物語の終焉、そして始まり

天上天下唯我独尊


これはお釈迦さまの有名な言葉です。

すべてが繋がりあって存在するこの世界では、
他が存在しなければ自分は存在しません。
だけれども、それを認識するのは「我」なのです。
そういう意味では「我」がなければ、無に帰するとも言えます。

ただ我だけを尊ぶ。

だけれどもその「我」は宇宙のすべてを含んでいて、
すべてのものに支えらえているのです。

君あり、故に我あり。 君がいるから僕がいる。

それが、お釈迦さまが尊ぶ「我」です。

そして時代は下って・・・


我思う、故に、我あり。(コギト・エルゴ・スム)



私が存在するのは、私が思考しているから。

自分の存在基盤を自分の思考に求めたこのデカルトの言葉は、
自我による自然からの独立宣言で、
他者の存在なしでも自分は存在出来るという幻想を生み出しました。

自然から独立した自我は、自然をただの物質と捉え、切り刻み利用していきます。
それは自我による可能性や欲の追求で、その結果、物質文明は発展しますが、
自然環境は限界を迎え、人々は離れ離れとなり、自我は孤独になっていきました。

孤独となった自我は、不足感を持ち、それを埋め合わせよう努力します。
不安から必要以上に求めるようにもなります。
それは自然から離れた自我の生み出す矛盾です。
矛盾した努力は天の法から外れ、人が努力すればするほど社会は混乱していったのです。

自我を超えていく


僕は、自分を高め、全体を意識して生きることを心掛けているのですが、
つい最近、自我の欲が噴き出る出来事がありました。
それは僕が長年向き合ってきた爆弾のような性質で、まだくすぶっていたのです。

爆弾のような性質。

例えば、僕はこの爆弾により以下のような状態となったことがあります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

10年前の10月、中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、
そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。
そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、
僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。

僕はその頃、毎晩泣いていて、
人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。

そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、
心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。

なんか漫画みたいなバカな話。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…

僕はそれぐらい自分の感情に翻弄されていました。


空っぽへのあこがれ」より引用(一部修正)

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕が抱えている爆弾。

それを完全の乗り越えるために最近、以下の記事を書きました。

 識別してそぎ落としていく

 感情を創り出し、自らの感情で世界を豊かにしていく

そして、これを読んだいさどんは以下のように語ってくれました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

自分というものを内からだけ見ていてはいけません。

外から見える自分と内から見える自分というものが、
自由自在に行ったり来たり出来る状態になることが大切です。
ブログを読んでそれが少し出来るようになってきたことを感じました。

この道を極めることが大切です。
そこに向けて真っ直ぐに行くと人の価値が上がります。
そして価値が上がると自然にみんなから支持されるようになるのです。
その位置で願いが叶っていくことが大切です。
想うと叶うというのはそういうことです。

ところがあなたの場合、叶わない現状にありながら、
願いを叶えたいという願望や欲望になっているものだから、
宇宙の法から外れてしまったのです。
だからそれは「自分のこと」であり、我欲となっていくのです。
宇宙は「もっと叶えたい。あなたの望みは全部叶えたい。」と願っています。
その代わり宇宙の法に沿って願えということです。

だけれどもあなたの願いが叶うところまであなたが高まった時、
あなたにとってその願いはどうでもよくなっていることでしょう。
だから、今、あなたが持っている願いはどこかにボタンの掛け違いがあるのです。
そのためエネルギーを使えば使うほど価値を下げる状態となっています。
それはエネルギーの出どころが間違えているということです。

あなたは自分の心の足りない部分を埋めようとしています。
それは相手を見ているのではなく自分を見ているのです。
その願いは自分の矛盾から発生しているものです。
自分の中に矛盾がなければ、矛盾を埋めようという想いは出て来ません。
ただ淡々と生きていれば、そしてそれが清々しければ、
相応しく人が集まってくるのです。
そうではなく努力して人にアプローチする行為は、
自分を埋め合わせようとしている行為なのです。

あなたの矛盾は爆弾のようなものであり、あなたはそれを抱えています。
そうするとここに出会うことであなたがどれほど救われているか。
そう思いここに出会った価値を上げるとしたら、本物となることです。

そのためには正確に振り返ることが大切です。
逃げずに自分というものに真正面から向き合い、
誤魔化さずに正確に見ていくのです。
そうすれば自分が仕上がっていきます。

あなたは自分の爆弾を忘れてはいけません。
クリアしたからと言ってなくなったと思ってはいけません。
心を磨くという志を持っている限り、
自分の中にしっかり古傷としてもっていないと
調子にのったり、忘れたりします。
そうすると古傷が疼いた時にチェック出来ない状態となるのです。

だからしっかりと向き合いクリアしそれを忘れずにいて下さい。

☆彡 ☆彡 ☆彡 

今回、自分の中にはこの爆弾を見切った感覚があります。

だからしっかりと超えていける。

そう思っています。

爆弾は自我の矛盾から発生していました。
可能性や欲を追求した自我は孤独となり、不足感や不安をためていったのです。
それが僕の中で爆弾となっていきました。

そしてそれは時代が生み出した産物とも言えます。

デカルトの「我(コギト)」は産業革命へと繋がり、
それは物質的豊かさと同時に自我の孤独と荒廃を生み出していきました。

その動きは2012年12月21日の銀河の冬至(=闇のピーク)へと向かう動きであり、
冥王星の周期とも一致したものでした。

天体と人間世界は共に闇へと向かっていたのです。

そして今、銀河の夜明けを超え、宇宙は光へと向かっています。

その中で自我は他者や自然との繋がりを取り戻していきます。
そして、その自我を超えることで新たな時代が展開していくのです。

今、僕の中で一つの物語が終焉しました。
そして新たな物語が始まります。

それは天の流れを頂く物語であり、
僕の想像をはるかに超えたものとなっていくことでしょう(^-^)



木の花ファミリーの蓮池@タイ留学生出発の日





時代が世界を変え、僕を変える

天皇陛下がお気持ちを表明した8月8日はスピリチャルな世界の人々の間では「ライオンズゲート」と呼ばれています。以下、そのライオンズゲートについての説明を天下泰平ブログ「ライオンズゲートが開く88(8月8日)」より引用したいと思います。

☆彡 ☆彡 ☆彡


スピリチュアルな世界の人々の間では、毎年88日には「ライオンズゲート」と呼ばれる宇宙の整列が起こり、地球が銀河の中心と一直線になる時で物質世界と霊的な世界との間にある宇宙のポータルが開く時であると言われています。

毎年銀河における新年は、マヤ暦における元旦726日であり、この日から「スターゲート」と呼ばれる銀河の中心からのエネルギー量が増え、それは812日までの18日間続くそうです。


そして、そのピークが88日であり、この日に「ライオンズゲート」が開いて膨大なエネルギーが地球に降り注ぎます。

スピリチャルな世界の人々の間では、毎年8月8日は「ライオンズゲート」と呼ばれる宇宙の整列が起こり、地球が銀河の中心と一直線になる時と言われているようです。

 
☆彡 ☆彡 ☆彡

同じ日の8月8日。人類は1年間で使える地球資源を使い果たしたそうです。今、自分たちが使っている資源は未来の世代から奪っていることになります。「1年分の資源を使い果たす日」をアース・オーバーシュート・デー」というそうですが、この日は年々早くなっています。

2000年には10月だったオーバーシュート・デーは、2014年には8月19日、2015年は8月13日、そして今年はライオンズゲートが開く8月8日です。
 (※「人類、1年間で使える地球資源を8ヵ月で使い果たす」を参照して下さい。)

宇宙では物質世界と霊的な世界との間にあるポータルが開いた時、地球には物質文明の限界を知らせる合図が訪れ、人間世界では天皇陛下が生前退位の意向を示されました。

これらはすべて繋がっている。

僕はそう感じました。

「8」はカタカムナでは飽和安定を示す数字です。
その後、「9」で(異次元に)転がり出て、「10」で統合し、一つのサイクルが完了します。
そして、また「1」が生まれ、新たなサイクルが発生していく。
このサイクルがらせん状に繰り返され、進み続けるのがこの世界です。

今、宇宙や地球は「飽和」し、新たな次元に転がり出ようとしています。
天皇陛下はそのタイミングで生前退位の意向を示されました。

これが時代の流れというものなのでしょう。

ところで最新のいさどんブログのタイトルは、「この世界は時代によって動いている」です。
以下、その文章を少し引用します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この世界は、時代によって動いています。ですから、人間が現状に対して問題を感じ、それを改善しようとする必要は本来はないのです。それは人間も含めてすべて、宇宙が世界に現象を引き起こしているからです。

同時に、この世界の現象は人間も含めた物語として紡がれているのですから、本来、わたしたちはそこで何をするべきなのでしょうか。それは、時代の動きや意志を感じ取り、それと連携して生きていくべきなのです。

これまで人々には、「時代が意志を持って動いている」という視点はありませんでした。人々はどこかで、「自分たちが時代を創っている」と思い、画策してきたのです。しかし厳密に言えば、誰一人、時代を動かした者はいないのです。ナポレオンであろうがヒトラーであろうが、キリストであろうが釈迦であろうが、自らの思い通りに生きられた人は誰もいません。なぜならば、世界は常に時代の意志によって運営されているからです。


その意志は思惑を持っていません。常に変化・変容・変態を繰り返し、進化し続ける宇宙の実体が、淡々と世界を紡いでいるだけなのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

続けて昨晩いさどんが僕に語ってくれた話も紹介します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

宇宙は常にあなたの想いが表現されることを後押ししています。
そして相応しく「こと」が展開されていくのです。
それは本来、満ち足りた世界のはずなのです。

そんな宇宙の中で、自分の意思で想いを叶えようとすることは、そこに不足がある証です。不足があってそれを埋めようとしているのです。

その不足を生み出しているのは自分自身、自我の欲です。
そこに無理が生じていくのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

上記の文章は両方とも同じことを伝えているように思います。
世界のことにしろ、自分のことにしろ、自分の意図でなんとかしようとする必要はないです。
大切なのは、変化・変容・変態を繰り返す時代の流れを感じ取り、心を開いていくことです。
そうすることで、時代が世界を変え、僕を変えていくのです。

時代は今、物質社会が飽和し、精神世界へと転がり出ようとしています。
物質社会は人間が自我の可能性を追求する中でここまで発展しました。
その過程で、自我は他者と離れ離れとなり、孤独になっていきます。
自我の欲は不足感を生み出し、そこに無理が生まれ、社会に混乱をもたらしていきました。
そして、その結果、地球は限界を迎えているのです。

精神世界の探求は、人間が自我を超えることで深まります。
そして、時代は今、そちらの方へと転がり限界を超えようとしているのです。

自我を超えること、自我の超越について、上記のブログでいさどんは語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

「悟る」ということ、「超越」するということは、無になることでも、何かから救済されることでもありません。それは、宇宙の実体の側に立ち、同時にヒトであることにふさわしい思考回路を有している状態になることなのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

自分独自の視点を持つと同時に宇宙の側に立つこと。

それが自我を超えるということであり、
その時、自分オリジナルの想いが時代の流れの中で表現され、
満たされていくのです。

そこに不足はありません。
不足がないということは自我の欲もないということです。

そこがこれからの僕の立ち位置。

その立ち位置でみんなの中で自分を高めていきます。

木の花ファミリーのみんな@タイ留学生出発





感情を創り出し、自らの感情で世界を豊かにしていく。

生前退位を巡る様々な記事


スピリチャルな世界の人々の間では、毎年8月8日は「ライオンズゲート」と呼ばれる宇宙の整列が起こり、地球が銀河の中心と一直線になる時と言われているようです。
 ※天下泰平「ライオンズゲートが開く88(8月8日)」より

そんな特別な日である8月8日に天皇陛下が自らのお気持ちを表明されました。
それについて以下の記事を見つけ興味深く思いました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

天皇陛下が生前退位の意向を示唆された。8月8日付の産経新聞は世論調査を行い、生前退位に必要ならば「憲法改正してもよい」という回答が84・7%に上ったと報じた。天皇陛下の「お言葉」を政治的に利用し改憲につなげようとする意図が見え隠れする。

だが、日本国憲法第2条には「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と書かれている。生前だろうが死後だろうが、世襲なら憲法上問題なく、細かいことは皇室典範で定めるとしている。つまり、皇室典範という法律を変えれば済む話なのだ。そのことがバレれば、改憲の動きに水を差すので、自民党内からは「高齢で公務をこなせないなら摂政を置けばいい」という案も出ていたが、天皇陛下はそれも否定した。



☆彡 ☆彡 ☆彡

産経新聞だけでなく、静岡新聞にも生前退位と憲法改正を繋げて書いている記事があり、
僕自身、この2つが繋がっている印象を持っていました。
ですが、上記の記事を読んで、そのことが誤りだと知りました。

僕らは人の世に生きているわけで、どこに人の思惑があるか分かりません。
ですから、きちんと事実を確認していくことが大切なのだとあらためて思いました。

 ※上記の趣旨では以下の記事も目に参考になりました。
   天皇の生前退位を憲法「改正」の口実に使う最悪の政治利用

とはいえこれは人智の話です。

天体上で大きな意味がある8月8日に行われた天皇陛下のお気持ち表明には、
宇宙的にも大きな意味があり、このことの方がより重要なのです。
以下、いさどんの言葉を引用しますね。

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20121221日闇のピークを過ぎ、2016621日の夏至をもって銀河の夜が明けました。そして、これから光の時代へ向かうのですから、今回天皇陛下は時代の切り替わりを感じて、このようなお気持ちになられたのでしょう。これは宇宙的に観ても大きな出来事なのです。冥王星の248年の周期から観ても、日本に起きている天皇制の移り変わりと太陽と冥王星から観る時代の移り変わりが非常に連動していることが観て取れます。
ですから今、宇宙的に大きなターニングポイントを迎えたことから、日本には大きな災難が来ることが予測されますね。もちろん、それは世界中に来るのですが、その先駆けとして日本に来るのです。
ワンちゃん:
それは、自然災害ということですか?

いさどん:
いろいろな意味においてです。日本人が本来のヤマトの心を取り戻すために、それが起きているのです。今、日本人の心はアメリカに汚染されてしまっていますから、ヤマトの心に目覚めるためにはそれが必要なのです。それで、高齢になられた天皇陛下は、これまでのように重い務めを果たすことが困難になってきたと直観で感じ、若い皇太子に皇位を継承しようと想っていたのでしょう。「天」皇陛下ですから、「天」の意志を直観で感じたのだろうと僕は観ています。そういった意味で、宇宙的な新たな時代の訪れを感じさせる今回の天皇陛下のお気持ち表明だったのでしょう。
25800年ぶりのターニングポイントを迎えた今、王や聖人が支配する時代から、一人ひとりが目覚める時代へと突入しました。これまで天皇は国家を司るために天との儀式を行ってきたのですが、これからはわたしたち一人ひとりが天とつながり、地球をどう運営していくのかを考えていく時代になったのです。それは、一人ひとりが「天人」としての意識に目覚める時代の訪れです。
☆彡 ☆彡 ☆彡

そして、弥栄の会ブログでは、お気持ち表明について以下のように書いています。

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日本の伝統的な天皇の地位は、政治に対しては権力を持っていないが、国家の元首として権威を持っている存在でした。しかし、現行憲法での天皇はそのような「人」としての扱いではなく、「象徴」として国家のために生涯に渡って身を捧げる存在なのです。

新しい憲法のもとでそのような象徴天皇として即位したのは、今の天皇陛下が初めてでした。


「私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。」という出だしで始まり、「国民の理解を得られることを、切に願っています。」と結ばれたこのたびのお気持ち表明は、老後ぐらいは象徴としてではなく個人として、人間らしく心身共に解放された状態で生きてゆきたいという陛下の率直な気持ちが述べられたものではなかったでしょうか。

--- 中略 ---

昭和天皇の「人間宣言」は、日本人が天皇を絶対神と信じていると解釈したGHQの指令により行われました。このたびお気持ち表明をされた平成の天皇は、自らの意思で「人間宣言」をしたものと私は受け止めます。


201688日は、天皇陛下が私たち日本人の、人としての自由への扉を開いた日でした。




☆彡 ☆彡 ☆彡

今、時代はターニングポイントを迎え、これから自然や人間社会には大きなうねりが生じることが予想されます。その時、必要なのは誰か特別な存在に導かれるのではなく、一人一人が目覚め、天と繋がっていくことです。


天皇陛下はお気持ちを表明することで、人間としての自分を表明しました。

象徴としての天皇は特別なものであっても、
退位すれば人間に戻り、すべての人と同等になるのです。

一人一人の人間の下に天の意向が降りていく。

天皇陛下のお気持ち表明は、これからの時代を象徴する出来事と言えるでしょう。


感情を創り出していく


天の意向を受け、天と共に生きていくには、自分から自由になる必要があります。
自分から自由になるということは、自分の感情からも自由になるということです。

僕はずっとある特定の感情が生じた時、それを満たすために努力をしてきましたが、
それは感情に従属した行動であり、感情から自由になっていません。

人は感情を創り出すことが出来る。

そんな言葉が浮かんできました。

感情は味わうものではなく創り出すものなのです。
そして、そのために感情から自由になります。
感情から自由となり、天の意向を感じて、自らの感情を創り出します。
そして、自らの感情によってこの世界を豊かにしていくのです。

この世界は天の法則に支配されていて、
人は自らが発したものの結果を受け取っていくだけです。

大切なのはどんな行為をしたかよりも、どんな心からその行為をしたかなのです。
そしてそれは常に結果が教えてくれます。

結果は天からのフィードバックです。

それを受けて自らを振り返り、また新たに感情を生み出していく。

これからはそんなふうに生きていこうと思いました。



識別してそぎ落としていく

戦争などに現れる人間の本質


8月15日、終戦記念日の大人ミーティングでは、
いさどんブログ「これは宇宙プロジェクトです」がシェアされました。

この中でいさどんは第二次世界大戦について説明を始めますが、
その説明は15世紀~17世紀の大航海時代に遡り、現代にまで至ります。
その背後には人間の欲深物語が流れているのです。

人間が自分のことしか考えず、他人のものを奪ってでも豊かになろうとした結果

第二次世界大戦の原因を尋ねられたいさどんは端的にそう答えましたが、
この人間の特徴は現在まで続き、経済格差や内戦などに繋がっています。

このブログからミーティングでは戦争などに現れる人間の本質についての話になりました。

そして、一昨日、以下の映像を見つけ、
終戦前日の8月14日23時30分に熊谷が空襲されていたことを知りました。

8.14,2330 - 最後の空襲、熊谷 ‐

翌日に玉音放送が予定されており、日本が降伏することが分かっているタイミングでの空襲です。
とても理不尽なものですが、これも人間の本質を表しています。

遠い過去から第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て、現在まで続く人類の争いの歴史。
それらは人間の本質を表していますが、一つの方向性を追求することによって現れた本質です。

その方向性とは自我による可能性の追求であり、
一人一人が自我の欲望を追求し、それが集まることによって、
第二次世界大戦のような悲劇に発展し、それは形を変えて続いているのです。

今、宇宙は銀河の夜明けを経て、光の時代へと向かっています。
今まで人々は自我の可能性を追求し、離れ離れになっていきましたが、
これからは統合の時代となります。

人間の進む方向性は自我の可能性の追究から、自我を超える可能性へと変化していきます。
その時、全く違う人間の本質が現れるはずなのです。

木の花ファミリーの暮らしは時代を先駆け自我を超える可能性を追求して来ました。
それがすべてのものを分かち合う暮らし(経済)となって現れているのです。

   ※木の花ファミリーの経済については以下を参照して下さい。



自我を超えるためには、自我を知り、それと向き合う必要があります。

戦争などに現れた人間の本質は、自我が生み出したものであり、
自我を超えるためにはそれと向き合わなければなりません。
そのため僕たちは戦争などについて語り合う時間を大切にしているのです。

識別してそぎ落としていく


ところで、今日8月17日は父親の誕生日です。父さんは今日で70歳となりました。
僕は父さんから沢山の特徴を受け継いでいて、それは僕の自我となり、定期的に顔を出します。

1年前の10月、気付かぬうちに自我の可能性を追求し、
疲れて投げやりになっていた僕に対していさどんは以下のように語りました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

話すことがないというのはあなたの都合であって、
そのあなたの都合が全体にどんなものをもたらすのか?
そういうことを自分で感じてコントロールする段階に行かないといけません。
今、自分にはまっているからそういうことを言っているわけだけれども、
全体性というものを大事に考えていたら、そういうことは言わないはずです。
今のあなたの状態は定期的に起きてくるもの。
定期的に起きてくるならば、今はそこのポイントのところに向う良いチャンスだと思うが、
それをやらないといつまでも超えることは出来ません。
今、何をやれという具体的なことは何も言いません。
ですが、あなたのその姿勢では問題です。
きちんと向き合い超えていく。
それが覚悟というものです。
一人一人が自分と向き合ってみんなで場を創っていくのです。
そういうことをしないと次のビジョンは実現出来ないのです。

日頃、自分が安定している時に極めていこうという志と、
一度何か滞って、自分から見て自分自身の印象が悪い時の開き直り、
そして、やる気のなさがあなたの場合、極端になっています。
ですが、それは本当は逆なのです。
日頃の時ももちろん大事ですが、自分がやる気がなくなった時に自分と向き合う。
そこが一番のポイントです。

日頃、一生懸命に積み上げていたものが、
その状態だとある瞬間に全部ぶち壊してしまいます。

このあなたの本質が変わっていないのは、
覚悟を決めてそこに向き合っていないからです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

つい最近、同じような疲れに襲われてしまいました。
自分を高め、全体を意識して過ごそうと努力していましたが、
その奥には自我の欲があり、それが噴き出す出来事があったのです。
これは本当に印象が悪い出来事で、1年前なら嫌になってやる気を失っていたでしょう。

ですが、今は違います。
昨年の滞りは僕の中で生きています。
加えて僕は、他の場面でいさどんが以下のように語っていたことも思い出しました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

失敗して落ち込む人はその失敗で全部をなしにしていまいますが、それは違うのです。
自分自身と失敗をしっかり分析し、残すべき部分は残し、不必要な部分をそぎ落としていく。
そういう作業をする必要があるのです。
そういう作業をせずに良い部分、例えばやる気や前向きな気持ちなど。
それらもなしにしてしまうのは本当にもったいないことです。
それでは学びを積み上げていくことは出来ません。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕は自分を高めようとして、全体を意識して、日々の生活と大人ミーティングを楽しんでいました。
その姿勢は残すべきものです。
そぎ落とすべきは自我の欲であり、それをしっかりとやっていけばいいのです。

そんなふうに気持ちを切り替えると不思議と疲れが消えていきました。

心が変わればすべてが変わる

そんな言葉を思い出す瞬間でした。

わーい(^-^)


そうそう最後に戦争の話題に戻ることを忘れてはいけません。

自我の可能性を追求した人類は二つの世界大戦をはじめ様々な悲劇を生み出しました。
ですが、それは同時に科学技術をはじめとした知識を人類にもたらしているのです。
それらの知識はこれからも生かしていけばよいのだと思います。
そぎ落としていくべきは、自我の欲望です。

知識は生かし、欲望はそぎ落としていく。

そうすることで、人類の歴史はすべて生かされ、統合の未来へと至ることでしょう。









孤独となった自我を超える

Hatenaとのやり取りから


真実を明らかにする」をこのブログに掲載した際、
そのことをNIFTYやHatena、そして片山佳代子さんに知らせました。
その後、NIFTYからは連絡がありませんが、Hatenaと片山さんからは返信がありました。

Hatenaとはメールを数回やり取りしました。
そして、Hatanaは片山さんの記事の削除には応じることはないという結論を出しました。
それに対し、僕は以下の返信をし、このやり取りを終わらせました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

発信者への再照会ありがとうございました。
発信者及び御社の見解は理解しました。

物事の真実は当事者に寄り添い、奥の心を見た時に初めて理解出来ます。
ですが、多くの人が正義の立場に立ち、出来事の表面から周りを裁くことで、
この世界に分断と諍いが広がりました。

経済発展を良しとする今の指導者たちは、
この社会に格差をもたらし、テロの温床を生み出しました。
そして、その自分たちの姿勢を振り返ることはせずにテロリストを非難します。

その一方、テロリストたちは資本主義社会の矛盾を指摘し、
自分たちの攻撃を正当化しています。

憲法改正が話題となっておりますが、
改憲派、護憲派ともに自分たちの正しさを主張し、相手の姿勢を裁きます。

人が他者を裁くこと。
そして、その姿勢を広げることがこの社会に何をもたらすのか。

そのことを再考していただくことが削除申請の目的であり、
私がブログを掲載したことの目的でした。

法律に沿って考えた際、御社の判断に問題はないのでしょう。
ですが、その判断が社会に何をもたらすのかを常に考えていただきたいと思っております。
それが御社のように影響力を持つ企業の社会的責任であります。
そこでは法律には表現されない人生の機微に触れることが求められるのです。

以上、最後に思っていることを伝えさせていただきました。

インターネット上では様々な情報が拡散されます。
そこに適切に対応出来るように見識を深めていっていだきたいと思っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

☆彡 ☆彡 ☆彡

孤独となった自我を超える


魂を入れていく」にも書きましたが、

我思う、故に、我あり。(コギト・エルゴ・スム)

私が存在するのは、私が思考しているから。

自分の存在基盤を自分の思考に求めたこのデカルトの言葉は、
自我による自然からの独立宣言で、
他者の存在なしでも自分は存在出来るという幻想を生み出しました。

自然から独立した自我は、自然をただの物質と捉え、切り刻み利用していきます。
その結果、物質文明は発展しますが、自然環境は限界を迎えています。

その自然に対する態度は他者に対する態度にも反映されていきます。
自我にとって他者の存在は分析し利用する対象となってしまっているのです。
そして、それは他者の自我から見た自分にも言えることです。

近代以降、自我は孤独となり、不安を抱えています。

ニーチェは「神は死んだ」と表現しましたが、
人々は神である自然から命を奪っているのです。
そして、本来、人は自然の一部です。
自然から命を奪うことは自らの命を奪うことであり、
存在の基盤を失う結果に繋がります。
そのため自我は孤独となります。
孤独となった自我は他者を求めますが、
その態度に変化はなく、他者は分析し利用する対象のままなのです。

不安な自我は、安心を得るために自分に賛同してくれる存在を求めます。
他者からの承認を支えに生きていくようになります。
そのため、「間違え」は致命的な出来事であり、自らの「正しさ」を信じていたいのです。
自らの「正しさ」を信じるために、他者の間違えを指摘し続けているのです。

長くなりましたが、僕はインターネット上での誹謗中傷の奥に上記のような心理を感じています。

自我を超えること。

それは現代社会に生きる人間にとってとても大切なテーマです。

君あり、故に我あり

これはデカルトの言葉を意識して述べたサティシュ・クマールさんの言葉ですが、
今、人間に求められる態度を端的に表しています。

他者の存在により自分が生かされていること。

自然界の大いなる循環の中で暮らす生命にとって、それは客観的事実です。
そして、人間も生命です。

自分で生きている。

自我が持つそんな幻想を乗り越え、生命として目覚める時、
大いなる循環の中で人々は満たされ、
今、人類が向き合っている様々な問題は解決していくでしょう。

木の花ファミリーの暮らしはそんな未来に向けての実践です。

木の花ファミリーのみんな@川遊び(8月9日)です。


高揚感を生み出していく

バーチャルな世界に熱狂する人々


日本中がオリンピックで盛り上がる中、昨晩の大人ミーティングでは、
いさどんブログ「ポケモンGOに熱狂する人々がロシアドーピングを批判出来るのか」を、
みんなで共有し、以下のような話をしました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

東ドイツやロシアのドーピング問題の背後には、国威発揚があり、
そして、それはお金を稼ぐためにはなんでもする西側諸国の風潮が広がったものとも言えます。
スポーツは今、お金を求める手段となってきています。

最近、話題になっているポケモンGOについても、社会はその経済効果を歓迎しています。
ですが今、検索サイトで「ポケモンGO 依存症」と入力するとたくさんのサイトが出て来ます。
バーチャルなポケモンGOの世界に夢中になる人々は、薬物依存と変わりがないのです。
ですが、社会は経済効果を歓迎し、ポケモンGOが持つ問題点には目をつぶっているのです。

それは社会全体がお金という麻薬の中毒になっているからです。
そのお金も今、株式市場などを通してバーチャルな世界を生み出しています。

そして、スポーツを観戦し熱狂する人々。
彼らにとってスポーツは日常とは関係のないバーチャルな世界です。
試合の結果は彼らの日常生活に何の影響も与えません。

このように見ていくと、多くの人が自分の日常とは関係のない
バーチャルな世界に熱狂していることが分かります。
バーチャルな世界は自分を忘れさせます。
自分の実態は置き去りとなり、一人一人が未熟なままで、
社会に様々な混乱を生み出し、環境破壊をもたらしています。
社会全体がバーチャルな世界の依存症となり、
この地球の暮らしは立ちいかなくなってきているのです。

ですが、多くの人は自分の姿勢を疑うことはありません。
そして社会の中に悪を見出し、それを批判するだけなのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

依存症の背後にあるもの


人々は高揚感を求めてバーチャルな世界に夢中になっている。
そんなふうに思えます。
ですが、その高揚感はずっと続くわけではありません。

例えば、テレビゲームですが、やり始めは興奮したとしても、
続けているうちに感覚が麻痺していきます。
ですが、それに嵌まっていると止めることが出来なくなるのです。

それはおそらくパチンコなどのギャンブル、株取引なども同様でしょう。

高揚感を求める心。

それがバーチャルな世界に依存する人々を生み出していますが、
結局、彼らは求めた高揚感を得ることが出来ず、苦しんでいくのです。

大切なのは、自らの日常に立ち返ることです。
そして、日常生活を豊かにしていくのです。
そのために自分と向き合い、自分を高めていきます。

例えば高揚感ですが、それを外に求めるのではなく、自ら生み出していくのです。

そのような姿勢で努力をしていけば、日常生活はとても魅力的な場となります。
だから常に挑戦し続けることが大切です。

自分を高めるために。
この世界にために。

自分に何が出来るのか?

そのことを常に考え挑戦し、結果をいただき続けるのです。
それはドキドキわくわくする試みで、外に何かを求める必要はなくなります。

例えば、僕。

僕の中には受け身の性質が根強くあります。
自分の気持ちを曖昧にし、誰かが代わりにやってくれるのを待とうとするのです。
今、僕はその受け身の性質を振り切ろうとしています。

自分の気持ちを曖昧にせずしっかり把握します。
そして流れを感じながら然るべき行動をし、
表現していくことを心掛けています。

それがこの世界に何をもたらすかは常に結果を見て判断することですが、
日常がどんどん楽しくなり豊かになってきています(^-^)

一人一人の日常が豊かになれば、世界の豊かになっていきます。
その結果、地球も豊かになり、今ある様々な問題は解決していくでしょう。

そんなふうに思って日々を大切に過ごしています。

最後に、一昨日、木の花ファミリーのみんなといった川遊びの様子を紹介しますね。












自我のストッパーを外し、今までの自分を振り切る

自分を出すとは?


数日前の大人ミーティング。

みんなの話を聴いている時、以下の言葉が浮かんできました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

自分を出すことが大切だと語っているけれども、
今、みんなが出しているのは思考であって自分そのものではない。
頭で考えていることを話しているだけ。

☆彡 ☆彡 ☆彡

思考は自我の産物で、基本的には今の自分を守ります。
そんなものをいくら表明しても変化が起こることはありません。

自我は変化を嫌い固定を好みます。
加えて、自我は自分の価値観を人に押し付けます。

ですが、思考の奥には本当の自分がいて、
それこそが自分の実態であり、大自然の一部でもあるのです。
自然は変化し循環し続けます。
本当の自分は、その自然の法則のままに生きることが出来るのです。

だから本当の自分を出すことが大切です。
それが出来た時、その場の空気が変わり、
一人一人が変化していく魅力的な場が生まれるのでしょう。

今までの自分を振り切る


多くの人が口では変わりたいといいながら、
変われないのは自我に囚われているからです。
自我は固定を好みます。
変わろうと決心をして何か行動をしたとしても、
次の瞬間には自我に囚われ、今までの自分に引き戻されます。
変化を本物にするためには今までの自分を振り切る必要があるのです。

今年の1月。いさどんは以下のように語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

ひとつ、僕はわかったことがあるんだよ。
その言葉は、「切れる。」
切れるというのは、たとえばたこの糸が切れるとか、
意識がぶち切れるということ。
そうすると、今までつないでいたものが切れて、結果を所有しない。
そういった姿勢でないと、新しい価値観は生まれないし、表現できない。
だから、世の中の顔色を見てやっていくことを、
今年からは徹底的にやめないといけない。
それが、これからの意識だよ。

☆彡 ☆彡 ☆彡

いさどんはこのことを「自我のストッパーを外す」とも表現しています。
※以下、いさどんブログ「誰もが心を探求するスペシャリストとして生きる時代」より引用です。

☆彡 ☆彡 ☆彡

もし、もっと自分を花開かせ、可能性を観てみたいと思うのであれば、
そのストッパーを外すことです。
そのためには、自分を客観的に観えないといけません。
人はとかく、今までの経験を元にして、
ある時点から「わたしはこういう人だ」と自分を決定し始めます。
しかし、経験を積むことはストッパーを外すためにあるのです。
それなのに、人間は自我があるがために経験を所有し、
それを常識にして、その枠の中にい続けようとするのです。
未来は今までの経験を超えていくためにあるのですから、
今までの経験を活かすことはいいのですが、
それを固定してそこから結論を先に決めてはいけないのです。
それが、自我の乗り越え方です。

☆彡 ☆彡 ☆彡

自我のストッパーを外し、今までの自分を振り切っていく。
そのためには何より意図していないことに心を開いていく必要があります。
それは天の流れを意識した暮らしです。
流れを感じ、流れを通して、自分と世界に道理を通していく。
その時、思いもよらない未来が展開し、可能性は無限に広がっていくのでしょう。
そんな未来に向けて常に今までの経験を超え続けていこうと思っています。




流れは人々の心を浮き彫りにしていく

前回の記事「魂を入れていく」は、大人ミーティングでの場創りの足しになれば・・・と思い書いたものです。
ですが結局、これをミーティングでシェアすることはありませんでした。
というのは、場は他の理由で整い、この記事のシェアは必要としていなかったからです。

僕の意図は流れに乗ることはありませんでした。
ですが、これはこれでいいのです。
大切なのは、場が整うことであり、僕の意図は重要ではないからです。

意図は重要ではないのですが、意欲は重要です。
ブログを書いたのは、ミーティングでの場創りのためであり、
僕にはミーティングで場創りをする意欲と意思がありました。
それは流れに沿うものとなりミーティングでの場創りに貢献していくのです。

流れは人々の心や社会の現状を浮き彫りにします。

もし僕が自分の意図にこだわる心を持っていたら、
上記の出来事でふて腐れ、意欲を失ったかもしれません。
実際、数年前の自分ならば、このようになっていたと思います。
ですが、今の自分は変化し、流れを楽しむ心が育まれているのです。

71年前の今日、広島に原爆が落とされました。
この痛ましい流れは自分の愚かさを浮き彫りにしましたが、未だ原爆はなくなりません。
この事実は社会の現状を浮き彫りにしています。

今日、リオのオリンピックが開催式を迎えますが、
今でもロシアのドーピング問題で揺れ動いています。
そして、ブラジル国内も混乱に極みにあり、大統領は弾劾に問われ、
停職中で、暫定政権にも不正疑惑が相次いています。
この状況は人々が自らの欲望を追求した結果であり、
人類の現状を浮き彫りにしているのです。

宇宙は銀河の夜明けを経て、光の時代へと向かっています。
宇宙は、光に向って流れ、人々の心や社会を照らし、浮き彫りにしているのです。
これは天が生み出している流れです。

ここでもう一度、流れについてのいさどんの言葉を紹介します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

天は流れを創る。
そしてその流れに具体的にことを乗せるのは、地の仕事である。
流れを観て、流れに応じた行動をする。そういうコラボである。
道理を考えて人智を回すことも大事だが、それをやり過ぎると人智だけになり流れを忘れるから、流れを観ながら人智を回していく。当たり前のことだが、ついつい出来事に意識が行き過ぎると、そのことを忘れる。
流れを観ていれば、ことはスムーズに進む。
それは流れているのだから、行きつくところに行きつく。
流れを観るとは、結論が出るということではない。
流れを観て、それに沿うと、行きつくところに行きつくから、その時に「ああそうか」といただく。結論はない。しかし流れをしっかり読める人間は行き着く先が想像できるものだから、思った通りにことが成るということだ。それは最初から成るべきことが成るように生きているということである。
このようなものの捉え方でいると、道理が常に通っているから、自分の考えている通りにすべてが回る。


☆彡 ☆彡 ☆彡

天の流れによって浮き彫りにされていく自分や社会。
それとしっかり向き合う中で、流れに沿い、道理を通していく。
それは自分と世界を正していく行動です。

流れを感じて、自分を見る。そして、流れに沿っていく。

一人一人がそのように生きることが大切で、その先に真の平和が訪れます。

それは人類未踏の世界です。

その先駆けとなるよう僕は木の花ファミリーでみんなと共に心を磨いています。

これは当然希望の物語です(^-^)

木の花ファミリーの生活風景(7月28日夏祭りより)




魂を入れていく


天の流れを忘れる人々


人が自然の一部だった頃は、人は天(天気、天候、気候、季節)のリズムと共に生きていました。
自然の流れを読み、それに沿って生きる必要がありました。

その後、近代文明が発達し、人は自然の影響からある程度自由になりました。
人工的な環境を作りだし、季節に関係なく1年中同じように暮らせるようになります。
そんな中、人は天のリズムを忘れていきます。

我思う、故に、我あり。(コギト・エルゴ・スム)

私が存在するのは、私が思考しているから。

自分の存在基盤を自分の思考に求めたこのデカルトの言葉は、
自我による自然からの独立宣言で、
他者の存在なしでも自分は存在出来るという幻想を生み出しました。

そして自然や他者との関係性を無視し、人々が思うがままに行動した結果、
現在の発展と混乱した社会があるのです。

自我は一人一人別々の認識や解釈をもたらします。
今、世界には70憶以上の認識や解釈が存在し、
多くの人がそれに囚われ、翻弄されて生きています。

今、世界をテロリズムが騒がせていますが、テロリストにもテロをする理由があり正義があります。
ですが、彼らは彼らの視点に囚われています。

そして、そんなテロリストを生み出しているのは、貧困や格差を生み出している社会であり、
それは個人的利益を追求することを良しとする人々が生み出しています。
そんな人々の視点も囚われています。

そこには天や自然の流れを意識する視点がないのです。

天の流れとは?


天の流れについていさどんは以下のように語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

天は流れを創る。
そしてその流れに具体的にことを乗せるのは、地の仕事である。
流れを観て、流れに応じた行動をする。そういうコラボである。

道理を考えて人智を回すことも大事だが、それをやり過ぎると人智だけになり流れを忘れるから、流れを観ながら人智を回していく。当たり前のことだが、ついつい出来事に意識が行き過ぎると、そのことを忘れる。

流れを観ていれば、ことはスムーズに進む。
それは流れているのだから、行きつくところに行きつく。
流れを観るとは、結論が出るということではない。
流れを観て、それに沿うと、行きつくところに行きつくから、その時に「ああそうか」といただく。結論はない。しかし流れをしっかり読める人間は行き着く先が想像できるものだから、思った通りにことが成るということだ。それは最初から成るべきことが成るように生きているということである。

このようなものの捉え方でいると、道理が常に通っているから、自分の考えている通りにすべてが回る。

☆彡 ☆彡 ☆彡



魂を入れていく


天はインスピレーションを通して流れを示唆します。
その時、それを結論としてしまうと、そこに囚われが生じ、流れを失います。
自分の都合で解釈をしても、流れはなくなります。

流れを観て、流れに沿う。

そのためには自分の視点を離れる必要があります。

最初のインスピレーションは種のようなもの。

それが育っていくためには、人はその都度、適切な関わりをしていく必要があるのです。

魂を入れていく。

僕にはそんな言葉が浮かびました。

天の流れを形にしていくのは、人の仕事であり、
関わる人たちがそこに自分の魂をのせていくのです。

その作業は自らの思惑を離れたものであり、天の意向に沿ったものです。

魂をのせることで流れが熟していきます。

それは自分の想像を超えたとても大きな出来事であり、
同時に日常の中でも表現されることであり、
大きなことと小さなことが繋がり、世界が一つになっていくのです。

こんなことを想像するととてもわくわくします(^-^)

一人一人が自らの自我に翻弄されずに、天の意向に沿って生きていけば、
そこには調和が表現され、争いやテロを必要としない世界になっていくでしょう。

そんな世界に向けて、最近、木の花ファミリーでは流れについて語り合っています。




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