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「自分ごと」から全体性へと至る道

木の花ファミリーでの僕の基本的な役割は「金庫番」で、
お金を中心とした事務仕事を主にしています。
ですが、農繁期で忙しい時は、畑に行ったり、田んぼに行ったりもします。
そして、お弁当の注文が沢山入った時はお弁当を詰める手伝いをしたりと・・・

木の花ファミリーの暮らしは多種多様な役割によって成り立っています。
そしてその土台には、自然からの恵みがあり、天の流れに基づいた生活となっているのです。


朝6時からスタートする落花生収穫の様子です。


田んぼに行ったり畑に行ったりすると、
自然のダイナミックな動きがリアルに感じられてとても楽しい時間となります。

木の花の暮らしは天の流れの下、一つの生き物のように動いていきます。
それはこの世界も同様で、時代は一つの生き物のように動いていきます。
その動きを感じられたら、この世界はとてもダイナミックで楽しい日々となるのです。

そんな世界観へと繋がる話を紹介します。

とりあえずはいさどんの言葉から。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この道を極めることが大切です。
そこに向けて真っ直ぐに行くと人の価値が上がります。
そして価値が上がると自然にみんなから支持されるようになるのです。
その位置で願いが叶っていくことが大切です。
想うと叶うというのはそういうことです。

ところがあなたの場合、叶わない現状にありながら、
願いを叶えたいという願望や欲望になっているものだから、
宇宙の法から外れてしまったのです。
だからそれは「自分のこと」であり、我欲となっていくのです。
宇宙は「もっと叶えたい。あなたの望みは全部叶えたい。」と願っています。
その代わり宇宙の法に沿って願えということです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

僕は最近なんどもこのいさどんの言葉を引用していますが、
この言葉は僕の思考を整理してくれました。

僕らはよく「自分ごとではなく全体のこと考える」と話していますが、
このいさどんの言葉により「自分ごと」とは何かが明確になったのです。

僕はずっと意識の関心が自分に向いていることが「自分ごと」だと思っていましたが、
この認識は正確ではありませんでした。

この世界で自分を最大限に生かすために、自分を正確に知っていく。

そんなふうに自分に関心を向けるならば、それは「自分ごと」ではなく、
世界のことであり全体性へと至る行動となるのです。

その一方、途上国の支援など社会貢献と言われる活動をしていたとしても、
それが自分都合になってしまっていたら、その活動は「自分ごと」なのです。

活動の動機をしっかりと観ることが大切です。

例えば、ODA(政府開発援助)ですが、本来、途上国のための援助のはずが、
日本企業の利益に繋がり、途上国に累積債務と環境破壊をもたらす事例もあります。
 ※Wikipedia「日本のODAの問題点」参照
このような活動は決して全体のことを思った行動とは言えません。
社会貢献活動を利用して日本は「自分ごと」で動いていたのです。
しかも日本全体ではなく、一握りの人の利益のためであり、極めて「自分ごと」と言えます。

今、G20が中国の杭州で開催され各国の首脳が集まっていますが、
どれだけの指導者が地球全体のこと思っているかは疑問です。

例えば、先日発表されたアメリカと中国によるパリ協定への批准ですが、
これは確かに全世界のためになる行動と言えます。
ですが、その動機は「全体のため」を思ったものではないのです。
これはあくまで各々の利害に基づく判断で、
だからこそ南シナ海の問題では米中は対立したままとなっているのです。

これでは真の平和には至りません。

指導者だけではありません。
今、この世界は「自分ごと」の集まりで動いているのです。

宇宙の法の下では、自他の区別を超えてすべてが繋がり生かしあっています。
それから外れた「想い」や「行動」はすべて「自分ごと」なのです。
世界のことを考えていても、社会貢献をしていても、
「自分が」という想いに基づいていたら、それはやはり「自分ごと」となります。

そして、「自分ごと」の想いや行動は、たとえそれが実現したとしても、
この世界に偏りを生み出し、いずれ対立や格差、喪失などの滞りとなって現れるのです。

だから「自分ごと」を超えていくことが大切です。

自我が与えられた人間は、当然のように「自分ごと」の願いや想いを持ちます。
そして、それは意欲にも繋がるものです。
だから、それらを追い求めることは大切なことではあるのです。
ただ、その際、宇宙の法を意識する必要があるのです。

宇宙の法とは天の流れあり、それは時代が生み出しています。

自らの希望を追い求めながらも、天の流れを感じ、結果をいただき学んでいく。

そんな姿勢でいると、自分が高まり、自然と全体性へと至るのです。

それは自分と向き合う旅であり、その旅は果てしない冒険であり、新しい発見は尽きません。
新しい発見により自分がどこまでも果てしなく広がっていくのです。

ということでまたここでいさどんの言葉を紹介しますね。

☆彡 ☆彡 ☆彡

常に意識を全体性に持っていく必要があります。
あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?
それが重要です。
個人的願望が全体性と共通していればいいのです。
例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。
個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、
全体性と個人は本来、共通していることなのです。
ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。
「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

いらなくなった状態をさらに超えた世界。
「みんなで」「ひとつになる」ことを極めた世界。

それはきっと「自分ごと」を超えて宇宙の法の下に生きる人々が、
自らの個性を最大限に発揮した豊かな世界。

バラバラな特徴を持つものが一つのハーモニーを表現する世界。

真の平和が実現しすべての存在が生かされ調和した世界。

言葉にすればこんな感じでしょう。

そんな世界へ向けて、日々の暮らしを大切にし、この道を極めていきます(^-^)




制限の中で無限の可能性を生きる

ポケモンGOが原因での死亡事故が発生しています。

ポケモンGOしながら車運転 初の死亡事故徳島

「ポケモンGO」死亡事故2例目・・・女性が被害

それでも多くの人にとってポケモンGOは楽しいソフトであり、
経済発展をもたらす素晴らしいものなのでしょう。

高揚感を生み出していく」でも書きましたが、ポケモンGOは依存症にも繋がります。
それでも問題にならないのは、多くの人が経済発展の依存症になっているからでしょう。

歴史を簡単に振り返れば、経済発展は資本主義や市場経済によりもたらされましたが、
その背後には「価値が無制限に増殖する」という思想があります。

価値の源泉は昔、土地(自然)と考えられていました。
つまり自然という限界を意識する必要があったのです。
ですが、人間は価値の源泉を労働に求めるようになりました。

働けば働くほど価値が増える。

それは自然の制約を無視した行動へと繋がっていくのです。
そして、現在では価値の源泉に「貨幣の取引」が加わっています。

貨幣には利子が存在します。

利子が存在することにより、お金は置いておくだけでその価値を増やしていきます。
そこにも制限はありません。
加えて、それは自然とは無関係なバーチャルな空間となっています。
マネーゲームに夢中になる人々はバーチャルな空間で価値を無限に増やそうとしているのです。

ですが今、地球環境は限界に達しつつあり、その有限性を明らかとなっています。
「価値が無制限に増殖する」ということが幻想だったということを示しているのです。

ですが、人類は今でも経済発展を求めています。
それはいまだに「価値が無制限に増殖する」という幻想に囚われている証であり、
多くの人が現実ではなく、バーチャルな幻想の中で暮らしているということです。

そんな中、悲惨な現実は置き去りにされています。

バーチャルなポケモンGOに夢中になる人々の姿にもそのことが現れています。
その先に未来への展望があるようには思えません。
だからこそ、人々はさらに幻想の世界に籠っていくのかもしれません。

ですが、現実を受け止めることで切り拓かれる未来があります。

ここでいさどんの言葉を2つ紹介しますね。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この道を極めることが大切です。
そこに向けて真っ直ぐに行くと人の価値が上がります。
そして価値が上がると自然にみんなから支持されるようになるのです。
その位置で願いが叶っていくことが大切です。
想うと叶うというのはそういうことです。

ところがあなたの場合、叶わない現状にありながら、
願いを叶えたいという願望や欲望になっているものだから、
宇宙の法から外れてしまったのです。
だからそれは「自分のこと」であり、我欲となっていくのです。
宇宙は「もっと叶えたい。あなたの望みは全部叶えたい。」と願っています。
その代わり宇宙の法に沿って願えということです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

お釈迦さまはそういうことを人々に伝えようとしたのだろうと思います。お釈迦さまの時代は、これから人々がエゴを表現し、欲望を膨らませていく時代でした。そんな時代だったためお釈迦さまの言葉は人々の救済のためのメッセージとなってしまいました。宗教が救済になってしまったのです。ですが、宗教の本質は、自らが何者であるかを悟るためにあります。一人一人の道は違います。個性豊かな道が用意されています。共通しているのは共に一つの方向に向かって悟ろうとする動き、これは宇宙の動きです。そうすると今までの宗教のように価値が固定化し、信者が既製品のようになることはありません。


☆彡 ☆彡 ☆彡

みんな、宇宙の法則という縛り(制限)の中で生きています。
生きとし生けるものは必ず衰え、いずれ死を迎えます。
そして、空気、水、太陽、風や大地など、自然の恵みに生かされています。
生き物が生き物を支え循環しているのがこの世界であり、
その法則から抜け出せるものは存在しません。

そしてエネルギーの絶対量も変わりません。
循環の中で形を変えていくだけであり、価値の増殖は幻なのです。

ですが、同時に可能性は無限でもあるのです。

宇宙の法則という制限の中で無限の可能性が開かれている。
そこにこれからの未来への希望があります。

例えば人間の脳ですが、現在その機能の10%程度しか使われていないと言われています。
そして、肉体にもまだまだ開発されていない可能性が存在しています。

例えば、シンクロナイズドスイミング、ロシア代表のナタリア・イシェンコ選手は、
水性哺乳類としての潜在能力を覚醒させています。(NHKスペシャル「ミラクルボディより」
それや肉体という制限に向き合うことにより開発された能力です。
加えて、強い向上心から常に相手に合わせる能力も獲得しているのです。

それは自分と向き合うことによって開発される人間の可能性を示しています。

宇宙の法則から外れた願いを持つとそれは「自分ごと」となり、幻想を必要とします。
そしてそれはいずれ滞りとなって現れます。
(※このこと自体も法の中にある出来事ではあるのですが・・・)

今、多くの人がこのような「自分ごと」の願いを持ち、
世界は幻想で溢れ、現実は混乱し、様々な問題が発生しています。
ですが、宇宙の法則に沿って願い努力する時、現実世界に無限の可能性をもたらします。

それは決して思い通りの世界ではありません。
ですが、どんなふうになるかは分からない。
そんなワクワクする想像を超えた可能性に開かれていくのです。

そして、それは一人一人の個性や歴史に応じたオリジナルな道でもあります。
共通しているのは「法則に沿っている」という事実だけです。
そして、その法則が人間の想像を超えた世界をもたらすのです。

宇宙の法則に沿うこと。

それは自分と向き合い続けることであり、
天の流れを読むことであり、
責任を持って決断し、結果を潔くいただくこと。

そんな生き方が切り拓く未来はきっと生きとし生けるものが支え合う調和した世界。

個性豊かな花開く。

そんな未来に向けて木の花ファミリーのみんなと日々を大切に暮らしています(^-^)


木の花ファミリーのみんな@8月27日「恵みいただきます」。


ちなみにこれは8月27日「恵みいただきます」でお客様に提供した料理です。

宇宙の法則を生きて、それを知っていく。

尖閣諸島に中国船団が押し寄せ日本と中国の領土問題が話題になる中、
木の花ファミリーでは昨日から今日に掛けて8名の中国人のお客様を迎えています。
彼らは仏教を実践者で、中国でコミュニティを立ち上げようとしています。

昨晩の大人ミーティングでは、いさどんブログ「イスラム教徒は何を伝えようとしている?~ダッカ人質テロ事件から時代を読む」がシェアされ、そこからテロや平和、禅、お釈迦さまの悟りとこれからの悟り、時代の流れなど様々なことを語り合いました。そして、その最後にいさどんは以下のように語りました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

日本と中国は世界の情勢の中で立場が違います。その違いは認識の違いから生まれます。
そこからお互いに異質なものを感じるとそれが最終的に対立に至ります。ですが、広い世界観で見るとみんな同じとなります。この地球という同じ環境を共有しています。すべてのものは微細なものの集合体です。その違いはどこにあるのでしょう。人々には差別の意識が生まれ、それが表現されます。自我が差別を創っているのです。自然を見ると多様な生命が存在し、一つの生態系を表現しています。すべてのものは一つです。それが弱肉強食のように見えるのは部分的に区切るからです。巨大な宇宙の中にいて、微細な集合体によって一つの世界が創られているのです。

お釈迦さまはそういうことを人々に伝えようとしたのだろうと思います。お釈迦さまの時代は、これから人々がエゴを表現し、欲望を膨らませていく時代でした。そんな時代だったためお釈迦さまの言葉は人々の救済のためのメッセージとなってしまいました。宗教が救済になってしまったのです。ですが、宗教の本質は、自らが何者であるかを悟るためにあります。一人一人の道は違います。個性豊かな道が用意されています。共通しているのは共に一つの方向に向かって悟ろうとする動き、これは宇宙の動きです。そうすると今までの宗教のように価値が固定化し、信者が既製品のようになることはありません。


今は21世紀初頭ですが、2000年までの物質的発展の時代が終わり3000年に向けての人類の新たな扉が開いたのです。開いたばかりなので、これを生きる人には困難が待っています。あなたがたは中国という体制に中で生きています。日本でも自由の中にありながら、人々は既製品化されていっています。人々は現代の価値観に囚われて縛られています。これは自らとの闘いであり、古い時代の衣を脱ぐ必要があります。あなた方のお話しを聴きながら、共通の使命をもって生まれてきていることを感じました。そして共に暮らすこの活動が始まりました。今はまだ草の根の活動ですが、明らかにこの動きは時代が創り出しています。2000年から3000年に向けての扉が開いたといいましたが、私たちの付き合いも扉があきました。これからもよろしくお願いします。

☆彡 ☆彡 ☆彡


新しい時代に向けた素晴らしい出会いとなりました。
このような人と人との出会いが積み重なり、国と国との関係も変化していくのでしょう。
それは希望の物語です(^-^)


話しは少し変わって・・・

昨日一日考えていたことを書いてみたいと思います。


自分とは何か?


自分と一言でいうけれども、何をもって自分とするか、
自分という表現から何を思い浮かべるかは人それぞれ異なります。

自我、真我、心、意識、身体、感情、思考、・・・・

自分や「自分の・・・」という言葉から繋がる言葉はいろいろなものあります。
その言葉は発する人の意識によりいかようにも変化していきます。
とりあえず、ここでは今の僕の関心から「自分」というものについて書いてみます。

「自分」には2種類あるということを思いました。

一つが「今まで積み上げてきた自分」であり、
自動的に行う思考や行動、つまりは習慣となっているものがこれにあたります。

そして、もう一つが「すべてから自由な自分」。
これは意識的に物事を認識していく自分であり、
お釈迦さまの「天上天下唯我独尊」、デカルトの「我思う我あり」などの「我」がこれにあたります。

この2種類の自分の相互作用により、現実は展開していきます。

今まで積み上げてきた自分。


人は普段何も考えずに生活し続けることが出来ます。
それは日常生活で必要になる行動を身体が覚えているからです。
そして、無自覚のまま反応し、時には感情的になり、毎日が過ぎていきます。
自分の身の回りに起きる現実はここから生まれていくのです。

だから、現実を変化させたいと思ったならば、ここにメスを入れていく必要があります。
意識的に積み上げてきた自分を見ることにより、必要な修正を加えていくのです。
その時、出来事は自然と変化していきます。

変化を起こそうとする必要はありません。
そういう意図はどうしても表面的なものとなり、本質へとは至りません。
意識的に自分を見て、そこに修正を加えていく。
その積み重ねにより、自分が変わり、出会う出来事も変わっていくのです。

すべてから自由な自分


人間の思考は自由です。どんなことだって考えていられます。

現実を無視して空想の世界に入り込むことも出来ます。
今まで積み上げてきた自分という実態を無視し、
都合のよい自分を思い描いていることも出来ます。
それは一見すると気持ちの良い行為に思えるかもしれません。
ですが、このような態度でいると、積み上げてきた自分にメスが入ることはなく、
今まで通りの日々が繰り返されていくのです。
そしてそれは大抵、本人にとって受け入れがたいものなのです。

意識を「自分の実態=積み上げてきた自分」に向け続けることが大切です。
そうすることで必要な修正を加えることが出来て、日常に変化が生まれるのです。

そして、もう一つ大切なことは、意識を広げていくことです。

自分の実態からスタートし、身の回りから人間社会、自然から宇宙へと意識を広げていくのです。
この時、自分を知ることが世界を知ることに繋がり、自分の変化が世界の変化に繋がります。
そして、この宇宙の流れが見えてきて、変化は時代が起こしていることも見えてくるのです。

自分の変化を通して宇宙の法則を知る


今まで積み上げてきた自分が現実を生み出しています。
その自分を手放し、出会う出来事をただいただいていく。
そのようにして自分を知り、必要な修正を加えていきます。
そしてまた自分を手放していく。
この繰り返しによって変化が自然に起こります。

それはこの宇宙の法則に基づいたものであり、自分の予測を超えたものです。
そんなふうにして自らが宇宙の法則を生きて、法則を知っていくことが出来ます。

それがきっとこれからの時代の悟りであり、それは常に変化の過程の中にあり、
その過程は一人一人オリジナルで、個性豊かなものとなるのです。

だからそんなふうに生きていきます(^-^)









識別してそぎ落としていく

戦争などに現れる人間の本質


8月15日、終戦記念日の大人ミーティングでは、
いさどんブログ「これは宇宙プロジェクトです」がシェアされました。

この中でいさどんは第二次世界大戦について説明を始めますが、
その説明は15世紀~17世紀の大航海時代に遡り、現代にまで至ります。
その背後には人間の欲深物語が流れているのです。

人間が自分のことしか考えず、他人のものを奪ってでも豊かになろうとした結果

第二次世界大戦の原因を尋ねられたいさどんは端的にそう答えましたが、
この人間の特徴は現在まで続き、経済格差や内戦などに繋がっています。

このブログからミーティングでは戦争などに現れる人間の本質についての話になりました。

そして、一昨日、以下の映像を見つけ、
終戦前日の8月14日23時30分に熊谷が空襲されていたことを知りました。

8.14,2330 - 最後の空襲、熊谷 ‐

翌日に玉音放送が予定されており、日本が降伏することが分かっているタイミングでの空襲です。
とても理不尽なものですが、これも人間の本質を表しています。

遠い過去から第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て、現在まで続く人類の争いの歴史。
それらは人間の本質を表していますが、一つの方向性を追求することによって現れた本質です。

その方向性とは自我による可能性の追求であり、
一人一人が自我の欲望を追求し、それが集まることによって、
第二次世界大戦のような悲劇に発展し、それは形を変えて続いているのです。

今、宇宙は銀河の夜明けを経て、光の時代へと向かっています。
今まで人々は自我の可能性を追求し、離れ離れになっていきましたが、
これからは統合の時代となります。

人間の進む方向性は自我の可能性の追究から、自我を超える可能性へと変化していきます。
その時、全く違う人間の本質が現れるはずなのです。

木の花ファミリーの暮らしは時代を先駆け自我を超える可能性を追求して来ました。
それがすべてのものを分かち合う暮らし(経済)となって現れているのです。

   ※木の花ファミリーの経済については以下を参照して下さい。



自我を超えるためには、自我を知り、それと向き合う必要があります。

戦争などに現れた人間の本質は、自我が生み出したものであり、
自我を超えるためにはそれと向き合わなければなりません。
そのため僕たちは戦争などについて語り合う時間を大切にしているのです。

識別してそぎ落としていく


ところで、今日8月17日は父親の誕生日です。父さんは今日で70歳となりました。
僕は父さんから沢山の特徴を受け継いでいて、それは僕の自我となり、定期的に顔を出します。

1年前の10月、気付かぬうちに自我の可能性を追求し、
疲れて投げやりになっていた僕に対していさどんは以下のように語りました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

話すことがないというのはあなたの都合であって、
そのあなたの都合が全体にどんなものをもたらすのか?
そういうことを自分で感じてコントロールする段階に行かないといけません。
今、自分にはまっているからそういうことを言っているわけだけれども、
全体性というものを大事に考えていたら、そういうことは言わないはずです。
今のあなたの状態は定期的に起きてくるもの。
定期的に起きてくるならば、今はそこのポイントのところに向う良いチャンスだと思うが、
それをやらないといつまでも超えることは出来ません。
今、何をやれという具体的なことは何も言いません。
ですが、あなたのその姿勢では問題です。
きちんと向き合い超えていく。
それが覚悟というものです。
一人一人が自分と向き合ってみんなで場を創っていくのです。
そういうことをしないと次のビジョンは実現出来ないのです。

日頃、自分が安定している時に極めていこうという志と、
一度何か滞って、自分から見て自分自身の印象が悪い時の開き直り、
そして、やる気のなさがあなたの場合、極端になっています。
ですが、それは本当は逆なのです。
日頃の時ももちろん大事ですが、自分がやる気がなくなった時に自分と向き合う。
そこが一番のポイントです。

日頃、一生懸命に積み上げていたものが、
その状態だとある瞬間に全部ぶち壊してしまいます。

このあなたの本質が変わっていないのは、
覚悟を決めてそこに向き合っていないからです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

つい最近、同じような疲れに襲われてしまいました。
自分を高め、全体を意識して過ごそうと努力していましたが、
その奥には自我の欲があり、それが噴き出す出来事があったのです。
これは本当に印象が悪い出来事で、1年前なら嫌になってやる気を失っていたでしょう。

ですが、今は違います。
昨年の滞りは僕の中で生きています。
加えて僕は、他の場面でいさどんが以下のように語っていたことも思い出しました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

失敗して落ち込む人はその失敗で全部をなしにしていまいますが、それは違うのです。
自分自身と失敗をしっかり分析し、残すべき部分は残し、不必要な部分をそぎ落としていく。
そういう作業をする必要があるのです。
そういう作業をせずに良い部分、例えばやる気や前向きな気持ちなど。
それらもなしにしてしまうのは本当にもったいないことです。
それでは学びを積み上げていくことは出来ません。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕は自分を高めようとして、全体を意識して、日々の生活と大人ミーティングを楽しんでいました。
その姿勢は残すべきものです。
そぎ落とすべきは自我の欲であり、それをしっかりとやっていけばいいのです。

そんなふうに気持ちを切り替えると不思議と疲れが消えていきました。

心が変わればすべてが変わる

そんな言葉を思い出す瞬間でした。

わーい(^-^)


そうそう最後に戦争の話題に戻ることを忘れてはいけません。

自我の可能性を追求した人類は二つの世界大戦をはじめ様々な悲劇を生み出しました。
ですが、それは同時に科学技術をはじめとした知識を人類にもたらしているのです。
それらの知識はこれからも生かしていけばよいのだと思います。
そぎ落としていくべきは、自我の欲望です。

知識は生かし、欲望はそぎ落としていく。

そうすることで、人類の歴史はすべて生かされ、統合の未来へと至ることでしょう。









孤独となった自我を超える

Hatenaとのやり取りから


真実を明らかにする」をこのブログに掲載した際、
そのことをNIFTYやHatena、そして片山佳代子さんに知らせました。
その後、NIFTYからは連絡がありませんが、Hatenaと片山さんからは返信がありました。

Hatenaとはメールを数回やり取りしました。
そして、Hatanaは片山さんの記事の削除には応じることはないという結論を出しました。
それに対し、僕は以下の返信をし、このやり取りを終わらせました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

発信者への再照会ありがとうございました。
発信者及び御社の見解は理解しました。

物事の真実は当事者に寄り添い、奥の心を見た時に初めて理解出来ます。
ですが、多くの人が正義の立場に立ち、出来事の表面から周りを裁くことで、
この世界に分断と諍いが広がりました。

経済発展を良しとする今の指導者たちは、
この社会に格差をもたらし、テロの温床を生み出しました。
そして、その自分たちの姿勢を振り返ることはせずにテロリストを非難します。

その一方、テロリストたちは資本主義社会の矛盾を指摘し、
自分たちの攻撃を正当化しています。

憲法改正が話題となっておりますが、
改憲派、護憲派ともに自分たちの正しさを主張し、相手の姿勢を裁きます。

人が他者を裁くこと。
そして、その姿勢を広げることがこの社会に何をもたらすのか。

そのことを再考していただくことが削除申請の目的であり、
私がブログを掲載したことの目的でした。

法律に沿って考えた際、御社の判断に問題はないのでしょう。
ですが、その判断が社会に何をもたらすのかを常に考えていただきたいと思っております。
それが御社のように影響力を持つ企業の社会的責任であります。
そこでは法律には表現されない人生の機微に触れることが求められるのです。

以上、最後に思っていることを伝えさせていただきました。

インターネット上では様々な情報が拡散されます。
そこに適切に対応出来るように見識を深めていっていだきたいと思っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

☆彡 ☆彡 ☆彡

孤独となった自我を超える


魂を入れていく」にも書きましたが、

我思う、故に、我あり。(コギト・エルゴ・スム)

私が存在するのは、私が思考しているから。

自分の存在基盤を自分の思考に求めたこのデカルトの言葉は、
自我による自然からの独立宣言で、
他者の存在なしでも自分は存在出来るという幻想を生み出しました。

自然から独立した自我は、自然をただの物質と捉え、切り刻み利用していきます。
その結果、物質文明は発展しますが、自然環境は限界を迎えています。

その自然に対する態度は他者に対する態度にも反映されていきます。
自我にとって他者の存在は分析し利用する対象となってしまっているのです。
そして、それは他者の自我から見た自分にも言えることです。

近代以降、自我は孤独となり、不安を抱えています。

ニーチェは「神は死んだ」と表現しましたが、
人々は神である自然から命を奪っているのです。
そして、本来、人は自然の一部です。
自然から命を奪うことは自らの命を奪うことであり、
存在の基盤を失う結果に繋がります。
そのため自我は孤独となります。
孤独となった自我は他者を求めますが、
その態度に変化はなく、他者は分析し利用する対象のままなのです。

不安な自我は、安心を得るために自分に賛同してくれる存在を求めます。
他者からの承認を支えに生きていくようになります。
そのため、「間違え」は致命的な出来事であり、自らの「正しさ」を信じていたいのです。
自らの「正しさ」を信じるために、他者の間違えを指摘し続けているのです。

長くなりましたが、僕はインターネット上での誹謗中傷の奥に上記のような心理を感じています。

自我を超えること。

それは現代社会に生きる人間にとってとても大切なテーマです。

君あり、故に我あり

これはデカルトの言葉を意識して述べたサティシュ・クマールさんの言葉ですが、
今、人間に求められる態度を端的に表しています。

他者の存在により自分が生かされていること。

自然界の大いなる循環の中で暮らす生命にとって、それは客観的事実です。
そして、人間も生命です。

自分で生きている。

自我が持つそんな幻想を乗り越え、生命として目覚める時、
大いなる循環の中で人々は満たされ、
今、人類が向き合っている様々な問題は解決していくでしょう。

木の花ファミリーの暮らしはそんな未来に向けての実践です。

木の花ファミリーのみんな@川遊び(8月9日)です。


流れは人々の心を浮き彫りにしていく

前回の記事「魂を入れていく」は、大人ミーティングでの場創りの足しになれば・・・と思い書いたものです。
ですが結局、これをミーティングでシェアすることはありませんでした。
というのは、場は他の理由で整い、この記事のシェアは必要としていなかったからです。

僕の意図は流れに乗ることはありませんでした。
ですが、これはこれでいいのです。
大切なのは、場が整うことであり、僕の意図は重要ではないからです。

意図は重要ではないのですが、意欲は重要です。
ブログを書いたのは、ミーティングでの場創りのためであり、
僕にはミーティングで場創りをする意欲と意思がありました。
それは流れに沿うものとなりミーティングでの場創りに貢献していくのです。

流れは人々の心や社会の現状を浮き彫りにします。

もし僕が自分の意図にこだわる心を持っていたら、
上記の出来事でふて腐れ、意欲を失ったかもしれません。
実際、数年前の自分ならば、このようになっていたと思います。
ですが、今の自分は変化し、流れを楽しむ心が育まれているのです。

71年前の今日、広島に原爆が落とされました。
この痛ましい流れは自分の愚かさを浮き彫りにしましたが、未だ原爆はなくなりません。
この事実は社会の現状を浮き彫りにしています。

今日、リオのオリンピックが開催式を迎えますが、
今でもロシアのドーピング問題で揺れ動いています。
そして、ブラジル国内も混乱に極みにあり、大統領は弾劾に問われ、
停職中で、暫定政権にも不正疑惑が相次いています。
この状況は人々が自らの欲望を追求した結果であり、
人類の現状を浮き彫りにしているのです。

宇宙は銀河の夜明けを経て、光の時代へと向かっています。
宇宙は、光に向って流れ、人々の心や社会を照らし、浮き彫りにしているのです。
これは天が生み出している流れです。

ここでもう一度、流れについてのいさどんの言葉を紹介します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

天は流れを創る。
そしてその流れに具体的にことを乗せるのは、地の仕事である。
流れを観て、流れに応じた行動をする。そういうコラボである。
道理を考えて人智を回すことも大事だが、それをやり過ぎると人智だけになり流れを忘れるから、流れを観ながら人智を回していく。当たり前のことだが、ついつい出来事に意識が行き過ぎると、そのことを忘れる。
流れを観ていれば、ことはスムーズに進む。
それは流れているのだから、行きつくところに行きつく。
流れを観るとは、結論が出るということではない。
流れを観て、それに沿うと、行きつくところに行きつくから、その時に「ああそうか」といただく。結論はない。しかし流れをしっかり読める人間は行き着く先が想像できるものだから、思った通りにことが成るということだ。それは最初から成るべきことが成るように生きているということである。
このようなものの捉え方でいると、道理が常に通っているから、自分の考えている通りにすべてが回る。


☆彡 ☆彡 ☆彡

天の流れによって浮き彫りにされていく自分や社会。
それとしっかり向き合う中で、流れに沿い、道理を通していく。
それは自分と世界を正していく行動です。

流れを感じて、自分を見る。そして、流れに沿っていく。

一人一人がそのように生きることが大切で、その先に真の平和が訪れます。

それは人類未踏の世界です。

その先駆けとなるよう僕は木の花ファミリーでみんなと共に心を磨いています。

これは当然希望の物語です(^-^)

木の花ファミリーの生活風景(7月28日夏祭りより)




魂を入れていく


天の流れを忘れる人々


人が自然の一部だった頃は、人は天(天気、天候、気候、季節)のリズムと共に生きていました。
自然の流れを読み、それに沿って生きる必要がありました。

その後、近代文明が発達し、人は自然の影響からある程度自由になりました。
人工的な環境を作りだし、季節に関係なく1年中同じように暮らせるようになります。
そんな中、人は天のリズムを忘れていきます。

我思う、故に、我あり。(コギト・エルゴ・スム)

私が存在するのは、私が思考しているから。

自分の存在基盤を自分の思考に求めたこのデカルトの言葉は、
自我による自然からの独立宣言で、
他者の存在なしでも自分は存在出来るという幻想を生み出しました。

そして自然や他者との関係性を無視し、人々が思うがままに行動した結果、
現在の発展と混乱した社会があるのです。

自我は一人一人別々の認識や解釈をもたらします。
今、世界には70憶以上の認識や解釈が存在し、
多くの人がそれに囚われ、翻弄されて生きています。

今、世界をテロリズムが騒がせていますが、テロリストにもテロをする理由があり正義があります。
ですが、彼らは彼らの視点に囚われています。

そして、そんなテロリストを生み出しているのは、貧困や格差を生み出している社会であり、
それは個人的利益を追求することを良しとする人々が生み出しています。
そんな人々の視点も囚われています。

そこには天や自然の流れを意識する視点がないのです。

天の流れとは?


天の流れについていさどんは以下のように語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

天は流れを創る。
そしてその流れに具体的にことを乗せるのは、地の仕事である。
流れを観て、流れに応じた行動をする。そういうコラボである。

道理を考えて人智を回すことも大事だが、それをやり過ぎると人智だけになり流れを忘れるから、流れを観ながら人智を回していく。当たり前のことだが、ついつい出来事に意識が行き過ぎると、そのことを忘れる。

流れを観ていれば、ことはスムーズに進む。
それは流れているのだから、行きつくところに行きつく。
流れを観るとは、結論が出るということではない。
流れを観て、それに沿うと、行きつくところに行きつくから、その時に「ああそうか」といただく。結論はない。しかし流れをしっかり読める人間は行き着く先が想像できるものだから、思った通りにことが成るということだ。それは最初から成るべきことが成るように生きているということである。

このようなものの捉え方でいると、道理が常に通っているから、自分の考えている通りにすべてが回る。

☆彡 ☆彡 ☆彡



魂を入れていく


天はインスピレーションを通して流れを示唆します。
その時、それを結論としてしまうと、そこに囚われが生じ、流れを失います。
自分の都合で解釈をしても、流れはなくなります。

流れを観て、流れに沿う。

そのためには自分の視点を離れる必要があります。

最初のインスピレーションは種のようなもの。

それが育っていくためには、人はその都度、適切な関わりをしていく必要があるのです。

魂を入れていく。

僕にはそんな言葉が浮かびました。

天の流れを形にしていくのは、人の仕事であり、
関わる人たちがそこに自分の魂をのせていくのです。

その作業は自らの思惑を離れたものであり、天の意向に沿ったものです。

魂をのせることで流れが熟していきます。

それは自分の想像を超えたとても大きな出来事であり、
同時に日常の中でも表現されることであり、
大きなことと小さなことが繋がり、世界が一つになっていくのです。

こんなことを想像するととてもわくわくします(^-^)

一人一人が自らの自我に翻弄されずに、天の意向に沿って生きていけば、
そこには調和が表現され、争いやテロを必要としない世界になっていくでしょう。

そんな世界に向けて、最近、木の花ファミリーでは流れについて語り合っています。




ヒーローを求める心

ガンジーやキング牧師などのヒーロー


マハトマ・ガンジーの非暴力運動は、インドにイギリスからの独立をもたらしましたが、
独立運動のさなかヒンドゥー教徒とイスラム教徒との対立は激化していきました。
その結果、イスラム教徒の地域は今、パキスタン、バングラディッシュとして分離独立しています。
そして、ガンジー自身はヒンドゥー原理主義者の凶弾に倒れています。

キング牧師の演説『私には夢がある(I have a dream)』は多くの人々に感動をもたらし、
公民権法制定に繋がりましたが、アメリカから人種差別は未だなくなっていません。

この7月、白人警察官による黒人の射殺事件が起き、それが黒人のデモに繋がり、
黒人による白人警察官の射殺事件にまで及んでいます。

ガンジーもキング牧師も偉大な人であり、平和を訴え、世界に大きな影響を与えました。
ですが、争いは絶えることなく現在も続いています。

ガンジーもキング牧師も時代が生み出したヒーローであり、
その背後には人々のヒーローを求める心があります。

多くの人がヒーローを求めています。

今、社会は大きく混乱し、地球環境の破壊も進んでいます。
そんな中、立派な指導者を求める気持ちが人々の中に生まれます。

ですが、ヒーローが存在するためには悪者が必要となります。
ヒーローと悪者はセットとなり、
人々のヒーローを求める気持ちがそのまま悪者を生み出し続けるのです。

これからどんなに偉大な人が現れ、人々を導いたとしても、
人々の中にヒーローを求める気持ちがある限り、真の平和が訪れることはないのです。

そして、時代もそのことを人類に教えようとしています。

今、世界を見渡しても、未来を託せる指導者は見当たりません。
アメリカ大統領候補のトランプ氏などは託すどころか人々の不安を増幅させています。

日本に目を移すと、7月10日行われた参議院選挙では、
三宅洋平さんの選挙フェスは多くの人々を惹きつけ、大きな話題となりました。
ですが、三宅洋平さんは当選することはありませんでした。
当選すれば、多くの人の期待を背負う存在(ヒーロー)となったかと思うのですが、
結果、当選には至りませんでした。

これらの出来事は、これからの未来を切り開くのは一人の英雄ではなく、
一人一人の人間の目覚めだということを示しているのです。

ヒーローを求める心がある限り、人々は悪者を同時に生み出します。
そして、争いは生まれ続けます。

この状況を変えていくためには、一人一人が自分自身の心と向き合う必要があります。
そして、自分自身を知り、自分の人格にメスを入れていくのです。
その時、人々の心の中にある不調和な種が摘み取られ、真の平和が生まれるのです。

それは一人一人が主役になるということも意味します。
みんなが主役なので、この世界にはヒーローは存在しなくなるのです。

自分の取り組み


木の花ファミリーの暮らしは時代の先駆けとして存在し、
一人一人が自分の人格にメスを入れることによって成り立っています。

ですが、まだまだ途上にあります。

木の花ファミリーでは毎晩大人ミーティングを行っていますが、
創設メンバーのいさどんはミーティングに来たり来なかったりしています。

そして、最近自覚したのですが、
僕の心はいさどんがミーティングに来るとスイッチがONとなり、
いさどんがいないとOFFになるのです。
これはいさどんの頼っている心の現れであり、主体性がありません。
その姿勢は日常生活にも繋がります。

いさどんはみんなの日常生活についてこんなふうに語ってくれたことがあります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕が行くことで緊張するとかそういうことではなくて、
多くの人は自分のやっていることが見えていないのです。
そこに僕が行くことによって、見えていなかったことが明らかになるのです。
つまり、それまではOKにしていたことが、よく見ることによってOKではなくなるのです。
こういう人は普段から失敗をしているのです。

多くの人は自らの欲望のままにそれに翻弄されて生きています。
これは意識が自分にばかり向いている状態です。
この状態では心からの気づきは生まれず、失敗も見えないのです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

自分の欲望に翻弄されている状態。それはスイッチがOFFの状態です。
スイッチがOFFのため、意識が自分にばかり向き、失敗も気にせず暮らすようになります。

スイッチをOFFにして暮らすことにより、問題(悪者)を生み出します。
そして、それを正してくれるいさどんをヒーローに持ち上げることになるのです。

これは無自覚に僕らが生み出している世界ですが、
こんな世界をいさどんは決して望んでいません。

多くの時間を、スイッチをONにして過ごすことが大切です。
そうするとで、自発的に生きて自分が主役になっていきます。
その時、いさどんがヒーローでいる必要はなくなり、
みんなが助け合い活かしあう暮らしとなっていくのでしょう。

そしてそれこそが未来の人類のモデルの暮らし。
そんな未来に向けて、僕は自発的に生きていきます(^-^)


今年から始めた木の花ファミリーの蓮池。いさどんが管理してくれています。




想いを通して新しい何かを生み出していく

バングラディッシュの首都ダッカでレストランが襲撃される事件が起きました。
僕はこのニュースを目にした時、藤崎亜矢子さんのことを思い出しました。
(亜矢子さんは昔お世話になったプロセスワーカーです。)
そして、メッセージを出そうと思いパソコンを開けたら、
すぐに亜矢子さんのFacebook投稿が目に入って来ました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

テロリズムのニュースを聞くのはいつも辛いものですが、今回のダッカのニュースは特に堪えました。それは一週間前に妹の住んでいるダッカを訪ねたので、妹や知り合い、そして自分自身が犠牲になっていたかもしれないと想像してしまうだけでなく、同じような想像をテロリスト側にもしてしまうからです。
12年ほど前にダッカに2ヶ月ほど滞在して、ストリートチルドレンのために働く現地のNGOワーカー(オポロジョバングラデシュ、シャプラニール)たちにカウンセリング/コミュニケーション研修をするという機会がありました。そしてその2年後にまた研修をしました。そのときに学んだのは、ストリートチルドレンにとって最大の脅威は人身売買をする人だということです。彼らも善意のNGOワーカーも親切そうに子供たちに近づくために、子供たちはNGOワーカーと人身売買商人を見分けないとならないのでした。


今回の滞在で学んだのは、今や新たな脅威は過激主義者が経営する学校だということです。多くのNGOのようにこうした学校は住む場所や教育を提供しますが、そこで子供たちを洗脳してしまうそうです。ですからもちろんその可能性はほとんどないのですが、「テロリストは知っている男の子かもしれない」「自分もこうした貧困の中に生まれたら私もそうなってしまうかも」とつい考えてしまいます。善悪の境界というのがあいまいになり、犠牲者もテロリストにも思い入れてしまいいつも以上に心が痛みます。
☆彡 ☆彡 ☆彡

この世界には悲しい出来事が溢れていますが、
それらは人々の日々の姿勢が生み出しているものであり、
自分も関係しているのです。

だから日々の暮らしの中で、対立を超える新しい価値観を生み出し、
それを未来に繋げていくことが大切になります。


話しは変わって今朝、僕は散歩中に野良ネコに出会いました。
出会った瞬間、相手が僕のことを警戒していることが伝わって来ました。
それに対し、僕は深呼吸し、心を鎮めました。
そして、友愛の気持ちを向けてみました。
すると、ネコも落ち着き、その場で座り込みました。
こんなふうになると、僕の中にネコを撫でてみたい気持ちが生じてきました。
ですが、相手は野良ネコです。
普段あまり人に接していません。
そんなネコが人に撫でられることを求めているわけはないのです。
少し近づこうとすると、ネコは離れていこうとしました。
僕は再び、心を鎮め友愛の気持ちを向けると、
ネコは再びその場に座り込みました。
しばらくして、僕はネコに気持ちを向けながらその場を去りました。


想いが生じた時、それを叶えようとすると無理が生じることがあります。
ネコを撫でようとする行為がそうだし、テロはその極端な形と言えます。
そして、それは自分の思考の延長線上にしかありません。

想いが生じた時、その想いを通して、世界の中で対話をしていく。
相手の気持ちや世界の流れを感じながら。

その時、きっと新しい何かが生まれ、
それは自分の想像を超えたものとなっていくのです。

自らに湧き上がる想いは世界との対話の材料です。
きっとそれを通して新しい何かを生み出していけるのです。

今、多くの人が自らの思考の延長線上で想いを実現しようとしています。
その姿勢がテロに繋がっているのだと思います。

もし、世界の人々が自らの想いを対話の材料と考え、
世界に対して開かれていけば、
新しい何かが生まれ続け、それはきっと世界を調和に導いていきます。

そして、その調和はすべての存在を生き生きさせていくことでしょう。

テロのニュースと散歩中の野良ネコとの出会い。
全く関係のない2つの出来事を通してそんなことを思いました。


今朝の富士山と太陽です。ちなみに今日は新月。新しい始まりです。



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