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何とかしようとする心が・・・

1月17日に出会ったアオバト

1月9日の朝日です。
1月26日の朝日です。


青い(緑の)鳥に出会ったり、八方に光を放つ太陽の写真を撮ったりと、今年の1月は吉兆だと思えることに出会っていましたが、その行きつく先は滞りでした。これはなぜなんだろう?としばらく思考を巡らしていましたが、今はこんなふうに思っています。

そのトキ起きた滞りは、僕の実態を教えてくれましたが、実態こそがいつでも天に繋がっていて、実態と真摯に向き合う姿が尊いものだと言えます。幻想を壊し実態と向き合うように導く滞りに出会ったのだから、やはりそれらは吉兆だったのです。吉兆は天の意思に基づくもので、自分都合のものではないのです。

こんな感じに思っています。ところで、

今の状態に問題を感じて、何とかしようと真剣に向き合う姿勢が、かえって自分の視野を狭くしていたことに気づきました。それはどうしてかというと、その何とかしようとする気持ちが自分都合であり、その問題は、本当の意味では大切なことではないからなのだと思います。この場合、何とかしようとする気持ち自体が、問題の種になっています。僕は「これは人生最大の課題だ」と思っていて、何とかしようとし続けていましたが、その姿勢が問題の種となり続けていたのだとしたら、超えることが出来なかったのは当然と言えます。何とかしようとする気持ちを手放し、ただ目の前の状況をいただき続けたトキ、問題は立ちどころに消え去るのかもしれません。これはあくまで仮定で、だから先に行ってみないと分からないことだけれども、そんなふうに思いました。

それでこれは環境問題や平和運動にも通じることなのかもしれません。それらの問題を何とかしようとする心が自分都合のものだったらならば、その姿勢が視野を狭くしてかえって問題を複雑にしているのかもしれません。ただ目の前の状況をいただき続けたトキ、そのためにそのトキ起きる心のさざ波を鎮め続けたならば、この世界の問題事は立ちどころに消え去るのかもしれません。

ここで思い出したのが以下の言葉。

☆彡 ☆彡 ☆彡

許すこととは
相手を無罪放免することではなく
自分自身を負の感情から自由にすること。


☆彡 ☆彡 ☆彡

上記は森井啓二さんFacebookに投稿していた言葉。自分や世界の問題ごとはすべて負の感情から起こっていると言ってもいいと思います。そして、何とかしようとする心も、負の感情があると自分都合のものとなり、問題ごとを複雑にしていきます。だからただ、自分自身を負の感情から自由にしてあげればいいのだと思いました。

言うは易く行うは難し

ですが・・・


人生は波乗り、その奥に本質を見出す。

僕は昨年の11月から一つの試みをしていたのですが、今からそれを見ると、浮かんでは消える波の一つのように感じています。波と海について、かつて僕は以下のように書いています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕は海。そして浮かんでは消える波として人生を送ります。

波としての自分に焦点を当てれば、それは自分の人生と感じるかもしれませんが、僕は本来、海そのものなのです。だから、波(自我)としての自分は他のすべての波(自我)と同様で、世界の彩りの一つに過ぎず、それはみんなのものなのです。

僕は自分を通してみんなの人生を生きる。

それは僕の人生が僕だけのものではなくみんなのものでもあるということです。

みんなの人生を生きる」より


☆彡 ☆彡 ☆彡

波としての自我は、海としての天・世界から離れる動きをします。その波が大きいとまるで海(天)から外れてしまったようにも感じますが、その動きも海(天)の一部であり、必ず海(天)へと戻っていきます。海(天)はこの世界の均衡を保つものだとしたら、波(自我)は動きをもたらすもの。双方があって世界は豊かな彩りを放ちます。

大きすぎる波に出会うと、上手に乗れずに溺れてしまい、自分を見失うことになります。昨年の11月から乗っていた波は、人生最大のテーマから生まれる波で、今まで数多くの滞りと混乱を僕の人生にもたらしてきました。このブログでは何度か紹介している以下のエピソードはその一つです。これは12年前の出来事です。

☆彡 ☆彡 ☆彡

中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、
そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。
そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、
僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。

僕はその頃、毎晩泣いていて、
人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。

そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、
心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。

なんか漫画みたいなバカな話。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…
僕はそれぐらい自分の感情に翻弄されていました。

それはある意味、極端な精神状態への憧れでもあります。
忘我。自分を忘れるほどの熱狂、狂気。
僕の中にはその状態を求める気持ちがあり、
それが時に無理な行動に繋がり、自分を壊していきます。



☆彡 ☆彡 ☆彡

こんなふうに多くの滞りへと繫がったこのテーマが生み出す波ですが、ここ数年はそこから多くの学びも得てきました。基本的には行動に移すことはなく、心の動きを見ることを通して学んでいたのですが、昨年の11月、約2年半ぶりに行動に移してみました。冷静さを保って、淡々と進めようと思って動いたのですが、終わってみるとそれは、自分の根源へと至る究極の旅路となりました。

波が通り過ぎた今、不思議な達成感があります。物事は思い通りに進まず、現実社会では何も達成していないどころか、滞りも経験したのですが、心の奥深いところへと潜り込み、僕は確かに自分の本質と出会いました。それは自分がずっと探し求めていたものと言えます。

まずは昨年11月の中旬、僕は自分の中で両親と再会しました。それは自分がずっと憎み超えようと思っていた両親の特質が、確かに自分の中にも息づいていることの発見であり、両親への理解や愛に繋がると共に、自分の未熟さへの自覚を深めてくれました(「僕と父と木の花ファミリー」参照)。この体験は強烈で、1年近く会っていない両親と、そのトキ実際に会ったかのような錯覚に陥ることがあります。

この波はさらに大きくなっていきました。海から大きく離れることで、自分が海の一部であることを感じられなくなり、僕は生きる意味と価値を失っていきます。そのピークとなる日が富士浅間木の花祭りで僕は以下のような気持ちで臨んでいました。

☆彡 ☆彡 ☆彡


僕の中にはずっと「自分は生きている意味も価値もない人間だ」という想いがあります。それは自分がずっと流れに沿わない天から外れた想いを抱えていて、天から外れた存在だという想いがあるからです。その一方で、僕の中には、精神の高みを目指し、天と一つになろうという気持ちもあります。この両極の想いが絡み合う中で僕の中には日々、様々な感情が生まれています。

 ~ 中略 ~

天から外れた想いは、それを抱えることを許す神からの愛であり、自由の証ですが、それは自分の中心ではありません。自分の中心は常に天と繋がっています。だから「自分は生きている意味も価値もない」という想いは幻想に過ぎず、僕は、すべての存在と同様、天に生かされているものとしての意味と価値を持つのです。

 ~ 中略 ~

天から外れた想い。

そこから生まれる苦しみや悲しみ、惨めさや怒り、絶望感や無力感。

僕はそれらすべてを否定せずに自分に相応しく与えられているものとして向き合っていきます。と同時に、その想いが周りにもたらして来た軋轢や痛みにも想いを馳せます。流れに沿わない想いは周りや世界を混乱させます。だから僕は加害者とも言えます。その上で、それらを自分の中心から生まれる喜びや希望、誇りや充実感と混ぜ合わせてみんなの中で溶けていきます。

自分のすべてと向き合いみんなの中で溶けていく。

そうすることで、この世界のすべての想い、ネガティブなものもポジティブなものも、すべてが溶け合い調和の中で活かされる世界が実現するように。そのために必要な天の道理を自分と世界に通すために。僕は鬼となって舞い踊るのです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

今回、この旅路にものすごい精神的エネルギーを使いました。無理に無理を重ねた感じで、こんなことはもう二度と出来ないだろうと思っています。もし出来たとしても、この無理は、状況を好転させることはなく悪化させるだけで、周りの人にも負荷や心配を掛けました。これはきっと自分の本質を抉り出すための困難であり、本質に出会ったらもう必要ないものです。だからこのテーマの波は、これで最後になるのではないかと思っているし、最後にしようと思っています。僕はこのテーマを通して確かに自分が生きる意味と価値を見出しました。それは以下のような感じとなります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

願いは「欲」であり、願いが叶わない状況というのは、自分の思考という「余地」から「欲」が生まれている状況で、それを諦めることで明らかにし、自分を正すことが心磨きであり、自分を高めるのです。要は、天の流れに沿わない願いはすべて、自我の思考が生み出す「余地」であり余計なものなのです。それをそぎ落とす過程が学びであり、自分を高めていくのです。その結果、出会う出来事は変化していくのですが、それは必ずしも願いが叶うことを意味しているわけではありません。

価値あるものは、大切なのは、あらゆる囚われから自由となることであり、現象はなんでもいいのです。

ずっと叶わない願いがある。

それは自分が誰よりも心磨きが出来ていない証なのではないか?
叶わない願いを前にして、それをなしにするのは、逃げなのではないか?

そんな考えが浮かんできたのですが、願いが叶うか叶わないかは現世的な評価で、そんなことはどうでもよくて、願いを持っていてもなくなってもそれもどうでもよくて、ただただ自分の思考や感情が生み出す「余地」を見通し続け、それと向き合い続け、自分を高めていく。ただそれだけなのです。

ずっと叶わない願いがある。

それはそれだけ自分にそぎ落とす要素があるということであり、それだけ学びがあり、自分を高めることが出来るということであり、だからこそ、僕には生きる意味と価値があるのです。




☆彡 ☆彡 ☆彡

これがきっと僕の人生最大の波の答え。僕がずっと探し求めていた人生の答えです。


木の花ファミリーのみんな@水の御用です。



叶わない願いがある、だからこそ人生には意味と価値がある。


木の花ファミリーのみんなです。


常に意識を全体性に持っていく必要があります。あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?それが重要です。個人的願望が全体性と共通していればいいのです。例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、全体性と個人は本来、共通していることなのです。ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

上記は2015年の七夕にジイジから語って貰った言葉で、僕にとって大切な言葉の一つとなっていますが、僕はこの言葉を少し違うふうに捉えていたことに気づきました。

願いが叶わない状況が自分を高めるのは確かなのですが、願いが叶わない=心磨きが足りない、だから、心を磨いて願いを叶えなければならないとなると変な話になっていきます。ここで昨年の秋分の日に僕が書いた文章を紹介します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います


ジイジは「欲」について、上記のように述べていますが、「欲」が生まれるには、生まれる「余地」が必要なのだと思います。「欲」と「余地」。両方とも「よ」がつきますが、カタカムナで見ると、「よ」は「4」であり混沌を表す思念です。「よ」(4)は、「い」(5)の方に進めば、「よい」となるのですが、「み」(3)の方に戻ると、「よみ(黄泉)」となり、死の世界に入っていきます。「よ」はどちらにも転がりえる、混沌の中にあります。「よ」がつく言葉を見ると、喜び、良い、淀み、汚れなど両義的なのはその表れであり、それは「世」、人間の世の中そのものと言えます。
「余地」の「ち」は持続を表す思念であり、「余地」とは混沌が持続している状態、どう転がるか分からない何にでもなり得る状態と言えます。そして「欲」の「く」は自由を表す思念であり、混沌のままに自由に動きまわる状態が「欲」と言えます。

自我を与えられた人間は、自分の思考という「余地」を与えられ、そこから「欲」が生まれます。出発点が「自分の思考」なので、欲深い人は物事が思い通りになることを求めます。そしてそれは思い通りにならないことへの苛立ちや不安となり、時には未来への恐怖となって表れます。思い通りにならないことを恐れるのです。ですが、僕たちが出会う出来事は、自分の生きた証であり、相応しい結果です。ということは、苛立ち、不安となり、未来を恐れることは、自分自身に苛立ち、不安となり、自分自身を恐れることを意味します。

変化変容が本質であるこの世界では、未来は常に未知なるものです。そして、それは自分自身にも言えることです。現象を追い求める「欲」の心は、そのような未来や自分を思い通りにしようとします。その結果、未来や自分の現実が見えなくなり、混沌が深まっていくのです。「欲」の心は、混沌のままに動きまわることで、混沌を深めていきます。


気候変動や自然災害、紛争や戦争、貧困や餓死。今の世界には様々な問題がありますが、ただそれを解決しようとしても、それは現象を追い求める「欲」の心であり、混沌を深めるだけとなります。それらの問題を生み出している元の心、人間一人ひとりの姿勢を明らかにし、それを正していくトキ、今ある問題は自ずと消えていくのです。

今日は秋分の日、秋の真ん中です。収穫の秋は、種まきの結果をいただくトキであり、明らかになることで諦めるトキです。自我という「余地」が与えられたことで人間には自ずから「欲」の心が生まれます。それは絶えず続く心の動きです。だから人は、絶えずその心の動きを諦めることで明らかにし、自分と世界の現実と向き合い正していく必要があるのです。その動きが世界に彩りを生み出すと共に調和というバランスをもたらします。

国連総会が開幕しています。国連総会が毎年秋に行われるのは、「欲」の心を明らかにし諦めることの大切さを表しているようにも思えます。

そして、このブログを立ち上げたのも秋分の日、今日で丸4年となりました。秋分の日に立ち上げたのはたまたまですが、今思うと、このブログを通して表現し、自ら実践することも、「欲」の心を明らかにし諦めることにあります。それは最初に意図したこと(木の花の経済について書く)とは全く違うことですが、物事は自らの意図を超えたところで動いていきます。ブログ4年目、「よ」、混沌、「欲」の年を終えてそのことに気づきました。

今、世界は諦めることで明らかにするトキと迎えています。





☆彡 ☆彡 ☆彡

願いは「欲」であり、願いが叶わない状況というのは、自分の思考という「余地」から「欲」が生まれている状況で、それを諦めることで明らかにし、自分を正すことが心磨きであり、自分を高めるのです。要は、天の流れに沿わない願いはすべて、自我の思考が生み出す「余地」であり余計なものなのです。それをそぎ落とす過程が学びであり、自分を高めていくのです。その結果、出会う出来事は変化していくのですが、それは必ずしも願いが叶うことを意味しているわけではありません。

価値あるものは、大切なのは、あらゆる囚われから自由となることであり、現象はなんでもいいのです。

ずっと叶わない願いがある。

それは自分が誰よりも心磨きが出来ていない証なのではないか?
叶わない願いを前にして、それをなしにするのは、逃げなのではないか?

そんな考えが浮かんできたのですが、願いが叶うか叶わないかは現世的な評価で、そんなことはどうでもよくて、願いを持っていてもなくなってもそれもどうでもよくて、ただただ自分の思考や感情が生み出す「余地」を見通し続け、それと向き合い続け、自分を高めていく。ただそれだけなのです。

ずっと叶わない願いがある。

それはそれだけ自分にそぎ落とす要素があるということであり、それだけ学びがあり、自分を高めることが出来るということであり、だからこそ、僕には生きる意味と価値があるのです。

今日はみずかめ座新月です。みずかめ座は客観的視点を司る星座。僕は、自分の願いがこれまで生み出してきた全体の構造を見通し、そして、それを3月7日、僕の44歳の誕生日である魚座新月へと繋げ、世界へと溶かし天へと還していきます。

ずっと叶わない願いがあった。

だからこそ僕の人生には意味と価値があるのです。



積み上げた滞りを価値へと転換する


富士浅間木の花祭り・火の御用:天から外れた想いも天へと還します。


2月4日は立春正月でしたが、その135度前、昨年の秋分の日に書いた文章をたまたま目にしました。以下、その文章を引用します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います


ジイジは「欲」について、上記のように述べていますが、「欲」が生まれるには、生まれる「余地」が必要なのだと思います。「欲」と「余地」。両方とも「よ」がつきますが、カタカムナで見ると、「よ」は「4」であり混沌を表す思念です。「よ」(4)は、「い」(5)の方に進めば、「よい」となるのですが、「み」(3)の方に戻ると、「よみ(黄泉)」となり、死の世界に入っていきます。「よ」はどちらにも転がりえる、混沌の中にあります。「よ」がつく言葉を見ると、喜び、良い、淀み、汚れなど両義的なのはその表れであり、それは「世」、人間の世の中そのものと言えます。
「余地」の「ち」は持続を表す思念であり、「余地」とは混沌が持続している状態、どう転がるか分からない何にでもなり得る状態と言えます。そして「欲」の「く」は自由を表す思念であり、混沌のままに自由に動きまわる状態が「欲」と言えます。

自我を与えられた人間は、自分の思考という「余地」を与えられ、そこから「欲」が生まれます。出発点が「自分の思考」なので、欲深い人は物事が思い通りになることを求めます。そしてそれは思い通りにならないことへの苛立ちや不安となり、時には未来への恐怖となって表れます。思い通りにならないことを恐れるのです。ですが、僕たちが出会う出来事は、自分の生きた証であり、相応しい結果です。ということは、苛立ち、不安となり、未来を恐れることは、自分自身に苛立ち、不安となり、自分自身を恐れることを意味します。

変化変容が本質であるこの世界では、未来は常に未知なるものです。そして、それは自分自身にも言えることです。現象を追い求める「欲」の心は、そのような未来や自分を思い通りにしようとします。その結果、未来や自分の現実が見えなくなり、混沌が深まっていくのです。「欲」の心は、混沌のままに動きまわることで、混沌を深めていきます。


気候変動や自然災害、紛争や戦争、貧困や餓死。今の世界には様々な問題がありますが、ただそれを解決しようとしても、それは現象を追い求める「欲」の心であり、混沌を深めるだけとなります。それらの問題を生み出している元の心、人間一人ひとりの姿勢を明らかにし、それを正していくトキ、今ある問題は自ずと消えていくのです。

今日は秋分の日、秋の真ん中です。収穫の秋は、種まきの結果をいただくトキであり、明らかになることで諦めるトキです。自我という「余地」が与えられたことで人間には自ずから「欲」の心が生まれます。それは絶えず続く心の動きです。だから人は、絶えずその心の動きを諦めることで明らかにし、自分と世界の現実と向き合い正していく必要があるのです。その動きが世界に彩りを生み出すと共に調和というバランスをもたらします。

国連総会が開幕しています。国連総会が毎年秋に行われるのは、「欲」の心を明らかにし諦めることの大切さを表しているようにも思えます。

そして、このブログを立ち上げたのも秋分の日、今日で丸4年となりました。秋分の日に立ち上げたのはたまたまですが、今思うと、このブログを通して表現し、自ら実践することも、「欲」の心を明らかにし諦めることにあります。それは最初に意図したこと(木の花の経済について書く)とは全く違うことですが、物事は自らの意図を超えたところで動いていきます。ブログ4年目、「よ」、混沌、「欲」の年を終えてそのことに気づきました。

今、世界は諦めることで明らかにするトキと迎えています。




☆彡 ☆彡 ☆彡

最近、僕は「天から外れた想い」という表現を使っていますが、天から外れることが出来るのも、自分の思考という「余地」があるからで、それは「欲」の心を生み出します。

自我という「余地」が与えられたことで人間には自ずから「欲」の心が生まれます。それは絶えず続く心の動きです。だから人は、絶えずその心の動きを諦めることで明らかにし、自分と世界の現実と向き合い正していく必要があるのです。その動きが世界に彩りを生み出すと共に調和というバランスをもたらします。

上記は僕が書いた文章ですが、「余地」を与えられた人間は本質的に天から外れる特質を持ちます。だからその心の動きを諦めることで明らかにすることが大切になります。

例えば、強い心の動きがあって、それが叶わずに繰り返されたとしても、そのたびに諦めることで明らかにすればいいのです。大切なのは、思い通りになることではなく、その心の動きを見通すことです。流れに沿わない「想い」は世界に滞りをもたらしますが、心の動きを見通せば、その滞りも活かされることになります。

昨年の11月から僕は一つの試みをしていました。それは意図して行ったことですが、思う通りにはなりませんでした。そして僕の心は壊れていきました。それは一見悪いことにも思えますが、安定していたものを壊すことは新しい動きに繋がります。ただし、その動きを見通すことが出来れば・・・の話ですが。自分の心だけでなく全体の動きを見通すことが出来れば、それはデータの蓄積となっていきます。

昨年の11月から僕は一つの試みをしていました。そして滞りを一つ積み上げました。この滞りを価値へと転換するのは、これからの僕の姿勢次第です。

諦めることで明らかにする

今はそのタイミングを迎えています。



自分のすべてと向き合いみんなの中で溶けていく

2019年2月2日に開催された富士浅間木の花祭りを前にして、僕は昔に書いた二つの文章を思い出していました。一つは2010年12月7日、約8年前に書いた以下の文章です。

☆彡 ☆彡 ☆彡


メッキがはがれたのだと思う。困難からは逃げて、自分の都合の良いように解釈し、嘘をつき、びくびくして、いつも自分をみんなが忘れてほしいと願う。自分は生きる資格のない人間で、本来なら死ななければならないけれど、死ぬことも許されない。だからもがき続けるだけ。そんなふうに思って生きてきた自分。
でも、ここ数年そんな思いは忘れていた。でも時々「しくしく泣いちゃう感じ」として出てきた。絶望感と無力感。僕はやり過ごしていた。
自分に別の人格を作り上げることで、最低人間の自分を超えようとしてきた。そして、超えたと思っていた。でも、今、自分が噴き出してくる。結局、僕が今までしてきたことはメッキを塗っていただけ。剥がれてくれば、最低の自分が噴き上がる。
あの苦しみはもう味わいたくない。もうこのままぼーとして無気力に生きていたい。そんな気持ちが湧き上がる。そうしたい。
でもそれはできない。僕はもうあまりにも木の花のみんなと関わりすぎた。僕の心はもうすでに僕だけのものではない。はじめからそうか。世界と僕は一つなんだから。ここでの暮らしはその事実を分かりやすくみせてくれているだけ。

僕はこの地球に対して自分ひとり分の責任を負っている。だから投げ出さない。

☆彡 ☆彡 ☆彡

そしてもう一つが、2016年の木の花祭りの後に書いた以下の文章です。

☆彡 ☆彡 ☆彡

鬼はこの世界の道理を伝える存在であり、木の花祭りでは主役となっています。鬼が怒っているのは、相手の心が汚れているからであり、鬼はそれを教えてくれているのです。日々の生活の中で湧き上がる自分優先の心や気持ち、余計な感情。自らが鬼になることによりそれらと向き合い当日を迎えました。

鬼の舞ではアップテンポで舞い踊るシーンがあるのですが、頭を空っぽにして身体の力を抜いて、太鼓や笛の音、みんなの掛け声に身を委ねると楽に動くことが出来ます。それがただただ心地よいのです。


ずっと動き続けることが出来る。


そんなふうに思えました。


ところで、僕は昨日、ある人から以下のメッセージをいただきました。


- - -

この世界に降りてくる前に、神さまはあなたに3つの名前を用意していました。3つの中で真ん中にあったものが「善文」であなたはそれを選んできたのです。それは正解でした。善悪の善。善が先に来ます。だけれども少し間違えると悪にもなります。そのことを心に留めておくことです。そして、あなたは「中野」の性を選んで両親のところに来ました。真ん中の「中」。そして野原の「野」。山ではなく広く広がる野原なのです。

みんなの中の「なかのん」


みんなの真ん中でしっかりと固めていくのです。


中(なか)を守るのです。


でも目立つ必要はないのです。

目立つのではなく深く深く沈みこんでいく。
奥で自分を広げて固めていくのです。

- - -

僕はずっとどちらかというと端っこにいることを好んで来ました。あんまり自分が真ん中にいるという意識を持ったことはありません。その意識を転換させる時が来ているのだなと感じています。

真善美を兼ね備えた人間になっていく。その誓いとして真ん中の字をとって「善(よし)」と付け、そして卯年の守り本尊である文殊菩薩から字をいただき「文(ふみ)」と付ける。(僕は卯年生まれです。)これは僕が勝手に創っていた名前の由来ですが、「善」は真善美の真ん中の字となっているのです。


僕はみんなの真ん中を生きる。


でもそれは目立つことでも際立つことでもなく、みんなの中に溶けていくことなのだと思います。目立とうとすると、きっとすぐに偽悪醜の方へと転げ落ちていくことでしょう。鬼の舞にて、太鼓や笛、みんなの掛け声と溶け合っていったように、日々、みんなの心の中で溶け合っていくことが大切なのだと思います。


溶けていく。その中で天と繋がり柱も立てていく。


☆彡 ☆彡 ☆彡

僕の中にはずっと「自分は生きている意味も価値もない人間だ」という想いがあります。それは自分がずっと流れに沿わない天から外れた想いを抱えていて、天から外れた存在だという想いがあるからです。その一方で、僕の中には、精神の高みを目指し、天と一つになろうという気持ちもあります。この両極の想いが絡み合う中で僕の中には日々、様々な感情が生まれています。

2010年12月、自分と向き合うことに疲れた僕は「メッキを塗っていただけ」と表現していますが、そうではありません。最低だと思える僕も、それを超えようとする僕も、全部自分だから、日々の暮らしの中でそのどちらが育っているか、ただそれだけなのだと思います。

天から外れた想いは、それを抱えることを許す神からの愛であり、自由の証ですが、それは自分の中心ではありません。自分の中心は常に天と繋がっています。だから「自分は生きている意味も価値もない」という想いは幻想に過ぎず、僕は、すべての存在と同様、天に生かされているものとしての意味と価値を持つのです。

天から外れた想いは、僕に苦しみや滞りを与えますが、それと向き合うことで僕は謙虚な気持ちを育むことが出来ます。そして、自然から離れた人工的な社会で暮らす今の人間は、それだけ天から離れ、天から外れた自分勝手な想いを抱える存在となっています。自然災害や異常気象、戦争や紛争、人間社会の対立や分断などはその表れで、だから天から外れた想い抱えることは今の人類を象徴しているとも言えるのです。

天から外れた想い。

そこから生まれる苦しみや悲しみ、惨めさや怒り、絶望感や無力感。

僕はそれらすべてを否定せずに自分に相応しく与えられているものとして向き合っていきます。と同時に、その想いが周りにもたらして来た軋轢や痛みにも想いを馳せます。流れに沿わない想いは周りや世界を混乱させます。だから僕は加害者とも言えます。その上で、それらを自分の中心から生まれる喜びや希望、誇りや充実感と混ぜ合わせてみんなの中で溶けていきます。

自分のすべてと向き合いみんなの中で溶けていく。

そうすることで、この世界のすべての想い、ネガティブなものもポジティブなものも、すべてが溶け合い調和の中で活かされる世界が実現するように。そのために必要な天の道理を自分と世界に通すために。僕は鬼となって舞い踊るのです。

ということで以下、今年の富士浅間木の花祭りの様子を紹介しますね。



鬼の面(神寄せの神事にて)
水の御用・お水合わせ
世界各地、日本全国103箇所から集まったご清水が湯釜の中で一つになります。

楽の舞
一の舞
地固め - 扇
山見鬼
山を割り、地中に封印されたエネルギーを噴出させる力強い鬼。
花の舞 - 盆
花の舞 - 扇
「榊鬼」山見鬼が踏み固めた地に天の道理を降ろし、魂を入れる。
(榊鬼と翁の問答はこちらをご覧ください)
三つ舞 - 扇
三つ舞 - 矢剣(やち)
四つ舞 - 矢剣(やち)
女郎囃子
瀬織津姫の舞
瀬織津姫は男神・天照大神の妻神で、封印されてきた水の神様です。
「金神様」封印されてきた地球神、国之常立神です。
(金神様と翁の問答はこちらをご覧ください。)
このはな八重の舞
同じく「このはな八重の舞」
「茂吉鬼」蜂巣(お宝)を落とします。
「湯囃子」湯釜のお湯を場内に振りまき清めていきます。
獅子舞
「火の御用」祭りで使った道具などを燃やし天へと還します。


水の御用・お水送り」湯釜で焚き上げたご清水を地球へと還します。


ところで、今年の木の花祭りでは新しい鬼として、青鬼と赤鬼が生まれました。緑鬼は北欧、赤鬼は北米(ネイティブ・アメリカン)を代表する鬼です。僕は赤鬼を演じることになり、より天からの気を身体に通すことが求められましたが、なかなかそれが出来ず「気が通りにくい身体の構造をしている」というフィードバックも貰いました。

天からの気が通らない。

それは天から外れた想いを抱えてきた自分の状況と重なるように思えました。そういう僕が大切な役割を頂くのも何かの巡り合わせで天の意志とも言えます。だからそういう現実と向き合い、気持ちを入れてだけだなと思い、当日を迎え、現時点での精一杯を表現しました。

しっかりと演じることが出来たとは言い切れません。

でもこれが僕の実態で現実。実態は常に天と繋がっていて、そこと向き合い価値を積み上げていくことに生きることの本当の意味があります。そしてその位置に立ったトキ、この世界で起きるすべての出来事は天へと至る祝福となるのです。だから僕はこれからも努力を続けていきます。

自分のすべてと向き合いみんなの中で溶けていく。

それは天へと至る僕オリジナルの旅路、これからもずっと歩み続ける旅路です。

「緑鬼」北欧を代表する鬼です。
「赤鬼」北米(ネイティブ・アメリカン)を代表する鬼です。


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