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自分のすべてと向き合いみんなの中で溶けていく

2019年2月2日に開催された富士浅間木の花祭りを前にして、僕は昔に書いた二つの文章を思い出していました。一つは2010年12月7日、約8年前に書いた以下の文章です。

☆彡 ☆彡 ☆彡


メッキがはがれたのだと思う。困難からは逃げて、自分の都合の良いように解釈し、嘘をつき、びくびくして、いつも自分をみんなが忘れてほしいと願う。自分は生きる資格のない人間で、本来なら死ななければならないけれど、死ぬことも許されない。だからもがき続けるだけ。そんなふうに思って生きてきた自分。
でも、ここ数年そんな思いは忘れていた。でも時々「しくしく泣いちゃう感じ」として出てきた。絶望感と無力感。僕はやり過ごしていた。
自分に別の人格を作り上げることで、最低人間の自分を超えようとしてきた。そして、超えたと思っていた。でも、今、自分が噴き出してくる。結局、僕が今までしてきたことはメッキを塗っていただけ。剥がれてくれば、最低の自分が噴き上がる。
あの苦しみはもう味わいたくない。もうこのままぼーとして無気力に生きていたい。そんな気持ちが湧き上がる。そうしたい。
でもそれはできない。僕はもうあまりにも木の花のみんなと関わりすぎた。僕の心はもうすでに僕だけのものではない。はじめからそうか。世界と僕は一つなんだから。ここでの暮らしはその事実を分かりやすくみせてくれているだけ。

僕はこの地球に対して自分ひとり分の責任を負っている。だから投げ出さない。

☆彡 ☆彡 ☆彡

そしてもう一つが、2016年の木の花祭りの後に書いた以下の文章です。

☆彡 ☆彡 ☆彡

鬼はこの世界の道理を伝える存在であり、木の花祭りでは主役となっています。鬼が怒っているのは、相手の心が汚れているからであり、鬼はそれを教えてくれているのです。日々の生活の中で湧き上がる自分優先の心や気持ち、余計な感情。自らが鬼になることによりそれらと向き合い当日を迎えました。

鬼の舞ではアップテンポで舞い踊るシーンがあるのですが、頭を空っぽにして身体の力を抜いて、太鼓や笛の音、みんなの掛け声に身を委ねると楽に動くことが出来ます。それがただただ心地よいのです。


ずっと動き続けることが出来る。


そんなふうに思えました。


ところで、僕は昨日、ある人から以下のメッセージをいただきました。


- - -

この世界に降りてくる前に、神さまはあなたに3つの名前を用意していました。3つの中で真ん中にあったものが「善文」であなたはそれを選んできたのです。それは正解でした。善悪の善。善が先に来ます。だけれども少し間違えると悪にもなります。そのことを心に留めておくことです。そして、あなたは「中野」の性を選んで両親のところに来ました。真ん中の「中」。そして野原の「野」。山ではなく広く広がる野原なのです。

みんなの中の「なかのん」


みんなの真ん中でしっかりと固めていくのです。


中(なか)を守るのです。


でも目立つ必要はないのです。

目立つのではなく深く深く沈みこんでいく。
奥で自分を広げて固めていくのです。

- - -

僕はずっとどちらかというと端っこにいることを好んで来ました。あんまり自分が真ん中にいるという意識を持ったことはありません。その意識を転換させる時が来ているのだなと感じています。

真善美を兼ね備えた人間になっていく。その誓いとして真ん中の字をとって「善(よし)」と付け、そして卯年の守り本尊である文殊菩薩から字をいただき「文(ふみ)」と付ける。(僕は卯年生まれです。)これは僕が勝手に創っていた名前の由来ですが、「善」は真善美の真ん中の字となっているのです。


僕はみんなの真ん中を生きる。


でもそれは目立つことでも際立つことでもなく、みんなの中に溶けていくことなのだと思います。目立とうとすると、きっとすぐに偽悪醜の方へと転げ落ちていくことでしょう。鬼の舞にて、太鼓や笛、みんなの掛け声と溶け合っていったように、日々、みんなの心の中で溶け合っていくことが大切なのだと思います。


溶けていく。その中で天と繋がり柱も立てていく。


☆彡 ☆彡 ☆彡

僕の中にはずっと「自分は生きている意味も価値もない人間だ」という想いがあります。それは自分がずっと流れに沿わない天から外れた想いを抱えていて、天から外れた存在だという想いがあるからです。その一方で、僕の中には、精神の高みを目指し、天と一つになろうという気持ちもあります。この両極の想いが絡み合う中で僕の中には日々、様々な感情が生まれています。

2010年12月、自分と向き合うことに疲れた僕は「メッキを塗っていただけ」と表現していますが、そうではありません。最低だと思える僕も、それを超えようとする僕も、全部自分だから、日々の暮らしの中でそのどちらが育っているか、ただそれだけなのだと思います。

天から外れた想いは、それを抱えることを許す神からの愛であり、自由の証ですが、それは自分の中心ではありません。自分の中心は常に天と繋がっています。だから「自分は生きている意味も価値もない」という想いは幻想に過ぎず、僕は、すべての存在と同様、天に生かされているものとしての意味と価値を持つのです。

天から外れた想いは、僕に苦しみや滞りを与えますが、それと向き合うことで僕は謙虚な気持ちを育むことが出来ます。そして、自然から離れた人工的な社会で暮らす今の人間は、それだけ天から離れ、天から外れた自分勝手な想いを抱える存在となっています。自然災害や異常気象、戦争や紛争、人間社会の対立や分断などはその表れで、だから天から外れた想い抱えることは今の人類を象徴しているとも言えるのです。

天から外れた想い。

そこから生まれる苦しみや悲しみ、惨めさや怒り、絶望感や無力感。

僕はそれらすべてを否定せずに自分に相応しく与えられているものとして向き合っていきます。と同時に、その想いが周りにもたらして来た軋轢や痛みにも想いを馳せます。流れに沿わない想いは周りや世界を混乱させます。だから僕は加害者とも言えます。その上で、それらを自分の中心から生まれる喜びや希望、誇りや充実感と混ぜ合わせてみんなの中で溶けていきます。

自分のすべてと向き合いみんなの中で溶けていく。

そうすることで、この世界のすべての想い、ネガティブなものもポジティブなものも、すべてが溶け合い調和の中で活かされる世界が実現するように。そのために必要な天の道理を自分と世界に通すために。僕は鬼となって舞い踊るのです。

ということで以下、今年の富士浅間木の花祭りの様子を紹介しますね。



鬼の面(神寄せの神事にて)
水の御用・お水合わせ
世界各地、日本全国103箇所から集まったご清水が湯釜の中で一つになります。

楽の舞
一の舞
地固め - 扇
山見鬼
山を割り、地中に封印されたエネルギーを噴出させる力強い鬼。
花の舞 - 盆
花の舞 - 扇
「榊鬼」山見鬼が踏み固めた地に天の道理を降ろし、魂を入れる。
(榊鬼と翁の問答はこちらをご覧ください)
三つ舞 - 扇
三つ舞 - 矢剣(やち)
四つ舞 - 矢剣(やち)
女郎囃子
瀬織津姫の舞
瀬織津姫は男神・天照大神の妻神で、封印されてきた水の神様です。
「金神様」封印されてきた地球神、国之常立神です。
(金神様と翁の問答はこちらをご覧ください。)
このはな八重の舞
同じく「このはな八重の舞」
「茂吉鬼」蜂巣(お宝)を落とします。
「湯囃子」湯釜のお湯を場内に振りまき清めていきます。
獅子舞
「火の御用」祭りで使った道具などを燃やし天へと還します。


水の御用・お水送り」湯釜で焚き上げたご清水を地球へと還します。


ところで、今年の木の花祭りでは新しい鬼として、青鬼と赤鬼が生まれました。緑鬼は北欧、赤鬼は北米(ネイティブ・アメリカン)を代表する鬼です。僕は赤鬼を演じることになり、より天からの気を身体に通すことが求められましたが、なかなかそれが出来ず「気が通りにくい身体の構造をしている」というフィードバックも貰いました。

天からの気が通らない。

それは天から外れた想いを抱えてきた自分の状況と重なるように思えました。そういう僕が大切な役割を頂くのも何かの巡り合わせで天の意志とも言えます。だからそういう現実と向き合い、気持ちを入れてだけだなと思い、当日を迎え、現時点での精一杯を表現しました。

しっかりと演じることが出来たとは言い切れません。

でもこれが僕の実態で現実。実態は常に天と繋がっていて、そこと向き合い価値を積み上げていくことに生きることの本当の意味があります。そしてその位置に立ったトキ、この世界で起きるすべての出来事は天へと至る祝福となるのです。だから僕はこれからも努力を続けていきます。

自分のすべてと向き合いみんなの中で溶けていく。

それは天へと至る僕オリジナルの旅路、これからもずっと歩み続ける旅路です。

「緑鬼」北欧を代表する鬼です。
「赤鬼」北米(ネイティブ・アメリカン)を代表する鬼です。


自分や世界の混沌や混乱を生きて、そこに光を通していく。

1月26日の朝日・富士宮市柚野(諏訪八坂山神社)にて撮影)

2019年2月2日(土)、富士浅間木の花祭りが開催されます。このお祭りには毎年、日本全国及び世界各地からご清水を送っていただいていますが、祭事の前にはそれらを釜戸の中で融合させます。昨年の祭りの際、その儀式を行ったひろっちは以下のような想いを発信しています。

☆彡 ☆彡 ☆彡


湯釜です。

先程、かまちゃんサポートの元、世界各地、日本全国から届けられた清水を、釜にて融合させていただき、ただ今火にかけて温めています。
 
いつもの事ですが、この瞬間は、何とも言葉で言い表し難いものがあります。
 
世界中、日本中の神々様、精霊様達がここ富士の麓にお集まりになり、一つに融合していくのです。
空を飛び海を渡り、陸を通って、遥か遠くの精霊が集まっておられるのです。
 
釜の中の水は、何処からどう見ても一つです。
そこには堺も何もありません。完全に一つに解け合い混ざり合っているのです。

まさに世界が一つになっていく弥勒の世界を完璧に表現しています。

そしてそこにはそれを届けてくださった沢山の皆様の想いも入っています。

この祭りの意味に賛同する人の想いが祈りが願いが集まり、そして一つになっていきます。

手に取り、釜に注いでいく一つ一つの水がとっても重いです。
その様を目の当たりにしてシビレます。あまりに尊くて、そして有り難くて涙が出ます。
 
本当に痺れます。
何とも大切な事をさせられていると実感します。
 
ありがとうございます。
ありがとうございます。
勿体のうございます。
 
惟神(かんながら)たまちはえませ

でわ舞庭で会いましょう。




☆彡 ☆彡 ☆彡

祭りでは、日本全国及び世界各地から集まった水が、湯釜の中で混じり合い、その周りを舞手や観客が渾然一体となって舞い踊り調和を表現していきます。

水が混じり合っている。

そんな状態を表現する言葉があって、それは「混沌」です。混沌の「混」は「まざる」という意味で、「」の部首「さんずい」は「水」を表し、「屯」は「たむろする、寄り集まる」という意味で、「塞がって水が流れない状態」を意味します。

混沌(こんとん)

辞書で調べると、「天地創造の神話で、天と地がまだ分かれず、まじり合っている状態。カオス。」「入りまじって区別がつかず、はっきりしないさま。 」となります。

混沌(こんとん)

カタカムナで読み解くと、「転がり出て統合する」動きを強めるものとなります。

そしてジイジは混沌という言葉について以下のように語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

混乱とは、泥の中にいるということ。その泥をかき混ぜて、活性化し、芽が出ると、そこには蓮の花が咲く。



☆彡 ☆彡 ☆彡

と・・・・ここまで書いて気付いたのですが、引用文でジイジは、「混沌」ではなく「混乱」と言っていました。ここまで書いてきたことは、このジイジの言葉がきっかけとなって想いを巡らせたものなので、勘違いから生まれたものと言えます。混沌と混乱が混じり合って生まれたもので、それはそれで面白いのではないかと思います。

ちなみに混乱(こんらん)をカタカムナで読み解くと、「転がり出たエネルギーが強まる場所」となります。それは統合へと至るものと言えます。

だから自分や世界の混沌や混乱を恐れずにその中を生きようと思いました。が・・・

そうはいっても、混沌も混乱もそれだけでは統合・新しい動きには至りません。富士浅間木の花祭りで世界中から集まってきたご清水も、そのままずっと置いておいたら淀んでいきます。釜戸の「火」により、混じり合ったご清水が蒸発するからこそ、それらは世界中に循環し、調和の響きを広げていけるのです。

「火」は「ヒ(1)」、始まりであり「光」。

混沌や混乱に「光」をあて、それを認識し見通すからこそ、新しい動きが生まれるのです。

だから、自分や世界の混沌や混乱を恐れずに、思う存分にそれを表現し味わい生きる、と同時にそれらを見通し、道理の「光」を通していく。そんなふうに生きようと思いました。

2012年12月21日、銀河の冬至の前後7年である銀河の夜明けを経た今の時代は、混沌や混乱がピークを迎え、そこにどんどん光が差し込んでいくトキです。混沌や混乱は、新しい動きを生み出す元、それがピークを迎えた今は様々な可能性を秘めたトキと言えます。

気候変動や異常気象、戦争や紛争、経済格差や貧困、社会の分断や対立・・・・

今の世界はまさに混沌とし、混乱していますが、

僕は、混沌の中で混乱することで、人智を手放していく。そして生きる意味や価値をすべて出会う出来事に明け渡し、そこに天の道理という光を見出していくのです。

苦しみは天が与えた自由であり愛であり幅。

1月21日、富士山と満月(みほさん撮影)です。

私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います


この自然界、そして宇宙の法則は、すべて因果応報の仕組みで成り立っています。原因があって結果がある。そこでは、その原因にふさわしい現象が起きることが約束されているのです。こんなにありがたいことはありません。なぜなら、その者にふさわしい現象が顕れるからです。そして今、この場に立ち会う人々も、なぜここに集うのかというと、それにふさわしい生き方をしてきたからです。今皆さんは、どのくらいの意識を持って今日この場に集っているのか。その今の意識が、皆さん一人ひとりのこれから先の人生に形として顕れていくと同時に、社会を創っていくのです。それは当然のことなのです。

人類はそろそろ、そのことを知らなければなりません。出来事の表面だけを見て、それが不愉快だと言って解決しようとする時代は終わりました。これからどのような時代を生きていくのかは、その者が自らの人生をどのようにしようとしているのか、そこで何を望んでいるのかによって変わっていきます。つまり、生きることが自らの手の中にあるのです。これまで、なぜそれが人々の手の中になかったのかというと、自らの独りよがりで、この世界から与えられている命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

上記は2年前、マヤの新年の際にジイジ(当時はいさどん)が語った言葉です。

原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います

ジイジはそう語っていますが、問題や願いがあるトキ、現象ばかりを追い求めると、それは「欲」となり、自分や世界の実態からは切り離されていきます。

願いが叶わないということは、その願いが天の流れからは外れているということであり、天から外れた「想い」を抱えているということになります。その「想い」が強すぎると、生きている意味や価値を見出せなくなることもあります。

昨年、クローズアップ現代「”縁切り死”なぜ愛する人が突然…」を木の花ファミリーのみんなと観ましたが、誰にも分からないように死ぬ人たちも共有できない「想い」、天から外れた「想い」を抱え、生きる意味を見失っていたのではないか、そんな風にも思えました。

ですが、それらはすべて幻想とも言えます。なぜなら、この世界に存在するものはすべて、天の流れにより生かされているのであり、そのこと自体に意味や価値はあるのです。天から外れているのは、自我から生まれる「想い」であり、その結果、生きる意味を見失っているのです。人々がそのような「想い」を抱えるのは、自分の都合を求めて、命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからであり、欲を追い求めることで実態から離れ、自分を苦しめているのです。

その苦しみは、それだけの自由が与えられている証でもあります。

苦しみをカタカムナで読み解くと、「自由が維持された示しが満ちる」となります。天は人間の自我に自由を与えました。自分や世界の実態から離れた「想い」を抱え生きること。それは天が与えた自由と言えます。そして天は、それ以上離れていかないようにと苦しみを与えてくれているのです。とすれば、苦しみは天が与えた自由であり愛でもあります。苦しみと向き合い、苦しみを超えることは、自分や世界の実態へと至る道であり、そこから天との対向発生が生まれます。そのトキ、苦しみは生きる喜びへと変化し、今ある問題も解決へと向かっていきます。

天から外れた「想い」を抱え、思い通りに進まない。

その苦しみは天が与えた自由であり愛であり幅です。その苦しみと向き合う中で、自分や世界の実態にメスを入れていく。そのトキ、自ずから、自動的に変化していく現象を味わい、楽しむこと。それがこの世界に自分が生み出された意味であり価値なのです。


未熟があるから成長できる

1月7日、天王星が始まりを表す牡羊座で順行となり、全惑星が順行となった日、ジイジが見えたビジョンを語りました。

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ジイジ:
今、たくさんの花飾りをつけた神様がおいでになった。観音様かと思ったが、観音のような繊細な顔立ちではなく、おおらかな丸い顔立ちのその方は大日如来だった。
大日如来は銀河神であり、僕の守護神。つまりそれは、神道でいう天之御中主のこと。
七色の光の柱がこちらに向かって降り注いでくる。広大な世界に余すことなく降り注いでいる。その虹色の光の柱のいたる所に、ラメのように光り輝く金粉が、宇宙空間を漂いながら虹の柱と共に降ってくる。全体が巨大な光のシャワーのように流れている。そのシャワーが眉間に降り注いでくる。
そのシャワーを浴びていると、何があっても生涯この役割を果たし続ける、という決意が湧いてくる。
(ジイジしばし深呼吸の時間が続く)

ジイジ:
なるほど、面白いね。今まで、光とは一直線に飛ぶものだと思っていたが、綿のように塊になっている。そしてその綿のような塊が発光している。それが光の実態なんだよ。我々は光の源から発せられたものしか見ていないから、光というものは一直線に進むものだと思っているけれど、光の発生の元は綿のようで、入道雲のように、もこもこもこもこと増殖し、それが光源となってそこから発射されるんだよ。つまり発光源は核融合のようなプロセスを経て光を発する存在となる。それが、光が発生する原理だ。無から有を生み出す原理は、核融合なんだよ。
光のイメージが完全に変わってしまった。これは、光の種を持てというメッセージなのか。そうすると光を受けるものではなく、光を発するものになれるということだ。その素質はみんな持っている。一人一人の中に光源があるから、そのスイッチが入れば、光を受けるものではなく発するものになれる。
みかこ:
それが目覚めるということかな。
ジイジ:
その目覚めは、過去に人類が目覚めてきたものとは異質のもので、生命の本質に目覚めること。宇宙の根源に目覚めるということ。
みかこ:
過去の目覚めはどういうものだったの?
ジイジ:
それは、ものの仕組みとか道理に目覚めることであって、それを悟りという。悟りというのは低いレベルから高いレベルまで、たくさんあるものだけれど、僕が今言っている目覚めは、根源にスイッチが入れば、心の核融合が始まるということだよ。だから今までとは異質のものなんだよ。
みかこ:
照らされる側から照らす側になるんだ。
ジイジ:
つまり自分に内在する宇宙にスイッチが入ったということ。
みかこ:
いわば、太陽に照らされていた惑星のような存在から、自ら輝く太陽となって、銀河の一員になるということだね。
ジイジ:
それでこそ、初めてセントラルサンの命(めい)が果たせる。
みかこ:
そうだね。直接セントラルサンの命(めい)が受けられるものになる。
ジイジ:
だから、光を受け取る側から、光源となることが大事なんだよ。光に照らされて真理の明かりを見るのではなく、真理の光を発する位置に立つことが、今までの人の悟りの道の奥にあったということなんだよ。
この肉体の器に入っていると、そのことを理解するのは難しいけれど、肉体から魂が解き放たれれば、その魂に相応しい次元に存在することになる。だから魂が何者であるかが大切なのであって、肉体の中にいる限りは、肉体の世界の限界の枠がある。だから、中にある魂の意識レベルが問われるんだよ。
(ここで、四拍手する)

これは宇宙創造の原理だから、気楽にやっているけれど、この宇宙の創造原理を理解して生きるということは相当な精神レベルにあるということだ。そこまでわかると、いろいろなことがどうでもよくなる。そして、わからなくても行ける人にならなければいけない。
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光を受け取る側から、光源となる。

このような高い志を持つトキ、僕は自らの未熟と出会います。未熟と出会って、苦しむのですが、未熟だから駄目なのかと言ったら、そんなことはありません。光を認識するためには闇が必要なように、この世界に認識や動きが存在するのは、相反する存在があるからです。

この世界に認識を生み出し、動きをもたらすために、天とは相反する存在として人間は生み出されました。完全なる天とは相反する存在である人間は、本質的に未熟な存在となります。だから未熟を否定することは、自らの存在を否定することになります。

完璧な存在はそのままで完璧なわけで、そこに成長はありません。未熟だからこそ成長があり、成長があるからこそ、感動があります。そのことに気づいたトキ、未熟は苦しみではなく成長へ繫がる喜びとなります。そして、未熟な存在が成長するためには柱となる指針が必要です。完全なる天が指針となり、未熟な人間が成長していく。完全なる天と未熟な人間、この世界にはどちらも必要であり、天と人間は本質的に対等なのです。

光を受け取る側から、光源となる。

このトキ、光源となるものは、自らの未熟なのだと思います。自らの未熟にしっかりと向き合い、成長し続けることで光となっていくのです。

高い志を持つトキ、自分が素晴らしい人間になったような気分になります。そういう気分に浸り過ぎると、自分の実態が見えなくなり、高い志は幻想となり挫折することになります。今まで人類は、たくさんの理想を語ってきましたが、その多くが幻想となり、挫折しています。それは光源となる自らの未熟と向き合って来なかったからであり、放っておかれた未熟は世界に混乱をもたらしています。

尊くあろうとすると、自らの未熟はそれとは反するもののように思えます。だから切り捨てたくなります。ですが、未熟を切り捨てる行為は幻想を生み出すだけです。

尊い教えをいただき、それに自分を合わせていく。

それが光を受け取る生き方であり、今までの生き方だとしたら、

自らの未熟と向き合い、成長という光を放ち続けていく。

それが、自らが光源となるこれからの生き方です。だから僕はそんな風に生きるのです。

ジイジ(右)と僕です。

天上天下唯我独尊から天上天下全我全尊へ

仏陀がすべてが繋がり合うこの世界の中で「天上天下唯我独尊」と語ったのは、自分が消えたら認識が消え去るから。これは認識に価値を置いた言葉で、人間を人間にしている人間らしさは「認識」にあると思っています。

だけれども、人間の認識は自分の身体や経験に縛られていて、そのままではこの世界の真実の姿を観ることが出来ません。だから心を磨いて自我を手放し自分の視点を超えていくことが大切なのだと思っています。


自分の思惑や感情を手放し目の前の出来事に心を開き、そこから学ぶトキ、変化は自ずから起きて、そして自ずから成長していきます。自分の想像を超えた自分と出会うことが出来ます。

多くのヒトが共に暮らすコミュニティは多くの視点が混じり合うことで自分の視点を超えるようにと導いてくれます。その先にあるのは、この世界の実相への認識。それは無限の深みがあるもので、探求しても探求してもきりがなくて、いつも自分の想像を超えてきて、面白く面白くて仕方がないものなのです。




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上記は昨年の6月、「あなたにとって人間らしさとは?」という質問に対して答えたものです。この世界に認識が生まれたのは、相反するものが存在するからであり、認識を生み出す自我は、天とは相反するものとして存在しています。相反するものとしての自由が与えられた自我は、自分で生きているという錯覚に陥り、天の法則を忘れ、自分の都合の良い世界を作ろうとすることで、天から切り離され、孤独となっていきました。

天上天下唯我独尊

本来、その「我」の中にはすべてのものが含まれているのですが、今の人間はそのことを忘れているから、「自我」を手放し天に心を向けることが大切となります。ですが、それは「自我」と「天」というように固定することではありません。そのことをジイジは以下のように語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

「あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。」というマザーの言葉。それは自我を捨てて、天のままに生きるということです。僕は昔、それを天のマリオネットと表現しました。でも、その考えは今は変わっています。昔、夜、外に出て上を見て、月が出ていれば月、星が出ていれば星、曇っていたら、その上に星や月を想像して語っていました。

「神さま、私はあなたの意志に沿うものです。」

そうすると、そういうことを語っていた時、その間違いに気付きました。「あなたの意志に沿うものです」ということは、あなたという意志があって、そして、それを受けている自分がいるということです。でもよく考えてみたら、あなたという意志はわたしに表れています。だから、本当のそれが通じた時に、私の意志はあなたそのものなのです。

あなたはわたし、わたしはあなた。

その時、「神さま」とそこに気持ちを向けたり、「あなたの意志」というようにそこに特定を持った時に、すでに自分、自我を成立させているのだと気づいたのです。

まわりてめくる。

すべては新しい出来事として学ぶべきことです。常に新鮮で新しい毎日が来るわけですから。

                       「相応しいものになっていく。」より

☆彡 ☆彡 ☆彡

本当に通じたトキには、私の意志は天そのものとなります。この世界は、陰と陽の相反する二つのものが互いを成り立たせ合う「対向発生」の原理によって創造されています。天と相反するものとして存在している自我は、天と「対向発生」するために存在するのであり、その奥には天の意志が隠されているのです。その意志を感じることが出来れば、私の意志は天そのものとなり、天と自分は対等な存在となります。

世界を一つの身体にたとえたならば、自分の存在は1本の髪の毛のようなものかもしれません。役割としてはごくわずかなもので、短い期間しか身体に留まりませんが、1本の髪の毛は心臓や肺、身体全体と対等なものです。自分の役割に徹し、身体全体を担うものとしての誇りが1本の髪の毛を身体全体と対等にしていきます。僕も世界に対してそんなふうな存在となっていきます。

自分の「思い」は天の意志の顕れです。それは、その「思い」に固執しろということではなくて、思う存分に表現することを通して天の意図を探っていくのです。自分の「思い」は全体の中の役割として与えられたもので、天の意図は自分の想像を超えていて、常に分からないものです。だからこそ先に行くことを楽しむことが出来るのです。「思い」から自由になることで、自らの「思い」と世界を楽しめる。その姿勢について、ジイジはこんなふうに語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

そこで、僕たちは何をしているのかというと、天の意志を探っている。どういう意向があるのかという流れを観ている。僕がよく皆に言う、頭を使えというのは、ものを偏らずに観て、流れを観ていくということ。何をもって正解として受け入れるかどうかというのはない。現象をもって真実とすべしだから、成ったことを受け入れていく。成ったことで、天の意志を探っていく。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この世界は相反するものの「対向発生」の原理により創造され、自我は天と相反するものとして生み出されました。時代が分離へと向かう中で、自我は、自らの都合の良い世界を生み出し、天から離れていくことで、自然災害や戦争や紛争など、それに相応しい世界が表現されてきましたが、銀河の夜明けを経て、時代は今、統合へと向かっています。陰と陽、男性性と女性性、天と自我、自分の内と外、相反するものが統合することにより「対向発生」による豊かさを表現する時代へと向かっています。そのトキ、すべての存在の「我」は、天との「対向発生」を生み出すものとなり、一人ひとりの個性が花開きながら調和した世界が生まれます。

天上天下全我全尊

2019年の冒頭にそんな言葉が浮かびましたが、多くの人々の「我」は、いまだ自分の都合を追い求め天とは分離し、社会の分断が進んでいます。

そんな中、僕が暮らす木の花ファミリーは、一人ひとりが自らの「我」を見通すことで、すべての人が全体性を意識し天と対向発生する場を創ろうとしています。最後に、その木の花ファミリーの正月風景を紹介して筆をおきますね。今年1年どうぞよろしくお願いいたします。

1日の朝、みんなで初日の出を見に行きました。

1日のお昼です。
1日のお昼です。
1日の夕食です。
1日の夕食です。
夜は子どもたち企画の元、みんなで遊びました。これはフルーツバスケット。
全世代参加の木の花リレー。まずは小さな子ども。
木の花リレー(小学生)
木の花リレー(子どもを乗せて腕立てをしてから走ります)
木の花リレー(途中で洗濯物を畳みます)
木の花リレー(腹筋をしてから走ります)
2日の夕食は餃子。子どもたちも一緒に600個以上作りました。


元旦の初日の出。雲の隙間から一瞬だけ姿を現してくれました。

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