ありのままに観て、ありのままに聴く

「なかのんのブログに書いている事は仕上がってきてはいるが、実際の心情についてはまだ仕上がっていない」という事でもある。微妙な所だけど、ブログには「僕にはこの道しかない」となかのんは宣言している。心情的には何かが残っているんだけど「僕にはこの道しかないから、辛くても行きます」というような事になると、目指すものと違う。

目指す所は、「人間を磨いていくと磨くことによって次の次元、高い意識になって自ずと新しい現象に出会う、自ずと過去に自分が思ってた事が叶うという事がある」という話だよ。それは、目指していく事でもなければ、それが尊い事だからといって我慢していくという事でもない。それでは目指す所と違う世界になってしまう。


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上記は2年前の10月にジイジ(当時はいさどん)が僕について語った言葉で、当時の僕の学びの段階を示しています。それでは今の僕は?

ここで話は変わって。

今朝、2014年6月に行われたティク・ナット・ハンへのインタビューを目にしてとても感動しました。その文章を転載したいと思います。

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理解の欠如が 私たちを犠牲者にする  The Lack of Understanding Turns Us Into Victims


・ティク・ナット・ハン師。キング牧師によりノーベル平和賞候補に指名された人物。

88
歳。禅師です。16歳で出家しました。ベトナム人でフランス在住です。プラムヴィレッジという仏教コミュニテイをここフランスで開きました。マインドフルな生き方をあらゆる人が学べるリトリートを指導しています。平和か仏教か、どちらか一つだけしか選べないとしたら、私は平和を選びます。

── ベトナムでは戦火のさなか、僧侶たちを連れ、救済活動をされました。
私の命は重要ではありません。 重要なのはあなた方がマインドフルネスを実践すること。私はその助けになりたいのです。

── 黙想から献身へと方向転換されました。あなたは革命家です。
私がそう決断した、と思われるかもしれません。でも現実には決断とはすでに存在しているのです。すべてはいかにありのままに観て、聴くことができるか...にかかっています。

──しかし、あれはやはりあなたの決断でした。
決断の自由とは、マインドフルネス以外からは得られないものです。息を吸うとき、息を吸っていることに気づく。息を吐くとき、息を吐いていることに気づく。あの決断は長い間のこの実践の末にあったものです。

──「自由」ですか?
そうです。怒り、怖れ、欲望からの自由です。それが心に慈しみを授けてくれるのです。

── ベトナム戦争で、人間についての何を知りましたか?
ベトナム戦争には、他の戦争との違いはありませんでした。誤った考えから起きたものです。怖れと怒りに支配されると、私たちは自分たちの苦しみも、敵方の苦しみも理解できなくなってしまうのです。

──人間の宿命ですね。
相手への理解の欠如は、私たちを犠牲者へと変えてしまいます。双方に平和と幸福をもたらす意図があっても、お互いとの意思の疎通ができなくなってしまうのです。

──自分の身を犠牲にした僧侶たちがいます。これは自分自身への暴力です。
私達の苦しみを世界に伝えるには、それ以外に方法がありませんでした。むしろ重要なのはどう行動したかよりも、どのような思いで行動したか、です。

──西洋医学の精神科医なら、自己を犠牲にして自分の身に火を放つことは、気が狂っていると言うでしょう。
それが私が渡米し、キング牧師に訳を話しに行った理由でした。西側諸国の視点からでは、到底理解することは難しかったでしょう。

──キング牧師はあなたをノーベル平和賞候補に指名し、公式にベトナム戦争反対の立場を取りました。
私が渡米したのは、アメリカで実際の状況がほとんど知られていないことを知っていたからでした。でもルーサー・キングとは長い間葉書のやり取りがあったのです。彼もまたあなたと同じように、なぜ僧侶たちが焼身するのかを理解したがっていたのです。

──米連邦政府や、ロバート・マクナマラをはじめとする米国防総省高官たちとも会談されました。
最も手強かったのは、強い怒りを抱えた平和運動の当事者たちでした。長い時間をかけて私は彼らが慈しみの心を持てるように助けました。彼らは私が怒っていないことに対して、激しい怒りを持っていたのです。非常な忍耐をも必要とされました。

──国が禁じる中、どうやって仏教大学を創設することができたのでしょうか。
簡単なことではありませんでした。でもこれはぜひお伝えしたいことですが、あなたにどれだけの才能や力があっても、大事は一人ではやり遂げることはできないということです。私たちはたくさんの理解がおたがいに通い合い、共通の理想を持つコミュニティをつくりました。これが大事をやり遂げるための原動力をつくりだすのです。

──ベトナム戦争に従軍した、アメリカの退役軍人たちと協力していますね。
一緒にマインドフルネス・リトリートを行いました。非常に難しいものでもありましたが、真の癒しが生まれていきました。理解をさらに核心へと深めていく必要があります。彼らを戦場に送った側の苦しみもまた、理解されなければならないものです。

──目的のための犠牲やむなし、が彼らの言葉でもですか?
兵士を戦場に送った側も非常に苦しんでいます。マクナマラ国防総省長官は、私との会談後、3ヶ月で辞任しました。マクナマラ氏は心に重荷を背負っていました。この戦争は誤りだと考えていたのです。

──戦争の恐怖は、どうすれば癒やせるのでしょうか。
自分の苦しみを理解し、他の人の苦しみを理解するとき、他の人を助けたい思いにかられます。慈しみの心が生まれるのです。これが、その人自身を癒し始めるのです。ひとつ話をしてもいいでしょうか。

──どうぞ。
元米軍兵のダニエルは戦時、憎悪で心が一杯でした。仲間のほとんどが奇襲によって命を落としていたのです。ダニエルは復讐を望みます。ある村へと出向くと火薬を詰めたサンドイッチでいっぱいの袋を置いたのです….そして5人の子供たちがやってきてそのサンドイッチを食べるのをじっと見ていました。

──子供達が死んでいくのを見ていたのですか?
そうです。母親たちの腕の中で子供たちは死んでいきました。ダニエルは私と出会った頃、拷問を受けるかのように苦悩していました。恐ろしくて誰にもこのことを話せなかったのです。私は、世界で命を落としていく子供たちを救うことに人生を捧げるよう、ダニエルに助言しました。大きな志の力が彼を救ってくれるように。ダニエルはその通りに実行しました。そしてある晩、ダニエルは夢を見たのです。死んでいったあの5人の子供たちがダニエルに向かって微笑んでいる夢でした。ダニエルは健康を取り戻し、イギリス人の歯科医の女性と結婚しました。

──あなたは銀行家やビジネスマンたちが教えを乞う賢者でもあります。
彼らが私たちを訪ねて来るのもまた、苦しむがゆえです。

──彼らのうちの一人でも行動すれば、世界の飢餓問題はあっという間に解決すると思いますが。
彼らも福祉プロジェクトを運営してはいますが、苦しみの解決にはなっていないのです。

──なぜ彼らはそんなに苦しむのでしょうか。
お金があるのにも関わらず幸せではなく、誰のことも愛する時間も無いからです。彼らの心は心配事と怖れ、怒りでいっぱいで楽しむ余裕もないのです。仲間や妻や子供とも心を通わせることがありません。心の通い合いがなければ、幸せにはなれません。よく私は彼らにこう言うのです。『幸せとお金、どちらを選びますか?どちらかひとつしか選べないのですよ。』

──その両方が彼らの望みです。
その通り。でも真剣に実践をすると、彼らは考え方を変えていき、愛を見つけるのです。そして幸せを選び、富は必要ないものだと気づきます。実に興味深いことに。

・疲れを知らない
自国ベトナムでの戦時、ティク・ナット・ハンは、自身の人生を運命付ける決断をする。僧侶たちを率い、戦火の下救済活動を実践。それ以降、平和活動家となる。アメリカ訪問時には米連邦政府・国防総省で停戦を訴えた。マーティン・ルーサー・キング・Jr牧師に申し入れ、キング牧師がベトナム戦争反対の立場を公にしたことで、歴史の流れを変える。戦後、青年社会奉仕学校を設立。村や小さな町、学校、医療施設を再建。最近の米ツアーでは最も影響力を持つ人々と会合。つい最近スペインでのツアーを終える。

Ima Sanchís


Wake Up Internationalウェブサイトより・ビラブド・コミュニティーより和訳を掲載させて頂きました。)

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ありのままに観て、聴くこと。

ティク・ナット・ハンは決断において上記の重要性を述べています。自らの実践により決断は自ずから生まれる、つまりは自らの意思も日々の実践により自ずから生み出されるものと言えます。

ありのままに観て、聴くこと。

そこから慈しみの心が生まれ、そのような意思、決断、行動が生まれます。

自らの怒り、恐れ、欲望。それらは自らの視点に偏りを生み出し、ありのままに観て、聴くことが出来なくなります。そうすると、自らの決断や行動も偏ったものとなりますが、この状態では、自分でその事実に気づくことも困難となります。そうして相手への理解の欠如が生まれ、人は自分を犠牲者のように感じていくのです。

だから大切なのは、何をするかではありません。そして、何を目指すかでもありません。ひたすら自分を見つめ、自らの怒り、恐れ、欲望から自由になることです。

2年前の僕は、この道を歩む決断をしていましたが、心情的に残しているものがありました。自らの欲望から自由ではなかったのです。

そして今は?

あの頃よりははるかに自由になっていると思います。だけれども、怒りや恐れ、欲望は自我の産物。そして自我は浮かんでは消える波のようなものです。これで超えたというものではなく、常にそこから離れて見通す必要があるものです。だから僕は、生きている間、ずっとその実践を続けていきます。

慈しみの心が自ずから生まれるように。

僕は、自らの怒り、恐れ、欲望を見通し、そこから自由となって、ありのままに観て、聴くことが出来る状態を保ちます。これからの僕の意思、決断、行動は、そこから自ずから生まれるもので僕の意図を超えたものです。

そんなふうに未知の道を歩んでいこうと思っています。

ボーシャンファミリー出発の日ボーシャンの言葉も思い出しました。



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