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あれから3年、今の僕の到達点(2)

ロータスランドの絵。雑多な日常(絵の前の棚)に仏が生まれ宇宙の光が降りてきます。

あれから3年、今の僕の到達点」にも書いたように2015年10月2日は僕にとって大きな転機でした。大人ミーティングでは、僕の話題が多くを占めたのですが、そんな中、みちよちゃんは以下のオーロビルのマザーの言葉を訳していたそうです。

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The Mantras of Bliss and Transformation !

Are you ready to change yourself completely? 
You will have to throw off your ideas,ideals,values,interests,and opinions.
Everything will have to be learnt anew.
If you are ready for all this,then take aplunge;
otherwise don't try to step in.


至福と変容のマントラ

完全にあなたを変化させる準備ができていますか?
あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。
全ては新しいものとして学ぶべきことです。
もしあなたがこうした全てに準備ができていたら、飛び込んで。 
さもなければ、それには踏み込もうとしないことです。

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その言葉はまさに当時の僕に向けられた言葉で、この言葉を受けて、ジイジは以下のように語りました。

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僕があなたに伝えていることは、決してあなたに不愉快を与えるものではありません。どれ程の想いを込めて、そして願って、あなたの追い風になろうとしているか。そういうことが分かったら、今の状態でいる自分が、いかに恥ずかしいことで申し訳ないことであるかに気づくでしょう。

「あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。」というマザーの言葉。それは自我を捨てて、天のままに生きるということです。僕は昔、それを天のマリオネットと表現しました。でも、その考えは今は変わっています。昔、夜、外に出て上を見て、月が出ていれば月、星が出ていれば星、曇っていたら、その上に星や月を想像して語っていました。

「神さま、私はあなたの意志に沿うものです。」

そうすると、そういうことを語っていた時、その間違いに気付きました。「あなたの意志に沿うものです」ということは、あなたという意志があって、そして、それを受けている自分がいるということです。でもよく考えてみたら、あなたという意志はわたしに表れています。だから、本当のそれが通じた時に、私の意志はあなたそのものなのです。

あなたはわたし、わたしはあなた。

その時、「神さま」とそこに気持ちを向けたり、「あなたの意志」というようにそこに特定を持った時に、すでに自分、自我を成立させているのだと気づいたのです。

まわりてめくる。

すべては新しい出来事として学ぶべきことです。常に新鮮で新しい毎日が来るわけですから。

これを世間の価値観で生きる人たちはなんだろう?と思うかもしれませんが、すべての人が行きつく先はそこなのです。まだ社会がそこまで熟していない時に、我々が先駆けとしてこれをやっています。その構造が分かるならば、本当にそのことの貴重さ、尊さ、有難さを思って、あっさり一目散にそこに向かうでしょう。

なかのんはブログで立派なことを書いています。今の状態でそれを書くことは、偽物を書いて罪を犯しているような話で、それは自分の価値をどんどん落としているのです。でも、だからブログを書くなということではないのです。ブログに相応しいものになるとしたら、そんな状態でいるはずはないのです。

そこは僕のためではなく、あなたの価値を上げるということと、世の中の為にあなたに目覚めて欲しいと僕は願っています。

そして価値あるものとしてあなたのいろいろな思いが表現されていく世界を実現しなければなりません。愚かしいところで、目覚めない状態で自分の願いを叶えるということは、自分にとっても世界にとっても何もいいことはありません。そこを分かるということだと思います。

我々は何をするかというと、僕と同じような話をみんなにしろって言っているのではないのです。「みんなで」という気持ちで暮らし、それを人々に見てもらいたいのです。こんな素晴らしい世界がいっぱいに広がって欲しいから、人々に見て欲しいのですよ。たったそれだけです。

それは日常、みんなが気持ちよく「さーと」心が通っていって、「ああこれだったんだね。これがやりたかったんだね。」そういうことを言葉ではなく空気を感じて、「神さまの目的はこういう世界だったんだ」と理解することです。

これはとても身近にあって、アカデミックでもなんでもありません。哲学とか立派な話でもなんでもありません。

「あぁ、いい空気だね。」
「こういうところに生涯身を置きたいね。」
「こういう生き方を自信を持って、安心の場所でやりたいね。」

そう感じたら誰だって出来るんですよ。

僕はこういう話をしばらく避けてきましたが、みんなが僕の気持ちに共鳴するならば、僕からどんどん発信されて、「そうだね、そうだったね。」となるんだったら、いくらでも話す価値があるなと思うのです。

でも待ちの姿勢で話を聴いて、良い話だったねとなって後で忘れていくならば、僕もジレンマを感じてしまいます。みんなで良い響きを生み出していく。そんなふうでありたいです。

なので、お願いだから、人の心を調整するような時間をこの場に持ち込まないで下さい。自分の心は自分で調整して下さい。もうそういう段階です。それでも、残念ながら、充分に果たせなかった時に、それを投げやりにならないで、表に出して、みんなにそれを正す方法を請うて下さい。自分に実力がないのですから。

そして、みんなに助けてもらって、心から「ありがとうございます」と言って進んで下さい。そうしたら、あなたの未熟も「良い場創りに役だったね。」ということになります。

みんなが他者のことを思い合う。そういう心の表現に繋がるのですから。

だから未熟でもいいのです。本当にみんなに託していく。そういう場創りが大切です。そしてそういう場はいつでも表現出来るのです。道を難しい道だと思わないでください。

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マワリテメクル

カタカムナの5首に含まれる一節ですが、これは自転公転の二面性を表していると言われています。一文字ずつ読み解いていくと、「マ」は自転公転の運動によって区切られた空間でありこの世界そのものと言えます。そして現象が生まれる縁(ふち)が「ワ」であり、そこから離れていく動き「リ」により、二面性「テ」が「メ」ばえ、それが自由「ク」を維持している「ル」ということ。つまりそれは、相反するものの存在により絶えず新しいものが生み出されるこの世界の法則を表しています。

「神さま・・・」と対象を固定し呼びかけることは自我を生むことですが、自我があるからこそ認識が生まれます。神さまが自己認識のために完全なる光から闇を分けたように、人は自らを他者から分けることで自分自身を認識します。分けることは分かることに繋がりますが、認識を深めていくと、すべては一つ、分けられないということが見えてきます。分けることにより分けられないということが見えてきて、すべては自分の認識を超えていること、分からないということが分かるのです。

この世界は自分の鏡です。人は世界という鏡を通してのみ自分を知ることが出来ます。だから他者や世界に働きかけることは自分に働きかけることであり、他者や世界からの反応は自分自身の顕れです。そして自分を磨くことは世界を磨くことであり、世界という「鏡(カガミ)」から「我(ガ)」を取ることで「神(カミ)」という尊く美しいものを見出すのです。これらすべて相反する動きの中にあり宇宙は常に新しいところへと向かっているのです。

自我は浮かんでは消える波。自我を捨てるとは波を離れて海である自分に気づくことです。この世界にはたくさんの波、自我が存在しますが、海に至ればすべては一つなのです。波である自我の動きを見通し、他の波と同じように眺めて、表現すること。それが価値あるものとして想いを表現していくことで、僕が実践し続けていくことです。

ということで、ここでちょうど1年前に書いた文章を紹介します。

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きっと自我は人々の未熟としてずっとあり続けます。そして、そこから様々な喜びや苦しみが生まれ続けます。ですが、客観的視点があれば、それらの体験、人びとの未熟をみんなの学びにしていくことが出来ます。未熟があるから想い合える。そんな空気を生み出すことが出来るのです。だから自我はあってもいいのです。自我を持ちながらもそこを超えようとする意志を持つ時、客観的視点がすべての出来事を生かし、豊かな繋がりとなって表現されていくのです。それが生きていることの醍醐味であり、僕ら木の花ファミリーが先駆けとして表現しようとしている世界、「ここはなんだろう・・・あれ?!」という世界です。



☆彡 ☆彡 ☆彡

こんな気持ちで、これからも自我の動きを見通すことで、みんなと学び合って豊かな暮らしを表現しようと思っています(^-^)


あれから3年、今の僕の到達点。

10月1日、台風一過の富士山です。

頭では「これが大事」と分かっていても、感情的になるとそれが吹っ飛んでしまい投げ出してしまう。そしてまた冷静になったトキに後悔する。

昨日、ジイジとそんな人についての話をしました。そして、そんな話をしていて、昔の自分と重なり、2015年10月2日の大人ミーティングにて、ジイジ(当時はいさどん)が僕に語りかけた言葉を思い出しました。この日、僕は完全に壊れていて、大人ミーティングでは、そんな僕の話題となり話を振られましたが、僕は話すことを断りました。以下はそんな僕に向けてのジイジの言葉です。


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話すことがないというのはあなたの都合であって、そのあなたの都合が全体にどんなものをもたらすのか?そういうことを自分で感じてコントロールする段階に行かないといけません。今、自分にはまっているからそういうことを言っているわけだけれども、全体性というものを大事に考えていたら、そういうことは言わないはずです。

今のあなたの状態は定期的に起きてくるもの。定期的に起きてくるならば、今はそこのポイントのところに向う良いチャンスだと思うが、それをやらないといつまでも超えることは出来ません。今、何をやれという具体的なことは何も言いません。ですが、あなたのその姿勢では問題です。きちんと向き合い超えていく。それが覚悟というものです。一人一人が自分と向き合ってみんなで場を創っていくのです。そういうことをしないと次のビジョンは実現出来ないのです。

日頃、自分が安定している時に極めていこうという志と、一度何か滞って、自分から見て自分自身の印象が悪い時の開き直り、そして、やる気のなさがあなたの場合、極端になっています。ですが、それは本当は逆なのです。日頃の時ももちろん大事ですが、自分がやる気がなくなった時に自分と向き合う。そこが一番のポイントです。

日頃、一生懸命に積み上げていたものが、その状態だとある瞬間に全部ぶち壊してしまいます。このあなたの本質が変わっていないのは、覚悟を決めてそこに向き合っていないからです。

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上記の言葉を受けて、僕はムキになって「心は見ていく」と発言し続けました。それは完全に反発と言えるもので、みんながそんな僕を制止した後、ジイジは以下のように語りだしました。

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冷静に見ていくというところで、なんでそういう反応になるのか?そういう反応もしっかりとチェックしていかなければならないのです。

なかのんは、自分の状態は問題だということは言います。だけれども、駄目なところに情を掛けて執着してしまっているのです。そこはシビアになって抜け出さないと次の段階に行けません。

そこに情を持って執着していると、言っていることとやっていることが違ってきます。それは矛盾を創ります。そんなことをずっとやっていたら霊的には罪を犯すことになります。

問題があると認識しているならば、そのことを認めて改善する意志を明快に示すことです。そして、常に問題を意識して生きるのです。毎日を冷静に見ていく。緻密に見ていく。客観的に自分を離れてみていくことが必要なのです。

木の花ファミリーのようなみんなで創っている場所、これはある意味、組織みたいに見えます。そうすると、そこに共鳴出来ない不調和な状態にいる人にとっては、この組織みたいなものが個人を締め付けているように感じます。

だけれども、ここでやっていることは個人の質を高めることによって、みんなで目的を達成しようという投げかけをしているだけで、締め付けをしているわけではなくて、あなたにそのことを託し、そして同時にあなたの価値を上げようとしているのです。
その時に、日頃、語っていたり、みんなで確認し合っていたりすることをぶち壊すということは、ここ全体に対して逆風になるし、自分の価値を下げることにもなります。

客観的に見たら、そんな行動を取るのはおかしなことでしょう?それなのに、なぜそのおかしな行動を取るかといったら、その未熟な自分に執着しているからです。

それで、僕の話をしますが、僕も昔、同じところを通ってきました。僕は、お釈迦さま、そして神さまに出会い、道理を伝えられてきました。お釈迦さまが語られるのは仏道、道なのですよね。プロセスをずっと見ていく客観視点を育てられます。

そうすると自分の感情が苛立っている状態を観なければいけなくなります。普通の人は感情が出てくると、感情のままに出して、それを主張することが自由だったり束縛されていない状態と思ったりしています。ところが、僕にはもう一つの目線がありました。それも強制的に示される目線です。そちらの方から「お前の今の感情はこうだぞ」と言われると、僕みたいな道理人間、理屈人間は理屈で負けてしまうのです。

それでどうするかというと、僕は理に叶った方に行こうとします。自分の主張が愚かであっても、そこに執着したい自分がいますが、理に適った方に行かなければなりません。そのように、そちらを選べば選ぶ程、情がわいている自分を否定することになります。理に適った方を選んでは自分を否定していく。その繰り返しになりますが、その覚悟が出来ていないとだんだん辛くなるのです。

そこで「俺はつらいんだー」となって爆発したことがありました。そうすると、お釈迦さまは「それなら止めるか?」と尋ねてきました。「なんてひどい薄情なことをいうの?あなたは」と思いました。

そこでまた道理を考えました。僕が執着して道を歩むことに辛い想いをしていることに対して、そのまま執着して進むことは、その道を外れるということになります。止めるか?という話に乗るのもこの道を外れることになります。どちらの自分も認めることが出来ません。

道理のところに行くことによってのみ楽になれる。自分で自分を本当の意味で認めることが出来るのです。認めたくない自分に執着をしてそのままで行こうとしますが、それはすごいバカなことをやっているのです。それでも執着している時はつらいものです。

僕はその想いを怒りに変え、伝えました。

「何を言っているのですか。止めるわけがないではないですか。これを知らずにいかない人は世の中に沢山いますが、一度、これを知って行かないものがいるでしょうか?絶対やめない。見ておれ。やめんから。」

逆切れしたのですよね。

さっきのなかのんの言葉もある意味逆切れですよね。だけれどもなかのんは自分と向き合わない方向に切れていました。僕は「絶対にあなた(お釈迦さま)のところにいく」という逆切れ。同じエネルギーの掛け方でも違う方向に向かっているのです。

僕は辛いから泣きました。でもその涙は自分にとって肯定的です。そこまでやるんだ。その想いが自分を強くしてくれます。なかのんの逆切れは心を強くするものではなく、ある意味逃げています。そうやって逃げていくと悔やみの心が出てきます。

また自分が否定する、本当はそうではないという方向に行ってしまった

その繰り返しになり、だから定期的にその想いが湧いてくるのです。自分が嫌いな自分を演じて、自分で苦しんでいる状態です。


※いさどんとお釈迦さまのエピソードは「木の花記~金神さまの巻~」をお読みください。

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あれから丸3年が経ちました。僕はこの3年間、自分の感情と向き合い、感情を見通してきました。このブログはそういう自分の成長の記録とも言えます。最近、「なかのんはもう自我を超えていますよね」なんて言ってくる人にも出会いましたが、そういう人には以下のように答えています。

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自我は浮かんでは消える波のようなもので、それは生きている限りずっと続くもの。平静なトキに大丈夫と思っていても、波が来たトキにどうなるかは分からない。未来は未知。それが宇宙の法則だから「先のことは分からない」というのが本当だと思う。

確かに波を乗りこなしてきた自負はあるし、自信もつけているけれども、これから先、今まで経験したことがない波に出会うこともあり得るから。そしてその波に飲み込まれないとも限らない。

まぁ分からないよね。

でもこれは恐れているわけではなくて、飲み込まれたら飲み込まれた状態から自分を取り戻し、そこからその感情の波を見通していくだけ。だから何でもいいんだけれどもね。

とにかく自我は「これで超えた」というものではなくて、絶えず向き合う必要があるもので、それを通して学びを深めていくものだと思っている。そしてどんな波に出会ったとしてもそれを学びに変えていこうと思っている。

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心の道を歩むとは、自分の感情を超え続けることだと思っています。浮かんでは消える感情の波から離れて、自分を見通すこと。そして、自分の感情を他者の感情と同じに扱っていくこと。それが客観性への道であり、これからもずっと僕が歩み続ける道です。

2015年10月2日、当時の僕は自分の想いをとことん追求することを選んでいました。そしてその結果、壊れていきました。それは一つの決断ではありましたが、これは心の道ではありません。心の道は未知なるもの。想いは追求するものではなく手放すものです。心の道を歩む覚悟とは、自らの感情を離れる覚悟であり、想いを手放す覚悟です。

かくご

カタカムナで見ると、宇宙最極小微粒子である「カ」が自由に転がり出る(9)こと。転がり出る先は統合(10)であり、それは現象化を意味します。そして「カクゴ」と「コ」に濁点がついているのは、自我の濁りであり彩りです。覚悟は各人に委ねられているのです。そして、僕の覚悟は心の道、想いを手放すことによって生まれる現象化、それをいただくことが心の道を歩むということです。僕はこれからもずっとその未知なる道を歩んでいきます。



他者からの理解を求めることはなく、ただ世界や他者を理解していく。

9月のはじめ、僕はある出来事で傷つき怒るということがありました。そして、以下の文章を書きました。

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先日、僕はある出来事に出会い傷つき怒るということがありましたが、それは自分が発した「想い」の響きが生み出したものであり、相応しく与えられたものです。そして、傷つき怒ったのは、自分の認識が、自他を区別した「自分視点」になっていて、元の「想い」へと至っていないからです。元の「想い」へと心を向ければ、そこに善意が見えてきます。そして、そこから学ぶことで他者に対する愛が生まれ、調和を表現できるのです。それは絶え間なく続けていく心磨きの道です。例えば、一瞬「善意」が垣間見られたとしても次の瞬間には「自分視点」に戻っていく。それは自我を持つ人間の特徴です。だからそのことを忘れずに元の「想い」へと意識を向け続けるのです。そうすれば、自分の「想い」に翻弄され、傷つき怒ることがだんだんなくなっていくでしょう。

僕の傷つきと怒りは「自分視点」が生み出したものであり、僕の未熟を表していますが、その背後に「想い」を馳せれば、種が見えて、そこに善意を感じることが出来ます。そこから見えてものを心に留めて学びを深めることで、傷と怒りを愛と調和へと変換していこうと思っています。




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あれからもこの出来事については振り返っていますが、その過程である事実に気づきました。僕は怒った相手に対して自分の状況や気持ちを理解して貰うことを求めていたのです。だから冷静に相手の話を聴くことが出来ず過剰に反応したのです。そしてこのことに気づいたトキ、1年前の10月に書いた文章を思い出しました。以下、その文章を引用します。

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我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。

気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。




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他者からの理解を求めることはなく、ただ世界や他者を理解していく。

そのように心掛けようと決めていて、そのように実践してきたのですが、あのトキ、僕は自分を理解してもらうことを求めていました。そしてそのことに無自覚で、僕の中には自分をアピールする心もありました。これではいけないと思いました。

理解なんて求めずにただただ相手の話を聴けばいい。

そんなふうに思い、そんなふうに実践しようと決めました。そのためにはより深いところから自分自身を見通す必要があります。

自分の中にアピールする心がある。アピールする心で思い出すのが、5年前の9月にジイジ(当時はいさどん)とした以下の会話です。


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なかのん:

質問があるんだけれども、自分らしく生きていることと自己主張をしていることの境界ってどこにあるのかな?

いさどん:

自己主張は主張でしょ?誰かに何かを主張している。分かって欲しいと求める対象がいる。自分らしく生きることには対象はない。ただただ淡々と生きているだけ。自分らしく生きている姿は美しく気持ちがいいけれども、自己主張は気持ちよくない。正直に生きていても、それが自己主張になってしまっている人がいる。それはアピールして人に分かって欲しいと求める気持があるため。そういう人は気持ちよくない。世界と自分、両方から離れて眺め、自己主張を超えていく必要がある。

なかのん:

何かを分かって欲しい気持ちがあるか?それが一つのチェックポイントになるんだろうね。僕は、自己主張はいろいろなところに入り込むって常々思っているんだ。例えば、一生懸命に働くことの中にも自己主張は入り込む余地がある。「俺はこれだけ仕事をしているんだぞー」みたいに。

いさどん:それは誰にアピールしているの?

なかのん:みんなかな・・・

いさどん:その時はみんなと自分を分けているんだよ。

なかのん:そうか・・・アピールするってことは分けているってことか・・・

いさどん:

そうだね。僕なんかそんな感じはまったくないよ。僕が淡々と仕事をすることは木の花全体の仕事を進めることで、全体に仕事が進むのは良いことだしね。

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アピールするのは分けているということ。

ここで思ったのが、自分がアピールをしたくなった相手は普段から身近にいて心の距離が近い人です。肉親でもそうですが、距離が近い相手に対して「より分かってほしい」という気持ちが生まれ、だからこそ、そこに感情が挟まりアピールする気持ちが生まれます。遠くで暮らす他人に「自分を分かってもらおう」なんて気持ちはあまり生まれないものです。

アピールをするのは分けているから。

ということは身近な人ほど自分から分けていることになります。これはどうしてだろう?と思ったトキ、この世界の始まりの話を思い出しました。以下、その話を引用します。

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遥か昔、この世界は、光だけの世界でした。光だけの中にいては、光は見えません。完全なる光そのものである神様は、退屈でした。「完全なる私は、完全であるがゆえに、私を知ることができない。」そこで神様は、完全なるその体を分けられました。光とは何かを分かるために闇を創り、それを自身からもっとも遠いところへと投げたのです。そして、もとの光へと還っていく長い長い道を創られたのです。


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神様は光そのものである自分を知るために完全なる体を分けて闇を創られました。同じように人は、自分を知るために他者を自分から分けるのではないかと思いました。そしてそれは自分の感情が揺れ動く存在に対してより際立ちます。ですが、何のために分けるのかと言ったら、自分を知るためであり、「すべてがひとつである」ことを理解するためです。

多様性が本質であるこの世界では多種多様な違いが存在します。自らを分けると書く「自分」、そこから生まれる自我は、違いを際立たせることで他者を分けていきます。ですが、それは何のためかと言ったら、そのことを通して「すべてがひとつ」ということを理解するためにあるのです。

ここでもう一つ、ジイジの言葉を紹介します。

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生きるとは、自らの魂が生み出す「思い」を表現することです。思いは、それぞれの響きを持っています。私たちが生きて、思いを表現すると、その思いの響きがこの世界の何かしらに当たり、ふさわしい現象となって自らに返ってきます。自分がどのような響きを発するかによって、世界はその響きに正しく応え、ふさわしい出来事を与えてくれるのです。そうすると、人生で出会うすべての出来事は、自分自身を観ていると言えます。つまり、この世界は鏡なのです。

~ 中略 ~

生まれてきて、生きることは、命の仕組みです。それは宇宙の法則の中にあります。人生を生きるといろいろなことに出会いますが、その出会いは、自らの魂が何を発したかによって、それにふさわしい出来事が返ってきたということです。返ってきたものを見て、私たちは自分自身を知るのです。


その時に、返ってきたものを見て、これは私のものじゃない、誰か他の人のせいだ、世の中のせいだ、運が悪かったんだ、という人がいます。それでは、自分に都合の良いものが返ってくるように、お金で買いますか?そんなことはできませんね。それは、返ってきたものを自分のものとして受け取らないということです。


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この世界は鏡、出会う出来事はすべて自分自身の顕れであり、自分のことを教えてくれています。だから理解を求めるのではなく理解をしていくことが大切なのです。そのことを通して「すべてがひとつ」であることが見えてきます。

他者からの理解を求めることはなく、ただ世界や他者を理解していく。

それは世界という鏡を通した自分自身の探求であり、最終的には「すべてはひとつ」という根源へと至ります。だから僕はこんな感じで生きています。

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僕は海。そして浮かんでは消える波として人生を送ります。

波としての自分に焦点を当てれば、それは自分の人生と感じるかもしれませんが、僕は本来、海そのものなのです。だから、波(自我)としての自分は他のすべての波(自我)と同様で、世界の彩りの一つに過ぎず、それはみんなのものなのです。

僕は自分を通してみんなの人生を生きる。

それは僕の人生が僕だけのものではなくみんなのものでもあるということです。








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