見えないものを分かち合う



私たちが日頃多くの皆さんに伝えているデータからすると、地球上の文明には発展と衰退のサイクルがあり、西洋的な文明が主導を握る時代はもはや終焉を迎えました。ですから、今までのように人々が西洋的価値観を盲目的に追いかけるようなことはないと思います。ただ、世界中で今、一番経済的発展が遅れているところがアフリカなのですから、ある程度アフリカにも西洋的発展は今後も必要だと思います。ただ、それは短い期間です。その後に訪れる考え方は、統合的な考え方です。

私たちがここで人々に伝えているメッセージは ──── 「時代は人間たちが創っているのではなく、天体の動きによって地球上の時代が変わっていく」ということです。その視点から観ると、過去の時代についても、今の時代がなぜこのような状態になっているのかも、よく理解できます。

ここではアメリカやヨーロッパの人たちにそういったことを伝えてきました。なぜなら、以前はアメリカやヨーロッパから木の花ファミリーを訪れる人たちが多かったからです。彼らの中にはコミュニティの調査を目的に訪れる人たちが多く、それも重要なことでしたが、最近は東アジアの国からたくさんの人たちが訪れるようになりました。この人たちは新しい時代をどのように生き抜くかを模索し、暮らしのモデルを探しにここを訪れています。

そして、私の中にいつからか「アフリカ」という意識があり、いずれアフリカの人たちが訪れるようになるだろうと思っていました。そうしたら、ウスマンが訪れてくれました。あなたがプレゼンテーションをしてくれたように、アフリカの人々がコミュニティやエコビレッジのような暮らしを必要としていることを聞きました。そして、たまたまガンビアという国は平和で穏やかな国だということでしたが、私たちの持つアフリカのイメージはそういった暮らしをしようにも、治安が不安定で難しい現状にあります。そのような中で、アフリカにこそ、木の花ファミリーのような人々が助け合う暮らしは必要だと思うのです。

アフリカに特徴的なこととして、今、アフリカに4000万人以上の難民がいるということも、それ自体アフリカの問題ではなく、世界の問題だということです。私たちは日本で暮らしていますが、アフリカの問題を地球上の共通した問題として考えていかなければいけないと思ったときに、今までのようにただ物資の支援をするという方法では根本的解決にはなりません。やはり、精神性の支援があって初めて、成立することだと感じました。その精神性を伝える対象の国として、アフリカでもっとも敷居が低いのがガンビアという国なのだろうと今回感じました。

ですから、まさしくあなたはアフリカ代表ですね!あなたは「時の人」です。私たちは時を生きています。今の旬を生きているという意味では、この出会いは本当に大切な出会いです。


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上記は、西アフリカのガンビアから木の花ファミリーを訪れたウスマンに対してジイジが伝えた言葉です。歴史を見ると、東洋文明と西洋文明は二重螺旋を描いて交互に発展と衰退を繰り返して来ましたが、今は東洋文明が発展のトキを迎えています。それは精神的なものが重視される統合の時代が来るということです。

ちなみにウスマンが暮らすアフリカは西洋文明に属するようです。みかちゃんによると、物質文明である西洋は格差を表現するものであり、下部を表す役割としてアフリカは存在して来ました。その格差が埋めるために、アフリカには少しだけ西洋的発展が必要となります。

物質と精神。それは、見えるものと見えないものとも言えます。そして、それは結果と過程とも言えるのではないかと思いました。

結果とは、たいてい目に見えるものであり、表面に現れているものです。その特徴は物質と重なります。だから結果を重視し、結果に囚われる姿勢は、物資的な豊かさを追求し、それに執着する姿勢と重なるのではないかと思いました。結果の奥にはそこに至る過程、プロセスがあります。それは目には見えないかもしれませんが確実のその現象を支えています。

結果ばかりに目を向けると、勝ち負けなどがはっきりし、すべての人の望みを叶えることは出来ません。ですが、そこへと至る過程へ心を向けると、物語が見えてきて、その物語はみんなで共有することが可能となります。だから過程へと目を向けることは人と人とを繋げていきます。

日々の生活の中で、目に見える状況は刻一刻と変化していきます。結果ばかりを重視していると、その変化に心が揺さぶられ、目の前の状況に右往左往することになります。ですが、そこへと至る過程に心を向けていれば、その出来事の根本へと至り、気持ちを落ち着けることが出来ます。

今、精神的なものが重視される時代を迎えています。それは結果を重視し、結果に一喜一憂する姿勢から、過程を重視し、過程を共有する姿勢への転換を意味します。

気候変動、そこから生まれる災害、紛争や社会の分断や孤立。

今、世界には様々な問題が起きています。その結果の部分だけを眺めていると絶望的な気持ちにもなります。ですが、そこへ至る過程に目を向けると、そこから今までの人間の心が見えてきて、学びや洞察が与えられます。それをみんなで共有することは相互理解へと繋がり、一人ひとりの心の変化へと繋がっていきます。そこにこそ、この困難な時代を克服する希望があるのだと思っています。

だから今、アフリカ、そしてこの世界全体にとって本当に必要とされているのは、精神的な支援です。それは日々の暮らしの中で、そして世界各地のニュースに触れる時に、目には見えない奥の心を探求し続ける姿勢を育むことです。だからこそ、そんな実践を続けて、出会う人々とその精神を分かち合っていこうと思っています。


探求を継続していく

ジイジ:
私たちの生にまつわる物理的現象の一から十までのプロセスをたどるとしたら、九のあとは十ではなく・・・0ということになる。一二三四五六七八九で、次は次元が変わって0に行く。そうすると、生が一になる。一二三四五六七八九でひとつのサイクルが終わり、0の段階に入って、一二三四五六七八九・・・と捉えられるのではないか。つまり、九に行って死を迎えると、0になる。そうすると、それはリセットで、また始まるという考え方がそこに秘められているのではないだろうか。


ようこ:
日本人の中には輪廻転生の捉え方が自然と組み込まれていて、西洋だと、たとえば近代キリスト教にはその捉え方はない。一回の人生で終わりと考えられている。

みちよちゃん:
それに対して日本人の死生観は、死んだらそこがスタートで、そこから準備をして次の生につながっていく。

ジイジ:
だから、0というのが準備期間と捉えれば、0一二三四五六七八九となる。

ようこ:
0は何もないみたいだけど、そこには大切な何かがある。

ジイジ:
0があるからこそ、一がある。いきなり、一にはならない。一になるまでの準備期間が本来ある。

ようこ:
0と一二三四五六七八九は、潜象界と現象界のような存在?

ジイジ:
それは潜象界と現象界の話ではなく、現象世界にその仕組みがあるということ。それでも、カタカムナで捉えると、カタカムナはヒから始まる。ヒフミヨイ・・・
そうすると、それがひとつずつずれている可能性がある。ヒは秘かで、まだ動きが何もない状態だから、0とも言える。そうすると、ヒが0とも捉えられる。それで、フの段階で初めて動き出すから、フが一となる。だから、九で統合ということになる。そして、また0に戻る。

みちよちゃん:
それは、日本の数え年と同じような概念だね。

ジイジ:
そうだね。ヒは秘かで、ものの始まりだが、何もない状態。フで初めて動き出す。そうすると、フを二つと捉えるかどうかは微妙なところだ。そういう微妙な位置ということなのだろう。

みちよちゃん:
西洋的と言っていいのかはわからないけれど、細胞分裂的に考えると、ヒは秘かで、あるかどうかわからない状態だけれど、フで細胞分裂が二つになっていくと考えると・・・

ジイジ:
それは、おそらく楢崎皐月が西洋的な物理学者だったから、そのようにしたのだろう。明らかに、ヒはまだ何もない、秘かな状態だ。しかし、楢崎はヒフミヨイ・・・を一二三四五六七八九に当てはめたから、そうなったんだよ。


こういった深い探究は、今までの探究の結果を真理とせず、これからも探究し続けていく姿勢でありたいものだ。


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上記の文章で、ジイジは「九が統合で九の後、新たな0に戻る」と語っていますが、それは、「くみくら」や「エニアグラム」が1~9の数字で成り立っていることと一致していると思いました。例えば、今年の6月、僕は以下のような文章を書いています。

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123(ひふみ)は人、456(よいむ)は国、789(なやこ)は天地と表します。


上記の図(くみくら)はみかちゃんが教えてくれたものですが、ヒト、個人の言葉(ヒ)と心(フ)が一致(統合)することで行動という実り(ミ)となって表れ、クニの言葉(ヨ)と心(イ)が一致(統合)することでクニに実り(ム)がもたらされ、天地の言葉(ナ)と心(ヤ)が一致(統合)することで天地に実り(コ)がもたらされます。

それは同時にヒトとクニが一致(統合)することでもあり、ヒトとクニの統合により天地に実りがもたらされ弥勒(369)の世が実現するのです。ヒフミヨイムナヤコ、ヒト(ヒフミ)、クニ(ヨイム)、天地(ナヤコ)と進むこと(3×3=9)で真の統合(ト・10)へと至ります。




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9は天地の実り、ですからそれは「コ」ではなく、真の統合(ト・統合)とも言えます。そして「0」へと戻るのです。

ところで2018年は、「2+0+1+8=11・1+1=2」で2の年です。「2」の年の木の花ファミリーのテーマは再スタートです。「2」が動き出す年となっているのは、相反するものの存在で動きが生まれたこの世界の法則と一致しているのではないかと思います。神さましか存在しない世界「1」には、動きも認識もなかったのです。こんなふうに考えると、それぞれの数字は前の数字の特性を持ち合わせているとも思えます。「1」は単独では何も動きが生まれないということで、「0」の特性を持ち合わせています。そして、「2」は、相反するものの存在で初めて動きが生まれるということで「1」の特性を合わせ持っているのです。

ジイジは、

こういった深い探究は、今までの探究の結果を真理とせず、これからも探究し続けていく姿勢でありたいものだ。

と語っています。だから僕も、ジイジの言葉を正解として固定せずに、それをきっかけとして探求し続けていこうと思っています。

話は変わって。今日はティク・ナット・ハンの誕生日です。ティク・ナット・ハンは誕生日を「継続の日」と表現しています。「ありのままに観て、ありのままに聴く」で紹介したティク・ナット・ハンの姿勢、怒り、恐怖、欲望から自由となり、すべてをありのままに観て、ありのままに聴くこと、僕はその実践を継続し続けます。そして、これからもずっとずっと継続していく宇宙の流れの中で、一つの物語を担っていこうと思っています。




ありのままに観て、ありのままに聴く

「なかのんのブログに書いている事は仕上がってきてはいるが、実際の心情についてはまだ仕上がっていない」という事でもある。微妙な所だけど、ブログには「僕にはこの道しかない」となかのんは宣言している。心情的には何かが残っているんだけど「僕にはこの道しかないから、辛くても行きます」というような事になると、目指すものと違う。

目指す所は、「人間を磨いていくと磨くことによって次の次元、高い意識になって自ずと新しい現象に出会う、自ずと過去に自分が思ってた事が叶うという事がある」という話だよ。それは、目指していく事でもなければ、それが尊い事だからといって我慢していくという事でもない。それでは目指す所と違う世界になってしまう。


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上記は2年前の10月にジイジ(当時はいさどん)が僕について語った言葉で、当時の僕の学びの段階を示しています。それでは今の僕は?

ここで話は変わって。

今朝、2014年6月に行われたティク・ナット・ハンへのインタビューを目にしてとても感動しました。その文章を転載したいと思います。

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理解の欠如が 私たちを犠牲者にする  The Lack of Understanding Turns Us Into Victims


・ティク・ナット・ハン師。キング牧師によりノーベル平和賞候補に指名された人物。

88
歳。禅師です。16歳で出家しました。ベトナム人でフランス在住です。プラムヴィレッジという仏教コミュニテイをここフランスで開きました。マインドフルな生き方をあらゆる人が学べるリトリートを指導しています。平和か仏教か、どちらか一つだけしか選べないとしたら、私は平和を選びます。

── ベトナムでは戦火のさなか、僧侶たちを連れ、救済活動をされました。
私の命は重要ではありません。 重要なのはあなた方がマインドフルネスを実践すること。私はその助けになりたいのです。

── 黙想から献身へと方向転換されました。あなたは革命家です。
私がそう決断した、と思われるかもしれません。でも現実には決断とはすでに存在しているのです。すべてはいかにありのままに観て、聴くことができるか...にかかっています。

──しかし、あれはやはりあなたの決断でした。
決断の自由とは、マインドフルネス以外からは得られないものです。息を吸うとき、息を吸っていることに気づく。息を吐くとき、息を吐いていることに気づく。あの決断は長い間のこの実践の末にあったものです。

──「自由」ですか?
そうです。怒り、怖れ、欲望からの自由です。それが心に慈しみを授けてくれるのです。

── ベトナム戦争で、人間についての何を知りましたか?
ベトナム戦争には、他の戦争との違いはありませんでした。誤った考えから起きたものです。怖れと怒りに支配されると、私たちは自分たちの苦しみも、敵方の苦しみも理解できなくなってしまうのです。

──人間の宿命ですね。
相手への理解の欠如は、私たちを犠牲者へと変えてしまいます。双方に平和と幸福をもたらす意図があっても、お互いとの意思の疎通ができなくなってしまうのです。

──自分の身を犠牲にした僧侶たちがいます。これは自分自身への暴力です。
私達の苦しみを世界に伝えるには、それ以外に方法がありませんでした。むしろ重要なのはどう行動したかよりも、どのような思いで行動したか、です。

──西洋医学の精神科医なら、自己を犠牲にして自分の身に火を放つことは、気が狂っていると言うでしょう。
それが私が渡米し、キング牧師に訳を話しに行った理由でした。西側諸国の視点からでは、到底理解することは難しかったでしょう。

──キング牧師はあなたをノーベル平和賞候補に指名し、公式にベトナム戦争反対の立場を取りました。
私が渡米したのは、アメリカで実際の状況がほとんど知られていないことを知っていたからでした。でもルーサー・キングとは長い間葉書のやり取りがあったのです。彼もまたあなたと同じように、なぜ僧侶たちが焼身するのかを理解したがっていたのです。

──米連邦政府や、ロバート・マクナマラをはじめとする米国防総省高官たちとも会談されました。
最も手強かったのは、強い怒りを抱えた平和運動の当事者たちでした。長い時間をかけて私は彼らが慈しみの心を持てるように助けました。彼らは私が怒っていないことに対して、激しい怒りを持っていたのです。非常な忍耐をも必要とされました。

──国が禁じる中、どうやって仏教大学を創設することができたのでしょうか。
簡単なことではありませんでした。でもこれはぜひお伝えしたいことですが、あなたにどれだけの才能や力があっても、大事は一人ではやり遂げることはできないということです。私たちはたくさんの理解がおたがいに通い合い、共通の理想を持つコミュニティをつくりました。これが大事をやり遂げるための原動力をつくりだすのです。

──ベトナム戦争に従軍した、アメリカの退役軍人たちと協力していますね。
一緒にマインドフルネス・リトリートを行いました。非常に難しいものでもありましたが、真の癒しが生まれていきました。理解をさらに核心へと深めていく必要があります。彼らを戦場に送った側の苦しみもまた、理解されなければならないものです。

──目的のための犠牲やむなし、が彼らの言葉でもですか?
兵士を戦場に送った側も非常に苦しんでいます。マクナマラ国防総省長官は、私との会談後、3ヶ月で辞任しました。マクナマラ氏は心に重荷を背負っていました。この戦争は誤りだと考えていたのです。

──戦争の恐怖は、どうすれば癒やせるのでしょうか。
自分の苦しみを理解し、他の人の苦しみを理解するとき、他の人を助けたい思いにかられます。慈しみの心が生まれるのです。これが、その人自身を癒し始めるのです。ひとつ話をしてもいいでしょうか。

──どうぞ。
元米軍兵のダニエルは戦時、憎悪で心が一杯でした。仲間のほとんどが奇襲によって命を落としていたのです。ダニエルは復讐を望みます。ある村へと出向くと火薬を詰めたサンドイッチでいっぱいの袋を置いたのです….そして5人の子供たちがやってきてそのサンドイッチを食べるのをじっと見ていました。

──子供達が死んでいくのを見ていたのですか?
そうです。母親たちの腕の中で子供たちは死んでいきました。ダニエルは私と出会った頃、拷問を受けるかのように苦悩していました。恐ろしくて誰にもこのことを話せなかったのです。私は、世界で命を落としていく子供たちを救うことに人生を捧げるよう、ダニエルに助言しました。大きな志の力が彼を救ってくれるように。ダニエルはその通りに実行しました。そしてある晩、ダニエルは夢を見たのです。死んでいったあの5人の子供たちがダニエルに向かって微笑んでいる夢でした。ダニエルは健康を取り戻し、イギリス人の歯科医の女性と結婚しました。

──あなたは銀行家やビジネスマンたちが教えを乞う賢者でもあります。
彼らが私たちを訪ねて来るのもまた、苦しむがゆえです。

──彼らのうちの一人でも行動すれば、世界の飢餓問題はあっという間に解決すると思いますが。
彼らも福祉プロジェクトを運営してはいますが、苦しみの解決にはなっていないのです。

──なぜ彼らはそんなに苦しむのでしょうか。
お金があるのにも関わらず幸せではなく、誰のことも愛する時間も無いからです。彼らの心は心配事と怖れ、怒りでいっぱいで楽しむ余裕もないのです。仲間や妻や子供とも心を通わせることがありません。心の通い合いがなければ、幸せにはなれません。よく私は彼らにこう言うのです。『幸せとお金、どちらを選びますか?どちらかひとつしか選べないのですよ。』

──その両方が彼らの望みです。
その通り。でも真剣に実践をすると、彼らは考え方を変えていき、愛を見つけるのです。そして幸せを選び、富は必要ないものだと気づきます。実に興味深いことに。

・疲れを知らない
自国ベトナムでの戦時、ティク・ナット・ハンは、自身の人生を運命付ける決断をする。僧侶たちを率い、戦火の下救済活動を実践。それ以降、平和活動家となる。アメリカ訪問時には米連邦政府・国防総省で停戦を訴えた。マーティン・ルーサー・キング・Jr牧師に申し入れ、キング牧師がベトナム戦争反対の立場を公にしたことで、歴史の流れを変える。戦後、青年社会奉仕学校を設立。村や小さな町、学校、医療施設を再建。最近の米ツアーでは最も影響力を持つ人々と会合。つい最近スペインでのツアーを終える。

Ima Sanchís


Wake Up Internationalウェブサイトより・ビラブド・コミュニティーより和訳を掲載させて頂きました。)

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ありのままに観て、聴くこと。

ティク・ナット・ハンは決断において上記の重要性を述べています。自らの実践により決断は自ずから生まれる、つまりは自らの意思も日々の実践により自ずから生み出されるものと言えます。

ありのままに観て、聴くこと。

そこから慈しみの心が生まれ、そのような意思、決断、行動が生まれます。

自らの怒り、恐れ、欲望。それらは自らの視点に偏りを生み出し、ありのままに観て、聴くことが出来なくなります。そうすると、自らの決断や行動も偏ったものとなりますが、この状態では、自分でその事実に気づくことも困難となります。そうして相手への理解の欠如が生まれ、人は自分を犠牲者のように感じていくのです。

だから大切なのは、何をするかではありません。そして、何を目指すかでもありません。ひたすら自分を見つめ、自らの怒り、恐れ、欲望から自由になることです。

2年前の僕は、この道を歩む決断をしていましたが、心情的に残しているものがありました。自らの欲望から自由ではなかったのです。

そして今は?

あの頃よりははるかに自由になっていると思います。だけれども、怒りや恐れ、欲望は自我の産物。そして自我は浮かんでは消える波のようなものです。これで超えたというものではなく、常にそこから離れて見通す必要があるものです。だから僕は、生きている間、ずっとその実践を続けていきます。

慈しみの心が自ずから生まれるように。

僕は、自らの怒り、恐れ、欲望を見通し、そこから自由となって、ありのままに観て、聴くことが出来る状態を保ちます。これからの僕の意思、決断、行動は、そこから自ずから生まれるもので僕の意図を超えたものです。

そんなふうに未知の道を歩んでいこうと思っています。

ボーシャンファミリー出発の日ボーシャンの言葉も思い出しました。



変化・変容・変態を繰り返す美しさを表現していく

いさどん(当時のジイジの呼び名)が来るトキに限って失敗する

3年前の大人ミーティングでそんなふうに発言する人がいました。その発言について僕は、「評価を求めて硬くなってしまうからそういうことが起こるのかな?」とジイジに尋ねたことがあります。以下はそんな僕の言葉に対するジイジの回答です。

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僕が行くことで緊張するとかそういうことではなくて、多くの人は自分のやっていることが見えていないのです。そこに僕が行くことによって、見えていなかったことが明らかになるのです。つまり、それまではOKにしていたことが、よく見ることによってOKではなくなるのです。こういう人は普段から失敗をしているのです。

多くの人は自らの欲望のままにそれに翻弄されて生きています。
これは意識が自分にばかり向いている状態です。
この状態では心からの気づきは生まれず、失敗も見えないのです。



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自らの欲望のままに生きるトキ、世界は自分の都合の良いように映ります。失敗など都合の悪い出来事はなかったことにして生きるようにもなります。ありのままにそのトキそのトキのことを語るジイジの存在はそんな人の実態を明らかにします。そういう人にとって明らかになった実態は都合が悪いので、それを受け入れることが出来ず、慌てたり隠そうとしたりすることになるのです。

そんな人間の特徴について、木の花ファミリー通信秋分号「21世紀の死生観 第3部 美しいとは」では以下のように表現されています。

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私たちの肉体は、母親の胎内で受精後、わずか1mmにも満たないほどの小さな生命から、魚類、両生類、爬虫類を経て哺乳類へと至る38億年の生命進化の歴史を胎内でたどり、280日でこの世に誕生します。そして日々、地・水・火・風・空という自然の五大要素の循環の中で、細胞レベルでの生死をくり返しながら、赤ん坊から子どもへ、そして大人へと成長していきます。年月とともに肌にはしわが刻まれ、髪は白くなり、やがて寿命を迎えれば、魂の抜けた肉体は原子レベルへ解体し、次の生命を構成する材料となります。死は、それまでの縁から解き放たれて、生態系の循環の中へと還っていく美しい瞬間です。

このように個々の存在は時の流れと共に変化し続け、その個々の集合体である全体もまた、新陳代謝をくり返しながら、常に新しく生まれ変わり続けています。この、淀みなく変化していく姿が、この世界の美しさです。

美しいとは、すべてが淀みなく流れ、未来へ向かって変化しながら、進化していくことです。それは、宇宙の姿そのものです。宇宙は常に未知なる場所へと進みながら、変化・変容・変態をくり返しています。それは宇宙が生命だからです。生命とは留まることなく変化し続けるものであり、私たちの体は、その仕組みをもっとも身近に現しながら、命とは何か、美しいとは何であるかを、教えてくれているのです。

この美しい世界の中で、人間は極めて特殊な能力を与えられました。

すべてがつながり、循環していく仕組みの中で、自我を持った人間は「自分」というものを特別に意識するようになりました。そしてその高い能力を使い、世界の流れに沿って自らを変化させていくよりも、自分を保ち、世界の側を自らに都合のいいように変化させようと考えるようになったのです。その心は、すべてが変化し続ける流れの中に滞りを生み、様々な矛盾を発生させました。ウソ、かけ引き、争い、孤立。それはつながることが基本である宇宙の本質とは、対極にあるものです。

人は誰しも、美しい世界を求めています。ところが現代社会は、人間の都合を優先した、とても美しいとは言えない世界になってしまいました。美しく整備されて見える都市は、その陰で莫大な量のゴミを出し、美しく装った人々の奥には、争いや孤独、病気や犯罪など、自己中心の心が蔓延しています。流れに逆らい、力ずくで世界を思い通りにしようとすれば、たくさんのエネルギーが必要です。人々はもっともっととかき集め、傷付け、奪い合い、多くの無駄を発生させ、地球や、自分たちの命さえ蝕むようになりました。ところが、世界中がこれほどの問題ごとで溢れかえりながら、人々は問題のあることが当たり前になり、それを自らが創り出していることさえわからなくなってしまったのです。


多くの人は目に見える形を見て「美しい」と言います。しかし真の美しさとは、その奥の「心」にあります。どんなに形を美しく取り繕っても、奥にある心が汚れていれば、それは必ず問題となって自らに返ってきます。ところが自分が汚れているという認識がなければ、自らが出会った問題を他人や世の中のせいにするのです。それどころか、その問題をなかったことにしてしまうのです。

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自分の幸せばかり考えて、意識が自分にばかり向くようになると、世界が自分の色に染まり、自らが問題を創り出していることが見えなくなり、自分の失敗も見えなくなります。そんな人間に対して、宇宙は滞りという「愛」を与えてくれているのです。先の文章に続いて木の花ファミリー通信には以下のように書かれています。

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すべてが淀みなく変化していく流れがこの世界の美しさなら、汚れとは、その流れを滞らせ、宇宙の本質から外れる働きです。現代の人々はこれほどの問題を生み出しながら、その問題の元となる自らの心の汚れを見ることを避けてきました。しかし、宇宙の根本は善意です。体の成り立ちを無視して心が暴走し、暴飲暴食をすれば、体は病気になってそのことを教えてくれるように、人々の心が分離し、自分勝手に生きるようになれば、世界は大きな災害を起こして一人では生きられないことを教え、つながることを促します。つながるとは、命を紡ぐことです。

宇宙はいつでも、私たちがこの大いなる流れから外れ、世界に矛盾をもたらせば、再びその流れへと戻るように導いています。その流れに逆らい、同じ場所に留まろうとする限り、宇宙はあなたに問題ごとを与え続けるでしょう。なぜなら、宇宙はあなたを「一緒に新たな世界へ進もう」といざなっているからです。

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今起きている異常気象や日常生活での失敗は宇宙が与えてくれる「愛」です。宇宙が与えてくれる滞りという「愛」は人間に実態を見るように促します。そして実態は、例えば今、失敗を繰り返していたとしても、変化・変容・変態を繰り返しながら未知なる場所へと向かう宇宙の流れの中にあり、大きな視点に心を開いたら、美しい流れの中で変化していくのです。

今を留めようとする心、都合の良い世界を求める心、そんな心を手放せば、実態の尊さに気づき、思いもよらない出来事を楽しめるようになります。それは宇宙、そして自分の実態である変化・変容・変態を繰り返す美しさの表現となります。

今、世界には多くの問題がありますが、それらと向き合うことで自らと世界の実態を知り、儚く潔く美しく、宇宙の法則のままに生きていけば、きっとすべてが繋がり合う調和した世界が実現することでしょう。

そんな世界に向けて日々の変化を楽しみます(^-^)



あれから3年、今の僕の到達点(2)

ロータスランドの絵。雑多な日常(絵の前の棚)に仏が生まれ宇宙の光が降りてきます。

あれから3年、今の僕の到達点」にも書いたように2015年10月2日は僕にとって大きな転機でした。大人ミーティングでは、僕の話題が多くを占めたのですが、そんな中、みちよちゃんは以下のオーロビルのマザーの言葉を訳していたそうです。

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The Mantras of Bliss and Transformation !

Are you ready to change yourself completely? 
You will have to throw off your ideas,ideals,values,interests,and opinions.
Everything will have to be learnt anew.
If you are ready for all this,then take aplunge;
otherwise don't try to step in.


至福と変容のマントラ

完全にあなたを変化させる準備ができていますか?
あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。
全ては新しいものとして学ぶべきことです。
もしあなたがこうした全てに準備ができていたら、飛び込んで。 
さもなければ、それには踏み込もうとしないことです。

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その言葉はまさに当時の僕に向けられた言葉で、この言葉を受けて、ジイジは以下のように語りました。

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僕があなたに伝えていることは、決してあなたに不愉快を与えるものではありません。どれ程の想いを込めて、そして願って、あなたの追い風になろうとしているか。そういうことが分かったら、今の状態でいる自分が、いかに恥ずかしいことで申し訳ないことであるかに気づくでしょう。

「あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。」というマザーの言葉。それは自我を捨てて、天のままに生きるということです。僕は昔、それを天のマリオネットと表現しました。でも、その考えは今は変わっています。昔、夜、外に出て上を見て、月が出ていれば月、星が出ていれば星、曇っていたら、その上に星や月を想像して語っていました。

「神さま、私はあなたの意志に沿うものです。」

そうすると、そういうことを語っていた時、その間違いに気付きました。「あなたの意志に沿うものです」ということは、あなたという意志があって、そして、それを受けている自分がいるということです。でもよく考えてみたら、あなたという意志はわたしに表れています。だから、本当のそれが通じた時に、私の意志はあなたそのものなのです。

あなたはわたし、わたしはあなた。

その時、「神さま」とそこに気持ちを向けたり、「あなたの意志」というようにそこに特定を持った時に、すでに自分、自我を成立させているのだと気づいたのです。

まわりてめくる。

すべては新しい出来事として学ぶべきことです。常に新鮮で新しい毎日が来るわけですから。

これを世間の価値観で生きる人たちはなんだろう?と思うかもしれませんが、すべての人が行きつく先はそこなのです。まだ社会がそこまで熟していない時に、我々が先駆けとしてこれをやっています。その構造が分かるならば、本当にそのことの貴重さ、尊さ、有難さを思って、あっさり一目散にそこに向かうでしょう。

なかのんはブログで立派なことを書いています。今の状態でそれを書くことは、偽物を書いて罪を犯しているような話で、それは自分の価値をどんどん落としているのです。でも、だからブログを書くなということではないのです。ブログに相応しいものになるとしたら、そんな状態でいるはずはないのです。

そこは僕のためではなく、あなたの価値を上げるということと、世の中の為にあなたに目覚めて欲しいと僕は願っています。

そして価値あるものとしてあなたのいろいろな思いが表現されていく世界を実現しなければなりません。愚かしいところで、目覚めない状態で自分の願いを叶えるということは、自分にとっても世界にとっても何もいいことはありません。そこを分かるということだと思います。

我々は何をするかというと、僕と同じような話をみんなにしろって言っているのではないのです。「みんなで」という気持ちで暮らし、それを人々に見てもらいたいのです。こんな素晴らしい世界がいっぱいに広がって欲しいから、人々に見て欲しいのですよ。たったそれだけです。

それは日常、みんなが気持ちよく「さーと」心が通っていって、「ああこれだったんだね。これがやりたかったんだね。」そういうことを言葉ではなく空気を感じて、「神さまの目的はこういう世界だったんだ」と理解することです。

これはとても身近にあって、アカデミックでもなんでもありません。哲学とか立派な話でもなんでもありません。

「あぁ、いい空気だね。」
「こういうところに生涯身を置きたいね。」
「こういう生き方を自信を持って、安心の場所でやりたいね。」

そう感じたら誰だって出来るんですよ。

僕はこういう話をしばらく避けてきましたが、みんなが僕の気持ちに共鳴するならば、僕からどんどん発信されて、「そうだね、そうだったね。」となるんだったら、いくらでも話す価値があるなと思うのです。

でも待ちの姿勢で話を聴いて、良い話だったねとなって後で忘れていくならば、僕もジレンマを感じてしまいます。みんなで良い響きを生み出していく。そんなふうでありたいです。

なので、お願いだから、人の心を調整するような時間をこの場に持ち込まないで下さい。自分の心は自分で調整して下さい。もうそういう段階です。それでも、残念ながら、充分に果たせなかった時に、それを投げやりにならないで、表に出して、みんなにそれを正す方法を請うて下さい。自分に実力がないのですから。

そして、みんなに助けてもらって、心から「ありがとうございます」と言って進んで下さい。そうしたら、あなたの未熟も「良い場創りに役だったね。」ということになります。

みんなが他者のことを思い合う。そういう心の表現に繋がるのですから。

だから未熟でもいいのです。本当にみんなに託していく。そういう場創りが大切です。そしてそういう場はいつでも表現出来るのです。道を難しい道だと思わないでください。

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マワリテメクル

カタカムナの5首に含まれる一節ですが、これは自転公転の二面性を表していると言われています。一文字ずつ読み解いていくと、「マ」は自転公転の運動によって区切られた空間でありこの世界そのものと言えます。そして現象が生まれる縁(ふち)が「ワ」であり、そこから離れていく動き「リ」により、二面性「テ」が「メ」ばえ、それが自由「ク」を維持している「ル」ということ。つまりそれは、相反するものの存在により絶えず新しいものが生み出されるこの世界の法則を表しています。

「神さま・・・」と対象を固定し呼びかけることは自我を生むことですが、自我があるからこそ認識が生まれます。神さまが自己認識のために完全なる光から闇を分けたように、人は自らを他者から分けることで自分自身を認識します。分けることは分かることに繋がりますが、認識を深めていくと、すべては一つ、分けられないということが見えてきます。分けることにより分けられないということが見えてきて、すべては自分の認識を超えていること、分からないということが分かるのです。

この世界は自分の鏡です。人は世界という鏡を通してのみ自分を知ることが出来ます。だから他者や世界に働きかけることは自分に働きかけることであり、他者や世界からの反応は自分自身の顕れです。そして自分を磨くことは世界を磨くことであり、世界という「鏡(カガミ)」から「我(ガ)」を取ることで「神(カミ)」という尊く美しいものを見出すのです。これらすべて相反する動きの中にあり宇宙は常に新しいところへと向かっているのです。

自我は浮かんでは消える波。自我を捨てるとは波を離れて海である自分に気づくことです。この世界にはたくさんの波、自我が存在しますが、海に至ればすべては一つなのです。波である自我の動きを見通し、他の波と同じように眺めて、表現すること。それが価値あるものとして想いを表現していくことで、僕が実践し続けていくことです。

ということで、ここでちょうど1年前に書いた文章を紹介します。

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きっと自我は人々の未熟としてずっとあり続けます。そして、そこから様々な喜びや苦しみが生まれ続けます。ですが、客観的視点があれば、それらの体験、人びとの未熟をみんなの学びにしていくことが出来ます。未熟があるから想い合える。そんな空気を生み出すことが出来るのです。だから自我はあってもいいのです。自我を持ちながらもそこを超えようとする意志を持つ時、客観的視点がすべての出来事を生かし、豊かな繋がりとなって表現されていくのです。それが生きていることの醍醐味であり、僕ら木の花ファミリーが先駆けとして表現しようとしている世界、「ここはなんだろう・・・あれ?!」という世界です。



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こんな気持ちで、これからも自我の動きを見通すことで、みんなと学び合って豊かな暮らしを表現しようと思っています(^-^)


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