個性を生かすヒフミヨイムナヤコト

木の花ファミリーのみんなです。



ある日の大人ミーティングでジイジは以下のように語りました。


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男性性や女性性など〇〇性というのは、その存在の性質を表しますが、その性質は、この世界でのそのもののポジションを示しています。それが「カタチサキ」というように現象化されているのがこの世界です。だから微生物性だったり、例えば、猫らしいとか犬らしいとか、それらも性質で、さらに細かく見ると、ペットの猫と山猫は性質が違います。その仕組みを知り、その現象が起きている意味を理解する志が大切です。

「カタチサキ」の現象化をマスターし生きているということは、きわめてシンプルに生きているということです。つまり、そのカタチサキから人間には、「人間性」という最初の性質が与えられ、男性性や女性性などの分類が与えられます。その次の分類にカルマが来て、癖性分が表現されます。その癖性分を癖性分として使うのか個性として使うのか。つまり癖性分は、ポジティブに使えば、個性としてとても有効に働き役割を全うするのです。ところが、悪く使うと癖性分は世界に混乱をもたらします。どんな性質であっても性質が悪いのではないのです。それを有効に使うか無効に使うかが問題なのであって、そのことを考えなければいけません。私はこういう人間だから駄目だと考え自己嫌悪に陥っているだけならば、それは有効に使うことを放棄しているのです。ではどうしたら有効に使えるのか、なぜ無効にしてしまうのか、その無効にしている自分は日頃からどういう性質をしているのかを考えることです。自分を振り返る時に、私はなんでこうなっているのかと振り返るのかもしれませんが、どうしてそうなっているのかということは他者の目があってより良く見えます。客観視点があって世界観が広ければ自分で見ることも出来ますが、それが見えないものにとっては他者の視点を貰うことによって初めて自分を見ることができるのです。この世界は、生命が循環し多様性に溢れています。自分を表現することは、そのような場に出ていくということで、木の花ファミリーのようなフィードバックを貰える場で自分を出していくことは、課題をクリアし、自分を有効に活用できるチャンスを貰っているということです。多様性の中で自分の性質が表れてくるのですから。

なので、言われて駄目だったなと思うこともあるかもしれませんが、その時、それを誤魔化さずにまずは落ち込まなければいけません。自分の性質に落ち込むのではなく、自らがもたらした出来事に落ち込むのです。そして真剣になってどうしたらいいかと向き合った時、初めて課題をクリアできます。

これは悟りの道であり地上天国を創るためには人々が宇宙法則を悟らなければなりません。私たち人間は宇宙を生きているのです。だから宇宙(天)と共にあることの意識でいないと、そのことは見えてきません。自我にまみれていては、絶対に地上天国は出来ません。

この世界は「カ」によって出来ていて、それがそれぞれの性質に相応しく満つっています。だから「神(カミ)」の現象なのです。「カミ」は物理性、つまり「カタチサキ」にも、「カタカムナ」というこの世界そのものにも常にその物理性は働いていて、神さまは常に存在するわけです。その働きは、あなたがそこに向けてアクセスするようになったら、必ず働いてとても良い流れに自分が乗ることが出来るのです。その時に有難いなと思うのです。その流れは自分が創ったものではなく「神(カミ)」からいただくものなので。


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ジイジは、「カタチサキ」の現象化をマスターし生きているということは、きわめてシンプルに生きているということと語っています。そして、そのシンプルに生きるということが自分を知り個性を生かすことに繫がります。シンプルに生きる。それは目の前に表れる一つ一つの出来事を大切にする姿勢で、その具体的な方法は、ジイジのブログ「ヒフミヨイムナヤコトの道」で語られています。以下、引用文です。


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みかこ:

今の話を聞いて、「神一人でも多くの人民に帰って来て欲しいのぞ」と、火水伝文に書かれていたことを思い出した。前にジイジがまことの家で、神は人間の前にヒフミヨイムナヤコトと行く道を敷いてくれたという話をしてくれたことがある。

 

ジイジ:

それはお釈迦様の話。仏教には、他の宗教にはない道という教えがある。つまり、生きることは道を歩む旅だという。

30歳を過ぎ「私は一体何をすればいいのですか」とお釈迦様に聞いた時、「私は、その問いには答えん」と言われた。「その問いには答えん」という事は「聞いても無駄だという事ですか」と問うと、答えてくれたんだよ。どう答えてくれたかというと

「お前は今、道の上に立っておる。その道が一だとしよう。道は十をもって目的地とする。そうすると、お前は今一に立っていて、十はどういう答えなのかと問うている。

しかし、十を聞くと、人間というものはおかしなもので、飛び越えて十に行きたくなる。賢明な者でも、一、五、十と行きたくなる。

しかし、この道は道の上のレールに乗っておる。という事は、どうしたらいいかという事を聞かなくても、目の前に向かって進めばよい。そうすると二が見えてくるだろう。

二の目の前を進めば、三が見えてくるだろう。そうしたら、四になり、五になり、六になり、いずれは九となり十となる」と言われた。

「しかし、お前は地上を行くものである。そして、私は地上にお前の行く道(レール)を敷いた。

それは、私の位置から見るとまっすぐの道である。ところがお前は地上を行くものであるから、山にあたれば上り坂となり、つらいという。そして山を越えたら、今度は下り坂となり、怖いだのと言う。川を渡るときには落ちそうだという。しかし、私はまっすぐの道を引いた。

例えば、お前が山の麓まで行き、山に登らず迂回して道に戻ったとしても、それは私が敷いた一本の道にはならない。なぜかと言うと、これはまっすぐの道なのだから。そこにヒフミヨイムナヤコトの道がある。」

お釈迦様は、そう言われた。

「要は、余計なことを考えずに、目の前の道を進み、出会ったことをいただいていけという事か」と思った。それは、誠実に、誠実に出来事をいただいて行かなければならない。野心(自我)を持って歩むようでは道を見失うことになる。

 

みかこ:

この話はとても重要な話だと思った。人間はヒフミヨイムナヤコトの道の上にいながら、一、三、七、十とか、一、六、九、十というように、みんな癖があって都合のいいように飛ばしたり、迂回したりして行こうとする。

 

ジイジ:

人は目の前の出来事をいただいて歩むことより、目的を先に描き、行こうとする。そこでは、いただくという精神がないから、現実の伴わない理想を追い求めても、継続することは難しい。みんな評論家になって、その理想を所有することになる。

 

~ 中略 ~

 

まっすぐの道というのは、天から見るとまっすぐな道だと、お釈迦様が言われた。方向は、どのみち神様へ帰っていく悟りの道として、まっすぐ引いてある。それは、一人ひとり同じではなく、上る苦しみ、下る苦しみ、渡る苦しみ、いろんな事に出会うが、上から見たらそれはまっすぐの道なのだ。いろんなものに出会うのが地上を生きるものの定めであり、それを、山の手前で「上り坂が厳しいから迂回しよう。」と迂回し、向こうへ行ったところで、道はまっすぐではなくなってしまう。そもそも迂回したのだから。だから、まっすぐ目の前に進め、と言われる。

確かに、上るときはエネルギーも時間もかかるかもしれない。降りるときも怖いと不安が出たり、その道に出会ったことについて不満が出るかもしれないが、それがまっすぐの道を行く者の定めであり、その姿勢が、外さぬ道を歩むことにつながる。

だから、悟った者にとっては、困難は問題ごととはならない。それは、レールの道を歩む上での枕木にしか過ぎない。悟れば悟るほど、己の自我を超え、さらにスケールの大きなことや、他者のことが課題となり、道を進めるための原動力となる。

かつては、山にこもり、瞑想し、世情の汚れから解放され、無の境地に至り、美しく昇天したものたちがいた。しかし、この世に貢献するためにある人の道、定めを断って道を究めたからといって、それを尊いとは言わない。この世に人として生を受けたものは、世に出ることにより、ヨコシマな世を味わい、その歪みを正してこそ、人としての歩みを全うしたと言える。それは、どんな賞賛よりも価値のあることである。

ヒフミヨイムナヤコトの大いなる定めを、正直に、素直に、前向きに、怠らず歩めば、人を必ず目的の地にいざなう。


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地道に一つ一つの階段を登ることは地味で退屈な作業に思えるかもしれませんが、その奥には「カミ」の存在と働きがあります。そこにアクセスすれば、日々の地道な作業の奥にダイナミックな流れが見えてきます。そして想いもよらない現象と出会い、その中で自らの個性が生かされていきます。そこに至るトキ、世界観が広がりこの世界の有難さが浮かび上がってくるのです。そんな瞬間を少しでも多く積み重ねていこうと思っています。


お月様(2021年9月21日)・うお座満月です。


ひふみの法則を生きる

6月20日の富士山と太陽です



2021年6月21日12時32分、夏至です。


天体の動きを見ると、今回の夏至で銀河の夜明け(2009年夏至から2016年夏至)から5年が経過することになります。銀河の夜明けが持つ意味について、天下泰平ブログ・第1話「宇宙時間」には、以下のように書かれています。

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 新たな時代への潮流の中で大切なことは、(それが一番良い方法だと信じて)全てを自分でやろうとするあり方(誤解)から自分自身を解き放つことだ。自分が望む結果よりも、遥かに偉大な結果へと天が導いてくれるということを信じて委ねられるか。それは、また宇宙時間への回帰の大切さを意味している。』


 ~ 中略 ~

宇宙には天が意図した「ひふみの法則」というものがあります。


無意識に統合の時代を生きていた時代(ひふみの「ひ」=源)から、我々は「個」の体験を重ねるという分離の時代(ひふみの「ふ」=分離)を過ごしてきました。そして、今、まさに私たちは「生」の本来の目的を想い出そうとしているのです。(ひふみの「み」=意識をもって統合の時代を生きていく)。


『全ての生命(いのち)が響きあう場所で天に導かれて愛を生きる。』


競争やエゴ、自分(たち)さえ良ければ、今さえ良ければ、という世界ではなく、皆がひとつの真実の方向に向かって響き合う、「大いなる循環」の中で自らの輝きを活かしていく時代の到来。


統合の時代へとシフトする今このとき、宇宙時間の中で、自分の輝きを、自分の中心で、真の女性性を取り戻しながら神の子として蘇る。天と自分の魂との約束を果たす時が今まさにやって来たのです。


自分自身を籠の中に閉じ込めているのは、「自分のやり方こそがベストだ」と信じ込んでいる自分自身なのです。その観念を一旦天へと戻して、認めたくない自分やもう二度と感じたくはない感情と再び出逢い、向き合い、その奥に在る、分離の時代には成しえなかった


『自分の中にある本当の想いや愛と繋がりなおす。』


そういうチャレンジを体験することが、閉じ込めた籠の中から輝ける自分自身を解き放つことにつながっているのです。

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銀河の夜明けを迎えるまで、僕らは「個」の体験を積み重ねてきました。その体験は「自分(たち)さえよければ」というものだったので、一人ひとりの特徴は、癖性分となり、この世界に害をもたらすようになってきました。そういう人間について、ジイジは以下のように語っています。

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僕が今、考えているのは、人というのは自分を良いものだというふうに見せてカモフラージュしている。だから、正直でないことが染み付いていると、わからないことはこういうふうにしていこう、と見せたいものなのだ。自分の許容範囲の中に収めていきたいものなのだ。ところが、実際の人間というものは、日常親しく付き合っていればボロが出てくる。しかし、いちいちそこで問わない人間関係であれば、そんなことは誰も問わない。穏便にいけばいいから。お互いに自分の許す印象が維持されていれば、それでいいわけだから、それに言及しない。

ところが、それでは生きているという意味からしたら、人間は生きることによってただこの世界に役割を果たしているのではなく、自らのカルマというものを浄化するために生きている。だから、人間の生きる目的からは外れている。それをノーチェックでいって、そこに矛盾やエネルギーがたまっていけば、ぶつかったり、悩んだり、中にはうつ病になるものも出てくる。

そこに対して、その行動を理解して果敢に挑戦する気が自分にあるかどうか。そこをごまかして、自分に挑戦しないで、逃げている。それを自分だけの問題だと思っているのだが、それが世界の空気をつくっていく。


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「自分(たち)さえよければ」という心で「自分をよく見せかける」。そして、置き去りになった自分(たち)の実態が、無自覚な癖性分となり世界に害をもたらし続けているのが今の社会です。そうではなく、客観的視点を持って大いなる循環の中に自分を位置づけ、自らを輝かせるトキ、癖性分は個性となって生かされていきます。その方法について、ジイジは以下のように語ります。

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そこで、癖・性分を有効活用するにはどうしたらいいのか。まずは出来事を癖・性分で受け取っているのだから、出来事を客観的情報として冷静に分析する力を身につけないといけない。しかし、自分から離れて事象を観ることは難しい。それに一喜一憂している自分に対して、自分から離れて、それを観る。しかし、それは簡単にできるわけがない。一生の問題だから。

そのときに、それが可能になるのは真剣に取り組んでいく姿勢。真剣でも、方向が間違っていたら、同じような滞りが繰り返し起き、そのうちに嫌になって、やる気がなくなり、ダメになるというものも出てくる。一生懸命だったって、ただ一生懸命やっていると、ダメになる一生懸命もある。


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まずは自分自身が常日頃、物事を癖性分で受け取っていることを知り、そこから離れる努力が大切になるのです。

またはこんなふうにも語っています。

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人の特徴は、何度も輪廻を繰り返してきたそれまでの魂の旅によって決定されます。現世の出発から現在に至るまでも、それぞれがオリジナルな旅をしてきており、同じ旅はないのです。それがその人の人生において、物事が行き詰っていくような流れを持っているのか、それとも、より解放され、何か新たなものを生み出していく(質的転換の「ナ」)ものとなるのかは、その人が自らの使い方に気づいたか気づかなかったかによります。
使い方に気づいていない人というのは、自らの個性や特徴が、認識から外れている状態で出ているということです。その状態の人は、個性や特徴が癖性分として表現されることになり、何か問題を起こしては「あ、またやった」「またやってしまった」「どうしてこれを繰り返すのだろう」「いやになってしまう」「もう生きているのもいやだ」というような発想にまで落ち込んでいくことになります。この状態では、心や人生そのものが重いのです。
しかし、笑いが治療になるとも言います。それは、気持ちが軽くなるからです。笑い飛ばして、問題ごとを吹き飛ばすというのでしょうか。そうすることで、自分がどういった癖性分を持ち合わせているかが客観的にわかってきます。すると「この自分の癖性分も、実は使い方次第で有効だね」と気付き始め、自分の使い勝手をマスターする道が始まるのです。そうして目覚めの扉が開き出すと、それが連鎖し、人生において出会う出来事が面白くなってくるのです。反対に、ネガティブになっていると「またこうなるんじゃないか」と悪い結果を想定し、そもそも「なる」「ならない」に関係なく、物事が壊れていくとか、行き詰っていくような方向に独断的に考えていくわけです。

そこで一番大事なことは、その人が何を語り、どんな行動をしているかよりも、その人が発している響きなのです。よい響きを発している人は、極端なことを言えば、その人がそこにいるだけで、その場の流れが整い、調和的な場になっていくものです。昔、木の花メンバーの資格という話をしたことがあるのですが、木の花のメンバーである資質は、まず初めに全体のために生きようとする人であることです。それは自らの願望を後に回してでも、全体のために生きようとすることで、それは同時に、その人自身の価値も上がることになります。そこで重く行き詰っていく人は、必ず自らのことを優先するような考えを持っているのです。そういった人は、重い響きを放っていることで、全体に対しネガティブな結果をもたらすことになります。自らがそういった人であることは、本当は悲しいことであり、全体が健康に保たれていくためには改めなければいけないことなのに、それに「気づけない」「改められない」のは、その人の持っている目線、目覚めの位置が、どこにあるかなのです。
現代人が持っている豊かさや自由などの価値観の根底にあるものは、そういった全体性を優先するのではなく、個人を優先し、全体性の調和を乱していくものです。今、世界中に広がる人間のそういった資質に気づけている人は、皆無と言っていいでしょう。身近な話ですが、毎日アルコールがないと生きていけない人は、その段階の価値に目覚めているということも言えるのです。そのため、いつもお酒のことが基準になって頭が回っている状態になってしまいます。そういうことは、お酒に限らずいくらでもあります。お金のことにしか興味がない人もいます。そのように人を虜にする興味はいろいろあるのです。

今、自らがどこの目線に価値を一番に置き、生きているのかを、現状の出来事と照らし合わせてみることです。その自らの生き方の結果が、今のこの状態を創っています。生きるとは、そういった自分物語を歩んでいることであり、自らに染み付いた癖性分を客観的に捉え、変換し、個性として表現していけば、人生を豊かに花開かせることも、先の見えない世の中の次の扉を開けることもできるのです。

ジイジのブログ「誰もがオリジナルな物語を生きている」より

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銀河の夜明けを超えて5年が経ちました。一人ひとりの個性が大いなる循環の中で生かされる時代が始まっています。それは一人ひとりが自らの人生、自らの日常生活で「ひふみの法則」を生きることで成り立つのだと思います。

一つの状態から分かたれ、違いを経験し、学んだ後に再び一つとなる。そしてまた分かたれ、違いを経験し・・・

一人ひとりの違いから別々の道を歩みバラバラになっていくのではなく、違いから学び合うことで変化し一つになっていく。そしてまた違いを経験し・・・

そのような学びを、一人ひとりが大いなる循環の中で経験し、成長し続けることで、世界も調和の元に成長し続ける。そのような時代が始まっているのです。


一人ひとりの人生が地球の現状に繫がっている。

 NHKスペシャル「未来への分岐点」は、地球温暖化や環境破壊、食料問題やプラスティック汚染など、地球規模の課題の分岐点が2030年であり、今後10年の取り組みが地球の未来を大きく左右することを描いています。木の花ファミリー通信2021年春分号「2030年、地球は限界へ」は、この「2030年問題」を取り上げ、そこから見える時代のメッセージを伝えています。以下のその文章を引用します。


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最新の科学は、人間がこの10年間に生き方を転換しなければ、既に飽和状態にある地球の環境は2030年に臨界点に達し、破滅への暴走が始まり止められなくなることを予測しています。世界中の人々がその対策を協議し、刻一刻と迫りくる危機を感じながら、その危機の原因が自分自身にあるとは見ていません。それは、人々の考え方が大局的ではないからです。なぜ大局的でないかと言えば、生きることの目的が、個人の願望を叶えることばかりに向いてきたからです。

多くの人々が、この危機をどう乗り越えるべきかをそれぞれの立場から語り、誰もが一生懸命です。そういった人々は、優秀であるからこそ他を批判し、また他からも批判を受ける立場にあります。しかしそこで共通しているのは、どの人も自分を振り返らないということです。

人間はこれまで、問題ごとに出会う度に、その問題を生み出した自らの生き方を振り返るのではなく、新しい技術や社会の仕組みを変えることで解決を図ってきました。例えば交通事故に出会えば、事故に遭わないようにと交通システムを変え、車の性能が悪いと言って車を改善します。その事故を起こす人間の性能を改善するのではなく、仕組みや道具を改善することで解決してきたのです。
それが目覚ましい成果を上げてきたことで、そうすることが良いこととなり、自分を変えずに仕組みや道具を変える偏った癖がつき、自らの問題点はそのままで振り返らなくても良い社会となりました。その根底にあるのは、自分のしていることを正しいこととしたい心です。

しかし、そもそも私たちは、自分たちの考えの延長線上に、本当の正しさを導き出せるでしょうか。

歴史を振り返ってみてわかるのは、その時代にはその時代の正しさがあり、みんなが「これが正しい」と思って生きてきたということです。戦国時代には他人の領地を力ずくで奪うことが正しいことであり、大戦中にはお国のために命を捧げることが正しいことでした。しかし時代が進めば、その正しかったことが間違いとなり、その間違いを改善して次へ進むということを人類は繰り返してきました。そうして、より良くなるために、より良くなるためにと繰り返してきた結果、今究極の行き詰まりに到達しているとしたら、私たちは自分の考えでより良くしようとすること自体を手放す時に来ています。

今、するべきこと

この世界には、時代の潮流が常に流れています。

近代の人間社会は、地球の危機的状況をエネルギッシュに訴えつつも、その一方で、同じような手法やエネルギーを使い、経済の拡大を続けるという矛盾を表現してきました。そして、いよいよ自分たちの力ではどうにも解決できないところまで来て初めて、人々は現実に目を向け始めました。それは、これほどの現象をもらうところまで行かなければ、人間は生き方を変えないということであると同時に、何かそこに、人間の力を超えた大いなる時代の潮流が流れていることを感じることもできるのです。

地球上の歴史は、個々の人間の意志によるものではなく、宇宙の大いなる流れから生じる時代の潮流によって紡がれています。人間がどれほど現状に危機感を抱き、自分は正しいことをしているつもりで環境の改善を声高に訴えても、その動きが宇宙の流れと連動していなければ、それはただ自分の正しさを主張して思いを叶えようとする、これまでの人間がしてきたことと同じものになってしまうのです。

ならば、私たちは今、何をするべきでしょう。それはまず、自らを振り返ることです。

地球の現状を築いてきた自らの生き方を振り返り、その自らを正しいものとしていた心の奥を振り返る。そして自らの命が何によって支えられ、その存在が世界の中でどのように成り立っているのかを振り返る。それは、世界観を広げるということです。
世界観が広がると、自分は自分の力で生きているのではなく、この世界の仕組みの中で生かされていることが観えてきます。その時、人は謙虚になります。その謙虚な心で、自分たちはどう生きたら良いかということを、自らを生かす何ものかに問うようになった時、その大いなる何ものかは、私たちが進むべき道を常に示してくれていたことに気付くでしょう。それは、自分で正しい答えを導き出そうとしているうちは、わからないことです。

人間が最も理解できないこと

自分が思う正しさを手放し、宇宙の流れと連動して生きるようになると、物事は驚くほどスムーズに進むようになります。すると、人生を歩む上でのエネルギーは少なくて済むようになります。人々は今、電気自動車や代替エネルギーを開発し、何とか温室効果ガスを削減しようとしていますが、もっと人々の心が通い合い、物事が効率よく進むようになれば、そもそもエネルギーの消費量はずっと少なくて済むのです。

私たちは皆、地球というひとつの星に暮らしています。そこにある大地も、水も、空気も、風も、そして太陽も、みんなでひとつのものを共有しています。それがぐるぐるとどんな存在の元にも循環し、ひとつの生態系を築いています。アフリカで起きることも、アマゾンで起きることも、北極や南極で起きることも、みんな地球というひとつの体で起きていることであり、私たちみんなの責任なのです。

ですから、地球のどこかに問題が起きれば、みんなでどうしたら良いかを考え、力を合わせます。経済も、そのために使われるべきなのです。世界は問題ごとで溢れかえり、その一つひとつに対処しようとすれば途方に暮れてしまうかもしれませんが、その無数にある問題ごとの元はすべて、ひとつのことから始まっています。それは、国家も、人々も、自分のことしか考えていないということです。その根本の心を振り返り、ひとつの問題を地球規模のこととして捉え、みんなで力を合わせて取り組んだ時、そのひとつの問題の解決が、全体の解決へとつながっていくことでしょう。それが今、人間が最もできないことです。

本当に価値のある人生とは、他の生命や世の中の健康に貢献することです。自分が生きた結果、人が幸せになり、世の中がより豊かになる。これ以上現実から目を背けることは許されない地球の危機的状況をもって、私たちは今、自らの生き方を大転換させるチャンスとしての10年間を歩み始めたのです。


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対局的に見たら、上記のような時代を生きている僕たち人類。それは個人個人の人生、世界観の総和です。このような中、本当に価値ある人生を生きるために、一人ひとりの生活、人生はどのように送っていったらいいのでしょうか?その指針の一つとして、5月10日の大人ミーティングでジイジが語った言葉を紹介したいと思います。


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世の中が今のように複雑になり、先の見えない社会構造を呈していることを考えてみると、その社会を構成している人の資質は、特徴がなく、どの人も金に縛られ情報に溺れているように見られます。そういった現代人を眺めていく中で、最近特に確信を持ってきたことがあります。それは、人それぞれの特徴や個性というものは、必ずその人だけしか持ち合わせていない、オリジナルな物語だということです。

人の特徴は、何度も輪廻を繰り返してきたそれまでの魂の旅によって決定されます。現世の出発から現在に至るまでも、それぞれがオリジナルな旅をしてきており、同じ旅はないのです。それがその人の人生において、物事が行き詰っていくような流れを持っているのか、それとも、より解放され、何か新たなものを生み出していく(質的転換の「ナ」)ものとなるのかは、その人が自らの使い方に気づいたか気づかなかったかによります。
使い方に気づいていない人というのは、自らの個性や特徴が、認識から外れている状態で出ているということです。その状態の人は、個性や特徴が癖性分として表現されることになり、何か問題を起こしては「あ、またやった」「またやってしまった」「どうしてこれを繰り返すのだろう」「いやになってしまう」「もう生きているのもいやだ」というような発想にまで落ち込んでいくことになります。この状態では、心や人生そのものが重いのです。
しかし、笑いが治療になるとも言います。それは、気持ちが軽くなるからです。笑い飛ばして、問題ごとを吹き飛ばすというのでしょうか。そうすることで、自分がどういった癖性分を持ち合わせているかが客観的にわかってきます。すると「この自分の癖性分も、実は使い方次第で有効だね」と気付き始め、自分の使い勝手をマスターする道が始まるのです。そうして目覚めの扉が開き出すと、それが連鎖し、人生において出会う出来事が面白くなってくるのです。反対に、ネガティブになっていると「またこうなるんじゃないか」と悪い結果を想定し、そもそも「なる」「ならない」に関係なく、物事が壊れていくとか、行き詰っていくような方向に独断的に考えていくわけです。

そこで一番大事なことは、その人が何を語り、どんな行動をしているかよりも、その人が発している響きなのです。よい響きを発している人は、極端なことを言えば、その人がそこにいるだけで、その場の流れが整い、調和的な場になっていくものです。昔、木の花メンバーの資格という話をしたことがあるのですが、木の花のメンバーである資質は、まず初めに全体のために生きようとする人であることです。それは自らの願望を後に回してでも、全体のために生きようとすることで、それは同時に、その人自身の価値も上がることになります。そこで重く行き詰っていく人は、必ず自らのことを優先するような考えを持っているのです。そういった人は、重い響きを放っていることで、全体に対しネガティブな結果をもたらすことになります。自らがそういった人であることは、本当は悲しいことであり、全体が健康に保たれていくためには改めなければいけないことなのに、それに「気づけない」「改められない」のは、その人の持っている目線、目覚めの位置が、どこにあるかなのです。
現代人が持っている豊かさや自由などの価値観の根底にあるものは、そういった全体性を優先するのではなく、個人を優先し、全体性の調和を乱していくものです。今、世界中に広がる人間のそういった資質に気づけている人は、皆無と言っていいでしょう。身近な話ですが、毎日アルコールがないと生きていけない人は、その段階の価値に目覚めているということも言えるのです。そのため、いつもお酒のことが基準になって頭が回っている状態になってしまいます。そういうことは、お酒に限らずいくらでもあります。お金のことにしか興味がない人もいます。そのように人を虜にする興味はいろいろあるのです。

今、自らがどこの目線に価値を一番に置き、生きているのかを、現状の出来事と照らし合わせてみることです。その自らの生き方の結果が、今のこの状態を創っています。生きるとは、そういった自分物語を歩んでいることであり、自らに染み付いた癖性分を客観的に捉え、変換し、個性として表現していけば、人生を豊かに花開かせることも、先の見えない世の中の次の扉を開けることもできるのです。

ジイジのブログ「誰もがオリジナルな物語を生きている」より

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一人ひとりが価値を置いている目線がその人の人生を創り出しています。今、多くの人々は、それぞれの個人的願望から世界を眺めることで、それに翻弄される人生を創り出しています。個人的願望に取り込まれていると、自分を客観的に見ることが出来ません。そうすると自分の個性が分からず、個性が癖性分となって表れ、世界に滞りを生み出していきます。その総和が限界に達しつつある地球環境となっているのだと思います。

一人ひとりが個人的願望から離れ、自分を客観的に眺めることで、自分を理解するようになります。そうすると、一人ひとりの個性が世界の中で生かされていきます。それは天の流れの下にあるので、一つの扉が開かれると、それが連鎖し、希望の道が生み出されていきます。そんなふうに生きる人が増えていけば、その総和として、調和した世界が生み出されていくことでしょう。

一人ひとりの人生が地球の現状に繫がっています。僕は本当にそう思うから、丁寧に大切に生きていきます。


最近の富士山です。



一人ひとりの認識がこの世界を創っている(2)

仏陀がすべてが繋がり合うこの世界の中で「天上天下唯我独尊」と語ったのは、自分が消えたら認識が消え去るから。これは認識に価値を置いた言葉で、人間を人間にしている人間らしさは「認識」にあると思っています。


だけれども、人間の認識は自分の身体や経験に縛られていて、そのままではこの世界の真実の姿を観ることが出来ません。だから心を磨いて自我を手放し自分の視点を超えていくことが大切なのだと思っています。


自分の思惑や感情を手放し目の前の出来事に心を開き、そこから学ぶトキ、変化は自ずから起きて、そして自ずから成長していきます。自分の想像を超えた自分と出会うことが出来ます。

多くのヒトが共に暮らすコミュニティは多くの視点が混じり合うことで自分の視点を超えるようにと導いてくれます。その先にあるのは、この世界の実相への認識。それは無限の深みがあるもので、探求しても探求してもきりがなくて、いつも自分の想像を超えてきて、面白く面白くて仕方がないものなのです。

長くなりましたが、思うことを書かせていただきました。
読んでくれてありがとうございます。


上記は、人間を人間にしている人間らしさとは?という質問に答えた言葉です。僕はその答えとして「認識」を挙げていますが、「認識」の価値を示す言葉としては、以下のような話もあります。

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昔々、まだ地球も、宇宙さえも生まれる前の遠い昔、この世界にはただ“響き”があるだけでした。
そこは、すべてがぴたりとかみ合った、一切の歪みのない、永遠なる完全の世界。
神様ただお一人の世界だったのです。

神様は、退屈でした。
「完全の中にいては、完全を知ることはできない。
完全である私は、完全であるがゆえに私を知ることができない。」
光だけの存在であった神様には、光が何であるのかが見えなかったのです。

そこで神様は、その完全なるひとつの体を、分けられました。
光とは何かを知るために闇を、天とは何かを知るために地を創られました。
そして、その不完全なる世界を、自らと相反する遠いところへ置かれました。
その時、そこに時が生まれ、空間が生まれ、元のひとつへと還っていく時空が始まったのです。

オルゴールのねじがまわるように、
不完全から完全へと還る中で世界は様々な音を響かせ、音楽を奏でます。


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この話からすると、始まりの存在である神さまが自らを認識するために、この世界はあって、この世界の出来事はすべて神さまの自己認識となり、世界の進化は神さまの認識の進化となります。最近、僕はNHKの「ヒューマニエンス 40億年のたくらみ」という番組を毎週観ているのですが、この番組を見ていると、上記のことが本当にそうだなと思えます。この世界の進化は、「認識」を深め発展させるためにある。そのように思えるのです。

例えば、皮膚というものを考えてみます。「0番目の脳」とも呼ばれる皮膚。単細胞生物の頃は、皮膚とも言える自らの境界から様々な情報を取り入れ反応していました。脳がなくともある種の認識があり反応しているのです。それが哺乳類にまで進化すると、より高度な情報処理が脳を通して行われますが、皮膚は身体を守るために毛で覆われ、その機能を低下させます。そのような中、人間は、熱を発散させるために体毛を捨てます。それは、森から草原に出た人類の祖先が、長距離を歩いたり走ったりするようになり、過熱を防ぐ必要が生じたためです。これはライフスタイルに合わせた変化ですが、体毛を捨てることで、昔の皮膚感覚が蘇り、脳をさらに発展させることに繫がったのです。

体毛を捨てた人間はその後、7万4000年~7万年前、トバ火山噴火に伴う寒冷化に対応するために、服を着始め、その後、針を発明していきます。服は、人間の活動範囲を飛躍的に広げると共に、民族衣装にまで洗練されることで、人々の絆や文化を生み出していきます。この服を着始めた7万年前は、脳が飛躍的に進化したと言われるタイミングとも重なっています。

脳は、認識の深まりを表す物理的な表現なのだと思います。地球の歴史を見ていると、脳を発展させるために、環境の変化があったように感じます。そして、それは神さまの自己認識の深まりに繫がっているのではないかと思うのです。

歴史を見ていると、出来事はすべて人間の意図を超えていて、もしかしたら神さまの意図も超えているのかもしれません。始まりのトキ、神さまは完全なる身体を分けられましたが、それにより何が生じるかは分からなかったのではないかと思うのです。なぜなら、この時点の神さまに認識はなかったのですから。なにより退屈を超えるためには想像を超えた出来事に出会う必要があります。

分からないところに向って変化変容を繰り返していく。

それが神さまの意思であり、この世界の法則なのだと思います。その目的は、認識を深めることにあります。そうだとしたら、この世界で生きる上で大切なのは、どんな意図を持つかでも、どんな行動をするかでもありません。出会う出来事を通して、認識を深めていくこと。出来事の奥に流れているものを感じていくことです。その認識は、自分の認識であると同時に神さまの認識でもあります。

天上天下唯我独尊

ただ我だけを尊ぶ。

それは自分の物語がそのままこの世界の物語であり、自分はそこからしか世界に貢献できないからです。自分を生きるとは世界を生きることであり、世界を丁寧に生きるために認識を深めていくのです。その実践例がジイジの以下の言葉に表れています。

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私たち一人一人は、温暖化対策として、何ができるのか?
それにはまず、自分の脱いだ履き物を揃えることです。履き物を揃えることは、温暖化対策だよ。どうしてだかわかるかな?
ジイジは幅が広いから、どんなことからでも地球を良くすることに結びつけます。自分が脱いだ履き物がどうなっているのに注目することは、その日一日を自分がどのように過ごしたのかを振り返ることと同じです。脱ぎっぱなしでは美しくないでしょう?脱いだ履き物を見ることで、自分がどんな姿勢で、どんな行動をしたのかを振り返り、その行動で良かったのかを考える。そしてその都度履き物を揃えることで、その自分を修正していくのです。履き物を脱ぎっぱなしにすることは、自分の行動を振り返らずに地球の環境を汚したり、人と考えが合わないからと言って対立することと同じです。それは無駄なエネルギーをたくさん使うことになります。


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自分は、この宇宙の物語のかけがえのない一部です。それはすべての存在と同様で、だからこそ自分の行動が世界を良くすることに繋がっていきます。

そんなことを意識して生きていこうと思っています。


富士山と太陽です。




実態から潜象界へと至る

自分の思考や感情の奥には自分の実態があり、自分の実態は天と繫がり、この世界に流れを生み出しています。それは自分自身、そして人類に相応しい流れです。ですが、多くの人は自分の思考や感情で判断し行動しているので、自分の実態が見えず、流れをつかめずにいるのです。この世界に多くの滞りが生じ、その原因を人々が理解できないのはそのためと言えるでしょう。


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3月7日は僕の誕生日でした。そしてその数日前、3月1日は農事組合法人木の花ファミリーの10歳の誕生日でした(10周年記念日でした)。誕生日の言葉として、農事組合法人木の花ファミリー10周年のトキ、ジイジが語った言葉を紹介したいと思います。


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一番、我々の姿勢で大切なことは、自分の実態をよく知ること。自分の実態を良く知って、その自分の実態に相応しく適切に歩んでいくことです。これは何かの教えの中にもあるのですが、悟りへの道なのです。悟りへの道は己の実態を知ることである。こんな言葉があったかと思います。

自分の存在には、いろいろな切り口がありますが、自分の実態を知ることによって、自分を正しく導くことが出来るのです。ですから、この農事組合法人がどんな存在で何者であるかということを知るからこそ、適切な運営が出来るのだし、自分たちがどんな時代を生きているか、自分がどんな人格なのか、それに知ることによって進路は自ずと決まってくるのです。

今までの時代は、人間は、自分の実態を知るのではなく、自分の中から湧いてくる願望を叶えることを優先してしまっていて、自分の実態を無視して、情報や風評を聴いて、ああなりたい、こうなりたいと言って歩んでいったのです。自分の実態はどうでもよかったのです。

今、温暖化とマイクロプラスチックなど、地球には様々な問題がありますが、そんな地球の実態を知ることも自分を知ることなのです。自分から湧き出してくるもので、世の中の人々は生きていますが、それが自分や地球、宇宙に何をもたらすのか、それを理解するのは難しいことですが、それを理解しないと次の時代を人類は迎えられません。


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ジイジは実態を知ることの大切さを語っていますが、実態を知ることは僕らを無限の世界へと導きます。そんなことを表現した文章を引用したいと思います。


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3ヶ月程前、いさどんはこんな言葉を語りました。

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昔、その不可思議な異次元空間が当たり前に身近にあるけれど、
あまりにも身近にありすぎて、
あることが気付かないようなところにあった。
そこに現れるその異次元空間が、新たな時代を創っていく。
それは潜象界のようだ。

「難しいことを与えておるゆえ、心してゆけ。」
ここまでそれがわかってくると、難しいことの意味がまったく違ってくる。
それは難しいだろう、それはわからないだろう、という話にもなる。
それは、「難しいからやっていくぞ!」というものではない。
ともこのように気合を入れて宣言してやるようなものではない。

僕はただ、
「ここは何だろう・・・あれ?!・・・ここはどこ?・・・」
という場を創りたいのだが、皆は何もわかっていない。

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このとっても不思議でどこか魅力的な言葉を聴いて、
僕は以下のようにいさどんの心を感じ、表現してみました。

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※青字がいさどんの言葉、黒字がそれに対する僕が感じた表現です。

昔、その不可思議な異次元空間が当たり前に身近にあるけれど、
あまりにも身近にありすぎて、
あることが気付かないようなところにあった。

自我を持った人間は、自分の実態から離れ、
幻想の世界で暮らすようになりました。
自我は土台がなく孤立しています。
そのため他人からの承認や評価を必要とするのです。
評価を得て、承認をされることで自分の存在を維持しているのです。

そんな自我の奥には「自分の実態(実体)」が存在しています。

この世界に存在するものはすべて循環の仕組みの中で存在しています。
生き物が生き物を支えることで成り立つ生態系。
そこに存在するものはすべて一つなのです。
自我の奥に存在する「自分の実体(実態)」も
この世界の循環の中で存在しています。
つまり、それはすべての存在と繋がり、
宇宙の法則の下に存在しているのです。

全存在と繋がる「自分の実態(実体)」は、
自我の想像を超える体験をもたらします。
それは自我にとって不可思議な異次元空間のような存在です。
そして、常に自我の一番近いところに存在し続けています。
ですが、自我は幻想の世界に埋没しているため
その存在に気づくことがないのです。

そこに現れるその異次元空間が、新たな時代を創っていく。
それは潜象界のようだ。

人類は長いこと各々の自我の幻想の中で暮らしていました。
一人一人の幻想から共通項を抜き出し共通の幻想を創り上げ、
実態の存在を忘れてきました。
人類は実態を無視した幻想の中で一喜一憂し、毎日の糧を得ていました。
それは各々の欲望を際限なく追及する姿勢に繋がりました。
今、その暮らしが限界を迎えようとしています。
実態を無視し、際限なく己の欲を追求した自我の振る舞いは、
この世界を蝕んできたのです。

自然災害や環境破壊、テロリズムや紛争、貧困、経済格差など。

今起きている様々な問題は社会が生き詰まりを迎えているサインなのです。

今、一人ひとりが「自分の実態(実体)」に気づいていく必要があります。
その時、自我の想像を超えた異次元空間が開かれ、
新しい時代が創られていくのです。

今までの社会は物質循環のみで営まれ、天然循環はしていませんでした。
そのため物質のエネルギーは枯渇し、環境破壊が進んでいるのです。
一人ひとりが「自分の実態(実体)」に気づいた時、
天への扉が開かれ、エネルギーは潜象界に返り、天然循環が始まります。
天然循環する暮らしはこの世界に新鮮なエネルギーをもたらします。
そのエネルギーは想像を超えた出来事を人類にもたらし、
今ある問題はすべて解決されるでしょう。

「難しいことを与えておるゆえ、心してゆけ。」
ここまでそれがわかってくると、難しいことの意味がまったく違ってくる。
それは難しいだろう、それはわからないだろう、という話にもなる。

難しいにもいろいろな意味があります。
自分がこの道を貫くことの難しさ。
この道の大切さを世の中に伝えることの難しさ。
どちらも難しいです。
今、この道の大切さは僕の中では明確となり、他に道はありません。
今や、僕がこの道を貫くことは当然のことなのです。
ですが、分かれば分かるほど、
この道は今の社会の常識とは大きな隔たりがあります。
それを人々に伝えることを考えると、
それは難しいだろう、それは分からないだろう、
とそんなふうに思えてくるのです。

それは、「難しいからやっていくぞ!」というものではない。
ともこのように気合を入れて宣言してやるようなものではない。

先にも伝えた通り、僕にとってこの道は明確であり、
もう他には道がありません。
今や「もう他に道はない」という言葉すら必要がなくなっています。
「もう他に道がない」と表現することは、
他の道に対して、それは違うと否定する意味合いも含まれます。
そこには力も入ります。
ですが、もう自分の視野には一本の道しかないのです。
だから、わざわざ「他に道はない」と表明する必要はないのです。
ただ淡々と歩むことであり、気合は必要としないのです。

僕はただ、
「ここは何だろう・・・あれ?!・・・ここはどこ?・・・」
という場を創りたいのだが、皆は何もわかっていない。

みんなが「自分の実態(実体)」に向き合うと、
異次元空間への扉がここかしこに開かれます。
もうそれは自我からしたらわけの分からない世界であり、
大いなる存在へと繋がる世界です。
そんな世界をここに表現した時、訪問者の自我は弱まり
「ここは何だろう・・・あれ?!・・・ここはどこ?・・・」
という体験をします。
この空間自体が訪問者へ
「実態(実体)=異次元空間」への旅を促すようになるのです。

僕はそんな場を創りたいのです。

だけれども、みんなは相変わらず自我に翻弄され続けています。
みんな、自我の下、自分の想定内の毎日を送っています。
そんな暮らしは面白味がありません。
僕はそんな生活には1日だって耐えることは出来ません。
ですが、みんなは平気な顔でそんな毎日を送っています。
それはこの暮らしの価値が分かっていないということなのです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

これからどんどん地球環境は厳しくなることが予想されます。人類にとってとても厳しい時代となるでしょう。それが地球、そして人類が実態ですが、実態はすべての存在と繋がっています。それはちっぽけな自分を超えて、常に大いなる存在と一つなのです。それはどんなに厳しくとも、新たな時代を創っていく異次元空間です。そんな空間を感じることが出来れば、その可能性に委ねることが出来れば、すべての存在が繋がる新しい時代を感じ、楽しむことが出来るでしょう。そんな未来に向けて、自らの実態を踏まえ、自らの実態に相応しい歩みを重ねていこうと思います(^ー^)








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