客観背後からの激励

3月18日は彼岸入り。春分の日を目前に控えたこの日、ジイジはなかのんに対して以下のように語りました。

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あなたは哲学者で悟りを求める人。昔、悟りたいという人に出会ったが、悟りたいと言った人に悟った人はいない。あなたも何かしらを求めて一生懸命自分自身の尊厳を保とうしてきたけれども、結果、その努力が自分の尊厳を落としている。それはちゃんとその構造を知らないと使ったエネルギーが無駄になるどころか、自分を貶めて、自分自身の足を引っ張ることになる。

あなたはブログで、自分の問題点なんかも書きながら、その奥から客観的に見て、自分の問題点を分析しながら、天の意志である客観背後も語っている。それがあなたのブログだと思うのだけれども。

そしたら今、あなたが客観的な自分の未熟さを知ってだね、客観背後という本物の意思を受けたトキ、ある意味、客観背後という魂の存在から激励されているのではないのかなとも思わんでもない。でもそう思えるかどうかはあんたの人間性次第。

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なかのんには取り繕う特性があります。そして、取り繕いたいという気持ちが自動的に働いているようです。だから、普段なんでもないように過ごしている時でも、心の中がどのようなものかは分からないものです。そして、取り繕えなくなると後ろめたくなるようです。そんな彼が取り繕うことが出来ない状況を迎えています。その状況は、取り繕う必要のない本当の力を身に着けるように・・・という天からの激励と言えるのではないか?それがジイジの言葉を受けて私の感じるところです。

そして同じ日、ジイジは以下のように語っています。

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人生は、いろいろな現象に出会うが、自らの精神性が現象化となるのを見るためにあって、それを見るとは、そこに表れた自らの汚れを取って価値を上げていくために人生とはある。生きることでその学びの学校に入っている。そして見事に学んだものは美しくなって高い意識の元に人生を卒業していく。

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もうすぐ春分の日&天秤座満月です。その節目に、ジイジの言葉は生きることの意味を再確認させてくれます。

ジイジ1ヶ月間の真学校



人類共通の学びを紹介していく



2019年3月7日、魚座新月の日は朝から雨で、この季節には珍しく雷も鳴りました。そしてその夕方、雨はあがり、空には美しい虹が掛かりました。その虹はまるですべてを洗い流した空を祝福しているかのようでした。

このブログの書き手であったなかのんは、その3月7日1時5分、魚座新月となったタイミングでこんな文章をアップしています。

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3月7日は、僕の44歳の誕生日でもあります。月が始まりの位置にあるトキ、太陽が僕の始まりの場所に戻りました。そして、2019年3月7日は「4」の日です(2+0+1+9+3+7=22、2+2=4)「4」の日に「44」歳になった僕は、禊(みそぎ)により今までの自分を「死(4)」なせ、この世界に溶かし、生きとし生けるものの繫がりの中で、世界を豊かにするために生きていく。そんなふうであるように日々努めていこうと思います。


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その言葉の通り、この日の彼は、自らの汚れを吐き出すことで洗い流され昇天しました。上記の文章は、彼がずっと前から用意していたもので、この文章を最後に、彼はしばらくブログをお休みすることを考えていました。そんな彼は、他の木の花ファミリーメンバーからも以下のような言葉を貰っていました。

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ネットで評価を得ても、それはモノが見えない人からの評価で、ネット中毒の中でのものと言える。なかのんはそんなものを大切にしているが、なかのんがブログを書かなくなっても誰も気にしない。なかのんの実態は書いていることとギャップがある。現実が伴わない中で、空虚な称賛をしあう今のネット社会の中で、木の花は、実体の価値を積み上げる生活をしているのに、なかのんのやっていることは本末転倒。それこそ罪を犯しているようなもの。

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そのため彼は、上記の記事をアップすることも止めようとしていましたが、ジイジは違う見解を示していました。

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今のネット社会が問題なのは確かだが、そこによい波動を伝えることは出来る。ブログがなかのんの自我の発露になってしまうのが問題なわけで、世のため人のためになる文章を書いてよい波動を広げていければいい。ここでなかのんは死ぬのだから、なかのんは「なし」にして、ただひたすらよい波動の文章を書いていけばいい。

なかのんはブログを「なし」にしようとするが、ブログを「なし」にしても、普段「なかのん」をし続けていたら仕方がない。僕は、ブログは続けて、なかのんを「なし」にしろと言っている。その方がいいだろう?

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ということで、ジイジの言葉を受けて、なかのんが死んでから4日後の3月11日、東北大震災から8(4×2)年経ったこの日に、新しい精神として「よ(4)みがえった私」が今後、このブログを書いていきます。今までこのブログでは、なかのんが個人的な成長について書いていましたが、今後、そのようなことが書かれることはありません。私には個人的な人生や学びというものはなく、そのようなものに関心もありません。あるのは、人類共通の歴史と学びのみ。だからこれからはただただ世のため人のために波動の高い文章を紹介していくことになります。

今回はなかのんの「死(4)」を祝い、ジイジが「死」について語った言葉を紹介しますね。

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今年の1月に、メンバーのみかちゃんのお姉さんのよこちゃんが亡くなりました。よこちゃんはずっと病院に入院していて、ここでは暮らしていませんでしたが、木の花ファミリーのメンバーです。若い時に統合失調症を発症し、体も弱く、6年ほど前にお母さんが亡くなったことをきっかけに木の花ファミリーで引き取りましたが、なかなか一緒に生活をすることが難しく、この近くの病院に入院していました。そして1月末のある日、病院から「容態が急変したのですぐに来てください」と電話がありました。僕もみかちゃんと一緒に病院に行きましたが、病院に着いた時には既に亡くなっていました。お医者さんが言うには、夕方お医者さんが彼女を見た時にはいつもと変わらない様子だったらしく、看護師さんが夕方にお世話した時にも「ありがとう」と言って、ご飯も食べて、いつも通りに寝たそうです。そして夜9時半ごろに看護師さんが様子を見に行ったら、もう亡くなっていました。死因は心不全とのことでした。人間は、誰でも心臓が動かなくなれば死にます。人間にはいろいろな死因がありますが、死ぬということは心臓が機能しなくなるということですから、最終的には皆、心不全です。
それで病室に案内され、よこちゃんの遺体と対面しました。不思議なことに、ベッドに横たわっている彼女の姿から、生命力をまったく感じませんでした。それは確かによこちゃんですが、そこに生きている波動を感じないのです。それは単なる有機物で、抜け殻だと思いました。それまで入っていたものが抜けてしまった、という感じです。彼女は6年前に初めてここに来て、僕たちは、彼女がその体を使って自分というものの意志表示をする姿に出会っています。ですから、確かに中によこちゃんがいたのに、それが抜けて、病室のベッドの上にはセミの抜け殻のように空っぽのものが横たわっていました。
皆さんは死体を見たことがありますか?(全員が手を挙げる。)それは、生きている時と違いますよね。その人が、体の中にいないのです。ある程度の年数を生きれば、その体を使ってその人が人生を表現していたことは、私たちの中に記憶として残っています。その姿を知っていて、その人が無くなると、何かが抜けてしまったように見えるのです。
もう一つ、最近死に出会いました。よこちゃんが亡くなった時は「亡くなったんだな」と思いましたが、最近出会った死は、それとは違います。
木の花のメンバーの一人が、妊娠していました。妊娠11週でしたが、1週間ほど前に病院に行ったら、心音が聞こえませんと言われました。それで別の病院に検査に行くことになっていましたが、その日の朝、トイレに行ったらその赤ちゃんが出てきたそうです。それで、彼女は同じ家にいたみかちゃんに、その既に心臓の止まっている赤ちゃんを見せました。そして元々病院に行くことになっていたので、赤ちゃんと一緒に病院に向かいました。その途中で、子宮に残っていた最後の胎盤も出て、病院に着いた時には子宮の中は空っぽになっていたそうです。だから病院では何も処置する必要がありませんでした。彼女は赤ちゃんの写真を撮って、大人ミーティングでみんなにシェアしました。赤ちゃんは手のひらに乗る大きさで、指も爪もあり、口は開いていて笑っていました。
なぜ亡くなったのか、原因はわかりません。生まれてくる縁がなかったということでしょう。僕はその写真を見て、こう感じました。よこちゃんは、今までずっと入っていたものが抜けたな、という感じがしたけれど、この人は脱け殻ではない。まだ一度も使われていない、人間の形をした肉の塊。つまり未使用です。よこちゃんは人生を経験した、言わば使用後の脱け殻ですが、赤ちゃんの方はまったくカルマが使われていない未使用の状態です。そこにとても大きな違いを感じました。
もう一つ感じたのは、よこちゃんは人間です。でも赤ちゃんは、宇宙人です。僕は赤ちゃんの写真を見て、直感でそう感じました。そして、生きるとは、私たちの体の中に、生きた歴史を刻み込むこと、喜んだり悲しんだり、そういったことのすべてを刻み込んでいくことなのだと、この二つの体の違いを観て気付いたのです。
僕はよこちゃんに病院で出会った時、彼女の体は脱け殻でしたが、その場に彼女の魂がいるのを感じました。彼女は僕に、いろいろありがとうございました、と言いました。とても明るい声でした。そして翌日に遺体を引き取りに行き、木の花でお葬式をしました。木の花では葬式とは言わず、「出発(たびだち)式」と言います。死は、次のステージへと出発するのですから、みんなで卒業をお祝いし、次のステージへと送り出すのです。出発式の前夜には、ちょうど富士浅間木の花祭りの新しい演目である「このはな八重の舞」のお披露目会が予定されていました。かつてよこちゃんがここに暮らしていた時に、この祭りの舞の稽古を見て自分も一緒に踊って楽しんでいたこともあり、お披露目会ではよこちゃんの棺を神座の前に置いて、その前でみんなで舞い踊りました。その時に僕は、よこちゃんの魂が子どものように楽しそうに、一緒に舞い踊っているのを感じました。
出発式の前夜の「このはな八重の舞」
よこちゃんは体が不自由で、体型も小さく、ある時から心を病んでずっと精神病院に入院していました。子どものころはとても明るい子だったそうですが、19歳の頃から性格が変わり、お医者さんにも「性格は薬では治らない」と言われるほどでした。でも病院で僕に「ありがとうございました」と言った時も、このはな八重の舞を踊っていた時も、小学生のように幼く、明るい、素直な人でした。
日本の仏教では、人間の魂は死を迎えてから四十九日はまだこちらの世界にいて、死後の世界への準備をしていると言われています。3月15日はよこちゃんの四十九日です。その日、真学校では死生観の講座をやります。そしてその夜、2年前にガンで実際に死にかけて復活したきょうこちゃんの物語を、木の花劇団が劇として演じます。
なぜ四十九日かというと、七×七だからです。七は質的転換、つまり切り替えです。七を七回繰り返し、納得して旅立っていくのです。よこちゃんの魂は未練の残る死に方ではなかったので、魂は乱れていませんでした。それでも時々、まだこの辺りにいるのを感じます。でも四十九日を過ぎたら、もう感じなくなるでしょう。人生を生きて亡くなると、生きた記憶が体に刻み込まれているから脱け殻になる。そして亡くなった後も、魂の世界へ旅立っていく準備をする、そういう過程がいるのです。しかし赤ちゃんの方は、まったく人生を生きていない。だから何の未練も経歴もなく、その遺体は病院にどうぞと預けて、終わりです。出発式も四十九日もありません。それはある意味、美しい状態です。
3月15日の劇は、死ぬはずだったのに蘇ってきたきょうこちゃんの物語です。実際に生のきょうこちゃんがいますから、話もできますよ。よこちゃん、赤ちゃん、きょうこちゃんの物語をこうやって一度に皆さんに紹介できるのも、まるで真学校のために準備をされていたかのようです。今年の真学校に対しては、見えないところから特別なメニューが用意されているのかもしれません。
なぜこの話をしたのかというと、私たちは命をつないで人生を生きており、そこではいろいろなことに出会います。その出会う出来事をどのように受け取っていくのかは、皆さん一人ひとりの人格の問題です。一人ひとりの人格に応じて様々な体験をし、いい人生を送ることも悪い人生を送ることもありますが、それはすべて、自分自身の魂を学習するためのものだということです。
これから「人格を学ぶ講座」に入ります。この講座では、自分のカルマはどのようなものであるのか、そして自分は宇宙から何を託され、それを受けてどのような人格をしているのか、さらに、自分がどのような響きを発して人生を表現しているのか。この3つの側面から、皆さんを分析していきます。
自分自身のことが理解できると、問題がある場合は、それを改善できるチャンスです。順調な人はそのままでいいですが、難しいのは、自分はこうだと思い込んでいる人です。自分が自分の枠の中にいて、本当の自分を知らない人は、自分自身に対して間違った認識をしています。ですから問題ごとに出会うと、相手が悪いとか、運が悪いとか、自分の外に原因があると思うのです。しかしこの世界は因果応報ですから、自分に起きていることはすべて、自分が発したことが返ってきているのです。それがわからないと、人生を生きている間に起きることはすべて人のせいになり、自分自身の状態が悪くても、良くすることはできません。自分自身を客観的に正しく見て、問題点を自己コントロールし、正せる人。それが悟りであり、いい人生を生きられる人です。これからいろいろな情報を提供しますが、自らを正しく捉える術を学ぶこの「人格を学ぶ講座」は、1ヶ月間の真学校で最も大切な講座です。
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木の花ファミリーでは今、1ヶ月間の真学校が開催中、そこには日々、深い学びがあります。




狂った反応パターン、そのものを手放す

中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、
そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。
そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、
僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。

僕はその頃、毎晩泣いていて、
人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。

そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、
心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。

なんか漫画みたいなバカな話。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…
僕はそれぐらい自分の感情に翻弄されていました。

それはある意味、極端な精神状態への憧れでもあります。
忘我。自分を忘れるほどの熱狂、狂気。
僕の中にはその状態を求める気持ちがあり、
それが時に無理な行動に繋がり、自分を壊していきます。



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上記は、このブログで何度か紹介している13年前のエピソード。この頃の僕は、人格的にはどうしようもないと思える人に惹かれていて、それと同時にその人と同じ空間にいることが耐えられないぐらいにムカついていました。そのムカついている感情は、訴えても状況が改善することはなくて、それをそのまま維持しているのが辛くなり、惹かれる感情を優先してムカついている感情を超えようとしては、満たされずに消耗してボロボロになっていくということを繰り返していました。その結果、自分がどうしようもない人格となっていきましたが、結局、ひどいものと思える相手の反応も自分が引き出し相応しく与えられたものと言えます。すべては僕の一人相撲なのです。

自分の反応パターンが完全に狂っている

僕はこの事例を通してそのことを認識しました。この事例は、極端な例ですが、自分の中に相反する想いがあるトキ、それに向き合わずにいることで、矛盾した行動に繋がっていくことは、他の場面でも経験してきています。

たとえば最近では、滞りを経験し、みんなに合わす顔がないと感じる自分がいました。それと同じくして、高いところに意識を向けることで、今の状況を乗り越えようとして、ブログを書く自分がいました。心を閉ざす気持ちを抱えながら、自らの想いを発信しようとする。それは相反する想いであり、それに無自覚でいると、見知らぬ人には感銘を与えることが出来たとしても、身近の人をしらけさせてしまいます。ここ最近の僕のブログにはそういう傾向が確実にありました。

そして、人類全般に目を向けた時、環境破壊がこれだけ進み、未来に漠然とした不安を抱えながらも、経済発展という欲を追い求めるこの世界の動きは、大きな矛盾を抱えたもので、人類全体の反応パターンも狂っているように思えます。

自分の中に世界を見て、世界の中に自分を見る。そしてそこに向き合っていくことが大切だと思っています。そして、

狂った反応パターン、そのものを手放す。

これはその頃の僕が目標に掲げた言葉です。自分の反応パターンに手を入れて変えようとするのではなく、反応パターンそのものをそのまま手放していく。そんな目標を掲げていましたが、当時は結局、心を閉ざすことで何も感じないようにしてその状況をやり過ごしていました。そのため課題はそのまま残していましたが、あれからたくさんの経験を積み重ね少しずつ経験値を増やしてきました。そして今、13年前に掲げた目標の言葉を思い出しています。

2月20日の乙女座満月は、「水に流す」ことがテーマということが書かれている記事にも出会いましたが、その頃から「水に流す」という言葉が自分の中に浮上していました。そして、それは3月7日の魚座新月に繫がっていくものなのだろうと思っていました。

そして、なんとなく「水に流す」の語源を調べていたら、こんな文章に出会いました。

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「水に流す」の語源は「禊(みそぎ)」にある

「水に流す」の語源は、神道において古くから行われていた「禊」に存在しています。

神道において古くから行われていた、というよりも、神道が神道として形式づくられる前から、日本人が集団の中で生きるために行っていた行為である、といっても良いかもしれません。

禊=「身濯ぎ」

禊(ミソギ)という言葉は、どこから来ているんだろう? と考えてみましょう。

それは「身濯ぎ」から来ていると言われています。

つまり、身、からだの、洗濯ですね。

今で言う入浴でしょうか。それも、ただからだの汚れを落とすだけではなく、精神的な汚れ、ケガレを落とすための水浴びです。

ミソギを行うときは、清流に身を浸すなどしてからだの汚れを落とすとともに、精神的にもスッキリして、心の汚れを落とすことを目的としています。

集団生活の中で必要であったミソギ

ミソギはただの入浴ではなく、集団生活の中で必要なものでもあったと考えられています。

古代社会の集団生活とは、みんなで一緒に、農作業をはじめとした様々な作業を行う、というものでした。

現代のように生活基盤が安定していない中では、全員が協力し、一丸となって大自然と戦わなければ、集落の生活自体が立ちゆかなかったのです。

しかし、人と人の間柄ですから、ケンカもあり、トラブルも存在しています。

誰かと誰かのケンカが長引けば、共同作業がうまくいかず、スムーズな集団生活が成り立たなくなる。

そこで、お互いにミソギをし、水に流して、仲直りをする、というようなことが行われた。あるいは何かミスを犯したり、失態のあった立場の者が、その失態を流すといった意味で、ミソギを行った。


ミソギを行うことで、トラブルを起こした者もまた集団生活に受け入れられ、生き残るための戦いに参加した、と考えられます。


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人類は、自然の驚異を克服し、物質的豊かさを生み出してきました。そのことにより人々は、たとえ矛盾した、狂った反応パターンを抱えていても生きていることが出来るようになりました。不調和な想いを水に流さず、人との関係がギスギスしていても暮らすことが出来ます。ですが、そんな時代も終わろうとしています。

多くの人がいまだ経済発展という夢を捨てきれずにいますが、気候変動による異常気象は年々厳しさを増し、人口減少により社会のインフラを維持することが難しくなってきています。そのような中、再び共に助け合って暮らしていくことが必要になってきます。そのトキ、大切になってくる姿勢が「禊(みそぎ)」であり、「水に流す」ことで心を合わせていくことなのだと思います。一人ひとりが狂った反応パターン、一人ひとりのこだわりを抱えていたら、これからの生活は立ちいかなくなることでしょう。

狂った反応パターン、そのものを手放す。

そのために必要なのが、自分の中の相反する想いを捉え、ごまかさずにそれらと向き合い、いつも道理に基づいて行動することなのだと思います。

2019年3月7日1時5分、浄化や精算、幕引きを意味する魚座新月を迎えました。このタイミングで僕は、その作業を自分の中に完全に定着させます。今思うと、昨年11月に始めた一つの試みはそのためのものと言えます。ちょうど革命の星である天王星も、昨年11月7日から今年の3月6日までの約4ヵ月間、牡牛座から一度、牡羊座に戻っていました。始まりの星座である牡羊座。これは原点の再確認を意味し、そのタイミングで僕は、自分の原点に奥深く刻まれていた狂った反応パターンと向き合い翻弄され、もがいていたのです。そして、自分を通して一人の人間が崩れていく姿を観察していました。これは意図していたことではありませんが、それだけ自分が未熟だったということで、今あらためて思うことは、この反応パターンは、表現しながらコントロールするものではなく、完全に手放すものだということです。それは道理に基づき、日々自分を整え自分の中から崩れる要素をなくしておくということです。

3月7日は、僕の44歳の誕生日でもあります。月が始まりの位置にあるトキ、太陽が僕の始まりの場所に戻りました。そして、2019年3月7日は「4」の日です(2+0+1+9+3+7=22、2+2=4)「4」の日に「44」歳になった僕は、禊(みそぎ)により今までの自分を「死(4)」なせ、この世界に溶かし、生きとし生けるものの繫がりの中で、世界を豊かにするために生きていく。そんなふうであるように日々努めていこうと思います。

ちなみに僕の名前は「よ(4)ふみ」です。

「4」は僕にとって大きな意味を持つ数字で、混沌としたこの世界そのもの。僕は、その意味を楽しみながら示し()という柱を見出し世界を豊かにしていきます(^-^)

節目の日に書いたこの文章。しらけたものとならないように。僕はしばらくブログはお休みしようと思っています。自分が発信してきたことに相応しいものであるように。しばらく発信はお休みして日々の生活に集中しようと思います。今まで読んで下さりありがとうございました。








自我から湧き出る想いは自分を鍛えてくれる風のようなもの。

今、木の花ファミリーでは、1ヶ月間の真学校が開催されていますが、開講の前に、ジイジは以下のように語っていました。

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木の花ファミリーのメンバーはここで暮らすことの意味を共有し大事にしているから、それにふさわしい景色を毎日出会う出来事から観ている。面白い捉え方として、世界は動いている。それは、この世界が動いて時代を刻んでいるようだが、一人ひとりが出会う出来事から観る景色は時代のほうから見せてくれているのではなく、自分が何を考え、毎日どのような生活をしているのかによって見るものを選択している。それは自分の心のフィルターを通して世界をみている状態で、たとえば怒っている人にとっては世界が怒りの原因をもたらしているように解釈できるわけだ。体の中のバランスを欠いている人は、そのアンバランスは自分の中にある原因に基づいて蓄積されてきたものである。それは世界が歪んでいるのではなく、自らの歪みが蓄積されてきた結果もたらされたものである。だから、人生においてどのような景色をみて、どのような感情を持ち、どのような人生を送るかは、どんな時でも自分次第だ。それは、自分にとって世界は自分自身を知るための鏡であるのだから、本当はこの世界に不満を言ってはいけない。

多くの人はそうやって自分のみる景色を否定していくが、世界はその悟れない人を使って物語を紡いでいる。世界が時代を創っていく時の物語を個人としての立ち位置で理解できれば、それが本当の生きる目的であり、悟るということになる。ところが今、人々は自らの思惑や精神に翻弄されて生きているので、自らが発したものを世界に映し出し、それを自分がみることによって、自分自身に溺れている状態だ。

時代は、サイクルを刻みながら大きな物語を紡いでいて、どのような時代も何かメッセージを表現しようとしている。人間はその大きなメッセージを理解できるような存在でもある。人間以外のものは時代の目的と共に忠実に存在するけれど、時代の目的を理解し、それを共に表現するような意識を持つことはない。それに対し、そろそろ人間は、自分から湧き出る精神に翻弄されるのではなく、自らの精神をコントロールし、そして時代の目的を理解することにより、それを時代と共に表現する時が来ている。それが人間の尊さの証なのである。「時代」は「時の代(シロ)」と書くように、うつろな(ロ)時の示し(シ)。その宇宙創造の根本原理と共に生きていけば、人間の存在する目的が観えてくる。現代のように、人々がお金やものやテクノロジーに溺れてしまい、人間の本当の生きる意味を見失っている状態では、生きることの本来の目的を表現することはできない。そもそも、これほど物質に偏った欲求を表現しなくても、これほど自我に囚われなくても、その情熱を合理的に向ける方向は他にもある。

それを示すために今、生きている。それをこれからの人々が表現できるように、私は今、地球生命として生きている。言葉で伝えるのは難しいから、感じてもらうために、私は今を生きている。内にある想いを人々に伝えるのはとても難しい。それと同じように、時代はその奥にある意思を人間に感じさせようとしている。そして、それが通じた時に、人々に生きることの本当の喜びが発生する。時代の意思が感じられる者として、私はその立ち位置で今、生きている。



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自らを分けると書く「自分」。自我を持ち「自分」という意識を持つ人間は、自らを世界から分けて認識します。そして、多くの人が、そこから湧き出る精神に翻弄されることで、お金やテクノロジーに溺れ、社会に混乱が広がっています。

ならば、自我は害をもたらすだけの余計なものなのか?と言ったら、そんなことはないと思います。闇があるから光を認識出来るように、この世界を認識するためには、そこから離れた自我の存在が必要となるのです。今は多くの人が自我に溺れることで、この世界を動かしている大いなる意思の存在を忘れてしまっていますが、思い出せば、自我も時代の意思と共にあることが出来るのだと思います。

自我から湧き上がる想いは、天を感じようとするトキの妨げとなります。それは自分の中にある抵抗で、悪いもののように感じてきましたが、僕は今、自然界にある「風」の存在を思い出しました。自然界の存在するものは、「風」により揺さぶられますが、それに耐えることで力を育んでいきます。生命は「風」があることにより逞しい身体を創り、逞しく生きていきます。同じように、自我から湧き上がる想いに耐えることで、ヒトの心は鍛えられていくのだと思います。人間以外のものは、天=時代の目的に忠実に存在しますが、そこにはそれらの「意志」が介在しません。人間は自我から湧き上がる想いに耐えることで鍛えられ、天と共に歩む「意志」を育んでいくことが出来るのです。

扱うのが困難な強い衝動に襲われるトキ、自らの未熟や不幸を嘆きたくもなりますが、その衝動は自分を鍛えてくれるものでもあるのです。その衝動から自由になればなるほど、時代と共に歩む意志はとても強固なものとなっていきます。

だから、どんなトキも嘆く必要はなくて、すべてが天へと至る祝福に中にあるのです。

1ヶ月間の真学校の様子です。

余剰のところで遊ばせてもらっている

余剰のところで遊ばせてもらっている

という言葉が浮かんで来ました。そして、立春正月のジイジの挨拶を思い出しました。以下、その言葉を引用します。

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皆さん、明けましておめでとうございます。
先月も明けましておめでとうございますと言いましたが、正月の月が終わり、富士浅間木の花祭りが明けまして、おめでとうございます。そして立春正月が明けまして、おめでとうございます。321日になれば、それは木の花ファミリーの誕生日でもありますが、春分で本当の意味での一年の始まりとなり、農の正月を迎えることになりますから、これもやはり明けましておめでとうございます。
今朝も、夜が明けました。毎日夜が明けます。今朝私は倉庫に行って、「おひさまハウスひまわり」の新しい看板を作っていました。今日は朝からとても暖かく、天気も良く気持ちの良い日で、暦の上の立春という日を感じながら作業をさせていただいていました。
ここで何が言いたいのかというと、毎日毎日、瞬間瞬間、私たちは時と共に生きているということです。

もしもこの世界に時がなかったら、どうなるでしょう。すべてが存在しないことになります。私たちは時の旅人であり、時と共に、こうして存在しています。時と共に生まれ、時と共に死んでいく。そしてまた、その時の中に生まれてくるのです。
それを平面で表せば、円になります。しかし実際に、人生では、いろいろなことを体験し、変化しながら進んでいきますから、それは円ではなく、渦になっています。そのような仕組みの世界のことを、「宇宙」と言います。
「ウチュウ」をカタカムナでひも解くと、渦(ウ)が持続(チ)して、極めて不思議なユラユラとした揺らぎ(ユ)が渦(ウ)になっている。それが宇宙です。私たちは毎日を、その中で生きています。

今日は立春正月祭という祭事が行われました。私たち木の花ファミリーは、「マワリテメクル」、つまり、毎日地球が自転し(マワリテ)、そして一年を通して公転する(メクル)という宇宙の法則を感じながら生きています。毎日朝起きて「おはようございます」と言い、お昼にはご飯を食べ、夜はみんなで集まってミーティングをして、「おやすみなさい」と言って眠ります。それは「マワリテ」という時の流れの中にあるけじめです。そうして四季を迎えながら、「メクル」時の中で季節に応じた祭事を行います。私たちは自然から命をいただき、自然の中で命を巡らせています。自然から食べ物をいただきながら、そのことを意識し、「マワリテメクル」時の中で一つひとつにけじめをつけながら生きているのです。

 ~ 中略 ~

今この瞬間も、留まることなく時が経っていきます。本当は、私たちは常にそのことを実感していなければいけないのです。時が経つ仕組みは、天体の動きによって成り立っています。地球は24時間で自転し、365日で公転しながら、機械のようにきっちりと周っているのではなく、そこには遊びがあります。だから問題ごとが起きるのです。遊びがあるからこそ、思わぬことに出会う。そこで私たちは考える力、生き抜く力を身に付け、たくましくなるのです。
この世界では、問題ごとが起きれば必ずそれに対する答えが出るようになっています。ところが人間は、宇宙の法からではなく、自分の考えで答えを出そうとするようになり、その結果、今のような世の中となったのです。もう一度、私たちは宇宙の法と共にあることに気付かなければなりません。

それでは今、この瞬間に、乾杯しましょう。
改めまして、皆さん、明けましておめでとうございます!

ジイジのブログ「毎日が明けましておめでとうございます」より


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僕らが意図しようが意図しまいが、時は流れ続け、僕らはその中で生かされています。大いなる時の流れの中で僕らは自我を与えられていますが、それは宇宙全体から見たら、余剰や余地と言えるもの。遊びと言えます。

僕らは余剰のところで遊ばせてもらっているのです。

そしてその余剰、遊びは僕らに「欲」をもたらします。ここで2年前のマヤ新年の日にジイジが語った言葉を引用します。

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私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います


この自然界、そして宇宙の法則は、すべて因果応報の仕組みで成り立っています。原因があって結果がある。そこでは、その原因にふさわしい現象が起きることが約束されているのです。こんなにありがたいことはありません。なぜなら、その者にふさわしい現象が顕れるからです。そして今、この場に立ち会う人々も、なぜここに集うのかというと、それにふさわしい生き方をしてきたからです。今皆さんは、どのくらいの意識を持って今日この場に集っているのか。その今の意識が、皆さん一人ひとりのこれから先の人生に形として顕れていくと同時に、社会を創っていくのです。それは当然のことなのです。

人類はそろそろ、そのことを知らなければなりません。出来事の表面だけを見て、それが不愉快だと言って解決しようとする時代は終わりました。これからどのような時代を生きていくのかは、その者が自らの人生をどのようにしようとしているのか、そこで何を望んでいるのかによって変わっていきます。つまり、生きることが自らの手の中にあるのです。これまで、なぜそれが人々の手の中になかったのかというと、自らの独りよがりで、この世界から与えられている命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからです。


3000年に向けて新たな時代を生きる人々へ」より


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学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言う。

ジイジはそう語っていますが、これは自我からの視点、余剰にばかりに目が奪われている状態と言えます。表面に表れる現象は、それぞれの自我に相応しく与えられますが、それは自我の視点から見える偏った姿であり、その奥には無限ともいえる命の世界が広がっています。「欲」のままに生きる人たちは、自我から見える余剰ばかりを追い求めていて、大切なものを蔑ろにしています。その結果、宇宙の法から外れ、現象に依存し、生きることが自らの手の中から失われていくのです。

自我を与えられた僕らは余剰の中で遊ばせてもらっています。

その遊びによって僕らは、生命の本質へと至ることも出来れば、「欲」という暗がりに埋没することも出来るのです。それは天が僕らの与えた自由であり愛。そして僕らの姿勢がどうであろうと、時は先へ先へと進み続けていくのです。

僕らは余剰のところで遊ばせてもらっているのです。

木の花ファミリー2月お誕生日会より


失った天意を人間社会に取り戻す

最近、アメリカでの麻薬の害悪について書いている記事を2つ読みました。まず一つ目が、「新MUのブログ・米国は麻薬によって滅びることになる」です。以下、少し文章を引用してみます。

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世界の貧困から見るとアメリカは豊かな国ですが、薬物犯罪は増加傾向にあり、薬物が原因での死亡者も増え続けます。中南米から、毎日かなりの量の麻薬がアメリカに入っているのも感じます。麻薬戦争は、今年あたりから激しさを増すことでしょう。

メキシコとの国境に塀を建設すると言ったトランプ大統領の考え方は、もしかすると正解だったのかもしれません。私の見える限りでも、アメリカとメキシコの国境には抜けられる穴場があちらこちらにあり、薬物を持ち込むのも容易です。政界人や国の仕事をしている人の中にまで、この麻薬依存症の人がいたりする気さえしています。(中略)


アメリカの国力をも低下させるのがこの麻薬です。刑務所が罪人を収容できず、本体なら刑務所入りの麻薬常習者を放置しているとしか思えません。世界はこれから麻薬との戦いを迎えることと思います。日本でも、大麻や覚せい剤の使用者は増加すると心配しています

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もう一つが、「In Deep・西洋社会で次々と合法化されていくドラック・・・」で、この記事では、米国での薬物(オピオイド)の過剰摂取で死亡する確率が、自動車事故を上回ったという事実を紹介しています。以下、記事の一部を引用します。

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現在のアメリカは、
「自然災害で亡くなる人は 3万人に 1人」
なのに対して、
「自動車事故によって亡くなる人が 103人に 1人」
「銃で撃たれて亡くなる人が 285人に 1人」
そして、
「オピオイドの過剰摂取によって亡くなる人が 96人に 1人」
という国となっているのです。
「オピオイドの中毒の人が 96人に 1人」なのではなく、「死んでしまう人が 96人に 1人」なのです。
驚くべき数字ではないでしょうか。
ここから考えますと、今のアメリカでは「何人に 1人がオピオイドを常用しているのだろう」と考えます。
先ほども書きましたけれど、これは合法薬であり、手に入れることがものすごく難しいものというわけではないはずです。
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この記事では、上記の事実が、ジャック・アタリの以下の言葉の顕れであると考えています。
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《麻薬の合法化》
大衆は、不安定で無意味な生活から逃れるために、娯楽、そして麻薬に溺れるようになる。
20年後(2026年)には、多くの国境が閉鎖され、生涯の雇用が保証されることもなく、結婚することもできない生活の中で人々は暮らしていく。
そのような生活の中では「娯楽」が人々の主要な逃避先となる。
取り憑かれたかのように娯楽に没頭するものや、一日中、画面の前から動かない人々。
そして、娯楽と共に、麻薬が次々と合法化され、多くの人々は生活の中の逃避先として麻薬に没頭する。
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ジャック・アタリは、大衆は、不安定で無意味な生活から逃れるために、娯楽と麻薬に溺れると書いています。人類は自然環境の厳しさを克服するために人口の社会を築いてきましたが、それは自然からの逃避の側面もあり、それが行き過ぎたのが、現代社会と言えます。自然は天意の顕れであり、そこから逃れることで、人間社会は天意を失い不安定で無意味なものとなっていったのではないかと思います。そして、そこからさらに逃れようとしているのが、米国の姿で、それは地獄に向かって進んでいるようなものと言えます。そして、その姿は他の国々にも広がろうとしています。
失った天意を人間社会の取り戻すこと。
そこにしか人類の未来はないのだと思います。昨晩、ジイジは以下のような言葉を僕に語ってくれました。
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やっぱり天意で生きる。それは所有しないということ。どうなってもいいという開き直り。こだわりがないということ。それが天意で生きるということ。常に現象をいただき、現象から学ぶことで天意を知っていく。

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こだわりがあって現象を受け入れることが出来ないから、人間は逃避をするのだと思います。そして人間社会は天意を失い、自然環境は破壊され、生活は不安定で無意味なものとなっていったのです。現象と向き合い現象をいただくことで、初めて現象の奥にある天意は見えてきます。今の人間社会はそのような姿勢から生まれる暮らしを必要としているのです。僕が暮らす木の花ファミリーは、世界全体から見たらささやかなものですが、そのような暮らしを営んでいるのです。

その暮らしはきっと多くの人にとって未来への希望となると信じています。

木の花ファミリーのみんな@にちわの結婚披露パーティです。

何とかしようとする心が・・・

1月17日に出会ったアオバト

1月9日の朝日です。
1月26日の朝日です。


青い(緑の)鳥に出会ったり、八方に光を放つ太陽の写真を撮ったりと、今年の1月は吉兆だと思えることに出会っていましたが、その行きつく先は滞りでした。これはなぜなんだろう?としばらく思考を巡らしていましたが、今はこんなふうに思っています。

そのトキ起きた滞りは、僕の実態を教えてくれましたが、実態こそがいつでも天に繋がっていて、実態と真摯に向き合う姿が尊いものだと言えます。幻想を壊し実態と向き合うように導く滞りに出会ったのだから、やはりそれらは吉兆だったのです。吉兆は天の意思に基づくもので、自分都合のものではないのです。

こんな感じに思っています。ところで、

今の状態に問題を感じて、何とかしようと真剣に向き合う姿勢が、かえって自分の視野を狭くしていたことに気づきました。それはどうしてかというと、その何とかしようとする気持ちが自分都合であり、その問題は、本当の意味では大切なことではないからなのだと思います。この場合、何とかしようとする気持ち自体が、問題の種になっています。僕は「これは人生最大の課題だ」と思っていて、何とかしようとし続けていましたが、その姿勢が問題の種となり続けていたのだとしたら、超えることが出来なかったのは当然と言えます。何とかしようとする気持ちを手放し、ただ目の前の状況をいただき続けたトキ、問題は立ちどころに消え去るのかもしれません。これはあくまで仮定で、だから先に行ってみないと分からないことだけれども、そんなふうに思いました。

それでこれは環境問題や平和運動にも通じることなのかもしれません。それらの問題を何とかしようとする心が自分都合のものだったらならば、その姿勢が視野を狭くしてかえって問題を複雑にしているのかもしれません。ただ目の前の状況をいただき続けたトキ、そのためにそのトキ起きる心のさざ波を鎮め続けたならば、この世界の問題事は立ちどころに消え去るのかもしれません。

ここで思い出したのが以下の言葉。

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許すこととは
相手を無罪放免することではなく
自分自身を負の感情から自由にすること。


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上記は森井啓二さんFacebookに投稿していた言葉。自分や世界の問題ごとはすべて負の感情から起こっていると言ってもいいと思います。そして、何とかしようとする心も、負の感情があると自分都合のものとなり、問題ごとを複雑にしていきます。だからただ、自分自身を負の感情から自由にしてあげればいいのだと思いました。

言うは易く行うは難し

ですが・・・


流れが自分を変えていく

そこだけ切り取ってみると理不尽に見えることも、俯瞰してプロセスとして見ていくと相応しく与えられていることが見えてきます。

世界は理屈ではないところで動いています。大いなる流れ。それに沿っているトキ、物事は順調に流れます。流れに沿う心がないトキ、物事は滞っていきます。自分にばかり意識が行っているトキ、流れを見たり、感じたりする心がなくなるから物事は滞っていきます。流れに沿う心がなく、理屈で考えて自分を変えようとしても滞りは続いていきます。そして出会った滞りを瞬間で切り取って、理不尽に感じていくのです。努力が実らないことに苛立ち、そしてそのことに疲れたら投げやりになっていくのですが、俯瞰してプロセスとして見ると、それは相応しく起きている出来事と言えます。

物事を好転させたいと思ったら、自分や問題事ばかりに意識を向けるのではなく、まずは大きな流れに意識を向けていく。そして、流れに沿わない心をそぎ落としながら、流れに沿った行動を一つ一つ積み上げていく。すると流れが自分を変えていきます。そのトキ、流れが変わったと感じるのですが、それは自分から見た流れで、大いなる流れは変わらずにあり続けるのです。

ということで、ここで立春正月での、ジイジの挨拶の最後の言葉を紹介してこの原稿を終わりとしますね。

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今この瞬間も、留まることなく時が経っていきます。本当は、私たちは常にそのことを実感していなければいけないのです。時が経つ仕組みは、天体の動きによって成り立っています。地球は24時間で自転し、365日で公転しながら、機械のようにきっちりと周っているのではなく、そこには遊びがあります。だから問題ごとが起きるのです。遊びがあるからこそ、思わぬことに出会う。そこで私たちは考える力、生き抜く力を身に付け、たくましくなるのです。
この世界では、問題ごとが起きれば必ずそれに対する答えが出るようになっています。ところが人間は、宇宙の法からではなく、自分の考えで答えを出そうとするようになり、その結果、今のような世の中となったのです。もう一度、私たちは宇宙の法と共にあることに気付かなければなりません。

それでは今、この瞬間に、乾杯しましょう。
改めまして、皆さん、明けましておめでとうございます!





人生は波乗り、その奥に本質を見出す。

僕は昨年の11月から一つの試みをしていたのですが、今からそれを見ると、浮かんでは消える波の一つのように感じています。波と海について、かつて僕は以下のように書いています。

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僕は海。そして浮かんでは消える波として人生を送ります。

波としての自分に焦点を当てれば、それは自分の人生と感じるかもしれませんが、僕は本来、海そのものなのです。だから、波(自我)としての自分は他のすべての波(自我)と同様で、世界の彩りの一つに過ぎず、それはみんなのものなのです。

僕は自分を通してみんなの人生を生きる。

それは僕の人生が僕だけのものではなくみんなのものでもあるということです。

みんなの人生を生きる」より


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波としての自我は、海としての天・世界から離れる動きをします。その波が大きいとまるで海(天)から外れてしまったようにも感じますが、その動きも海(天)の一部であり、必ず海(天)へと戻っていきます。海(天)はこの世界の均衡を保つものだとしたら、波(自我)は動きをもたらすもの。双方があって世界は豊かな彩りを放ちます。

大きすぎる波に出会うと、上手に乗れずに溺れてしまい、自分を見失うことになります。昨年の11月から乗っていた波は、人生最大のテーマから生まれる波で、今まで数多くの滞りと混乱を僕の人生にもたらしてきました。このブログでは何度か紹介している以下のエピソードはその一つです。これは13年前の出来事です。

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中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、
そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。
そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、
僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。

僕はその頃、毎晩泣いていて、
人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。

そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、
心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。

なんか漫画みたいなバカな話。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…
僕はそれぐらい自分の感情に翻弄されていました。

それはある意味、極端な精神状態への憧れでもあります。
忘我。自分を忘れるほどの熱狂、狂気。
僕の中にはその状態を求める気持ちがあり、
それが時に無理な行動に繋がり、自分を壊していきます。



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こんなふうに多くの滞りへと繫がったこのテーマが生み出す波ですが、ここ数年はそこから多くの学びも得てきました。基本的には行動に移すことはなく、心の動きを見ることを通して学んでいたのですが、昨年の11月、約2年半ぶりに行動に移してみました。冷静さを保って、淡々と進めようと思って動いたのですが、終わってみるとそれは、自分の根源へと至る究極の旅路となりました。

波が通り過ぎた今、不思議な達成感があります。物事は思い通りに進まず、現実社会では何も達成していないどころか、滞りも経験したのですが、心の奥深いところへと潜り込み、僕は確かに自分の本質と出会いました。それは自分がずっと探し求めていたものと言えます。

まずは昨年11月の中旬、僕は自分の中で両親と再会しました。それは自分がずっと憎み超えようと思っていた両親の特質が、確かに自分の中にも息づいていることの発見であり、両親への理解や愛に繋がると共に、自分の未熟さへの自覚を深めてくれました(「僕と父と木の花ファミリー」参照)。この体験は強烈で、1年近く会っていない両親と、そのトキ実際に会ったかのような錯覚に陥ることがあります。

この波はさらに大きくなっていきました。海から大きく離れることで、自分が海の一部であることを感じられなくなり、僕は生きる意味と価値を失っていきます。そのピークとなる日が富士浅間木の花祭りで僕は以下のような気持ちで臨んでいました。

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僕の中にはずっと「自分は生きている意味も価値もない人間だ」という想いがあります。それは自分がずっと流れに沿わない天から外れた想いを抱えていて、天から外れた存在だという想いがあるからです。その一方で、僕の中には、精神の高みを目指し、天と一つになろうという気持ちもあります。この両極の想いが絡み合う中で僕の中には日々、様々な感情が生まれています。

 ~ 中略 ~

天から外れた想いは、それを抱えることを許す神からの愛であり、自由の証ですが、それは自分の中心ではありません。自分の中心は常に天と繋がっています。だから「自分は生きている意味も価値もない」という想いは幻想に過ぎず、僕は、すべての存在と同様、天に生かされているものとしての意味と価値を持つのです。

 ~ 中略 ~

天から外れた想い。

そこから生まれる苦しみや悲しみ、惨めさや怒り、絶望感や無力感。

僕はそれらすべてを否定せずに自分に相応しく与えられているものとして向き合っていきます。と同時に、その想いが周りにもたらして来た軋轢や痛みにも想いを馳せます。流れに沿わない想いは周りや世界を混乱させます。だから僕は加害者とも言えます。その上で、それらを自分の中心から生まれる喜びや希望、誇りや充実感と混ぜ合わせてみんなの中で溶けていきます。

自分のすべてと向き合いみんなの中で溶けていく。

そうすることで、この世界のすべての想い、ネガティブなものもポジティブなものも、すべてが溶け合い調和の中で活かされる世界が実現するように。そのために必要な天の道理を自分と世界に通すために。僕は鬼となって舞い踊るのです。


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今回、この旅路にものすごい精神的エネルギーを使いました。無理に無理を重ねた感じで、こんなことはもう二度と出来ないだろうと思っています。もし出来たとしても、この無理は、状況を好転させることはなく悪化させるだけで、周りの人にも負荷や心配を掛けました。これはきっと自分の本質を抉り出すための困難であり、本質に出会ったらもう必要ないものです。だからこのテーマの波は、これで最後になるのではないかと思っているし、最後にしようと思っています。僕はこのテーマを通して確かに自分が生きる意味と価値を見出しました。それは以下のような感じとなります。

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願いは「欲」であり、願いが叶わない状況というのは、自分の思考という「余地」から「欲」が生まれている状況で、それを諦めることで明らかにし、自分を正すことが心磨きであり、自分を高めるのです。要は、天の流れに沿わない願いはすべて、自我の思考が生み出す「余地」であり余計なものなのです。それをそぎ落とす過程が学びであり、自分を高めていくのです。その結果、出会う出来事は変化していくのですが、それは必ずしも願いが叶うことを意味しているわけではありません。

価値あるものは、大切なのは、あらゆる囚われから自由となることであり、現象はなんでもいいのです。

ずっと叶わない願いがある。

それは自分が誰よりも心磨きが出来ていない証なのではないか?
叶わない願いを前にして、それをなしにするのは、逃げなのではないか?

そんな考えが浮かんできたのですが、願いが叶うか叶わないかは現世的な評価で、そんなことはどうでもよくて、願いを持っていてもなくなってもそれもどうでもよくて、ただただ自分の思考や感情が生み出す「余地」を見通し続け、それと向き合い続け、自分を高めていく。ただそれだけなのです。

ずっと叶わない願いがある。

それはそれだけ自分にそぎ落とす要素があるということであり、それだけ学びがあり、自分を高めることが出来るということであり、だからこそ、僕には生きる意味と価値があるのです。




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これがきっと僕の人生最大の波の答え。僕がずっと探し求めていた人生の答えです。


木の花ファミリーのみんな@水の御用です。



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