混沌とした泥の中から美しい蓮が生まれる

一昨日、1月23日は「ひふみ」の日。「ひふみ」という言葉から僕は天が意図した「ひふみの法則」という言葉を思い出します。以下、それを説明している文章を引用します。これは2016年6月21日、銀河の夜明けから本格的な光の時代へと切り替わる「トキ」に合わせて掲載されたものです。

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かつて、「死」さえも天が統治して導いてくれているということを感謝と共に受け入れていた時代がありました。身体を持った「生」の時間と、身体から離れた「死」という時間を、行ったり来たりすることは、"悠久の宇宙時間"の中に在る魂にとっては何も怖いことではなかったのです。

しかし、「生」にあった時、「出逢った大切な人・時間と共にいつまでも在りたい」という当たり前の欲求によって、"宇宙時間"から自分達のための"人間(物質)時間"への執着が生まれたといいます。


やがて"人間時間"の中でのサバイバルを目的とした「男性性」が暴走を始めます。自分たちのやり方で、競争・支配(コントロール)の価値観に基づき、自分たちのルールと科学に傾倒していくうちに、いつしか私たちは天(宇宙に委ねていく在り方)から離れました。


『天から離れたということは、内宇宙と外宇宙が分離し共振性が損なわれたということ。』


私たちの身体の中に存在する内宇宙。それは微生物たちも含めた世界であり各々の心の周波数が創り出す世界です。その内宇宙と、地球と同期する外の微生物たちが創り出す世界(外宇宙)は、本来は統合していて共に響き合っていました。


宇宙には天が意図した「ひふみの法則」というものがあります。
無意識に統合の時代を生きていた時代(ひふみの「ひ」=源)から、我々は「個」の体験を重ねるという分離の時代(ひふみの「ふ」=分離)を過ごしてきました。そして、今、まさに私たちは「生」の本来の目的を想い出そうとしているのです。(ひふみの「み」=意識をもって統合の時代を生きていく)。


『全ての生命(いのち)が響きあう場所で天に導かれて愛を生きる。』


競争やエゴ、自分(たち)さえ良ければ、今さえ良ければ、という世界ではなく、皆がひとつの真実の方向に向かって響き合う、「大いなる循環」の中で自らの輝きを活かしていく時代の到来。統合の時代へとシフトする今このとき、宇宙時間の中で、自分の輝きを、自分の中心で、真の女性性を取り戻しながら神の子として蘇る。天と自分の魂との約束を果たす時が今まさにやって来たのです。


自分自身を籠の中に閉じ込めているのは、「自分のやり方こそがベストだ」と信じ込んでいる自分自身なのです。その観念を一旦天へと戻して、認めたくない自分やもう二度と感じたくはない感情と再び出逢い、向き合い、その奥に在る、分離の時代には成しえなかった


『自分の中にある本当の想いや愛と繋がりなおす。』


そういうチャレンジを体験することが、閉じ込めた籠の中から輝ける自分自身を解き放つことにつながっているのです。


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ここ最近、木の花ファミリーではいさどんからメンバーに向けて死生観プレゼンが行われていますが、そこで確認されていることはこの文章で表現されていることとほぼ同じで、今僕たちに必要なのは、皆がひとつの真実の方向に向かって響き合う、「大いなる循環」の中で自らの輝きを活かしていくことなのだと思います。そのために必要なことは、認めたくない自分やもう二度と感じたくはない感情と再び出逢い、向き合い、その奥に在る、分離の時代には成しえなかった『自分の中にある本当の想いや愛と繋がりなおす』ことなのです。それは「死」を含めて全てを受け入れる姿勢であり、問題に出会った時、それをなくそうとするのではなく、問題を通して自分を知り高まっていく生き方といえます。そんな生き方についていさどんは以下のように語っています。

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地球温暖化や経済格差、紛争、難民、国々や民族の対立・・・・現代社会は混沌としています。混沌の中、その解決策を求める気持ちになるかもしれませんが、そこには人生の深みがありません。

問題が生じている時、問題のないところにいって、みんなで幸せになろうとする。それは良いことに聴こえるかもしれませんが、とても薄っぺらな話しです。みんなで幸せになろうとする時、幸せになるべき人間性があって初めて幸せになるのではないでしょうか?人間性が高まらない状態で幸せを求めることが社会に何をもたらすのか?そのことに想いを巡らせてみて下さい。

問題がある時、ただ解決策だけを求める。

それは新しい発想だけ貰って楽になろうとしている姿勢です。その姿勢が人々を現実から引き離し停滞を生み出しているのではないでしょうか?そこからは結局新しい発想も生まれないのです。

新しい発想は自分を放棄した時初めて生まれるものです。

この世界には法則性があります。常にそれと対話していくこと。それが天と共に生きるということです。

問題ごとに出会った時、ただそれを改善しようとしていく。それは人間の知恵の中で良い生活を送ろうという心に繋がり、その結果、天は離れていき、停滞が生まれます。

美しい蓮池を生み出しているのは水中で混沌としている泥の存在です。表面に浮かぶ現象を生み出している奥の世界。それを知り生かすことで人生は深まり花開いていくのです。

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過去から未来へ繋がる魂の変遷の途上に今があり、生きていることの奥には死の世界、魂の世界がありそちらが土台であり本質です。ですが、現代では「死」は忌み嫌われる存在となっています。人々は自らの土台を忌み嫌っているのです。それは鬼についても同様です。もうすぐ節分ですが、節分では通常「鬼は外、福は内」と言います。そのように人々は鬼を忌み嫌っていますが、鬼は本来、人々に道理を伝える存在、鬼が云うで魂となるように、それは世界の土台を司っているのです。

人は自らの都合を追い求め、都合に合わないものを忌み嫌ってきました。その結果出来上がったのが、それぞれの損得で繋がったり離れたりする表面的な世界です。多くの人が一生懸命に生きていますが、都合の悪いもの、死や鬼を忌み嫌っているため、魂が抜けてしまっているのです。

土台である魂を取り戻すためには都合の悪いこと、問題と向き合っていく必要があります。魂を入れる。それは自分と向き合う姿勢のことです。

美しい蓮池を生み出しているのは水中で混沌としている泥の存在です。表面に浮かぶ現象を生み出している奥の世界。それを知り生かすことで人生は深まり花開いていくのです。

このいさどんの言葉を心に置いて、世界や自分の混沌に向き合い、花を咲かせていこうと思っています。

未完を生きる

昨晩、いさどんからメンバーに対して死生観のプレゼンが行われました。このプレゼンは1ヶ月間の真学校で受講生に対して提供されるものですが、その大切さをみんなで共有する時間となりました。プレゼンを聴きながら、そういえば木の花憲章にも死生観という項目を入れる予定だったんだよなと思い出しました。

2011年の4月から5月に掛けて、木の花憲章死生観の文章を作成するために、いさどんからメンバーに向けて3回に分けて話がされました。以下、その時のテープ起こしの一部を転記します。

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我々は、今、生きているから次の来るのは死だと思っているけれども、我々が今ここにいるステージは一時的なことかもしれない。肉体と魂に分類して、肉体と魂がセットになっている状態を「生きている状態」と呼ぶと、死というのは、肉体と魂が分かれ、肉体が宇宙の原料、3次元宇宙の中に戻っていく。そして、魂は4次元、5次元、6次元の異次元宇宙に還っていくことです。こう捉えると、肉体はなくなるわけではなく、その一つの生命の構造、人間や動物、植物といった一時の姿の終わりに過ぎず、常にそれは変わり続けるもの、それが3次元生命の姿です。それに対して、3次元生命を生命として束ねているものが、魂、霊性です。魂と肉体が分離した時に、我々はそれを死と呼ぶが、その死は終わりであると同時に始まりでもあります。肉体の方は1人の人間を束ねるのを止めて、自然界へ解き放たれます。原子単位でこの世界に散らばっていきます。それに対して、魂は相変わらず、その魂としてあり続けます。

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我々の今存在しているこの状態、これは今この肉体を形成していますが、これは光の変化したものであり、土の変化したもの。水の変化したもの、空気の変化したもの、風、空間の変化したものでもあります。そうしたものがこれを形成しているわけですが、宇宙には何か他から供給されることはありません。あってあるものが変化している状態です。あってあるものが変化し続けるものだから、その変化のところに現在という現象が現れているものは、あってあるものであるけれども、特定することが出来ません。瞬間瞬間に変化するものだから、なきてなきものなのです。それがこの世界の実態です。そして、人間はその中でいのちの表現を与えられていきているのです。

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生命は動くものです。それは他者から自分へ自分から他者へと動きます。それを繋いでいるのが、自分ですよね。(前世、現世、来世の自分、祖先、自分、子孫を繋げると鎖になる絵を描く)鎖はどれも1個ずつが他者を繋げる関係になっていて、そこを繋げて流れていきます。命が流れていきます。それで、流れるということは循環するということです。巡り巡って変化してぐるぐる廻ります。減りもせず、増えもせず、同じところをぐるぐる廻るということです。それで、循環して巡るということは動き続けているということです。動いている状態を繋げる1個の「輪っか」が自分です。人が動くのだから、人偏に動くと書いて「働く」になります。「はたをらくにする」と言います。手前のものも自分も「はたをらくにする」ために繋げて、その隣のものも「はたをらくにする」ために繋げます。そこには、自分のためというものはありません。すべては「はたをらくにする」ためであって、自分のためというのはないのです。そういう構造になっています。

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自分がないということは魂を磨くということです。その自分がない生命の中で、汚れがあるものは自分のために動きます。「はたをらくにする」ために動くのではなく、自分のために動きます。「はたをらくにする」ためにというのは、要するに、生命の循環を健全にして他者に繋げるためのものだから、汚れていてはそれが出来ません。「はたのため」にはなりません。だから魂を磨くということです。


綾ちゃんのノート(2011年いさどん死生観の話)。

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こんな話がされましたが、結局、死生観の文章は作られず、木の花憲章は未完となっています。いつか完成させる必要がある。そんなふうに心のどこかで思っていたのですが、死生観プレゼンを聴いていて未完であることが相応しいのだと思いました。なぜなら宇宙自体が常に変化変容を繰り返す未完の状態にあり、その循環の一部を担うのが人間の生きる目的だからです。それは働くことで、傍(はた)を楽(らく)にすることであり、そのために魂を磨き自分をなくしていくのです。憲章が未完であることは、特定をしないということ、瞬間瞬間に変化していく生命の本質を生きる意志の表れとなります。

もうすぐ富士浅間木の花祭りです。祭りでは生まれ清まり舞い踊りみんなで空っぽになって一つになっていきます。そしてこれは未来へと続いていく未完のお祭りです。

未完を生きる

それは自分で自分を完結せずに他者へと繋いでいくことも意味します。無限に連なる他者へと繋がっていく。そんなふうに生きていこうと思いました。






正直に誠実に自分の役割をこなす

人と自然が共にある生き方を学びたい、と、お母さんと一緒に木の花ファミリーにやってきた台湾人のビリーさん。シルク・ド・ソレイユのダンサーでもある彼は、昨夜、富士浅間木の花祭りのために用意された和太鼓を使って見事に舞い踊り、まるで祭り前の「神寄せ」がなされたかのようでした。
今日の午前中はヨガ教室を開き、午後はリゾットを作ってみんなに振る舞い、夜は木の花祭りのハイライトである「四ツ舞」の稽古に参加してみんなで大盛り上がり。稽古後に、こんな感想を教えてくれました。
  
「僕はダンサーとして世界中の様々なダンスを見てきたけれど、コミュニティのダンスほど大切で、素晴らしいものを見たことがない。これはダンスを超えるもの。
木の花祭りでは、世界中の水が集まって釜の中でひとつになることで、エネルギーが大きくなっていく。同じように、その周りを舞い踊る人々も、みんなで舞い踊って、エネルギーがどんどん大きくなっていく。踊りに参加していないおばあさん達も、心は参加していて、この場を支えている。音楽からも、おばあさん達からも、そのエネルギーを感じた。
今、世界の人々は、まるで水がいっぱいに入ったコップのよう。自分のコップがいっぱいで、もうそれ以上入る余地がない。僕が木の花ファミリーで学んだことは、みんながからっぽになっていくこと。からっぽだから、ここには世界が入ってくる。」
 
祭りまであと10日。ビリーさんとお母さんは明日の夜明け前に台湾へと旅立ちますが、きっと祭りの日も、心は共に舞い踊っていることでしょう。(ともこ)


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上記は先日木の花ファミリーを訪問して下さった台湾人のビリーさんとの交流を描いたものですが、このようなお客様にも恵まれ、今、木の花ファミリーでは全体が富士浅間木の花祭りへ向けて軽やかに大事な暮らしを営んでいます。

そんな中、僕は木の花ファミリーを批判する人々の言葉と向き合い、体調も崩し、重たい気持ちで過ごしていました。特に背中と胸の痛みはひどく、歩くだけでも振動が響き、痛みで眠れない日もあり、祭りで舞うことが出来ないのでは?という不安がよぎり、全体の流れと自分の違いを強く感じ「いけない」と思い苦しんでいました。そういう自分と向き合いながらブログを綴り少しずつ軽さを取り戻していって、そして「何ももらっていなくても」という言葉、そして記事へと繋がり、僕はこの記事を大人ミーティングでシェアしました。みんなにシェアしたのはこの記事が大事な話だというフィードバックを貰ったからなのですが、重たい気持ちを出発点として生まれたこの記事が軽やかな全体の中で大事な話として共有されたことに不思議な感覚を持ちました。なにせ記事を書いた時は、あくまで自分と向き合う中で出て来た言葉であり、全体の流れには沿っていないと感じていたのです。それが全体に大事な話として共有され、そして不思議とあれだけ痛かった背中と胸の痛みがなくなりました。

これで祭りで舞うことが出来る!

それもみんなと同じ気持ち、そして軽やかさで。それが確信となりました。

僕にとってこの経験はとても大きなものとなりました。自分が全体の流れと違うと感じていたのですが、僕は好き好んで木の花を批判する人々の言葉に向き合っていたのではありません。役割としてこの時期に一度しっかりと向き合っておく必要があると思いそうしたのです。ですがそれが全体の流れと違っているように感じて苦しくなりました。でも、そうではないのです。流れはもっと多層的になっていて、メインとなる流れだけでなく常に潜在している流れがいくつもあって、きっとそれがこの世界に厚みと彩りを与えてくれているのです。重たい気持ちが軽やかな全体の中で生かされていくこともあれば、今現在、次の流れとして潜在している流れもありそれも大切なものと言えます。だから正直に誠実に自分の役割をこなしていくだけなのです。それが目に見える目立った流れとは違っているように感じても、全体性を意識していれば、きっといつかどこかでそれは生かされていきます。目に見える全体の流れと違うと感じると落ち込んだり、被害的になったり、ふて腐れたりする気持ちも生じますが、こういう気持ちが本来生かされるはずのものを殺してしまうのです。そのことを強く感じました。

ところで、富士浅間木の花祭りは地球の神様である国之常立神(クニノトコタチ)の復活を描いたお祭りですが、かつていさどんは国之常立神について以下のように語っています。

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インテグラル・ヨーガの創始者でもあったオーロビンドのアシュラムに行った時のこと。いさどんは初めて、オーロビンドの魂を感じました。
その魂はいさどんの視線を誘導し、そこにある様々なものに目を向けさせました。植物の葉っぱ、大理石の柱、壁の傷。その視線と共に、いさどんの指も、その一つひとつを指さしていました。そしてひとつ指さすごとに、「そこに私はいる」「そこにも私はいる」「どこにでも私はいる」という言葉が降りてくるのです。それは全てに遍満している存在なのだ、といさどんが思うと、「全てに遍満しているということは、無である」という言葉が降りてきました。全てに遍満しているということは、全てが自分であり、自分(自我の特定)はないということ。その時にいさどんは、これは地球の魂ではないかと直感しました。シュリ・オーロビンドの魂は、地球神・国之常立大神、つまり艮の金神の魂なのです。
オーロビンドの魂は言いました。「私を知っているであろう。今まであなたは私と一緒にいた。その私にあなたは会いに来た。」そこでいさどんは尋ねました。「あなたは私の中においでになりますね?」オーロビンドは答えました。「私は、あなたの内にも外にも、どこにもいる。




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艮の金神、国之常立神の復活は、世の中のひっくり返しを意味し、それは立脚点の転換でもあります。自分の側から世界を見て、自分の価値観で世界を評価してきたのが今までだとしたら、これからは世界の側から自分を見て自分を正していくのです。世界というみんなが共通する地点に立って学びを共有し一つになっていきます。

その世界とは?

地球神・国之常立神は「私は、あなたの内にも外にも、どこにもいる」「全てに遍満しているということは、無である」と言います。それはどこにも固定されないものです。だから世界という視点も固定をしてしまったら、それは気づかぬうちに自我の視点となっていくのです。

例えば最近の僕には、富士浅間木の花祭りに向けて軽やかに進む世界が見えていました。そしてそれにそぐわない自分を感じていました。ですが、それは表面的な見方であり、その奥には様々な流れがあってそのすべてが全体を生み出しています。

軽やかな世界とそれにそぐわない自分。

その視点は「そぐわない自分」を際立たせるものともいえ、それに固定してしまったら、そぐわないものとしての自分が強化されていくのです。それは世界から自らを分け際立たせる自我の動きです。

世界の側から自分を見る。

その世界とは無限に広がり変化変容を繰り返すもので自分の視点で捉えきれるものではありません。だから固定せずに常に変遷として見ていく必要があるのです。そして、与えられた役割をこなしながら「内にも外にも、どこにもいる」国之常立神の視点へと想いを馳せ自分をからっぽにしていこうと思っています。その先にあるのは、生まれ清まり舞い踊るうれしたのしの世の中です(^ー^)


ビリーと木の花ファミリーのみんな(ヨガ教室後)







何ももらっていなくても

昨日の朝起きた時、「何ももらっていなくても」という言葉が浮かんできました。この言葉は僕の中で、2年前の2月にいさどんが語った言葉と結びついています。それはこんな言葉です。

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生きていることが天の意志であり、計らいであるとしたら、ある程度地上を生きる者の事情も加味して計らってもらわないと、天の計らいを意識して生きる者にとっては、生きることが人によっては辛いことばかりになってしまうことがある。そして、歩みが遅れる。だからこそ、少しは天に向かってありがたいと思えるように、その計らいを感じられるようにしていただかないと、と思っていた。そうしたら、それに対する答えが降りてきた。

天に計らいをしていただかないといけない、という自分の心の中に、困ったことが起きたという、ある意味緊張と言うのか、心の筋肉が張っている状態があった。そうしたら、ふぁーっと、それに対する回答が返ってきた。それを何と表現したらいいのだろう・・・・水鉄砲からぴゅーっと水が発射されたような感じのものが何本も降りてきて、それは霧のようなものだけど水ではなく、虹のようでもあって、光でもない。それはいったい何だろうと探っていくと ――――― 響き。

カタカムナでいう潜象界から「カ」がヒフミヨイと進み、マワリテメクルで現象化の自転公転の動きが起き、そしてムナヤコトでアマ界に至り現象化してみこと(命)になって出て来るでしょう。アマ界から現象化して出てくる時に、最初は響きとして出て来る。その響きが、現象界の水のようにちりちりちり・・・と破線のような感じで、いくつもいくつも平行にしゅーっと降りて来る。そういう景色が、返事として返ってきた。

それで、わかったぞ、と思った。そして今、それを伝えようと思い、その前段となる自分が天に向けた想いを語り始めた。配慮をしていただかないと、ことが起きることばかりを受けていては、人間は道を信じていただくことを忘れがちになります。それは困ったことが起きましたという感じで心の筋肉が緊張している状態であり、そういうふうになると道が遅れます、と。僕がそう意識を向けたことに対して、ちりちりちり・・・といくつも降りてきたものは、その緊張をふーっと取ってくれた。

緊張をふーっと取られて、その瞬間に「回答が返ってきた」と思った。ところが、こちらが天に向けた想いを説明して、さてその回答を言葉にして語ろうと思ったら、言葉は何も出てこない。ただ緊張だけを取ってくれた。

それをあえて言葉にするならば ―――――
最初に思っていたのは、「私は天の意志をいただいて生きる者ですから、どんなことでもいただきます」という心。それは、いつも自分の中にベースとして持っている心。だからこの道を歩んできた。けれどもあまりにもこういったことが起きると、人間が苦痛を感じて道を歩むことが遅れます、という言葉を上へ伝えたことに対して、もともと持っていた心へ戻りなさい、という意味で、緊張をさーっと取ってもらった。

その時に、なぜ人の道が遅れるのかというイメージがあった。滞りが起きる時、自分が一人でそれを受け取るならば、天意だから何でも受け取りますという心はある。けれども、例えば自分がこの人だったら、と考える。人のことを想うと、みんなはそれぞれに目いっぱいになるから、それでその者たちの道が遅れます、ということを僕は思った。

けれどもそこを解き放つのが、それを束ねてみんなを道へ進ませる自分の役割であり、一人ひとりの滞りを正すのも自分の役割だと思っている。だからそう考えた。
それはある意味、現世的には人に対する想いやりでもある。もう一つの奥にあるのは、私の道が楽になりますように、ということ。もう面倒くさく煩わしいから。僕の心の動きを観ると、人の道に滞りがないようにと想うのも、ある意味その背景に「私が楽になるように」という想いがあるとしたら、僕のベースにある「何でもいただきます」という心と、それに十分成り切っていないギャップの心があるということを示している。

それに対して、「ギャップがあって未熟だぞ」という指摘はまったくされない。ただ無言で、響きを持って、その緊張だけをほぐしてもらえた。それをある意味意志として返してもらったのだと思い、それを言葉にしようとしたら何も出てこなかった。

このメッセージを別の解釈をすると、何も答えはない。もしも負荷がかかったならば何も考えずに負荷の状態を解き放てばよい、ということ。それはよく僕が言っていること。ダメだと思ったならやめればいい。ダメだと思うということは、気付いたということなのだから。ダメだと思わなければ、進めばいい。それが滞りの種であれば、滞りが起きるだろうから。そして滞りが起きたら、それ以上進めるのをやめればいい。

先案じをして取り越し苦労せずに、今を生きるということだよ。そう。誰よりも真剣に生きているのだから。誰よりも道にふさわしい歩みをしているのだから。迷うことは何もない。

今言葉を語ったのは、頭を回したのではなく、中空にある絵を観て語った。頭を使ったとしたら、その絵から受け取れるものを言葉にしただけ。

僕も頑固者だな。誰と比べて頑固者かというと、出口王仁三郎聖師。彼は警察に捕まり牢獄に入れられて、そこで尋問を受けた。その時に、自分の姿勢を曲げずに、尋問をするものに道を説いて聞かせた。そのくらい頑固者だよ。
その時の精神は、今の自分の状態と一緒だと思う。僕は監獄には入れられていないし、状況は違っても、ものごとに動じて道を踏み外すことはない。

ただ、これは万人の道。人として地上に降りてきて目指すべき、万人の道。そのことをわかるものは、この時代の変わり目を迎えても、まだまだ少ない。
ただ、出口王仁三郎聖師の時代とは違い、切り替えの時がもう来てしまったから、時期にその証が現象化されるということでは、希望のある時代だ。彼はその夜明けを見ないで終わったのだから。僕は土台を生きるとしても、夜明けを見て終われるんだよ。子どもたちは、その夜明けの向こうを創っていく子どもたちだ。

ありがとうございます。

何ももらってはいないのに、ありがとうございます。

ただ今があるだけなのに、ありがとうございます。

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僕がこういう言葉をこんなふうに思い出すのは、僕が弱く未熟だから。僕の未熟が揺るぎない心を求めているからです。いろいろ経験してこの道を歩む意志は強く確かなものとなっています。だから僕の中の弱さがなくなったかと言ったら、そんなことはありません。自我を持つ僕は日々の出来事に一喜一憂し、揺れ動きます。だけれども僕は強くなったとも思っています。その強さとは何かと言ったら、いつでもすぐに揺るぎのない心と繋がれることです。揺るぎのない心を支えに僕は日々揺らいでいるのです。

自分の自我の弱さや未熟さが僕を謙虚にしてくれます。そしてそれは他者の未熟を理解する助けともなります。だからこの弱さや未熟さはなくなる必要がないのです。その奥にある揺るぎのない心をいつも感じていたら、すべての出来事は祝福となっていきます。

揺らぎと揺るぎのない心。

両方を生きることで僕の幅は広がっていきます。

上記の文章で天がいさどんに対してしたことはただ緊張を解いただけ。それだけでいさどんは元の「すべてをいただく心」に戻りました。天に心を向ければ、いつでも緊張はリセットされ、再スタートをすることが出来るのです。それは揺るぎのない真実です。だからいつでもどこでも

何ももらってはいないのに、ありがとうございます。

ただ今があるだけなのに、ありがとうございます。

という心となれるのです。

そして、同時に思い出したのは、堕天使ルシフェルの存在です。地獄でサタンとなったルシフェルについては以下のように書いている本があります。

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私達が悪魔と呼ぶサタン、ベルゼブルこそが、身の毛もよだつような分の悪い役割を自ら担い、人間の心に生ずるありとあらゆる悪の部分は、すべて彼のものとして位置づけし、彼の仕業であるということで、人々は自分自身を救ってきたのです。

 ~ 中略 ~ 

「ねえお母さん、天国の扉の鍵はルシエルが持ってるんだって。私たち人間が、この世にはびこる悪というものを本当によくわかるようになるまで天の国の扉は開かずに、みんなその前でウロウロしているらしいよ」


ルシフェルは悪い役割を自ら担いました。なぜそのような存在が必要だったかというと、人々が自分のことを見て来なかったからです。悪とは何かと言ったら、自分の都合を求めてきた人々に排除された存在です。人間は自分の都合を求めていろいろなものを切り捨ててきました。その結果、地球環境は悪化し、社会の分断と孤立が深まっています。その状態は偏りであり均衡を取り戻す必要があります。だから、人々が切り捨てているものが何かを教える存在が必要となるのです。役割としての悪。それは人々の姿を映すことで学びへと導いているのです。

人類はずっと正義の名の元に争ってきました。自分の行為を正当化し、争いを生み出している心の種を見ることはありませんでした。悪は自分の中にあるのにそれを認めずに外を改善しようとしてきたのです。それは自分の都合を求める心です。自分の都合を求めて争いが起き緊張しているのが今の人間社会と言えます。だから天に心を向けてすべてリセットするのです。そして「すべてをいただく心」でみんなが再スタートをすれば、全ての存在と出来事が認められ、今ある問題はすべてなくなっていくでしょう。なぜならいつでもどこでも、

何ももらってはいないのに、ありがとうございます。

ただ今があるだけなのに、ありがとうございます。

という心で生きていけるからです。

ありがとうございます(^-^)



自我は惑いの中にある

多種多様な経験をし、様々な立場の人たちが共に暮らすこの世界では意見の相違があるのは当然です。違う立場の人が敵となって表れる。それも不思議なことではありません。その時、それを有難いこととして受け止め、そこから学んでいけば、敵は好敵手となり人は成長しあらゆる立場を超えた視点を育むことが出来るのです。

たとえば僕は老若男女100名近くと血縁を超えて共に暮らしていますが、このような暮らしをしているといわれのない非難を受けることもあります。それらは経験や立場の違いから生まれる偏見と言えますが、彼らの視点を理解すれば、僕らの決意を試す有難い言葉ともなります。そんなふうに僕らは成長して来ました。それがなくなって欲しいと思う必要もなくてただ道理を通して暮らし変遷として見ていけばいいのだと思っています。

過去から未来へと続いていく天の物語。その長い物語の中に自分は位置し物事に出会いますが、すべては流れの中にあります。敵に出会うのもその流れの中であり、そこから学ぶことで敵は消え、また新たな敵が表れるのでしょう。敵の存在を認め尊重していれば、それは絶え間なく続く成長のプロセスであり、すべては役割でありそこには「有難い」しかないのです。




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この文章にあるように、時に木の花ファミリーのことを批判する人に出会いますが、そのような時、第三者にその出来事の意味を説明することもあります。そんな時、僕は木の花を批判する人たちの言葉を徹底的に読み込んでいます。繰り返し繰り返し読み、彼らの視点から木の花を眺め、その言葉を実感を持って味わうようにしています。すると実際を離れて本当にその通りに思えてきます。今や彼らの言葉は僕の言葉ということが出来るぐらいです。こんなふうに彼らの視点を確認した後、そこから抜け出しいつもの自分の位置に戻ってきます。これは数年前からやり続けている作業で、僕はずっと批判者の文章を読み続けていますが、こんなふうにお互いの立場を行き来しながら、どちらの視点にも立たない言葉を紡ぐようにしています。

誰の側にも立たずにみんながそうだねと思える言葉を紡いでいく。

それが僕の目指すところで日々そのための努力をしていますが、批判者の実感を味わいながら自分を保つのはなかなかしんどい作業でここ最近の苦しみはそこから生まれていました。

木の花ってひどいところ。

そんな言葉を実感を持って味わいその視点で日常を送りながら、この道を歩む意志を固めていくのです。年始に批判者たちの文章をまとめて読み込みその視点を沢山味わって彼らに共感し、共感することで今、その奥をさらに見通すことが出来たのはないかと思っています。それは自分自身の奥を見通すことにも繋がります。

自我は惑いの中にある

これが今浮かんでいる言葉です。

みんな様々な出来事に出会いその中で自分の考えを育んでいて、そこにはそこに至るワケがあり、その人の正当性があります。人間の自我は目の前の出来事に反応し一喜一憂しながら自分の利益を求めていきます。それは多分みんな共通していて、だからその人の立場に立ったらその気持ちになるなと理解し合うことが出来るのです。僕はこんなふうに批判者たちの言葉を理解しています。ですが、これはあくまでそれぞれの状況に対する反応です。だから状況が変われば心も意見も変わります。なぜなら自我が求めているのはあくまでも自分の利益であり正当性だからです。そして、それは僕らの意見にも同じことが言えます。もし僕の言葉が自我からの言葉ならば、それはあくまで自分の立場や状況から生まれているものです。状況が変われば気持ちは変わります。だからもしその状態で言葉を保とうと思ったら自分に「大丈夫だ」と言い聞かす必要があるでしょう。自我からの言葉は状況に左右されますが、変化変容を本質とするこの世界では未来は未知であり絶対はありません。自我の思惑から世界を眺めたらどうしても惑うことになり、逆に一つの視点に固執したら、そのことが世界を見えなくさせます。そこに自我による決心の弱さや危うさがあり、自我による共感はそれぞれの都合を認め合うことで分断が進んでいく今の社会を追認するのです。

先に僕は奥を見通したと書きました。それは僕の言葉が自我からのものではないことの確認です。僕が生きているのは自分の意志で生きる前に生かされているからであり、自我の奥には自分を生かしている働き掛けがあります。今、僕がここで暮らすのも自分の意志より前にその働きかけがあるからであり、それは自分の損得を超えたものでありその事実は揺るぎがないものです。そこに立つ時、僕は自我の惑いを超えて思惑を超えたところでみんなと繋がっていけるのです。そして、この視点が今の社会の行き詰まりを突破するものだと感じるから、ひどいところと言う人がいたとしても僕はここの大事をみんなが分かる言葉で伝えていくのです。そしてそれは大切な繋がりや心の豊かさを生み出しているという事実を伝えることでもあります。

自我の思惑を超えたところに「みんなでそうだね」と奥のところで感じ合える言葉があります。それは自我による共感を超えたものであり、様々な立場にいる人々を繋いでいきます。そんな本当の絆が広がるように。最後に一つの文章を引用して終わりにしたいと思います。

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思惑や感情の奥に本当の自分がいて、その自分はこの宇宙と一体で常に響きあっています。自我が生み出すヒビキを超えることで、世界と響き合っている本当の自分のヒビキを生きることが出来ます。それは円が縁を紡ぐこの世界の中で与えられた自分の位置、誰とも比べることが出来ない自分独自のヒビキです。

自分の中には自我を含めていろいろな層があり、それぞれの層が発しているヒビキがあります。自分の意識がどのヒビキとチューニングしているかによって、そのヒビキに相応しい心の状態となって現実を生み出していきます。だから自分の持つヒビキを見通していこうと思っています。そして、この世界に心を開いて、世界とヒビキあっていこうと思っています。




木の花ファミリーパンチームのみんなです。年始に美味しいパンを作ってくれました。

突破口は気づきにある(5)

今週はずっと体調が悪く苦しい1週間でした。ちょうど、「敵は自分であり有難い存在となる」を書いた後から風邪をひきそうな予感がして、昼間長めに休んだのだけれども、やっぱり風邪をひいて、頭痛、咳、鼻水、加えて、背中が強く痛み、肩と首が凝り、腰も痛み・・・というような状態で立っていても座っていても歩いていても寝ていても何をしていてもしんどい日々でした。そして、長めに休んだことで仕事が溜まり情報の整理をするのが大変になっています。

12日の夜、癒し処たんぽぽの鍼灸師、じゅんぞうくんに指圧とお灸をしてもらいかなり楽になりましたが、パソコンに向かうとやはり腰や肩、背中に痛みは発生します。年始早々なかなかな状況を迎えていますが、これも当然、自分の心が生み出しているわけです。この状態のきっかけとなった「敵は自分であり有難い存在になる」に僕は以下のように書いています。

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多種多様な経験をし、様々な立場の人たちが共に暮らすこの世界では意見の相違があるのは当然です。違う立場の人が敵となって表れる。それも不思議なことではありません。その時、それを有難いこととして受け止め、そこから学んでいけば、敵は好敵手となり人は成長しあらゆる立場を超えた視点を育むことが出来るのです。

たとえば僕は老若男女100名近くと血縁を超えて共に暮らしていますが、このような暮らしをしているといわれのない非難を受けることもあります。それらは経験や立場の違いから生まれる偏見と言えますが、彼らの視点を理解すれば、僕らの決意を試す有難い言葉ともなります。そんなふうに僕らは成長して来ました。それがなくなって欲しいと思う必要もなくてただ道理を通して暮らし変遷として見ていけばいいのだと思っています。

過去から未来へと続いていく天の物語。その長い物語の中に自分は位置し物事に出会いますが、すべては流れの中にあります。敵に出会うのもその流れの中であり、そこから学ぶことで敵は消え、また新たな敵が表れるのでしょう。敵の存在を認め尊重していれば、それは絶え間なく続く成長のプロセスであり、すべては役割でありそこには「有難い」しかないのです。


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今現在、役割として僕の敵になってくれている存在がいるのですが、この文章はその存在を意識して書いたもので書いた後に僕は調子を崩しました。そこには僕の弱さが表れています。僕には僕の役割があります。そして、その役割は敵の存在を認め尊重しながら務めるものですが、尊重するとは慣れ合うことではありません。相手の立場を理解しながらも情に流されず道理を通していく必要があります。しんどい状況からあらためてその覚悟を深める必要性を感じています。

ベトナム反戦運動を主導し、北軍南軍双方の兵士を助けることで誤解を生み、両軍から攻撃を受けても非暴力を貫いた仏僧ティク・ナット・ハン氏は、非暴力主義の鑑と言えます。そのティク・ナット・ハン氏は、何らかの理由で引きこもり家から出て来なくなった青年に対して、その青年の家を焼き、社会生活をするように促したことがあるようです。その行動は心を鬼にしてとった行動であり厳しいものですが、その奥には青年に対する理解と愛があります。今僕は、昔、本で読んだこのエピソードを思い出しています。

そして今、1月27日に開催される富士浅間木の花祭りに向けて稽古が本格的になってきていますが、僕はこのお祭りで鬼を演じます。鬼は人々に忌み嫌われていますが、鬼は本来、人びとに道理を説く存在です。鬼についてカタカムナの単音で調べると以下のような意味となります。

「オ」 6方(前後左右上下)へ限りなく拡散、または凝縮する思念。大きい 重い 奥の方・潜象の場  ※潜象界とはカタカムナでは「ない世界」のこと

「二」 定着する

この意味を発展させて「いさどんと鬼の面」では鬼について以下のように説明しています。

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「オニ」とはマクロにもミクロにも限りなく広がる現象界、および現象界の元になる潜象界をも含む、両方の世界の働き(仕組み)を定着させるものである。そして、「鬼が云う」と書いて「魂」となる。魂とはこの世界の仕組みのもとにある心で、鬼は人間に、この世界の道理を伝えるものなのである。

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「鬼が云う」で魂、鬼の言葉が魂となります。魂とは本来の姿であり、一人ひとりの自我(エゴ)を超えた存在です。相手を理解する時、そこに相手の自我に対する理解も含まれますが、尊重するのは相手の自我ではなく魂です。すべての存在が魂では通じ合っています。だから魂を尊重するとは、すべての存在に通じる道理を通すことなのです。それは相手の自我にとったら認められないこともあり反発を受けることもあるでしょう。ですが僕は僕の情に惑わされずただただその道理を意識して役割を務めていきます。この言葉が僕の傲慢ならば、結果がそれを教えてくれます。だから常に変遷を見ていけばいいのです。ここで昨年の10月に書いた言葉を思い出しました。

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突破口は気づきにある。

それを意識し生活することが大切だと思っています。

多くの人は現状に問題を感じた時、その分析をします。その分析の奥には「こうあって欲しい」というイメージがあって、そのためには「こうする必要がある」と訴えることになります。それは自分の想いを実現しようとする姿勢であり、自分の視点に対する理解を周りに求めることになります。この姿勢のまま「これではいけない、なんとかしよう」と一生懸命になっても突破口を開くことは出来ないのでしょう。

我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。

気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。




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役割としての敵が存在する今の状態は問題がある状態とも言えます。ですが、僕はそのことに対する理解も結果も求めません。そうではなく世界と他者を理解していく。そのことを心掛けそこから見える道理を通し変遷を見ていく。それはきっと新しい動きとなって僕を未来へと導くことでしょう(^-^)

「突破口は気づきにある」僕の中でこの言葉はこのとセットになっています。



神様はあらゆるところに住んでいる

昔、ただ答えがなくとも、そこに語りかけよ。そことは斜め45度の方角に向かって、斜め45度とは丸の中ではの方角だよ。つまり斜め45度に向かって語り掛けよと、それに対してどんなに無言であったとしても、必ず斜め45度のその先ではその意思を受け取っておる。だからそれを積み重ねよ。そしてそれを積み重ねた結果、必ず現象となってその答えが現れるであろうと。

今そのころの思いを言葉にしてみたんだけれど、それをやり続けてきてこの歩みがあったんだよ。それをやり続けることによって、まだ見えぬ現象、そして問いかけに対する答えを後からいつももらって、その答えをもらうことによって、信じる心が育ち、そしてここまで歩んできた。つまり、先に得てから信じるんじゃないんだよ。得る前に信じて歩まなければいけないんだよ。それじゃないと歩めない。

次にみんなで見る映画『沈黙-サイレンス』は、そのことの真実を宣教師たちの苦悩の中で、問いかけている。神がどこに住んでおるか、ということなんだよ。


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上記はある日の深夜3時半にいさどんがみかちゃんに語った言葉です。1月7日の夜、この会話に出て来る映画『沈黙-サイレンス』をみんなで観ました。この映画は遠藤周作の小説『沈黙』の映画化で江戸時代初期、キリスト教弾圧の渦中に置かれたポルトガル人の司祭ロドリゴを主人公にしたものですが、映画の後、いさどんは以下のように語りました。

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今は、多様性が大切な時代となっています。映画の中でロドリゴは、弾圧される中で神の沈黙を訴えていますが、それは自分の側に神を引き寄せようとしているからです。だけれども、相手の側にも神はいます。ロドリゴにはそのことが見えていません。あの映画の中の弾圧は酷い行いですが、そこに登場する人たちは、あの時代を反映し、それぞれの立場から行動していたのであって、そこには良いも悪いもなく悪者はいません。当時、キリスト教は世界中に布教活動をしていましたが、その中では現地の信仰への弾圧もありました。そういうことも見ていく必要があります。そして、宗教は、貧しく苦しんでいる人々に広がっていきました。そのため宗教は救いを求めるもの、ご利益の対象となっていきました。ですが、本当の信仰とは神と共に創っていくものです。そしてその基盤には精神的豊かさが必要となり、それがこれからの社会に求められるものです。今、僕らはみんなでそんな世界を表現していますが、そのことの大切さをあらためて実感しています。

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いさどんの言う通り神は沈黙していたわけではなく、神の答えは常に目の前の出来事に顕れています。当時、世界中にキリスト教の布教が行われていましたが、それは植民地政策とセットとなっていました。例えば、ネット上でこんな言葉を見つけました。

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だいたい、日本でキリシタンや宣教師たちが弾圧されたのは、そもそも戦国時代の宣教師が日本人の子供の人身売買にめっちゃ関与していてインドや東南アジアに売り飛ばしまくっていてたり、「寺社仏閣を破壊したら救われる」とか吹聴してキリシタンたちが実行しまくって、それで秀吉も困っちゃってイエズス会と交渉したけど聞き入れなかったからだからね。異教徒のことを敵視したり、人間扱いしていなかったのは元々おめえらのほうだからっていう話なんですよ。それの延長に徳川幕府の取り締まりがあるわけで(詳しくは神田千里『戦国と宗教』岩波新書を参照)。



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この言葉がどこまで本当かは分かりませんが、キリスト教の布教が完全に純粋なものではなかったのは確かです。弾圧はそんな彼らの布教に対する神の回答とも言えます。自分の側に立たなければ、神のメッセージははっきりと見ることが出来るはずなのです。

映画でははっきりと表現されていたかどうかは覚えていないのですが、小説ではロドリゴによる踏み絵には以下のようなイエスの言葉が伴っていたようです。

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神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラが語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾なぞではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。

夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。そのとき、踏絵のなかのイエス「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」と語りかける。

こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねる。イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?

踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。


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このイエスの言葉は、すべての罪を背負ったイエスに繋がり、形に囚われない本当の愛に繋がるものではありますが、ロドリゴはまだ自分の側から世界を見ています。あくまで神は自分たちの側にいて、自分たちは正義であり奉行所は悪なのです。イエスが背負ったのはすべての人の罪であり、それは善悪を超越しているはずです。ならばこの言葉の奥にはもっと深いメッセージがあり、そこには奉行所も含めたすべての存在に対する愛があり、それはあらゆる立場を超えたものなのです。

ロドリゴは先にイエスという答えを得て、信仰の道を進みました。それが今までの信仰であり、未来を想定しているためなかなか自分の視点を超えることが出来ません。神の声も自分の望む声となり自分の視点を反映したものとなります。何かを得る前に分からない未来に向かって信じて進んでいく。そして結果から学び信じる心を深めていく。そういう姿勢が自分の視点を超えることに繋がり、結果みんなが分かり合える世界へと繋がります。多種多様な立場が存在し宗教や民族を巡る争いが絶えない今、必要なのは自分の視点を超える信仰であり、それは救いを求めるものではなく、共に創り上げていくものなのです。

神とはこの宇宙の法則であり客観性。そして客観性こそが愛であり慈悲。

僕らは常々このようなことを語り合っていますが、法則性である神様はあらゆるところに住んでいて、誰の側にも立たず、みんなに客観性という愛を注いています。だから目の前の出来事は常に神様からの答えなのです。いつもその答えを受けて、分からない未来に進んでみんなで分かり合える世界を創っていこうと思っています。

木の花ファミリーのみんなです。

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