もとのひとつに還る旅路の中で




昔々、まだ地球も、宇宙さえも生まれる前の遠い昔、この世界にはただ“響き”があるだけでした。
そこは、すべてがぴたりとかみ合った、一切の歪みのない、永遠なる完全の世界。
神様ただお一人の世界だったのです。

神様は、退屈でした。
「完全の中にいては、完全を知ることはできない。
完全である私は、完全であるがゆえに私を知ることができない。」
光だけの存在であった神様には、光が何であるのかが見えなかったのです。

そこで神様は、その完全なるひとつの体を、分けられました。
光とは何かを知るために闇を、天とは何かを知るために地を創られました。
そして、その不完全なる世界を、自らと相反する遠いところへ置かれました。
その時、そこに時が生まれ、空間が生まれ、元のひとつへと還っていく時空が始まったのです。

オルゴールのねじがまわるように、
不完全から完全へと還る中で世界は様々な音を響かせ、音楽を奏でます。

木の花記~金神様の巻より 

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13,000年前に存在したと言われているカタカムナの英知によれば、単音には「ヒビキ」があり、その「ヒビキ」がこの世界を生み出しています。「ヒフミヨイ(1・2・3・4・5) マワリテメクル ムナヤコト(6・7・8・9・10)」。1(ヒ)から10(ト)の数にはこの世界を生み出す法則、階段が示されていて、それらを含めた合計48の単音が響き合いこの世界に彩りを生み出しています。そして、名前にその音をいただくと、単音の特性も同時にいただくことになります。


僕は名前に「ヨ(4)」という音を頂いていますが、カタカムナ単音豆辞典によると、「ヨ」は「ヨコシマ(横に転がったマの示し・邪しまのココロ)」であり、混沌の思念となります。ジイジは「ヨ」という名前を持つものについて以下のように語っています。


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ヨという名前をもらったものは、意識に規則性が無く、奇妙にうごめいているのだから、ある意味不幸。横回転ですらない。横回転ならば、現象化のエネルギーだが、そうではない、横回転に至る前の奇妙な動き。


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僕の意識的な思考のほとんどはこの混沌の中にあります。規則なく奇妙にうごめいているだけ。いろいろな想いがぽつぽつと規則なく湧き上がるから、確信が持てなくて不安になり、曖昧にして誤魔化したい気持ちが湧いてきます。びくびくすることになりますが、そうかと思ったら、突然「こうに決まっている!」という想いが湧き上がり行動に移ります。これらすべて混沌の中にあるうごめきです。失敗すると落ち込みますが、落ち込んで本気で反省したとしても、それはぽつぽつ湧き上がるうごめきに過ぎないから、学びとして生かされることはほとんどなく、次の機会には同じことが繰り返されてしまうのです。


僕の人生を振り返ると、罪悪感から生きる資格がないと死を望んできたり、客観的に観たら大したことはない自分の正しさを主張するために他のことはどうでもよくなり命もいとわなくなったりしてきました。僕は、これら相矛盾する心に突き動かされてきましたが、矛盾していることには全く無自覚でした。ぽつぽつ湧き上がるうごめきからは自分の本当の姿は見えないのです。


ところで、「ヨ」は「世」であり、地球は太陽系で4番目「ヨ」の星です。だから名前に「ヨ」がついていなくても人間はこの特性を多かれ少なかれ持つことになります。


「ヨ」は混沌。意識なく奇妙にうごめているだけ。


9月はアメリカで同時多発テロが起きた月ですが、あの時、破壊されたワールドトレードセンターを設立したロックフェラーは、経済発展による世界平和を追い求めました。ですが、そのロックフェラーの行動が世界に格差をもたらし、貧しい人々に憎しみを生み出しています。宗教は人々に平和をもたらすために生まれたはずなのに、そこからは多くの争いが生まれています。平和を求めて行動しているはずなのに、結果が争いを生み出しているのが人類です。まさに混沌の中にあると言えます。意識的思考でどんなに平和を求めて行動しても、それは混沌の中にあるから、平穏な世界を生み出すことは不可能に近いことなのです。


そして今、世界には多くの苦しみや痛みが発生しています。


それはきっと世界(大いなる存在)と自分との接点で生まれています。


自らが何かを知るために、神さま、大いなる存在から遠くに置かれた人間。もとのひとつに還る旅路の中で、世界と自分との「違い」に出会います。そこで痛みや苦しみが生まれるのだと思います。違いに溢れる世(ヨ)、混沌の中から生まれる痛みです。ですが、「ヨ」は喜びともなります。苦しみは世界と自分との接点。それはいつも自分の意図を超えた出来事ですが、そことしっかり向き合うことは世界と自分を知り、ひとつになっていく過程です。そこに喜びの源があるのです。


突破口はいつも自らの意図を超えたところ、世界と自分との接点にあり、そこで自らを磨き続けることが世界に調和をもたらすのだと思います。自らの思考を回し、いくら平和や幸せを求めても、それは混沌の中にあり、自分も世界も変わっていくことはないのです。


変化は常に世界と自分との接点で生まれます。


そしてそこでは、大いなる存在に意識を向け、自分を溶かしていくことが大切になると思っています。ということで最後に、ジイジが大いなる存在に意識を向けた言葉でこの文章を締めくくりますね。


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私はいつも意識があなたの方を向いていることに気付きます。それは、私がこの世界に存在することの原点を感じるからであります。そのあなたを感ずる私の力は微妙なものであります。私が肉体的意識をセンサーにして生きれば、あなたの存在を感じることは難しいものですが、たびたび意識の隙間からあなたの存在する世界にセンサーがアクセスすることがありますので、存在を感じるのです。私はあなたの存在を感じたとき、不思議な気持ちになります。それは私の存在する世界で、どのように喜びを発掘しようと思っても得られないものです。そのあなたのおいでになるほうに意識を向け、あなたの存在の息吹を感じたとき、なにかしら言いようのないすべてのふるさとのように感じられる響きの世界があることを感じ、私が存在するこの現象世界で得られるであろう喜びのすべてを超越した満足が、そこにあることに気付くのであります。

ですから、私は時々この世界にいることを空しく思い、そしてあなたの方に旅立つことを望むのであります。どちらにしても、あなたのもとから来た私にとっては、いずれまたあなたのもとへ還るのですから、私は十分に満足なのです。

毎日、瞬間瞬間の時の旅を留まることなく永遠に歩んでいますが、この永遠は私個人の体感する枠の中では有限なのです。私はそのことがわかっているので、永遠に続くように思われるこの現象世界の中にいても、至福の心を持ち続けることを可能にするのです。

私は赤子のように物理的なすべてを取り去って裸になり、霊的にすべてのこだわりを取り去り魂だけになったとき、この境地に浸ることの喜びに至るのです。




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