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僕はひっくり返った。

昨日は立春でした。立春について杉山開知くんは以下のように書いています。

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春のはじまりであると同時に、春夏秋冬の「四季 Season」のはじまりでもあります。もともと節分は立春・立夏・立秋・立冬のそれぞれ前日で、四季の分かれ目を意味する日でした。なかでも立春の前日は春夏秋冬の終わりとなる特別な日であるため、1年の最後に邪気を払い、願掛けをする行事が盛大に行われ、年4回の節分は薄れて、次第に立春前日を節分とするようになったようです。

立春前後のこの時期は、旧暦を使っていた明治以前は、特に新年という感覚が強く、数え年でみながいっせいに誕生日を迎えて祝っていたため、節分が年の節目として大きな意味を持っていました。


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節分で邪気を払い、立春正月を迎えました。節分で払った邪気については「鬼は内、すると心がきれいになって福が来る(2017)」に書きました。一言で言えば、それは「立脚点のひっくり返し」です。

世界を自分の狭い想いに閉じ込めるのではなく、自分を世界に対して開いていく。
自分の想いから世界を体験するのではなく、世界の法則から自分を体験していく。

立脚点を僕から世界へと転換させる。僕はひっくり返りました。

ところで2月19日(日)から3月18日(土)に掛けて木の花ファミリーでは1ヶ月間の真学校が開催されます。今年で3年目を迎えるこの講座の特徴は、これからひっくり返るこの世界を読み解き受講生が自ら変化していくところにあります。昨年の1月、いさどんは真学校について以下のように語っています。



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みんな自分が世直しを託されているとは思っていません。
だけれども、みんな間違えなくこの宇宙の法則の中で生きていて、
人類の70億分の1、この世界を託されているのです。

人は育っていく過程で欲求し、欲求を満たしながら成長していきます。
健全な秩序の中で欲求を満たしていく人もいれば、
秩序なく際限なく欲求を満たし求め続ける人もいます。
そういう経験の中で自分という人間性が出来てきます。

その中で、それぞれが自分の成り立ちを振り返って見ると、
それが宇宙の歴史や地球の成り立ちと一緒だということが見えてきます。
この世界は全部相似形なのです。

小さなところの集合が大きなところを創りだし、
大きなところの法則が小さなところに指針を与えています。

13,000年前のカタカムナの時代。
厳しい自然の中、人類は天然の法則を感知してすり抜けてきました。
ですが、その感覚は時代と共に失われてきました。
その叡智が天とつながることで現代に蘇るのです。

カタカムナの生き方を現代に表現していく。
それは、科学が発展したところに天然の精神を加えることです。
これはまさに新しい時代の生き方で、
木の花ファミリーはそれを表現していくのです。

2012年12月21日。太陽系は銀河の冬至を迎えました。
これからは少しずつ明るくなっていきます。
宇宙的には明るくなる現象が起きて、人間を後押しするのです。

健康に生きることは素晴らしいことです。
ですが、ただ健康になりたいだけで終わってしまったら人生は深まりません。
生きている過程でいただく病気や滞り。
その奥にあるメッセージを理解していくことが大切です。
そこを理解した時に現代人も天然の意識で生きていくことが出来ます。

この世界は心と肉体(物質)で出来ています。
まずは心、魂を磨くことが大切です。物質のことは考えなくてもいいのです。
今の世の中はまだ物質的豊かさを求めていますが、そういう世の中はひっくり返ります。

そのようなターニングポイントを今、迎えているのです。

人間の欲が戦争を生み出し、第二次世界大戦で大きな犠牲を出しました。
これは世の中の欲の心が壊れて一度リセットされた状態です。
ですが、戦後の復興は、もう一度、欲の心でなされました
そして、現代の混乱に至っています。

自分の健全、健康を求める心の奥にメッセージがあり、
それを通して自分がどう生きるべきかが見えてきます。
大切なのは、自分が健康に生きることだけではないのです。
自分のことばかり考えることで人間は不健康になっていったのです。
そのからくりを見通すこと。その先に世の中作りがあるのです。

世の中を良くするとみんなが良くなっていくのです。
自分が・・・と考えると住みにくい世の中になっていきます。
自分が・・・という心を超えていく。
それが天と共に生きることです。

真学校ではそういうことを伝えていきます。

真学校の受講生はこの場で変化していきます。
その変化に触れることでこの場も変化していくのです。

ここで健全な場を創り出すことが時代の流れをあらわすことになります。
世界のことを思い、自分を超えていく。
そのことが宇宙の中に光をさすことになるのです。

それを本当に信じて取り組むことです。

時代も神も目には見えません。人間の理解を超えています。
ですが、この世界にはそういう秩序が確実にあるのです。
そこに一人一人の人間が理解を示すことが大切です。

宗教はご利益を求める人により発展しましたが、
本来はそういうものではありません。

信仰とは宇宙の法則性の理解です。

法則性を理解し、自分が・・・という心を超えていく。

そのような本当の信仰心の下、天と共に生きていくのです。
それが世直しであり、この世界に平和をもたらします。


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この文章の中に自分の健全、健康を求める心の奥にメッセージがあり、それを通して自分がどう生きるべきかが見えてきます。という言葉がありますが、1年前の僕はこの言葉を「自分が何かを求める時、そこには意味があり、求めることを通してその意味を読み解くことが大切でそこから自分の生き方が見えてくると捉えていました。

ですが、今は違う捉え方をしています。


自分が何を求めようと関係なく求める心を離れることが大切で、その奥には個人的な感情を超えた大いなるメッセージが存在する。その大いなるものに自分を委ねる時、ここにいながら広い宇宙そのものを生きることが出来る。それは常に変化し続ける果てしない物語。


これが今の僕の捉え方です。


1年前の僕には望みを追求したい心がありました。結果は委ねると言いながら、望みを追求していました。その態度は世界を望みの中に閉じ込めることになります。望みは世界を歪め出来事に一喜一憂する心を強めていきます。僕はひっくり返っていなかったのです。


それが分かっているから今は望みを追求しません。どんな望みが生まれようと気にしないようにしています。それは叶うこともあれば、叶わないこともある。どちらにしてもそのうち変化していきます。宇宙の本質は変化にあるのだから。


法則性を理解し、自分が・・・という心を超えていく。

その時展開される世界は自分の想像を超えていきます。想像を超えた流れを通して自分を見て、自分を知っていく。その時、広い世界の中に自分をしっかりと位置付けることが出来るのです。

1ヶ月間の真学校では受講生をそんな姿勢へと誘います。興味がある方は、こちらのページをご覧ください。新しい出会いを楽しみにしています(^-^)


木の花ファミリーのみんな@立春正月祭




みんながみんなの真ん中で溶けていく

僕の机の前には電話が置いてあります。僕は学校事務職員時代から電話が鳴るとぱっと反応する習慣があり、お金を数えている途中でも電話に出てしまうことがあります。そういう時は、電話を取り次いだ後、お金を一から数え直すことになります。

それだけならまだいいのですが、時には人を探しにいくように頼まれる時があります。そういう時は、一度お金を片づけてから探しに行くので、仕事に大きなロスが発生することになります。

僕の仕事のロスはみんなのロスです。なので、状況に応じて電話に出るまでに少し時間をおくように心掛けています。時間をおくと、他の人が電話を取ります。その時、その電話が僕宛だったりしたら、「はずした!」と思うわけです。相手の人を無駄に待たせて、他の人が電話を取り次ぐ手間も発生しているので。こういう時、天と呼吸があっていない自分を知ります。

電話のベルは常に天からのお試しです。それをどう判断しどう応じるか?これは天との呼吸合わせ。天は身近なところから僕と遊んでくれています。それに気付けば、なんでもない日常に鮮やかな彩りを見出すことが出来るのです。

この世界のものはすべて同じ法則の下、天から生み出されています。その中で特別に与えられた自分という意識。それは恩寵でもあり牢獄でもあります。自分に囚われていたら、広い世界を自分の中に閉じ込めてしまいますが、自分を超えたら、この世界のすべてを天からのメッセージとして認識することが出来るのです。するとすべての瞬間が祝福へと変化します。

ところで、1月28日は水瓶座の新月、旧暦の正月であり、すべての惑星が順行していました(詳しくは天下泰平ブログ「すべての惑星が応援してくれる水瓶座新月と2017年の本番」を参照して下さい)。天体の節目の日である1月28日、木の花ファミリーでは富士浅間木の花祭りが開催されました。新しい宣言をするに相応しい日に行われた地球のお祭り。そこにはとっても大きな意味があると思っています。
※富士浅間木の花祭りは立春前の土曜日に行われます。新月に行われたのはたまたまです。

木の花祭りは今年で5年目になりますが、昨年の木の花祭り後、僕は以下のような文章を書いていました。


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鬼の心を育む」に書いているように、木の花祭りで僕は鬼の役割をいただいています。
鬼はこの世界の道理を伝える存在であり、木の花祭りでは主役となっています。
鬼が怒っているのは、相手の心が汚れているからであり、鬼はそれを教えてくれているのです。
日々の生活の中で湧き上がる自分優先の心や気持ち、余計な感情。
自らが鬼になることによりそれらと向き合い当日を迎えました。

鬼の舞ではアップテンポで舞い踊るシーンがあるのですが、
頭を空っぽにして身体の力を抜いて、太鼓や笛の音、
みんなの掛け声に身を委ねると楽に動くことが出来ます。
それがただただ心地よいのです。

ずっと動き続けることが出来る。

そんなふうに思えました。

ところで、僕は昨日、ある人から以下のメッセージをいただきました。


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この世界に降りてくる前に、神さまはあなたに3つの名前を用意していました。
3つの中で真ん中にあったものが「善文」であなたはそれを選んできたのです。
それは正解でした。

善悪の善。善が先に来ます。だけれども少し間違えると悪にもなります。
そのことを心に留めておくことです。

そして、あなたは「中野」の性を選んで両親のところに来ました。
真ん中の「中」。そして野原の「野」。山ではなく広く広がる野原なのです。

みんなの中の「なかのん」

みんなの真ん中でしっかりと固めていくのです。

中(なか)を守るのです。

でも目立つ必要はないのです。
目立つのではなく深く深く沈みこんでいく。
奥で自分を広げて固めていくのです。


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僕はずっとどちらかというと端っこにいることを好んで来ました。
あんまり自分が真ん中にいるという意識を持ったことはありません。
その意識を転換させる時が来ているのだなと感じています。

真善美を兼ね備えた人間になっていく。
その誓いとして真ん中の字をとって「善(よし)」と付け、
そして卯年の守り本尊である文殊菩薩から字をいただき「文(ふみ)」と付ける。
※僕は卯年生まれです。

これは僕が勝手に創っていた名前の由来ですが、
「善」は真善美の真ん中の字となっているのです。

僕はみんなの真ん中を生きる。

でもそれは目立つことでも際立つことでもなく、みんなの中に溶けていくことなのだと思います。
目立とうとすると、きっとすぐに偽悪醜の方へと転げ落ちていくことでしょう。

鬼の舞にて、太鼓や笛、みんなの掛け声と溶け合っていったように、
日々、みんなの心の中で溶け合っていくことが大切なのだと思います。

溶けていく。その中で天と繋がり柱も立てていく。

これからそんなふうに変化していきます。




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木の花祭りは、日常が凝縮して現れる場。みんなの真ん中で溶けていく場です。今年もそんなふうに祭りを楽しみました。

みんなの真ん中で生きる。それは僕だけではなく誰にとっても当て嵌まることなのだと思います。みんな天から生み出された存在であり、天そのものです。すべてが天。ならば、すべての存在はいつも世界の真ん中にあるのです。自我で生きると真ん中で際立ちます。そしていつの間にかそれが端っこになっていく。自我を超えて自らを溶かしていけば、みんながみんなの真ん中になっていくのです。

木の花祭りでもそれぞれの人がそれぞれの役割を担い、全体の中に溶けていきました。みんなが主役となって、そして全体の中に溶けていって大きなうねりとなっていきました。

でもそれは祭りだけでなく日常のすべての場面がそうなのです。電話のベルのように天は常に僕たちと遊んで下さっています。天はこの世界に遍満すると同時にこの世界の中心でもあります。つまり僕らは常に世界の真ん中と共にあるということです。

鬼の心を育むのも同様です。鬼の心とは道理に従い道理を伝えていくこと。祭りに合わせて鬼の心を育むのではなく、毎日の生活の中で、天との遊びの中で、常に鬼の心を育み続けていけるのです。

木の花祭りは過去から未来へと続く物語の中での一つのアクセント。それは毎年開催され日常の中に溶け込んでいきます。みんながみんなの真ん中で溶けて一つのうねりを生み出していく。それは分断が進むこの世界を一つに溶かしていく希望の光となっていくことでしょう。それがささやかなものであったとしても。僕らは喜びと誇りを広げていきます(^-^)


木の花祭りクライマックスの湯ばやしの様子です。

心の空間を生み出していく

1月28日(土)開催の富士浅間木の花祭りに向けてリハーサルが始まり、全体のムードがお祭りに染まってきました。木の花祭りは新たな時代の幕開けを祝って、うれしうれし、たのしたのしと丸1日舞い踊る地球のお祭りです。その祭りでの舞について、いさどんは以下のように語っています。

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舞というのは流れるように舞うものです。木の花祭りは、愛知県奥三河地方東栄町の花祭りに由来していますが、地元には言い伝えがあり、積み重ねてきたものがあります。それは、言葉を超えたものなので、もし、教えてもらった通りに舞ったとしても、本場の舞を実現することは出来ないのです。舞の奥には、その舞や所作が生まれた意味が隠されていて、それが個性となっています。追究していく姿勢が大切なのです。追究していく姿勢から「溜め」が生まれます。それは1%の違いですが、大きな違いをもたらすのです。




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「溜め」は舞に深みを与えますが、それは舞だけではなく日常のあらゆる出来事に当て嵌まります。いさどんは大人ミーティングでこんな発言もしています。

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この場で、ホリスティックにまとめていく視点を提供出来る人が現れないか様子を見ていていましたが、出ませんでしたね。その原因を考えたのですが、6割~7割の人たちはこの話を聴いていませんでした。自分の発言する場ではないと決めて、もちきびの選別などの作業に集中していました。これだけの人数がいるので全員が発言するわけにはいきませんが、それでも、話題をみんなにとって大切な話として聴いていることが大切です。もしみんながこの話題を大切にしていたら、この場は自然と締まったはずなのです。発言をしない人も場を創っています。一人一人が見えないところでどういう姿勢をもっているか?それが「溜め」を生み出し、場を創っているのです。


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「溜め」を生み出すためには、「間(ま)」が必要になります。時間や空間があるからこそ、そこに「溜め」を生み出すことが出来るのです。それは思考にも当て嵌まることで、最近の僕のテーマである立体的思考を持つことの大切さに繋がっていきます。平面的思考と立体的思考について、いさどんは以下のように語っています。

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3次元世界に暮らしながらも人間は物事を2元的に観ている。それは、出会うこととそれに対する自分の反応で物事を見ているから。それで平面的になっていく。だけれども、その奥にはこの世界を動かしている意志がある。出会うこととそれに対する自分の反応、そしてその奥にある意志。それらすべてを意識した時、この世界を立体的に観ることが出来る。

出会うことに反応することで人は一喜一憂する。それが人間で一喜一憂しなければ生きている意味がない。一喜一憂しながらも、出来事の奥にある意志を感じて、一喜一憂している自分を離れて観る。そして流れをいただいていく。それが生きていることの醍醐味で、人生に翻弄されずに楽しむことが出来るようになる。


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物質生命は3次元世界の中で生み出されています。平面上には存在しません。出会う出来事とそれに対する自分の反応。それだけでの物事を見ていくのは2点思考であり、思考が平面となり薄っぺらとなっていきます。そして、それは3次元に存在する生命から生命力を奪っていくのではないかと思いました。

出会う出来事に翻弄され右往左往している人々は、自分の人生のコントロールを失っている状態です。そこに生命の豊かさを感じることは出来ません。例えば、トランプ大統領が誕生してダウ平均株価が2万ドルを超えたというニュースを観ましたが、これは人々の関心が自らの利益を増やすことにあるためです。自らの利益という視点で世界を眺め、それに反応しているのです。お金の増減に関心を向けている人々。そこには人生の深みはなく、生命力は感じられません。

平面的思考は世界を薄っぺらにし、世界から生命力を奪っていきます。それは平和などポジティブなことを願っている時でも同様です。平和とそれを願っている自分。その2点だけで物事を見ていたら、世界は薄っぺらとなり、真の平和が実現することはないでしょう。

生きていると何かに魅了される時があります。その時そのものだけを求めていたら、世界は薄っぺらとなり生命力がなくなっていきます。その奥にある自分の人間性、そして天の意志を感じた時、その魅力が生かされていくのです。ここでまたいさどんの言葉を引用しますね。

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地球温暖化や経済格差、紛争、難民、国々や民族の対立・・・・
現代社会は混沌としています。
混沌の中、その解決策を求める気持ちになるかもしれませんが、
そこには人生の深みがありません。

問題が生じている時、問題のないところにいって、みんなで幸せになろうとする。
それは良いことに聴こえるかもしれませんが、とても薄っぺらな話しです。
みんなで幸せになろうとする時、
幸せになるべき人間性があって初めて幸せになるのではないでしょうか?
人間性が高まらない状態で幸せを求めることが社会に何をもたらすのか?
そのことに想いを巡らせてみて下さい。

問題がある時、ただ解決策だけを求める。
それは新しい発想だけ貰って楽になろうとしている姿勢です。
その姿勢が人々を現実から引き離し停滞を生み出しているのではないでしょうか?
そこからは結局新しい発想も生まれないのです。

新しい発想は自分を放棄した時初めて生まれるものです。

この世界には法則性があります。
常にそれと対話していくこと。
それが天と共に生きるということです。

問題ごとに出会った時、ただそれを改善しようとしていく。
それは人間の知恵の中で良い生活を送ろうという心に繋がり、
その結果、天は離れていき、停滞が生まれます。

美しい蓮池を生み出しているのは水中で混沌としている泥の存在です。
表面に浮かぶ現象を生み出している奥の世界。
それを知り生かすことで人生は深まり花開いていくのです。

木の花ファミリーの暮らしは未来に対して一つの回答を示しています。
ですが、それを解決策として知識として取り入れても意味はないのです。

人は常日頃当たり前のように思考を組み立てています。
その思考は自分の枠内にあります。
知識として取り入れたものはその枠を超えることはありません。
ですが、自分の思考の背後にはこの時代の意志や物語があり、
自分がここにいる意味があるのです。

心を開くことにより、そういうものを織り交ぜて生きていく状態に変わっていく。

それは人間として生きる姿勢の変化であり、真学校の目指すところなのです。

生きるということは本来、変化すること、未知なるところの向うことです。
星々は常に新しいところを運行し、自然は変化し続けます。
天は分からない未来を生きているのです。

時代は未知なる世界へ向けた変化を人間に促します。

時代に応えるために。

何かを貰って新しい自分になるのではなく、
環境と響き合い変化していける人間になっていくのです。



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出会う出来事と自分の反応、その奥には自分の人間性があり、そして天の意志があります。人はみんなそれぞれに相応しい出来事に出会い、それに反応していきます。その時、その刺激と反応だけに心を奪われていたら、その状態から抜け出すことはありません。その奥にある自らの人間性を知り、そこにメスを入れることで人は変化していきます。

出会う出来事と自分の反応、そこから離れた視点を育むことで心の空間が出来上がります。その空間に時(とき)、時代が流れ込みます。時代は天の法則を司り、人に生命力を与え、豊かな人間性を育みます。結果、自ずと人は平和で幸せになっていきます。

僕は少しずつそんな歩みを始めています。
それはとても楽しい取り組みです(^-^)

富士浅間木の花祭りもみんなで舞い踊ることでそんな空間を生み出していきます。是非、遊びに来て下さいね。




『サピエンス全史』から時代主義へ

一昨日放映されたクローズアップ現代「幸福を探して 人類250万年の旅」を観て、『サピエンス全史』の存在とその著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の存在を知りました。そして、いくつかの書評と著者インタビューを読んでみました。それがとても面白くいろいろな考えが浮かんできました。

僕の理解だとハラリ氏の考えを要約すると以下のようになります。

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現生人類ホモ・サピエンスが他の競合種を圧倒し、現在の繁栄に至った理由は、「虚構(フィクション)を信じる力」にあります。約7万年前の認知革命により、ホモ・サピエンスは「虚構」を使う力を得ました。「気を付けろ!ライオンだ」と言える人類種は多くいましたが、ホモ・サピエンスはこの時「ライオンはわが部族の守護霊だ」という能力を獲得したのです。このように、虚構、架空の事実を物語ることにより、多くの人の共感を得て協力し合うことが可能となりました。人々は共通の目的を持ち大きな組織を創っていきます。

宗教、国家、法律、企業、貨幣など。


これらもすべて人間が生み出した虚構なのですが、これらを信じることで複雑で高度な社会を営むことが出来るようになりました。共通の物語を持つことで人類は統合の道を辿りました。現在社会ではマスコミやインターネットにより世界の情報は瞬時に共有されます。そして、その情報により世界は動いていきます。


この動きの中で人類全体の富、そして力は飛躍的に増大していきます。ですが、一人ひとりの人間に目を向けた時、富を握るのは一握りの存在であり、多く人の暮らしは貧しくなっています。文明の発展は一人ひとりの人間の幸福には繋がっていないのです。


そして、それは個人の持つ知識や能力に関しても同じです。自然の中で自分の力で生きることが求められた狩猟採集時代の人々は現代人よりも多くの知識や能力を持っていました。彼らは、与えられた環境に自分たちを適応させて暮らしていました。それは自分たちの都合のよい世界を創ってきた現代人とは対照的で、これからの時代、人々は狩猟採集民の姿勢を取り入れる必要があります。なぜなら、現代の資本主義は行き詰まりを迎えており、これから大きな変化が起きようとしているからです。その変化に適応していくことが求められます。


ホモ・サピエンスは石器時代から多くの生物を絶滅に追いやっています。その中には、ネアンデルタール人やデニソワ人といった人の仲間も含まれます。社会の近代化や工業化が進む以前から生態系を破壊してきているのです。


このような事実は広い視点から歴史を学ぶことによって見えてきます。歴史を学ぶことにより現在信じられている価値観が虚構であり、それが生み出された過程を知ることが出来ます。そうすることで、虚構を超えたところにある真実に辿りつけるのです。


現代社会を覆っている一番大きな虚構(宗教)は「リベラリズム」です。それは何か重大な問題に直面してとき、個人が自分の内面の声に耳を傾けて判断を下すべきという考え方です。個人が重視されるため政治の問題も選挙で決めていきます。


それに対して今、シリコンバレーではあらたな宗教が生まれています。それは内面の声よりデータの判断に身を委ねる方がよいという考えです。例えば、アンジョリーナ・ジョリーが両乳房を切除したのは、遺伝情報で乳がんの発病する確率が87%であり、親族に乳がんを患った人が多いからです。


人々は中世の頃、聖典に答えを求めていました。そして、近代になると内面の自由な声に従いました。未来は膨大な情報を有するデータベースから引き出された「解答」に従う人が大半になるかもしれません。


それだけではありません。科学技術の進歩は、感情や欲望を含めて、ホモ・サピエンスそのものを変える可能性もあるのです。それがどのような変化になるかは分かりません。その鍵を握るのは、私たち人間が欲望をコントロールできるかどうかです。


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歴史を観て、現在を覆っている価値観の背後にあるものを探っていく。その姿勢はとても刺激的で面白いものです。そして多くの示唆を与えてくれます。そのためこの本は多くの人の支持を得ているのでしょう。

ところで昨年末、木の花ファミリー通信特別号が発行されました。題して「時代主義が始まった」です。ここでもハラリ氏と同じ試みをしています。広い視点で歴史を辿ることにより、現代の価値観の背後に流れているものを明らかにしているのです。ファミリー通信ではビッグバンから辿っています。そして、「時代が生命そのもの」であることを明らかにしていきます。その文章は以下のように締めくくられています。

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今こそ、私たちは自らを自我の枠から解き放ち、この無限なる宇宙の中で自由自在に生きる時が来たのです。私たちの中から願望や野心が消えた時、宇宙の真理が湧き出し始めます。そして、人類が誕生した目的にのっとった最もふさわしいポジションに立つことができるのです。その真理に目覚めた時、私たちは時代を読み、流れを感じ、今を生きる「時代人」となります。それは時代主義の始まりです。

それが、21世紀初頭にあたり、時代が私たち人類に伝えているメッセージです。

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ハラリ氏とファミリー通信。同じように歴史を辿りながら、描く未来のヴィジョンには大きな違いがあります。それはハラリ氏が個人の幸せに囚われているからだと思います。

確かにハラリ氏が言うように、現代は富の総量は増えたけれども、個々人は幸福にはなっていないのだと思います。ですが、個々人は幸福を求めていました。個々人が幸福を求め欲望を追求した結果、資本主義が生まれ、経済成長へと繋がっていったのです。その原動力は個々人の欲望であり、自分「が」幸せになることを願う自我の心が人を苦しめているのです。だからこそ、自らを自我の枠から解き放つ必要があります。ですが、ハラリ氏にはそのような視点はありません。人々を苦しめている自我の延長上に未来を描いています。それは「解答」や「結果」を求める姿勢に現れています。

本来、この世界には固定した「解答」などありません。すべてはプロセスの中で変化していきます。自我の枠から自らを解き放った時、そのプロセスそのものを味わい楽しむことが出来るようになります。その姿勢が人々に真の自由をもたらし未来を切り開いていくのです。

そして、ハラリ氏は物質にも囚われています。

ハラリ氏はライオンを事実とし、守護霊を虚構としています。ですが、なぜ物質的存在が事実であり、精神的存在が虚構となるのでしょうか?そこには一つの前提があり、そこに対する検証がされていません。認知革命は文字通り認知の革命なのだとしたら、今まで知りえなかったことを知るようになったとも言えます。宇宙のチリの中から物質が生まれ、物質から精神が生まれました。それは神の自己開示であり、それにより認識を深めていくプロセスとも言えるのです。事実、ハラリ氏も言うように世界は統合に向っています。統合とはつまり全体を貫く視点を得るということです。精神に目が開かれることにより、この世界の実相、すべてが一つである事実が見えるようになったのです。それらは変幻自在に変化しますが、物質も時間と共に変化していきます。精神的存在が虚構であるならば、物質的存在も虚構です。すべては時代が生み出したものなのです。

精神と物質、すべてを含めた虚構の奥を見通した時、天の意志が見えてきます。それは個人の幸福を超えたものでありながら、個人が幸福になるためにはそれに沿う必要があるのです。大きなパラドックス(矛盾、逆説)ですが、歴史はそのことを教えてくれています。

僕らの未来は予測不能です。それは現代が混乱の極みにあるからではなく、それが生命の本質なのです。なぜなら、僕らは自らの意思で生きているのではなく世界に生かされているからです。自分のコントロールを超えています。出会うことをいただいていく。そして、それを踏まえて真剣に考えていく。その姿勢が人を成長させるのです。それが時代人の生き方であり、今、時代主義が始まっているのです(^-^)




※このブログは以下の記事を参考に書きました。

ユヴァル・ハラリが語る「シリコンバレーで生まれる21世紀の宗教」

人類の繁栄とは”虚構”の上にあるのです

「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ氏 「虚構の力」を超えるために

貨幣や宗教は虚構「サピエンス全史」ユダヤ人著者が語ったこと

虚構が起こした革命ー『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』



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