心豊かに生きていく。

2014年の秋に撮影した太陽です。


どうすれば心豊かに生きることが出来るのでしょうか?


僕はジイジにこんな質問をしたことがあります。その僕の質問に対してジイジは以下のように語りました。


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その質問に答えることは出来ません。その答えを貰って進んでいくことは、自分の気づきで自分の価値を積み上げるのではなく、答えをくれるものに依存し、答えをくれる組織などに所属していくことになります。それは自分の価値を捨てることになります。一人ひとり歩みはオリジナルであることに気づかなければなりません。だから、一人ひとりの個性は、豊さとして存分に発揮されなければいけませんが、それが癖性分になって出たら、それはコントロールをしない状態、自分自身を知らない状態で自動に出てくるので、混沌をもたらし、そこに豊さは表現されません。

そもそも人間は、裸一つで何も持たないで生まれてきます。それからいっぱい身につけるけれども、そんなものはごまかしです。裸一つで生まれてきて、ごまかしの衣服を来て、ごまかしの自分の地位など、そういうものを持っていますが、本物はその中の人間性なのです。その人間性を高めることが心の豊かさに繋がります。

ある歴史学者か宗教学者が言った言葉あります。それは、「人間の歴史に置いて、神が存在しなかったことはない」というものです。神はこの世界を動かしている物理性です。カタカムナでは、宇宙最極小単位である「カ」が満(ミ)つっていることによって起きる現象です。「カタチサキ」というように、人は「カタチ」を先に知りますが、「カタチ」の奥に、物理性をそこに発生させている「見えない法則」があります。「カタチ」に出会うことによってその「カタチ」の奥に流れる仕組みを知った時に、この世界を理解することになります。

人は母親の胎内から離れ、一人で呼吸をするようになった時から人生が始まりますが、そこからその人の癖性分で生きています。その癖性分は、確実にその人の人間性に相応しい答えをくれています。すべては自分から出たものです。とかく人は、他者から被害を受けたと主張し、今の社会は、被害者・加害者という捉え方をしています。そして被害者であるということは、法的には自分には何も問題がないことになりますが、実は被害者になる因縁を持って生まれてきているのです。種を自分が持っていて、相手からその反応を引き出しているのは自分です。ですから出来事に出会った時に、そこからどう学ぶかということが人の道としてあるのです。法律では人はきれいになりません。法律を守っていれば問題ないと主張するようになり、自分と向き合うことから離れていきます。

それで、学者の言葉に戻りますが、「人類の歴史の中で神の存在がないことはない。これから先、どんなにテクノロジーが発展しても神がいなくなることはない」と言います。つまり、常に「見えないものと共にある」ということです。その原点を忘れてはいけないのです。

ところが仏教には神がありません。仏教は仏道といい、道なのです。人間が存在するはるか昔から宇宙はあって、その想いから世界が創造され続けています。そして人類が地上に降りてきたのも宇宙の意思です。だから神はいるのです。そんな中、お釈迦様が言ったのは、「自分というものの真実は、事実お前は持っているのだから知っているだろ?」ということです。それだけは真実。それ以外のものが真実かどうかは、本当は分からないでしょう。見苦しいことも優れていることも自分のことは実感として、理解することが出来ます。自分を極めることが救いに繋がるのです。お釈迦様の言葉からは様々な経典が生まれていますが、経典の中身もそれが人を救ってくれるということはありません。それはあくまで指針に過ぎず、ご利益を求めても本当の意味では救われないです。仏教には神がありません。それはご利益や救済を求める対象としての神はいないということです。

今、社会は行き詰っていますが、それは、今まで主流となって人智でやってきたことはもう終わりとなるということです。主流はどのようなものだったかということを知ること、それが自分を知ることとなります。日本の戦後はなぜあのようになったのか?そしてそこから何をやってきたのか?それも知る必要があります。日本の戦後だけでなく、世界の戦後の歴史、もっと遡れば産業革命以降、産業とテクノロジーが何をもたらしてきたかということを知る必要あるのです。そう思ったら、もう今までの自分からは離れろ、ということです。そして代わりの答えを求めるのではなく、一人ひとりがオリジナルの道に気づいて、そのオリジナルの自分が見えないものと対話していくことです。それを続けていると、食べることなんて考えなくてよくなります。仕事の段取りもする必要がありません。目の前にある最優先事項を、思いついたことをやっていくと全部流れがよくてトントンと行きます。不要なことは全部削られていって、必要なことがどんどん生まれてきます。それは、産業革命とは違う革命、サン(SUN・太陽)革命と呼びたいなぁと思います。すべての生命は太陽によって生かされているのだから。

自分の頑な心の衣を脱いで自分を空っぽにして「頂く」という精神になった時に新しい自分に出会えます。自分の中からいろいろなものが湧き出してくるようになります。今まで見えなかった聴こえなかったものがヒラメキとして自分の中に出てくるようになります。そしてそれが道理に適っていて、気づきが生まれると、「どこにいてもそのことが楽しくて嬉しくて」という世界に行きます。そういう世界に行くと、その次には本当に尊くて有難いという世界がやってきます。

どのぐらいこの世界の仕組みは、人間に慈悲と愛を与えているのか、人類を地球に降ろしてコラボレーションをしようとしているのか、そのことに気づいたら、不満も何もなくなり、自らの尊さに気づき、人は光り輝くものとなっていくことでしょう。

よく人間であることが最も尊い、人間の命は地球より重いと言われたりしますが、そんな言葉は軽いものです。どれだけの人が実感を持ってその言葉を語っているのか疑問になります。ですが、実際、目覚めたもの、尊いものの価値は地球と対等と言えます。なぜなら地球の運営を任されているのだから。一つひとつの細胞のDNAの中には宇宙の全歴史が刻まれていて、その数十兆個のコラボレーションが我々を生かしているのです。人々がそのことに気づき目覚めた時、地球は本当の尊さを表現するようになるのです。


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一人ひとりオリジナルの道を歩むことが心豊かに尊く生きることに繋がります。では、道を歩むとはどういうことか?「カタチ=現象」をもって真実とし、その奥に流れる「見えないもの」の意思を探求し、「見えないもの」との対話を続けることです。現象の奥に流れる見えない道を歩むこと、それはもとの一つに還る旅路と言えます。そして、地球の一つの細胞として世界に対して責任を持ち、みんなとコラボレーションしていくことで地球は健全になっていきます。ジイジの言葉はそのような指針を僕に与えてくれています。


ところで僕は2014年の秋分の日にこのブログを立ち上げました。ちょうど10年が経ちました。このブログのタイトルは、「木の花ファミリーの経済から世界を見る」です。世界を対象としています。その目的は、世界と自分を繋げ、自分を健全にすることで世界を健全にしていくということです。自分の未熟から過去には目的にそぐわない文章を書いたこともありましたが、今あらためてその目的に立ち返ります。今回、2年振りに投稿しました2年間お休みしていましたが、今後は時々、記事をアップし、自分の日常生活に指針にしようと思っています。


世界と自分を繋げ、自分を健全にすることで世界を健全にしていく。それが僕のオリジナルの道であり、僕はその見えない道を歩み続けます。そして心豊かに生きていきます。



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