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現象の作り手の位置へ行こうとする

ロシアで開催中のワールドカップにて、C・ロナウドはスペイン戦でハットトリックを達成しました。3対3のドローで終わったこのゲームは歴史的な名勝負とも報道され、その中でのロナウドの活躍は多方面から絶賛されています。以下の記事もその中の一つですがとても印象に残りました。

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これまでワールドカップの舞台に立つC・ロナウドは、いつも自己中心的だった。言い換えれば、よくも悪くもC・ロナウドのワンマンチームだったポルトガルでは、彼が自分で何とかするしか手がなかったとも言える。

 だが、この日のC・ロナウドはそうではなかった。印象的だったのは、前半21分のシーンである。

 カウンターから敵陣ペナルティエリア付近に攻め入ったC・ロナウドは、ゴール正面からやや左でパスを受けた。かつての彼なら間違いなく一度ボールを収め、自分でシュートまで持ち込んでいたはずだ。

 しかし、C・ロナウドはあろうことか、中央に走り込んできたFWゴンサロ・ゲデスへワンタッチパス。キャプテンがお膳立てしたチャンスは、結果的に21歳の新鋭FWがふいにしてしまうのだが、C・ロナウドの”変心”を強く印象づけた場面だった。

 もちろん、そこには33歳になったC・ロナウドの衰えもあるだろう。だが、自身の力は落ちているにもかかわらず、過去最多の得点を量産できているのは、彼が”ひとり相撲”を取っていたときに比べ、チームとしての機能性が格段に高まったから。つまり、ポルトガル代表においてC・ロナウドの役割が整理され、いい意味でひとつの駒となってプレーできていることが、数字につながっているように見える。 



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ひとつの駒となることでより輝きが増していく。それは以下の会話でのジイジ(当時はいさどん)の仕事に対する姿勢と通じるものがあります。

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なかのん:

質問があるんだけれども、自分らしく生きていることと自己主張をしていることの境界ってどこにあるのかな?

いさどん:

自己主張は主張でしょ?誰かに何かを主張している。分かって欲しいと求める対象がいる。自分らしく生きることには対象はない。ただただ淡々と生きているだけ。自分らしく生きている姿は美しく気持ちがいいけれども、自己主張は気持ちよくない。正直に生きていても、それが自己主張になってしまっている人がいる。それはアピールして人に分かって欲しいと求める気持があるため。そういう人は気持ちよくない。世界と自分、両方から離れて眺め、自己主張を超えていく必要がある。

なかのん:

何かを分かって欲しい気持ちがあるか?それが一つのチェックポイントになるんだろうね。僕は、自己主張はいろいろなところに入り込むって常々思っているんだ。例えば、一生懸命に働くことの中にも自己主張は入り込む余地がある。「俺はこれだけ仕事をしているんだぞー」みたいに。

いさどん:それは誰にアピールしているの?

なかのん:みんなかな・・・

いさどん:その時はみんなと自分を分けているんだよ。

なかのん:そうか・・・アピールするってことは分けているってことか・・・

いさどん:

そうだね。僕なんかそんな感じはまったくないよ。僕が淡々と仕事をすることは木の花全体の仕事を進めることで、全体に仕事が進むのは良いことだしね。

仕事に関しては、こんなことがあったんだ。今、家を建てているでしょ。その家の壁の漆喰塗りを進めようと思っていて、特に僕の部屋の部分は自分でしたいと思っていた。僕が一番丁寧に出来るし、これからずっと眺めるものだから。でも、普段から養蜂や面談などで忙しく、加えて、蜜蜂がスズメバチに襲われるなんていう突発的に事故が入ったりして、なかなか取り掛かることが出来なかった。そこでまっちゃんりょうちんが仕事を進めることになった。まあこれも流れかなと思っていた。これには良い面もあって、もし僕が漆喰塗りに取り掛かったら、僕が主となってやることになり、まっちゃんやりょうちんには従属する気持ちが生まれてしまう。でも、僕が取り掛かれなかったことで、2人とも主体性を持って伸び伸びと仕事に取り組んでいた。加えて、2人は僕の部屋の部分は後に取っておいてくれたので、時間が出来て僕が塗ることが出来た。僕は漆喰塗りを手放した。手放したらより良い形で僕がやる流れが来た。これは覚悟が出来ているから生まれる流れ。覚悟とは執着のない心。捕らわれない心。潔い心。覚悟が出来ていると、自分がやるべきことと手放すことの冷静な判断が出来て、結果良い流れを生み出す。

人間だから僕も人間的意識で物事を体験し捉える。と同時に上の意識でも物事を捉えている。日常生活の奥には現象を生み出すバイパスがあって、そこから物事を眺めているとすべての出来後が繋がってくる。この世界は一つだから現象の元を辿りバイパスに至ればすべての出来事が繋がっている。一人一人に相応しい現象が生まれるこの世界。生きてそれを味わい自分を知りあらためていく。それは一人一人オリジナルな体験で、いつでもどこでも出来る実践。お金も掛からなければ、誰かに頼る必要もない。日常の現象からただただ自分を知って改善していく。それは最も正攻法で手法もいらない、人生オール心磨きの実践と言える。

なかのん:

日常を眺める視点を頂いたように思える。背景に流れる意図を感じ、そこから眺める。そうすると一本の糸のようにすべての現象が繋がっていくように思えた。その視点を共有したい。

いさどん:

その視点をみんなで共有しようというのが、僕がずっと言ってきたこと。視点の位置は同じでも、みんなが僕の真似をするわけではない。それぞれの個性の応じた景色が見えてくる。独自の視点から流れを捉えることが出来る。それをみんなで共有することでこの場所はもっと豊かな場になっていく。これは現象を味わう身体を頂きながら、現象の作り手の位置へいこうとする道。人間でありながら、人間を超えていく道。

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過去3大会で3得点しか挙げていなかったC・ロナウドが第一試合目でいきなりハットトリックを達成しました。その背後に流れる物語を探ることはとても楽しいことです。スポーツ観戦をする時、多くの人が試合結果やパフォーマンスだけでなくこういう物語を楽しんでいるのではないかと思います。ですが、自分のこととなると、損得勘定や思惑が働くことで、多くの人が結果だけに囚われていきます。すると背後に流れる物語は見えなくなり、たとえ成功したとしても人生は貧しいものになってしまいます。これは自分で自分の人生を貧しくしているのです。

スポーツ観戦をする時、人は自分を離れ現象の作り手の位置にいこうとすることが出来ます。そこに働く神の意志を想像することも出来ます。だからそれは豊かで魅力的なものに映ります。ですが、本当は自分自身の人生も同じぐらいダイナミックで魅力的なのです。目の前の出来事や結果に囚われなければ、そんな豊かな世界が見えてきます。だから自分を超えていく心磨きの道はとても魅力的なものなのです。

C・ロナウドは「自分が・・・」という心を手放しチームの中で一つの駒となることで輝きが増しています。それは一人ひとりの人生にも言えて、この世界と一体となって一つの駒として生きることで人生の輝きが増していくのです。

近代以降、一人ひとりが自らの願いを追い求めることが幸せに繋がると信じられてきました。ですが、自らの願いを追求することは「自分が・・・」という心を育て、その結果、人は自分だけの世界を創り、この世界の実相から遠ざかることになります。それはとても不安定な状態で、そのため人々に向けてアピールする必要が生まれ、本来の自分を失っていくのです。

世界と一つになれば、アピールする必要はなくなります。そして淡々と生きることが自分自身の表現となり、それがこの世界の中で生かされ輝きとなっていくのです。

そんな日々を僕は木の花ファミリーのみんなと送っています(^-^)

6月19日の富士山と太陽。もうすぐ夏至ですね。




奥の心を探求することでゴミがなくなっていく

昨晩の大人ミーティングでは、クローズアップ現代「あなたの隣もごみマンション!?現役世代に広がる”孤立”」を観ました。この番組について、ジイジは以前、以下のように語っています。

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今の社会では人付き合いが表面的になっていて、番組に出ている人たちはそれでよい評価を得たりしている。だけれども実体、人としての成長は伴っていないから、実体を表すように部屋がゴミ屋敷になっていく。今の社会ではお酒や性に溺れる人たちがいるが、それも同じこと。表面を取り繕ってもどうにもならない実際の人間性がゴミ屋敷やお酒に表されている。社会、人間性の崩壊は潜在的にはここまで進んでいるということでこれは深刻な問題。番組では孤立をクローズアップしていてコミュニケーションの大切さを訴えているけれども、孤立の奥には人間性の未熟があってこれは小手先でどうこうなる問題ではない。一人ひとりが自分の人間性に向き合い向上していくことが大切で、その方法がみんなで共に暮らすこの暮らしの中にある。だから本当にこの暮らしはこれから必要になってくる。


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この世界に表されることはすべて人間性の表れです。心の中にゴミがあるからこそ「ごみマンション」がその姿を表してくれているのです。そして、今日の大人ミーティングであらためて心に残った言葉は、「自然界にはごみはない」という言葉です。なぜ自然界にごみがないのかと言ったら、すべてが繋がり循環し生かされているからで、人間の世界にごみがあるのは、分断が進むことによって生かされず無駄になるものが発生しているからです。それは心の中も同様で人との繋がりがないまま自分の想いに浸っていると、無駄な思考や感情がたくさん発生し、それが心の中のゴミとなっていくのです。

「自分が・・・」という意識や「自分の・・・」という意識が強まることでこの世界に分断を広げてきましたが、その分断は一人ひとりの内面にも起きていて、自分の嫌な部分、受け入れたくない部分は心のゴミとなり、人生のトラブルとなって表れます。

ごみマンションは今の社会、そして一人ひとりの心を表しています。だからごみマンションの解決に一番大切なのは自分自身と向き合うことなのです。

話しは変わって。

今、日大アメリカンフットボール選手によるラフプレーが社会問題となっていますが、そのことについてジイジは以下のように語りました。

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みんな行為を見て善悪で裁きたがっているが、本当に大切なのはその行為の奥にある心を見ていくこと。奥にある心を感じるトキ、それが何だったのかを本当の意味で理解出来る。

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奥の心を見ていく。

それは事件の当事者の心の奥を推察するだけでなく、善悪で裁こうとするトキの奥の心を見ていくことも大切になります。行為を善悪で裁こうとするトキ、その奥にある自分の心はどんな心なのか、そのことを常に観察していくことが大切です。

ごみマンションに象徴されるように、今、多くのヒトの心の奥にはゴミがあります。そのゴミとは、無駄な思考や自分の受け入れたくない部分であり、そうすると自分に対する理解は自分都合で表面的なものとなります。他者に対する理解も自分都合で表面的となり、自分の受け入れたくないものを他者に見て裁いている。行為を見て善悪で裁く心の奥にはそんな心を感じます。もちろんそうではない場合もあるのでしょうが。

自分に対する探求を深めれば深めるほど、心の中のゴミはなくなっていきます。そしてこの世界は心の反映だから、心のゴミがなくなれば、この世界からもゴミがなくなっていきます。起きた出来事の奥の心を探ると深いところで理解し合えて、それは次へと繋がる学びとなります。すべての出来事が生かされていく。つまりは経験の中にゴミがなくなっていくということです。

奥の心を見ていくこと。

それはきっとこの世界からゴミをなくす取り組みとなり、その先にはきっとすべての存在が繋がり生かされる世界があります。だから僕は木の花ファミリーのみんなと現象の奥の心を探るよう心掛けています。


木の花ファミリーの暮らしの一コマです。




人生とは場創りである(3)

射手座の満月です(^-^)

  • 自分は基本的に場を創りたくない人。みんなの前で話をしようとするとただの事務連絡だけでも心臓がバクバクする。この場をよくしていこうという提案に乗れない自分がいる。そのため「こんな自分はここにいてはいけないのではないか?」という考えが浮かんでくる。そして、実際に出ていくことをシミュレーションしてみる。「自分が出ていくならば、引継ぎとして最低でも1ヶ月は必要だよな~」とか「ここを出て行った場合、道義として同じような暮らしは出来ないよな~。そうすると、生きていくために適当な仕事を探して無気力で生きていくのかな~。」なんて考えて、「こんなことを考えても仕方がないので、ダメかもしれないけどやれるだけやろう」と言い聞かせて過ごしている。

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4年前の5月、僕はこんなことをみんなの前で話しました。そしてそんな僕に対してみんなが見える視点を伝えてくれました。

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  • こんなふうに言うことでなかのんは失敗した時のための予防線を張っている。本当は良くしていきたい気持ちがあるのに、それを推し進める力がない。ならば人に心を開いて頼ればよいのに、それもプライドが高いために出来ずにいる。なかのんは無駄な思考、エネルギーを使っている。ここを出ていくことに良いイメージがないのに、そんな考えにエネルギーを使っている。湧いてきた無駄な想いを手放していくということをしているようだが、本当に高い視点を持って、その位置にい続けたら、そんな想いは湧いてくることがなくなる。そこまで自分を高めることが大切。


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当時の僕は肯定出来ない自分をそのままにして、その上、「僕は一生懸命に考えているんだよ」というアピールまでしていました。まさに予防線を張っていたのですが、それが自分や世界に何をもたらすかには想いが至っていませんでした。

肯定出来ない自分をそのままにして保身に走る。

そんな姿は至るところにあるのかもしれません。

例えば、安倍首相は加計学園や森友学園の問題について国会で追及されていますが、そんな自分を肯定出来るとは思えません。ですが、安倍首相がやっていることは自らの保身のための行動であり真相を闇へと葬りさろうとしています。例えば、その姿はテレビを見ている子どもたちにどのように映って、どのような影響を与えていくのか、そういうことには想いが至っていないのです。

今、アメリカと北朝鮮とで米朝首脳会談に向けてのせめぎ合いが行われていますが、その背後にも金正恩体制の維持やトランプ大統領の支持率などの保身が見え隠れしています。

政治家にとって支持率はとても重要です。それを重視するあまり、自分自身が肯定出来る(誇れる)かどうかは蔑ろにされていきます。肯定出来ない自分であっても周りに受け入れられればそれでいいのです。そしてそれは今の世の中全般に言えることだと思います。

例えば松岡正剛さんは千夜千冊1604夜『勝手に選別される世界』の中で、「評判の社会」から「評価の社会」へと変わっていくことが大切だと述べていますが、この文章も上記の傾向がある社会に対する提言と言えます。以下、松岡さんの文章を引用します。

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むろん評判がいいのは悪いことじゃない。視聴率がいいのもベストセラーが出るのも結構だ。けれども21世紀の現在社会はついつい「評判の社会」になりすぎてきた。芸能界を筆頭に、評判で人気とりをするポビュリズムは政治家たちを含めてずっと以前からあったけれど、アクセス数に溺れまくるネット社会になって、その傾向が極端に増大した。増大しただけではなく、それが止まらなくなった。

   ~ 中略 ~

われわれが望むべきは評判ではない。今後の社会に示されていくべきは評判のランキングではない。ましてその集計結果ではない。「評価」(evaluation)の内実であるべきである。「いいね」のヒット数などではなく、「いい」をめぐる対話を交わすことなのだ。


だから「評判の社会」から「評価の社会」へであり、「レピュテーションからエヴァリエーションへ」なのだ。「レピュ」から「エヴァ」へ。これがぼくの注文なのだ。

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今、人々は評判を求めるあまり内実は置き去りにされています。今の状態は一人ひとりが生きてきた結果であり、それぞれに理由があるのは当然ですが、その理由を使って肯定出来ない自分であってもそのままにしていきます。そして人々に受け入れられることは求めるから表面だけを取り繕うことになります。みんなで表面上だけで受け入れあって大切なものは蔑ろにされていく。評判だけを過度に求める今の社会は人々をそんな状態にしていくのです。

だから僕は自分の肯定出来ない部分と向き合ってきました。場を創りたくないと表明した僕は、人生とは場創りと語るようになりました。その言葉には以下のような気持ちが込められています。

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他者のために。

そう思った時、特定の他者を想定すると視点が狭くなり、囚われとなる恐れもあります。ですが、場を同時に意識していれば、視点は時空を無限に広げていくことが出来ます。そして、場が健全になれば自ずと人は癒されるのです。だから常に場作りを心掛けていくことが大切なのです。

視点を場に持って行くと自分からも離れることが出来ます。そして健全な場は人を癒すのだから、自分自身も癒されます。自分のことを考えなくても、場を意識していれば、自ずと自分のためにもなるのです。

自他の区別を超えてみんなのために。

場創りを意識していればそんなふうに生きることが出来るのです。


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保身に走るのも評判を求めるのも意識が自分にいっているからであり、その結果、大切なものが蔑ろにされて自分の価値を落とすことになります。ですが、意識を場にもっていけば、場創りを通して自分が癒されると同時に自分の価値を上げていけるのです。

昨日、5月29日23時20分、射手座の満月です。

射手座の支配星は発展と成長、コミュニティを司る星、木星です。今は自分の可能性を思いきり広げるトキです。僕はこのトキを迎えて自分自身の肯定出来ない部分に徹底的に向き合います。そして、それを解き放ち自他の区別を超えた場へと意識を広げます。

人生とは場創り。

それは自他の区別を超えてすべての存在を幸せにしていくということです(^-^)





泥の中から美しい蓮の花が咲くように。


521日、24節気では小満、西洋占星術ではふたご座が始まる日でしたが、この日、太陽の周りに日輪が見えました。Facebookで日輪の写真を上げている人が多く、いろいろな場所から見ることが出来たのだなと思いました。そして僕はこの日輪が鏡のように見えて、「ALOHA=Face with Breath(呼吸と共にいる)」にてジイジ(当時はいさどん)が以前に語った以下の文章を引用しました。

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生きるとは、自らの魂が生み出す「思い」を表現することです。思いは、それぞれの響きを持っています。私たちが生きて、思いを表現すると、その思いの響きがこの世界の何かしらに当たり、ふさわしい現象となって自らに返ってきます。自分がどのような響きを発するかによって、世界はその響きに正しく応え、ふさわしい出来事を与えてくれるのです。そうすると、人生で出会うすべての出来事は、自分自身を観ていると言えます。つまり、この世界は鏡なのです。

 ~ 中略 ~

生まれてきて、生きることは、命の仕組みです。それは宇宙の法則の中にあります。人生を生きるといろいろなことに出会いますが、その出会いは、自らの魂が何を発したかによって、それにふさわしい出来事が返ってきたということです。返ってきたものを見て、私たちは自分自身を知るのです。


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この世界は鏡なのです。ここで話しは変わって。

先日、クローズアップ現代の「あなたの隣もごみマンション!?現役世代に広がる”孤立”」を観たジイジは以下のように語っていました。

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今の社会では人付き合いが表面的になっていて、番組に出ている人たちはそれでよい評価を得たりしている。だけれども実体、人としての成長は伴っていないから、実体を表すように部屋がゴミ屋敷になっていく。今の社会ではお酒や性に溺れる人たちがいるが、それも同じこと。表面を取り繕ってもどうにもならない実際の人間性がゴミ屋敷やお酒に表されている。社会、人間性の崩壊は潜在的にはここまで進んでいるということでこれは深刻な問題。番組では孤立をクローズアップしていてコミュニケーションの大切さを訴えているけれども、孤立の奥には人間性の未熟があってこれは小手先でどうこうなる問題ではない。一人ひとりが自分の人間性に向き合い向上していくことが大切で、その方法がみんなで共に暮らすこの暮らしの中にある。だから本当にこの暮らしはこれから必要になってくる。

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ゴミ屋敷もその人にとっての鏡でありその人自身を表しています。そしてこの世界で起きることは大きな視点で見ればすべて自分自身の表れだから僕自身の表れとも言えます。それはみんなで創った社会構造が生み出したひずみです。

それで自分のことを思います。自分は、11年前はこんな感じでした。

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中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、
そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。
そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、
僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。

僕はその頃、毎晩泣いていて、
人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。

そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、
心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。

なんか漫画みたいなバカな話。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…

僕はそれぐらい自分の感情に翻弄されていました。

それはある意味、極端な精神状態への憧れでもあります。
忘我。自分を忘れるほどの熱狂、狂気。
僕の中にはその状態を求める気持ちがあり、
それが時に無理な行動に繋がり、自分を壊していきます。




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完全に壊れていたと言ってもいいと思います。

この状態、今は完全に超えたということが出来ます。ですが、この状態なくして今の自分を語ることは出来ないとも思っています。

僕の混乱と僕の狂気と僕の妄執。

それは上記の番組のゴミ屋敷とも重なるものでしょうが、それと向き合う過程で僕は自分自身を育んできました。だから、混乱や狂気なくして自分を語ることは出来ません。と同時に、それらは超えてきたものだから、僕の中では癒され消え去っているのです。

泥の中から美しい蓮の花が咲くように。

混乱や狂気は「自分自身を手放すように」と僕を導いてくれました。狂った反応パターンを抱えてまま生きることは出来ないから。だから長い時間が掛かったけれども、僕はひっくり返ることが出来ました。

自分の側から世界を観て、自分の想いを実現しようとして僕は狂っていきました。自分の想いを追求すると僕は狂っていくのです。だから今の僕は世界の側から自分を観て、自分の想いを修正し続けています。そうすると人生は思いもよらないものとなり、思いもよらない感動に出会うようになりました。

今、社会は大きな混乱の中にあります。それはネガティブなことのようにも思えますが、エゴを手放すようにと人を導いてくれているのです。これは銀河の夜明けを超えた天体の動きとも呼応しています。

自分と向き合い自分を手放すこと。

今、天体の動きも社会の動きもそのことを後押ししてくれています。



根っこから、根本から、世界を天に明け渡す

今日は節分ですが、節分について杉山開知くんは以下のように述べています。

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節分は「立春・立夏・立秋・立冬」のそれぞれ前日で、もともと四季の分かれ目を意味する日。なかでも立春前日は「春夏秋冬」の終わりとなる特別な日であるため、一番大切な「節分」となり、「えと」の区切りも本来はここからが「戌年」です。
この時期は、旧暦を使っていた明治以前は特に“新年”という感覚が強く、数え年でみながいっせいに誕生日を迎えて祝っていたため、節分が年(歳)の節目として大きな意味を持っていました。また立春を方位で例える陰陽五行では、丑と寅の間の“鬼門”の方位にあたることからも特別な日とされていました。1年の邪気を払う豆まき行事にウシの角にトラの毛皮を着た鬼が登場するのはその名残なのですね。

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1年の邪気を祓う節分を迎えてインフルエンザが大流行しています(「インフルエンザの大流行が止まらない」参照)。そのインフルエンザについて呼吸するだけで感染することが示唆される研究結果が出たようです(「インフルエンザは呼吸するだけで感染する?」参照)。加えて、ワクチンを受けた人がインフルエンザに感染した場合、呼気からのウイルス排出が受けていない人の6倍になるという結果もありますようです。以下、In Deepの記事からの引用です。

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今回は、アメリカで今月発表されたインフルエンザウイルスの感染経路に関しての医学的研究についてご紹介しようと思います。
いろいろ内容あるその論文の中にひとつ「衝撃的な事実」が示されていたのです。
それは、シーズン前にインフルエンザワクチンの接種を受けていた人で、その後、インフルエンザにかかった人の「呼気」から排出されるインフルエンザウイルスの量は、「接種していない人より 6.3倍多かった」ことがわかったのです。
これは「インフルエンザワクチンそのものがインフルエンザを爆発的に流行させているかもしれない」ことを示唆しています。
 ~ 中略 ~
この研究は、米国メリーランド大学の専門家などによるもので、今年 1月18日、冒頭にあります米国科学アカデミー紀要に掲載されました。米国科学アカデミー紀要は、ネイチャー、サイエンスと並んで権威のある発表媒体ですので、相当数の医学関係者がこの論文を読まれたことだと思います。
ちなみに、この論文は「ワクチンの接種がウイルスの拡散を6倍に増大する」という部分が発表のメインではなく、
「インフルエンザウイルスは、咳やくしゃみよりも、通常の呼吸で拡散している」
ということが判明したということが大きい内容でもあります。
つまり、「息をしているだけで拡散する」ことがわかったということです。そういう意味では、よくいわれる「マスク」という存在は微妙ではあります。
いずれにしましても、この研究の論文の中に、「インフルエンザワクチンの接種が、環境へのウイルスの拡散を増大させている」ということが示されているのです。
ここから考えられることは・・・たとえば、普通、ワクチンの接種はインフルエンザ・シーズン前に主におこなわれますが、その「接種キャンペーン」を官民あげて大々的に実施すればするほど、そのシーズンは「インフルエンザが爆発的に流行する」ということも言えるのかもしれません。
たとえば、今年のように
今のワクチン接種の状況を見ますと、今シーズンも、これからさらにインフルエンザは爆発的な流行となるかもしれません。
 ~ 中略 ~
ワクチン接種は、標的とされた病原体に対して免疫性を付与するという疑問のない確信に基づいて行われている。
そのために「ワクチン接種」と「予防接種」という用語が、しばしば同じ意味として使用されることがあるが、これは、不自然な意味の理論的混乱だ。なぜなら、インフルエンザワクチンの場合、予防についての確実性は完全ではないからだ。そこにあるのは、むしろ宗教的信念と近い概念ともいえるのかもしれない。
しかし、ワクチンがインフルエンザを予防するという宗教的理念が、その正統性を支持することができなくなったらどうだろうか。これについては、実際に数百の例があり、多くのワクチンの意図しない副作用が、その利点を上回ることを示す医学論文は 500近くとなる。それらのすべての医学論文はこちらのデータベースにリンクがある。
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ワクチンは人智で病気をコントロールしようとする試みであり、それが逆に感染を増大させているというのがもし本当ならば、人類に対するとても大きなメッセージだなと思いました。そして今日は節分であり邪気を祓う時です。
僕はこの記事を見て、富士浅間木の花祭りでの「金神様と翁の問答」を思い出しました(問答については、「鬼は内、すると心がきれいになって福が来る(2018)」を参照して下さい。)。この問答で、人間の代表である翁は、天の代表である金神様に根つきの榊を返します。これは「根っこから、根本から、世界を天に明け渡す」ことを意味します。それは一人ひとりが自分を天に明け渡すことを意味し、何が起きてもいただき、起きたことを元にして前向きに積極的に生きていく姿勢へと繋がっていきます。
病気は身体の調整をしてくれているのであり忌み嫌うものではありません。ワクチンはそれを排除しようとする試みであり、だからこそ反動として大流行が起きているのだと思えます。もしそうならインフルエンザの流行は中道への導きとも言えます。
根っこから、根本から、世界を天に明け渡す
今起きているインフルエンザの流行も天が与えた浄化とした有難くいただき、そしてその痛みから学んで姿勢を改めることが大切なのだと思います。
節分は1年の邪気を祓う時です。
嫌なモノを排除しようとする心を祓い清め、すべてをいただく心を育んでいこうと思いました。だから、鬼は内なのです。
鬼は本来道理を伝える存在なのですが、その厳しさから忌み嫌われ、鬼門に封印されました。それは病気を排除しようとする心と同様です。
鬼は外。
それは嫌なモノを排除しようとする心であり、ワクチンに繋がり、インフルエンザの大流行を生み出しているのかもしれません。「福は内」と願っていますが、福は来ていません。
鬼は内。
それは、道理に基づいてすべてをいただく心で、結果、心がきれいになって「相応しい福」が来ます。病気すら自らを調整してくれる存在として「福」になっていくのです。
根っこから、根本から、世界を天に明け渡す
それはすべてをいただく心を育むことで、すべてが「福」になっていく生き方です。
僕はそんなふうに生きています。
根つきの榊を持った金神様です。

鬼は内、すると心がきれいになって福が来る(2018)

1月27日に行われた富士浅間木の花祭りは鬼が主役の祭りであり、鬼の舞を柱として人々は様々な舞を神々に捧げます。そしてその中心となる物語は二つの問答に表現されています。まず一つ目は「榊鬼(さかきおに)と翁」との問答です。


榊鬼(左)と翁

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【榊鬼と翁の問答

   
やいやい 伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間。ところは当所の氏大神。神の稚児(わかご)の舞遊ばし給う木の花の御庭を。事どもしき姿(なり)をして舞荒らすは何たら何者にてさむらう。

榊鬼  
吾が身が事にてさむらう

翁   
なかなか、汝が事にてさむらう

榊鬼  
此れさかきと申するは、比叡の山の大天狗。愛宕山の小天狗。
山々嶽だけを渡る荒みさき荒天狗とは 吾等がことにてさむらう。

   
事にて さむらうは何万歳をへたるとや

榊鬼  
八万歳をへたるとや。そう云う者は何万歳をへたるとや

翁   
法は九善 神は十善 神の位をもって十二万歳をへたるとや。
神行の為には榊を引いて帰れ。為でなくば引かれまい。

榊鬼  
まことか

翁   
まことに

※榊鬼と翁は榊を引き合う

榊鬼  
この榊と申するは 山の神は三千宮。一本は千本。千本は万本と。
千枝(ちえだ)百枝(ももえだ)までも惜しみ給うこの榊を、だれが許しを得て切り迎えとったるとや。

   
伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間。
所は当所の稚児のさくやの御為として切り迎え取ったとや。神行の為には榊を引いて帰れ。この榊を引き取ったならば、是より艮、木の花の富士の山が立ってまします
それを汝の褒美にとらす。

榊鬼  
まことか

  
まことに

※両者にて榊の枝を引きながら
ありがたや まことの神行か
扱いても扱かれぬ 引いても引かれぬこの榊

※二人で榊を引き合い翁が勝ち、取った榊を窯の湯に投げ入れる
負けた榊鬼は、再び丑寅の富士の山の奥に隠れる

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この問答についていさどんは以下のように語ります。

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鬼は本来、道理を伝える天の存在であり、忌み嫌われているのはその厳しさからです。


榊鬼は、天の代表。翁は、人間の代表です。
人間はとても優れている。だから榊鬼は八万歳で、人間は十二万歳だと言っています。
そして翁は、地上の支配権を人間に明け渡せと言うのです。
そこで翁と榊鬼が榊の枝を引き合い、人間が勝ちます。

富士の山を褒美にとらすとは、その方角に引き下がれということであり、
つまり封印されたということです。

しかし、封印された後も、榊鬼は人間がどうするかをずっとみていました。


ずっとみておったぞ。しかし、変わらぬではないか。
変わらないどころか、ひどい有り様ではないか。

そこで榊鬼が、艮(うしとら)の金神となり、世に現れるのです。


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ということで二つ目が「金神様と翁の問答」となります。

金神様(左)と翁

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金神様と翁の問答              

 
  
伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間 ところは当初の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色(こんじき)の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。

金神  

この方(ほう)は、艮の金神と申す。
時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界(みちよかい)。 汝らの宇宙(うつ)、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢れ(けがれ)逆巻く魔釣りの世。

      

艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう

金神
この方(ほう)は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙(うつ)の天意転換(たてなおし)、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢れ(けがれ)汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢れ(けがれ)混じること、適わぬ(かなわぬ)世となるべきなり。古き仕組みに変わりたる、新たな仕組み始まれり。
縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯 済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換(たてなおし)、汝らご用に使うてやる。


一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出る(いでる)と申されるか

金神  

いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人(かみびと)、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。
故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。
神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球(くに)の日月の神々じゃ。
一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹にまことを据えるのじゃ。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。

      

引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。

金神  

一度は渡したその榊。天の元に供えられい

(金神は後ろを向く。翁が榊の枝を金神の腰に差して退場する。
金神、根付きの榊に持ち替えて、四方でへんべいを踏んだ後、神座に戻る)

皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、嬉し嬉し、愉し愉しの世となりて、真(まこと)の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真(まこと)次々現れくるぞ。
あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。
オー、オー、ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト オー。
真(まこと)の神が現れる。神人(かみびと)共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。
真(まこと)の真釣り(まつり)始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。


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この問答についてはいさどんは以下のように語ります。

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金神様は、逆さまの世をひっくり返すぞ、と言っています。
そして、人間である翁との問答が行われ、地上の支配権が天に返されるのです。

この時に翁は、根付きの榊を金神様に渡します。
それはつまり、根っこから、心の底から、
この世界を天に明け渡します、ということです。


明け渡すというのは、ただ単に返すのではなく、
これからは神人一体、天地一体となって
この世界をつくっていくということです。

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木の花祭りではみんなが空っぽになって舞い踊ることにより、人々は神の依り代となり穢れを祓い清め新しい生命として再生していきます。それは、自らを明け渡すことにより自らを生み出している大いなる存在と一体となる瞬間と言えます。

ところで、2月3日は節分、そして2月4日は立春正月です。節分と立春について杉山開知くんは以下のように書いています。

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春のはじまりであると同時に、春夏秋冬の「四季 Season」のはじまりでもあります。もともと節分は立春・立夏・立秋・立冬のそれぞれ前日で、四季の分かれ目を意味する日でした。なかでも立春の前日は春夏秋冬の終わりとなる特別な日であるため、1年の最後に邪気を払い、願掛けをする行事が盛大に行われ、年4回の節分は薄れて、次第に立春前日を節分とするようになったようです。

立春前後のこの時期は、旧暦を使っていた明治以前は、特に新年という感覚が強く、数え年でみながいっせいに誕生日を迎えて祝っていたため、節分が年の節目として大きな意味を持っていました。


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節分は邪気を祓う時。木の花祭りがこの時期に行われるのはまさにそのためです。邪気を祓う際、世間一般では「鬼は外、福は内」と言いますが、これは「榊鬼と翁の問答」で表現されている人間と神の関係と言えます。人間は鬼を封印し、地上の支配権という福を手に入れました。人々は自分たちの都合の良い社会、そして規則を生み出し暮らしていますが、その結果が分断や対立の広がる社会となっています。2年前のこの時期、元プロ野球選手の清原が逮捕されましたが、そのニュースを受けていさどんは以下のように語っています。

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鬼は外、福は内。

これはご利益を求める気持ちから出る言葉で、人々は自分に都合の良い福を求めます。ですが、福を求めても大抵は叶いません。それは自分を顧みることがないからです。それでも都合の良い福を求め続けることが、この世界に混乱をもたらしているのではないでしょうか?

昨日、プロ野球選手の清原和博が覚せい剤取締法違反の疑いで逮捕されました。多くの人々があこがれる野球のスター選手だった清原。それは求める福が叶った状態とも言えます。ですが、内面は苦しみを抱えていたことが伺えます。そして、スター選手の陰には多くの挫折した人々の存在があるのです。

人間性の伴わない幸運。それが人々や社会に何をもたらすのか?スターを求める人々の心理が清原の状態を生み出したとも言えるのです。清原の存在はまさに時代を象徴しているように思えます。

鬼を内にいれて、自らを正し、その結果、福が来る。

そんなふうに生きる時、ずっと幸せに過ごすこと出来るのです。

鬼は外、福は内。

それは大切なものが逆さまになった言葉です。

だから苦しみが生まれ続けます。

今、世の中がひっくり返る時が来ているのです。


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鬼は内、すると心がきれいになって福が来る。

この言葉は「金神様と翁の問答」で表されている世界です。根っこから、心の底からこの世界を天に明け渡す。それは何が起きてもいただく心を育むことであり、その時、思いもかけない出来事に出会い、世界は無限に広がっていくのです。

だから空っぽになってこの世界で舞い踊りましょう。

そして、神人一体、天地一体となって、この世界を創っていきましょう(^-^)

木の花祭り「四つ舞」、みんなで舞い踊っています。

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