健全な生命、人間以外の生命は、自分を活かすということを、無意識のうちにできるようになっています。しかし人間は自我が強すぎるために、意識したことが自分に矛盾を生むような生き物になってしまいました。ですから自我を超越するための修行が必要になったのですが、修行というのは、本来必要ないものなのです。人間以外の生き物で、修行をする生き物はいないでしょう?ところが人間は、特別な境地に自らを追いやらなければ、そこに気付けないのです。だから止むを得ず、自らの状態を客観的に観て自我を超越するための修行が必要になるのです。
しかしそれは本来、特別なものではありません。自らの思考に囚われない客観的な思考を持つことにより、目指すべき精神状態というのは自然に湧き出してくるものです。生命である人間には、そういった仕組みがもともと備わっています。そしてそれは人間だけではなく、他の生命にも全て、自らを正しく活かす仕組みがもともと備わっているのです。
「どうしたら自分は良い人生が生きられるだろう?」と考えた時点で、既に自我の虜になっています。そのような、自らの願いと反対の方向へ進む思考を巡らせるのではなく、今、自らに与えられている現状を頂いていくことが大切です。その現状を通して大切な気付きを得るための修行を与えられていると思い、現状への感謝の心が湧いてくれば、道は開けるものなのです。
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上記は最近アップされたジイジのブログですが、この文章を読んで、「だからこそ人間には『道』がある」という言葉が浮かんできました。そして、5年前に「道」について書いた文章を思い出しました。それはこんな内容です。
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ジイジのブログ『とんとんとんと超えていく』ではこの暮らし、この道を川の流れにたとえています。流れに任せて、その時その時の風景を味わいながら、留まることなく流れ続け、最後に大海に至ります。大海に出たら、その一部となり、太陽の力(宇宙の循環システム)によって蒸発し、また宇宙を生きる種として再生し、地球に降り注ぎ再び川になっていきます。
大いなる循環の中で常に変化して生きていこうと思っています。
僕は川を流れていくと同時に山を登っていきます。 |
またこの道は山登りにたとえられることもあります。頂上に至るまでにはいろいろなルートがあるけれども、必ず最後は一つの場所にいきつきます。
頂上をみんなと共有し、僕は僕の道(未知)を歩んでいきます。
登り続けて流れ続ける。
この相矛盾するように思える行動に矛盾がない世界。
それがこの世界。
僕は僕の道(未知)を登り続けて流れ続けていきます。
そして最後は大海の一部となり山の頂上から世界を見渡します。
ジイジのブログ『いつか死を迎える時に』には以下のような記述があります。
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人が生きて、終末を迎えたときに問われるのは、「濁り」なのです。人生の内容のことは何も問われません。そこでは心の濁りだけが浮き彫りになり、自らの生きた結果として問われることになるのです。
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自分が大海へ至った時に、自分の濁りで大海を汚さないように。
本当の意味でそこに融け合うことが出来るように。
僕は自分の願いから自由になります。
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Understanding is like water flowing in a stream. Wisdom and knowledge are solid and can block our understanding.
理解とは小川を流れる水のようなもの。知恵や知識は固定していて、理解の妨げになる。
上記はティク・ナット・ハンの言葉。だからこそ、この道は川の流れにたとえられます。流れに任せ、目の前の現状をいただき続け、自らの認識、理解を更新し続けていくのです。そして、「いただきます」という言葉が示す通り、いただけばいただくほど頂き(頂上)は増していくのです。
だから僕は、登り続けて流れ続けます。
Bthemez
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