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心の空間を生み出していく

1月28日(土)開催の富士浅間木の花祭りに向けてリハーサルが始まり、全体のムードがお祭りに染まってきました。木の花祭りは新たな時代の幕開けを祝って、うれしうれし、たのしたのしと丸1日舞い踊る地球のお祭りです。その祭りでの舞について、いさどんは以下のように語っています。

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舞というのは流れるように舞うものです。木の花祭りは、愛知県奥三河地方東栄町の花祭りに由来していますが、地元には言い伝えがあり、積み重ねてきたものがあります。それは、言葉を超えたものなので、もし、教えてもらった通りに舞ったとしても、本場の舞を実現することは出来ないのです。舞の奥には、その舞や所作が生まれた意味が隠されていて、それが個性となっています。追究していく姿勢が大切なのです。追究していく姿勢から「溜め」が生まれます。それは1%の違いですが、大きな違いをもたらすのです。




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「溜め」は舞に深みを与えますが、それは舞だけではなく日常のあらゆる出来事に当て嵌まります。いさどんは大人ミーティングでこんな発言もしています。

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この場で、ホリスティックにまとめていく視点を提供出来る人が現れないか様子を見ていていましたが、出ませんでしたね。その原因を考えたのですが、6割~7割の人たちはこの話を聴いていませんでした。自分の発言する場ではないと決めて、もちきびの選別などの作業に集中していました。これだけの人数がいるので全員が発言するわけにはいきませんが、それでも、話題をみんなにとって大切な話として聴いていることが大切です。もしみんながこの話題を大切にしていたら、この場は自然と締まったはずなのです。発言をしない人も場を創っています。一人一人が見えないところでどういう姿勢をもっているか?それが「溜め」を生み出し、場を創っているのです。


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「溜め」を生み出すためには、「間(ま)」が必要になります。時間や空間があるからこそ、そこに「溜め」を生み出すことが出来るのです。それは思考にも当て嵌まることで、最近の僕のテーマである立体的思考を持つことの大切さに繋がっていきます。平面的思考と立体的思考について、いさどんは以下のように語っています。

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3次元世界に暮らしながらも人間は物事を2元的に観ている。それは、出会うこととそれに対する自分の反応で物事を見ているから。それで平面的になっていく。だけれども、その奥にはこの世界を動かしている意志がある。出会うこととそれに対する自分の反応、そしてその奥にある意志。それらすべてを意識した時、この世界を立体的に観ることが出来る。

出会うことに反応することで人は一喜一憂する。それが人間で一喜一憂しなければ生きている意味がない。一喜一憂しながらも、出来事の奥にある意志を感じて、一喜一憂している自分を離れて観る。そして流れをいただいていく。それが生きていることの醍醐味で、人生に翻弄されずに楽しむことが出来るようになる。


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物質生命は3次元世界の中で生み出されています。平面上には存在しません。出会う出来事とそれに対する自分の反応。それだけでの物事を見ていくのは2点思考であり、思考が平面となり薄っぺらとなっていきます。そして、それは3次元に存在する生命から生命力を奪っていくのではないかと思いました。

出会う出来事に翻弄され右往左往している人々は、自分の人生のコントロールを失っている状態です。そこに生命の豊かさを感じることは出来ません。例えば、トランプ大統領が誕生してダウ平均株価が2万ドルを超えたというニュースを観ましたが、これは人々の関心が自らの利益を増やすことにあるためです。自らの利益という視点で世界を眺め、それに反応しているのです。お金の増減に関心を向けている人々。そこには人生の深みはなく、生命力は感じられません。

平面的思考は世界を薄っぺらにし、世界から生命力を奪っていきます。それは平和などポジティブなことを願っている時でも同様です。平和とそれを願っている自分。その2点だけで物事を見ていたら、世界は薄っぺらとなり、真の平和が実現することはないでしょう。

生きていると何かに魅了される時があります。その時そのものだけを求めていたら、世界は薄っぺらとなり生命力がなくなっていきます。その奥にある自分の人間性、そして天の意志を感じた時、その魅力が生かされていくのです。ここでまたいさどんの言葉を引用しますね。

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地球温暖化や経済格差、紛争、難民、国々や民族の対立・・・・
現代社会は混沌としています。
混沌の中、その解決策を求める気持ちになるかもしれませんが、
そこには人生の深みがありません。

問題が生じている時、問題のないところにいって、みんなで幸せになろうとする。
それは良いことに聴こえるかもしれませんが、とても薄っぺらな話しです。
みんなで幸せになろうとする時、
幸せになるべき人間性があって初めて幸せになるのではないでしょうか?
人間性が高まらない状態で幸せを求めることが社会に何をもたらすのか?
そのことに想いを巡らせてみて下さい。

問題がある時、ただ解決策だけを求める。
それは新しい発想だけ貰って楽になろうとしている姿勢です。
その姿勢が人々を現実から引き離し停滞を生み出しているのではないでしょうか?
そこからは結局新しい発想も生まれないのです。

新しい発想は自分を放棄した時初めて生まれるものです。

この世界には法則性があります。
常にそれと対話していくこと。
それが天と共に生きるということです。

問題ごとに出会った時、ただそれを改善しようとしていく。
それは人間の知恵の中で良い生活を送ろうという心に繋がり、
その結果、天は離れていき、停滞が生まれます。

美しい蓮池を生み出しているのは水中で混沌としている泥の存在です。
表面に浮かぶ現象を生み出している奥の世界。
それを知り生かすことで人生は深まり花開いていくのです。

木の花ファミリーの暮らしは未来に対して一つの回答を示しています。
ですが、それを解決策として知識として取り入れても意味はないのです。

人は常日頃当たり前のように思考を組み立てています。
その思考は自分の枠内にあります。
知識として取り入れたものはその枠を超えることはありません。
ですが、自分の思考の背後にはこの時代の意志や物語があり、
自分がここにいる意味があるのです。

心を開くことにより、そういうものを織り交ぜて生きていく状態に変わっていく。

それは人間として生きる姿勢の変化であり、真学校の目指すところなのです。

生きるということは本来、変化すること、未知なるところの向うことです。
星々は常に新しいところを運行し、自然は変化し続けます。
天は分からない未来を生きているのです。

時代は未知なる世界へ向けた変化を人間に促します。

時代に応えるために。

何かを貰って新しい自分になるのではなく、
環境と響き合い変化していける人間になっていくのです。



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出会う出来事と自分の反応、その奥には自分の人間性があり、そして天の意志があります。人はみんなそれぞれに相応しい出来事に出会い、それに反応していきます。その時、その刺激と反応だけに心を奪われていたら、その状態から抜け出すことはありません。その奥にある自らの人間性を知り、そこにメスを入れることで人は変化していきます。

出会う出来事と自分の反応、そこから離れた視点を育むことで心の空間が出来上がります。その空間に時(とき)、時代が流れ込みます。時代は天の法則を司り、人に生命力を与え、豊かな人間性を育みます。結果、自ずと人は平和で幸せになっていきます。

僕は少しずつそんな歩みを始めています。
それはとても楽しい取り組みです(^-^)

富士浅間木の花祭りもみんなで舞い踊ることでそんな空間を生み出していきます。是非、遊びに来て下さいね。




『サピエンス全史』から時代主義へ

一昨日放映されたクローズアップ現代「幸福を探して 人類250万年の旅」を観て、『サピエンス全史』の存在とその著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の存在を知りました。そして、いくつかの書評と著者インタビューを読んでみました。それがとても面白くいろいろな考えが浮かんできました。

僕の理解だとハラリ氏の考えを要約すると以下のようになります。

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現生人類ホモ・サピエンスが他の競合種を圧倒し、現在の繁栄に至った理由は、「虚構(フィクション)を信じる力」にあります。約7万年前の認知革命により、ホモ・サピエンスは「虚構」を使う力を得ました。「気を付けろ!ライオンだ」と言える人類種は多くいましたが、ホモ・サピエンスはこの時「ライオンはわが部族の守護霊だ」という能力を獲得したのです。このように、虚構、架空の事実を物語ることにより、多くの人の共感を得て協力し合うことが可能となりました。人々は共通の目的を持ち大きな組織を創っていきます。

宗教、国家、法律、企業、貨幣など。


これらもすべて人間が生み出した虚構なのですが、これらを信じることで複雑で高度な社会を営むことが出来るようになりました。共通の物語を持つことで人類は統合の道を辿りました。現在社会ではマスコミやインターネットにより世界の情報は瞬時に共有されます。そして、その情報により世界は動いていきます。


この動きの中で人類全体の富、そして力は飛躍的に増大していきます。ですが、一人ひとりの人間に目を向けた時、富を握るのは一握りの存在であり、多く人の暮らしは貧しくなっています。文明の発展は一人ひとりの人間の幸福には繋がっていないのです。


そして、それは個人の持つ知識や能力に関しても同じです。自然の中で自分の力で生きることが求められた狩猟採集時代の人々は現代人よりも多くの知識や能力を持っていました。彼らは、与えられた環境に自分たちを適応させて暮らしていました。それは自分たちの都合のよい世界を創ってきた現代人とは対照的で、これからの時代、人々は狩猟採集民の姿勢を取り入れる必要があります。なぜなら、現代の資本主義は行き詰まりを迎えており、これから大きな変化が起きようとしているからです。その変化に適応していくことが求められます。


ホモ・サピエンスは石器時代から多くの生物を絶滅に追いやっています。その中には、ネアンデルタール人やデニソワ人といった人の仲間も含まれます。社会の近代化や工業化が進む以前から生態系を破壊してきているのです。


このような事実は広い視点から歴史を学ぶことによって見えてきます。歴史を学ぶことにより現在信じられている価値観が虚構であり、それが生み出された過程を知ることが出来ます。そうすることで、虚構を超えたところにある真実に辿りつけるのです。


現代社会を覆っている一番大きな虚構(宗教)は「リベラリズム」です。それは何か重大な問題に直面してとき、個人が自分の内面の声に耳を傾けて判断を下すべきという考え方です。個人が重視されるため政治の問題も選挙で決めていきます。


それに対して今、シリコンバレーではあらたな宗教が生まれています。それは内面の声よりデータの判断に身を委ねる方がよいという考えです。例えば、アンジョリーナ・ジョリーが両乳房を切除したのは、遺伝情報で乳がんの発病する確率が87%であり、親族に乳がんを患った人が多いからです。


人々は中世の頃、聖典に答えを求めていました。そして、近代になると内面の自由な声に従いました。未来は膨大な情報を有するデータベースから引き出された「解答」に従う人が大半になるかもしれません。


それだけではありません。科学技術の進歩は、感情や欲望を含めて、ホモ・サピエンスそのものを変える可能性もあるのです。それがどのような変化になるかは分かりません。その鍵を握るのは、私たち人間が欲望をコントロールできるかどうかです。


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歴史を観て、現在を覆っている価値観の背後にあるものを探っていく。その姿勢はとても刺激的で面白いものです。そして多くの示唆を与えてくれます。そのためこの本は多くの人の支持を得ているのでしょう。

ところで昨年末、木の花ファミリー通信特別号が発行されました。題して「時代主義が始まった」です。ここでもハラリ氏と同じ試みをしています。広い視点で歴史を辿ることにより、現代の価値観の背後に流れているものを明らかにしているのです。ファミリー通信ではビッグバンから辿っています。そして、「時代が生命そのもの」であることを明らかにしていきます。その文章は以下のように締めくくられています。

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今こそ、私たちは自らを自我の枠から解き放ち、この無限なる宇宙の中で自由自在に生きる時が来たのです。私たちの中から願望や野心が消えた時、宇宙の真理が湧き出し始めます。そして、人類が誕生した目的にのっとった最もふさわしいポジションに立つことができるのです。その真理に目覚めた時、私たちは時代を読み、流れを感じ、今を生きる「時代人」となります。それは時代主義の始まりです。

それが、21世紀初頭にあたり、時代が私たち人類に伝えているメッセージです。

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ハラリ氏とファミリー通信。同じように歴史を辿りながら、描く未来のヴィジョンには大きな違いがあります。それはハラリ氏が個人の幸せに囚われているからだと思います。

確かにハラリ氏が言うように、現代は富の総量は増えたけれども、個々人は幸福にはなっていないのだと思います。ですが、個々人は幸福を求めていました。個々人が幸福を求め欲望を追求した結果、資本主義が生まれ、経済成長へと繋がっていったのです。その原動力は個々人の欲望であり、自分「が」幸せになることを願う自我の心が人を苦しめているのです。だからこそ、自らを自我の枠から解き放つ必要があります。ですが、ハラリ氏にはそのような視点はありません。人々を苦しめている自我の延長上に未来を描いています。それは「解答」や「結果」を求める姿勢に現れています。

本来、この世界には固定した「解答」などありません。すべてはプロセスの中で変化していきます。自我の枠から自らを解き放った時、そのプロセスそのものを味わい楽しむことが出来るようになります。その姿勢が人々に真の自由をもたらし未来を切り開いていくのです。

そして、ハラリ氏は物質にも囚われています。

ハラリ氏はライオンを事実とし、守護霊を虚構としています。ですが、なぜ物質的存在が事実であり、精神的存在が虚構となるのでしょうか?そこには一つの前提があり、そこに対する検証がされていません。認知革命は文字通り認知の革命なのだとしたら、今まで知りえなかったことを知るようになったとも言えます。宇宙のチリの中から物質が生まれ、物質から精神が生まれました。それは神の自己開示であり、それにより認識を深めていくプロセスとも言えるのです。事実、ハラリ氏も言うように世界は統合に向っています。統合とはつまり全体を貫く視点を得るということです。精神に目が開かれることにより、この世界の実相、すべてが一つである事実が見えるようになったのです。それらは変幻自在に変化しますが、物質も時間と共に変化していきます。精神的存在が虚構であるならば、物質的存在も虚構です。すべては時代が生み出したものなのです。

精神と物質、すべてを含めた虚構の奥を見通した時、天の意志が見えてきます。それは個人の幸福を超えたものでありながら、個人が幸福になるためにはそれに沿う必要があるのです。大きなパラドックス(矛盾、逆説)ですが、歴史はそのことを教えてくれています。

僕らの未来は予測不能です。それは現代が混乱の極みにあるからではなく、それが生命の本質なのです。なぜなら、僕らは自らの意思で生きているのではなく世界に生かされているからです。自分のコントロールを超えています。出会うことをいただいていく。そして、それを踏まえて真剣に考えていく。その姿勢が人を成長させるのです。それが時代人の生き方であり、今、時代主義が始まっているのです(^-^)




※このブログは以下の記事を参考に書きました。

ユヴァル・ハラリが語る「シリコンバレーで生まれる21世紀の宗教」

人類の繁栄とは”虚構”の上にあるのです

「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ氏 「虚構の力」を超えるために

貨幣や宗教は虚構「サピエンス全史」ユダヤ人著者が語ったこと

虚構が起こした革命ー『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』



闇からの卒業、そして時代人として

闇からの卒業にあたって


卒業式にあたって、自分の歩む道の方向性をつけるのに、どのような心構えをしたらいいでしょうか、という質問があったので答えます。まず、自分が歩む方向についてですが、自分が思う方向に進めばいいと思います。もし、思う方向が定まらなければ、自分に近い人が教えてくれる方向に進めばいいと思います。その自分が進む方向が決まったら、今度は、それがより健全で正しい道を選ぶことです。この世界にある物事はすべて、必ず善と悪に仕分けることができます。それを比べたときに、必ず片一方が少し劣っており、もう一方が少し優れているというように仕分けられます。それがあまりにも同じようでわからないときには、それを細かく捉えていって観れば、必ずそこでは優劣があるものです。そうしたら、ほんの少しでもいいから優れている方向へ進めばいいわけです。そして、選んでいった結果、最後に残ったところ、それが自分の進むべき道です。

これは「闇からの卒業」であり、「愚かからの卒業」であり、「神様へ進む道」です。

次に、この道を歩む縁をもらったものは、その道には道にふさわしい色々な困難があるものです。そして、それを歩む人には人にふさわしい迷いがあるものですが、この道を歩むものはまず、この道に縁があったことを歓びとして感じていくことが大切です。善いとか悪いとか、そういう判断をするのではなく、この道を歩めることを最大の歓びにすれば、どんなことがあっても、この道を歩むことから外れることはありません。そして、その選び方は、消去法でほんの少しでも光のほうへ、ほんの少しでも善意のほうへ、ほんの少しでも愛のほうへ、ほんの少しでも調和のほうへ、ほんの少しの違いがあってもより尊きほうへ道を歩めば、必ずその道は最後には人の行くべき最終到達地点につながっていることでしょう。

道は、人の目には観えないものですが、心の眼があるものには、その眼が愚かしいを避けて、正しいほうへ導いてくれるでしょう。心の眼を開けるためには、自らの内側にある本当の想いが天のほうへ眼を向けて、天のほうへ向かっていく。まっすぐに向かっていく道を意識したときに、眼はより良く観えるようになります。誰の中にもあるその眼は、全く揺るがないものであるのです。その眼が自らの中にあることを信じ、歩んでいけば、迷うことは全くなくなるのです。そして、過去に自らが迷ったことを思い出して、その迷いの愚かしさ、辛さを思えば、なおさらその真理への道を歩むエネルギーと追い風になってくれるはずです。


迷っているときは、あなたの我が自らをたったひとりにして、まわりのものから遠ざけてしまうものですが、真理への道は必ずまわりのものをしっかりと見出し、助け合い、調和し、歩むように眼を開いてくれます。それは、楽しく希望ある豊かなものになるでしょう。

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今年最後の文章はやっぱりこれを取り上げたいです。この文章は「必死」とは「必ず死ぬ」と書く ~きょうこちゃんの「どこまでもいただきます」物語からの引用ですが、この文章を聴いたきょうこちゃんは以下のように話します。

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ようこちゃんたちが来るちょっと前に夢を見ていてね。そうしたらお釈迦様の手が上から現れてね。『さあ、立ちなさい』と言って、立たせてくれたの。顔は見えないのよ。『おまえはな、肉の眼は見えるかもしれないが、心の眼は盲目であったな』と言われて、『心の眼が見えるにはどうしたらいいのですか?』と聞いたときに眼が覚めたんだけど、すごいね。この話がすぐに出てくるとはね。ついさっきだよ。


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夢の中での質問の答えが現実となって現れる。きょうこちゃんは本当に深い体験をしていたのだなと思います。深いところでは本当にすべては繋がっているのですね。

ところで、この文章のタイトルは「闇からの卒業にあたって」となっています。それで闇とは何か?を考えた時、僕の中には「自我(エゴ)が生み出す世界」という答えが浮かんできました。

人は目の前の出来事に一喜一憂します。それは自らの感情が揺れ動くからです。そして、多くの人はその感情に基づき判断し、行動していきますが、自分を振り返ることはありません。そして、目の前の出来事に埋没していくのです。

仮に反省することがあったとしても、出来事と感情が基準になり、「どうしてこうなったのか?」「どうすれば良かったのか?」と自らの都合の良い現実を求めていくのです。これは物事を客観的に観ていく姿勢とは違うのです。

このような時、人は時代(縦軸)と世界(横軸)を貫いている意志、この世界を動かしている意志、つまりは天に心を向けていません。自我(エゴ)から生まれる感情、その感情に左右され右往左往しているのです。この状態を闇と言うのだと思います。

自我(エゴ)だけから世界を見ているとその世界は自分だけの世界となっていきます。自我から生まれる感情が大きくなればなるほど、他人からの共感は得られなくなります。それは闇の中で盲目に暮らしているのと同様です。そしてそれは正義感など通常良い感情と言われているものにも当てはまります。

以下は、2年前、「PEACE BED アメリカVSジョン・レノン」の予告編を観た後に書いた文章です。

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僕には、反戦のムーブメントを生み出したジョン・レノンの姿がかっこよく見えました。そして、胸に熱いものがこみ上げるのも感じました。

ですが、この映画を観たことがあるという晃ちゃんやいさどんはこの映画をあまり評価していませんでした。

これはムーブメントを描いた映画であってとても浅いもの。ジョン・レノンは反戦を掲げることにより、権力の側に対して戦争を仕掛けているようなもの。一方の役割をしているに過ぎない。

それが二人の見解で、これはまさにその通りなのです。

正義を掲げ、その正義を貫くことに熱くなる。

予告編を観た時、僕の中に湧き上がった感情はそういう種類の感情です。それは麻薬のように僕を気持ちよくさせます。きっとジョン・レノンもそんな感情に突き動かされていたのではないかと思います。そして、それが人々に伝わり大きな動きを生み出したのでしょう。

それは悪いことなの?平和を求める心は良いことだから、それでいいのではないの?

こんなふうに思う人もいるかもしれません。もし、人類が今のまま変化せずに暮らし続けるのならば、それでよいのかもしれません。ですが、真の平和を求めるのならば、この手の感情は手放す必要があるのだと思います。

視点を変えてみて下さい。今、イラクやシリアで大きな勢力となっているイスラム国。彼らにも彼らの正義があります。そして、その正義を貫くことに熱くなり冷静さを失っているからこそ、過激な行動に及んでいるのでしょう。残忍な集団に見える彼らですが、戦乱の先に平和を夢見ているのではないでしょうか?そして、ジョン・レノンが批判したアメリカ政府にも正義があります。正義に基づき戦争をしています。そして、その先には平和がある想定しています。

それぞれの立場にそれぞれの正義があるのです。そして、その正義は平行線です。ですから正義に基づいて平和を求めても、それは有効に働かないのです。

正義を掲げ貫くことは英雄的で気持ちが高揚します。ですが、正義を貫くためには悪が必要となります。そして、そこに対立が生じます。こんなふうにして今の戦争は生まれ、維持されているのではないでしょうか?



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ジョン・レノンの行動は多くの人々の共感を生みました。ですが、それは一つの価値観からの共感であり、世界をその色だけに染めていこうとしたのではないでしょうか?反戦や英雄的な行動には権力という悪が必要になるのです。そのからくりがどこまで意識出来ていたか?意識出来ていなければ、それは盲目的な行動であり、闇の中にある行動と言えるのです。

ほんの少しでも光のほうへ、ほんの少しでも善意のほうへ、ほんの少しでも愛のほうへ、ほんの少しでも調和のほうへ、ほんの少しの違いがあってもより尊きほうへ

そんな視点からすべての行動をみていくと真理が見えてきます。


太陽は教えてくれている


12月23日天皇誕生日の太陽です。


闇から卒業するためには自我が生み出す闇の中に光を射していく必要があります。それは例えば、太陽の視点に立って世界や自分を眺めることを意味します。太陽はみんなに同じように光を与えてくれているのです。木の花ファミリー通信Vol.87にはこんな文章が掲載されています。

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今、世界中で様々な問題が起きています。例えばどこか遠い国で起こるテロは、自分とは関係のないものだと思うでしょうか。地震や台風のような天変地異は、人間にはどうすることもできない自然の驚異だと思うでしょうか。

私たちの生きる地球は、太陽の導きの元にあります。太陽は常にその心を送り続け、人間がそこから外れれば、それにふさわしい現象を地球上に起こし、「気付きなさい」とメッセージを送っています。今世界で起きていることの現実を知り、自分のしていることがそこにどのような影響を及ぼしているのかということが観えた時に初めて、人は変化の道を歩み始めます。

 ~ 中略 ~

この世界には、流れがあります。出来事の表面ではなく、その奥に心の目を向ける時、全ての出来事の背後を常に変わることなく流れ続ける、大きな流れがあることが観えてきます。自らの立ち位置を離れ、その流れに乗って生きると、不思議なほど色々なことが連鎖し、とんとん拍子に物事が進み、自力で何かを成し遂げようとしていた時には想像もできなかったような世界が現れるのです。その流れの中では、余分なものは自然とそぎ落とされ、人々の中に眠る無限の可能性が花開いて、様々な個性が響き合いつながり合い、美しく循環していくことでしょう。それは個人の満足をはるかに超える、ダイナミックな生命の喜びにあふれた世界なのです。


だから太陽は、私たちに心を送り続けています。


あなたたちが美しく健康であるように

互いを想いみんなでつながって生きるように

そして世界が豊かになるように

いつも私の方を向いていなさい  ──────────



そう呼びかけているのです。

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太陽の呼び掛けに耳を澄ませる。太陽の光に想いを馳せる。それは自分を離れることに繋がります。自分を離れることで、内から観た自分と外から観た自分、心の中で感じていることと外で起きていること、これらの差をなくしていくことが大切です。そして、この取り組みは固定したものではなく常にダイナミックに揺れ動き交じり合いながら一つになっていくプロセスであり、その動きが人を悟り(差取り)へと導くのです。そのことをいさどんはこんなふうに語っています。

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自分がある限り、その自分の内側から外を認識する目線はあるのだから、それはそれでいいのだが、同時に、自我のフィルターを抜きにした外側から同じように自分を観る目線が必要なのだ。それは、自らと他者との距離がなくなるということ。他者の目線が自らの目線であり、自らの目線が他者の目線になる。そこは何の境もない、「あなたは私、私はあなた」という世界だ。そのあなたと私の差を取ることが、差取り=悟りにつながる。



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自分の視点、自分の感情を超えていくことで、みんなと共通の視点、想いへと至る。それが悟り(差取り)への道であり、太陽からの呼び掛けなのです。

12月24日クリスマスイブの太陽です。

今年は自分の感情というものが大きなテーマとなっていました。感情を切り離し世界を見ている状態、そして感情に飲み込まれて世界を見ている状態。今までの僕はこの2つの状態を行ったり来たりしていました。どちらの状態も自分の感情を適正に扱えていないため僕は定期的に爆発をしていました。

ですが今年は、喜怒哀楽を思い切り感じながらもそれを超えて自分や世界を見ていく。そんな歩みを確かに始めた年となりました。それは感情と共にありながら感情を超えていく道であり、「自分ごと」から全体性へと至る道となるのです。そしてこれは闇から卒業を意味します。

「自分ごと」から全体性へと至る道、流れをいただくことで、すべての自分ごとは全体性へと繋がっていきます。なぜなら、自分と世界は本来一つであり、一つの流れの下、生かされているからです。大切なのはすべての出来事をいただく姿勢で、いただくことで頂きが増していく、そして、あなたの未熟もみんなに役立っていくのです。だから僕はこれからもそんなふうに生きていきます(^-^)

12月25日クリスマスの太陽です。僕は太陽にイエス様を感じていました。

時代人(Eran People)として


ところで、今日12月29日は新月で、新しいサイクルの始まりです。だからこの文章は1年間のまとめであると同時に新しい始まりでもあるのです。僕は今、今まで歩みをまとめると同時に新たな道を歩み始めているのです。それは太陽、そして永遠へと続く道であり、流れに沿って生きる時代人としての歩みです。最後にいさどんブログ「わたしたちは時代人(じだいびと)です」からの文章を引用してこの文章を締めくくりますね。


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なぜ宇宙は存在するのか。なぜ地球は存在するのか。なぜ生命は存在するのか。なぜ人類は存在するのか。そして、なぜあなたは存在するのか。

これからは地球自体、人類自体が目覚める時代です。人類が皆、この宇宙船地球号に乗っている意味を理解し、宇宙に創られたオアシスであり、奇跡の理想郷・地球に時代の意志を表現していく時代の始まりです。

時代は生きています。時代は意志を持っています。わたしたち人類はその時代の変化を感知し、時代に寄り添っていく立場にあるのであって、時代を創ろうとする必要はないのです。

そのように考えていくならば、この世界は一体です。すべてのものが時代と共に一体となって動いています。それが宇宙の実相です。そのような意識レベルを有した者が地球上に現れたならば、その響きがこの世界に放たれ、それに共鳴した者たちの行動が少しずつこの世界を変えていきます。そしてさらにそれに共鳴した者が行動することによって、その響きがこの世界に放たれていく――、その連鎖が時代を動かしていきます。その響きがこの世界の混乱を鎮め、人類の営みによって傷つけられてきた地球を包み込み、地球を本来の美しい星へといざなっていくのです。

一人ひとりの目覚めがウエーブとなって連鎖し、地球上を巡っていきます。そこには、音もなく、力もいりません。それは、時が刻まれていくときに、時の音がわたしたちの耳には聞こえないのと同じです。地球が自転し公転するときに、その音が聞こえないのと同じことなのです。ですから、時代が動くときに、その音はわたしたちには聞こえないのです。耳をすませてその音を感じてみてください。そのような人類の目覚めの動きが今、地球上に始まっているのです。

今こそ、わたしたちは自らを自我の枠から解き放ち、この無限なる宇宙の中で自由自在に生きる時が来たのです。わたしたちの中から願望や野心が消えた時、宇宙の真理が湧いてくるようになります。そして、人類が誕生した目的にのっとった最もふさわしいポジションにわたしたちは立てるのです。そういった真理に目覚め悟った者は、時代を読み、流れを感じ、今を生きる「時代人」となるのです。

それが、21世紀初頭にあたり、時代がわたしたち人類に伝えているメッセージです。



新月(12月29日15時53分)の2時間前の太陽です。




みんなの中でよみがえり生きていく(2)

12月18日(日)は月の一度の自然食レストラン「恵みいただきます」の日でした。メニューは12月ということで、★メリークリスマス・スペシャルプレート★でした。そして、僕は例年通りトナカイとなって売店でお客様をお迎えしていました。

「恵み」当日。サンタさんたちと記念撮影です。


クリスマスと言えば、イエス様です。僕はイエス様のお話については以下のように考えています。

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多くの人々に救いをもたらしたイエス・キリスト。イエスは処刑されますが、予言通り3日後に復活します。僕は常々、イエス・キリストの死と復活については、心の成長過程のモチーフになっていると思ってきました。

イエス・キリストはすべての人間の罪を背負って磔(はりつけ)にされ、命を落とします。人間の罪とはすなわち「自我(エゴ)」だと思うのです。自我の元、人間は自らの欲望を叶えようとし、世界に働きかけます。その結果が今の社会であり、環境問題、経済格差、人種差別、民族紛争など様々な問題を生み出しました。イエスの死は、問題を起こしてきた自我の死を意味します。自我の死とは自意識を捨てることであり、自分視点を離れることです。その体験は人に恐怖を与えるのかもしれません。執着の感情が湧き上がるのかもしれません。ですが、自我の死、自意識を手放すことは人間に新しい可能性をもたらします。

磔にされ肉体の死を迎えたイエス・キリストは、3日後に復活するのです。それはイエスの魂の復活であり、それ以後、イエスは人々の中で再生し、今も世界を見まもり続けています。人が自意識を捨てる時にも同じようなことが起こります。

自意識を捨てる時、人は今まで囚われていたものから解放されます。その時、人は、自分(自意識)が知らなかった自分と出会います。思いもよらない感情や能力が湧き上がってくるのです。そしてそれは波動となって世界に広がり、人々の心に伝わっていきます。自意識の元、自分の中だけに留まっていた心、感情が動き出し他の人々の心の中に入っていくのです。そして、その心は人々の心の中で生き続けます。自分の魂が肉体を超えてみんなの中で生きていく。自意識を超えた時、そんな生き方が可能となるのです。

木の花ファミリーの生活は自我を手放す生き方へとみんなを導いてくれます。多くの人と共に暮らす生活では、調和の心が何よりも大切になります。自分だけの都合で動くことは、軋轢が生じるきっかけとなります。毎日の生活の中で、現象を通して、自分を知り、自意識を手放していくことが出来るのです。そして、自意識を手放し空っぽになった自分の中には、みんなの心が入ってきます。
個性豊かな人々の心によって自分が創られていくのです。こうなると成長の可能性は無限大となります。出会う人々、出会う体験が自分を創っていくのです。それがどんなものになるかは自分の想像をはるかに超えることです。人生はまさに道(未知)への旅です。わくわくします(^-^)




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上記は2年前、2014年の12月に書いた文章です。文章を読んであらためてこの時期の自分の心がクリア(明晰)だったことを感じます。その後、2015年の夏から秋に掛けて自分の自我(エゴ)が浮き彫りになり、その後もいろいろありましたが、今はそれらの体験を活かし深みを持ってあの頃の明晰さを取り戻していると思っています。

ところで、僕は今年の8月いさどんから以下の言葉を貰っています。

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自分というものを内からだけ見ていてはいけません。

外から見える自分と内から見える自分というものが、
自由自在に行ったり来たり出来る状態になることが大切です。
ブログを読んでそれが少し出来るようになってきたことを感じました。

この道を極めることが大切です。
そこに向けて真っ直ぐに行くと人の価値が上がります。
そして価値が上がると自然にみんなから支持されるようになるのです。
その位置で願いが叶っていくことが大切です。
想うと叶うというのはそういうことです。

ところがあなたの場合、叶わない現状にありながら、
願いを叶えたいという願望や欲望になっているものだから、
宇宙の法から外れてしまったのです。
だからそれは「自分のこと」であり、我欲となっていくのです。
宇宙は「もっと叶えたい。あなたの望みは全部叶えたい。」と願っています。
その代わり宇宙の法に沿って願えということです。

だけれどもあなたの願いが叶うところまであなたが高まった時、
あなたにとってその願いはどうでもよくなっていることでしょう。
だから、今、あなたが持っている願いはどこかにボタンの掛け違いがあるのです。
そのためエネルギーを使えば使うほど価値を下げる状態となっています。
それはエネルギーの出どころが間違えているということです。

あなたは自分の心の足りない部分を埋めようとしています。
それは相手を見ているのではなく自分を見ているのです。
その願いは自分の矛盾から発生しているものです。
自分の中に矛盾がなければ、矛盾を埋めようという想いは出て来ません。
ただ淡々と生きていれば、そしてそれが清々しければ、
相応しく人が集まってくるのです。
そうではなく努力して人にアプローチする行為は、
自分を埋め合わせようとしている行為なのです。

あなたの矛盾は爆弾のようなものであり、あなたはそれを抱えています。
そうするとここに出会うことであなたがどれほど救われているか。
そう思いここに出会った価値を上げるとしたら、本物となることです。

そのためには正確に振り返ることが大切です。
逃げずに自分というものに真正面から向き合い、
誤魔化さずに正確に見ていくのです。
そうすれば自分が仕上がっていきます。

あなたは自分の爆弾を忘れてはいけません。
クリアしたからと言ってなくなったと思ってはいけません。
心を磨くという志を持っている限り、
自分の中にしっかり古傷としてもっていないと
調子にのったり、忘れたりします。
そうすると古傷が疼いた時にチェック出来ない状態となるのです。

だからしっかりと向き合いクリアしそれを忘れずにいて下さい。


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ここで語られている「爆弾」は僕の中にある衝動で、僕は22歳の時、1997年11月、この衝動を解き放ち、この衝動に従って生きていこうと決意しました。それは自分に正直に生きようという決意でしたが、この衝動は僕の人生に混乱をもたらしました。僕は解き放った衝動をコントロールすることが出来ずに振り回されていくのです。

そんな中、10年前は以下のような状態にもなりました。


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10年前の10月、中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、
そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。
そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、
僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。

僕はその頃、毎晩泣いていて、
人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。

そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、
心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。

なんか漫画みたいなバカな話。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…
僕はそれぐらい自分の感情に翻弄されていました。


空っぽへのあこがれ」より引用(一部修正)

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衝動に振り回される日々、でもそれは僕にとって必要なものでした。爆弾は僕に与えられた大切なテーマです。それを僕は抑えこんだり、切り離したりして生きてきました。それでもあるものはあるのです。それを否定することは自分を否定することになります。自分を取り戻す。そのために僕は衝動を解き放ったのです。

そして、僕は自分を取り戻しましたが、取り戻した自分はとてもひどいものでした。こだわりが強く、他人のことを考えず、自分の基準で他者や世界を裁いていく。自暴自棄で後先のことを考えない。これが押し殺していた自分で、当然のように僕は苦しむようになります。それでもそれは必要なプロセスでした。

天への志と爆弾。

爆弾を克服するプロセスが僕のオリジナルな物語で、この物語を通して僕は天へと至るのです。そのためにはイエス様が一度死んだように、僕の自我(エゴ)も死ぬ必要があります。死ぬことでみんなの中でよみがえるのです。今日は冬至ですが、冬至は1年で最も太陽の光が弱い日です。それは太陽の死とも捉えられ、イエス様の物語同様、冬至も死と再生を表す日なのです。以下、Facebook(地球暦)からの文章を引用します。

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陰極まりて陽に転ずという一陽来復(いちようらいふく)の冬至は、これから少しずつ太陽の出ている時間が長くなり、反対側の夏至へ向けて光が増えていく合図。冬至は古くは生命の終わりを意味し、新しい命の再生復活の時と考えていました。

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爆弾を生き抜き爆弾を克服した僕は爆弾によって自我(エゴ)が吹き飛び新しい自分として復活します。新しい自分は外から自分を眺めることで以下のような状態を目指します。

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自分がある限り、その自分の内側から外を認識する目線はあるのだから、それはそれでいいのだが、同時に、自我のフィルターを抜きにした外側から同じように自分を観る目線が必要なのだ。それは、自らと他者との距離がなくなるということ。他者の目線が自らの目線であり、自らの目線が他者の目線になる。そこは何の境もない、「あなたは私、私はあなた」という世界だ。そのあなたと私の差を取ることが、差取り=悟りにつながる。


その世界を体現するためには、人々は群れて、運命共同体として生きる必要がある。その昔、厳しい自然の中を人々が群れというひとつの生命として生き残ったように、我々はもう一度群れて、コミュニティがひとつの生命として生きることによって、この世界の真実を現していく。それは、個が個に走り過ぎて自我からしかものが見えなくなった現代社会が混乱から抜け出す、唯一の方法だ。


いさどんブログ「円が縁を紡ぐ〜人間からヒトへ」より

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クリスマスを前にしてシリア政府軍が制圧したアレッポ、戦闘が長期化しているイラクのモスル、日本がPKO部隊を派遣している南スーダンなど緊迫したニュースが連日のように流れています。そして、ドイツやトルコではテロが起きたと報道されています。

まるで人々が抱えている爆弾が爆発し合っているかのようです。

そんな中、人々は平和を願い求めますが実現しません。その平和は「自分」が思い描いたものであり、「自分」の願いを追い求めているから実現しないのです。

イエス様の物語は死と再生の物語であり、それは自我(エゴ)を手放すことを意味します。それは冬至の意味も同様です。そんなふうに思う時、クリスマスは願いを叶える日ではなく、願いを手放す日であることが明らかになります。人々が手放した願いをサンタさんが叶えてくれるのです。それは自分の想定や想像を超えた世界です。

今日は冬至でもうすぐクリスマスです。クリスマスに向けて何かを願うのではなく、願いを手放していこうと思います。願いや感情を手放しそれらを超えた時、人は自由となり自分を外側から観ることが出来ます。それはみんなの視点であり、みんなの中でよみがえり生きていくのです。


こちらは「恵み」当日の料理です。
こちらは「恵み」当日の集合写真です。

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