自己主張としての絶望感にメスを入れる

今年の夏至の意味と僕の体調


4日前に37度8分あった体温は、一時、38度3分まで上がりましたが、
昨日から36度9分まで下がっています。
その間、日中に寝込むということはなく、ほぼ通常通りに過ごしていました。

もうすぐ夏至です。

先住民族の伝承によると、今年の夏至は特別なようで、
銀河の冬至でもあった2012年の冬至から今年の夏至までは「夜明けの晩」にあたるようです。
 ※「よあけて であえて」第1話『宇宙時間』参照

2016年6月20日の満月、そして6月21日の夏至を間近に控えた今は、
鶴と亀がすべる(統べる)夜明けの晩の最後の仕上げの時です。

分離の時代が終わり、統合の時代が本格的にスタートすると言われる今、
熱をいただいたのは、最後の禊ぎであり、そぎ落としという意味があったのだと思います。

自己主張としての絶望感にメスを入れる。


ここ数日で僕の体重は4kg減り、49.5kgとなりました。(身長は172cmです)。
そして昨日、最近では全く感じることがなかった古傷のような感情が疼きました。

それは、どんなに一生懸命になっても、なにをやっても理解して貰えないという絶望感。
それが急に疼いて心がかき乱されました。

かき乱される中で、僕は自分自身の思考に突っ込みを入れていきました。

どんなに一生懸命になっても・・・と言うけれども、
その一生懸命さは本当に的を射たものだったのだろうか?
それが本当に純粋なものだったならば、
理解をいう見返りを求める必要はないはずだ。

そもそもなぜ理解を求める必要があるのだろうか?
今、僕がここに存在しているのは、
生きとし生けるものの存在の中で生かされているからであり、大いなる恵みの中にある。
その中で、理解してもらう必要がある「自分の考えや気持ち」なんてあるのだろうか?
「理解されない」ということは、その考えや気持ちは必要ないということではないのか?

絶望感というけれども、その絶望感は、結局は自己主張に過ぎない。
自我が自分の存在を主張するためにしている自己主張で極めて不合理なものだ。

要するに、自己主張によって勝手に絶望し自ら可能性を閉ざしていくのだ。
それは変化に対する恐怖から来ている。

理解して貰いたいと言いながら、理解されない状況を生み出し絶望感に甘んじる。
そして辛さを訴え自己主張する。

自分では変化するつもりになっている。
だから気持ちが落ち着いたら、一生懸命になる。

でも、その一生懸命は見返りを求めるもので、的外れ。
無理を重ね負担が生じ、そしてまたいつか絶望し、辛いと訴え自己主張する。

その後、気持ちが落ち着いたら・・・・

くだらないループ。

それが僕を長年苦しめていたものの答え。

最近は、ふっと意識をフリーにして、天に心を向けるようにしているから、
こんなループに嵌まることはほとんどなかったのですが、急に疼いてびっくりしました。

ですが今、疼いてくれたお蔭で、あらためて見つめる機会となり、超える機会となりました。

夏至を前に、余分なループのそぎ落としです。

宇宙の本質のままに生きる


まわりてめくる

宇宙の星々は円ではなく螺旋を描いて移動しています。
ぐるっと回って同じ位置に戻るように見えても、
少しずつ位置(トキ軸とトコロ軸)がずれているのです。
春は毎年新しい春としてやってきます。

瞬間瞬間新しい出会い。

それが宇宙や自然の姿です。

同じことを繰り返すループ。

それは自然や宇宙の本質から外れたものであり、本来の姿とは言えません。

余分なループをそぎ落とした僕は、これから毎日を新しい出会いとして受け取っていきます。



富士山と朝日です。(ほぼ1ヶ月前のものですが・・・)








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