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自分や世界の混沌や混乱を生きて、そこに光を通していく。

1月26日の朝日・富士宮市柚野(諏訪八坂山神社)にて撮影)

2019年2月2日(土)、富士浅間木の花祭りが開催されます。このお祭りには毎年、日本全国及び世界各地からご清水を送っていただいていますが、祭事の前にはそれらを釜戸の中で融合させます。昨年の祭りの際、その儀式を行ったひろっちは以下のような想いを発信しています。

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湯釜です。

先程、かまちゃんサポートの元、世界各地、日本全国から届けられた清水を、釜にて融合させていただき、ただ今火にかけて温めています。
 
いつもの事ですが、この瞬間は、何とも言葉で言い表し難いものがあります。
 
世界中、日本中の神々様、精霊様達がここ富士の麓にお集まりになり、一つに融合していくのです。
空を飛び海を渡り、陸を通って、遥か遠くの精霊が集まっておられるのです。
 
釜の中の水は、何処からどう見ても一つです。
そこには堺も何もありません。完全に一つに解け合い混ざり合っているのです。

まさに世界が一つになっていく弥勒の世界を完璧に表現しています。

そしてそこにはそれを届けてくださった沢山の皆様の想いも入っています。

この祭りの意味に賛同する人の想いが祈りが願いが集まり、そして一つになっていきます。

手に取り、釜に注いでいく一つ一つの水がとっても重いです。
その様を目の当たりにしてシビレます。あまりに尊くて、そして有り難くて涙が出ます。
 
本当に痺れます。
何とも大切な事をさせられていると実感します。
 
ありがとうございます。
ありがとうございます。
勿体のうございます。
 
惟神(かんながら)たまちはえませ

でわ舞庭で会いましょう。




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祭りでは、日本全国及び世界各地から集まった水が、湯釜の中で混じり合い、その周りを舞手や観客が渾然一体となって舞い踊り調和を表現していきます。

水が混じり合っている。

そんな状態を表現する言葉があって、それは「混沌」です。混沌の「混」は「まざる」という意味で、「」の部首「さんずい」は「水」を表し、「屯」は「たむろする、寄り集まる」という意味で、「塞がって水が流れない状態」を意味します。

混沌(こんとん)

辞書で調べると、「天地創造の神話で、天と地がまだ分かれず、まじり合っている状態。カオス。」「入りまじって区別がつかず、はっきりしないさま。 」となります。

混沌(こんとん)

カタカムナで読み解くと、「転がり出て統合する」動きを強めるものとなります。

そしてジイジは混沌という言葉について以下のように語っています。

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混乱とは、泥の中にいるということ。その泥をかき混ぜて、活性化し、芽が出ると、そこには蓮の花が咲く。



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と・・・・ここまで書いて気付いたのですが、引用文でジイジは、「混沌」ではなく「混乱」と言っていました。ここまで書いてきたことは、このジイジの言葉がきっかけとなって想いを巡らせたものなので、勘違いから生まれたものと言えます。混沌と混乱が混じり合って生まれたもので、それはそれで面白いのではないかと思います。

ちなみに混乱(こんらん)をカタカムナで読み解くと、「転がり出たエネルギーが強まる場所」となります。それは統合へと至るものと言えます。

だから自分や世界の混沌や混乱を恐れずにその中を生きようと思いました。が・・・

そうはいっても、混沌も混乱もそれだけでは統合・新しい動きには至りません。富士浅間木の花祭りで世界中から集まってきたご清水も、そのままずっと置いておいたら淀んでいきます。釜戸の「火」により、混じり合ったご清水が蒸発するからこそ、それらは世界中に循環し、調和の響きを広げていけるのです。

「火」は「ヒ(1)」、始まりであり「光」。

混沌や混乱に「光」をあて、それを認識し見通すからこそ、新しい動きが生まれるのです。

だから、自分や世界の混沌や混乱を恐れずに、思う存分にそれを表現し味わい生きる、と同時にそれらを見通し、道理の「光」を通していく。そんなふうに生きようと思いました。

2012年12月21日、銀河の冬至の前後7年である銀河の夜明けを経た今の時代は、混沌や混乱がピークを迎え、そこにどんどん光が差し込んでいくトキです。混沌や混乱は、新しい動きを生み出す元、それがピークを迎えた今は様々な可能性を秘めたトキと言えます。

気候変動や異常気象、戦争や紛争、経済格差や貧困、社会の分断や対立・・・・

今の世界はまさに混沌とし、混乱していますが、

僕は、混沌の中で混乱することで、人智を手放していく。そして生きる意味や価値をすべて出会う出来事に明け渡し、そこに天の道理という光を見出していくのです。

苦しみは天が与えた自由であり愛であり幅。

1月21日、富士山と満月(みほさん撮影)です。

私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います


この自然界、そして宇宙の法則は、すべて因果応報の仕組みで成り立っています。原因があって結果がある。そこでは、その原因にふさわしい現象が起きることが約束されているのです。こんなにありがたいことはありません。なぜなら、その者にふさわしい現象が顕れるからです。そして今、この場に立ち会う人々も、なぜここに集うのかというと、それにふさわしい生き方をしてきたからです。今皆さんは、どのくらいの意識を持って今日この場に集っているのか。その今の意識が、皆さん一人ひとりのこれから先の人生に形として顕れていくと同時に、社会を創っていくのです。それは当然のことなのです。

人類はそろそろ、そのことを知らなければなりません。出来事の表面だけを見て、それが不愉快だと言って解決しようとする時代は終わりました。これからどのような時代を生きていくのかは、その者が自らの人生をどのようにしようとしているのか、そこで何を望んでいるのかによって変わっていきます。つまり、生きることが自らの手の中にあるのです。これまで、なぜそれが人々の手の中になかったのかというと、自らの独りよがりで、この世界から与えられている命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからです。



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上記は2年前、マヤの新年の際にジイジ(当時はいさどん)が語った言葉です。

原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います

ジイジはそう語っていますが、問題や願いがあるトキ、現象ばかりを追い求めると、それは「欲」となり、自分や世界の実態からは切り離されていきます。

願いが叶わないということは、その願いが天の流れからは外れているということであり、天から外れた「想い」を抱えているということになります。その「想い」が強すぎると、生きている意味や価値を見出せなくなることもあります。

昨年、クローズアップ現代「”縁切り死”なぜ愛する人が突然…」を木の花ファミリーのみんなと観ましたが、誰にも分からないように死ぬ人たちも共有できない「想い」、天から外れた「想い」を抱え、生きる意味を見失っていたのではないか、そんな風にも思えました。

ですが、それらはすべて幻想とも言えます。なぜなら、この世界に存在するものはすべて、天の流れにより生かされているのであり、そのこと自体に意味や価値はあるのです。天から外れているのは、自我から生まれる「想い」であり、その結果、生きる意味を見失っているのです。人々がそのような「想い」を抱えるのは、自分の都合を求めて、命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからであり、欲を追い求めることで実態から離れ、自分を苦しめているのです。

その苦しみは、それだけの自由が与えられている証でもあります。

苦しみをカタカムナで読み解くと、「自由が維持された示しが満ちる」となります。天は人間の自我に自由を与えました。自分や世界の実態から離れた「想い」を抱え生きること。それは天が与えた自由と言えます。そして天は、それ以上離れていかないようにと苦しみを与えてくれているのです。とすれば、苦しみは天が与えた自由であり愛でもあります。苦しみと向き合い、苦しみを超えることは、自分や世界の実態へと至る道であり、そこから天との対向発生が生まれます。そのトキ、苦しみは生きる喜びへと変化し、今ある問題も解決へと向かっていきます。

天から外れた「想い」を抱え、思い通りに進まない。

その苦しみは天が与えた自由であり愛であり幅です。その苦しみと向き合う中で、自分や世界の実態にメスを入れていく。そのトキ、自ずから、自動的に変化していく現象を味わい、楽しむこと。それがこの世界に自分が生み出された意味であり価値なのです。


未熟があるから成長できる

1月7日、天王星が始まりを表す牡羊座で順行となり、全惑星が順行となった日、ジイジが見えたビジョンを語りました。

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ジイジ:
今、たくさんの花飾りをつけた神様がおいでになった。観音様かと思ったが、観音のような繊細な顔立ちではなく、おおらかな丸い顔立ちのその方は大日如来だった。
大日如来は銀河神であり、僕の守護神。つまりそれは、神道でいう天之御中主のこと。
七色の光の柱がこちらに向かって降り注いでくる。広大な世界に余すことなく降り注いでいる。その虹色の光の柱のいたる所に、ラメのように光り輝く金粉が、宇宙空間を漂いながら虹の柱と共に降ってくる。全体が巨大な光のシャワーのように流れている。そのシャワーが眉間に降り注いでくる。
そのシャワーを浴びていると、何があっても生涯この役割を果たし続ける、という決意が湧いてくる。
(ジイジしばし深呼吸の時間が続く)

ジイジ:
なるほど、面白いね。今まで、光とは一直線に飛ぶものだと思っていたが、綿のように塊になっている。そしてその綿のような塊が発光している。それが光の実態なんだよ。我々は光の源から発せられたものしか見ていないから、光というものは一直線に進むものだと思っているけれど、光の発生の元は綿のようで、入道雲のように、もこもこもこもこと増殖し、それが光源となってそこから発射されるんだよ。つまり発光源は核融合のようなプロセスを経て光を発する存在となる。それが、光が発生する原理だ。無から有を生み出す原理は、核融合なんだよ。
光のイメージが完全に変わってしまった。これは、光の種を持てというメッセージなのか。そうすると光を受けるものではなく、光を発するものになれるということだ。その素質はみんな持っている。一人一人の中に光源があるから、そのスイッチが入れば、光を受けるものではなく発するものになれる。
みかこ:
それが目覚めるということかな。
ジイジ:
その目覚めは、過去に人類が目覚めてきたものとは異質のもので、生命の本質に目覚めること。宇宙の根源に目覚めるということ。
みかこ:
過去の目覚めはどういうものだったの?
ジイジ:
それは、ものの仕組みとか道理に目覚めることであって、それを悟りという。悟りというのは低いレベルから高いレベルまで、たくさんあるものだけれど、僕が今言っている目覚めは、根源にスイッチが入れば、心の核融合が始まるということだよ。だから今までとは異質のものなんだよ。
みかこ:
照らされる側から照らす側になるんだ。
ジイジ:
つまり自分に内在する宇宙にスイッチが入ったということ。
みかこ:
いわば、太陽に照らされていた惑星のような存在から、自ら輝く太陽となって、銀河の一員になるということだね。
ジイジ:
それでこそ、初めてセントラルサンの命(めい)が果たせる。
みかこ:
そうだね。直接セントラルサンの命(めい)が受けられるものになる。
ジイジ:
だから、光を受け取る側から、光源となることが大事なんだよ。光に照らされて真理の明かりを見るのではなく、真理の光を発する位置に立つことが、今までの人の悟りの道の奥にあったということなんだよ。
この肉体の器に入っていると、そのことを理解するのは難しいけれど、肉体から魂が解き放たれれば、その魂に相応しい次元に存在することになる。だから魂が何者であるかが大切なのであって、肉体の中にいる限りは、肉体の世界の限界の枠がある。だから、中にある魂の意識レベルが問われるんだよ。
(ここで、四拍手する)

これは宇宙創造の原理だから、気楽にやっているけれど、この宇宙の創造原理を理解して生きるということは相当な精神レベルにあるということだ。そこまでわかると、いろいろなことがどうでもよくなる。そして、わからなくても行ける人にならなければいけない。
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光を受け取る側から、光源となる。

このような高い志を持つトキ、僕は自らの未熟と出会います。未熟と出会って、苦しむのですが、未熟だから駄目なのかと言ったら、そんなことはありません。光を認識するためには闇が必要なように、この世界に認識や動きが存在するのは、相反する存在があるからです。

この世界に認識を生み出し、動きをもたらすために、天とは相反する存在として人間は生み出されました。完全なる天とは相反する存在である人間は、本質的に未熟な存在となります。だから未熟を否定することは、自らの存在を否定することになります。

完璧な存在はそのままで完璧なわけで、そこに成長はありません。未熟だからこそ成長があり、成長があるからこそ、感動があります。そのことに気づいたトキ、未熟は苦しみではなく成長へ繫がる喜びとなります。そして、未熟な存在が成長するためには柱となる指針が必要です。完全なる天が指針となり、未熟な人間が成長していく。完全なる天と未熟な人間、この世界にはどちらも必要であり、天と人間は本質的に対等なのです。

光を受け取る側から、光源となる。

このトキ、光源となるものは、自らの未熟なのだと思います。自らの未熟にしっかりと向き合い、成長し続けることで光となっていくのです。

高い志を持つトキ、自分が素晴らしい人間になったような気分になります。そういう気分に浸り過ぎると、自分の実態が見えなくなり、高い志は幻想となり挫折することになります。今まで人類は、たくさんの理想を語ってきましたが、その多くが幻想となり、挫折しています。それは光源となる自らの未熟と向き合って来なかったからであり、放っておかれた未熟は世界に混乱をもたらしています。

尊くあろうとすると、自らの未熟はそれとは反するもののように思えます。だから切り捨てたくなります。ですが、未熟を切り捨てる行為は幻想を生み出すだけです。

尊い教えをいただき、それに自分を合わせていく。

それが光を受け取る生き方であり、今までの生き方だとしたら、

自らの未熟と向き合い、成長という光を放ち続けていく。

それが、自らが光源となるこれからの生き方です。だから僕はそんな風に生きるのです。

ジイジ(右)と僕です。

天上天下唯我独尊から天上天下全我全尊へ

仏陀がすべてが繋がり合うこの世界の中で「天上天下唯我独尊」と語ったのは、自分が消えたら認識が消え去るから。これは認識に価値を置いた言葉で、人間を人間にしている人間らしさは「認識」にあると思っています。

だけれども、人間の認識は自分の身体や経験に縛られていて、そのままではこの世界の真実の姿を観ることが出来ません。だから心を磨いて自我を手放し自分の視点を超えていくことが大切なのだと思っています。


自分の思惑や感情を手放し目の前の出来事に心を開き、そこから学ぶトキ、変化は自ずから起きて、そして自ずから成長していきます。自分の想像を超えた自分と出会うことが出来ます。

多くのヒトが共に暮らすコミュニティは多くの視点が混じり合うことで自分の視点を超えるようにと導いてくれます。その先にあるのは、この世界の実相への認識。それは無限の深みがあるもので、探求しても探求してもきりがなくて、いつも自分の想像を超えてきて、面白く面白くて仕方がないものなのです。




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上記は昨年の6月、「あなたにとって人間らしさとは?」という質問に対して答えたものです。この世界に認識が生まれたのは、相反するものが存在するからであり、認識を生み出す自我は、天とは相反するものとして存在しています。相反するものとしての自由が与えられた自我は、自分で生きているという錯覚に陥り、天の法則を忘れ、自分の都合の良い世界を作ろうとすることで、天から切り離され、孤独となっていきました。

天上天下唯我独尊

本来、その「我」の中にはすべてのものが含まれているのですが、今の人間はそのことを忘れているから、「自我」を手放し天に心を向けることが大切となります。ですが、それは「自我」と「天」というように固定することではありません。そのことをジイジは以下のように語っています。

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「あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。」というマザーの言葉。それは自我を捨てて、天のままに生きるということです。僕は昔、それを天のマリオネットと表現しました。でも、その考えは今は変わっています。昔、夜、外に出て上を見て、月が出ていれば月、星が出ていれば星、曇っていたら、その上に星や月を想像して語っていました。

「神さま、私はあなたの意志に沿うものです。」

そうすると、そういうことを語っていた時、その間違いに気付きました。「あなたの意志に沿うものです」ということは、あなたという意志があって、そして、それを受けている自分がいるということです。でもよく考えてみたら、あなたという意志はわたしに表れています。だから、本当のそれが通じた時に、私の意志はあなたそのものなのです。

あなたはわたし、わたしはあなた。

その時、「神さま」とそこに気持ちを向けたり、「あなたの意志」というようにそこに特定を持った時に、すでに自分、自我を成立させているのだと気づいたのです。

まわりてめくる。

すべては新しい出来事として学ぶべきことです。常に新鮮で新しい毎日が来るわけですから。

                       「相応しいものになっていく。」より

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本当に通じたトキには、私の意志は天そのものとなります。この世界は、陰と陽の相反する二つのものが互いを成り立たせ合う「対向発生」の原理によって創造されています。天と相反するものとして存在している自我は、天と「対向発生」するために存在するのであり、その奥には天の意志が隠されているのです。その意志を感じることが出来れば、私の意志は天そのものとなり、天と自分は対等な存在となります。

世界を一つの身体にたとえたならば、自分の存在は1本の髪の毛のようなものかもしれません。役割としてはごくわずかなもので、短い期間しか身体に留まりませんが、1本の髪の毛は心臓や肺、身体全体と対等なものです。自分の役割に徹し、身体全体を担うものとしての誇りが1本の髪の毛を身体全体と対等にしていきます。僕も世界に対してそんなふうな存在となっていきます。

自分の「思い」は天の意志の顕れです。それは、その「思い」に固執しろということではなくて、思う存分に表現することを通して天の意図を探っていくのです。自分の「思い」は全体の中の役割として与えられたもので、天の意図は自分の想像を超えていて、常に分からないものです。だからこそ先に行くことを楽しむことが出来るのです。「思い」から自由になることで、自らの「思い」と世界を楽しめる。その姿勢について、ジイジはこんなふうに語っています。

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そこで、僕たちは何をしているのかというと、天の意志を探っている。どういう意向があるのかという流れを観ている。僕がよく皆に言う、頭を使えというのは、ものを偏らずに観て、流れを観ていくということ。何をもって正解として受け入れるかどうかというのはない。現象をもって真実とすべしだから、成ったことを受け入れていく。成ったことで、天の意志を探っていく。

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この世界は相反するものの「対向発生」の原理により創造され、自我は天と相反するものとして生み出されました。時代が分離へと向かう中で、自我は、自らの都合の良い世界を生み出し、天から離れていくことで、自然災害や戦争や紛争など、それに相応しい世界が表現されてきましたが、銀河の夜明けを経て、時代は今、統合へと向かっています。陰と陽、男性性と女性性、天と自我、自分の内と外、相反するものが統合することにより「対向発生」による豊かさを表現する時代へと向かっています。そのトキ、すべての存在の「我」は、天との「対向発生」を生み出すものとなり、一人ひとりの個性が花開きながら調和した世界が生まれます。

天上天下全我全尊

2019年の冒頭にそんな言葉が浮かびましたが、多くの人々の「我」は、いまだ自分の都合を追い求め天とは分離し、社会の分断が進んでいます。

そんな中、僕が暮らす木の花ファミリーは、一人ひとりが自らの「我」を見通すことで、すべての人が全体性を意識し天と対向発生する場を創ろうとしています。最後に、その木の花ファミリーの正月風景を紹介して筆をおきますね。今年1年どうぞよろしくお願いいたします。

1日の朝、みんなで初日の出を見に行きました。

1日のお昼です。
1日のお昼です。
1日の夕食です。
1日の夕食です。
夜は子どもたち企画の元、みんなで遊びました。これはフルーツバスケット。
全世代参加の木の花リレー。まずは小さな子ども。
木の花リレー(小学生)
木の花リレー(子どもを乗せて腕立てをしてから走ります)
木の花リレー(途中で洗濯物を畳みます)
木の花リレー(腹筋をしてから走ります)
2日の夕食は餃子。子どもたちも一緒に600個以上作りました。


元旦の初日の出。雲の隙間から一瞬だけ姿を現してくれました。

この世界は鏡(かがみ) ‐ 神(かみ)と我(が)が出会う場所

木の花ファミリー通信2018年冬号のテーマは、「死生観第四部・性~すべてのはじまり」です。以下、その一部を引用します。

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私たちの生きる世界は、陰と陽の相反する二つのものが互いを成り立たせ合う「対向発生」の原理によって創造されています。この宇宙創造の原理を、性と言います。性という字は、「忄(こころ)」が「生きる」と書きます。「忄(こころ)」は、中心に天から柱が降り、その左右に陰陽の相反するエネルギーが生まれることを表しています。それは、天(宇宙)の心です。そして中心に立つ柱は、この世界を成り立たせている天の法則です。天の柱のもとに、陰陽の対向発生によって現象化が起きる仕組みを、天の心と言います。

そもそも、私たちはなぜ生きているのでしょう。それは、私たちを生み出し存在させているこの世界が、先にあるからです。

現代の多くの人々は、自分の力で生きていると思っています。しかし真実は、この世界があるから自分が存在しているのであり、この世界に存在するありとあらゆる生命、物質、現象、そして私たち人間も、すべてはこの世界を創造する天の法則のもとに生まれ、その法則により維持され、世界が成り立っているのです。その仕組みに沿い、それを柱として生きる生命の本来あるべき姿が、性という文字に示されているのです。

ところが現代の人々は、性を大きく取り違えています。自らを生かしている世界の仕組みに沿うのではなく、内から湧き出す自我の欲望を満たすうちに、人々は法則の存在を忘れ、性をストレス解消や快楽を得る手段ともするようになりました。そのように欲のままに行うことで後ろめたい心が生まれ、性は隠し事となり、歪められ、ついには売春やレイプのように本来の姿からはほど遠いことまで起きるような、真実とはかけ離れたものとなってしまったのです。性という創造のメカニズムが狂うことで、そこから生まれる世界のすべてが狂っている ──── それが現代社会の根本にあり、そのあり方を切り替えない限り、世界が健全になることはあり得ないのです。

私たちは性を通してこの世界に生まれ、性を通して次の時代に命をつないでいきます。それは、私たちが生命として誕生し、世界を維持し、時代をつなげていくために欠かすことのできない命の根本原理であり、神聖なものです。私たちの原点は性にあり、本来、人間に備わっている本能的欲求は、人間の尊厳を高め、生命世界に寄与するためにあるのです。

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この世界は、陰と陽の相反する二つのものが互いを成り立たせ合う「対向発生」の原理によって創造されていて、この宇宙創造の原理が「性」であり、すべての現象はそこから生まれます。人間の自我もそのような原理の中で生み出されたものであり、それは天と相反するものとして存在します。その存在目的は、天から離れるためではなく、天と共に新たなものを生み出すためにあるのです。ところが、自分で生きていると錯覚した人間は、天の法則を忘れ、自分の都合の良い世界を作ろうとすることで、天から切り離され、孤独となっていったのです。天とはこの世界そのもの。自我にとってすべての存在は本来、「対向発生」を生み出すパートナーであり、この世界で出会う出来事はすべて深遠なる真理へと向かう旅の途上にあるのです。そのことを木の花ファミリー通信2018年冬至号には、以下のように述べられています。

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万物は、パートナーシップの仕組みによって成り立っています。私と宇宙、私と太陽、私と月、私と地球、私と土、私と空気、私と水、私と生命、私と心臓、私と手、私と足、私と動物、私と植物、私と微生物、私と誰か、そして、私とすべて。私たちはいつも、すべての存在と共に生きているのです。それぞれの関係性に、遠い近い、濃い薄いはありますが、どれも欠かすことのできない大切なものであり、それがあるからこそ、今、私たちはここに存在しています。この世界に、単独で存在しているものは何ひとつありません。なぜなら、宇宙の本質はつながることにあるからです。つながるとは、善意であり、私とすべては善意による深い絆で結ばれ、そのつながりの中で生かされているのです。

そのようにこの世界の成り立ちを捉えた時、世界に孤独は存在しないことが観えてきます。今、多くの人々が、自分と世界をつなぐ絆を見失っています。目に見えるものだけが大切になっていく時代の流れの中で、たくさんの存在とのパートナーシップによって生かされていることが観えなくなった人々は、「自分一人の力で生きている」と錯覚するようになり、自分だけの幸せを追い求めるようになりました。その結果、社会に格差をもたらし、優劣の概念を生み、私たちの命を育んできた地球生態系さえ傷付けるようになりました。地球生態系は、今も変わらず私たちの命を育んでいるにもかかわらず、その絆は人間の側から一方的に分断されています。こうして現代は、多くの人々が絆を見失った孤独な人生を生きるようになりました。


しかし真実は、私たちは宇宙根本原理の性という、天の心を顕わす仕組みを通し、それぞれにふさわしい位置と役割を与えられ、他のたくさんの存在たちと共に、この世界へと生み出されました。その無数のパートナーシップが連鎖していくことで世界は成り立っており、最終的には、すべての存在が天との対向発生の中にあるのです。そのことに気付いた時、世界にはもはや、孤独は存在しません。そしてあなたの周りに存在するすべての関係が、宇宙の深遠なる真理へと向かう、深い学びの機会を提供してくれます。良いと思えることも悪いと思えることも、すべてはあなたとのパートナーシップを通し、真実に目覚めさせるための善意の心から発生しているのであり、その対向発生の中心には必ず、天の柱があるのです。

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人間は長らく、自分の都合の良い世界を求めることで、多くのものを封印し、一面的な世界を創って来ました。国常立尊(クニノトコタチ)、瀬織津姫(セオリツヒメ)などの神様はその象徴で、道理や女性性が封印されることで、欲望に基づく物質的豊かさ一辺倒の世界が生まれ、心が蔑ろにされてきました。今、世界各地に起きている自然災害は、そんな人類の姿勢に対する相応しいメッセージであり、気付きを促しているのです。

今、国常立尊(クニノトコタチ)や瀬織津姫(セオリツヒメ)の封印が解かれることで、道理や女性性が復活した世の中が訪れようとしています。神とは物理性であり、この世界の法則そのもの、つまりは天の法則です。天と相反するものとして生み出された人間は、神様を封印することで、天の法則を蔑ろにしてきましたが、これからは天の法則の元、相反するものが互いを生かし合い、新しいものを生み出し続ける時代となっていきます。

神(かみ)の中に我(が)が入ると鏡(かがみ)となります。この世界は、神 - 天の法則と我が出会う場所、鏡なのです。そのことをジイジは以下のように表現しています。

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生きるとは、自らの魂が生み出す「思い」を表現することです。思いは、それぞれの響きを持っています。私たちが生きて、思いを表現すると、その思いの響きがこの世界の何かしらに当たり、ふさわしい現象となって自らに返ってきます。自分がどのような響きを発するかによって、世界はその響きに正しく応え、ふさわしい出来事を与えてくれるのです。そうすると、人生で出会うすべての出来事は、自分自身を観ていると言えます。つまり、この世界は鏡なのです。

 ~ 中略 ~

生まれてきて、生きることは、命の仕組みです。それは宇宙の法則の中にあります。人生を生きるといろいろなことに出会いますが、その出会いは、自らの魂が何を発したかによって、それにふさわしい出来事が返ってきたということです。返ってきたものを見て、私たちは自分自身を知るのです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

この世界は鏡、そこは、神 - 天の法則と我が出会う場所であり、パートナーシップの仕組みの元、すべてが善意による深い絆で結ばれている世界です。そこで人は、我(が)を存分に表現する自由を与えられていますが、それは天の法則から離れるためではなく、天の法則を学び、天との「対向発生」を生み出すためにあります。そこで僕が取る姿勢は、「思い」を表現しながら流れを観ていく姿勢で、ジイジの言葉を借りるとこんな感じとなります。

☆彡 ☆彡 ☆彡


そこで、僕たちは何をしているのかというと、天の意志を探っている。どういう意向があるのかという流れを観ている。僕がよく皆に言う、頭を使えというのは、ものを偏らずに観て、流れを観ていくということ。何をもって正解として受け入れるかどうかというのはない。現象をもって真実とすべしだから、成ったことを受け入れていく。成ったことで、天の意志を探っていく。

☆彡 ☆彡 ☆彡

性とは、陰と陽の相反する二つのものが互いを成り立たせ合う「対向発生」により新しいものを生み出すこの宇宙創造の原理のことですが、それを健全なものとし、世界を健全にするために、我を持つ自分と相反する存在である天の意志を探り、天の意志に沿っていくのです。そして「思い」を表現しながら、常にいただいた結果を今の自分の答えとし逞しく生きていきます。




みんなの中でよみがえり生きていく(4)

今、台風や水害、地震等で地方が破壊されている。今年は九州、大阪や広島、北海道など各地で災害が起きたが、そのうち大都市に災害がやってくるだろう。そうなると、日本は再生できないような状態に陥る可能性がある。そうすると、人々の生きる方向は群れることでしか選択肢はなくなる。これは今の社会の延長に新しい生き方を見つけようとするような生ぬるいものではなく、その選択肢はなくなり、群れで生きるしかない時代が来るだろう。そのときに精神性が伴っていなければ、それは限りなく混乱の方向へ向かい、そこで人々は群集化し、さらに混乱へと向かっていく。人々の精神性が伴えば、群れ化して、人々のライフスタイルが再編される。ライフスタイルの転換が今、人類に必要になってきたのである。確かに我々はそのさきがけなのだ。

来年のテーマである「軌道修正」というものは、まずは人々が目覚めなければ軌道修正はできない。目覚めた者たちにはこの星で生きることの意味が理解され、軌道修正ができる。地球の時間軸にたとえれば、ほんの少しの間の工業化の波が人間たちをテクノロジーの依存症にさせてしまった。もう人間の小手先のテクニックで生きていく時代は終焉を迎える。そして、人々が天と共に生きる時代が始まる。それが、新たに始まる時代の求める軌道修正だ。だから、来年2019年のテーマは「軌道修正」ということなのだろう。

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上記は、ジイジのブログ「時代が縮小のサイクルに入った今~2018年11月28日(天赦日)」からの引用です。来年のテーマとして「軌道修正」が挙げられていますが、「軌道修正」については、12月9日に行われた収穫感謝祭のトキにもジイジは語っています。以下、その言葉を引用します。

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今年は再出発の年でした。再出発とはどういうことでしょうか。それは、今までのことを振り返り、初めは何だったのか、この歩みは何だったのか、そして未来に向けて私たちはどのように進んでいけばいいのか、ということを考え、そのことを見極めることです。そこで、来年は軌道修正の年です。しかし、それは木の花ファミリーを指しているのではありません。私たちは、自然と共に生き、そのメッセージをいただき、生きる立場にいるからです。そろそろ人間たちの地球上での生き方は、軌道修正をしなければいけないところに来ているのです。この軌道修正は、世界観を広くして軌道修正しないと、これからの社会は成り立って行かないというところまで来ているのです。

そのような現状の中で、私たち木の花ファミリーは、今の方向に向かって、世の中の指針となるということです。ですから、私たちには、社会に軌道修正をもたらす自覚がいるのです。その自覚の元に、スケールの大きな世界観を生きたならば、私たちはとても大事な役割をしているということが分かります。そうすると、その自覚は一人ひとりにも必要ですが、全体を通して大きな役割があることが見えてきます。今、そのために世界の人たちと交流しているのです。今も、タイに二人そのメッセージを伝えに行っています。

そして、これから人類が進む方向性に対して、この暮らしがモデルとなります。私たち一人ひとりが大切な役割をしていくという自覚と誇りをもって、謙虚に自然から命をいただいているという自覚が大切です。自然に対する謙虚な姿勢は、これからの世の中の見本です。それがモデルとなるのです。生きることをいただいていくという精神です。それをもって、私たちは、そういった方向に社会が軌道修正するための役に立っていきましょう。

ここにはたくさんの人が共に暮らしていますが、それは一つの生き物です。私たちは、ひとつの生き物として歩んでいきますから一体です。それが今の世の中に足りないところです。それを示していきましょう。時間を積み重ねるたびに、日を積み重ねるたびに、月を積み重ねるたびに、季節が巡るたびに、年がたつたびに、私たちの役割は大きくなるのです。ですから、毎年毎年、その自覚を深め、高め、一緒にその役割を果たしていきましょう。みなさん一緒にやりましょう。

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そして、収穫感謝ということで言えば、昨年の収穫感謝祭にて、ジイジ(当時はいさどん)は以下のように語っています。

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私たちは自らが美しい響きを響かせ、美しい響きのものを生産し、そして健全に生きていく。それを社会に還元し、社会を健全にしていくのが私たちの生きる本当の目的です。

美しい生産物は、霊的な美しい心によってもたらされます。ならば、収穫感謝とは、物理的に生産をして、それが良い収穫であったかどうかということの前に、それに携わる私たちの心が美しいものであったかどうかを振り返ることです。畑や田んぼ、その他の様々な活動を通じて、この1年間、自らの心が美しい響きを発するものであったかどうか。1年を通して何が自分自身に定着したかということも、収穫なのです。そこを考えなければ、本当の収穫としての意味がないのではないかと思うのです。


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今年は再出発の年でした。今までのことを振り返ることで、初めは何だったのかを確認した年です。そんな今年1年を通して定着したことと言えば、この暮らしに対する確信と言えます。その確信をもって、木の花ファミリーは、これから軌道修正していく社会の指針となっていくのです。そのためには常に自分を振り返り心を美しくしていく必要があります。

僕個人で言えば、今年のはじめに堕天使ルシフェルの存在に触れてこんな文章を書いています。

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ルシフェルは悪い役割を自ら担いました。なぜそのような存在が必要だったかというと、人々が自分のことを見て来なかったからです。悪とは何かと言ったら、自分の都合を求めてきた人々に排除された存在です。人間は自分の都合を求めていろいろなものを切り捨ててきました。その結果、地球環境は悪化し、社会の分断と孤立が深まっています。その状態は偏りであり均衡を取り戻す必要があります。だから、人々が切り捨てているものが何かを教える存在が必要となるのです。役割としての悪。それは人々の姿を映すことで学びへと導いているのです。

人類はずっと正義の名の元に争ってきました。自分の行為を正当化し、争いを生み出している心の種を見ることはありませんでした。悪は自分の中にあるのにそれを認めずに外を改善しようとしてきたのです。それは自分の都合を求める心です。自分の都合を求めて争いが起き緊張しているのが今の人間社会と言えます。だから天に心を向けてすべてリセットするのです。そして「すべてをいただく心」でみんなが再スタートをすれば、全ての存在と出来事が認められ、今ある問題はすべてなくなっていくでしょう。なぜならいつでもどこでも、

何ももらってはいないのに、ありがとうございます。

ただ今があるだけなのに、ありがとうございます。

という心で生きていけるからです。


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そして今年の終りが近づく中で、僕は自分の中で両親と再会し、煩悩と再会しました(「僕と父と木の花ファミリー」や「煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない」を参照)。それは自分の原点との再会と言えますが、乗り越えるべき性質として、ある意味、「悪」としてきた性質との再会でした。例えば、高い目標、精神性を求めたとしても、それが何かを切り捨てるものであるならば、心に緊張が生まれ、いただく姿勢ではなくなっていきます。相反するものの統合、全体性を生きることが高い精神性であり、そして一人ひとりがそこに至ることで世界に調和と平和が広がるのだと思います。だからこそ、両親や煩悩との再会は僕にとってとても大切なものです。

例えば僕は、理解を求めるのではなく、他者や世界を理解していくことを心掛けています。だけれども、まるでコインが反転するように、自分の中から理解を求める心が湧いてくることがあります。その理解を求める心を無理に切り捨てようとしても、どこかで反動が起こり、二面性の表現となっていきます。

他者に理解を求める弱い自分を認め、そして受け入れることで癒し、他者に理解を求める必要をなくしていきます。その上で世界や他者を理解していく。自分の中にある揺らぎとゆるぎのない心、相反する性質をしっかりと見通し、統合させていくことが大切です。

だから僕が、この1年の成果としてこれから定着させるものは、自分の中の相反する精神を生き抜き、統合させる姿勢です。そんな姿勢を定着させ、みんなと一体となって、美しい調和の響きをこの世界に広げ、これから軌道修正する社会の指針となっていくのです。

今日、12月22日は冬至、光が最も弱い日であり、生命の死と再生のトキとも言われています。闇から光、死から生へと反転するこのタイミングは、生と死、相反するものの出会いであり、統合するタイミングとも言えます。

自我は自分視点という闇を生み出しますが、それはなくすものではなく、世界という光の中で溶かしていくものです。自我が世界に溶けることで、ヒトは、みんなの中でよみがえり生きていくのです。それがイエス・キリストが示したメッセージだと僕は思っています。

1999年に創った箱庭です。



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