現象の作り手の位置へ行こうとする

ロシアで開催中のワールドカップにて、C・ロナウドはスペイン戦でハットトリックを達成しました。3対3のドローで終わったこのゲームは歴史的な名勝負とも報道され、その中でのロナウドの活躍は多方面から絶賛されています。以下の記事もその中の一つですがとても印象に残りました。

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これまでワールドカップの舞台に立つC・ロナウドは、いつも自己中心的だった。言い換えれば、よくも悪くもC・ロナウドのワンマンチームだったポルトガルでは、彼が自分で何とかするしか手がなかったとも言える。

 だが、この日のC・ロナウドはそうではなかった。印象的だったのは、前半21分のシーンである。

 カウンターから敵陣ペナルティエリア付近に攻め入ったC・ロナウドは、ゴール正面からやや左でパスを受けた。かつての彼なら間違いなく一度ボールを収め、自分でシュートまで持ち込んでいたはずだ。

 しかし、C・ロナウドはあろうことか、中央に走り込んできたFWゴンサロ・ゲデスへワンタッチパス。キャプテンがお膳立てしたチャンスは、結果的に21歳の新鋭FWがふいにしてしまうのだが、C・ロナウドの”変心”を強く印象づけた場面だった。

 もちろん、そこには33歳になったC・ロナウドの衰えもあるだろう。だが、自身の力は落ちているにもかかわらず、過去最多の得点を量産できているのは、彼が”ひとり相撲”を取っていたときに比べ、チームとしての機能性が格段に高まったから。つまり、ポルトガル代表においてC・ロナウドの役割が整理され、いい意味でひとつの駒となってプレーできていることが、数字につながっているように見える。 



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ひとつの駒となることでより輝きが増していく。それは以下の会話でのジイジ(当時はいさどん)の仕事に対する姿勢と通じるものがあります。

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なかのん:

質問があるんだけれども、自分らしく生きていることと自己主張をしていることの境界ってどこにあるのかな?

いさどん:

自己主張は主張でしょ?誰かに何かを主張している。分かって欲しいと求める対象がいる。自分らしく生きることには対象はない。ただただ淡々と生きているだけ。自分らしく生きている姿は美しく気持ちがいいけれども、自己主張は気持ちよくない。正直に生きていても、それが自己主張になってしまっている人がいる。それはアピールして人に分かって欲しいと求める気持があるため。そういう人は気持ちよくない。世界と自分、両方から離れて眺め、自己主張を超えていく必要がある。

なかのん:

何かを分かって欲しい気持ちがあるか?それが一つのチェックポイントになるんだろうね。僕は、自己主張はいろいろなところに入り込むって常々思っているんだ。例えば、一生懸命に働くことの中にも自己主張は入り込む余地がある。「俺はこれだけ仕事をしているんだぞー」みたいに。

いさどん:それは誰にアピールしているの?

なかのん:みんなかな・・・

いさどん:その時はみんなと自分を分けているんだよ。

なかのん:そうか・・・アピールするってことは分けているってことか・・・

いさどん:

そうだね。僕なんかそんな感じはまったくないよ。僕が淡々と仕事をすることは木の花全体の仕事を進めることで、全体に仕事が進むのは良いことだしね。

仕事に関しては、こんなことがあったんだ。今、家を建てているでしょ。その家の壁の漆喰塗りを進めようと思っていて、特に僕の部屋の部分は自分でしたいと思っていた。僕が一番丁寧に出来るし、これからずっと眺めるものだから。でも、普段から養蜂や面談などで忙しく、加えて、蜜蜂がスズメバチに襲われるなんていう突発的に事故が入ったりして、なかなか取り掛かることが出来なかった。そこでまっちゃんりょうちんが仕事を進めることになった。まあこれも流れかなと思っていた。これには良い面もあって、もし僕が漆喰塗りに取り掛かったら、僕が主となってやることになり、まっちゃんやりょうちんには従属する気持ちが生まれてしまう。でも、僕が取り掛かれなかったことで、2人とも主体性を持って伸び伸びと仕事に取り組んでいた。加えて、2人は僕の部屋の部分は後に取っておいてくれたので、時間が出来て僕が塗ることが出来た。僕は漆喰塗りを手放した。手放したらより良い形で僕がやる流れが来た。これは覚悟が出来ているから生まれる流れ。覚悟とは執着のない心。捕らわれない心。潔い心。覚悟が出来ていると、自分がやるべきことと手放すことの冷静な判断が出来て、結果良い流れを生み出す。

人間だから僕も人間的意識で物事を体験し捉える。と同時に上の意識でも物事を捉えている。日常生活の奥には現象を生み出すバイパスがあって、そこから物事を眺めているとすべての出来後が繋がってくる。この世界は一つだから現象の元を辿りバイパスに至ればすべての出来事が繋がっている。一人一人に相応しい現象が生まれるこの世界。生きてそれを味わい自分を知りあらためていく。それは一人一人オリジナルな体験で、いつでもどこでも出来る実践。お金も掛からなければ、誰かに頼る必要もない。日常の現象からただただ自分を知って改善していく。それは最も正攻法で手法もいらない、人生オール心磨きの実践と言える。

なかのん:

日常を眺める視点を頂いたように思える。背景に流れる意図を感じ、そこから眺める。そうすると一本の糸のようにすべての現象が繋がっていくように思えた。その視点を共有したい。

いさどん:

その視点をみんなで共有しようというのが、僕がずっと言ってきたこと。視点の位置は同じでも、みんなが僕の真似をするわけではない。それぞれの個性の応じた景色が見えてくる。独自の視点から流れを捉えることが出来る。それをみんなで共有することでこの場所はもっと豊かな場になっていく。これは現象を味わう身体を頂きながら、現象の作り手の位置へいこうとする道。人間でありながら、人間を超えていく道。

☆彡 ☆彡 ☆彡

過去3大会で3得点しか挙げていなかったC・ロナウドが第一試合目でいきなりハットトリックを達成しました。その背後に流れる物語を探ることはとても楽しいことです。スポーツ観戦をする時、多くの人が試合結果やパフォーマンスだけでなくこういう物語を楽しんでいるのではないかと思います。ですが、自分のこととなると、損得勘定や思惑が働くことで、多くの人が結果だけに囚われていきます。すると背後に流れる物語は見えなくなり、たとえ成功したとしても人生は貧しいものになってしまいます。これは自分で自分の人生を貧しくしているのです。

スポーツ観戦をする時、人は自分を離れ現象の作り手の位置にいこうとすることが出来ます。そこに働く神の意志を想像することも出来ます。だからそれは豊かで魅力的なものに映ります。ですが、本当は自分自身の人生も同じぐらいダイナミックで魅力的なのです。目の前の出来事や結果に囚われなければ、そんな豊かな世界が見えてきます。だから自分を超えていく心磨きの道はとても魅力的なものなのです。

C・ロナウドは「自分が・・・」という心を手放しチームの中で一つの駒となることで輝きが増しています。それは一人ひとりの人生にも言えて、この世界と一体となって一つの駒として生きることで人生の輝きが増していくのです。

近代以降、一人ひとりが自らの願いを追い求めることが幸せに繋がると信じられてきました。ですが、自らの願いを追求することは「自分が・・・」という心を育て、その結果、人は自分だけの世界を創り、この世界の実相から遠ざかることになります。それはとても不安定な状態で、そのため人々に向けてアピールする必要が生まれ、本来の自分を失っていくのです。

世界と一つになれば、アピールする必要はなくなります。そして淡々と生きることが自分自身の表現となり、それがこの世界の中で生かされ輝きとなっていくのです。

そんな日々を僕は木の花ファミリーのみんなと送っています(^-^)

6月19日の富士山と太陽。もうすぐ夏至ですね。




宇宙のプロセスそのものを生きる

3年前(2015年)の6月、僕はジイジ(当時はいさどん)と以下のような会話をしています。


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いさどんがなかのんと一緒に出張したとき、
以前ここを離れた元メンバーのことが話題になった。

彼について
いさどんはこう語った。

゚・:,。゚・:,゚・:,。゚・:,

彼がまだメンバーだったとき、
交通事故を起こしたでしょ。

その裁判の際、
弁護士を相手にどういうふうに付き合っていくのか。

それから、
弁護士の精神状態だけではなく、
被害者の性質を読み解きながら、
どうやって裁判を進めていくのかという
アドバイスをしていたんだよ。

結論としては、
こちらにとって特別有利に話を進めようとは思っていなかったけれど、
向こうのわがままに乗ってはいけないからね。

そういった正義感も持ちながら、
弁護士がついたからといって向こうの思うままにならないという意味では、
弁護士の精神状態も読みながら話を進めていったんだよ。

最終的にどこに結論が行くのかについては
裁判所が決めることだけどね。

そして、
結果的に当初の話の5%をこちらが勝ち取ったのだけど、
そういったお金の話が一番大切なのではなく、
人と交渉するときの交渉術を大事な学びとして彼には教えてあげたんだよ。

でも、
そういった学びを生かすことなく、
彼はここを離れていった。

結局、
根本の大事を忘れず求めるこころがないとダメだね。

彼は母親に対して、
まったく自己主張ができないのだから。

もし、
学びを生かせていたとしたら、
ここを離れていったときの
あの傲慢な態度はないはずだよ。

結局、
彼からしたらあの裁判は、
単なる数字だけの話になっていたのだろう。

でも場合によってはね、
今ちょっとばかり良い思いをするよりも、
たとえば余分に払ったとしても
それが将来の価値に対する種まきになることもあるんだよ。

つまり、
そういった波動を未来にもたらしているのだからね。

大切なことは、
そこが読み解けるかどうかだよ。

正確に言うと、
読み解くのではなく、
本能みたいなものだよ。

そのときに、
あせってすぐに結論を出そうとすると、
冷静さに欠いているから、
情報を正しく精査できなくなる。

さらに
損得勘定から「損をしてはいけない!」という思惑が働きすぎると、
そういった直観は鈍ってしまうね。

だから、
何かプラスアルファか感じ取れる状態でいることが
大切なんだよ!


そういった学びの位置に立てることすら、
なかなかできないからね。

まずその位置に立って、
その価値を思考することが人にはできないんだよ。

゚・:,。゚・:,゚・:,。゚・:,

いさどんの話を聞いていたなかのんは、
「本当にそう思います。

人はなかなかそこに行かないですよね。

ついつい、
結果を求める発想になってしまい、
結果がこうだから良かった・悪かったとなってしまうのです。

そのプロセスをしっかりと観ていって、
そこを味わっていき、
そしてそこから学んでいくことが大切ですよね。

当たり前の日常の中に、
たくさんの学びが詰まっているんですよね」と伝えた。

それを受けて、
いさどんはこう続けた。

゚・:,。゚・:,゚・:,。゚・:,

そこがわかると、
すごくダイナミックだよ!

ほんのちょっとのことが、
すごくダイナミックなんだよ!!

世界はね、
とてつもなく深いんだよ

そこまで心が通じる人は、
なかなかいないね。

だから、
僕はこの道を歩み始めてから、
ずっと孤独だった。

僕はね、
彼が母親と一緒に来てここを離れるときに、
「彼は今、今まで積み上げてきたものを全て崩して、
彼にとって一番大事なものを失おうとしている。
今までのことは彼にとって一体何だったのだろう?」
と思ったんだよ。

彼は、
「僕の人生の目的は悟ることです!」と言っていたのに、
最後、離れるとなったら、
もともと納得してここで暮らしていたはずなのに、
自分たちの主張だけを通して、
そのときに約束したことすら守らなかった。

彼のこころはぐらぐらしながら、
母親に対してさえ、
「お母さん、僕の話なのだからやめてくれよ」と
伝えることもできなかった。

なかのんは、
経理担当として
あのとき立ち会っていたけれど、
こちらの側にいて、
その柱のない人の姿を見せてもらう立場にいた。

この違いは大きいんだよ!

僕は最後に彼に言ったんだよ。

「よく観ているんだよ。
必ず、この目的は達成するからね。」

そしてこころの中で、

「あなたはその船を降りたんだよ。
そのことがよくわかっているか」と想い、
無言の意志を伝えたんだよ。

゚・:,。゚・:,゚・:,。゚・:,


「本当にそうですよね!
こちらの側にいて本当に良かったと思います!」となかのん。

そんななかのんに対し、
いさどんはこう伝えた。


゚・:,。゚・:,゚・:,。゚・:,

そんなあなたを観ていると、
うらやましいと思うよ

うらやましいと言ったら変かもしれないし、
一番誇り高い自覚を持っているのは
自分だと思うけどね。

そこに出会っているなかのんは、
普通の人からしたら
『よくぞ、そこに立てたね!』ということでしょ。

だからね、
そろそろ人々は、
そういった個人的なことを優先して生きることをやめるトキが来ている。

結局、
人間が個人的なことを優先し、
それが70億人集まって、
今のような世界を創っているのだから。

それと、
人間の世界の中で
どんなに優劣を競ったところで
たかだか知れているよ。

そのたかだか知れているところで生きても、
いつか自分が霊的な存在になるときに、
自らの価値を突きつけられることになるんだよ。

これから大切なのは、
つないで、
時代を創っていくことなんだよ。

死の向こうまで理解するものたちが生きているからこそ、
死の向こうまで伴える価値を積み上げていくことができる。

それが人生の勝利者であり、
道を目指すものにとって

一番大切なことだと思うんだよ。



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結果を求めるのではなく、プロセスを味わい学ぶことが大切。

そんなふうに語っていた僕は、この後、結果を求めて滞りをいただくことになります。それは語っていることと実際が違ったということですが、僕自身がそういう段階にあったということで、大きな視点から見れば、その滞り自体がプロセスの中にあります。

僕は滞りを味わい、そしてそこから学びました。

こうでなければならない。

そんなことを言ってもあまり意味はないのかもしれません。結果を求めるなと言ったって結果を求めたい心があれば、やはり結果を求めるだけです。

頭での理解ということで言えば、僕は5年前(2013年)の9月にもジイジと以下のような会話をしています。

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いさどん:

人は思考をめぐらすでしょ。思考を巡らして答えを得ようとする。僕は思考を上から持ってくる。目の前の相手に合わせて思考が下りてくるんだよね。例えば精神性を求めている相手には、そういう話が下りてくるし、あんたと話していると哲学的な話になってくる。それは前もって学んだものを話すという感じではなくて、常にその場その場に下りてくる。知恵を上から持ってきて、僕もそれを一緒に聴いていて、なるほどな~と思っている。

なかのん:

質問があるんだけれども、自分らしく生きていることと自己主張をしていることの境界ってどこにあるのかな?

いさどん:

自己主張は主張でしょ?誰かに何かを主張している。分かって欲しいと求める対象がいる。自分らしく生きることには対象はない。ただただ淡々と生きているだけ。自分らしく生きている姿は美しく気持ちがいいけれども、自己主張は気持ちよくない。正直に生きていても、それが自己主張になってしまっている人がいる。それはアピールして人に分かって欲しいと求める気持があるため。そういう人は気持ちよくない。世界と自分、両方から離れて眺め、自己主張を超えていく必要がある。

なかのん:

何かを分かって欲しい気持ちがあるか?それが一つのチェックポイントになるんだろうね。僕は、自己主張はいろいろなところに入り込むって常々思っているんだ。例えば、一生懸命に働くことの中にも自己主張は入り込む余地がある。「俺はこれだけ仕事をしているんだぞー」みたいに。

いさどん:それは誰にアピールしているの?

なかのん:みんなかな・・・

いさどん:その時はみんなと自分を分けているんだよ。

なかのん:そうか・・・アピールするってことは分けているってことか・・・

いさどん:

そうだね。僕なんかそんな感じはまったくないよ。僕が淡々と仕事をすることは木の花全体の仕事を進めることで、全体に仕事が進むのは良いことだしね。

仕事に関しては、こんなことがあったんだ。今、家を建てているでしょ。その家の壁の漆喰塗りを進めようと思っていて、特に僕の部屋の部分は自分でしたいと思っていた。僕が一番丁寧に出来るし、これからずっと眺めるものだから。でも、普段から養蜂や面談などで忙しく、加えて、蜜蜂がスズメバチに襲われるなんていう突発的に事故が入ったりして、なかなか取り掛かることが出来なかった。そこでまっちゃんりょうちんが仕事を進めることになった。まあこれも流れかなと思っていた。これには良い面もあって、もし僕が漆喰塗りに取り掛かったら、僕が主となってやることになり、まっちゃんやりょうちんには従属する気持ちが生まれてしまう。でも、僕が取り掛かれなかったことで、2人とも主体性を持って伸び伸びと仕事に取り組んでいた。加えて、2人は僕の部屋の部分は後に取っておいてくれたので、時間が出来て僕が塗ることが出来た。僕は漆喰塗りを手放した。手放したらより良い形で僕がやる流れが来た。これは覚悟が出来ているから生まれる流れ。覚悟とは執着のない心。捕らわれない心。潔い心。覚悟が出来ていると、自分がやるべきことと手放すことの冷静な判断が出来て、結果良い流れを生み出す。

人間だから僕も人間的意識で物事を体験し捉える。と同時に上の意識でも物事を捉えている。日常生活の奥には現象を生み出すバイパスがあって、そこから物事を眺めているとすべての出来後が繋がってくる。この世界は一つだから現象の元を辿りバイパスに至ればすべての出来事が繋がっている。一人一人に相応しい現象が生まれるこの世界。生きてそれを味わい自分を知りあらためていく。それは一人一人オリジナルな体験で、いつでもどこでも出来る実践。お金も掛からなければ、誰かに頼る必要もない。日常の現象からただただ自分を知って改善していく。それは最も正攻法で手法もいらない、人生オール心磨きの実践と言える。

なかのん:

日常を眺める視点を頂いたように思える。背景に流れる意図を感じ、そこから眺める。そうすると一本の糸のようにすべての現象が繋がっていくように思えた。その視点を共有したい。

いさどん:

その視点をみんなで共有しようというのが、僕がずっと言ってきたこと。視点の位置は同じでも、みんなが僕の真似をするわけではない。それぞれの個性の応じた景色が見えてくる。独自の視点から流れを捉えることが出来る。それをみんなで共有することでこの場所はもっと豊かな場になっていく。これは現象を味わう身体を頂きながら、現象の作り手の位置へいこうとする道。人間でありながら、人間を超えていく道。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この文章を読み直して、当時の自分がこんな話に触れていたことにびっくりしました。それぐらい当時の僕は表面的な結果を求めて右往左往していました。それもすべてプロセスの中にあります。その事実をいただくことで、少しずつ都合の良い結果を求める心を弱めていくのです。

目の前の出来事のプロセスを見ていくと同時に自分自身のプロセスも見ていきます。囚われているならば、囚われていることもプロセスの中にあります。

こうでなければならない。

そんなことを言うつもりはありません。だけれども自分自身を天に向けて解放します。起きることはすべて自分自身の表れとして恵みとしていただきます

2017年の立春正月にひっくり返った僕は、今年の立夏を迎えて自我を天へと導くと決めました。

囚われや結果を求める心を生み出してきた僕の感情。今、僕はそれを見切っています。

ということで最後はこんな文章で締めたいと思います。

☆彡 ☆彡 ☆彡

思惑や感情の奥に本当の自分がいて、その自分はこの宇宙と一体で常に響きあっています。自我が生み出すヒビキを超えることで、世界と響き合っている本当の自分のヒビキを生きることが出来ます。それは円が縁を紡ぐこの世界の中で与えられた自分の位置、誰とも比べることが出来ない自分独自のヒビキです。

自分の中には自我を含めていろいろな層があり、それぞれの層が発しているヒビキがあります。自分の意識がどのヒビキとチューニングしているかによって、そのヒビキに相応しい心の状態となって現実を生み出していきます。だから自分の持つヒビキを見通していこうと思っています。そして、この世界に心を開いて、世界とヒビキあっていこうと思っています。




☆彡 ☆彡 ☆彡

これまでここで紹介したプロセスは僕個人のプロセスです。それはそれで僕にとって重要なものですが、世界に心を開いて、世界とヒビキあっていけば、宇宙のプロセスそのものを生きることが出来ます。もうそろそろそういう段階でありたいなと思っています。

宇宙のプロセスそのものを生きる

そのために僕は生まれては消える波のような自我を手放し続けます。

蓮池の花が咲き始めています

「今ここ(イマココ)」に意識を向ける

昔、ハワイ島の小田まゆみさんは呼吸について以下のように語ってくれました。

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ハワイの言葉で「ALOHA(アロハ)」という言葉がありますが、これは英語で言うと「Face with Breath」、呼吸と共にいることです。呼吸と共にいること、それが「こんにちは」という意味となり「愛している」という意味にもなるのです。多くの人は呼吸を意識せずに暮らしていますが、もしすべての人が呼吸を意識して暮らすようになれば、この世界の争いの90%はなくなると言われています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この言葉を受けて、僕は以下のような文章を書いています。

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コキュウ(呼吸)

カタカムナでみると、「渦(ウ)がゆらゆら(ユ)と立ち上がり(キ)転がり出る(コ)」。もしくは、「転がり出て(コ)渦(ウ)となってゆらゆら(ユ)と立ち上がる(キ)」となりますが、呼吸はすべての現象を生み出す元とも言えます。呼吸がすべての生命を生み出していて、僕らは息を吸うことによって空気をいただき生かされています。そして息を吐き出すことは、自分の中にあるものを吐き出すことであり、それがこの世界の空気と混じり合い影響を与えていくのです。

呼吸を意識すること。それは自分を生かしているもの、そして自分が世界にもたらすものに対する自覚を深めることに繋がります。だから呼吸を意識することで認識が深まり、結果、多くの争いがなくなっていくのでしょう。


それは「今ここ(イマココ)」に意識を集中することでもあります。




☆彡 ☆彡 ☆彡

ここで意識を宇宙に向けてみます。木の花ファミリー憲章「世界観・概要」には宇宙の成り立ちについて以下のように書かれています。

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私たちは宇宙に始まりも終わりもないと考えていますが、ある地点を区切り、そこを「始まり」と見なすことも出来ます。現象をありのままに眺めていると、すべての現象が「想い」という種から生まれていることが見えてきます。宇宙も同じです。「はじめに言葉ありき」と聖書にありますが、言葉とは「想い」のことです。「想い」のみが存在している時点。そこを始まりと見なします。

「想い」は圧縮して爆発し、「相反するもの」を生みだしました。磁石の両極のように、相反するものは惹かれ合い、新たな振動を生みだします。それがこの世界を創っています。


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ここで語られている「想い」の圧縮とは、カタカムナでいう「ヒフミヨイムナヤ」で飽和安定している状態、そして爆発とは「転がり出る(コ)」ことです。このようにして相反するものが存在するこの世界が生まれ続けているのです。この爆発は宇宙の呼吸の始まりとも言えます。爆発することで、圧縮した想いを宇宙が吐き出し続けている。そして、宇宙が吐き出し続けているものを僕らは吸うことで頂いている。そんなふうに思えます。

天の意志から生まれた宇宙の息吹。そこに一人ひとりの呼吸が重なりこの世界は出来ています。一人ひとりは思惑を持つから、だから空気にはいろいろなものが混じり合っています。いろいろなものが混じり合っている中、天の息吹をダイレクトに受け取るためには、まずは吐くことで自分を空にしていくことが大切なのだと思います。

呼吸の「呼」は「はく」という意味と同時に「呼ぶ(よぶ)」という意味も持ちます。吐くことは呼びかけること。何に向って呼びかけるかで吸うことでいただくものも変わっていきます。呼吸を意識することは自分が何に向って呼びかけているかを意識することになります。吐くことを通して心を空にして天へと呼び掛ける。そして吸うことを通して天の気をいただいていく。それは「今ここ(イマココ)」に意識を向けることです。

イマココ

転がり出た(コ)ものが位置する(イ)時空間(マ)

圧縮された「想い」が転がり出るトキトコロ。

天の意志は常に「今ここ(イマココ)」に表されています。そこは現象化の場であり、救いや学び、そして喜びはすべて「今ここ(イマココ)」と向き合うことで生まれます。

呼吸を通して「今ここ(イマココ)」に意識を向けること。

そうすることですべての存在と一つとなり真の調和が実現するのでしょう。その確信はあります。

小田まゆみさんの絵です。(とようけのもりHPより)






覚悟・さとって自由に転がり出る


ぼくたちは
とても大それたことをしているんだよ。

大それたということは、
恐れ多くも、ということを言っているのではなく、
非常に重要で誇らしい生き方をしているということなんだよ。

いずれ、
人々が到達すべきことを
先に知ってしまうということは、
まわりにはまだ知らない人がたくさんいるということなのだから、
孤独にもなる。

しかし、
世界観が広ければ、
そのカラクリがわかっているのだから、
たとえどのような無理解に出会ったとしても、
やり続けることができるんだよ。

時代を切り開いていくことが
使命だとわかっていたらね。

そうやって
世の中は開かれていくし、
惑星の動きや時代もそれを後押ししていくんだよ。

そこで、
そのようになっていくから
放っておけばなるのかといったら、
必ずそのようになるときには
ぼくたちの生きる現象世界では、
誰かがそれを受けて示すことが必要になる。


それを示すものたちは
どのような意識であるのかというと、
星の意志や時代の流れを
受け取れるものであるわけだ。

それが高い意識であり、
天とつながることだよ。

しかし、
その役割を受けたものであっても、
役割を怠っていたら、
代わりは他にもいるということでもある。

星のサイクルのように、
時代の流れのように、
時は刻んでいく。

木の花は、
確実に時代の意志を受けている。

なぜなら、
それを提唱している僕がそういう人だから。

そして、
それに共鳴した人たちと共に
歩んでいるのだから。

だから、
わからないからわかりたいとか、
こういった立場に立ちたいとか、
自我に囚われることは禁物だよ。

星の意志や時代の流れを受け取るものとして、
そこでは明快な覚悟があるからこそ、
時代の意志(天)と共に歩めるんだよ。



☆彡 ☆彡 ☆彡

上記は3年前の夏、夜道を歩きながらジイジ(当時はいさどん)がみちよちゃんに語った言葉です。昨晩、大人ミーティングでジイジの話を聴いていたら、この話を思い出しました。

僕ら木の花ファミリーメンバーは星の意志や時代に流れを受けて生きている。

その自負があるからこそ、自我を超えて空っぽになって星の意志や時代の流れの器となっていくのです。そしてその答えは現実の中でいただき続けます。

明快な覚悟をもって歩む。

覚悟をカタカムナでみると以下のようになります。

宇宙最極小微粒子である「カ」。「カ」は宇宙の内外を問わず普遍的に存在している潜態エネルギーですが、その「カ」が自由に(ク)極限を超えて転がり出ていく(コ)状態。これは現象化、何かを実現する力と言えます。

そして漢字で見ると、「覚」も「悟」も「さとり」という意味です。「さとり」は「差取り」。自他の区別を超えて一つになっていく。あなたはわたし。わたしはあなた。そんな世界の表現となります。

一人ひとりの人間が持つ思惑や感情はこの世界に表面的な「差」を生み出します。それぞれの立場や性格の違いによって別々のものを求めるようになります。ですが、その奥ではすべての存在が繋がり合っています。思惑や感情を超えることで、世界とひとつになること、それが覚悟を持つことであり、そのトキ、時代の流れの現象化を担えるのです。

人類の歴史は繰り返しとも言えます。各国は思惑でもって近づいたり離れてりしていますが思惑が時代を動かすことはありません。それは空に浮かぶ雲のようなもの。発生したり消えたり形を変えたりしますが、雲を生み出しているのは大気であり、そこには太陽の働きかけがあります。

トランプ大統領と金正恩氏との世紀の会談。お互いの思惑によって成り立ったものですが、その奥には時代の流れがあります。それを感じ取り現象化を担えるように。

明快な覚悟をもって歩みます。


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