宇宙を生きる(2)

いさどんブログ「21世紀のいのちの捉え方」にはこんな言葉があります。

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死を迎えることは、人生の区切りをつけ、次のステージに行くことでもあるのですから、亡くなった人を見送る人たちは、死者に対して、「こうだったらよかった」「ああだったらよかった」と考えるだけでも、その人が次のステージに行くための後ろ髪を引くことになるのです。

生死の流れからすると、亡くなった人たちは必ず次へ行かなければいけないのです。ですから、そこでは未練を持つのではなく、その人との出会いから感情を入れずに学ぶことが大切なのです。学ぶことがその人の死を生かすことになるのです。

生きている者からすると、その人の生き様を見せてもらったのですから、「あの人はこう生きてこのような結果を迎えたのだから、自分はこのように生きていこう」と自らの生き方につなげ、学ぶことが、人の死を生かすことになるのです。どんな人の生き様であっても、それが殺人者であろうが、自殺した人でも、一つ一つの事例として残された人に見せてくれているのです。

よくある話として、余命3ヶ月と宣告されると、「どのようにその期間を過ごしたらいいのでしょうか?」という質問をご家族から受けることがあります。その時に僕が答えるのは、その人が亡くなっても、その人の生き様(人生経験)は残った人たちの中に生かせるということです。ですから、生きている間にその人を観察し、なぜ今のような状態になっているのかを理解した時に、その人の人生を自分も生きたと捉えることができるのです。
わたしたちは自分ひとり分の人生を歩んでいますが、縁の近い人の生き様は身近で赤裸々に見せてもらっているのですから、それを自分も経験したと同じように捉えることができるのです。ですから、そこから学び、自分のこれからの人生に生かすと、死は世代を超えて生き続けることになるのです。

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この言葉は身近な人の死について語っていますが、日々ニュースから流れる死についても同じことが言えると思います。2年前の今日、パリで同時多発テロが起きました。当時の僕はこのニュースに大きな衝撃を受け上記の文章を踏まえ以下のように書きました。

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人の生死を客観的に捉え、そこから学ぶことが大切です。今回の事件もそんなふうに生かされた時、犠牲者も安穏なる気持ちで次のステージにいけるのだと思います。

僕は客観性に基づく祈りを捧げます。

そしてこの事件を未来に生かしていきたいと思います。

客観性の中で、すべての存在は大いなる循環の中で生かされていきます。一人一人が自分の立場を離れて客観性を育んでいくことが大切です。世界で起きることは常に自分自身への問い掛けとなるのです。


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あれから2年。テロがなくなることはなく今年もパキスタンやソマリア、スペインなど様々な地域でテロが起き続けています。それは人類がテロという悲しい出来事を学びとして生かせていないからだと思います。学びとして生かすためには、それぞれの立場を離れ、過去から未来へと続く流れの中で出来事を捉えていく必要があります。そんな取り組みとして歴史的視点、そして貧困や格差、宗教の違いなど構造的分析がなされていますが、その奥にある一人ひとりの心にメスが入っていないのです。

たとえば「命には囚われない悟り(2)」で取り上げているクラウドアトラスの主人公は、公式ホームページで「世界を救うまでに魂が成長した男」と紹介されています。ですが彼のした行為は、肉親への愛着や執着に基づくもので、敵対するものを悪とし殺害するというものです。映画では全く触れられていませんが、敵対し殺害された人たちにも家族がいて、そこには同じように肉親への愛着や執着が存在するはずなのです。悪とされ排除された側には憎しみが生まれ、その憎しみは人をテロリストへと導く可能性を秘めています。

肉親や身近なものへの愛情から敵対するものを排除する。

もし多くの人がこんな物語を英雄物語として受け入れているとしたら、その心が世界にテロリズムを生み出し続けているのかもしれません。

一人ひとりの心の総和が世界の出来事を生み出しています。だから世界で起きていることを自らの心の反映として一人ひとりがしっかりと向き合うことが大切なのです。そんなふうに生きる時、現象の奥に流れる天の心が見え、この世界の奥深さに気づきます。

その時、人は宇宙と一体、宇宙を生きるようになり、真の調和が実現するのだと思います。

いさどんさつまいも収穫





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