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「後ろめたさ」をきれいにすると・・・




4月9日の夜、大人ミーティングで「21世紀の死生観・序章~魂のランキング」をみんなで共有しました。一人の人間の人生は母親のお腹の中から始まりますが、その始まりについて上記の文章では以下のように表現されています。

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女性は、自らの体の中にもうひとつ、神殿を持っています。それは子宮です。子宮とは、「子の宮」と書きます。そこに魂が宿り、御神体として、産道(=参道)を通り、鳥居をくぐって、生まれてくるのです。それはとても美しい、神聖な物語です。
ところが現代の人々は、間違った認識の性により、その神殿を汚しています。神殿とは、人生そのものを表現する場です。そこにどのようなものを迎え入れて、何を育んでこの世界へ送り出すのか。それによってこの世界が創られていくのです。
性の交わりは、私たちが神社へ行ってお参りをするのと同じ、神聖なるものです。愚かな精神によって営まれる行いは、その神殿へ、汚物を迎え入れることにもなります。子宮という、命を生み出す神殿へ、どのようなものを迎え入れるのか。その神殿の管理人は、女性たち一人ひとりです。ですから女性は、とても重要な役割を担っているのです。

その神殿に宿った命は、十月十日(280日)の細胞分裂を経て、人として社会に生まれ出てきます。始めの細胞は、単細胞です。そこから複雑な細胞へと分裂し、やがて海に生息する魚類に進化します。ですから子宮の羊水は、古代海水と成分が同じと言われています。やがて魚類から陸へ上がって両生類となり、爬虫類へと進化します。爬虫類は鳥類と哺乳類へ分かれ、哺乳類の進化は猿へとつながっていきます。そして猿は猿人へ進化し、人類の祖先であるホモサピエンスとなっていくのです。
この受精から猿へ、猿から人へと変化していく過程は、約30億年の生命の進化の上に成り立っています。子宮の中でその進化の過程をたどり、人となった私たちは、最初に通った産道(=参道)を通り、鳥居をくぐって、人間社会へと旅立っていくのです。そして人生という世界の鏡を通して、自分自身を悟りながら、学び、成長していく旅が始まるのです。

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母親の胎内で30億年の生命の進化を辿った後、人は産道(=参道)を通り、この世界に誕生します。そして、この世界で出会う出来事を通して自分を知っていきます。上記の文章ではそのことを以下のように表現されています。

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生きるとは、自らの魂が生み出す「思い」を表現することです。思いは、それぞれの響きを持っています。私たちが生きて、思いを表現すると、その思いの響きがこの世界の何かしらに当たり、ふさわしい現象となって自らに返ってきます。自分がどのような響きを発するかによって、世界はその響きに正しく応え、ふさわしい出来事を与えてくれるのです。そうすると、人生で出会うすべての出来事は、自分自身を観ていると言えます。つまり、この世界は鏡なのです。

 ~ 中略 ~

生まれてきて、生きることは、命の仕組みです。それは宇宙の法則の中にあります。人生を生きるといろいろなことに出会いますが、その出会いは、自らの魂が何を発したかによって、それにふさわしい出来事が返ってきたということです。返ってきたものを見て、私たちは自分自身を知るのです。

 ~ 中略 ~

神社へ行くと、御神体として、鏡があります。鏡には、自分の姿が映ります。しかしそれは、神の姿ではありません。それは自分が映ったのです。

人生という旅の中では、常に、自らが発したものが自らに返ってくるようになっています。自らが注文したものが、あなたに届けられるのです。神社へ行って御神体と対面しても、そこで自分自身を見ることになります。鏡に映った自分自身の顔を見てください。どんな顔をしていますか?しかめっ面でしょうか。ニコニコしているでしょうか。そこに映った姿から、いろいろなものを感じるでしょう?私たちにとって人生とは、この世界という鏡に自らの姿を映し、それを観て、自らを悟るということなのです。


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この世界で出会うことはすべて自分自身の顕れです。では遠くの国で起きている戦争などはどうなのか?自分の責任と言えるのだろうか?大人ミーティングでいさどんからそんな問い掛けもされ、みんなで「そうだ」と確認をしました。

それでこの問い掛けから今あらためて思うことを書いてみようと思いました。

ヒトが誕生する時、胎内で30億年の進化を辿るという事実は凄いコトだなと思っています。十月十日(280日)に生命30億年の歴史が凝縮されているのです。ヒトはみんな、その進化を経験して誕生してきます。ということは、今という瞬間に生命のすべての歴史が凝縮されている。そんなふうに感じました。

ヒトは生まれることを意識的に選択することは出来ません。気づいたら生まれています。それは世界に生み出されたともいえ、僕らが生きているのはこの世界に生かされているからです。そしてその背後には生命の全歴史があります。自分自身も遠い国の戦争も生命の全歴史の中から、今、生み出されているものであり、だから同じものを共有しているのだと思いました。

今、多くの人にとって人生の始まりは穢れたものとなってしまっています。そのことについて「正しいヒメゴト・命を生み出す宇宙の根本原理~性と宇宙」では以下のように書かれています。

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「ヒメ」をカタカムナでひも解いてみると、「ヒ=秘か。ものの始まり」「メ=芽。目。まだ見えないところに広がりを持っている」ですから、ヒメとは、秘かに芽が出ていること。節分前のまだ寒い時期に、表面的には何も動いていないように見えても、土の中では秘かに芽が動き出しています。その命の芽吹きのことです。
女性のことをヒメと言います。それは、表面には見えていませんが、現象化するためにもっとも大切な存在だということです。

~ 中略 ~

見えないところで起こっている ──── 男と女が交わって、種を降ろし、命を生み出すのは、見えないところでやるでしょう?それを「ヒメゴト」と言います。
男女の交わりは命を生み出す宇宙の根本原理であり、とても神聖なものです。ところが現代は、それは後ろめたい、忌まわしい、隠さなければいけないものになってしまいました。なぜだかわかりますか?本来の性の意味を履き違え、欲望のままに人々は性を行うことにより、人々の中に、それは悪いものだという心が生まれたからです。ですから、それを隠すようになったのです。

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近代以降、人々は社会を発展させ自我の欲望を満たしてきました。自分の我欲を満たすことをお互いに認め合ってきたのですが、心のどこかにそれは悪いことという意識も生まれ、性を穢し、自らも穢してきたのではないかと思います。

人々が物質的豊かさを求めた結果、空気汚染や海洋汚染が広がり住み難い世の中になろうとしています。それと同じことが人間にも起きていて、自らの我欲を追い求めた結果、自分自身の尊厳を穢し、生きることが後ろめたく辛いものとなっていくのではないでしょうか?

加計学園、森友学園、自衛隊の日報。今、ニュースでは政府の信頼を揺るがすような事件が報道されていますが、そこには人間の我欲と後ろめたさを感じさせます。

我欲と後ろめたさ。

そこから歯車は狂い、いろいろな問題が発生する。それは個々人の人生にもあり得ることで、そういう心をきれいにしていくことで、自らの人生に誇りを取り戻し、結果、世界も変えていくのだと思っています。

遠い国の戦争も。

その奥には人間の我欲、そして後ろめたさがあるのではないかと思います。原因はそれだけとは言いませんが、きっとそういう要素もあって、だから自分一人分そういう心をきれいにしていこうと思っています。

そして、後ろめたくない健全な欲というものもあって、それらはきっと出会う出来事をいただくことでおのずと満たされていくものです。一人ひとりがそんなふうに生きていく時、きっとこの世界は天の流れの下、調和していく、そんな未来へ向けて自分を知る旅を続けていこうと思っています。

鬼は内、すると心がきれいになって福が来る(2018)

1月27日に行われた富士浅間木の花祭りは鬼が主役の祭りであり、鬼の舞を柱として人々は様々な舞を神々に捧げます。そしてその中心となる物語は二つの問答に表現されています。まず一つ目は「榊鬼(さかきおに)と翁」との問答です。


榊鬼(左)と翁

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【榊鬼と翁の問答

   
やいやい 伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間。ところは当所の氏大神。神の稚児(わかご)の舞遊ばし給う木の花の御庭を。事どもしき姿(なり)をして舞荒らすは何たら何者にてさむらう。

榊鬼  
吾が身が事にてさむらう

翁   
なかなか、汝が事にてさむらう

榊鬼  
此れさかきと申するは、比叡の山の大天狗。愛宕山の小天狗。
山々嶽だけを渡る荒みさき荒天狗とは 吾等がことにてさむらう。

   
事にて さむらうは何万歳をへたるとや

榊鬼  
八万歳をへたるとや。そう云う者は何万歳をへたるとや

翁   
法は九善 神は十善 神の位をもって十二万歳をへたるとや。
神行の為には榊を引いて帰れ。為でなくば引かれまい。

榊鬼  
まことか

翁   
まことに

※榊鬼と翁は榊を引き合う

榊鬼  
この榊と申するは 山の神は三千宮。一本は千本。千本は万本と。
千枝(ちえだ)百枝(ももえだ)までも惜しみ給うこの榊を、だれが許しを得て切り迎えとったるとや。

   
伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間。
所は当所の稚児のさくやの御為として切り迎え取ったとや。神行の為には榊を引いて帰れ。この榊を引き取ったならば、是より艮、木の花の富士の山が立ってまします
それを汝の褒美にとらす。

榊鬼  
まことか

  
まことに

※両者にて榊の枝を引きながら
ありがたや まことの神行か
扱いても扱かれぬ 引いても引かれぬこの榊

※二人で榊を引き合い翁が勝ち、取った榊を窯の湯に投げ入れる
負けた榊鬼は、再び丑寅の富士の山の奥に隠れる

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この問答についていさどんは以下のように語ります。

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鬼は本来、道理を伝える天の存在であり、忌み嫌われているのはその厳しさからです。


榊鬼は、天の代表。翁は、人間の代表です。
人間はとても優れている。だから榊鬼は八万歳で、人間は十二万歳だと言っています。
そして翁は、地上の支配権を人間に明け渡せと言うのです。
そこで翁と榊鬼が榊の枝を引き合い、人間が勝ちます。

富士の山を褒美にとらすとは、その方角に引き下がれということであり、
つまり封印されたということです。

しかし、封印された後も、榊鬼は人間がどうするかをずっとみていました。


ずっとみておったぞ。しかし、変わらぬではないか。
変わらないどころか、ひどい有り様ではないか。

そこで榊鬼が、艮(うしとら)の金神となり、世に現れるのです。


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ということで二つ目が「金神様と翁の問答」となります。

金神様(左)と翁

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金神様と翁の問答              

 
  
伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間 ところは当初の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色(こんじき)の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。

金神  

この方(ほう)は、艮の金神と申す。
時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界(みちよかい)。 汝らの宇宙(うつ)、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢れ(けがれ)逆巻く魔釣りの世。

      

艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう

金神
この方(ほう)は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙(うつ)の天意転換(たてなおし)、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢れ(けがれ)汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢れ(けがれ)混じること、適わぬ(かなわぬ)世となるべきなり。古き仕組みに変わりたる、新たな仕組み始まれり。
縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯 済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換(たてなおし)、汝らご用に使うてやる。


一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出る(いでる)と申されるか

金神  

いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人(かみびと)、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。
故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。
神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球(くに)の日月の神々じゃ。
一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹にまことを据えるのじゃ。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。

      

引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。

金神  

一度は渡したその榊。天の元に供えられい

(金神は後ろを向く。翁が榊の枝を金神の腰に差して退場する。
金神、根付きの榊に持ち替えて、四方でへんべいを踏んだ後、神座に戻る)

皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、嬉し嬉し、愉し愉しの世となりて、真(まこと)の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真(まこと)次々現れくるぞ。
あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。
オー、オー、ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト オー。
真(まこと)の神が現れる。神人(かみびと)共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。
真(まこと)の真釣り(まつり)始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。


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この問答についてはいさどんは以下のように語ります。

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金神様は、逆さまの世をひっくり返すぞ、と言っています。
そして、人間である翁との問答が行われ、地上の支配権が天に返されるのです。

この時に翁は、根付きの榊を金神様に渡します。
それはつまり、根っこから、心の底から、
この世界を天に明け渡します、ということです。


明け渡すというのは、ただ単に返すのではなく、
これからは神人一体、天地一体となって
この世界をつくっていくということです。

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木の花祭りではみんなが空っぽになって舞い踊ることにより、人々は神の依り代となり穢れを祓い清め新しい生命として再生していきます。それは、自らを明け渡すことにより自らを生み出している大いなる存在と一体となる瞬間と言えます。

ところで、2月3日は節分、そして2月4日は立春正月です。節分と立春について杉山開知くんは以下のように書いています。

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春のはじまりであると同時に、春夏秋冬の「四季 Season」のはじまりでもあります。もともと節分は立春・立夏・立秋・立冬のそれぞれ前日で、四季の分かれ目を意味する日でした。なかでも立春の前日は春夏秋冬の終わりとなる特別な日であるため、1年の最後に邪気を払い、願掛けをする行事が盛大に行われ、年4回の節分は薄れて、次第に立春前日を節分とするようになったようです。

立春前後のこの時期は、旧暦を使っていた明治以前は、特に新年という感覚が強く、数え年でみながいっせいに誕生日を迎えて祝っていたため、節分が年の節目として大きな意味を持っていました。


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節分は邪気を祓う時。木の花祭りがこの時期に行われるのはまさにそのためです。邪気を祓う際、世間一般では「鬼は外、福は内」と言いますが、これは「榊鬼と翁の問答」で表現されている人間と神の関係と言えます。人間は鬼を封印し、地上の支配権という福を手に入れました。人々は自分たちの都合の良い社会、そして規則を生み出し暮らしていますが、その結果が分断や対立の広がる社会となっています。2年前のこの時期、元プロ野球選手の清原が逮捕されましたが、そのニュースを受けていさどんは以下のように語っています。

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鬼は外、福は内。

これはご利益を求める気持ちから出る言葉で、人々は自分に都合の良い福を求めます。ですが、福を求めても大抵は叶いません。それは自分を顧みることがないからです。それでも都合の良い福を求め続けることが、この世界に混乱をもたらしているのではないでしょうか?

昨日、プロ野球選手の清原和博が覚せい剤取締法違反の疑いで逮捕されました。多くの人々があこがれる野球のスター選手だった清原。それは求める福が叶った状態とも言えます。ですが、内面は苦しみを抱えていたことが伺えます。そして、スター選手の陰には多くの挫折した人々の存在があるのです。

人間性の伴わない幸運。それが人々や社会に何をもたらすのか?スターを求める人々の心理が清原の状態を生み出したとも言えるのです。清原の存在はまさに時代を象徴しているように思えます。

鬼を内にいれて、自らを正し、その結果、福が来る。

そんなふうに生きる時、ずっと幸せに過ごすこと出来るのです。

鬼は外、福は内。

それは大切なものが逆さまになった言葉です。

だから苦しみが生まれ続けます。

今、世の中がひっくり返る時が来ているのです。


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鬼は内、すると心がきれいになって福が来る。

この言葉は「金神様と翁の問答」で表されている世界です。根っこから、心の底からこの世界を天に明け渡す。それは何が起きてもいただく心を育むことであり、その時、思いもかけない出来事に出会い、世界は無限に広がっていくのです。

だから空っぽになってこの世界で舞い踊りましょう。

そして、神人一体、天地一体となって、この世界を創っていきましょう(^-^)

木の花祭り「四つ舞」、みんなで舞い踊っています。

人生とは場創りである

大切なのは場創り。富士浅間木の花祭りには外からもお客様が訪れます。その人たちに来て良かったなと思って貰えるように、何かを感じて貰えるようにすることが大切です。そのために僕たちは極めていくのですが、それは単純に技術的なことを究めていくのではなく、心を究めていくのです。

「大切なのは心だね」

そのことが伝わるように日常をしっかりと送り魂を込めていくのです。

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これは木の花祭り開催前のいさどんの言葉ですが、この言葉を聴いて、場創りとは他者のために生きることであり、人生とは場創りなのだと思いました。

「場が人を癒す」ことがあります。そんな場所についてカタカムナでは「イヤシロチ」と呼ばれていて、船井幸雄さんの著書『イヤシロチ-万物が蘇生する場所がある』では以下のように説明されています。

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「イヤシロチ」というコトバを御存知ですか。「イヤシロチ」に対するコトバを「ケガレチ」といいます。この二つのコトバは、これから流行語になりそうに思います。
 イヤシロチというのは、ほとんどの人や動物、そして植物がそこにいると気分のよくなる土地、いわゆる癒される土地のことなのです。
 ケガレチは、その逆の土地のことで、ともに語源は古代日本人(カタカムナ人)が使っていたコトバから出てきた…といわれています。(転載終了)


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他者のために。

そう思った時、特定の他者を想定すると視点が狭くなり、囚われとなる恐れもあります。ですが、場を同時に意識していれば、視点は時空を無限に広げていくことが出来ます。そして、場が健全になれば自ずと人は癒されるのです。だから常に場作りを心掛けていくことが大切なのです。

視点を場に持って行くと自分からも離れることが出来ます。そして健全な場は人を癒すのだから、自分自身も癒されます。自分のことを考えなくても、場を意識していれば、自ずと自分のためにもなるのです。

自他の区別を超えてみんなのために。

場創りを意識していればそんなふうに生きることが出来るのです。

そんなことを確認し臨んだ木の花祭りが1月27日に開催され、みんなで一つのうねりを生み出しました。このお祭りには世界各地(海外21ヵ所、国内79ヵ所)からご清水を送っていただいていますが、祭事の前にはそれらを釜戸の中で融合させます。今回その儀式を行った後、ひろっちは以下のような想いを発信しています。

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先程、かまちゃんサポートの元、世界各地、日本全国から届けられた清水を、釜にて融合させていただき、ただ今火にかけて温めています。
 
いつもの事ですが、この瞬間は、何とも言葉で言い表し難いものがあります。
 
世界中、日本中の神々様、精霊様達がここ富士の麓にお集まりになり、一つに融合していくのです。

空を飛び海を渡り、陸を通って、遥か遠くの精霊が集まっておられるのです。
 
釜の中の水は、何処からどう見ても一つです。

そこには堺も何もありません。完全に一つに解け合い混ざり合っているのです。

まさに世界が一つになっていく弥勒の世界を完璧に表現しています。

そしてそこにはそれを届けてくださった沢山の皆様の想いも入っています。

この祭りの意味に賛同する人の想いが祈りが願いが集まり、そして一つになっていきます。

手に取り、釜に注いでいく一つ一つの水がとっても重いです。
その様を目の当たりにしてシビレます。あまりに尊くて、そして有り難くて涙が出ます。
 
本当に痺れます。
何とも大切な事をさせられていると実感します。
 
ありがとうございます。
ありがとうございます。
勿体のうございます。
 
惟神(かんながら)たまちはえませ

でわ舞庭で会いましょう。



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釜戸で融合され「弥勒の世界」を表現するご清水は、祭りのクライマックス「湯ばやし」の舞で湯だわしを使い一斉に振りまかれ場を清めていきました。そして、祭り終了後には湯だわしを絞ったご清水を川に流しましたが、それによりご清水は「調和の響き」を持って地球と一つになっていきました。

祭りでは様々な個性、役割の人がご清水のように一つに溶け合ってうねりを生み出しますが、それがこの空間をイヤシロチにしていきます。場創りということに関して言えば、個人的には至らないところはありましたが、みんなが生み出したうねりがそれを洗い流し大きな動きを生み出していきました。みんなで一人一人の未熟を超えていく。それは世を治めるマツリゴト(政)にも求められることであり、毎年のことながらこのような場を生み出し続けること、そして広げていくことの大切さを改めて感じました。

木の花祭りは年の一度の晴れの舞台ですが、晴れの舞台を生み出しているのはその準備であり、そして日々の日常です。日常が晴れの舞台に奥行を与えているのです。だから毎日、何でもないように思える日でも場創りを意識することが大切なのです。それは今、自分がいる場に何をもたらしているかを自覚することから始まります。

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私たちは自らが美しい響きを響かせ、美しい響きのものを生産し、そして健全に生きていく。それを社会に還元し、社会を健全にしていくのが私たちの生きる本当の目的です。

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上記は昨年の収穫感謝祭にていさどんが語った言葉ですが、木の花祭りも同じ目的の下に行われています。毎日を健全に生きて、この場に美しい響きを生み出し、それを社会に広げていくのです。祭りの場で一つに融合し、そして世界に還っていくご清水はその象徴と言えます。

だからこそ日常から魂を込めて生きること。そしてみんなと一つになっていくこと。そのことを忘れずに成長し続けて、それが更なるうねりへと繋がっていくように。心掛けて生きていこうと思っています。

人生とは場創りである。

それは今この場に一人一人が美しい響きを響かせることです(^-^)

「湯ばやし」です。



融合したご清水が場に振りまかれ場を清めました。

神様はあらゆるところに住んでいる

昔、ただ答えがなくとも、そこに語りかけよ。そことは斜め45度の方角に向かって、斜め45度とは丸の中ではの方角だよ。つまり斜め45度に向かって語り掛けよと、それに対してどんなに無言であったとしても、必ず斜め45度のその先ではその意思を受け取っておる。だからそれを積み重ねよ。そしてそれを積み重ねた結果、必ず現象となってその答えが現れるであろうと。

今そのころの思いを言葉にしてみたんだけれど、それをやり続けてきてこの歩みがあったんだよ。それをやり続けることによって、まだ見えぬ現象、そして問いかけに対する答えを後からいつももらって、その答えをもらうことによって、信じる心が育ち、そしてここまで歩んできた。つまり、先に得てから信じるんじゃないんだよ。得る前に信じて歩まなければいけないんだよ。それじゃないと歩めない。

次にみんなで見る映画『沈黙-サイレンス』は、そのことの真実を宣教師たちの苦悩の中で、問いかけている。神がどこに住んでおるか、ということなんだよ。


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上記はある日の深夜3時半にいさどんがみかちゃんに語った言葉です。1月7日の夜、この会話に出て来る映画『沈黙-サイレンス』をみんなで観ました。この映画は遠藤周作の小説『沈黙』の映画化で江戸時代初期、キリスト教弾圧の渦中に置かれたポルトガル人の司祭ロドリゴを主人公にしたものですが、映画の後、いさどんは以下のように語りました。

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今は、多様性が大切な時代となっています。映画の中でロドリゴは、弾圧される中で神の沈黙を訴えていますが、それは自分の側に神を引き寄せようとしているからです。だけれども、相手の側にも神はいます。ロドリゴにはそのことが見えていません。あの映画の中の弾圧は酷い行いですが、そこに登場する人たちは、あの時代を反映し、それぞれの立場から行動していたのであって、そこには良いも悪いもなく悪者はいません。当時、キリスト教は世界中に布教活動をしていましたが、その中では現地の信仰への弾圧もありました。そういうことも見ていく必要があります。そして、宗教は、貧しく苦しんでいる人々に広がっていきました。そのため宗教は救いを求めるもの、ご利益の対象となっていきました。ですが、本当の信仰とは神と共に創っていくものです。そしてその基盤には精神的豊かさが必要となり、それがこれからの社会に求められるものです。今、僕らはみんなでそんな世界を表現していますが、そのことの大切さをあらためて実感しています。

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いさどんの言う通り神は沈黙していたわけではなく、神の答えは常に目の前の出来事に顕れています。当時、世界中にキリスト教の布教が行われていましたが、それは植民地政策とセットとなっていました。例えば、ネット上でこんな言葉を見つけました。

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だいたい、日本でキリシタンや宣教師たちが弾圧されたのは、そもそも戦国時代の宣教師が日本人の子供の人身売買にめっちゃ関与していてインドや東南アジアに売り飛ばしまくっていてたり、「寺社仏閣を破壊したら救われる」とか吹聴してキリシタンたちが実行しまくって、それで秀吉も困っちゃってイエズス会と交渉したけど聞き入れなかったからだからね。異教徒のことを敵視したり、人間扱いしていなかったのは元々おめえらのほうだからっていう話なんですよ。それの延長に徳川幕府の取り締まりがあるわけで(詳しくは神田千里『戦国と宗教』岩波新書を参照)。



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この言葉がどこまで本当かは分かりませんが、キリスト教の布教が完全に純粋なものではなかったのは確かです。弾圧はそんな彼らの布教に対する神の回答とも言えます。自分の側に立たなければ、神のメッセージははっきりと見ることが出来るはずなのです。

映画でははっきりと表現されていたかどうかは覚えていないのですが、小説ではロドリゴによる踏み絵には以下のようなイエスの言葉が伴っていたようです。

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神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラが語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾なぞではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。

夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。そのとき、踏絵のなかのイエス「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」と語りかける。

こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねる。イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?

踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。


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このイエスの言葉は、すべての罪を背負ったイエスに繋がり、形に囚われない本当の愛に繋がるものではありますが、ロドリゴはまだ自分の側から世界を見ています。あくまで神は自分たちの側にいて、自分たちは正義であり奉行所は悪なのです。イエスが背負ったのはすべての人の罪であり、それは善悪を超越しているはずです。ならばこの言葉の奥にはもっと深いメッセージがあり、そこには奉行所も含めたすべての存在に対する愛があり、それはあらゆる立場を超えたものなのです。

ロドリゴは先にイエスという答えを得て、信仰の道を進みました。それが今までの信仰であり、未来を想定しているためなかなか自分の視点を超えることが出来ません。神の声も自分の望む声となり自分の視点を反映したものとなります。何かを得る前に分からない未来に向かって信じて進んでいく。そして結果から学び信じる心を深めていく。そういう姿勢が自分の視点を超えることに繋がり、結果みんなが分かり合える世界へと繋がります。多種多様な立場が存在し宗教や民族を巡る争いが絶えない今、必要なのは自分の視点を超える信仰であり、それは救いを求めるものではなく、共に創り上げていくものなのです。

神とはこの宇宙の法則であり客観性。そして客観性こそが愛であり慈悲。

僕らは常々このようなことを語り合っていますが、法則性である神様はあらゆるところに住んでいて、誰の側にも立たず、みんなに客観性という愛を注いています。だから目の前の出来事は常に神様からの答えなのです。いつもその答えを受けて、分からない未来に進んでみんなで分かり合える世界を創っていこうと思っています。

木の花ファミリーのみんなです。

敵は自分であり有難い存在となる

賢者は己の敵から多くのことを学ぶ

これは古代ギリシアの喜劇作家アリストファネスの言葉。
風呂場の日めくりカレンダーで目にしました。

この世界は自分の鏡と言います。

敵が目の前にいるということは自分が敵を生み出す心をしているということです。
敵と向き合うことは己と向き合うことになり、
そのためそこから多くの学びを得ることが出来るのでしょう。



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上記は昨年の3月に書いた言葉ですが、この言葉を見た時、「敵も自分だよな」ということを思いました。大きな視点で見たら、この世界は天の意向によって動いていて、自分も相手も役割を果たしているだけで、奥を辿ればすべては一つなのです。だからこの人生で出会うものはすべて自分と言えるのです。

そして「敵がいる」というとネガティブな印象を与えますが、必ずしもそうではないのだと思っています。

賢者は己の敵から多くのことを学ぶ

ということは、敵がいる状態は学びがあるということです。ライバルという言葉を日本語に直すと好敵手と書きます。好ましい敵です。ライバルという好ましい敵がいることにより成長する機会となるのです。2年前、僕は「敵が目の前にいるということは自分が敵を生み出す心をしているということですと書いていますが、この時の僕は、敵という存在を超えていくべきものと捉えていました。最終的には敵がいなくなることを良しとしていたのです。ですが、好敵手であるライバルは自分を成長させてくれる存在です。生きている間、成長し続けるならば、敵がいることは常に有難いことなのです。そのことに気づきました。

そして、この「敵はいない方が良い」という心は曲者だなと思いました。それは都合の悪いものを排除する心にも通じるもので、争いを避けているようで争いを増幅していくのだと思います。実際に人類は長年、平和を求めて争ってきています。そして、この心が敵を好敵手ではなくただの敵にし、それが学びのない不毛な争いとなっていくのでしょう。

多種多様な経験をし、様々な立場の人たちが共に暮らすこの世界では意見の相違があるのは当然です。違う立場の人が敵となって表れる。それも不思議なことではありません。その時、それを有難いこととして受け止め、そこから学んでいけば、敵は好敵手となり人は成長しあらゆる立場を超えた視点を育むことが出来るのです。

たとえば僕は老若男女100名近くと血縁を超えて共に暮らしていますが、このような暮らしをしているといわれのない非難を受けることもあります。それらは経験や立場の違いから生まれる偏見と言えますが、彼らの視点を理解すれば、僕らの決意を試す有難い言葉ともなります。そんなふうに僕らは成長して来ました。それがなくなって欲しいと思う必要もなくてただ道理を通して暮らし変遷として見ていけばいいのだと思っています。

過去から未来へと続いていく天の物語。その長い物語の中に自分は位置し物事に出会いますが、すべては流れの中にあります。敵に出会うのもその流れの中であり、そこから学ぶことで敵は消え、また新たな敵が表れるのでしょう。敵の存在を認め尊重していれば、それは絶え間なく続く成長のプロセスであり、すべては役割でありそこには「有難い」しかないのです。

このようにみんなで成長を続けていたら、みんながみんなの好敵手となり成長し合い不毛な争いはなくなっていくのでしょう。敵の存在を認め尊重すること。その心が平和への第一歩となり人類の目覚めへと繋がります。それは暗闇の中に立ち上がる光の柱となっていくでしょう(^-^)



光と影が交錯し、そのことで光が増し影が生かされていく世界

元日の富士山(ちなっぴ撮影)です。

あけましておめでとうございます。2018年木の花ファミリーのテーマは『再スタート』です。2017年のテーマは『爆発』でした。僕らは心の水爆を爆発させ今までの自分をリセットし、今年新たな物語を生み出していきます。意識は物質よりも根源的。心がリセットすれば物理的なことは自ずと変化していくのです。

爆発のラストを飾る2017年大晦日の大人ミーティングでは21世紀に求められる神通力がシェアされました。そこでは、神通力、神に通じる力について以下のように語られています。それは願いを叶えるものでもなく特別なものでもないのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

我々は肉体を持っている。肉体というものは物質だから、そこに光が当たると同時に影ができる。魂が我々の本来の存在なのだが、その魂が設計図となり、魂の思いが響きとなって世界に発せられると、それが現象化を引き起こしていく。それが現象となった時点で、我々は自我を持ち、特定する自らの枠を決め、枠以外のものを他者だと区別する。そのことによって、影ができるのだ。

その影は、物理的な光では消すことはできない。霊的な光でなければ、その影は消せないのだ。そうすると、思いの力を持って影を消すことはできるのだが、その思いの内容によっては重くなって、逆に影が濃くなることもある。それは、自我に囚われることが原因でそうなるのだ。

そして、その影は、未解決事件の背景に流れるものだと思った。それは、この世界に黒い雲のように漂う魔だ。その魔が存在する限り、いくら人に正論を語っても、健全にはならないということだ。

 ~ 中略 ~ 

今のような人々が真実をはき違えた時代には、神通力が必要になるとも思えるのだ。神通力とは、神に通じる力。その霊的な光で照らさなければ、人間に真理という光を照らしても、人間は質量を持っているためにその光が奥の魂まで射さないのだ。光が射さないから、その影があることがわからない。神通力というのは、人間の道理ではなく、霊的な光のことだ。だから、物質的に汚染されてしまった人間の思考をその光で突き通す必要がある。我々が肉体を返上し魂だけになった時に自らの実態があからさまにわかるのと同様に、そういった物事の本質を掴み取る知恵を人々が得るためには、立ち込めた魔を払い、真実の光を照らす必要があるのだ。現代の人間世界にはあまりにもたくさんの影が発生し、そこに漂う黒い雲が世界に蔓延し、多くの矛盾を発生させている今、人々にいくら正しいを語っても、人々は目覚めない状態になっている。

 ~ 中略 ~

今、世の中の現状を観てみれば、高い意識レベルの神通力は必要であることが観える。お釈迦様は「ガンジスの川の砂のごとく、衆生はおる。そのすべての衆生に仏性あり」と言われた。それはお釈迦様の意志として仏教に伝えられている。ところが、そこでお釈迦様は発していない言葉がある。その後にお釈迦様が伝えられたのは、「ただし、その道を歩んだものにだけ」ということ。つまり、いくら仏性があって、ブッダへの道があったとしても、それに目覚めて歩まないものにはない、ということだ。それで、そういった道を忘れ、歩まない現状の人間世界がある。

 ~ 中略 ~

それで、今年のはじめに、なぜ神通力というビジョンが降りてきたのか。そして、今年の暮れまで来た。今こそ、神通力が本当に必要な時が来ている。つまり、世界の仕組みを理解したものたちが、自らの高い意識を持って、この世の中の雲を払拭していかなければ、本来ヒトとして悟れる素質があるものも、その価値を見出すことはできない。そして、さらに現状の世界が続くだけのことになる。

この世界に漂っている暗雲を払拭しなければならない。神通力をもって払拭する。僕一人の力では世の中すべての暗雲を払拭することはできないし、今はそういった一人の力に頼る時代でもない。この悟りを人々に伝え、自らを価値あるものとして腹に落とし、歩んでいくものたちが現れてくる時が来ている。その歩みが2018年にスタートする。

☆彡 ☆彡 ☆彡

魂としてのヒトはこの世界と一体です。ですが、自我を持つ人間は、自らを世界から分けて際立たせます。そして、その動きにより自分だけの世界、影を生み出します。影は本来、光を認識するためにあり、それが悟りへの道となります。ですが、その道を歩まなければ、人間は自分だけの世界、影をすべてとし、その結果、世界に暗雲を広がっていくのです。今の社会の混乱はその表れで、いさどんはそれを払拭していく決意をしています。

そして僕は、大晦日に「変遷として見ていく」をシェアしました。この記事は2017年の振り返りとなっていますが、その学びは以下の言葉に集約されます。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕の中には好き嫌いや善悪の価値判断がありますが、それらは僕が出会った縁の中で育んだものであり絶対的なものではありません。世界には様々な好みや価値基準があります。多種多様な好み、価値判断のどれが正しいかと考えることにはあまり意味がなくて、それらの奥には天の流れがあり、すべては役割としてあるのです。そのことが見えると、分断や対立の奥に流れる大いなる意志を感じ、お互いを理解し合うことが出来るのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

それぞれの人がそれぞれの出会いの中で好みや価値判断を育みますが、多くの人がそれを絶対視しているのが今の世界です。そのことが影となり分断や対立が生まれています。アメリカ、中国、ロシア、北朝鮮、イスラエル、パレスチナ、日本。それぞれの国が自分の立場からの正しさを主張し対立しています。それは国内を見ても同じです。自分の立場から見える安全や利益を求めて改憲、護憲などの対立が生まれています。

自分の側から世界を見て正しさを追い求める。それは影からの視点であり、常に偏り分断や対立に繋がっていきます。無明。自らが影の中にいることを理解していないのです。

今、必要なのは、世界の側から自分を見ることです。その視点が霊的な光となり自我の枠を溶かし目覚めへと繋がっていきます。自分自身を世界の中に位置づけその役割に気づくことが出来るのです。

世界の側から自分を見る。するとこんな世界が見えてきます。

☆彡 ☆彡 ☆彡

宇宙と自分は一つ。その中で過去から続く因縁によって今この場にいて、そして今の自分の言動が新たな縁を生み出していきます。それは円運動によって究極的には宇宙の中心と繋がっていきます。日々出会う出来事は、視点を高くすれば、無限なる宇宙の円運動のひとコマとして出会っているものであり、それは自らの生の結果でもあります。

何かに出会った時、自分の中にはいろいろな反応が芽生えますが、それは今までの生の結果であり多様な因縁があるからこそ、多様な反応をしているということです。その中で何を選ぶかで解消される因縁もあれば強まる因縁もあります。そして、それは無限に連なる宇宙の中心へと繋がっているのです。

 ~ 中略 ~

自分の今までの生、因縁によって芽生える様々な感情。その中で自分が選んだ感情が波動となって宇宙の中心へと繋がり、この世界の一翼を担っていく。それは本当に些細なものであっても自分一人分、この世界に対する責任です。


☆彡 ☆彡 ☆彡

目覚めの波動を宇宙の中心へと伝えていく。そんな人たちが増えていくとこの世界の暗雲が晴れていき、道理の道を歩む人が増えていきます。今年がそんな年になるよう自分一人分責任を果たしていこうと思っています。

世界の側から自分を見る。その世界とは本来の自分のことです。なぜなら、宇宙と自分は一つだからです。自我が生み出す影は、光を認識するためのものであり、それは本来、光の一部であり光の中の役割なのです。

光と影が交錯し、そのことで光が増し影が生かされていく世界。

それが目覚めたものが生み出す世界であり、喜びと希望に満ちた世界です。そんな世界を木の花ファミリーのみんなと表現していこうと思っています。最後に元日のファミリーの様子を紹介して終わりにしようと思います。今年もどうぞよろしくお願い致します。

みんなで初日の出を見ました。

集合写真です。

昼食の様子です。

昼食です。

夕食の様子です。

夕食です。

夜は子どもたち企画のゲームをして遊びました。すもうをしています。
卓球をする人たちもいます。


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