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みんなの中でよみがえり生きていく(2)

12月18日(日)は月の一度の自然食レストラン「恵みいただきます」の日でした。メニューは12月ということで、★メリークリスマス・スペシャルプレート★でした。そして、僕は例年通りトナカイとなって売店でお客様をお迎えしていました。

「恵み」当日。サンタさんたちと記念撮影です。


クリスマスと言えば、イエス様です。僕はイエス様のお話については以下のように考えています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

多くの人々に救いをもたらしたイエス・キリスト。イエスは処刑されますが、予言通り3日後に復活します。僕は常々、イエス・キリストの死と復活については、心の成長過程のモチーフになっていると思ってきました。

イエス・キリストはすべての人間の罪を背負って磔(はりつけ)にされ、命を落とします。人間の罪とはすなわち「自我(エゴ)」だと思うのです。自我の元、人間は自らの欲望を叶えようとし、世界に働きかけます。その結果が今の社会であり、環境問題、経済格差、人種差別、民族紛争など様々な問題を生み出しました。イエスの死は、問題を起こしてきた自我の死を意味します。自我の死とは自意識を捨てることであり、自分視点を離れることです。その体験は人に恐怖を与えるのかもしれません。執着の感情が湧き上がるのかもしれません。ですが、自我の死、自意識を手放すことは人間に新しい可能性をもたらします。

磔にされ肉体の死を迎えたイエス・キリストは、3日後に復活するのです。それはイエスの魂の復活であり、それ以後、イエスは人々の中で再生し、今も世界を見まもり続けています。人が自意識を捨てる時にも同じようなことが起こります。

自意識を捨てる時、人は今まで囚われていたものから解放されます。その時、人は、自分(自意識)が知らなかった自分と出会います。思いもよらない感情や能力が湧き上がってくるのです。そしてそれは波動となって世界に広がり、人々の心に伝わっていきます。自意識の元、自分の中だけに留まっていた心、感情が動き出し他の人々の心の中に入っていくのです。そして、その心は人々の心の中で生き続けます。自分の魂が肉体を超えてみんなの中で生きていく。自意識を超えた時、そんな生き方が可能となるのです。

木の花ファミリーの生活は自我を手放す生き方へとみんなを導いてくれます。多くの人と共に暮らす生活では、調和の心が何よりも大切になります。自分だけの都合で動くことは、軋轢が生じるきっかけとなります。毎日の生活の中で、現象を通して、自分を知り、自意識を手放していくことが出来るのです。そして、自意識を手放し空っぽになった自分の中には、みんなの心が入ってきます。
個性豊かな人々の心によって自分が創られていくのです。こうなると成長の可能性は無限大となります。出会う人々、出会う体験が自分を創っていくのです。それがどんなものになるかは自分の想像をはるかに超えることです。人生はまさに道(未知)への旅です。わくわくします(^-^)




☆彡 ☆彡 ☆彡

上記は2年前、2014年の12月に書いた文章です。文章を読んであらためてこの時期の自分の心がクリア(明晰)だったことを感じます。その後、2015年の夏から秋に掛けて自分の自我(エゴ)が浮き彫りになり、その後もいろいろありましたが、今はそれらの体験を活かし深みを持ってあの頃の明晰さを取り戻していると思っています。

ところで、僕は今年の8月いさどんから以下の言葉を貰っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

自分というものを内からだけ見ていてはいけません。

外から見える自分と内から見える自分というものが、
自由自在に行ったり来たり出来る状態になることが大切です。
ブログを読んでそれが少し出来るようになってきたことを感じました。

この道を極めることが大切です。
そこに向けて真っ直ぐに行くと人の価値が上がります。
そして価値が上がると自然にみんなから支持されるようになるのです。
その位置で願いが叶っていくことが大切です。
想うと叶うというのはそういうことです。

ところがあなたの場合、叶わない現状にありながら、
願いを叶えたいという願望や欲望になっているものだから、
宇宙の法から外れてしまったのです。
だからそれは「自分のこと」であり、我欲となっていくのです。
宇宙は「もっと叶えたい。あなたの望みは全部叶えたい。」と願っています。
その代わり宇宙の法に沿って願えということです。

だけれどもあなたの願いが叶うところまであなたが高まった時、
あなたにとってその願いはどうでもよくなっていることでしょう。
だから、今、あなたが持っている願いはどこかにボタンの掛け違いがあるのです。
そのためエネルギーを使えば使うほど価値を下げる状態となっています。
それはエネルギーの出どころが間違えているということです。

あなたは自分の心の足りない部分を埋めようとしています。
それは相手を見ているのではなく自分を見ているのです。
その願いは自分の矛盾から発生しているものです。
自分の中に矛盾がなければ、矛盾を埋めようという想いは出て来ません。
ただ淡々と生きていれば、そしてそれが清々しければ、
相応しく人が集まってくるのです。
そうではなく努力して人にアプローチする行為は、
自分を埋め合わせようとしている行為なのです。

あなたの矛盾は爆弾のようなものであり、あなたはそれを抱えています。
そうするとここに出会うことであなたがどれほど救われているか。
そう思いここに出会った価値を上げるとしたら、本物となることです。

そのためには正確に振り返ることが大切です。
逃げずに自分というものに真正面から向き合い、
誤魔化さずに正確に見ていくのです。
そうすれば自分が仕上がっていきます。

あなたは自分の爆弾を忘れてはいけません。
クリアしたからと言ってなくなったと思ってはいけません。
心を磨くという志を持っている限り、
自分の中にしっかり古傷としてもっていないと
調子にのったり、忘れたりします。
そうすると古傷が疼いた時にチェック出来ない状態となるのです。

だからしっかりと向き合いクリアしそれを忘れずにいて下さい。


☆彡 ☆彡 ☆彡 

ここで語られている「爆弾」は僕の中にある衝動で、僕は22歳の時、1997年11月、この衝動を解き放ち、この衝動に従って生きていこうと決意しました。それは自分に正直に生きようという決意でしたが、この衝動は僕の人生に混乱をもたらしました。僕は解き放った衝動をコントロールすることが出来ずに振り回されていくのです。

そんな中、10年前は以下のような状態にもなりました。


☆彡 ☆彡 ☆彡

10年前の10月、中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、
そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。
そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、
僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。

僕はその頃、毎晩泣いていて、
人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。

そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、
心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。

なんか漫画みたいなバカな話。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…
僕はそれぐらい自分の感情に翻弄されていました。


空っぽへのあこがれ」より引用(一部修正)

☆彡 ☆彡 ☆彡

衝動に振り回される日々、でもそれは僕にとって必要なものでした。爆弾は僕に与えられた大切なテーマです。それを僕は抑えこんだり、切り離したりして生きてきました。それでもあるものはあるのです。それを否定することは自分を否定することになります。自分を取り戻す。そのために僕は衝動を解き放ったのです。

そして、僕は自分を取り戻しましたが、取り戻した自分はとてもひどいものでした。こだわりが強く、他人のことを考えず、自分の基準で他者や世界を裁いていく。自暴自棄で後先のことを考えない。これが押し殺していた自分で、当然のように僕は苦しむようになります。それでもそれは必要なプロセスでした。

天への志と爆弾。

爆弾を克服するプロセスが僕のオリジナルな物語で、この物語を通して僕は天へと至るのです。そのためにはイエス様が一度死んだように、僕の自我(エゴ)も死ぬ必要があります。死ぬことでみんなの中でよみがえるのです。今日は冬至ですが、冬至は1年で最も太陽の光が弱い日です。それは太陽の死とも捉えられ、イエス様の物語同様、冬至も死と再生を表す日なのです。以下、Facebook(地球暦)からの文章を引用します。

☆彡 ☆彡 ☆彡


陰極まりて陽に転ずという一陽来復(いちようらいふく)の冬至は、これから少しずつ太陽の出ている時間が長くなり、反対側の夏至へ向けて光が増えていく合図。冬至は古くは生命の終わりを意味し、新しい命の再生復活の時と考えていました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

爆弾を生き抜き爆弾を克服した僕は爆弾によって自我(エゴ)が吹き飛び新しい自分として復活します。新しい自分は外から自分を眺めることで以下のような状態を目指します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

自分がある限り、その自分の内側から外を認識する目線はあるのだから、それはそれでいいのだが、同時に、自我のフィルターを抜きにした外側から同じように自分を観る目線が必要なのだ。それは、自らと他者との距離がなくなるということ。他者の目線が自らの目線であり、自らの目線が他者の目線になる。そこは何の境もない、「あなたは私、私はあなた」という世界だ。そのあなたと私の差を取ることが、差取り=悟りにつながる。


その世界を体現するためには、人々は群れて、運命共同体として生きる必要がある。その昔、厳しい自然の中を人々が群れというひとつの生命として生き残ったように、我々はもう一度群れて、コミュニティがひとつの生命として生きることによって、この世界の真実を現していく。それは、個が個に走り過ぎて自我からしかものが見えなくなった現代社会が混乱から抜け出す、唯一の方法だ。


いさどんブログ「円が縁を紡ぐ〜人間からヒトへ」より

☆彡 ☆彡 ☆彡


クリスマスを前にしてシリア政府軍が制圧したアレッポ、戦闘が長期化しているイラクのモスル、日本がPKO部隊を派遣している南スーダンなど緊迫したニュースが連日のように流れています。そして、ドイツやトルコではテロが起きたと報道されています。

まるで人々が抱えている爆弾が爆発し合っているかのようです。

そんな中、人々は平和を願い求めますが実現しません。その平和は「自分」が思い描いたものであり、「自分」の願いを追い求めているから実現しないのです。

イエス様の物語は死と再生の物語であり、それは自我(エゴ)を手放すことを意味します。それは冬至の意味も同様です。そんなふうに思う時、クリスマスは願いを叶える日ではなく、願いを手放す日であることが明らかになります。人々が手放した願いをサンタさんが叶えてくれるのです。それは自分の想定や想像を超えた世界です。

今日は冬至でもうすぐクリスマスです。クリスマスに向けて何かを願うのではなく、願いを手放していこうと思います。願いや感情を手放しそれらを超えた時、人は自由となり自分を外側から観ることが出来ます。それはみんなの視点であり、みんなの中でよみがえり生きていくのです。


こちらは「恵み」当日の料理です。
こちらは「恵み」当日の集合写真です。

願いを叶えるのではなくただ探求していく

同じ法則が貫いている


第二次世界大戦中、レヴィ=ストロースはフランス軍兵士として戦場に赴きます。ある日、塹壕に入ってぼぉっと景色を見ていたところ、たんぽぽの花に目が留まります。そして美しい秩序を持つたんぽぽの花を見つめるうちに構造の考えを思いついたのです。自然界の秩序と人間の思考の秩序は本質的に同じではないのか。宇宙の運動の中から地球が生まれ、地球に生命が発生し、脳が創られ、そこに精神があらわれます。自然界の中から生み出される精神の構造と自然の構造。レヴィ=ストロースはどちらも同じ構造を持つと捉えます。そして、人間の精神を構造という視点で科学的に分析したのです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

上記は、名著de100分『野生の思考』からの言葉です。人類学者のレヴィ=ストロースは未開社会と言われる人たちと共に過ごす中で、その社会に高度な文化を見出します。それは近代科学や合理的思考によって発展してきた欧米社会の奥にも共通して流れているもので、その構造を描き出し蘇らすことで人類の未来が開かれると考えていました。

言葉は違っても、木の花ファミリーでもいつも同じようなことを語り合っています。例えば、いさどんブログ「円が縁を紡ぐ〜人間からヒトへ」にていさどんは以下のように述べています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

なぜ生命が生まれたのかというと、世界があるからだ。この世界は生命そのものであり、それを立証するために三次元生命が生まれた。その三次元生命の発生の元となっているのが縁であり、縁とはこの世界の秩序をつなぐもののことを言う。

  〜 中略 ~

この世界の成り立ちは円運動から成り、それは秩序のもとに、約束通りに動いている。約束通り動くには、軸が必要だ。すべてのものの中心には軸があり、それがもう一つ大きな軸の周りを回っている。地軸があるから地球は自転し、振動し、歳差運動をしながら、太陽の軸のもとにその周りを回っている。そして太陽もまた同じように自転しながらセントラルサン(銀河の中心)の周りを回り、銀河も同じように、さらに大きなものの周りを回っている。単独で存在しているものは何ひとつない。すべてが無限に連鎖して、その関係の中で互いの存在を成り立たせている。ということは、世界がひとつだということだ。

このように複雑な動きが、なぜ継続してあり続けることができるのか。ものとものとは、互いに存在し合うために対向発生をする。そこでは約束事のもとに縁が生まれ、円運動をすることによって縁が紡がれていく。
そこでひとつの円を区切って見ると、中心は止まっているように見える。例えば太陽暦の視点から見ると、太陽は止まっている。しかし視野を広げてみると、太陽ももうひとまわり大きな縁によって円運動をし、らせんを描きながらさらに大きなものの周りを回り続けていることがわかる。そのらせんとは、私たち生命のDNAの構造と同じだ。
太陽系や宇宙というマクロの世界も、DNAのようなミクロの世界も、同じ構造で成り立っている。人間が人生を生きる上で出会う出来事や人間関係も、それと同じ構造になっている。おもしろいことだ。
これからの時代を生きる人々は、そのような宇宙的仕組みを理解し生きることで、個人的な欲望や野心によって生きるのではなく、大いなる意志(時代の流れ)に寄り添っていくことに目覚めなければならない。

  〜 中略 ~

人間には、自らが認識している自分と、認識できていない自分とがある。それはどういうことかと言うと、人間はある段階に至ると、それまで認識せずにいた新たな自分を発見する。しかしその自分とは、認識する以前からずっとあり続けたものだ。

現在の自分が成立する以前から、自分というものはある。過去の自分がつくったものが因となり、その結果として現象が現れる。それを因縁という。この世界は、因縁にふさわしく現象が起きる因果応報の仕組みで成り立っている。遠い過去からずっと続いてきた物語として現在があり、今この瞬間も紡いでいる縁が次の出来事につながり、そこからまた新たな縁が生まれて次の出来事へとつながって、物語は未来へと続いていく。因縁の始まりは宇宙の始まりであり、因縁の終わりは宇宙の終わりだ。それは永遠に続くということ。すべての存在は、宇宙の始まりから終わりまでをつないでいるひとコマだ。

 〜 中略 ~

自分がある限り、その自分の内側から外を認識する目線はあるのだから、それはそれでいいのだが、同時に、自我のフィルターを抜きにした外側から同じように自分を観る目線が必要なのだ。それは、自らと他者との距離がなくなるということ。他者の目線が自らの目線であり、自らの目線が他者の目線になる。そこは何の境もない、「あなたは私、私はあなた」という世界だ。そのあなたと私の差を取ることが、差取り=悟りにつながる。

その世界を体現するためには、人々は群れて、運命共同体として生きる必要がある。その昔、厳しい自然の中を人々が群れというひとつの生命として生き残ったように、我々はもう一度群れて、コミュニティがひとつの生命として生きることによって、この世界の真実を現していく。それは、個が個に走り過ぎて自我からしかものが見えなくなった現代社会が混乱から抜け出す、唯一の方法だ。それをやらずして、いくら理想世界を語ろうとも、新しい世界は生まれてこない。

さて、そのことを解釈できる精神状態に到達できるかどうか。そこにすべての答えがある。

 ~ 中略 ~

自我を超え、「答えをいただく」という精神になることが肝要だ。自我は満たすものではなく、コントロールし、超えるものである。その精神になると、流れに沿ってやるべきことが自ずと湧いてくる。

 ~ 中略 ~

大宇宙は巨大な生命だ。銀河、太陽系、地球、生態系、国家、我々の体、細胞の一つひとつまで、すべてが相似形になっており、とてつもなく巨大なマクロの世界も、目には見えないミクロの世界も、すべてが同じ仕組みで動いている。この世界は相似形の渦だ。

いったい誰がそれを動かしているのか。
それは「大いなるもの」としか言えない。

☆彡 ☆彡 ☆彡

ここでは円(縁)運動という法則で宇宙から生態系、そして社会から個人の人生、そして心について語られていきます。すべてが同じ法則の下にあり、それは自我(エゴ)に基づく人間の思考の奥に流れているのです。それはレヴィ=ストロースが提唱する野生の思考と共通するものがあり、それに気づくためには、人間は外側から自分を見る必要があるのです。

個人主義の元、近代社会が個人の願いや希望が叶えることをよしとしてきました。それは人々が自らの感情に基づき生きるということであり、結果、多くの人が自らの願いや感情に翻弄されるようになりました。自らの内側から外を認識し思い通りにならずに苦しんでいるのです。そして、社会全体も混乱に極みにあります。そこで必要となるのが、外側から世界や他者と同じように自分を観る視点です。その視点から、宇宙や自然、社会、人間に共通して流れている法則が見えてきます。その法則は常に答えを与えてくれています。その答えをいただく姿勢を育むことが大切で、その姿勢が人間を未来へと導いていくことでしょう。



ただ探究していく



ところで、「外側から自分を観る」という言葉から僕はいさどんが語ってくれた以下の言葉を思い出しました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

自分というものを内からだけ見ていてはいけません。


外から見える自分と内から見える自分というものが、
自由自在に行ったり来たり出来る状態になることが大切です。
ブログを読んでそれが少し出来るようになってきたことを感じました。

この道を極めることが大切です。
そこに向けて真っ直ぐに行くと人の価値が上がります。
そして価値が上がると自然にみんなから支持されるようになるのです。
その位置で願いが叶っていくことが大切です。
想うと叶うというのはそういうことです。

ところがあなたの場合、叶わない現状にありながら、
願いを叶えたいという願望や欲望になっているものだから、
宇宙の法から外れてしまったのです。
だからそれは「自分のこと」であり、我欲となっていくのです。
宇宙は「もっと叶えたい。あなたの望みは全部叶えたい。」と願っています。
その代わり宇宙の法に沿って願えということです。

だけれどもあなたの願いが叶うところまであなたが高まった時、
あなたにとってその願いはどうでもよくなっていることでしょう。
だから、今、あなたが持っている願いはどこかにボタンの掛け違いがあるのです。
そのためエネルギーを使えば使うほど価値を下げる状態となっています。
それはエネルギーの出どころが間違えているということです。

あなたは自分の心の足りない部分を埋めようとしています。
それは相手を見ているのではなく自分を見ているのです。
その願いは自分の矛盾から発生しているものです。
自分の中に矛盾がなければ、矛盾を埋めようという想いは出て来ません。
ただ淡々と生きていれば、そしてそれが清々しければ、
相応しく人が集まってくるのです。
そうではなく努力して人にアプローチする行為は、
自分を埋め合わせようとしている行為なのです。

あなたの矛盾は爆弾のようなものであり、あなたはそれを抱えています。
そうするとここに出会うことであなたがどれほど救われているか。
そう思いここに出会った価値を上げるとしたら、本物となることです。

そのためには正確に振り返ることが大切です。
逃げずに自分というものに真正面から向き合い、
誤魔化さずに正確に見ていくのです。
そうすれば自分が仕上がっていきます。

あなたは自分の爆弾を忘れてはいけません。
クリアしたからと言ってなくなったと思ってはいけません。
心を磨くという志を持っている限り、
自分の中にしっかり古傷としてもっていないと
調子にのったり、忘れたりします。
そうすると古傷が疼いた時にチェック出来ない状態となるのです。

だからしっかりと向き合いクリアしそれを忘れずにいて下さい。



☆彡 ☆彡 ☆彡 


叶わぬ願いは自我(エゴ)から生まれていました。自我(エゴ)は自他を分けることで不足感を生み出し、欲しい心を育みますが、それは表面的なもので、僕の奥には宇宙の法則が流れています。そこから生まれるものが僕の本当の望みであり、それはきっとこれからすべて叶っていきます。というのは、そこには決まった形はなくただ探求があるだけだからです。

「こうなって欲しい」とか「ああなって欲しい」とかそういう望みではなく、ただ湧いてきた想いに基づき行動し、その結果から自分を知っていく。そう、それはただの探求なのです。特定の願いを叶えるのではなくただただ探究していくだけ。それが望みだからすべて望みは叶うのです(^-^)

それは法則と共に生きて法則から学ぶ人生です。その法則は宇宙の法則だから、僕は宇宙と共に生きているのです。



お月様(^-^)


すべてを生かしていく

パリ同時多発テロから1年が経ちました。当時、僕はこの事件からは大きな衝撃を受けました。そして、以下、3つのブログを書いています。

 客観性に基づく大いなる循環の中で祈りを捧げる

 永遠の相の下にプロセスとして見ていく

 みんな神さまでみんな好き

それぞれざっと読み返した時に、いさどんブログ21世紀のいのちの捉え方」から引用した以下の言葉が心に残りました。

☆彡 ☆彡 ☆彡


死を迎えることは、人生の区切りをつけ、次のステージに行くことでもあるのですから、亡くなった人を見送る人たちは、死者に対して、「こうだったらよかった」「ああだったらよかった」と考えるだけでも、その人が次のステージに行くための後ろ髪を引くことになるのです。
生死の流れからすると、亡くなった人たちは必ず次へ行かなければいけないのです。ですから、そこでは未練を持つのではなく、その人との出会いから感情を入れずに学ぶことが大切なのです。学ぶことがその人の死を生かすことになるのです。

生きている者からすると、その人の生き様を見せてもらったのですから、「あの人はこう生きてこのような結果を迎えたのだから、自分はこのように生きていこう」と自らの生き方につなげ、学ぶことが、人の死を生かすことになるのです。どんな人の生き様であっても、それが殺人者であろうが、自殺した人でも、一つ一つの事例として残された人に見せてくれているのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この文章は原文ではさらに以下のように続きます。

☆彡 ☆彡 ☆彡

よくある話として、余命3ヶ月と宣告されると、「どのようにその期間を過ごしたらいいのでしょうか?」という質問をご家族から受けることがあります。その時に僕が答えるのは、その人が亡くなっても、その人の生き様(人生経験)は残った人たちの中に生かせるということです。ですから、生きている間にその人を観察し、なぜ今のような状態になっているのかを理解した時に、その人の人生を自分も生きたと捉えることができるのです。
わたしたちは自分ひとり分の人生を歩んでいますが、縁の近い人の生き様は身近で赤裸々に見せてもらっているのですから、それを自分も経験したと同じように捉えることができるのです。ですから、そこから学び、自分のこれからの人生に生かすと、死は世代を超えて生き続けることになるのです。
さらに、亡くなった本人自身の学びが不十分だったとしても、残った人たちがその人の生き様から学び、生かしてくれたということになると、本人から悔やみがなくなって次への旅立ちの手助けにもなるのです。
☆彡 ☆彡 ☆彡
縁の近い人と言えば、僕は父からは沢山の影響を受けています。「父の課題=僕の課題」と思って受け継いだ性質と向き合っていた時期もあります。(そのことについては「あなた未熟もみんなに役立つ」をお読みください)。父はまだ亡くなってはいませんが、身近な人として赤裸々にその人間性を見せてくれたとても大切な存在であり、父の人生は僕の人生であり、そこからの学びは今の僕に生きています。

僕に強い執着を持っていた父にとって僕が愛を持って離れた場所で暮らすことは父の業(カルマ)の解消に繋がります。事実、僕への執着から自由となった父は穏やかに暮らしています。それは母にとっても同様で、僕がこの場で心を磨くことは親族の業(カルマ)の解消にも繋がっていくのです。だからこそ、僕は父から受け継いだ特徴から自由であり続ける必要があります。

身近な人々がその生き方から人間というものを赤裸々に見せてくれるように、世界中で起きている出来事もその状況に応じた人間というものを見せてくれています。パリ同時多発テロ、そして、その後のフランスによるシリアへの攻撃、それらは人類の歴史の中で起きていて、人類全体の業(カルマ)となっています。それらは痛ましい出来事ですが、僕ら一人ひとりがそれをしっかり認識し、そこから人間というものを学ぶことで悲劇は生かされていきます。

何でも生かしていくことが大切で、そのためには繋がりを見出す必要があります。様々な出来事の奥にある繋がり、人と人、人と自然との繋がり。生と死との繋がり。そこを意識し行動した時、すべての出来事は生かされていくのです。

ですが今、世界は分断の極みにあります。それは人々が表面的な出来事や目先の損得に心を奪われているからであり、そのため立場が変われば意見が変わるバラバラの世の中となっているのです。テロや紛争はそんな人々の姿勢の延長で生まれています。

一人ひとりの人間はこの世界の中で様々な立場をとり暮らしています。そしてその立場からこの世界に関わり、善悪の判断をし、何かを求めます。ですが、それは一つの立場からの視点に過ぎず、他の視点を生かすことが出来ません。それを絶対視していると他者と分かり合えず対立や分断に発展していきます。

だからまず人は自らの価値判断を手放す必要があるのです。そして、「自分が・・・」という意識を超えて、すべての出来事をいただく心を育んでいきます。その先に人類の未来が開かれるはずなのです。

それは生命力が切り拓く未来です。生命力についていさどんは「この世界の仕組みに気付き自らの使命に目覚めた時、自然と湧き上がるもの」と表現しています。人はとかく評価を気にしたり、目先の損得を考えますが、その思考の奥には本当の自分がいて、それは世界に生かされ世界と一つなのです。世界と一つ。起きる出来事はすべて自分の顕れ。その心ですべての存在と繋がることですべての出来事は生かされていきます。

だから僕はそんなふうに生きていきます(^-^)


木の花の子どもたち。あっと言う間に集まりみんなで生かしあっています。


∞(無限)に開かれていく

僕はいさどんから以下の言葉を貰っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

「なかのんのブログに書いている事は仕上がってきてはいるが、
実際の心情についてはまだ仕上がっていない」という事でもある。
微妙な所だけど、ブログには「僕にはこの道しかない」となかのんは宣言している。
心情的には何かが残っているんだけど
「僕にはこの道しかないから、辛くても行きます」
というような事になると、目指すものと違う。
目指す所は、「人間を磨いていくと磨くことによって次の次元、
高い意識になって自ずと新しい現象に出会う、
自ずと過去に自分が思ってた事が叶うという事がある」という話だよ。
それは、目指していく事でもなければ、
それが尊い事だからといって我慢していくという事でもない。
それでは目指す所と違う世界になってしまう。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この時、いさどんは僕について
なかのんが自分の担当以外の事を全然考えていない
とも言っています。

・ 心情的には何か残している。

・ 自分の担当以外のことを全然考えていない。

この2つは同じことを言っているのだと思っています。
心情的に何かを残すとは、自分の心情に囚われ、
そこから自由になっていないということです。
そして、「自分の担当以外のことを全然考えない」ということは、
自分の担当という範囲に囚われ、そこから自由になっていないということです。

どちらもテーマは自分自身の解放です。
自分の心情や自分の担当という枠を超えて、自分自身を表現していく。
いさどんの言葉は僕にはもっとそういうことが出来るというエールなのです。

話しは変わって。

昔、人々は神話と共に生きていました。
彼らの居住空間はそのまま宇宙の表現であり、世界と自分たちが繋がっていました。
移動する範囲や見聞する範囲はごくわずかであったとしても人々は宇宙と繋がっていたのです。

今、テレビや新聞、インターネットを通して世界中から様々な情報が入ってきます。

・ イスラム国が住民をモスルに強制移動させて人間の盾にしている。
・ イエメンで政府軍とフーシ派が衝突。
・ シリア学校空爆 子ども22人死亡。
・ 地中海渡る移民の死者、年初から3,800人に達し、通年ペースで過去最多。

こんなふうに沢山の悲惨なニュースが流れて来ますが、
日本での暮らしとの繋がりを意識している人はごくわずかなのではないでしょうか?

広範囲からの情報が入るようになりましたが、人々は世界との繋がりを失っているのです。

またまた話は変わって。

木の花ファミリーでは毎年立春前に、富士浅間木の花祭りが開催されますが、
そこでは艮の金神さまの神話が表現されています。





以下、金神さまの神話を少しだけ紹介しますね。

☆彡 ☆彡 ☆彡

宇宙の創造神である七代の神々が世に現れ、
そこから個性豊かな八百万(やおよろず)の神々が次々と生まれた神代の時代。
自由気ままに振る舞おうとする八百万の神々に、
地の大神様は世を乱さぬようにと心の掟を厳しく説かれました。
地の大神様は名を国之常立大神(くにのとこたちのおおかみ)といい、
その厳しさ故に八百万の神々から疎まれておりました。

「こう厳しくされてはかなわん。何とかならないものか。」
相談した八百万の神々は、天の大神様のもとへと向かいました。
「どうかあの神様にご退陣頂けるようお願いくださいませ。」
八百万の神々の懇願を受け、天の大神様は国之常立大神にこう伝えました。
「すまないが、一度この世の表から退いてくだされ。
しかし、いつか必ず世が立ち行かなくなる時が来る。
その時再び現れ、この世界を立て直してくだされ。」

それを受けた国之常立大神は、艮(東北)の方角へと退かれ、
それより後「艮の金神(うしとらのこんじん)」と呼ばれるようになりました。
そしてこの方角は「鬼門」として恐れられ、封印されたのです。


それから、長い時が経ちました。
八百万の神々が好き勝手に振る舞った結果、世の中は荒れ放題。
自分さえ良ければ良いという「我よし」、
力あるものが弱いものをねじ伏せる「力よし」の世となり、
まさしく、かつて天の大神様が
「いつか必ず世が立ち行かなくなる時が来る」
と言われた時代が訪れたのです。




☆彡 ☆彡 ☆彡


今、日々流れる悲惨なニュースを見ると、まさに「我よし」「力よし」の世の中と言えます。
それは八百万の神、その影響を受けた人々が好き勝手に振る舞った結果です。

人類は長い間、自らの願いを叶えることを喜びとして来ました。
願いが叶った時、確かに喜びが生まれますが、
すぐに次の願いが生まれ、欲望は際限なく続きます。

結果、社会は混乱の極みにあります。

願いを叶える。

それは自分主体の姿勢であり、関心が自分に集まり、
人々は世界との繋がりを失っていきました。
思い通りに生きているようで、
実は自らを「願い」という狭い世界に閉じ込めているのです。

金神さま、国之常立神は地の大神であり地球そのものです。
金神さまが復活することにより、
人々は主体を自分から地球という大きなものへと移し、
それは宇宙へと繋がっていきます。

すべての生命を生み出し維持している地球。
それは個々人から見たら∞(無限)の大きさを持つものであり、
過去から未来へとすべての存在を繋いでいきます。

その立ち位置で自分というものを表現していく。
それは出会った出来事から
時代が生み出す大いなる物語を読み解き見ていくということです。

その時大切なのはしっかりと心を把握しコントロールしていくことです。
自分を知り把握出来れば、コントロールする可能性が開かれます。

頭ではばかげていると思っても心情的にはリアルなことがあります。
その時、心情に従っていたら、主体が自分となり変化はありませんが、
心情自体を変えていければ自分と現実は変化していきます。

それが変化変容を本質とする地球や宇宙を主体として生きるということです。

だから何より自分と向き合い続けることです。

そして心を創っていくことです。

僕は心にメスを入れ続け、変幻自在にしていきます(^-^)

心が変わればすべてが変わるのです。

それは思い通りになるということではなく、
大いなるものへと自分自身を解放していくということです。

それが富士浅間木の花祭りを毎年開催している意味であり、
冒頭のいさどんの言葉に含まれている僕へのエールなのです。


ちなみに一昨日の29日、木の花ファミリーでは誕生日会が開かれ、
そこで子どもたちが富士浅間木の花祭りの演目を披露してくれました。
とっても可愛らしかったです(^-^)


富士浅間木の花祭りの演目「花の舞・やち」です







目指す世界を実現するために何も目指さない

「なかのんのブログに書いている事は仕上がってきてはいるが、
実際の心情についてはまだ仕上がっていない」という事でもある。
微妙な所だけど、ブログには「僕にはこの道しかない」となかのんは宣言している。
心情的には何かが残っているんだけど
「僕にはこの道しかないから、辛くても行きます」
というような事になると、目指すものと違う。
目指す所は、「人間を磨いていくと磨くことによって次の次元、
高い意識になって自ずと新しい現象に出会う、
自ずと過去に自分が思ってた事が叶うという事がある」という話だよ。
それは、目指していく事でもなければ、
それが尊い事だからといって我慢していくという事でもない。
それでは目指す所と違う世界になってしまう。

☆彡 ☆彡 ☆彡

これは数日前のいさどんの言葉で、僕は心に留めて日々を送っています。

僕は昨日、社労士をしている女性から話を聴く事がありました。
彼女は人事・労務管理の重要性、職場環境を整える重要性を一生懸命に話していました。
そして、こんなエピソードを話して自慢げになっていました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

契約を結んでいる会社で出社出来なくなっている若い子がいて、
私は個人的にその子をランチに誘ってあげたの。
それも3回。私がランチをおごるのだから2,000円は下らない。
例えば、2,000円のイタリアンのコースにおまけにデザートをつけてあげたりしたの。
そしたらね、その子はまた会社に行ってみようという気になっているの。

☆彡 ☆彡 ☆彡

話しを聴きながら、これは良いことなのだろうか?と疑問に思いました。
出会う出来事はその人の人間性の現れであり、
出社出来なくなるからにはそれだけの理由があるはずなのです。
出会った出来事を通して自分を見る機会となるはずなのに、
ご馳走になって元気になるだけなら自分を見る貴重な機会を失うことになります。
結局また同じ状態に陥るだけなのではないかと思いました。

社労士は法律に則り職場環境の改善など、
一人ひとりが働きやすい場創りを考えているのでしょうが、
その視点はどうしても一面的になるのではないかと思いました。

例えば、今の経済システムは地球環境には大きな負荷を掛けています。
そういうことも踏まえて、労働というものを考えていく必要があると思うのですが、
そのような視点はなかなか持てないのではないかと思います。

自分の専門の視点から状況を眺め改善に努めていきます。
それはある部分から観たら改善しているのでしょうが、
全体から観たらそうとは言えないのかもしれません。

先に紹介した社労士の女性は自分が良いことをしていると思っています。
そして自慢げになっています。
ですが、その行動が社会にもたらすものは本当に良いことなのでしょうか?

今の社会は混乱し様々な問題が山積みになっています。

それは人々の思惑が絡み合い出来上がった世界です。
それが正義であろうが善意であろうが、
思惑から結果に対する所有や執着が生まれ、不満や対立が生まれていくのです。

世界をよくしようと思ったとしても、思惑を手放せなければ、
社会の混乱を助長するだけです。

自分ではなく出来事を主役にする。

そんな姿勢が大切なのだと思いました。

自分の意図で何かを生み出そうとするのではなく、
出会う出来事を通して自分を知っていく。
そして出来事の奥に流れる天意を感じていくのです。
そこに生まれる物語は自分だけのものではなく、
出来事を共有するみんなの物語となっていきます。

出来事を主役にすることで、人々が繋がっていきます。
そして、それは過去から現代、そして未来へと繋がっていきます。

ここで冒頭のいさどんの言葉です。

僕らは目指す世界を実現するために何も目指さないのです。
なぜなら何かを目指すことで思惑となるから。
心情的に何かが残っているならば、ただ淡々とそれを見つめ整理するだけです。
そして世界と出会っていく。

主役はこの世界であり、出会う出来事すべて。

僕はその物語の一部です。

僕が出来事を共有している木の花ファミリーのみんなです。

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