流れは人々の心を浮き彫りにしていく

前回の記事「魂を入れていく」は、大人ミーティングでの場創りの足しになれば・・・と思い書いたものです。
ですが結局、これをミーティングでシェアすることはありませんでした。
というのは、場は他の理由で整い、この記事のシェアは必要としていなかったからです。

僕の意図は流れに乗ることはありませんでした。
ですが、これはこれでいいのです。
大切なのは、場が整うことであり、僕の意図は重要ではないからです。

意図は重要ではないのですが、意欲は重要です。
ブログを書いたのは、ミーティングでの場創りのためであり、
僕にはミーティングで場創りをする意欲と意思がありました。
それは流れに沿うものとなりミーティングでの場創りに貢献していくのです。

流れは人々の心や社会の現状を浮き彫りにします。

もし僕が自分の意図にこだわる心を持っていたら、
上記の出来事でふて腐れ、意欲を失ったかもしれません。
実際、数年前の自分ならば、このようになっていたと思います。
ですが、今の自分は変化し、流れを楽しむ心が育まれているのです。

71年前の今日、広島に原爆が落とされました。
この痛ましい流れは自分の愚かさを浮き彫りにしましたが、未だ原爆はなくなりません。
この事実は社会の現状を浮き彫りにしています。

今日、リオのオリンピックが開催式を迎えますが、
今でもロシアのドーピング問題で揺れ動いています。
そして、ブラジル国内も混乱に極みにあり、大統領は弾劾に問われ、
停職中で、暫定政権にも不正疑惑が相次いています。
この状況は人々が自らの欲望を追求した結果であり、
人類の現状を浮き彫りにしているのです。

宇宙は銀河の夜明けを経て、光の時代へと向かっています。
宇宙は、光に向って流れ、人々の心や社会を照らし、浮き彫りにしているのです。
これは天が生み出している流れです。

ここでもう一度、流れについてのいさどんの言葉を紹介します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

天は流れを創る。
そしてその流れに具体的にことを乗せるのは、地の仕事である。
流れを観て、流れに応じた行動をする。そういうコラボである。
道理を考えて人智を回すことも大事だが、それをやり過ぎると人智だけになり流れを忘れるから、流れを観ながら人智を回していく。当たり前のことだが、ついつい出来事に意識が行き過ぎると、そのことを忘れる。
流れを観ていれば、ことはスムーズに進む。
それは流れているのだから、行きつくところに行きつく。
流れを観るとは、結論が出るということではない。
流れを観て、それに沿うと、行きつくところに行きつくから、その時に「ああそうか」といただく。結論はない。しかし流れをしっかり読める人間は行き着く先が想像できるものだから、思った通りにことが成るということだ。それは最初から成るべきことが成るように生きているということである。
このようなものの捉え方でいると、道理が常に通っているから、自分の考えている通りにすべてが回る。


☆彡 ☆彡 ☆彡

天の流れによって浮き彫りにされていく自分や社会。
それとしっかり向き合う中で、流れに沿い、道理を通していく。
それは自分と世界を正していく行動です。

流れを感じて、自分を見る。そして、流れに沿っていく。

一人一人がそのように生きることが大切で、その先に真の平和が訪れます。

それは人類未踏の世界です。

その先駆けとなるよう僕は木の花ファミリーでみんなと共に心を磨いています。

これは当然希望の物語です(^-^)

木の花ファミリーの生活風景(7月28日夏祭りより)




魂を入れていく


天の流れを忘れる人々


人が自然の一部だった頃は、人は天(天気、天候、気候、季節)のリズムと共に生きていました。
自然の流れを読み、それに沿って生きる必要がありました。

その後、近代文明が発達し、人は自然の影響からある程度自由になりました。
人工的な環境を作りだし、季節に関係なく1年中同じように暮らせるようになります。
そんな中、人は天のリズムを忘れていきます。

我思う、故に、我あり。(コギト・エルゴ・スム)

私が存在するのは、私が思考しているから。

自分の存在基盤を自分の思考に求めたこのデカルトの言葉は、
自我による自然からの独立宣言で、
他者の存在なしでも自分は存在出来るという幻想を生み出しました。

そして自然や他者との関係性を無視し、人々が思うがままに行動した結果、
現在の発展と混乱した社会があるのです。

自我は一人一人別々の認識や解釈をもたらします。
今、世界には70憶以上の認識や解釈が存在し、
多くの人がそれに囚われ、翻弄されて生きています。

今、世界をテロリズムが騒がせていますが、テロリストにもテロをする理由があり正義があります。
ですが、彼らは彼らの視点に囚われています。

そして、そんなテロリストを生み出しているのは、貧困や格差を生み出している社会であり、
それは個人的利益を追求することを良しとする人々が生み出しています。
そんな人々の視点も囚われています。

そこには天や自然の流れを意識する視点がないのです。

天の流れとは?


天の流れについていさどんは以下のように語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

天は流れを創る。
そしてその流れに具体的にことを乗せるのは、地の仕事である。
流れを観て、流れに応じた行動をする。そういうコラボである。

道理を考えて人智を回すことも大事だが、それをやり過ぎると人智だけになり流れを忘れるから、流れを観ながら人智を回していく。当たり前のことだが、ついつい出来事に意識が行き過ぎると、そのことを忘れる。

流れを観ていれば、ことはスムーズに進む。
それは流れているのだから、行きつくところに行きつく。
流れを観るとは、結論が出るということではない。
流れを観て、それに沿うと、行きつくところに行きつくから、その時に「ああそうか」といただく。結論はない。しかし流れをしっかり読める人間は行き着く先が想像できるものだから、思った通りにことが成るということだ。それは最初から成るべきことが成るように生きているということである。

このようなものの捉え方でいると、道理が常に通っているから、自分の考えている通りにすべてが回る。

☆彡 ☆彡 ☆彡



魂を入れていく


天はインスピレーションを通して流れを示唆します。
その時、それを結論としてしまうと、そこに囚われが生じ、流れを失います。
自分の都合で解釈をしても、流れはなくなります。

流れを観て、流れに沿う。

そのためには自分の視点を離れる必要があります。

最初のインスピレーションは種のようなもの。

それが育っていくためには、人はその都度、適切な関わりをしていく必要があるのです。

魂を入れていく。

僕にはそんな言葉が浮かびました。

天の流れを形にしていくのは、人の仕事であり、
関わる人たちがそこに自分の魂をのせていくのです。

その作業は自らの思惑を離れたものであり、天の意向に沿ったものです。

魂をのせることで流れが熟していきます。

それは自分の想像を超えたとても大きな出来事であり、
同時に日常の中でも表現されることであり、
大きなことと小さなことが繋がり、世界が一つになっていくのです。

こんなことを想像するととてもわくわくします(^-^)

一人一人が自らの自我に翻弄されずに、天の意向に沿って生きていけば、
そこには調和が表現され、争いやテロを必要としない世界になっていくでしょう。

そんな世界に向けて、最近、木の花ファミリーでは流れについて語り合っています。




真実を明らかにする

インターネットと暴力


2016621日、夏至の日にオープンしたサイト「木の花ファミリーで起きたことを検証する」に新たなページが加わりました。題して「インターネットと暴力」です。夏至の日から地球が30度動いた722日、大暑の日に加わったことに宇宙の流れを感じます。

上記のページに書かれていることを簡単にまとめると以下のようになります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

私たちは一人一人独自の世界観を持って暮らしています。そのため同じ出来事に出会ってもその捉え方は人それぞれ異なります。一つの出来事が人間に多種多様な体験や解釈を生み出すのですが、そこにその人の人間性が現れます。
この世界は70億人の人々の心が折り重なり出来ています。一人一人の自我が生み出すイメージは自然界から自由であるため、それはともすれば実体からかけ離れたものともなるのです。今、この世界は巨大なバーチャルな空間となっています。例えば、お金です。今、お金はただの数字となりつつあります。世界の大部分のお金はコンピューター上でやり取りされ、それは人々の欲望や熱狂、不安や恐怖などにより価格変動を繰り返しています。そして、インターネット。誰でも気軽に発信できるこの空間は、実態とかけ離れた内容も検証されることなく拡散されていきます。そこでもてはやされるのは、上手に表現できる人であり、実際の人間性は問われることはありません。評価や注目を集める言葉が氾濫し、それらは現実から遊離し、この世界は混乱の極みにあります。インターネット上での風評被害は社会問題となり、中には自殺にまで繋がる事例まで存在しているのです。
木の花ファミリーは、このような社会の中、地に足の着いた生活を大切にして来ました。そして、自我が生み出すイメージを離れ、実際の自分を知り、人間性を育んで来ました。そこには現代社会の混乱を超える揺るぎない価値、そして希望があるのです。

20146月、「木の花ファミリーで起きたこと」というサイトが立ち上がりました。このサイトでは「これから書くことはあくまで可能性に過ぎません」と巧みな表現を用いながら、木の花ファミリーについて、暴力的で危険なマインドコントロール集団という物語が創作されました。木の花ファミリーでは、同サイトを管理する「コミュニティの課題と可能性を考える会」に対し、真実を検証する場を持つことを提案して来ましたが、同会が応じることはなく、上記サイトは今も存在し続けています。

彼らは木の花ファミリーを悪と見立て、社会正義の側に立っています。ですが、その情報は歪んだものであり、真実とは異なります。その証として、どんなにバッシングを受けようとも木の花ファミリーの暮らしが揺らぐことはありませんでした。それはこの暮らしが宇宙の法則に基づいたものであり、実態が伴った本物の生活だからです。だからこそ、実際に木の花ファミリーを訪れる人々にはその価値が伝わっていきました。その事実こそが、木の花ファミリーをバッシングする人々の心を浮かび上がらせます。そこで語られていることは彼らが創り出している世界なのです。

彼らは社会正義の立場に立ちます。ですが、その心に奥にある動機は純粋なものとは言えません。現代の社会規範がその行為を許したとしても真実は心の奥にあります。自分自身の中にある歪みや悪意の存在に真に向き合う時、この世界の実態に触れ、人は生を受けた本当の意味を知ることが出来るのです。それこそが木の花ファミリーの実践です。

今、多くの人が自我に囚われ、己に都合のよいイメージの中で暮らそうとしています。それが社会の混乱を生み出し、木の花ファミリーへのバッシングも生み出しています。私たちはそんな社会の風潮を懸念し、「木の花ファミリーで起きたことを検証する」を立ち上げました。その目的はあくまで人々を真実、そして新しい時代に誘うことにあるのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

※「木の花ファミリーで起きたこと管理人とのやり取り」も同時にUPしています。

片山佳代子氏とプロバイダーの対応


「インターネットと暴力」にも触れられていますが、「木の花ファミリーで起きたこと」を情報源とし木の花ファミリーを訪れたことのない人々までもがネット上で木の花ファミリーへの批判を展開しました。ガンジー研究家である片山佳代子氏はその一人で、ホームページやブログで木の花ファミリーの批判を展開しています。


片山氏は「木の花ファミリーで起きたこと」の情報を鵜呑みにし、私たちの言葉を聞き入れることはなく、実際に木の花ファミリーを訪れることもありませんでした。それは真実から目を閉ざし、対話も拒否している状態です。

例えば、片山氏は「集団で共同生活をするとなると、どうしてもリーダーを置いて、そのリーダーに従うような組織にならざるを得ない」と書いています。そして、「木の花ファミリーはリーダーが間違え、組織全体がおかしくなった」と結論づけます。ですが、共同生活にリーダーが必要な根拠はどこにも示されていません。そして、木の花ファミリーで起きた出来事を具体的に検証することもしていないのです。もし出来事の背景、そして、そこに至る流れを検証する姿勢があれば、全く違う景色が見えるはずなのです。

検証をせずに暴力やマインドコントロールという物語を真に受け、それを広げていく。

そこに片山氏の人間性が現れています。

私たちは、そのような片山氏の姿勢を受けて、プロバイダーにサイトの削除申請を行いました。それは真実を明らかにするための取り組みです。

NIFTYへの削除申請


私たちはプロバイダー責任法に則り、NIFTYに対して削除申請をしましたが、郵送した2日後には「通知書」が返送されました。「通知書」には「貴依頼書の記載内容からは、貴殿の権利が不当に侵害されていると信じるに足りる相当の理由があると判断できない」と書かれ、NIFTYがサイトに削除には応じることはありませんでした。
2日後に通知書が返送されてくる速さからすると、NIFTYは片山氏に削除申請について照会を掛けることもしていないと思われます。つまり削除申請の内容について吟味をしていないのです。そこに顧客からの利益を優先するNIFTYの姿勢が伺えます。その姿勢が社会に何をもたらしているかをNIFTYには問いたいです。

Hatenaへの削除申請


HatenaNIFTYとは違い、片山氏へ削除申請についての照会を掛けました。
ですが、片山氏は週刊文春の存在を根拠とし、記事の削除を断りました。その際、以下のページの文章を引用し、私たちが週刊文春の記事を事実と認めていると結論づけています。

「私たちも望んでいない不幸なことが起きたことは、外部の人たちからご指摘を受けるまでもなく、私たち自身が大切にすべきこととして学び、今後同様のことが起きることのないことを確認し合いました。そのことを改めてここに宣言します。」
      (「木の花ファミリーの総意として 〜「週刊文春」への掲載を受けて」より)

ですが、私たちは週刊文春の記述について事実と認めたことはありません。週刊文春の記事により、インターネット上にてバッシングが広がり、私たちを支援して下さっている方々に心配や迷惑を掛けることになりました。そのことを不幸なことと表現し、同様のことが起こらないように努めているのです。上記のページ全部を読めば、そのことは理解できるようになっているのですが、一部分のみを取り上げるところに片山氏の作為を感じます。

このことをHatenaに伝えたのですが、Hatenaが取り合うことはありませんでした。「照会を再び掛けることは、発信者に削除を強いることに繋がる」という理由です。そして、このブログも削除されずに今に至っています。片山氏の作為についてはそのままです。
Hatenaの対応にも形式的なものを感じました。

加えて、片山氏が普段から週刊文春の記事を信頼しているのかどうかも疑問です。なぜなら週刊文春の記事を名誉毀損で訴える事例が多々あるからです。非暴力を掲げる片山氏ならば、人を傷つけている週刊文春の記事は批判の対象なのではないかと思います。ここにも片山氏の作為を感じます。

ちなみにマツコ・デラックス氏も週刊文春の報道姿勢を疑問視し、以下のように述べています。(【マツコ・デラックスが週刊文春の報道姿勢を疑問視「抹殺したいのかな」】)

(現在のインターネット社会では、週刊誌で報じたことが、週刊誌だけでおさまらず、インターネット上で)「世論が形成されてしまって、ひとりの人生をボロボロにすることが簡単にできてしまう」

「唯一、週刊誌が攻撃できるメディアだった時代と、同じ論調でやっちゃっていいのかなと思う」「ネットを含めた世論の形成のされかたを見てると恐怖は感じるよね」

片山氏、そしてHatenaこのような言葉に耳を傾ける必要があるのではないかと思います。

真実を明らかにする


この記事の目的はあくまで真実を明らかにし、人々や社会を解放し、未来への希望へと繋げていくことにあります。そのために人間は自身の闇と向き合う必要があるのです。これをきっかけに一人一人が自分自身との対話が始め、それが他者との対話へと繋がり、豊かな世界が実現することを願っています。


木の花ファミリーのみんな@マヤの式典(2016年7月26日)


ヒーローを求める心

ガンジーやキング牧師などのヒーロー


マハトマ・ガンジーの非暴力運動は、インドにイギリスからの独立をもたらしましたが、
独立運動のさなかヒンドゥー教徒とイスラム教徒との対立は激化していきました。
その結果、イスラム教徒の地域は今、パキスタン、バングラディッシュとして分離独立しています。
そして、ガンジー自身はヒンドゥー原理主義者の凶弾に倒れています。

キング牧師の演説『私には夢がある(I have a dream)』は多くの人々に感動をもたらし、
公民権法制定に繋がりましたが、アメリカから人種差別は未だなくなっていません。

この7月、白人警察官による黒人の射殺事件が起き、それが黒人のデモに繋がり、
黒人による白人警察官の射殺事件にまで及んでいます。

ガンジーもキング牧師も偉大な人であり、平和を訴え、世界に大きな影響を与えました。
ですが、争いは絶えることなく現在も続いています。

ガンジーもキング牧師も時代が生み出したヒーローであり、
その背後には人々のヒーローを求める心があります。

多くの人がヒーローを求めています。

今、社会は大きく混乱し、地球環境の破壊も進んでいます。
そんな中、立派な指導者を求める気持ちが人々の中に生まれます。

ですが、ヒーローが存在するためには悪者が必要となります。
ヒーローと悪者はセットとなり、
人々のヒーローを求める気持ちがそのまま悪者を生み出し続けるのです。

これからどんなに偉大な人が現れ、人々を導いたとしても、
人々の中にヒーローを求める気持ちがある限り、真の平和が訪れることはないのです。

そして、時代もそのことを人類に教えようとしています。

今、世界を見渡しても、未来を託せる指導者は見当たりません。
アメリカ大統領候補のトランプ氏などは託すどころか人々の不安を増幅させています。

日本に目を移すと、7月10日行われた参議院選挙では、
三宅洋平さんの選挙フェスは多くの人々を惹きつけ、大きな話題となりました。
ですが、三宅洋平さんは当選することはありませんでした。
当選すれば、多くの人の期待を背負う存在(ヒーロー)となったかと思うのですが、
結果、当選には至りませんでした。

これらの出来事は、これからの未来を切り開くのは一人の英雄ではなく、
一人一人の人間の目覚めだということを示しているのです。

ヒーローを求める心がある限り、人々は悪者を同時に生み出します。
そして、争いは生まれ続けます。

この状況を変えていくためには、一人一人が自分自身の心と向き合う必要があります。
そして、自分自身を知り、自分の人格にメスを入れていくのです。
その時、人々の心の中にある不調和な種が摘み取られ、真の平和が生まれるのです。

それは一人一人が主役になるということも意味します。
みんなが主役なので、この世界にはヒーローは存在しなくなるのです。

自分の取り組み


木の花ファミリーの暮らしは時代の先駆けとして存在し、
一人一人が自分の人格にメスを入れることによって成り立っています。

ですが、まだまだ途上にあります。

木の花ファミリーでは毎晩大人ミーティングを行っていますが、
創設メンバーのいさどんはミーティングに来たり来なかったりしています。

そして、最近自覚したのですが、
僕の心はいさどんがミーティングに来るとスイッチがONとなり、
いさどんがいないとOFFになるのです。
これはいさどんの頼っている心の現れであり、主体性がありません。
その姿勢は日常生活にも繋がります。

いさどんはみんなの日常生活についてこんなふうに語ってくれたことがあります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕が行くことで緊張するとかそういうことではなくて、
多くの人は自分のやっていることが見えていないのです。
そこに僕が行くことによって、見えていなかったことが明らかになるのです。
つまり、それまではOKにしていたことが、よく見ることによってOKではなくなるのです。
こういう人は普段から失敗をしているのです。

多くの人は自らの欲望のままにそれに翻弄されて生きています。
これは意識が自分にばかり向いている状態です。
この状態では心からの気づきは生まれず、失敗も見えないのです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

自分の欲望に翻弄されている状態。それはスイッチがOFFの状態です。
スイッチがOFFのため、意識が自分にばかり向き、失敗も気にせず暮らすようになります。

スイッチをOFFにして暮らすことにより、問題(悪者)を生み出します。
そして、それを正してくれるいさどんをヒーローに持ち上げることになるのです。

これは無自覚に僕らが生み出している世界ですが、
こんな世界をいさどんは決して望んでいません。

多くの時間を、スイッチをONにして過ごすことが大切です。
そうするとで、自発的に生きて自分が主役になっていきます。
その時、いさどんがヒーローでいる必要はなくなり、
みんなが助け合い活かしあう暮らしとなっていくのでしょう。

そしてそれこそが未来の人類のモデルの暮らし。
そんな未来に向けて、僕は自発的に生きていきます(^-^)


今年から始めた木の花ファミリーの蓮池。いさどんが管理してくれています。




全体の流れの中に自分の想いを位置付ける

自分の思考や行動が周りに何をもたらしているのか?
自分の存在が周りやこの世界に何をもたらしているのか?
この世界の中で自分はどのような位置をしめているのか?

こんなふうに思っている時と、

「自分」はちゃんと行動出来ているのだろうか?
「自分」は相手に気に入られているのだろうか?

こんなふうに思っている時と。

ぼーとしていると後者のように思っている時間が増えて、
それが受け身の姿勢となって現れます。

だから意識して自分を全体の中に位置づけて考える癖をつけていくのです。

全体の流れの中に自分の想い、自分の存在を位置付ける。
好き嫌いや損得感情を超えて。
ただ客観的に位置づける。

そんな姿勢でいる時、自分の中に自発的な想いが湧いてきます。

世界中で約70憶の人々がそれぞれの想いを抱えて生きています。
みんな思い思いに表現し、もしくは抑圧して生きています。
多くの人が全体の流れは意識せずに、自我に翻弄されて。

今、想いは不協和音となり、世界が混乱の極みにあります。
それは自我に翻弄されて生きる人々の総和の姿です。

時代の流れと共に世界は常に変化し続けています。
それを意識し、自分の想いをその流れの中に位置づけます。

そして、全体と呼吸を合わせて、相応しいタイミングで表現をし、対話をしていく。

その時、自分の想いは全体の流れの中で、みんなの中で満たされていきます。
それはいつも自分の想像をはるかに超える出来事。

全体の中に自分を位置付けることで、そんな未知の世界が開かれていくのです。

そして、多くの人がこんな姿勢で暮らすようになった時、
この世界には美しい想いのハーモニーが響き渡ることでしょう。

そんな未来に向けて。

僕はこれからより自発的に生きていきます(^-^)

ミセス・ローカム(蓮の花)を鑑賞中。

ミセス・ローカム(蓮の花)です。


みんな自我の幻想の中で暮らしている。

僕のブログ「ただ湧いてきたものを表現していく」について、いさどんとようこちゃんは以下のような会話を交わしたそうです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

いさどん:

人柄にメスを入れることは難しい。でもそれは、人柄を変えるわけではなく、さわやかに生きるということなのに、人柄を変えてしまおうと思ったら無理がくる。人柄は個性だから活かさないといけない。

ようこ:

たとえば、今回のなかのんのブログに表現されているのは、あくまでもなかのんでしょ?でも、魂がこもっていたね。

いさどん:

この人は柱が立ってきて、物事が観えてきたということが感じ取れる。

ようこ:

それはやはり、なかのんがいさどんに伝えられたことを受けて、人柄にメスを入れているからだね。

いさどん:

今までなかのんのブログを読むと、そこにはアピールがあって、僕に言われたことも自分で考えたように書いていたようなところがあった。ところが今回は、いさどんがこう言いました、ということが素直に載っている。

☆彡 ☆彡 ☆彡

これを聴いて、思い返してみると、確かに僕はいさどんに言われ、
それにより理解したことを自分で考えたように書いたことがありました。

理解したことを自分の考えにしていく。

それは成長に繋がる大切なプロセスですが、
自分で考えたように書くことは正確な表現ではありません。
それは自分を高く見せる行為であり、
評価を求めるためにいさどんの知恵を利用したとも言えます。

その行為の奥にはアピールの心があり、アピールの心が正確ではない表現に繋がります。
そこで語られる言葉には魂(本当の自分・実態)がこもることはありません。

ここで今の社会を見てみます。

すると、アピールのために語られ、魂(実態)が抜け落ちた言葉が溢れていることを感じます。

例えば、安倍政権は2012年の三党合意で定められた消費税増税を先送りにしています。それは世論の機嫌を取るためのアピールであり、民進党も同調し、合意の重みはすでに失われています。

安倍政権は、2020年度の基礎的財政収支の黒字化や名目GDP600兆円の達成なども目標として掲げていますが、とても実現するようには思えません。ですが、これらは多くの人にとっても都合がよい目標となっています。なので、そのまま流されていき、言葉からは完全に魂(実態)が抜け落ちていきます。

そして、今回の参議院選挙で東京選挙区から出馬した三宅洋平さん。
彼の言葉はとてもかっこよくて、多くの人を惹きつけます。
ですが、多くの人々の日常には、そこで語られたことは反映されません。
三宅さんの言葉は人々に高揚感をもたらしますが、それだけとも言えます。
そこに魂(実態)を感じることは出来ません。
※こんなふうに書いている僕も3年前は三宅さんの言葉に心が震えていたのですが・・・

歴史を振り返れば、多くの人々を惹きつける演説は多々あります。
それにより人々は夢を描きましたが、世界は変わらず、争いを続いています。
夢を描き、社会運動をしたとしても、多くの人は自分の人格にメスをいれることはありません。
世界の争いの種はひとり一人の心の中にあります。
それがそのまま残されているため、どんなに熱心に社会運動をしても、
争いがなくなることはないのです。

こんなふうに見ていくと、みんな自我の幻想の中で暮らしていることが分かります。
自分の実態を見ずに、人格をそのままにし、幻想の中で一喜一憂しているのです。

自我は人を惹きつけることを望みます。
そのため実態を無視し、頭で思い描いたことを語り続けるのです。
自我による幻想でいっぱいになっていると自分が実態を無視していることにも気づきません。
そして上手に語れる人が評価を得て、それが利益に繋がり、社会を動かしていくのです。

そんなふうに成り立っている現代社会はまさにバーチャルな世界。
そのバーチャルな世界の奥で、実態(実体)が行き詰まりを迎えているのです。
自然災害やテロリズムはその表れとなっています。

そしてまたあらためて昨日の自分を振り返ります。
すると自我の考え(思惑)により魂(実態)の声を無視する瞬間が何度もありました。
それはまだまだ自我の幻想に囚われている証であり、全体性の欠如です。

自我にメスを入れ、そぎ落とすことによって見えてくる自分自身の実態。
それはどんなに未熟であっても宇宙と一つであり、天と繋がっています。
だから、そこから湧いてくる言葉は常に天からの言葉なのです。

自分の実態の未熟さは天の未熟さであり、それを表現し学ぶことで、天と共に成長していく。

それがこの世界に生を受けている意味であり、だからこそ自分自身の自我にメスをいれ、
自我の幻想から自由になる必要があります。その時、見えてくる自分の実態がどんなに醜いものであったとしても、それは天からのギフトであり、この宇宙の根源に至る鍵なのです。

これは希望の話なのです。

僕の実態はどこまでも成長していきます。
そして、それに応じて現実がどのように変化するかは未知数です。
それは僕の想像をはるかに超えたもの。

ただ間違えないのは、その先にすべての存在が調和した真の平和が訪れるということです。

昨日(7月15日)の朝の蓮の花です。

今朝(7月16日)の蓮の花です。


ただ湧いてきたものを表現していく

松岡正剛さんは千夜千冊1604夜『勝手に選別される世界』の中で、「評判の社会」から「評価の社会」へと変わっていくことが大切だと述べています。以下、松岡さんの文章を引用します。

☆彡 ☆彡 ☆彡


むろん評判がいいのは悪いことじゃない。視聴率がいいのもベストセラーが出るのも結構だ。けれども21世紀の現在社会はついつい「評判の社会」になりすぎてきた。芸能界を筆頭に、評判で人気とりをするポビュリズムは政治家たちを含めてずっと以前からあったけれど、アクセス数に溺れまくるネット社会になって、その傾向が極端に増大した。増大しただけではなく、それが止まらなくなった。

   ~ 中略 ~

われわれが望むべきは評判ではない。今後の社会に示されていくべきは評判のランキングではない。ましてその集計結果ではない。「評価」(evaluation)の内実であるべきである。「いいね」のヒット数などではなく、「いい」をめぐる対話を交わすことなのだ。


だから「評判の社会」から「評価の社会」へであり、「レピュテーションからエヴァリエーションへ」なのだ。「レピュ」から「エヴァ」へ。これがぼくの注文なのだ。

☆彡 ☆彡 ☆彡

そして、テレビ番組の中で、橋本徹さんは政治について以下のような発言をしたと聞きました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

政治というのは多くの人から賛同を得ることが大切で、それが社会を動かしていきます。
内容は重要ではないのです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

7月10日、参議院選挙が行われましたが、その結果はまさに「評判の社会」の現れのように感じました。今、どの政党も決定的な政策を描くことは出来ていません。そんな中、政策の内容ではなく、知名度や評判が人々の投票先に大きな影響を与えていくのだと思います。そして、そこには人々の損得感情も絡んでいきます。

作りだされる評判と人々の損得勘定。

それにより政治家が生まれ、社会も動いていくのです。

今、多くの人が「うけ」を狙います。
「うけ」が評判を生み出し、評判が経済的利益を生み出すからです。
人々に「うけ」、経済的利益が生まれれば、内容はどうでもよいのです。

こんなふうに実態の伴わない言葉やイメージが溢れていく。
それが現代社会の特徴で、実態は大きな行き詰まりを迎えているのです。

この世界の実態は置き去りにされたままになっています。

話しは変わって、昨日、僕はいさどんから以下の言葉を貰いました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

なかのんがミーティングなどで話しをする時、まだアピールの心を感じる。
アピールする心は自我であり、濁り。
そうではなくただ湧いてきたものを表現していけばいい。

☆彡 ☆彡 ☆彡

なぜアピールをするのかと言ったら、その理由は評価を得たいからです。
そして、それは結果を気にする気持ちとなって現れます。

結果を気にすると心が濁ります。
発言する内容は純粋に湧き出たものではなくなります。
結果、真の評価を得ることは出来ません。

自我が自我を満たすために発言をしていく。

それは浅い人々の間では評判を生み出すこともあります。
同調する人がいれば、満たされていくこともあるでしょう。
ですが、これは変化のない貧しい世界です。

結果を思い描き、思い通りにしようとする。

それは自我の働きであり、実態から離れたイメージの世界です。
このような中では置き去りにされた実態は育っていきません。

まずは自我の幻想を離れ、自分自身の実態を掴む必要があります。

自分自身の実態を掴んだ時、自我の奥から湧き上がってくるものがあります。
それをただ表現していくのです。

思い通りにしようとするのではなく、ただ表現をするのです。
そして、その表現がこの世界と自分に何をもたらすのかを見ていきます。

世界の中で、大いなる流れを意識し、自身の想いを通して人と対話をしていく。
そうすることで予測を超えた新しいものが生み出されていきます。

このような経験が積み重なり、実態が変化していきます。
実態の変化とはつまり人間性の向上であり、
一人ひとりの人間性の向上だけが今の社会の生き詰まりを突破できるのです。

だから僕はただただ人間性を向上させていきます(^-^)

そして、そんなふうに生きていきたい人には以下のイベントがお勧めです。

7月16日~18日 第10回大人サミット 地球会議 in 木の花ファミリー

共に語り合う中で、自我を離れ、人間性を向上させていきましょう♪

第9回大人サミットより

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