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みんながみんなの真ん中で溶けていく

僕の机の前には電話が置いてあります。僕は学校事務職員時代から電話が鳴るとぱっと反応する習慣があり、お金を数えている途中でも電話に出てしまうことがあります。そういう時は、電話を取り次いだ後、お金を一から数え直すことになります。

それだけならまだいいのですが、時には人を探しにいくように頼まれる時があります。そういう時は、一度お金を片づけてから探しに行くので、仕事に大きなロスが発生することになります。

僕の仕事のロスはみんなのロスです。なので、状況に応じて電話に出るまでに少し時間をおくように心掛けています。時間をおくと、他の人が電話を取ります。その時、その電話が僕宛だったりしたら、「はずした!」と思うわけです。相手の人を無駄に待たせて、他の人が電話を取り次ぐ手間も発生しているので。こういう時、天と呼吸があっていない自分を知ります。

電話のベルは常に天からのお試しです。それをどう判断しどう応じるか?これは天との呼吸合わせ。天は身近なところから僕と遊んでくれています。それに気付けば、なんでもない日常に鮮やかな彩りを見出すことが出来るのです。

この世界のものはすべて同じ法則の下、天から生み出されています。その中で特別に与えられた自分という意識。それは恩寵でもあり牢獄でもあります。自分に囚われていたら、広い世界を自分の中に閉じ込めてしまいますが、自分を超えたら、この世界のすべてを天からのメッセージとして認識することが出来るのです。するとすべての瞬間が祝福へと変化します。

ところで、1月28日は水瓶座の新月、旧暦の正月であり、すべての惑星が順行していました(詳しくは天下泰平ブログ「すべての惑星が応援してくれる水瓶座新月と2017年の本番」を参照して下さい)。天体の節目の日である1月28日、木の花ファミリーでは富士浅間木の花祭りが開催されました。新しい宣言をするに相応しい日に行われた地球のお祭り。そこにはとっても大きな意味があると思っています。
※富士浅間木の花祭りは立春前の土曜日に行われます。新月に行われたのはたまたまです。

木の花祭りは今年で5年目になりますが、昨年の木の花祭り後、僕は以下のような文章を書いていました。


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鬼の心を育む」に書いているように、木の花祭りで僕は鬼の役割をいただいています。
鬼はこの世界の道理を伝える存在であり、木の花祭りでは主役となっています。
鬼が怒っているのは、相手の心が汚れているからであり、鬼はそれを教えてくれているのです。
日々の生活の中で湧き上がる自分優先の心や気持ち、余計な感情。
自らが鬼になることによりそれらと向き合い当日を迎えました。

鬼の舞ではアップテンポで舞い踊るシーンがあるのですが、
頭を空っぽにして身体の力を抜いて、太鼓や笛の音、
みんなの掛け声に身を委ねると楽に動くことが出来ます。
それがただただ心地よいのです。

ずっと動き続けることが出来る。

そんなふうに思えました。

ところで、僕は昨日、ある人から以下のメッセージをいただきました。


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この世界に降りてくる前に、神さまはあなたに3つの名前を用意していました。
3つの中で真ん中にあったものが「善文」であなたはそれを選んできたのです。
それは正解でした。

善悪の善。善が先に来ます。だけれども少し間違えると悪にもなります。
そのことを心に留めておくことです。

そして、あなたは「中野」の性を選んで両親のところに来ました。
真ん中の「中」。そして野原の「野」。山ではなく広く広がる野原なのです。

みんなの中の「なかのん」

みんなの真ん中でしっかりと固めていくのです。

中(なか)を守るのです。

でも目立つ必要はないのです。
目立つのではなく深く深く沈みこんでいく。
奥で自分を広げて固めていくのです。


- - -

僕はずっとどちらかというと端っこにいることを好んで来ました。
あんまり自分が真ん中にいるという意識を持ったことはありません。
その意識を転換させる時が来ているのだなと感じています。

真善美を兼ね備えた人間になっていく。
その誓いとして真ん中の字をとって「善(よし)」と付け、
そして卯年の守り本尊である文殊菩薩から字をいただき「文(ふみ)」と付ける。
※僕は卯年生まれです。

これは僕が勝手に創っていた名前の由来ですが、
「善」は真善美の真ん中の字となっているのです。

僕はみんなの真ん中を生きる。

でもそれは目立つことでも際立つことでもなく、みんなの中に溶けていくことなのだと思います。
目立とうとすると、きっとすぐに偽悪醜の方へと転げ落ちていくことでしょう。

鬼の舞にて、太鼓や笛、みんなの掛け声と溶け合っていったように、
日々、みんなの心の中で溶け合っていくことが大切なのだと思います。

溶けていく。その中で天と繋がり柱も立てていく。

これからそんなふうに変化していきます。




☆彡 ☆彡 ☆彡

木の花祭りは、日常が凝縮して現れる場。みんなの真ん中で溶けていく場です。今年もそんなふうに祭りを楽しみました。

みんなの真ん中で生きる。それは僕だけではなく誰にとっても当て嵌まることなのだと思います。みんな天から生み出された存在であり、天そのものです。すべてが天。ならば、すべての存在はいつも世界の真ん中にあるのです。自我で生きると真ん中で際立ちます。そしていつの間にかそれが端っこになっていく。自我を超えて自らを溶かしていけば、みんながみんなの真ん中になっていくのです。

木の花祭りでもそれぞれの人がそれぞれの役割を担い、全体の中に溶けていきました。みんなが主役となって、そして全体の中に溶けていって大きなうねりとなっていきました。

でもそれは祭りだけでなく日常のすべての場面がそうなのです。電話のベルのように天は常に僕たちと遊んで下さっています。天はこの世界に遍満すると同時にこの世界の中心でもあります。つまり僕らは常に世界の真ん中と共にあるということです。

鬼の心を育むのも同様です。鬼の心とは道理に従い道理を伝えていくこと。祭りに合わせて鬼の心を育むのではなく、毎日の生活の中で、天との遊びの中で、常に鬼の心を育み続けていけるのです。

木の花祭りは過去から未来へと続く物語の中での一つのアクセント。それは毎年開催され日常の中に溶け込んでいきます。みんながみんなの真ん中で溶けて一つのうねりを生み出していく。それは分断が進むこの世界を一つに溶かしていく希望の光となっていくことでしょう。それがささやかなものであったとしても。僕らは喜びと誇りを広げていきます(^-^)


木の花祭りクライマックスの湯ばやしの様子です。

未知を歩き宇宙を歩く

課題に出会うことは、その課題を超えて新たな可能性に出会うということであり、それは本来喜ばしいことだ。しかし、それまでに持っていた概念にとらわれていては、その課題は常に目の前にある障害物にしか見えない。

一年に四季があるように、人間が生きていく上で新たな発想が芽生え、伸びていく時がある。その成長が旺盛になり物事がどんどん様変わりしていく。そしてそれが熟して収穫をする秋を迎え、次の課題のための熟成の冬を迎える。そして、新たな課題に出会い、自らの新たな可能性の春に出会う。人間の生の一年の中にも四季のリズムがあり、それは一生の中にも同じように刻まれている。

大局的にとらえれば、どのような時も前向きに生を全うすることができるが、大局は人間の思考の中にあるのではなく、宇宙の星々の運行であり、その星々の関係性の法則の中にあって、それは人間の思考を超えた仕組みによってもたらされている。それを人間一人ひとりが命の営みの中で受け取り、思考に転換し、自らの生の中に表現していく仕組みになっている。

我々の命は自然そのものであり、さらに自然の奥にある宇宙秩序そのものであり、自然の奥にある自然を法則化している天の意志・「天然」そのものである。それを理解するためには大局的にものをとらえないと、この世界の事象の奥にある本当を観ることはできない。

だから、人間が考える思考と、生命として生態系につなぐ自然と、さらにその自然を保つための宇宙の法則・天然、その3つの視点があってこそ、人間が生を受けてきた目的や役割、そしてこの地に降り立った意志を満たすことができる。

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上記は3年前のいさどんブログからの引用です。昨日たまたまこの文章を目にしとても心に響きました。課題は常に人を新しい可能性へと導いてくれています。それを障害物と感じたとしたら、それは今までの自分の概念の囚われている証です。そんなふうに自分をチェックしていけます。

最近のブログで書いているように、人は出会う出来事に反応します。出来事と自分の反応。この2点に心を奪われていると思考が平面的となり薄っぺらになっていきますが、その奥には自然の営みがあり、天の流れがあるのです。

自分の思考を超えて、大局で捉えたら、現象を通して自分を知り、天の流れを自分に落とし込むことが出来ます。それは自分を超えた大きなスケールの下に生きていくということです。

トランプ大統領が誕生しました。このブログでは何度も触れているようにそれは時代の流れが生み出したものであり、天の法則、人間の思考を超えた仕組みが生み出したものです。ですが、この出来事を自分の思考の範囲で捉えていたら、この世界のダイナミックさ、豊かさを見逃してしまいます。

トランプ大統領の政策、そして、それが自分たちの生活に与える影響。

多くの報道がそんな視点からなされていますが、それでは広い世界を自分の中に閉じ込めてしまいます。扱っている内容は広い世界のことであっても語っている内容は自分ごとなのです。世界から観たらとっても狭い自分です。そこに囚われていたら出会う出来事に翻弄され続けてしまいます。

それとは反対に、天に心を開いていたら、日常が天の法則の顕れとなり、ただ道を歩くことが未知を歩くこととなり宇宙を歩くこととなるのです。

未来は常に未知なものです。だからただ出会うことをいただくだけなのです。それを通して自分と世界を知っていく。そして奥に流れる天の心を感じていきます。

そして過去を振り返り天の心を見出し物語を生み出します。

僕は現在という1点で生きていますが、自分を離れたら、過去から未来へと続く流れの中に位置づけることが出来ます。それは永遠へと至ります。

僕はみんなと一緒にそこへと至ります(^-^)

木の花ファミリーのみんな@どんと焼

そぎ落としにより岩戸成る

岩戸成る時代


2019年元日に新天皇即位という記事を新聞で読みました。新天皇が即位した時、元号は新たなものとなるので、平成は30年で終了することになりそうです。その話題に触れている以下のブログ記事はとても興味深いものです。

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現在の元号である平成は「内外、天地とも平和が達成される」という意味でつけられたとも言いますが、裏にある神の意図では、平成とは「イワト(平=一八十)成る時代」とも言われています。



確かに、昨年2016年夏至をもって「夜明けの晩」は明けて岩戸開きは完成したとも言われ、その翌月にタイミングを見計らったかのような突然の生前退位のリーク、8月には正式に天皇陛下のお言葉発せられましたが、平成とは長い長い1つの大きな仕掛けが完成する最後の元号であったのかもしれません。


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岩戸開きとは太陽の神様、天照大神(アマテラスオオミカミ)を巡る神話です。高天原にある天の岩戸にアマテラスがお隠れになり、この世は闇に覆われます。その岩戸が開かれ、この世に光が戻ること。それが岩戸開きです。平成=イワト成る時代とは、岩戸開きが成る時代であり、それをもってこの世界に再び光が取り戻される時代と言えます。

平成の始まりの頃を思い出すと、ちょうどバブル経済が終焉を迎えた時期です。その後、山一証券など大手金融機関の経営破たんがあり、最近では東芝の不正会計や巨額損失が話題となっています。平成になって戦後復興から経済成長に至る間に積み上げた歪みが噴き出しています。それは資本主義の行き詰まりを表しており、新しい価値観が必要とされているのです。

そんなことを大人ミーティングで話した時、いさどんから「30年は土星の周期とほぼ同じで、土星はそぎ落としを表す星」という言葉が出ました。平成はそぎ落とし。そぎ落とすことで新しい時代を迎えるのです。

安倍首相は経済最優先を掲げ、経済成長を成し遂げようとしていますが、それは時代と逆行した取り組みであり、上手くいかないことは明らかなのです。それにも関わらず、多くの人が安倍首相の経済優先を支持しています。それは過去の時代に執着し、現実から目を反らしているからでしょう。

経済活動は人の約束ごとの上に成り立ちますが、それは人々の心の反映です。人々がもっと多くを・・・と望んだ結果が資本主義の発展であり、物質的繁栄を生み出しました。ですが、それは同時に競争により対立や格差を生み出し、人々の心に不安や嫉妬、優越感や劣等感を増大させていきました。それでも人はまだもっと多くを・・・と望んでいます。

ですが、この世界には人の約束を超えた天の流れというものがあります。天の流れは新しい時代へと向かっています。過去に執着している人々は天の流れにそぎ落とされていくことでしょう。

だからこそ自らの意志でそぎ落としていくことが大切です。それは物質だけでなく心も同様です。心の中の余分なものをそぎ落とし、自分を空っぽにしていく。そして天の流れを感じて生きていく。その時、そぎ落としが岩戸開きとなり、自分に光がもたらされるのです。

自分のそぎ落とし


僕は昨年の10月、いさどんから以下の言葉を貰っています。

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「なかのんのブログに書いている事は仕上がってきてはいるが、
実際の心情についてはまだ仕上がっていない」という事でもある。
微妙な所だけど、ブログには「僕にはこの道しかない」となかのんは宣言している。
心情的には何かが残っているんだけど
「僕にはこの道しかないから、辛くても行きます」
というような事になると、目指すものと違う。
目指す所は、「人間を磨いていくと磨くことによって次の次元、
高い意識になって自ずと新しい現象に出会う、
自ずと過去に自分が思ってた事が叶うという事がある」という話だよ。
それは、目指していく事でもなければ、
それが尊い事だからといって我慢していくという事でもない。
それでは目指す所と違う世界になってしまう。



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そして同時に「なかのんは自分の担当以外のことを全然考えていない」という言葉も貰っています。これらの言葉は僕にとって大切な課題であり、成し遂げるためには自分をそぎ落としていく必要があるのです。だからただただそぎ落としていきます。そして、自分の岩戸を開き、僕は光となります。

火の鳥となる


ところで、今年の干支は丁酉(ひのととり)。丁(ひのと)とは火のことで今年は火の鳥の年です。火の鳥はフェニックス寿命を迎えると、自ら薪から燃え上がる炎に飛び込んで死ぬが、再び蘇えります。死と再生を繰り返す鳥。それは生命の本質そのものと言えます。時代の変わり目。僕は今、火の中で自らを灰とし、光となって再び蘇える。そして余分な心は常に燃やし続ける。それは天と共に生きる道なのです(^-^)


1月8日どんと焼きにて






新鮮な言葉で天の恵みを広げる

一昨日の大人ミーティングにて、ともちゃんがいさどんの商売についての考えを紹介してくれました。それを僕なりに纏めると以下のようになります。

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今の社会では、みんな収入を得るために必死に仕事をしています。お店ならば、お客を獲得するために一生懸命、商品開発や営業活動を行っています。お客の増減はお店にとっては死活問題なのです。ですが、木の花ファミリーの活動はそれとは違います。私たちは天の恵みである作物をいただき、それを基盤として生活を営んでいます。収益を得ることが死活問題とはなっていません。ですから、私たちの商売は一般とは違うものなのです。同じ基準で考えてはいけません。天の恵みによって暮らす私たちは心に余裕やゆとりがあります。そして、その余裕を心磨きに向けることが天との約束です。商売もその延長にあります。天の恵みの恩恵を世の中に広げていく。それが私たちにとっての商売で、心を伝えること、幸せを循環させることがその本質にあるのです。

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人間は他の存在に生かされることによってはじめて存在することが出来ます。生き物が生き物を生かし支えていく。それが大自然の姿であり、人間も自然の一部です。ということは、生きていること、すなわち天の恵みの表現なのです。

ですが、天は人間に自由意思を与えました。自由意思から自我が生まれ、自我は自分で生きているという錯覚を人間にもたらします。加えて、自我は自分を他者と分け、自分のことを特別視することで、優越感や劣等感、不足感や自惚れなど様々な感情をもたらします。それらの感情や錯覚が人を天の恵みから遠ざけていくのです。

これも人間に与えられた自由、その自由から競争が生まれ、競争から資本主義経済が発達し、その延長で人々は努力をし、様々なサービスを生み出しました。それはそれで世界を豊かにしますが、その豊かさは同時に貧富の格差や環境破壊など様々な問題を人間にもたらしました。

だから今、人間社会には別の努力が必要で、それは自分を手放す努力であり、天へと至る努力です。木の花ファミリーの心磨きはそのような努力であり、それは天の恵みを世界へと広げていくものです。それは自分たちで計画出来るものではなく、天の流れを読み、それに沿っていく取り組みなのです。

自分を超えて、この世界に心を開き、その恵みをいただいていく。そして、いただいた恵みをこの世界に循環させていく。そんなふうに生きていきます。

本当は、「闇からの卒業、そして時代人として」で今年のブログは最後にしようと思っていました。ですが、一昨日の大人ミーティングでそれを読んだ時、自分の中にしっくりくるものがありませんでした。それはなぜかと考えた時、引用の多さに原因があると思いました。

僕がブログで発信していることは、常に同じメッセージに基づいています。それを繰り返し繰り返し伝えています。そのメッセージを上手に表現している文章を引用しているのですが、それが多くなりすぎるとこのブログから魂が消えていくのだと思います。

同じメッセージなのになぜ繰り返し発信する必要があるのか?
一度発信したらそれで終わりでいいのではないか?

そんなふうに思う人もいるかもしれませんが、繰り返し発信することには大きな意味があるのです。

人は忘れやすい存在です。自我を持つ人間はすぐに目の前の出来事を自分視点で捉え、行動するようになります。それは僕自身も同様です。だから、忘れないように、何度も何度も大切な想いを自分の中に刻み込む必要があるのです。僕はブログを書くことで何度も何度も自分の中に大切な想いを染み渡らせています。

加えて、この道の深さと高さは無限です。どこまでも深まり、どこまでも高まります。同じことを伝えているようでも以前の僕とは深さが違っているのです。新鮮な言葉には新鮮な力があります。その言葉を世界に発信していくことで、この世界に天の恵みを広げていくのです。それは世界全体から見たら、微々たるものかもしれませんが、ただただ自分一人分の役割をこなしていくだけなのです。

真理はプロセスの中にあります。素晴らしい言葉も、固定したその言葉に真理があるのではなく、その言葉が生み出された背景、そして、その言葉が広がっていくプロセスの中に真理があります。真理は常に新鮮な動きの中にあるのです。だから常に新しい言葉を生み出していく必要があります。語った言葉ではなく語る行為、そして語った人の行動の中に真理は立ち顕れます。

だから今年の最後に新しい言葉だけの記事をあらためて書きました。

木の花ファミリーでは2016年を「発信の年」としていました。その最後を新鮮な言葉で飾り、2017年「爆発の年」を迎えようと思います。今年1年お世話になりありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。


木の花ファミリーのみんな@恵みいただきます


闇からの卒業、そして時代人として

闇からの卒業にあたって


卒業式にあたって、自分の歩む道の方向性をつけるのに、どのような心構えをしたらいいでしょうか、という質問があったので答えます。まず、自分が歩む方向についてですが、自分が思う方向に進めばいいと思います。もし、思う方向が定まらなければ、自分に近い人が教えてくれる方向に進めばいいと思います。その自分が進む方向が決まったら、今度は、それがより健全で正しい道を選ぶことです。この世界にある物事はすべて、必ず善と悪に仕分けることができます。それを比べたときに、必ず片一方が少し劣っており、もう一方が少し優れているというように仕分けられます。それがあまりにも同じようでわからないときには、それを細かく捉えていって観れば、必ずそこでは優劣があるものです。そうしたら、ほんの少しでもいいから優れている方向へ進めばいいわけです。そして、選んでいった結果、最後に残ったところ、それが自分の進むべき道です。

これは「闇からの卒業」であり、「愚かからの卒業」であり、「神様へ進む道」です。

次に、この道を歩む縁をもらったものは、その道には道にふさわしい色々な困難があるものです。そして、それを歩む人には人にふさわしい迷いがあるものですが、この道を歩むものはまず、この道に縁があったことを歓びとして感じていくことが大切です。善いとか悪いとか、そういう判断をするのではなく、この道を歩めることを最大の歓びにすれば、どんなことがあっても、この道を歩むことから外れることはありません。そして、その選び方は、消去法でほんの少しでも光のほうへ、ほんの少しでも善意のほうへ、ほんの少しでも愛のほうへ、ほんの少しでも調和のほうへ、ほんの少しの違いがあってもより尊きほうへ道を歩めば、必ずその道は最後には人の行くべき最終到達地点につながっていることでしょう。

道は、人の目には観えないものですが、心の眼があるものには、その眼が愚かしいを避けて、正しいほうへ導いてくれるでしょう。心の眼を開けるためには、自らの内側にある本当の想いが天のほうへ眼を向けて、天のほうへ向かっていく。まっすぐに向かっていく道を意識したときに、眼はより良く観えるようになります。誰の中にもあるその眼は、全く揺るがないものであるのです。その眼が自らの中にあることを信じ、歩んでいけば、迷うことは全くなくなるのです。そして、過去に自らが迷ったことを思い出して、その迷いの愚かしさ、辛さを思えば、なおさらその真理への道を歩むエネルギーと追い風になってくれるはずです。


迷っているときは、あなたの我が自らをたったひとりにして、まわりのものから遠ざけてしまうものですが、真理への道は必ずまわりのものをしっかりと見出し、助け合い、調和し、歩むように眼を開いてくれます。それは、楽しく希望ある豊かなものになるでしょう。

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今年最後の文章はやっぱりこれを取り上げたいです。この文章は「必死」とは「必ず死ぬ」と書く ~きょうこちゃんの「どこまでもいただきます」物語からの引用ですが、この文章を聴いたきょうこちゃんは以下のように話します。

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ようこちゃんたちが来るちょっと前に夢を見ていてね。そうしたらお釈迦様の手が上から現れてね。『さあ、立ちなさい』と言って、立たせてくれたの。顔は見えないのよ。『おまえはな、肉の眼は見えるかもしれないが、心の眼は盲目であったな』と言われて、『心の眼が見えるにはどうしたらいいのですか?』と聞いたときに眼が覚めたんだけど、すごいね。この話がすぐに出てくるとはね。ついさっきだよ。


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夢の中での質問の答えが現実となって現れる。きょうこちゃんは本当に深い体験をしていたのだなと思います。深いところでは本当にすべては繋がっているのですね。

ところで、この文章のタイトルは「闇からの卒業にあたって」となっています。それで闇とは何か?を考えた時、僕の中には「自我(エゴ)が生み出す世界」という答えが浮かんできました。

人は目の前の出来事に一喜一憂します。それは自らの感情が揺れ動くからです。そして、多くの人はその感情に基づき判断し、行動していきますが、自分を振り返ることはありません。そして、目の前の出来事に埋没していくのです。

仮に反省することがあったとしても、出来事と感情が基準になり、「どうしてこうなったのか?」「どうすれば良かったのか?」と自らの都合の良い現実を求めていくのです。これは物事を客観的に観ていく姿勢とは違うのです。

このような時、人は時代(縦軸)と世界(横軸)を貫いている意志、この世界を動かしている意志、つまりは天に心を向けていません。自我(エゴ)から生まれる感情、その感情に左右され右往左往しているのです。この状態を闇と言うのだと思います。

自我(エゴ)だけから世界を見ているとその世界は自分だけの世界となっていきます。自我から生まれる感情が大きくなればなるほど、他人からの共感は得られなくなります。それは闇の中で盲目に暮らしているのと同様です。そしてそれは正義感など通常良い感情と言われているものにも当てはまります。

以下は、2年前、「PEACE BED アメリカVSジョン・レノン」の予告編を観た後に書いた文章です。

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僕には、反戦のムーブメントを生み出したジョン・レノンの姿がかっこよく見えました。そして、胸に熱いものがこみ上げるのも感じました。

ですが、この映画を観たことがあるという晃ちゃんやいさどんはこの映画をあまり評価していませんでした。

これはムーブメントを描いた映画であってとても浅いもの。ジョン・レノンは反戦を掲げることにより、権力の側に対して戦争を仕掛けているようなもの。一方の役割をしているに過ぎない。

それが二人の見解で、これはまさにその通りなのです。

正義を掲げ、その正義を貫くことに熱くなる。

予告編を観た時、僕の中に湧き上がった感情はそういう種類の感情です。それは麻薬のように僕を気持ちよくさせます。きっとジョン・レノンもそんな感情に突き動かされていたのではないかと思います。そして、それが人々に伝わり大きな動きを生み出したのでしょう。

それは悪いことなの?平和を求める心は良いことだから、それでいいのではないの?

こんなふうに思う人もいるかもしれません。もし、人類が今のまま変化せずに暮らし続けるのならば、それでよいのかもしれません。ですが、真の平和を求めるのならば、この手の感情は手放す必要があるのだと思います。

視点を変えてみて下さい。今、イラクやシリアで大きな勢力となっているイスラム国。彼らにも彼らの正義があります。そして、その正義を貫くことに熱くなり冷静さを失っているからこそ、過激な行動に及んでいるのでしょう。残忍な集団に見える彼らですが、戦乱の先に平和を夢見ているのではないでしょうか?そして、ジョン・レノンが批判したアメリカ政府にも正義があります。正義に基づき戦争をしています。そして、その先には平和がある想定しています。

それぞれの立場にそれぞれの正義があるのです。そして、その正義は平行線です。ですから正義に基づいて平和を求めても、それは有効に働かないのです。

正義を掲げ貫くことは英雄的で気持ちが高揚します。ですが、正義を貫くためには悪が必要となります。そして、そこに対立が生じます。こんなふうにして今の戦争は生まれ、維持されているのではないでしょうか?



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ジョン・レノンの行動は多くの人々の共感を生みました。ですが、それは一つの価値観からの共感であり、世界をその色だけに染めていこうとしたのではないでしょうか?反戦や英雄的な行動には権力という悪が必要になるのです。そのからくりがどこまで意識出来ていたか?意識出来ていなければ、それは盲目的な行動であり、闇の中にある行動と言えるのです。

ほんの少しでも光のほうへ、ほんの少しでも善意のほうへ、ほんの少しでも愛のほうへ、ほんの少しでも調和のほうへ、ほんの少しの違いがあってもより尊きほうへ

そんな視点からすべての行動をみていくと真理が見えてきます。


太陽は教えてくれている


12月23日天皇誕生日の太陽です。


闇から卒業するためには自我が生み出す闇の中に光を射していく必要があります。それは例えば、太陽の視点に立って世界や自分を眺めることを意味します。太陽はみんなに同じように光を与えてくれているのです。木の花ファミリー通信Vol.87にはこんな文章が掲載されています。

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今、世界中で様々な問題が起きています。例えばどこか遠い国で起こるテロは、自分とは関係のないものだと思うでしょうか。地震や台風のような天変地異は、人間にはどうすることもできない自然の驚異だと思うでしょうか。

私たちの生きる地球は、太陽の導きの元にあります。太陽は常にその心を送り続け、人間がそこから外れれば、それにふさわしい現象を地球上に起こし、「気付きなさい」とメッセージを送っています。今世界で起きていることの現実を知り、自分のしていることがそこにどのような影響を及ぼしているのかということが観えた時に初めて、人は変化の道を歩み始めます。

 ~ 中略 ~

この世界には、流れがあります。出来事の表面ではなく、その奥に心の目を向ける時、全ての出来事の背後を常に変わることなく流れ続ける、大きな流れがあることが観えてきます。自らの立ち位置を離れ、その流れに乗って生きると、不思議なほど色々なことが連鎖し、とんとん拍子に物事が進み、自力で何かを成し遂げようとしていた時には想像もできなかったような世界が現れるのです。その流れの中では、余分なものは自然とそぎ落とされ、人々の中に眠る無限の可能性が花開いて、様々な個性が響き合いつながり合い、美しく循環していくことでしょう。それは個人の満足をはるかに超える、ダイナミックな生命の喜びにあふれた世界なのです。


だから太陽は、私たちに心を送り続けています。


あなたたちが美しく健康であるように

互いを想いみんなでつながって生きるように

そして世界が豊かになるように

いつも私の方を向いていなさい  ──────────



そう呼びかけているのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

太陽の呼び掛けに耳を澄ませる。太陽の光に想いを馳せる。それは自分を離れることに繋がります。自分を離れることで、内から観た自分と外から観た自分、心の中で感じていることと外で起きていること、これらの差をなくしていくことが大切です。そして、この取り組みは固定したものではなく常にダイナミックに揺れ動き交じり合いながら一つになっていくプロセスであり、その動きが人を悟り(差取り)へと導くのです。そのことをいさどんはこんなふうに語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡


自分がある限り、その自分の内側から外を認識する目線はあるのだから、それはそれでいいのだが、同時に、自我のフィルターを抜きにした外側から同じように自分を観る目線が必要なのだ。それは、自らと他者との距離がなくなるということ。他者の目線が自らの目線であり、自らの目線が他者の目線になる。そこは何の境もない、「あなたは私、私はあなた」という世界だ。そのあなたと私の差を取ることが、差取り=悟りにつながる。



☆彡 ☆彡 ☆彡

自分の視点、自分の感情を超えていくことで、みんなと共通の視点、想いへと至る。それが悟り(差取り)への道であり、太陽からの呼び掛けなのです。

12月24日クリスマスイブの太陽です。

今年は自分の感情というものが大きなテーマとなっていました。感情を切り離し世界を見ている状態、そして感情に飲み込まれて世界を見ている状態。今までの僕はこの2つの状態を行ったり来たりしていました。どちらの状態も自分の感情を適正に扱えていないため僕は定期的に爆発をしていました。

ですが今年は、喜怒哀楽を思い切り感じながらもそれを超えて自分や世界を見ていく。そんな歩みを確かに始めた年となりました。それは感情と共にありながら感情を超えていく道であり、「自分ごと」から全体性へと至る道となるのです。そしてこれは闇から卒業を意味します。

「自分ごと」から全体性へと至る道、流れをいただくことで、すべての自分ごとは全体性へと繋がっていきます。なぜなら、自分と世界は本来一つであり、一つの流れの下、生かされているからです。大切なのはすべての出来事をいただく姿勢で、いただくことで頂きが増していく、そして、あなたの未熟もみんなに役立っていくのです。だから僕はこれからもそんなふうに生きていきます(^-^)

12月25日クリスマスの太陽です。僕は太陽にイエス様を感じていました。

時代人(Eran People)として


ところで、今日12月29日は新月で、新しいサイクルの始まりです。だからこの文章は1年間のまとめであると同時に新しい始まりでもあるのです。僕は今、今まで歩みをまとめると同時に新たな道を歩み始めているのです。それは太陽、そして永遠へと続く道であり、流れに沿って生きる時代人としての歩みです。最後にいさどんブログ「わたしたちは時代人(じだいびと)です」からの文章を引用してこの文章を締めくくりますね。


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なぜ宇宙は存在するのか。なぜ地球は存在するのか。なぜ生命は存在するのか。なぜ人類は存在するのか。そして、なぜあなたは存在するのか。

これからは地球自体、人類自体が目覚める時代です。人類が皆、この宇宙船地球号に乗っている意味を理解し、宇宙に創られたオアシスであり、奇跡の理想郷・地球に時代の意志を表現していく時代の始まりです。

時代は生きています。時代は意志を持っています。わたしたち人類はその時代の変化を感知し、時代に寄り添っていく立場にあるのであって、時代を創ろうとする必要はないのです。

そのように考えていくならば、この世界は一体です。すべてのものが時代と共に一体となって動いています。それが宇宙の実相です。そのような意識レベルを有した者が地球上に現れたならば、その響きがこの世界に放たれ、それに共鳴した者たちの行動が少しずつこの世界を変えていきます。そしてさらにそれに共鳴した者が行動することによって、その響きがこの世界に放たれていく――、その連鎖が時代を動かしていきます。その響きがこの世界の混乱を鎮め、人類の営みによって傷つけられてきた地球を包み込み、地球を本来の美しい星へといざなっていくのです。

一人ひとりの目覚めがウエーブとなって連鎖し、地球上を巡っていきます。そこには、音もなく、力もいりません。それは、時が刻まれていくときに、時の音がわたしたちの耳には聞こえないのと同じです。地球が自転し公転するときに、その音が聞こえないのと同じことなのです。ですから、時代が動くときに、その音はわたしたちには聞こえないのです。耳をすませてその音を感じてみてください。そのような人類の目覚めの動きが今、地球上に始まっているのです。

今こそ、わたしたちは自らを自我の枠から解き放ち、この無限なる宇宙の中で自由自在に生きる時が来たのです。わたしたちの中から願望や野心が消えた時、宇宙の真理が湧いてくるようになります。そして、人類が誕生した目的にのっとった最もふさわしいポジションにわたしたちは立てるのです。そういった真理に目覚め悟った者は、時代を読み、流れを感じ、今を生きる「時代人」となるのです。

それが、21世紀初頭にあたり、時代がわたしたち人類に伝えているメッセージです。



新月(12月29日15時53分)の2時間前の太陽です。




みんなの中でよみがえり生きていく(2)

12月18日(日)は月の一度の自然食レストラン「恵みいただきます」の日でした。メニューは12月ということで、★メリークリスマス・スペシャルプレート★でした。そして、僕は例年通りトナカイとなって売店でお客様をお迎えしていました。

「恵み」当日。サンタさんたちと記念撮影です。


クリスマスと言えば、イエス様です。僕はイエス様のお話については以下のように考えています。

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多くの人々に救いをもたらしたイエス・キリスト。イエスは処刑されますが、予言通り3日後に復活します。僕は常々、イエス・キリストの死と復活については、心の成長過程のモチーフになっていると思ってきました。

イエス・キリストはすべての人間の罪を背負って磔(はりつけ)にされ、命を落とします。人間の罪とはすなわち「自我(エゴ)」だと思うのです。自我の元、人間は自らの欲望を叶えようとし、世界に働きかけます。その結果が今の社会であり、環境問題、経済格差、人種差別、民族紛争など様々な問題を生み出しました。イエスの死は、問題を起こしてきた自我の死を意味します。自我の死とは自意識を捨てることであり、自分視点を離れることです。その体験は人に恐怖を与えるのかもしれません。執着の感情が湧き上がるのかもしれません。ですが、自我の死、自意識を手放すことは人間に新しい可能性をもたらします。

磔にされ肉体の死を迎えたイエス・キリストは、3日後に復活するのです。それはイエスの魂の復活であり、それ以後、イエスは人々の中で再生し、今も世界を見まもり続けています。人が自意識を捨てる時にも同じようなことが起こります。

自意識を捨てる時、人は今まで囚われていたものから解放されます。その時、人は、自分(自意識)が知らなかった自分と出会います。思いもよらない感情や能力が湧き上がってくるのです。そしてそれは波動となって世界に広がり、人々の心に伝わっていきます。自意識の元、自分の中だけに留まっていた心、感情が動き出し他の人々の心の中に入っていくのです。そして、その心は人々の心の中で生き続けます。自分の魂が肉体を超えてみんなの中で生きていく。自意識を超えた時、そんな生き方が可能となるのです。

木の花ファミリーの生活は自我を手放す生き方へとみんなを導いてくれます。多くの人と共に暮らす生活では、調和の心が何よりも大切になります。自分だけの都合で動くことは、軋轢が生じるきっかけとなります。毎日の生活の中で、現象を通して、自分を知り、自意識を手放していくことが出来るのです。そして、自意識を手放し空っぽになった自分の中には、みんなの心が入ってきます。
個性豊かな人々の心によって自分が創られていくのです。こうなると成長の可能性は無限大となります。出会う人々、出会う体験が自分を創っていくのです。それがどんなものになるかは自分の想像をはるかに超えることです。人生はまさに道(未知)への旅です。わくわくします(^-^)




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上記は2年前、2014年の12月に書いた文章です。文章を読んであらためてこの時期の自分の心がクリア(明晰)だったことを感じます。その後、2015年の夏から秋に掛けて自分の自我(エゴ)が浮き彫りになり、その後もいろいろありましたが、今はそれらの体験を活かし深みを持ってあの頃の明晰さを取り戻していると思っています。

ところで、僕は今年の8月いさどんから以下の言葉を貰っています。

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自分というものを内からだけ見ていてはいけません。

外から見える自分と内から見える自分というものが、
自由自在に行ったり来たり出来る状態になることが大切です。
ブログを読んでそれが少し出来るようになってきたことを感じました。

この道を極めることが大切です。
そこに向けて真っ直ぐに行くと人の価値が上がります。
そして価値が上がると自然にみんなから支持されるようになるのです。
その位置で願いが叶っていくことが大切です。
想うと叶うというのはそういうことです。

ところがあなたの場合、叶わない現状にありながら、
願いを叶えたいという願望や欲望になっているものだから、
宇宙の法から外れてしまったのです。
だからそれは「自分のこと」であり、我欲となっていくのです。
宇宙は「もっと叶えたい。あなたの望みは全部叶えたい。」と願っています。
その代わり宇宙の法に沿って願えということです。

だけれどもあなたの願いが叶うところまであなたが高まった時、
あなたにとってその願いはどうでもよくなっていることでしょう。
だから、今、あなたが持っている願いはどこかにボタンの掛け違いがあるのです。
そのためエネルギーを使えば使うほど価値を下げる状態となっています。
それはエネルギーの出どころが間違えているということです。

あなたは自分の心の足りない部分を埋めようとしています。
それは相手を見ているのではなく自分を見ているのです。
その願いは自分の矛盾から発生しているものです。
自分の中に矛盾がなければ、矛盾を埋めようという想いは出て来ません。
ただ淡々と生きていれば、そしてそれが清々しければ、
相応しく人が集まってくるのです。
そうではなく努力して人にアプローチする行為は、
自分を埋め合わせようとしている行為なのです。

あなたの矛盾は爆弾のようなものであり、あなたはそれを抱えています。
そうするとここに出会うことであなたがどれほど救われているか。
そう思いここに出会った価値を上げるとしたら、本物となることです。

そのためには正確に振り返ることが大切です。
逃げずに自分というものに真正面から向き合い、
誤魔化さずに正確に見ていくのです。
そうすれば自分が仕上がっていきます。

あなたは自分の爆弾を忘れてはいけません。
クリアしたからと言ってなくなったと思ってはいけません。
心を磨くという志を持っている限り、
自分の中にしっかり古傷としてもっていないと
調子にのったり、忘れたりします。
そうすると古傷が疼いた時にチェック出来ない状態となるのです。

だからしっかりと向き合いクリアしそれを忘れずにいて下さい。


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ここで語られている「爆弾」は僕の中にある衝動で、僕は22歳の時、1997年11月、この衝動を解き放ち、この衝動に従って生きていこうと決意しました。それは自分に正直に生きようという決意でしたが、この衝動は僕の人生に混乱をもたらしました。僕は解き放った衝動をコントロールすることが出来ずに振り回されていくのです。

そんな中、10年前は以下のような状態にもなりました。


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10年前の10月、中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、
そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。
そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、
僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。

僕はその頃、毎晩泣いていて、
人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。

そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、
心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。

なんか漫画みたいなバカな話。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…
僕はそれぐらい自分の感情に翻弄されていました。


空っぽへのあこがれ」より引用(一部修正)

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衝動に振り回される日々、でもそれは僕にとって必要なものでした。爆弾は僕に与えられた大切なテーマです。それを僕は抑えこんだり、切り離したりして生きてきました。それでもあるものはあるのです。それを否定することは自分を否定することになります。自分を取り戻す。そのために僕は衝動を解き放ったのです。

そして、僕は自分を取り戻しましたが、取り戻した自分はとてもひどいものでした。こだわりが強く、他人のことを考えず、自分の基準で他者や世界を裁いていく。自暴自棄で後先のことを考えない。これが押し殺していた自分で、当然のように僕は苦しむようになります。それでもそれは必要なプロセスでした。

天への志と爆弾。

爆弾を克服するプロセスが僕のオリジナルな物語で、この物語を通して僕は天へと至るのです。そのためにはイエス様が一度死んだように、僕の自我(エゴ)も死ぬ必要があります。死ぬことでみんなの中でよみがえるのです。今日は冬至ですが、冬至は1年で最も太陽の光が弱い日です。それは太陽の死とも捉えられ、イエス様の物語同様、冬至も死と再生を表す日なのです。以下、Facebook(地球暦)からの文章を引用します。

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陰極まりて陽に転ずという一陽来復(いちようらいふく)の冬至は、これから少しずつ太陽の出ている時間が長くなり、反対側の夏至へ向けて光が増えていく合図。冬至は古くは生命の終わりを意味し、新しい命の再生復活の時と考えていました。

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爆弾を生き抜き爆弾を克服した僕は爆弾によって自我(エゴ)が吹き飛び新しい自分として復活します。新しい自分は外から自分を眺めることで以下のような状態を目指します。

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自分がある限り、その自分の内側から外を認識する目線はあるのだから、それはそれでいいのだが、同時に、自我のフィルターを抜きにした外側から同じように自分を観る目線が必要なのだ。それは、自らと他者との距離がなくなるということ。他者の目線が自らの目線であり、自らの目線が他者の目線になる。そこは何の境もない、「あなたは私、私はあなた」という世界だ。そのあなたと私の差を取ることが、差取り=悟りにつながる。


その世界を体現するためには、人々は群れて、運命共同体として生きる必要がある。その昔、厳しい自然の中を人々が群れというひとつの生命として生き残ったように、我々はもう一度群れて、コミュニティがひとつの生命として生きることによって、この世界の真実を現していく。それは、個が個に走り過ぎて自我からしかものが見えなくなった現代社会が混乱から抜け出す、唯一の方法だ。


いさどんブログ「円が縁を紡ぐ〜人間からヒトへ」より

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クリスマスを前にしてシリア政府軍が制圧したアレッポ、戦闘が長期化しているイラクのモスル、日本がPKO部隊を派遣している南スーダンなど緊迫したニュースが連日のように流れています。そして、ドイツやトルコではテロが起きたと報道されています。

まるで人々が抱えている爆弾が爆発し合っているかのようです。

そんな中、人々は平和を願い求めますが実現しません。その平和は「自分」が思い描いたものであり、「自分」の願いを追い求めているから実現しないのです。

イエス様の物語は死と再生の物語であり、それは自我(エゴ)を手放すことを意味します。それは冬至の意味も同様です。そんなふうに思う時、クリスマスは願いを叶える日ではなく、願いを手放す日であることが明らかになります。人々が手放した願いをサンタさんが叶えてくれるのです。それは自分の想定や想像を超えた世界です。

今日は冬至でもうすぐクリスマスです。クリスマスに向けて何かを願うのではなく、願いを手放していこうと思います。願いや感情を手放しそれらを超えた時、人は自由となり自分を外側から観ることが出来ます。それはみんなの視点であり、みんなの中でよみがえり生きていくのです。


こちらは「恵み」当日の料理です。
こちらは「恵み」当日の集合写真です。

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