未完を生きる

昨晩、いさどんからメンバーに対して死生観のプレゼンが行われました。このプレゼンは1ヶ月間の真学校で受講生に対して提供されるものですが、その大切さをみんなで共有する時間となりました。プレゼンを聴きながら、そういえば木の花憲章にも死生観という項目を入れる予定だったんだよなと思い出しました。

2011年の4月から5月に掛けて、木の花憲章死生観の文章を作成するために、いさどんからメンバーに向けて3回に分けて話がされました。以下、その時のテープ起こしの一部を転記します。

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我々は、今、生きているから次の来るのは死だと思っているけれども、我々が今ここにいるステージは一時的なことかもしれない。肉体と魂に分類して、肉体と魂がセットになっている状態を「生きている状態」と呼ぶと、死というのは、肉体と魂が分かれ、肉体が宇宙の原料、3次元宇宙の中に戻っていく。そして、魂は4次元、5次元、6次元の異次元宇宙に還っていくことです。こう捉えると、肉体はなくなるわけではなく、その一つの生命の構造、人間や動物、植物といった一時の姿の終わりに過ぎず、常にそれは変わり続けるもの、それが3次元生命の姿です。それに対して、3次元生命を生命として束ねているものが、魂、霊性です。魂と肉体が分離した時に、我々はそれを死と呼ぶが、その死は終わりであると同時に始まりでもあります。肉体の方は1人の人間を束ねるのを止めて、自然界へ解き放たれます。原子単位でこの世界に散らばっていきます。それに対して、魂は相変わらず、その魂としてあり続けます。

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我々の今存在しているこの状態、これは今この肉体を形成していますが、これは光の変化したものであり、土の変化したもの。水の変化したもの、空気の変化したもの、風、空間の変化したものでもあります。そうしたものがこれを形成しているわけですが、宇宙には何か他から供給されることはありません。あってあるものが変化している状態です。あってあるものが変化し続けるものだから、その変化のところに現在という現象が現れているものは、あってあるものであるけれども、特定することが出来ません。瞬間瞬間に変化するものだから、なきてなきものなのです。それがこの世界の実態です。そして、人間はその中でいのちの表現を与えられていきているのです。

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生命は動くものです。それは他者から自分へ自分から他者へと動きます。それを繋いでいるのが、自分ですよね。(前世、現世、来世の自分、祖先、自分、子孫を繋げると鎖になる絵を描く)鎖はどれも1個ずつが他者を繋げる関係になっていて、そこを繋げて流れていきます。命が流れていきます。それで、流れるということは循環するということです。巡り巡って変化してぐるぐる廻ります。減りもせず、増えもせず、同じところをぐるぐる廻るということです。それで、循環して巡るということは動き続けているということです。動いている状態を繋げる1個の「輪っか」が自分です。人が動くのだから、人偏に動くと書いて「働く」になります。「はたをらくにする」と言います。手前のものも自分も「はたをらくにする」ために繋げて、その隣のものも「はたをらくにする」ために繋げます。そこには、自分のためというものはありません。すべては「はたをらくにする」ためであって、自分のためというのはないのです。そういう構造になっています。

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自分がないということは魂を磨くということです。その自分がない生命の中で、汚れがあるものは自分のために動きます。「はたをらくにする」ために動くのではなく、自分のために動きます。「はたをらくにする」ためにというのは、要するに、生命の循環を健全にして他者に繋げるためのものだから、汚れていてはそれが出来ません。「はたのため」にはなりません。だから魂を磨くということです。


綾ちゃんのノート(2011年いさどん死生観の話)。

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こんな話がされましたが、結局、死生観の文章は作られず、木の花憲章は未完となっています。いつか完成させる必要がある。そんなふうに心のどこかで思っていたのですが、死生観プレゼンを聴いていて未完であることが相応しいのだと思いました。なぜなら宇宙自体が常に変化変容を繰り返す未完の状態にあり、その循環の一部を担うのが人間の生きる目的だからです。それは働くことで、傍(はた)を楽(らく)にすることであり、そのために魂を磨き自分をなくしていくのです。憲章が未完であることは、特定をしないということ、瞬間瞬間に変化していく生命の本質を生きる意志の表れとなります。

もうすぐ富士浅間木の花祭りです。祭りでは生まれ清まり舞い踊りみんなで空っぽになって一つになっていきます。そしてこれは未来へと続いていく未完のお祭りです。

未完を生きる

それは自分で自分を完結せずに他者へと繋いでいくことも意味します。無限に連なる他者へと繋がっていく。そんなふうに生きていこうと思いました。






正直に誠実に自分の役割をこなす

人と自然が共にある生き方を学びたい、と、お母さんと一緒に木の花ファミリーにやってきた台湾人のビリーさん。シルク・ド・ソレイユのダンサーでもある彼は、昨夜、富士浅間木の花祭りのために用意された和太鼓を使って見事に舞い踊り、まるで祭り前の「神寄せ」がなされたかのようでした。
今日の午前中はヨガ教室を開き、午後はリゾットを作ってみんなに振る舞い、夜は木の花祭りのハイライトである「四ツ舞」の稽古に参加してみんなで大盛り上がり。稽古後に、こんな感想を教えてくれました。
  
「僕はダンサーとして世界中の様々なダンスを見てきたけれど、コミュニティのダンスほど大切で、素晴らしいものを見たことがない。これはダンスを超えるもの。
木の花祭りでは、世界中の水が集まって釜の中でひとつになることで、エネルギーが大きくなっていく。同じように、その周りを舞い踊る人々も、みんなで舞い踊って、エネルギーがどんどん大きくなっていく。踊りに参加していないおばあさん達も、心は参加していて、この場を支えている。音楽からも、おばあさん達からも、そのエネルギーを感じた。
今、世界の人々は、まるで水がいっぱいに入ったコップのよう。自分のコップがいっぱいで、もうそれ以上入る余地がない。僕が木の花ファミリーで学んだことは、みんながからっぽになっていくこと。からっぽだから、ここには世界が入ってくる。」
 
祭りまであと10日。ビリーさんとお母さんは明日の夜明け前に台湾へと旅立ちますが、きっと祭りの日も、心は共に舞い踊っていることでしょう。(ともこ)


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上記は先日木の花ファミリーを訪問して下さった台湾人のビリーさんとの交流を描いたものですが、このようなお客様にも恵まれ、今、木の花ファミリーでは全体が富士浅間木の花祭りへ向けて軽やかに大事な暮らしを営んでいます。

そんな中、僕は木の花ファミリーを批判する人々の言葉と向き合い、体調も崩し、重たい気持ちで過ごしていました。特に背中と胸の痛みはひどく、歩くだけでも振動が響き、痛みで眠れない日もあり、祭りで舞うことが出来ないのでは?という不安がよぎり、全体の流れと自分の違いを強く感じ「いけない」と思い苦しんでいました。そういう自分と向き合いながらブログを綴り少しずつ軽さを取り戻していって、そして「何ももらっていなくても」という言葉、そして記事へと繋がり、僕はこの記事を大人ミーティングでシェアしました。みんなにシェアしたのはこの記事が大事な話だというフィードバックを貰ったからなのですが、重たい気持ちを出発点として生まれたこの記事が軽やかな全体の中で大事な話として共有されたことに不思議な感覚を持ちました。なにせ記事を書いた時は、あくまで自分と向き合う中で出て来た言葉であり、全体の流れには沿っていないと感じていたのです。それが全体に大事な話として共有され、そして不思議とあれだけ痛かった背中と胸の痛みがなくなりました。

これで祭りで舞うことが出来る!

それもみんなと同じ気持ち、そして軽やかさで。それが確信となりました。

僕にとってこの経験はとても大きなものとなりました。自分が全体の流れと違うと感じていたのですが、僕は好き好んで木の花を批判する人々の言葉に向き合っていたのではありません。役割としてこの時期に一度しっかりと向き合っておく必要があると思いそうしたのです。ですがそれが全体の流れと違っているように感じて苦しくなりました。でも、そうではないのです。流れはもっと多層的になっていて、メインとなる流れだけでなく常に潜在している流れがいくつもあって、きっとそれがこの世界に厚みと彩りを与えてくれているのです。重たい気持ちが軽やかな全体の中で生かされていくこともあれば、今現在、次の流れとして潜在している流れもありそれも大切なものと言えます。だから正直に誠実に自分の役割をこなしていくだけなのです。それが目に見える目立った流れとは違っているように感じても、全体性を意識していれば、きっといつかどこかでそれは生かされていきます。目に見える全体の流れと違うと感じると落ち込んだり、被害的になったり、ふて腐れたりする気持ちも生じますが、こういう気持ちが本来生かされるはずのものを殺してしまうのです。そのことを強く感じました。

ところで、富士浅間木の花祭りは地球の神様である国之常立神(クニノトコタチ)の復活を描いたお祭りですが、かつていさどんは国之常立神について以下のように語っています。

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インテグラル・ヨーガの創始者でもあったオーロビンドのアシュラムに行った時のこと。いさどんは初めて、オーロビンドの魂を感じました。
その魂はいさどんの視線を誘導し、そこにある様々なものに目を向けさせました。植物の葉っぱ、大理石の柱、壁の傷。その視線と共に、いさどんの指も、その一つひとつを指さしていました。そしてひとつ指さすごとに、「そこに私はいる」「そこにも私はいる」「どこにでも私はいる」という言葉が降りてくるのです。それは全てに遍満している存在なのだ、といさどんが思うと、「全てに遍満しているということは、無である」という言葉が降りてきました。全てに遍満しているということは、全てが自分であり、自分(自我の特定)はないということ。その時にいさどんは、これは地球の魂ではないかと直感しました。シュリ・オーロビンドの魂は、地球神・国之常立大神、つまり艮の金神の魂なのです。
オーロビンドの魂は言いました。「私を知っているであろう。今まであなたは私と一緒にいた。その私にあなたは会いに来た。」そこでいさどんは尋ねました。「あなたは私の中においでになりますね?」オーロビンドは答えました。「私は、あなたの内にも外にも、どこにもいる。




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艮の金神、国之常立神の復活は、世の中のひっくり返しを意味し、それは立脚点の転換でもあります。自分の側から世界を見て、自分の価値観で世界を評価してきたのが今までだとしたら、これからは世界の側から自分を見て自分を正していくのです。世界というみんなが共通する地点に立って学びを共有し一つになっていきます。

その世界とは?

地球神・国之常立神は「私は、あなたの内にも外にも、どこにもいる」「全てに遍満しているということは、無である」と言います。それはどこにも固定されないものです。だから世界という視点も固定をしてしまったら、それは気づかぬうちに自我の視点となっていくのです。

例えば最近の僕には、富士浅間木の花祭りに向けて軽やかに進む世界が見えていました。そしてそれにそぐわない自分を感じていました。ですが、それは表面的な見方であり、その奥には様々な流れがあってそのすべてが全体を生み出しています。

軽やかな世界とそれにそぐわない自分。

その視点は「そぐわない自分」を際立たせるものともいえ、それに固定してしまったら、そぐわないものとしての自分が強化されていくのです。それは世界から自らを分け際立たせる自我の動きです。

世界の側から自分を見る。

その世界とは無限に広がり変化変容を繰り返すもので自分の視点で捉えきれるものではありません。だから固定せずに常に変遷として見ていく必要があるのです。そして、与えられた役割をこなしながら「内にも外にも、どこにもいる」国之常立神の視点へと想いを馳せ自分をからっぽにしていこうと思っています。その先にあるのは、生まれ清まり舞い踊るうれしたのしの世の中です(^ー^)


ビリーと木の花ファミリーのみんな(ヨガ教室後)







神様はあらゆるところに住んでいる

昔、ただ答えがなくとも、そこに語りかけよ。そことは斜め45度の方角に向かって、斜め45度とは丸の中ではの方角だよ。つまり斜め45度に向かって語り掛けよと、それに対してどんなに無言であったとしても、必ず斜め45度のその先ではその意思を受け取っておる。だからそれを積み重ねよ。そしてそれを積み重ねた結果、必ず現象となってその答えが現れるであろうと。

今そのころの思いを言葉にしてみたんだけれど、それをやり続けてきてこの歩みがあったんだよ。それをやり続けることによって、まだ見えぬ現象、そして問いかけに対する答えを後からいつももらって、その答えをもらうことによって、信じる心が育ち、そしてここまで歩んできた。つまり、先に得てから信じるんじゃないんだよ。得る前に信じて歩まなければいけないんだよ。それじゃないと歩めない。

次にみんなで見る映画『沈黙-サイレンス』は、そのことの真実を宣教師たちの苦悩の中で、問いかけている。神がどこに住んでおるか、ということなんだよ。


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上記はある日の深夜3時半にいさどんがみかちゃんに語った言葉です。1月7日の夜、この会話に出て来る映画『沈黙-サイレンス』をみんなで観ました。この映画は遠藤周作の小説『沈黙』の映画化で江戸時代初期、キリスト教弾圧の渦中に置かれたポルトガル人の司祭ロドリゴを主人公にしたものですが、映画の後、いさどんは以下のように語りました。

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今は、多様性が大切な時代となっています。映画の中でロドリゴは、弾圧される中で神の沈黙を訴えていますが、それは自分の側に神を引き寄せようとしているからです。だけれども、相手の側にも神はいます。ロドリゴにはそのことが見えていません。あの映画の中の弾圧は酷い行いですが、そこに登場する人たちは、あの時代を反映し、それぞれの立場から行動していたのであって、そこには良いも悪いもなく悪者はいません。当時、キリスト教は世界中に布教活動をしていましたが、その中では現地の信仰への弾圧もありました。そういうことも見ていく必要があります。そして、宗教は、貧しく苦しんでいる人々に広がっていきました。そのため宗教は救いを求めるもの、ご利益の対象となっていきました。ですが、本当の信仰とは神と共に創っていくものです。そしてその基盤には精神的豊かさが必要となり、それがこれからの社会に求められるものです。今、僕らはみんなでそんな世界を表現していますが、そのことの大切さをあらためて実感しています。

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いさどんの言う通り神は沈黙していたわけではなく、神の答えは常に目の前の出来事に顕れています。当時、世界中にキリスト教の布教が行われていましたが、それは植民地政策とセットとなっていました。例えば、ネット上でこんな言葉を見つけました。

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だいたい、日本でキリシタンや宣教師たちが弾圧されたのは、そもそも戦国時代の宣教師が日本人の子供の人身売買にめっちゃ関与していてインドや東南アジアに売り飛ばしまくっていてたり、「寺社仏閣を破壊したら救われる」とか吹聴してキリシタンたちが実行しまくって、それで秀吉も困っちゃってイエズス会と交渉したけど聞き入れなかったからだからね。異教徒のことを敵視したり、人間扱いしていなかったのは元々おめえらのほうだからっていう話なんですよ。それの延長に徳川幕府の取り締まりがあるわけで(詳しくは神田千里『戦国と宗教』岩波新書を参照)。



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この言葉がどこまで本当かは分かりませんが、キリスト教の布教が完全に純粋なものではなかったのは確かです。弾圧はそんな彼らの布教に対する神の回答とも言えます。自分の側に立たなければ、神のメッセージははっきりと見ることが出来るはずなのです。

映画でははっきりと表現されていたかどうかは覚えていないのですが、小説ではロドリゴによる踏み絵には以下のようなイエスの言葉が伴っていたようです。

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神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラが語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾なぞではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。

夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。そのとき、踏絵のなかのイエス「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」と語りかける。

こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねる。イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?

踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。


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このイエスの言葉は、すべての罪を背負ったイエスに繋がり、形に囚われない本当の愛に繋がるものではありますが、ロドリゴはまだ自分の側から世界を見ています。あくまで神は自分たちの側にいて、自分たちは正義であり奉行所は悪なのです。イエスが背負ったのはすべての人の罪であり、それは善悪を超越しているはずです。ならばこの言葉の奥にはもっと深いメッセージがあり、そこには奉行所も含めたすべての存在に対する愛があり、それはあらゆる立場を超えたものなのです。

ロドリゴは先にイエスという答えを得て、信仰の道を進みました。それが今までの信仰であり、未来を想定しているためなかなか自分の視点を超えることが出来ません。神の声も自分の望む声となり自分の視点を反映したものとなります。何かを得る前に分からない未来に向かって信じて進んでいく。そして結果から学び信じる心を深めていく。そういう姿勢が自分の視点を超えることに繋がり、結果みんなが分かり合える世界へと繋がります。多種多様な立場が存在し宗教や民族を巡る争いが絶えない今、必要なのは自分の視点を超える信仰であり、それは救いを求めるものではなく、共に創り上げていくものなのです。

神とはこの宇宙の法則であり客観性。そして客観性こそが愛であり慈悲。

僕らは常々このようなことを語り合っていますが、法則性である神様はあらゆるところに住んでいて、誰の側にも立たず、みんなに客観性という愛を注いています。だから目の前の出来事は常に神様からの答えなのです。いつもその答えを受けて、分からない未来に進んでみんなで分かり合える世界を創っていこうと思っています。

木の花ファミリーのみんなです。

敵は自分であり有難い存在となる

賢者は己の敵から多くのことを学ぶ

これは古代ギリシアの喜劇作家アリストファネスの言葉。
風呂場の日めくりカレンダーで目にしました。

この世界は自分の鏡と言います。

敵が目の前にいるということは自分が敵を生み出す心をしているということです。
敵と向き合うことは己と向き合うことになり、
そのためそこから多くの学びを得ることが出来るのでしょう。



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上記は昨年の3月に書いた言葉ですが、この言葉を見た時、「敵も自分だよな」ということを思いました。大きな視点で見たら、この世界は天の意向によって動いていて、自分も相手も役割を果たしているだけで、奥を辿ればすべては一つなのです。だからこの人生で出会うものはすべて自分と言えるのです。

そして「敵がいる」というとネガティブな印象を与えますが、必ずしもそうではないのだと思っています。

賢者は己の敵から多くのことを学ぶ

ということは、敵がいる状態は学びがあるということです。ライバルという言葉を日本語に直すと好敵手と書きます。好ましい敵です。ライバルという好ましい敵がいることにより成長する機会となるのです。2年前、僕は「敵が目の前にいるということは自分が敵を生み出す心をしているということですと書いていますが、この時の僕は、敵という存在を超えていくべきものと捉えていました。最終的には敵がいなくなることを良しとしていたのです。ですが、好敵手であるライバルは自分を成長させてくれる存在です。生きている間、成長し続けるならば、敵がいることは常に有難いことなのです。そのことに気づきました。

そして、この「敵はいない方が良い」という心は曲者だなと思いました。それは都合の悪いものを排除する心にも通じるもので、争いを避けているようで争いを増幅していくのだと思います。実際に人類は長年、平和を求めて争ってきています。そして、この心が敵を好敵手ではなくただの敵にし、それが学びのない不毛な争いとなっていくのでしょう。

多種多様な経験をし、様々な立場の人たちが共に暮らすこの世界では意見の相違があるのは当然です。違う立場の人が敵となって表れる。それも不思議なことではありません。その時、それを有難いこととして受け止め、そこから学んでいけば、敵は好敵手となり人は成長しあらゆる立場を超えた視点を育むことが出来るのです。

たとえば僕は老若男女100名近くと血縁を超えて共に暮らしていますが、このような暮らしをしているといわれのない非難を受けることもあります。それらは経験や立場の違いから生まれる偏見と言えますが、彼らの視点を理解すれば、僕らの決意を試す有難い言葉ともなります。そんなふうに僕らは成長して来ました。それがなくなって欲しいと思う必要もなくてただ道理を通して暮らし変遷として見ていけばいいのだと思っています。

過去から未来へと続いていく天の物語。その長い物語の中に自分は位置し物事に出会いますが、すべては流れの中にあります。敵に出会うのもその流れの中であり、そこから学ぶことで敵は消え、また新たな敵が表れるのでしょう。敵の存在を認め尊重していれば、それは絶え間なく続く成長のプロセスであり、すべては役割でありそこには「有難い」しかないのです。

このようにみんなで成長を続けていたら、みんながみんなの好敵手となり成長し合い不毛な争いはなくなっていくのでしょう。敵の存在を認め尊重すること。その心が平和への第一歩となり人類の目覚めへと繋がります。それは暗闇の中に立ち上がる光の柱となっていくでしょう(^-^)



お金を通して心を育んでいく

昨年の6月、僕が木の花ファミリーの経済について書いた原稿がアメリカのコミュニティズマガジンに掲載されました。その原稿の中で僕はお年玉について触れています。以下、その部分を引用します。

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たっくん(5歳):なかのん、僕、これ(大袋のあられ)買いたい。

なかのん:それを買うにはお金が足りないね。たっくん、他のお菓子を買ってお金使っちゃったからね。

あやな(7歳):私のお金足してあげる。

なかのん:あやなは優しいね。

あやな:うん、みんなで食べたらいいもんね。


これは今年のお正月、子どもたちと交わした会話です。日本にはお年玉という習慣があり、お正月には大人から子どもたちに小遣いが渡されます。木の花ファミリーの子どもたちはそのお金を使って木の花ファミリーの商品を買っているのです。子どもたちは各自、自分の好きなお菓子を購入しますが、それをみんなで分け合っています。分け合うことでたくさんの種類のお菓子をみんなで楽しんでいるのです。それはとても微笑ましい光景です。通常、子どもたちはお金を使うことなくお菓子や必要なものを得られるのですが、このようにしてファミリーの子どもたちはお金を使うことを身近なところで体験しながら、共有することを学んでいます。

 ~ 中略 ~

冒頭で紹介した子どもたちとの交流もお金を通した学びです。子どもたちはお年玉をもらうことでお金を手にし、それを使うことを楽しんでいます。ファミリーの子どもたちのバックグラウンドは様々です。コミュニティ外部に祖父母がいてお年玉を貰ってくる子どももいれば、そういう存在が一切いない子どももいます。コミュニティ外部でお年玉を貰ってくる子どもたちは、そうではない子どもたちよりも多くのお金を手にすることになります。その時、子どもたちの中にそのお金を自分で持っていたいという気持ちが芽生えることがあります。ですが、私たちは基本的にそのお金はみんなのお金として預かることにしています。前述の通り、私たちの暮らしに必要なものは生活費によって過不足なく満たされます。子どもたちの必要も当然満たされています。そのような中、限られた子だけが自分のお金を多く持つことは、優越感や不平等感などを生み出し、それらの心は不調和に繋がります。そのことを丁寧に説明すると子どもたちは納得し、お金を手放していくのです。その姿はとても気持ちが良いものです。



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今年もファミリーの子どもたちはお年玉を手にし、お買い物を楽しんでいます。そしてコミュニティ外部からお年玉を貰ってくる子どももいて、子どもたちの中には様々な感情が芽生え学びの機会となっています。木の花ファミリーでは毎晩夕食後、子どもミーティングを行い子どもたちの話題を大人と子どもで共有していますが、昨晩の子どもミーティングで僕はお年玉の話題を出し、上記のようなことを伝えました。その話を受けて、子どもたちからは以下のような言葉が出ました。

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(1)例年はおじいちゃん、おばあちゃんのところに帰っていて、好きなものを買って貰っていたけども、今年は帰らないでここで貰ったお年玉だけで買い物をすることになった。そうすると買うものを選ぶ必要があっていつもとは違う気持ちで買い物をした。

(2)前にお正月に出掛けて5,000円ぐらいお年玉を貰ったことがあって好きなものを買ったんだけれども、今思うと無駄な買い物をしたなと思う。木の花のお金になって大切なことに使って貰った方が良かったなと思った。

(3)デパートに買い物に連れて行って貰ったんだけれども、電気を沢山使っているなと思った。

(4)自分は欲が深かったなと思った。

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一昨日の晩、サバイバルファミリーという映画を子どもたちも含めてみんなで観ました。この映画では地球全体で電気が全く使えなくなるのですが、そうすると都市機能が麻痺し、お金の価値もなくなります。そんな中、自給自足の価値がクローズアップされるのですが、上記の子どもの発言はその映画の影響も受けています。映画を観た後、いさどんは電気が使えなくなるという状況が非現実的ではないことを子どもたちに伝えていました。北朝鮮による電子パルス攻撃、大きな地震など実際に起きたら都市機能は麻痺することになるでしょう。そのような中、映画の中でクローズアップされた自給自足の生活がここでは実現していて、みんなで豊かに楽しく暮らしています。お金を超えて大切なことがあることをあらためて感じているのではないかと思っています。

6年連続で上昇し、26年ぶりの高値を記録した昨年末の東京株式市場の終値。その中で実体経済は1%にも満たないとも言われています。それは人々の心の表れで、多くの人が実体を離れ自分のイメージを膨らませているのです。そんな中、地球環境という実体は限界を迎えつつあります。そして人々の心も貧しくなっています。

そのような中、ただ欲を膨らませるのではなく、実際の生活に即してお金について考えることはとても大切なことだと思います。この世界には欲を掻き立てるものが溢れていますが、それを通して自分を見つめ心を育んでいく時、数字のようなバーチャルなものではなく実際の豊かさを味わうことが出来ます。お金を通して欲を満たすのではなく、心を育んでいくのです。僕は今、木の花ファミリーのみんなとそんな世界を表現しています(^-^)

ちなみに今日の子どもミーティングでは、コミュニティ外部の人から貰ったお年玉について、少しぐらいの額だったらそれぞれの人が保有することを大人も子どもも認め合いました。みんなで・・・という気持ちを大切にしつつも自分で管理するという経験もしていくことになります。僕らは固定した答えに現実をあてはめるのではなくて、その時その時新鮮にみんなで考えることを大切にしています。

昨晩の夕食に出たパンです。とっても豊かな食事でした。





光と影が交錯し、そのことで光が増し影が生かされていく世界

元日の富士山(ちなっぴ撮影)です。

あけましておめでとうございます。2018年木の花ファミリーのテーマは『再スタート』です。2017年のテーマは『爆発』でした。僕らは心の水爆を爆発させ今までの自分をリセットし、今年新たな物語を生み出していきます。意識は物質よりも根源的。心がリセットすれば物理的なことは自ずと変化していくのです。

爆発のラストを飾る2017年大晦日の大人ミーティングでは21世紀に求められる神通力がシェアされました。そこでは、神通力、神に通じる力について以下のように語られています。それは願いを叶えるものでもなく特別なものでもないのです。

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我々は肉体を持っている。肉体というものは物質だから、そこに光が当たると同時に影ができる。魂が我々の本来の存在なのだが、その魂が設計図となり、魂の思いが響きとなって世界に発せられると、それが現象化を引き起こしていく。それが現象となった時点で、我々は自我を持ち、特定する自らの枠を決め、枠以外のものを他者だと区別する。そのことによって、影ができるのだ。

その影は、物理的な光では消すことはできない。霊的な光でなければ、その影は消せないのだ。そうすると、思いの力を持って影を消すことはできるのだが、その思いの内容によっては重くなって、逆に影が濃くなることもある。それは、自我に囚われることが原因でそうなるのだ。

そして、その影は、未解決事件の背景に流れるものだと思った。それは、この世界に黒い雲のように漂う魔だ。その魔が存在する限り、いくら人に正論を語っても、健全にはならないということだ。

 ~ 中略 ~ 

今のような人々が真実をはき違えた時代には、神通力が必要になるとも思えるのだ。神通力とは、神に通じる力。その霊的な光で照らさなければ、人間に真理という光を照らしても、人間は質量を持っているためにその光が奥の魂まで射さないのだ。光が射さないから、その影があることがわからない。神通力というのは、人間の道理ではなく、霊的な光のことだ。だから、物質的に汚染されてしまった人間の思考をその光で突き通す必要がある。我々が肉体を返上し魂だけになった時に自らの実態があからさまにわかるのと同様に、そういった物事の本質を掴み取る知恵を人々が得るためには、立ち込めた魔を払い、真実の光を照らす必要があるのだ。現代の人間世界にはあまりにもたくさんの影が発生し、そこに漂う黒い雲が世界に蔓延し、多くの矛盾を発生させている今、人々にいくら正しいを語っても、人々は目覚めない状態になっている。

 ~ 中略 ~

今、世の中の現状を観てみれば、高い意識レベルの神通力は必要であることが観える。お釈迦様は「ガンジスの川の砂のごとく、衆生はおる。そのすべての衆生に仏性あり」と言われた。それはお釈迦様の意志として仏教に伝えられている。ところが、そこでお釈迦様は発していない言葉がある。その後にお釈迦様が伝えられたのは、「ただし、その道を歩んだものにだけ」ということ。つまり、いくら仏性があって、ブッダへの道があったとしても、それに目覚めて歩まないものにはない、ということだ。それで、そういった道を忘れ、歩まない現状の人間世界がある。

 ~ 中略 ~

それで、今年のはじめに、なぜ神通力というビジョンが降りてきたのか。そして、今年の暮れまで来た。今こそ、神通力が本当に必要な時が来ている。つまり、世界の仕組みを理解したものたちが、自らの高い意識を持って、この世の中の雲を払拭していかなければ、本来ヒトとして悟れる素質があるものも、その価値を見出すことはできない。そして、さらに現状の世界が続くだけのことになる。

この世界に漂っている暗雲を払拭しなければならない。神通力をもって払拭する。僕一人の力では世の中すべての暗雲を払拭することはできないし、今はそういった一人の力に頼る時代でもない。この悟りを人々に伝え、自らを価値あるものとして腹に落とし、歩んでいくものたちが現れてくる時が来ている。その歩みが2018年にスタートする。

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魂としてのヒトはこの世界と一体です。ですが、自我を持つ人間は、自らを世界から分けて際立たせます。そして、その動きにより自分だけの世界、影を生み出します。影は本来、光を認識するためにあり、それが悟りへの道となります。ですが、その道を歩まなければ、人間は自分だけの世界、影をすべてとし、その結果、世界に暗雲を広がっていくのです。今の社会の混乱はその表れで、いさどんはそれを払拭していく決意をしています。

そして僕は、大晦日に「変遷として見ていく」をシェアしました。この記事は2017年の振り返りとなっていますが、その学びは以下の言葉に集約されます。

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僕の中には好き嫌いや善悪の価値判断がありますが、それらは僕が出会った縁の中で育んだものであり絶対的なものではありません。世界には様々な好みや価値基準があります。多種多様な好み、価値判断のどれが正しいかと考えることにはあまり意味がなくて、それらの奥には天の流れがあり、すべては役割としてあるのです。そのことが見えると、分断や対立の奥に流れる大いなる意志を感じ、お互いを理解し合うことが出来るのです。

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それぞれの人がそれぞれの出会いの中で好みや価値判断を育みますが、多くの人がそれを絶対視しているのが今の世界です。そのことが影となり分断や対立が生まれています。アメリカ、中国、ロシア、北朝鮮、イスラエル、パレスチナ、日本。それぞれの国が自分の立場からの正しさを主張し対立しています。それは国内を見ても同じです。自分の立場から見える安全や利益を求めて改憲、護憲などの対立が生まれています。

自分の側から世界を見て正しさを追い求める。それは影からの視点であり、常に偏り分断や対立に繋がっていきます。無明。自らが影の中にいることを理解していないのです。

今、必要なのは、世界の側から自分を見ることです。その視点が霊的な光となり自我の枠を溶かし目覚めへと繋がっていきます。自分自身を世界の中に位置づけその役割に気づくことが出来るのです。

世界の側から自分を見る。するとこんな世界が見えてきます。

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宇宙と自分は一つ。その中で過去から続く因縁によって今この場にいて、そして今の自分の言動が新たな縁を生み出していきます。それは円運動によって究極的には宇宙の中心と繋がっていきます。日々出会う出来事は、視点を高くすれば、無限なる宇宙の円運動のひとコマとして出会っているものであり、それは自らの生の結果でもあります。

何かに出会った時、自分の中にはいろいろな反応が芽生えますが、それは今までの生の結果であり多様な因縁があるからこそ、多様な反応をしているということです。その中で何を選ぶかで解消される因縁もあれば強まる因縁もあります。そして、それは無限に連なる宇宙の中心へと繋がっているのです。

 ~ 中略 ~

自分の今までの生、因縁によって芽生える様々な感情。その中で自分が選んだ感情が波動となって宇宙の中心へと繋がり、この世界の一翼を担っていく。それは本当に些細なものであっても自分一人分、この世界に対する責任です。


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目覚めの波動を宇宙の中心へと伝えていく。そんな人たちが増えていくとこの世界の暗雲が晴れていき、道理の道を歩む人が増えていきます。今年がそんな年になるよう自分一人分責任を果たしていこうと思っています。

世界の側から自分を見る。その世界とは本来の自分のことです。なぜなら、宇宙と自分は一つだからです。自我が生み出す影は、光を認識するためのものであり、それは本来、光の一部であり光の中の役割なのです。

光と影が交錯し、そのことで光が増し影が生かされていく世界。

それが目覚めたものが生み出す世界であり、喜びと希望に満ちた世界です。そんな世界を木の花ファミリーのみんなと表現していこうと思っています。最後に元日のファミリーの様子を紹介して終わりにしようと思います。今年もどうぞよろしくお願い致します。

みんなで初日の出を見ました。

集合写真です。

昼食の様子です。

昼食です。

夕食の様子です。

夕食です。

夜は子どもたち企画のゲームをして遊びました。すもうをしています。
卓球をする人たちもいます。


思い通りにならないことに向き合うことで心が育まれる

思い通りにならないことは向き合うことで心を育んでくれます。そして心が育まれると思いもよらない出来事に出会い感動します。感動し嬉しくなると気が緩むものです。ですがこの時、気が緩んでしまうと思い通りにならないことに苛立ち心が貧しくなっていきます。そうするとせっかく積み上げたものが一気に崩れてしまいます。これでは元の木阿弥で人生は同じことの繰り返しとなっていきます。

思いもよらない出来事に出会うということはそれだけ価値のあるものになれというメッセージで、より責任が大きくなり心を引き締める必要があります。心を引き締めることで何が起きても心は育まれ続け価値を高めていけるのです。

クリスマスの日、木の花ファミリーでも12月のお誕生日会を兼ねてクリスマス会が行われ、みんなで楽しい時間を過ごしました。クリスマス会ではサンタさんから子どもたちにプレゼントが贈られますが、今年は僕にもプレゼントがありました。思いがけないことに胸が温かくなりましたが、翌日、子どもたちがプレゼントのおもちゃに使う電池を求めて僕のところに来て、数が足りなくなったけれども注文してある分がなかなか届かなくて何度も何度も確認に来る子どもたちがいたり、プレゼントのオーディオプレイヤーの使い方を調べて欲しいと言ってくる子の対応をしたりでペースが乱されました。

忙しいところ時間を取られてしまった。これはまずい!

という思いが浮かびましたが、冷静に観れば、多少仕事に遅れが出ただけのこと。大騒ぎをするようなことではありません。それでも、まずい!という思いが浮かんでくるのは自己主張で、その奥にはペースを乱されていることに対する負担感、もっとよく見れば苛立ちがあります。それを認識すれば、その感情を超えていくだけなのです。

子どもたちはただ喜んでいるだけだから、その喜びには気持ちよく応じたいものです。

仕事が進まない。まずい!

というのは責任感がある言葉のようにも聴こえますが、心の奥を観ればペースを乱されることに対する苛立ちがあり、それをきれいにカモフラージュしているだけです。

自らを分けると書く自分、そこから生まれる自我は自らを際立たせます。それは刺激に対する反応なようなもので、多くの場合、そこには冷静な判断は含まれていません。押されたら引きたくなるし、引かれると押したくなる。目的は自らを際立たせることあるから言うことがコロコロ変わるのです。人はそんな自我の動きをきれいごとでカモフラージュします。先に挙げた、仕事が進まない。まずい!というものもそんな心の動きの一つです。

自らの価値を高めることは自我から自由となることであり、だからこそ思い通りにならないことは向き合うことで価値を高めてくれます。思いもよらない出来事はそんな中与えられるご褒美のようなものですが、そこで自我が疼いたらまた元の木阿弥となるのです。

だから常に心を観察し続けることが大切です。

そんなことを思っていると、静岡新聞の社説が目に入りました。

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素手に棒を握り、はいつくばって砂浜をつついて進む。手応えがあると慎重に砂をのける。現れるのは円形の地雷。信管の抜き取りをわずかでも誤れば目の前で爆発。死と隣り合わせの作業に幼い面立ちのナチス・ドイツの敗残兵が当たる

ちょうど1年前に公開された映画「ヒトラーの忘れもの」。第2次大戦後のデンマークを舞台にナチスが海岸線に埋設した地雷の除去に駆り出された少年兵と、指揮するデンマーク軍の軍曹との葛藤を描いた。史実に基づくリアルな場面が胸に迫った

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ナチス・ドイツの敗残兵に地雷処理をさせる。それを命令する側には当然の報いという理屈があるのでしょうが、その奥にある心を見て超えていく必要があります。そうでないとお互いの正当性を主張しながらの悲劇が繰り返されていきます。先の記事はこんなふうに続きます。

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残念ながら、その悲劇は今も終わらない現実でもある。先日、非政府組織の連合体、地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)が発表した報告によると地雷や不発弾による2016年の死傷者は世界全体で8605人。うち8割は子どもを含む一般市民だった

地雷の中でも対人地雷は命でなくけがを狙って設計される。恐怖心をあおり救護に要するコストで敵を消耗させる。安価で大量に装備でき、いったん埋設されれば半永久的に作動し無差別に殺傷する。「悪魔の兵器」といわれるゆえんだ

廃絶を目指した対人地雷禁止条約(オタワ条約)ができて20年。130以上あった地雷保有国は半分以下まで減ったものの、なお地球上に残る地雷は数千万とも1億とも推計される


条約に米国、ロシア、中国などが背を向ける中、日本は地雷を廃棄し除去へ資金や技術的支援にも積極的に取り組む。道のりは長いが、まずは地雷全廃。そして核という非人道兵器も“人類の忘れ物”にしてはならない。



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人生は思い通りにならず人類は数々の悲劇を経験してきました。それに向き合う時、人類の心が育まれ、思いもよらない出来事、実現不能にも思える平和が訪れるのだと思います。地雷にしろ原爆にしろ自分の思い通りにしようとする心から生まれています。その思いにはそれぞれ正当性があるのでしょうが、軍拡競争となり歯止めが利かなくなっています。思い通りにしようとすると心が貧しくなっていきます。平和運動が対立に繋がるのも思い通りにしようとする心の表れです。だから自分の正当性の奥にある心を見て、それを超えていく必要があるのです。それはきっと日々の生活の中でみんながする必要がある実践で、その積み重ねが本当の平和へと繋がっていくのでしょう。

思い通りにならないことに向き合うことで思いもよらない出来事に出会い感動するのです(^-^)

12月お誕生日会&クリスマス会の様子です。


うれしたのしの世界を生み出す

木の花ファミリー通信2017冬至号が発行されました。今回のファミリー通信は世界情勢をテーマにしていて、時代を大きな流れで捉える視点を提供すると共に、環境、農・食、経済、社会、政治、教育などの分野の現状の分析をしています。その中で政治についてはトランプ大統領に触れています。以下、その内容を転載します。

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時代の申し子・トランプ米大統領の出現

時代は新たな価値観を求めている

アメリカの建国から約250年、ニューヨークに高層ビルが建てられるようになってから約130年。それは、46億年の地球の歴史からするとほんの少しの出来事ですが、素晴らしく発展したマンハッタンも、宇宙から観たら本来の自然の美しさが失われた皮膚癌の状態であり、それは地球の病巣とも言えるのです。

20121221日の「銀河の冬至」という大いなるターニングポイントを越えて光が差してきた今、そこで見えてきた本音が「アメリカファースト」です。その本家がイギリスであり、今、イギリスも「イギリスファースト」という姿勢を取っています。元々、アメリカという国家は度量の大きな他民族国家でした。ですから、アメリカは偉大な国だとされてきたのですが、その本音では自国の利益ばかりを求めていたのです。これまで公開されてこなかった過去の文書によると、アメリカは世界戦略として戦争をつくり、戦争によって繁栄してきた国だということが観えてきています。そして今や、アフリカやアジアといった貧しい国を搾取することによって栄えてきた国でもあるのですから、アメリカが世界の名士であるということは幻想にしか過ぎません。

自分たちが豊かになろうとする欲望の延長に、イギリスやアメリカが覇権主義で世界をリードし、その結果世界中の国々がそれに追随してきた時代が終焉を迎えている証として、トランプ大統領が誕生したとも言えるでしょう。時代が必要として産み出されたトランプ大統領には、既存の国家主義を壊すために大混乱を引き起こす重要な役割があるのです。そして、本来アメリカという国家は度量の大きな他民族国家なのですから、自分たちの欲を手放し、今まで抱えてきた富をこの世界に還元する時を迎えています。そのように、現代を生きる人々が地球レベルで世界のことを考え、人類の本来の目的に目覚めた時、地球に真の平和は訪れることでしょう。

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先日、国連総会の緊急会合が開かれ、トランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定したことに対して、認定の撤回を求める決議案が圧倒的多数で採択されました。採択に先立ち、トランプ大統領は決議案に賛成する国への支援を停止すると警告していましたが、多くの国はそれでも賛成票を投じました。トランプ大統領によるエルサレム首都認定の動機については、中間選挙での人気巻き返し、ロシア疑惑の話題を反らすためなどと報じられており、「アメリカファースト」どころか「トランプファースト」とも言える姿勢となっています。国が自国の利益ばかりを求めているのは、国を構成している人々が自分の利益ばかりを求めているからであり、そのような国民に選ばれた指導者が自分のことばかり考えているのはある意味当然と言えます。トランプ大統領は繕うことなくその姿勢を打ち出すことで既存の国家主義を壊すための役割となっているのでしょう。トランプ大統領の姿勢は人々の鏡であり、その姿から人々が自分の姿勢を改めることで今の混乱を抜け出し希望ある未来を生み出すことが出来るのです。

冬至の夜、木の花ファミリーでは富士浅間木の花祭りについてのプレゼンが行われ、その意味を共有しました。木の花祭りは鬼が主役のお祭りです。鬼は人々に忌み嫌われていますが、鬼は本来、人びとに道理を説く存在なのです。鬼についてカタカムナの単音で調べると以下のような意味となります。

「オ」 6方(前後左右上下)へ限りなく拡散、または凝縮する思念。大きい 重い 奥の方・潜象の場  ※潜象界とはカタカムナでは「ない世界」のこと

「二」 定着する

この意味を発展させて「いさどんと鬼の面」では鬼について以下のように説明しています。

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「オニ」とはマクロにもミクロにも限りなく広がる現象界、および現象界の元になる潜象界をも含む、両方の世界の働き(仕組み)を定着させるものである。そして、「鬼が云う」と書いて「魂」となる。魂とはこの世界の仕組みのもとにある心で、鬼は人間に、この世界の道理を伝えるものなのである。

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「鬼が云う」で魂となります。ということは、鬼を忌み嫌っているということは自らの魂を忌み嫌っているのと同様なのです。自我を与えられ、この世界を自らと切り離して認識することが出来る人間は自分だけの世界を生み出します。それは宇宙と一体となった本来の自分(=魂)から離れた幻想の世界と言えます。多くの人が自我から世界を眺め世界と関わりますが、自分と世界を切り離しているため世界に認めてもらうためのアピールが必要となるのです。好き勝手に行動しているように思えるトランプ大統領ですが、中間選挙を意識し支持層にアピールをしています。それが本来の自分の望み、考えかどうかは関係がないのです。このトランプ大統領の姿は多くの人の日常の姿なのではないでしょうか?ここで2013年9月にいさどんと交わした会話を紹介します。


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なかのん:

質問があるんだけれども、自分らしく生きていることと自己主張をしていることの境界ってどこにあるのかな?

いさどん:

自己主張は主張でしょ?誰かに何かを主張している。分かって欲しいと求める対象がいる。自分らしく生きることには対象はない。ただただ淡々と生きているだけ。自分らしく生きている姿は美しく気持ちがいいけれども、自己主張は気持ちよくない。正直に生きていても、それが自己主張になってしまっている人がいる。それはアピールして人に分かって欲しいと求める気持があるため。そういう人は気持ちよくない。世界と自分、両方から離れて眺め、自己主張を超えていく必要がある。

なかのん:

何かを分かって欲しい気持ちがあるか?それが一つのチェックポイントになるんだろうね。僕は、自己主張はいろいろなところに入り込むって常々思っているんだ。例えば、一生懸命に働くことの中にも自己主張は入り込む余地がある。「俺はこれだけ仕事をしているんだぞー」みたいに。

いさどん:それは誰にアピールしているの?

なかのん:みんなかな・・・

いさどん:その時はみんなと自分を分けているんだよ。

なかのん:そうか・・・アピールするってことは分けているってことか・・・

いさどん:

そうだね。僕なんかそんな感じはまったくないよ。僕が淡々と仕事をすることは木の花全体の仕事を進めることで、全体に仕事が進むのは良いことだしね。

仕事に関しては、こんなことがあったんだ。今、家を建てているでしょ。その家の壁の漆喰塗りを進めようと思っていて、特に僕の部屋の部分は自分でしたいと思っていた。僕が一番丁寧に出来るし、これからずっと眺めるものだから。でも、普段から養蜂や面談などで忙しく、加えて、蜜蜂がスズメバチに襲われるなんていう突発的に事故が入ったりして、なかなか取り掛かることが出来なかった。そこでまっちゃんりょうちんが仕事を進めることになった。まあこれも流れかなと思っていた。これには良い面もあって、もし僕が漆喰塗りに取り掛かったら、僕が主となってやることになり、まっちゃんやりょうちんには従属する気持ちが生まれてしまう。でも、僕が取り掛かれなかったことで、2人とも主体性を持って伸び伸びと仕事に取り組んでいた。加えて、2人は僕の部屋の部分は後に取っておいてくれたので、時間が出来て僕が塗ることが出来た。僕は漆喰塗りを手放した。手放したらより良い形で僕がやる流れが来た。これは覚悟が出来ているから生まれる流れ。覚悟とは執着のない心。捕らわれない心。潔い心。覚悟が出来ていると、自分がやるべきことと手放すことの冷静な判断が出来て、結果良い流れを生み出す。

人間だから僕も人間的意識で物事を体験し捉える。と同時に上の意識でも物事を捉えている。日常生活の奥には現象を生み出すバイパスがあって、そこから物事を眺めているとすべての出来後が繋がってくる。この世界は一つだから現象の元を辿りバイパスに至ればすべての出来事が繋がっている。一人一人に相応しい現象が生まれるこの世界。生きてそれを味わい自分を知りあらためていく。それは一人一人オリジナルな体験で、いつでもどこでも出来る実践。お金も掛からなければ、誰かに頼る必要もない。日常の現象からただただ自分を知って改善していく。それは最も正攻法で手法もいらない、人生オール心磨きの実践と言える。

なかのん:

日常を眺める視点を頂いたように思える。背景に流れる意図を感じ、そこから眺める。そうすると一本の糸のようにすべての現象が繋がっていくように思えた。その視点を共有したい。

いさどん:

その視点をみんなで共有しようというのが、僕がずっと言ってきたこと。視点の位置は同じでも、みんなが僕の真似をするわけではない。それぞれの個性の応じた景色が見えてくる。独自の視点から流れを捉えることが出来る。それをみんなで共有することでこの場所はもっと豊かな場になっていく。これは現象を味わう身体を頂きながら、現象の作り手の位置へいこうとする道。人間でありながら、人間を超えていく道。


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アピールするということは自分と対象を分けているから。

それが自我を与えられた人間の日常の意識です。本来、自分らしく生きることに対象はないのに、分かって欲しいと対象を求めるようになります。そして本来の自分である魂を忘れていくのです。鬼が忌み嫌われている今の世の中は人々が本来の自分を失っていることの現れなのです。この状態では好きなように生きていても満たされることがありません。

日常の奥にある現象を生み出すバイパス。

それがこの世界の法則であり、天の意志であり、鬼が伝えてくれる道理です。そこに意識を向けることで、人は本来の自分、魂を取り戻せるのです。

鬼が主役の富士浅間木の花祭り。それは自我から生まれるアピールする心を忘れ、生まれ清まり舞い踊る、うれしたのしの地球のお祭りです。祭りの精神により本来の自分を取り戻すこと。それは自他の区別により分断が進んでいるこの世界に光を射しこみます。道理を大切にし本来の自分を取り戻すこと。それはどこでも誰でも出来る世直しであり、唯一の世直しの方法なのです。この世界で共に舞い踊りうれしたのしの世界を生み出しましょう(^-^)








みんなの中でよみがえり生きていく(3)

クリスマスを前にしたロータスランドの店内です。

今日、12月22日1時28分冬至です。冬至についてFacebook地球暦のページには以下のように書かれています。

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太陽と地球をつなぐ光の関係における1年の終着駅、夏至が山場とすれば冬至は谷間にあたります。これまで落ち込み続けてきたエネルギーもついに底を突き、完全に「落ち着いた」ポイントが冬至です。
 ~中略~

冬至は古くは生命の終わりを意味し、再生復活の時と考えていました。文化信仰を問わず炎を神聖視し、火を焚き上げる風習が残っています。火(日)の大切さを実感しつつ、これまでの厄払いや、禊や浄化、または大掃除などで清めることで、生活を簡素に一新することが生活のポイントです。

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そして25日はクリスマスですが、クリスマスと言えば、イエス・キリスト。イエスの物語も再生復活の物語であり、それは冬至の意味と重なります。以下、みんなの中でよみがえり生きていく」より文章を引用します。

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多くの人々に救いをもたらしたイエス・キリスト。イエスは処刑されますが、予言通り3日後に復活します。僕は常々、イエス・キリストの死と復活については、心の成長過程のモチーフになっていると思ってきました。

イエス・キリストはすべての人間の罪を背負って磔(はりつけ)にされ、命を落とします。人間の罪とはすなわち「自我(エゴ)」だと思うのです。自我の元、人間は自らの欲望を叶えようとし、世界に働きかけます。その結果が今の社会であり、環境問題、経済格差、人種差別、民族紛争など様々な問題を生み出しました。イエスの死は、問題を起こしてきた自我の死を意味します。自我の死とは自意識を捨てることであり、自分視点を離れることです。その体験は人に恐怖を与えるのかもしれません。執着の感情が湧き上がるのかもしれません。ですが、自我の死、自意識を手放すことは人間に新しい可能性をもたらします。

磔にされ肉体の死を迎えたイエス・キリストは、3日後に復活するのです。それはイエスの魂の復活であり、それ以後、イエスは人々の中で再生し、今も世界を見まもり続けています。人が自意識を捨てる時にも同じようなことが起こります。

自意識を捨てる時、人は今まで囚われていたものから解放されます。その時、人は、自分(自意識)が知らなかった自分と出会います。思いもよらない感情や能力が湧き上がってくるのです。そしてそれは波動となって世界に広がり、人々の心に伝わっていきます。自意識の元、自分の中だけに留まっていた心、感情が動き出し他の人々の心の中に入っていくのです。そして、その心は人々の心の中で生き続けます。自分の魂が肉体を超えてみんなの中で生きていく。自意識を超えた時、そんな生き方が可能となるのです。


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みんなの中でよみがえり生きていく

それがクリスマスのメッセージで、クリスマスは自分の願いや望みを手放す時なのです。手放した願いや望みの中で相応しいものをサンタクロースが叶えてくれるのです。その時、その願いや望みは祝福され自分のものではなくみんなのものとなっています。自分の望みがみんなの喜びとなる。そんな世界が生まれるのです。

みんなの中でよみがえり生きていく

艮の金神さまもそのような存在です。心の掟を厳しく問うため神々に疎まれ封印された艮の金神さまは国之常立神(クニノトコタチ)であり地球神、大地の神さまです。大地の恵みをいただくことで生命を維持している人間は本来金神さまの分け御魂と言えます。ですが、多くの人びとはそのことを忘れてしまっています。金神さまが封印されている間、人間は大地を好き勝手に開発し痛めつけて来ました。ですが、今、金神さまは復活しています。地震や津波などの天災は金神さまからの愛のメッセージと言えます。人々がそのことに気づき自らの内に存在する尊き存在、大地そのものの輝きと繋がることで、新しい世界うれしたのしの世が始まるのです。2018年1月27日(土)に開催される富士浅間木の花祭りではみんなでそんな世界を表現し、僕らは日常をそのように生きています。ここでお祭りの中に登場する金神さまと翁の問答を紹介したいと思います。

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艮の金神と翁の問答              

 
  
伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間 ところは当初の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色(こんじき)の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。

金神  

この方(ほう)は、艮の金神と申す。
時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界(みちよかい)。 汝らの宇宙(うつ)、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢れ(けがれ)逆巻く魔釣りの世。

      

艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう

金神
この方(ほう)は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙(うつ)の天意転換(たてなおし)、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢れ(けがれ)汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢れ(けがれ)混じること、適わぬ(かなわぬ)世となるべきなり。古き仕組みに変わりたる、新たな仕組み始まれり。
縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯 済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換(たてなおし)、汝らご用に使うてやる。


一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出る(いでる)と申されるか

金神  

いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人(かみびと)、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。
故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。
神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球(くに)の日月の神々じゃ。
一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹にまことを据えるのじゃ。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。

      

引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。

金神  

一度は渡したその榊。天の元に供えられい

(金神は後ろを向く。翁が榊の枝を金神の腰に差して退場する。
金神、根付きの榊に持ち替えて、四方でへんべいを踏んだ後、神座に戻る)

皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、嬉し嬉し、愉し愉しの世となりて、真(まこと)の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真(まこと)次々現れくるぞ。
あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。
オー、オー、ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト オー。
真(まこと)の神が現れる。神人(かみびと)共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。
真(まこと)の真釣り(まつり)始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。




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みんなの中でよみがえり生きていく

それは自他の区別をなくしみんなでみんなを生かし合ううれしたのしの世の中です。

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ちなみに僕は今から18年前の1999年、箱庭でイエスの死と再生を表現していました。中央に池を掘りその中に磔にされたイエスを沈めたのです。そして、その後、四方に様々な世界を表現したのです。

みんなの中でよみがえり生きていく

僕が心掛ける生き方です。

1999年に僕が創った箱庭です。


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