孤独となった自我を超える

Hatenaとのやり取りから


真実を明らかにする」をこのブログに掲載した際、
そのことをNIFTYやHatena、そして片山佳代子さんに知らせました。
その後、NIFTYからは連絡がありませんが、Hatenaと片山さんからは返信がありました。

Hatenaとはメールを数回やり取りしました。
そして、Hatanaは片山さんの記事の削除には応じることはないという結論を出しました。
それに対し、僕は以下の返信をし、このやり取りを終わらせました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

発信者への再照会ありがとうございました。
発信者及び御社の見解は理解しました。

物事の真実は当事者に寄り添い、奥の心を見た時に初めて理解出来ます。
ですが、多くの人が正義の立場に立ち、出来事の表面から周りを裁くことで、
この世界に分断と諍いが広がりました。

経済発展を良しとする今の指導者たちは、
この社会に格差をもたらし、テロの温床を生み出しました。
そして、その自分たちの姿勢を振り返ることはせずにテロリストを非難します。

その一方、テロリストたちは資本主義社会の矛盾を指摘し、
自分たちの攻撃を正当化しています。

憲法改正が話題となっておりますが、
改憲派、護憲派ともに自分たちの正しさを主張し、相手の姿勢を裁きます。

人が他者を裁くこと。
そして、その姿勢を広げることがこの社会に何をもたらすのか。

そのことを再考していただくことが削除申請の目的であり、
私がブログを掲載したことの目的でした。

法律に沿って考えた際、御社の判断に問題はないのでしょう。
ですが、その判断が社会に何をもたらすのかを常に考えていただきたいと思っております。
それが御社のように影響力を持つ企業の社会的責任であります。
そこでは法律には表現されない人生の機微に触れることが求められるのです。

以上、最後に思っていることを伝えさせていただきました。

インターネット上では様々な情報が拡散されます。
そこに適切に対応出来るように見識を深めていっていだきたいと思っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

☆彡 ☆彡 ☆彡

孤独となった自我を超える


魂を入れていく」にも書きましたが、

我思う、故に、我あり。(コギト・エルゴ・スム)

私が存在するのは、私が思考しているから。

自分の存在基盤を自分の思考に求めたこのデカルトの言葉は、
自我による自然からの独立宣言で、
他者の存在なしでも自分は存在出来るという幻想を生み出しました。

自然から独立した自我は、自然をただの物質と捉え、切り刻み利用していきます。
その結果、物質文明は発展しますが、自然環境は限界を迎えています。

その自然に対する態度は他者に対する態度にも反映されていきます。
自我にとって他者の存在は分析し利用する対象となってしまっているのです。
そして、それは他者の自我から見た自分にも言えることです。

近代以降、自我は孤独となり、不安を抱えています。

ニーチェは「神は死んだ」と表現しましたが、
人々は神である自然から命を奪っているのです。
そして、本来、人は自然の一部です。
自然から命を奪うことは自らの命を奪うことであり、
存在の基盤を失う結果に繋がります。
そのため自我は孤独となります。
孤独となった自我は他者を求めますが、
その態度に変化はなく、他者は分析し利用する対象のままなのです。

不安な自我は、安心を得るために自分に賛同してくれる存在を求めます。
他者からの承認を支えに生きていくようになります。
そのため、「間違え」は致命的な出来事であり、自らの「正しさ」を信じていたいのです。
自らの「正しさ」を信じるために、他者の間違えを指摘し続けているのです。

長くなりましたが、僕はインターネット上での誹謗中傷の奥に上記のような心理を感じています。

自我を超えること。

それは現代社会に生きる人間にとってとても大切なテーマです。

君あり、故に我あり

これはデカルトの言葉を意識して述べたサティシュ・クマールさんの言葉ですが、
今、人間に求められる態度を端的に表しています。

他者の存在により自分が生かされていること。

自然界の大いなる循環の中で暮らす生命にとって、それは客観的事実です。
そして、人間も生命です。

自分で生きている。

自我が持つそんな幻想を乗り越え、生命として目覚める時、
大いなる循環の中で人々は満たされ、
今、人類が向き合っている様々な問題は解決していくでしょう。

木の花ファミリーの暮らしはそんな未来に向けての実践です。

木の花ファミリーのみんな@川遊び(8月9日)です。


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