神様はあらゆるところに住んでいる

昔、ただ答えがなくとも、そこに語りかけよ。そことは斜め45度の方角に向かって、斜め45度とは丸の中ではの方角だよ。つまり斜め45度に向かって語り掛けよと、それに対してどんなに無言であったとしても、必ず斜め45度のその先ではその意思を受け取っておる。だからそれを積み重ねよ。そしてそれを積み重ねた結果、必ず現象となってその答えが現れるであろうと。

今そのころの思いを言葉にしてみたんだけれど、それをやり続けてきてこの歩みがあったんだよ。それをやり続けることによって、まだ見えぬ現象、そして問いかけに対する答えを後からいつももらって、その答えをもらうことによって、信じる心が育ち、そしてここまで歩んできた。つまり、先に得てから信じるんじゃないんだよ。得る前に信じて歩まなければいけないんだよ。それじゃないと歩めない。

次にみんなで見る映画『沈黙-サイレンス』は、そのことの真実を宣教師たちの苦悩の中で、問いかけている。神がどこに住んでおるか、ということなんだよ。


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上記はある日の深夜3時半にいさどんがみかちゃんに語った言葉です。1月7日の夜、この会話に出て来る映画『沈黙-サイレンス』をみんなで観ました。この映画は遠藤周作の小説『沈黙』の映画化で江戸時代初期、キリスト教弾圧の渦中に置かれたポルトガル人の司祭ロドリゴを主人公にしたものですが、映画の後、いさどんは以下のように語りました。

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今は、多様性が大切な時代となっています。映画の中でロドリゴは、弾圧される中で神の沈黙を訴えていますが、それは自分の側に神を引き寄せようとしているからです。だけれども、相手の側にも神はいます。ロドリゴにはそのことが見えていません。あの映画の中の弾圧は酷い行いですが、そこに登場する人たちは、あの時代を反映し、それぞれの立場から行動していたのであって、そこには良いも悪いもなく悪者はいません。当時、キリスト教は世界中に布教活動をしていましたが、その中では現地の信仰への弾圧もありました。そういうことも見ていく必要があります。そして、宗教は、貧しく苦しんでいる人々に広がっていきました。そのため宗教は救いを求めるもの、ご利益の対象となっていきました。ですが、本当の信仰とは神と共に創っていくものです。そしてその基盤には精神的豊かさが必要となり、それがこれからの社会に求められるものです。今、僕らはみんなでそんな世界を表現していますが、そのことの大切さをあらためて実感しています。

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いさどんの言う通り神は沈黙していたわけではなく、神の答えは常に目の前の出来事に顕れています。当時、世界中にキリスト教の布教が行われていましたが、それは植民地政策とセットとなっていました。例えば、ネット上でこんな言葉を見つけました。

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だいたい、日本でキリシタンや宣教師たちが弾圧されたのは、そもそも戦国時代の宣教師が日本人の子供の人身売買にめっちゃ関与していてインドや東南アジアに売り飛ばしまくっていてたり、「寺社仏閣を破壊したら救われる」とか吹聴してキリシタンたちが実行しまくって、それで秀吉も困っちゃってイエズス会と交渉したけど聞き入れなかったからだからね。異教徒のことを敵視したり、人間扱いしていなかったのは元々おめえらのほうだからっていう話なんですよ。それの延長に徳川幕府の取り締まりがあるわけで(詳しくは神田千里『戦国と宗教』岩波新書を参照)。



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この言葉がどこまで本当かは分かりませんが、キリスト教の布教が完全に純粋なものではなかったのは確かです。弾圧はそんな彼らの布教に対する神の回答とも言えます。自分の側に立たなければ、神のメッセージははっきりと見ることが出来るはずなのです。

映画でははっきりと表現されていたかどうかは覚えていないのですが、小説ではロドリゴによる踏み絵には以下のようなイエスの言葉が伴っていたようです。

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神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラが語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾なぞではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。

夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。そのとき、踏絵のなかのイエス「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」と語りかける。

こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねる。イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?

踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。


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このイエスの言葉は、すべての罪を背負ったイエスに繋がり、形に囚われない本当の愛に繋がるものではありますが、ロドリゴはまだ自分の側から世界を見ています。あくまで神は自分たちの側にいて、自分たちは正義であり奉行所は悪なのです。イエスが背負ったのはすべての人の罪であり、それは善悪を超越しているはずです。ならばこの言葉の奥にはもっと深いメッセージがあり、そこには奉行所も含めたすべての存在に対する愛があり、それはあらゆる立場を超えたものなのです。

ロドリゴは先にイエスという答えを得て、信仰の道を進みました。それが今までの信仰であり、未来を想定しているためなかなか自分の視点を超えることが出来ません。神の声も自分の望む声となり自分の視点を反映したものとなります。何かを得る前に分からない未来に向かって信じて進んでいく。そして結果から学び信じる心を深めていく。そういう姿勢が自分の視点を超えることに繋がり、結果みんなが分かり合える世界へと繋がります。多種多様な立場が存在し宗教や民族を巡る争いが絶えない今、必要なのは自分の視点を超える信仰であり、それは救いを求めるものではなく、共に創り上げていくものなのです。

神とはこの宇宙の法則であり客観性。そして客観性こそが愛であり慈悲。

僕らは常々このようなことを語り合っていますが、法則性である神様はあらゆるところに住んでいて、誰の側にも立たず、みんなに客観性という愛を注いています。だから目の前の出来事は常に神様からの答えなのです。いつもその答えを受けて、分からない未来に進んでみんなで分かり合える世界を創っていこうと思っています。

木の花ファミリーのみんなです。

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