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登り続けて流れ続ける。

登り続けて流れ続ける。

健全な生命、人間以外の生命は、自分を活かすということを、無意識のうちにできるようになっています。しかし人間は自我が強すぎるために、意識したことが自分に矛盾を生むような生き物になってしまいました。ですから自我を超越するための修行が必要になったのですが、修行というのは、本来必要ないものなのです。人間以外の生き物で、修行をする生き物はいないでしょう?ところが人間は、特別な境地に自らを追いやらなければ、そこに気付けないのです。だから止むを得ず、自らの状態を客観的に観て自我を超越するための修行が必要になるのです。 しかしそれは本来、特別なものではありません。自らの思考に囚われない客観的な思考を持つことにより、目指すべき精神状態というのは自然に湧き出してくるものです。生命である人間には、そういった仕組みがもともと備わっています。そしてそれは人間だけではなく、他の生命にも全て、自らを正しく活かす仕組みがもともと備わっているのです。 「どうしたら自分は良い人生が生きられるだろう?」と考えた時点で、既に自我の虜になっています。そのような、自らの願いと反対の方向へ進む思考を巡らせるのではなく、今、自らに与えられている現状を頂いていくことが大切です。その現状を通して大切な気付きを得るための修行を与えられていると思い、現状への感謝の心が湧いてくれば、道は開けるものなのです。ジイジのブログ:「修行」とは本来必要ないもの・より☆彡 ☆彡 ☆彡上記は最近アップされたジイジのブログですが、この文章を読んで、「だからこそ人間には『道』がある」という言葉が浮かんできました。そして、5年前に「道」について書いた文章を思い出しました。それはこんな内容です。☆彡 ☆彡 ☆彡ジイジのブログ『とんとんとんと超えていく』ではこの暮らし、この道を川の流れにたとえています。流れに任せて、その時その時の風景を味わいながら、留まることなく流れ続け、最後に大海に至ります。大海に出たら、その一部となり、太陽の力(宇宙の循環システム)によって蒸発し、また宇宙を生きる種として再生し、地球に降り注ぎ再び川になっていきます。大いなる循環の中で常に変化して生きていこうと思っています。僕は川を流れていくと同時に山を登っていきます。またこの道は山登りにたとえられることもあります。頂上に至るまでにはいろいろなルートがあるけれども、必ず最後は一つの場所にいきつきます。頂上をみんなと共有し、僕は僕の道(未知)を歩んでいきます。登り続けて流れ続ける。この相矛盾するように思える行動に矛盾がない世界。それがこの世界。僕は僕の道(未知)を登り続けて流れ続けていきます。そして最後は大海の一部となり山の頂上から世界を見渡します。ジイジのブログ『いつか死を迎える時に』には以下のような記述があります。- - -人が生きて、終末を迎えたときに問われるのは、「濁り」なのです。人生の内容のことは何も問われません。そこでは心の濁りだけが浮き彫りになり、自らの生きた結果として問われることになるのです。- - -自分が大海へ至った時に、自分の濁りで大海を汚さないように。本当の意味でそこに融け合うことが出来るように。僕は自分の願いから自由になります。願いから自由になるために生まれてきたより☆彡 ☆彡 ☆彡Understanding is...

人類共通の学びを紹介していく

人類共通の学びを紹介していく

2019年3月7日、魚座新月の日は朝から雨で、この季節には珍しく雷も鳴りました。そしてその夕方、雨はあがり、空には美しい虹が掛かりました。その虹はまるですべてを洗い流した空を祝福しているかのようでした。 このブログの書き手であったなかのんは、その3月7日1時5分、魚座新月となったタイミングでこんな文章をアップしています。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 3月7日は、僕の44歳の誕生日でもあります。月が始まりの位置にあるトキ、太陽が僕の始まりの場所に戻りました。そして、2019年3月7日は「4」の日です(2+0+1+9+3+7=22、2+2=4)。「4」の日に「44」歳になった僕は、禊(みそぎ)により今までの自分を「死(4)」なせ、この世界に溶かし、生きとし生けるものの繫がりの中で、世界を豊かにするために生きていく。そんなふうであるように日々努めていこうと思います。 「狂った反応パターン、そのものを手放す」より ☆彡 ☆彡 ☆彡 その言葉の通り、この日の彼は、自らの汚れを吐き出すことで洗い流され昇天しました。上記の文章は、彼がずっと前から用意していたもので、この文章を最後に、彼はしばらくブログをお休みすることを考えていました。そんな彼は、他の木の花ファミリーメンバーからも以下のような言葉を貰っていました。 ☆彡 ☆彡...

狂った反応パターン、そのものを手放す

狂った反応パターン、そのものを手放す

中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、 そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。僕はその頃、毎晩泣いていて、人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。なんか漫画みたいなバカな話。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ… 僕はそれぐらい自分の感情に翻弄されていました。それはある意味、極端な精神状態への憧れでもあります。忘我。自分を忘れるほどの熱狂、狂気。僕の中にはその状態を求める気持ちがあり、それが時に無理な行動に繋がり、自分を壊していきます。 「空っぽへのあこがれ」より ☆彡 ☆彡 ☆彡 上記は、このブログで何度か紹介している13年前のエピソード。この頃の僕は、人格的にはどうしようもないと思える人に惹かれていて、それと同時にその人と同じ空間にいることが耐えられないぐらいにムカついていました。そのムカついている感情は、訴えても状況が改善することはなくて、それをそのまま維持しているのが辛くなり、惹かれる感情を優先してムカついている感情を超えようとしては、満たされずに消耗してボロボロになっていくということを繰り返していました。その結果、自分がどうしようもない人格となっていきましたが、結局、ひどいものと思える相手の反応も自分が引き出し相応しく与えられたものと言えます。すべては僕の一人相撲なのです。 自分の反応パターンが完全に狂っている 僕はこの事例を通してそのことを認識しました。この事例は、極端な例ですが、自分の中に相反する想いがあるトキ、それに向き合わずにいることで、矛盾した行動に繋がっていくことは、他の場面でも経験してきています。 たとえば最近では、滞りを経験し、みんなに合わす顔がないと感じる自分がいました。それと同じくして、高いところに意識を向けることで、今の状況を乗り越えようとして、ブログを書く自分がいました。心を閉ざす気持ちを抱えながら、自らの想いを発信しようとする。それは相反する想いであり、それに無自覚でいると、見知らぬ人には感銘を与えることが出来たとしても、身近の人をしらけさせてしまいます。ここ最近の僕のブログにはそういう傾向が確実にありました。 そして、人類全般に目を向けた時、環境破壊がこれだけ進み、未来に漠然とした不安を抱えながらも、経済発展という欲を追い求めるこの世界の動きは、大きな矛盾を抱えたもので、人類全体の反応パターンも狂っているように思えます。 自分の中に世界を見て、世界の中に自分を見る。そしてそこに向き合っていくことが大切だと思っています。そして、...

何とかしようとする心が・・・

何とかしようとする心が・・・

1月17日に出会ったアオバト 1月9日の朝日です。 1月26日の朝日です。 青い(緑の)鳥に出会ったり、八方に光を放つ太陽の写真を撮ったりと、今年の1月は吉兆だと思えることに出会っていましたが、その行きつく先は滞りでした。これはなぜなんだろう?としばらく思考を巡らしていましたが、今はこんなふうに思っています。 そのトキ起きた滞りは、僕の実態を教えてくれましたが、実態こそがいつでも天に繋がっていて、実態と真摯に向き合う姿が尊いものだと言えます。幻想を壊し実態と向き合うように導く滞りに出会ったのだから、やはりそれらは吉兆だったのです。吉兆は天の意思に基づくもので、自分都合のものではないのです。 こんな感じに思っています。ところで、 今の状態に問題を感じて、何とかしようと真剣に向き合う姿勢が、かえって自分の視野を狭くしていたことに気づきました。それはどうしてかというと、その何とかしようとする気持ちが自分都合であり、その問題は、本当の意味では大切なことではないからなのだと思います。この場合、何とかしようとする気持ち自体が、問題の種になっています。僕は「これは人生最大の課題だ」と思っていて、何とかしようとし続けていましたが、その姿勢が問題の種となり続けていたのだとしたら、超えることが出来なかったのは当然と言えます。何とかしようとする気持ちを手放し、ただ目の前の状況をいただき続けたトキ、問題は立ちどころに消え去るのかもしれません。これはあくまで仮定で、だから先に行ってみないと分からないことだけれども、そんなふうに思いました。 それでこれは環境問題や平和運動にも通じることなのかもしれません。それらの問題を何とかしようとする心が自分都合のものだったらならば、その姿勢が視野を狭くしてかえって問題を複雑にしているのかもしれません。ただ目の前の状況をいただき続けたトキ、そのためにそのトキ起きる心のさざ波を鎮め続けたならば、この世界の問題事は立ちどころに消え去るのかもしれません。 ここで思い出したのが以下の言葉。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 許すこととは相手を無罪放免することではなく自分自身を負の感情から自由にすること。...

人生は波乗り、その奥に本質を見出す。

人生は波乗り、その奥に本質を見出す。

僕は昨年の11月から一つの試みをしていたのですが、今からそれを見ると、浮かんでは消える波の一つのように感じています。波と海について、かつて僕は以下のように書いています。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 僕は海。そして浮かんでは消える波として人生を送ります。 波としての自分に焦点を当てれば、それは自分の人生と感じるかもしれませんが、僕は本来、海そのものなのです。だから、波(自我)としての自分は他のすべての波(自我)と同様で、世界の彩りの一つに過ぎず、それはみんなのものなのです。 僕は自分を通してみんなの人生を生きる。 それは僕の人生が僕だけのものではなくみんなのものでもあるということです。 「みんなの人生を生きる」より ☆彡 ☆彡 ☆彡 波としての自我は、海としての天・世界から離れる動きをします。その波が大きいとまるで海(天)から外れてしまったようにも感じますが、その動きも海(天)の一部であり、必ず海(天)へと戻っていきます。海(天)はこの世界の均衡を保つものだとしたら、波(自我)は動きをもたらすもの。双方があって世界は豊かな彩りを放ちます。 大きすぎる波に出会うと、上手に乗れずに溺れてしまい、自分を見失うことになります。昨年の11月から乗っていた波は、人生最大のテーマから生まれる波で、今まで数多くの滞りと混乱を僕の人生にもたらしてきました。このブログでは何度か紹介している以下のエピソードはその一つです。これは13年前の出来事です。...

叶わない願いがある、だからこそ人生には意味と価値がある。

叶わない願いがある、だからこそ人生には意味と価値がある。

木の花ファミリーのみんなです。 常に意識を全体性に持っていく必要があります。あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?それが重要です。個人的願望が全体性と共通していればいいのです。例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、全体性と個人は本来、共通していることなのです。ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。 心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。 だから何より心を磨き続けることです。 そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。 それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。 「心を磨いた結果出会うこと」より ☆彡 ☆彡 ☆彡 上記は2015年の七夕にジイジから語って貰った言葉で、僕にとって大切な言葉の一つとなっていますが、僕はこの言葉を少し違うふうに捉えていたことに気づきました。 願いが叶わない状況が自分を高めるのは確かなのですが、願いが叶わない=心磨きが足りない、だから、心を磨いて願いを叶えなければならないとなると変な話になっていきます。ここで昨年の秋分の日に僕が書いた文章を紹介します。 ☆彡...

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