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光に向かって



6月21日、夏至。木の花ファミリー通信「21世紀の死生観第2部 ある世界とない世界」が発行されました。そこでは永遠の旅を続ける宇宙の命の物語について綴られています。魂の旅は今生を超えてずっと続いていきます。

そして6月23日は沖縄慰霊の日。中学生の相良倫子さんが読み上げた平和の詩「生きる」が胸を打ちました。以下、全文を引用します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
 
私は今、生きている。
 
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。
 
私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
 
ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。
 
私はこの瞬間を、生きている。
 
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
 
たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
 
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
 
みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
 
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。
 
私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。
 
あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
 
今を一緒に、生きているのだ。
 
だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
 
私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。
 
大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
 
これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。
 
摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。
☆彡 ☆彡 ☆彡
鎮魂歌が必要なのは、今までの人類の歴史が積み上げてきた悲しい悲劇ためですが、その原因は人々の心の汚れにあります。無念、執着を抱えた魂たちは囚われから天へと昇ることが出来ず、その響きが地上を覆い人々の目覚めを遅らせていきます。そんな現状の中、死を迎えた時どうすればいいか、木の花ファミリー通信では以下のように述べられています。
☆彡 ☆彡 ☆彡
では、私たちは死を迎えた時に、どうしたらいいのでしょう。

死を迎え肉体から抜け出した魂は、少し上からその肉体を見ます。そこで自らの命に執着があると、肉体を見続けることになります。つまり下を見ているということです。あるいは、あれが欲しい、これがしたい、と物や予定をたくさん抱えていても、そちらに気を取られて地上を見ることになります。現代は、あれもこれもと自我の欲望をふくらませ、魂を汚していくことが魅力的に思われている時代なのです。
けれども、自らが死んだことを悟ったら、まず上を見てください。すると必ず、光が見えます。そこがあなたの向かうべき方向です。その時に、残していくものについては一切考えず、ただ真っ直ぐに、光へ向かうのです。そうすれば必ず昇天します。そこではお葬式も、お坊さんのお経も必要がありません。囚われを捨て、ただ真っ直ぐに光へ向かう。それだけで本住の地へと還ることができるのです。
これは、地球を霊的に汚さないという意味でも、とても大切なことです。私たち人間は今、地球を目に見える形で汚染しているだけでなく、見えないところでも汚し続けています。そしてそれが、地球のカルマとなっていくのです。ですからどうぞ、このことをいつも心に留めていてください。なぜなら死は、誰もに必ず訪れるものであり、それは明日かもしれないのです。

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生きていれば思い通りにならないことはたくさんあります。生きることは恵みをいただくことであり、思い通りにならないことに学びがあり祝福があるのですが、自我の欲望を膨らますとその事実が見えなくなります。そして自我の欲望は魂を汚し、争いをもたらし、地球を霊的にも汚してきました。

ですが、太陽の光は常に平等に生命に降り注いでいます。心を開けば、いつでも光が自我の闇を取り払ってくれるのです。それは死を迎えた時に限ったことではなりません。自我の欲望は心のモヤやしこりをもたらし、それがこの世界の問題事を生み出していきます。だから生きている時から常に光に向かって心を向けるのです。そうすれば、いつでも光が闇を取り払ってくれます。そしてその清々しい響きを世界に広げていくことができます。

光に向かって心を向けることで、世界に光をもたらすのです。

それが鎮魂歌となると共に美しい響きが未来へと繋がっていきます。

人間の自我が愚かな戦争を生み出してきました。その愚かさが自分の中にもあることを認めつつもいつも心を光へと向けています。それが僕に出来る鎮魂歌。真の平和へ向けての歩みです。






宇宙時間を生きる(2)

6月21日19時07分、夏至です。夏至は光のピークのトキですが、梅雨の期間であるため雨降りのことが多くなります。光(火)と雨(水)、これは陰陽の統合を表しているのだと思えました。一年草(稲、トウモロコシ、大豆、コスモス、菊、朝顔、麻など)の短日植物はここから光の量が少なくなることを感じて、成長期から開花期へと変容をはじめていきますが(地球暦サイトより)、植物は陰陽の統合を経て実りへと向かっていくのでしょう。

天体の動きを見ると、今回の夏至で銀河の夜明け(2009年夏至から2016年夏至)から2年が経過したことになります。銀河の夜明けが持つ意味については、以下の天下泰平ブログ・第1話「宇宙時間」に明確に示されています。まずはその中に書かれている先住民の長老の話を引用します。

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 新たな時代への潮流の中で大切なことは、(それが一番良い方法だと信じて)全てを自分でやろうとするあり方(誤解)から自分自身を解き放つことだ。自分が望む結果よりも、遥かに偉大な結果へと天が導いてくれるということを信じて委ねられるか。それは、また宇宙時間への回帰の大切さを意味している。』

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過去から未来へとずっと続いていく宇宙時間。そのために必要なことは「真の女性性をよみがえらせる」ことです。以下、再び泰平さんの文章を引用します。

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真の女性性とは
『天の愛を受けとる在り方であり、天に導かれながら生きていくということ。』

かつて、「死」さえも天が統治して導いてくれているということを感謝と共に受け入れていた時代がありました。身体を持った「生」の時間と、身体から離れた「死」という時間を、行ったり来たりすることは、"悠久の宇宙時間"の中に在る魂にとっては何も怖いことではなかったのです。


しかし、「生」にあった時、「出逢った大切な人・時間と共にいつまでも在りたい」という当たり前の欲求によって、"宇宙時間"から自分達のための"人間(物質)時間"への執着が生まれたといいます。


やがて"人間時間"の中でのサバイバルを目的とした「男性性」が暴走を始めます。自分たちのやり方で、競争・支配(コントロール)の価値観に基づき、自分たちのルールと科学に傾倒していくうちに、いつしか私たちは天(宇宙に委ねていく在り方)から離れました。


『天から離れたということは、内宇宙と外宇宙が分離し共振性が損なわれたということ。』


私たちの身体の中に存在する内宇宙。それは微生物たちも含めた世界であり各々の心の周波数が創り出す世界です。その内宇宙と、地球と同期する外の微生物たちが創り出す世界(外宇宙)は、本来は統合していて共に響き合っていました。


宇宙には天が意図した「ひふみの法則」というものがあります。


無意識に統合の時代を生きていた時代(ひふみの「ひ」=源)から、我々は「個」の体験を重ねるという分離の時代(ひふみの「ふ」=分離)を過ごしてきました。そして、今、まさに私たちは「生」の本来の目的を想い出そうとしているのです。(ひふみの「み」=意識をもって統合の時代を生きていく)。


『全ての生命(いのち)が響きあう場所で天に導かれて愛を生きる。』


競争やエゴ、自分(たち)さえ良ければ、今さえ良ければ、という世界ではなく、皆がひとつの真実の方向に向かって響き合う、「大いなる循環」の中で自らの輝きを活かしていく時代の到来。


統合の時代へとシフトする今このとき、宇宙時間の中で、自分の輝きを、自分の中心で、真の女性性を取り戻しながら神の子として蘇る。天と自分の魂との約束を果たす時が今まさにやって来たのです。


自分自身を籠の中に閉じ込めているのは、「自分のやり方こそがベストだ」と信じ込んでいる自分自身なのです。その観念を一旦天へと戻して、認めたくない自分やもう二度と感じたくはない感情と再び出逢い、向き合い、その奥に在る、分離の時代には成しえなかった


『自分の中にある本当の想いや愛と繋がりなおす。』


そういうチャレンジを体験することが、閉じ込めた籠の中から輝ける自分自身を解き放つことにつながっているのです。


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自分の思考や感情は自分自身の体験や特徴、自我に縛られています。自我は自分の都合を追い求めますが、自分の都合を追い求めることは自分の可能性を潰すことでもあり、それを環境や他者のせいにして過ごすようになります。出来ないという諦め、世の中を嘆き社会を責める気持ち、それらの奥に自分の都合を求める心がないかを確認する必要があるのです。

認めたくない自分、感じたくない感情と向き合うことは自分を生かすことに繋がり、自分が輝き、それが社会に広がり社会も輝いていきます。ひふみの「み」は実りです。全体と個人が統合することで社会全体も一人ひとりの人生も実りのトキを迎えます。

個々の欲望を追い求めた結果、この世界の環境は破壊され、ゴミが溢れています。戦争や紛争、テロはなくならず、その結果、多くの命が犠牲となっています。多くの人が自分の都合を追い求めることで世界や自分を不毛なものとして来ましたが、それを実りへと転換するトキが来ているのです。



123(ひふみ)は人、456(よいむ)は国、789(なやこ)は天地と表します。


上記の図(くみくら)はみかちゃんが教えてくれたものですが、ヒト、個人の言葉(ヒ)と心(フ)が一致(統合)することで行動という実り(ミ)となって表れ、クニの言葉(ヨ)と心(イ)が一致(統合)することでクニに実り(ム)がもたらされ、天地の言葉(ナ)と心(ヤ)が一致(統合)することで天地に実り(コ)がもたらされます。

それは同時にヒトとクニが一致(統合)することでもあり、ヒトとクニの統合により天地に実りがもたらされ弥勒(369)の世が実現するのです。ヒフミヨイムナヤコ、ヒト(ヒフミ)、クニ(ヨイム)、天地(ナヤコ)と進むこと(3×3=9)で真の統合(ト・10)へと至ります。

宇宙時間を生きる。

そのために僕は自分の感情ではなく天の道理に基づいて行動します。感情は観察する対象であり、世界は自分の願いを叶えるためにあるのではなく、この世界を輝かせるために自分はあります。恵みは世界の輝きの中でいただくものであり、だからこそ自分の想像を超えて僕を満たしていくのです。

僕は今、宇宙時間を生きています。


破壊を生かすために必要なこと

宇宙は、常に変化することで成り立っています。波動が高いところでどんどんどんどん変化すること ─── それが活性化です。人間が自我を持ち、欲を持つと、変化しないことを求めるようになります。何かに囚われ、現状を守ろうとするのです。しかしその自我の欲が満たされても、人間は成長しません。むしろ、その欲に支配されて、不自由に生きることになるのです。
けれども、人間が自らを手放し、自分から解放することにより、自我の枠から離れることができます。この、自分自身を手放すことを、シヴァのはたらきと言います。シヴァとは、破壊の神の物理性です。宇宙は、この世界をどんどん変化させていきます。それは、無限の宇宙の中で、トキ軸を柱にし、常に先へ先へと、未知なるところに向かって旅し続けているということです。それが生命の宿命であり、宇宙を生きる上で正常な状態なのです。その中で、私たち人間も、自らの価値観を絶対とするのではなく、宇宙が変化していく流れをいただいていく。「いただく」ということは、古いものを捨てるということです。

宇宙を生きるとは、どういうことでしょうか。それは、自分を手放すということです。ところが、現状に執着する人にとっては、それは苦痛となります。そして宇宙の流れに逆らってでも、現状を保とうとするのです。そうすると、宇宙はその人に問題ごとを与えます。それは宇宙の法則からのメッセージです。そしてそれが、神様が私たちに与えてくれている、愛です。あなたを捨てなさい。そして私と共にありなさい


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上記の言葉はシヴァの働き、破壊の大切さを述べていますが、すべての破壊が生かされているわけではありません。例えば、積み上げた積み木を崩すのも破壊ですが、また一から同じものを積み上げていくならば、破壊は生かされていません。僕たちがこの世界で出会う滞り、問題ごとも破壊と言えます。ですが、それを通して意識が変わらなければ同じことの繰り返しとなります。これも破壊が生かされているとは言えません。世界に目を向ければ、各地で紛争や戦争という破壊が起きていますが、それは人類の歴史の中で繰り返されていることで、破壊が生かされているようには思えません。

生かされる破壊と生かされない破壊がある。どうすれば破壊は生かされるのだろうと思った時、2015年10月2日にいさどんが大人ミーティングで語ってくれた言葉を思い出しました。これは反発しながらもムキになって「心は見ていく」と発言した僕に向って語られた言葉です。

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冷静に見ていくというところで、なんでそういう反応になるのか?そういう反応もしっかりとチェックしていかなければならないのです。

なかのんは、自分の状態は問題だということは言います。だけれども、駄目なところに情を掛けて執着してしまっているのです。そこはシビアになって抜け出さないと次の段階に行けません。

そこに情を持って執着していると、言っていることとやっていることが違ってきます。それは矛盾を創ります。そんなことをずっとやっていたら霊的には罪を犯すことになります。

問題があると認識しているならば、そのことを認めて改善する意志を明快に示すことです。そして、常に問題を意識して生きるのです。毎日を冷静に見ていく。緻密に見ていく。客観的に自分を離れてみていくことが必要なのです。

木の花ファミリーのようなみんなで創っている場所、これはある意味、組織みたいに見えます。そうすると、そこに共鳴出来ない不調和な状態にいる人にとっては、この組織みたいなものが個人を締め付けているように感じます。

だけれども、ここでやっていることは個人の質を高めることによって、みんなで目的を達成しようという投げかけをしているだけで、締め付けをしているわけではなくて、あなたにそのことを託し、そして同時にあなたの価値を上げようとしているのです。
その時に、日頃、語っていたり、みんなで確認し合っていたりすることをぶち壊すということは、ここ全体に対して逆風になるし、自分の価値を下げることにもなります。

客観的に見たら、そんな行動を取るのはおかしなことでしょう?それなのに、なぜそのおかしな行動を取るかといったら、その未熟な自分に執着しているからです。

それで、僕の話をしますが、僕も昔、同じところを通ってきました。僕は、お釈迦さま、そして神さまに出会い、道理を伝えられてきました。お釈迦さまが語られるのは仏道、道なのですよね。プロセスをずっと見ていく客観視点を育てられます。

そうすると自分の感情が苛立っている状態を観なければいけなくなります。普通の人は感情が出てくると、感情のままに出して、それを主張することが自由だったり束縛されていない状態と思ったりしています。ところが、僕にはもう一つの目線がありました。それも強制的に示される目線です。そちらの方から「お前の今の感情はこうだぞ」と言われると、僕みたいな道理人間、理屈人間は理屈で負けてしまうのです。

それでどうするかというと、僕は理に叶った方に行こうとします。自分の主張が愚かであっても、そこに執着したい自分がいますが、理に適った方に行かなければなりません。そのように、そちらを選べば選ぶ程、情がわいている自分を否定することになります。理に適った方を選んでは自分を否定していく。その繰り返しになりますが、その覚悟が出来ていないとだんだん辛くなるのです。

そこで「俺はつらいんだー」となって爆発したことがありました。そうすると、お釈迦さまは「それなら止めるか?」と尋ねてきました。「なんてひどい薄情なことをいうの?あなたは」と思いました。

そこでまた道理を考えました。僕が執着して道を歩むことに辛い想いをしていることに対して、そのまま執着して進むことは、その道を外れるということになります。止めるか?という話に乗るのもこの道を外れることになります。どちらの自分も認めることが出来ません。

道理のところに行くことによってのみ楽になれる。自分で自分を本当の意味で認めることが出来るのです。認めたくない自分に執着をしてそのままで行こうとしますが、それはすごいバカなことをやっているのです。それでも執着している時はつらいものです。

僕はその想いを怒りに変え、伝えました。

「何を言っているのですか。止めるわけがないではないですか。これを知らずにいかない人は世の中に沢山いますが、一度、これを知って行かないものがいるでしょうか?絶対やめない。見ておれ。やめんから。」

逆切れしたのですよね。

さっきのなかのんの言葉もある意味逆切れですよね。だけれどもなかのんは自分と向き合わない方向に切れていました。僕は「絶対にあなた(お釈迦さま)のところにいく」という逆切れ。同じエネルギーの掛け方でも違う方向に向かっているのです。

僕は辛いから泣きました。でもその涙は自分にとって肯定的です。そこまでやるんだ。その想いが自分を強くしてくれます。なかのんの逆切れは心を強くするものではなく、ある意味逃げています。そうやって逃げていくと悔やみの心が出てきます。

また自分が否定する、本当はそうではないという方向に行ってしまった

その繰り返しになり、だから定期的にその想いが湧いてくるのです。自分が嫌いな自分を演じて、自分で苦しんでいる状態です。

※いさどんとお釈迦さまのエピソードは「木の花記~金神さまの巻~」をお読みください。

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上記の話の中で、僕もいさどんも同じように「逆切れ」をしています。逆切れもその場の空気を壊すもの、破壊と言えますが、いさどんの逆切れは生かされ次へと繋がっていきました。その一方、当時の僕の逆切れは、同じ繰り返しに繋がり生かされることはありませんでした。その違いは何か?上記の文章の中には、緻密に見ていく、客観的に自分を離れて見ていく、プロセスをずっと見ていく、というように「見ていく」という言葉があります。壊れていく自分と世界、それらと向き合い見ていく時、破壊は生かされ次へと繋がっていくのだと思いました。

自我の生み出す世界は自分の願望や思惑で染まっていきます。そして世界や自分の現実が見えなくなっていきます。そのため問題ごとという破壊へと至るのですが、自我を保っていると、積み上げた積み木を壊してまた一から積み上げるように、同じことの繰り返しとなっていきます。

やる気を出して動きだしても、ちょっと壁にぶつかるとへこたれ落ち込んでいく。そしてしばらくしてまたやる気を出して・・・

こんな繰り返しになっているならば、それは自我を保っているからです。そして嫌になることで、へこたれ落ち込んでいく自分を見ていないのです。壁にぶつかってへこたれ落ち込んでいく時、そんな自分を離れて見たら、きっと新たな動きへと繋がっていきます。上記のエピソード以降、僕はそんな体験を積み上げています。

壊れていく自分と世界を見ていくこと。

そのためには自分を離れる必要があり、それこそが自分の解放、真のシヴァの働きです。そしてそこから常に未知へと進み続ける本当の道が見えてきます。

明日、4月30日は蠍座満月です。蠍座の支配星は死と再生の星、究極の破壊を司る冥王星。このタイミングで破壊の神、シヴァに想いを馳せています。


2015年9月28日の満月。この数日後にここで紹介しているいさどんの話がありました。


「正しい立場」を手放す

この世界のすべての汚れは人間のカルマから生まれている。

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数日前の大人ミーティングでいさどんはそんなふうに語り、そうだなと思いました。

仏教用語で無明という言葉があります。これは迷いのことで、人間の自我が生み出す見解(我見)が無明であり、そこからすべての苦が発生すると言われています。自我を持つ人間はみんな、自分の尺度を持ち、そこから世界を感じて世界を評価しています。その状態が無明であり、そこからすべての苦しみが生まれるというのですが、それは同時にカルマと汚れも生み出しているのだと思います。

2012年12月22日、太陽系は銀河の冬至を迎えましたが、それは25800年周期で訪れる闇のピークと言われています。闇とは光のない状態、無明です。そして無明とは自我が生み出す世界のこと。人類は星々の運行と連動し、それぞれの自我を増長させてきました。その結果が今の世界であり、貧困や飢餓、戦争や紛争、自然災害などの苦しみ、そして大気汚染や海洋汚染などの汚れでいっぱいになった世界を生きています。

ですが、闇のピークはもう超えました。

2016年6月21日、銀河の冬至前後7年間の銀河の夜明けを経て、太陽系は本格的に光の時代に向かっています。それは自我の生み出す闇を抜け出し、智恵の光のもとに生きていくということです。自我を超えることでもたらされる智恵の光。それだけが今の世界を苦しみや汚れから解き放つのだと思います。

話しは変わって。

森友学園への国有地売却を巡る財務省による決済文書改ざん問題、加計学園獣医学部新設を巡る「官邸主導」の疑惑、自衛隊イラク、南スーダンの日報問題、そして財務省次官によるセクハラ疑惑・・・

今、政権の信頼が揺らぐニュースが次々と報道されています。

それに対して野党は「正義」の側に立って政権を問いただしています。その野党の動きは社会的には正しくて必要なものかもしれません。ですが、その先に明るい未来を感じることは出来ません。野党は「正義」を掲げていますが、その奥にはそれぞれの思惑が溢れています。思惑は自我から生まれるものであり、この世界の闇を深め新たな苦しみや汚れを生み出します。

正義とは本来、立場ではなく心の姿勢です。正義を主張している時、その自分の姿勢はどうなのかをチェックする必要があります。ですが、人は正義を主張出来る立場になると、自分のことを棚に上げ、相手だけを裁くようになります。その姿勢は正義とは言えず、新たな争いの種となっていきます。

ここで思い出すのが、「正義のメッキを剥がして本当の自分を見ていく」にも紹介している阿修羅のエピソード。そのメッセージは「たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる」というものです。自分から見える正義、正当性に心を奪われると、自分が見えなくなり、結果、思わぬ悪を生み出すことになるのです。

多くの人が正しい立場にいることを求めているのではないでしょうか?正しい立場に立つことで思う存分に持論を展開する。そこに心地よさを感じているのではないでしょうか?そしてその奥には失敗することに対する恐れ、間違えを犯すことに対する罪悪感などがあります。それらすべて自我の生み出す幻であり、無明であり、苦しみや汚れを世界にもたらしていきます。

だから僕は。

これから「正しい立場」を手放していきます。そして恐れや罪悪感も手放していきます。永遠の相の下に。過去から現在、そして未来に向けて、ありのままの姿をただ淡々と描いていこうと思っています。そしてそこからどんな世界が展開していくかをただ見ていこうと思っています。


阿修羅のイラスト(著作者: Vector Graphics)




出来事に解体され出来事に生み出される

悟るということは「差を取る」ということ。
何と何の差を取るのかというと、お釈迦様は「自分と宇宙」と言われました。自分というものに目覚めると「自我」が発生します。そして常に自らの解釈がこの世界を図っていくのです。
般若心教では・・・
「色即是空 ……ここでいさどんは般若心教のお経を唱え始めました)」
今、「無」ばかり出てきましたね。これは「ない、ない、ない、ない」と言っているのです。それは、自分という意識を持つとこの世界を自らの秤をもって図るのでこの世界と自分に差ができる、ということです。そして、自らの秤を持たないようになる、つまり図る自分がなくなれば、この世界が「ない、ない、ない・・・」と思えるようになるのです。そしてこの世界が「絶対有」であるという状態になるのです。今日はゆう君の誕生日ですからね(チーン 笑)。
そこで、「絶対有」とはどのような「有」かというと、すべてが自分自身である、ということです。自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。
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上記は2年前の4月8日、お釈迦様の誕生日にいさどんに降りてきた言葉です。悟りについて語っていますが、悟りについていさどんは別の時、こんなふうにも語っています。

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カタカムナによると、宇宙は、八つで飽和安定だね。八鏡文字で言えば、円があってそこに宇宙最極小微粒子の「カ」が集まっていって、そして「ヒフミヨイムナヤコト(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10)」とエネルギーが集まることによって現象化して、この世界ができる。「コ」で転がり出て「ト」で統合する、その現象化の前の「ヤ」、つまり八の状態は、とても安定した状態だよね。そうすると、そこでは現象化は起きないんだよ。だからそれをわざわざ九まで進めた。八の飽和安定はそのまま止まっている状態だけど、九まで行くと、常に変化変容を繰り返すということ。それは地球の実体であり、宇宙の実体でしょう。飽和安定した世界も、そこを超えると、現象化ができて、それが宇宙の実体なんだよ。
宇宙というのは、本来はないもの。飽和安定の先に、「ある」ということを認識するために九を創ったのだから、その前の飽和安定の状態では「ない」んだよ。だから「ない世界」なんだよ。何もないんだから。

だけど、「アマ」というのは「ある世界」の元を創った。その「ある世界」ができたことによって、この世界はもともと「ない世界」だったけれど今は「ある」んだな、ということが理解できる。そこでトキとトコロが統合して、悟りになるんだよ。統合とは、理解なんだよ。

~ 中略 ~

生きていれば、変遷を見ていくことが出来る。変遷を見るということは、客観的視点で見るということであり、それが悟り




☆彡 ☆彡 ☆彡

この文章を見て「変遷を見る」ということはトキの差を取ることだなと思いました。今この瞬間を切り取ってそこだけに反応するのではなく、過去から未来へと続く宇宙の流れを感じることでトキが繋がりひとつになっていくのです。

悟りとは自分と宇宙の差を取ること。それはトキ軸とトコロ軸、両方について言えることで、宇宙の始まりから今に至る歴史、そこから未来へと繋がる時間軸、そしてどこまでも果てしなく広がる空間軸、時空を超えてすべてとひとつとなるのが悟りです。

こんなふうに壮大な悟りの意識。では悟ったものの日常はというと、ただ与えられた役割をたんたんとこなすだけなのだと思います。悟りとはトキとトコロの統合であり理解。決して万能になるわけではありません。髪の毛は髪の毛のまま。爪は爪のまま。それは身体全体からしたらちっぽけなものかもしれませんが、確かに身体の一部でありそれぞれの役割があります。そしてそれぞれがその役割を確実にこなすことで身体全体が機能しています。人間も同じで、宇宙全体からしたらちっぽけなものですが、確かに宇宙の一部であり、それぞれがその役割を自覚し確実にこなすことで宇宙全体が美しいハーモニーを響かせるようになるのです。このような視点、理解があれば、どんな役割も宇宙全体と繋がり誇りを持って生きることが出来るようになります。それが悟りなのだと思っています。

そしてこれは頭による理解ではなく心による理解です。「自分の役割は○○だ」と決めつけるものでもありません。変化変容を繰り返すのが宇宙の本質です。ならば、それに合わせて自分も変化し、役割も変化していくものです。

出会う出来事によって自分を知り、出会う出来事によって変化していく。それが本来の人の姿で、そこから本来の役割も見えてきます。ですが、人間は自我を持ち、今の自分に囚われこだわることがあります。そうすると本来の自分、そして本来の役割を見失い、変化が阻害され滞りに出会うことになるのです。今は世界全体がそのような状態になっています。

自我は自らの秤を持って世界を図りますが、人間は長らくこの自我の欲望を満たそうとしてきました。その結果、世界は自我の欲望で膨れ上がり、はかりごとに満ちています。それは闇のピーク(2012年12月21日)へ向けての宇宙の流れを受けたものとも言えますが、今、宇宙は銀河の夜明けを超えて光へと向かっています。膨れ上がった欲望をそぎ落とし、きれいにしていくサイクルに入っているのです。

宇宙の流れに沿うこと。それはすべての人に与えられた役割と言えます。

大気汚染や海洋汚染、戦争や紛争、政治の腐敗、経済格差や貧困や飢餓。

今の汚れを生み出しているのは今までの人類一人ひとりの歩みです。変遷を見ることでトキの差を取り、今この瞬間で過去を浄化していく必要があります。起きた出来事は変わりませんが、その意味付けを変えることは出来ます。泥は、土足で入ることで建物を汚すものともなりますが、美しい蓮の花を咲かす土台ともなります。泥は、状況次第でいろいろな影響を与えるものとなります。同じように、今この瞬間に過去が与える影響も、意味付け次第でいろいろなものに変化していくものなのです。

今、星々からのメッセージはそぎ落としです。自らの秤をなしにし、「ない」から「絶対有」へと至る道を辿り続ける必要があります。それは出会う出来事に向けて常に自分を解体していくことなのだと感じています。出来事に心の開き自分を解体し自分をなしにしていく。そうすると出来事が新しい自分を生み出してくれます。その繰り返しの中で余分なものはそぎ落とされていきます。そしてそれは過去にも至り、過去の意味付けも余分なものはそぎ落とされ今この瞬間に活かされるようになっていくことでしょう。

出来事に解体され出来事に生み出される

僕はこれからそんなふうに宇宙の流れを感じながら生きます(^-^)

蜜蜂さんの生き方は見本となります(「蜜蜂のように生きる」をご覧ください)

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