すべては相応しく与えられている



ジイジは昔、木の花ファミリーを始めた頃に畑で作物を作っていました。畑へ行って土を耕して、種を播いて、野菜を育てたりしていました。畑では、植物はもちろん、動物や、土や、雨や、風や、いろいろなものに出会います。そこで、人間以外のものはウソをつきません。だから自然の中で生活していると、とても心が穏やかでした。それは、疑わなくてもいいからです。
でもそこに、ジイジを訪ねていろんな人がやって来ます。そして人間が来ると、その場にウソができるのです。そういったウソをつく人間から勉強できることは、あまりありません。自然の中で畑を耕していると、例えば作物の出来が悪ければ、それは土が間違っていたり、気候が合わなかったり、どこに原因があるのかを正直に教えてくれます。たくさん収穫しようと思って肥料をたくさん入れると、作物は病気になります。自然は、いつも正直に人間のやっている間違いを教えてくれます。自然は絶対にウソをつかないのです。
だけど人間は自分に都合のいいようにものを考えるから、ウソをつきます。大人は子どもに「ウソをつくな」と言いますね。それは子どもがウソをつくからです。でも実は、大人の方がもっとウソをついています。そういった経験があるから、大人は子どもに「ウソをつくな」と言うのです。つまり、人はみんなウソつきだということです。
そこで大事なのは、自分がウソをついている時に、ウソをついていることをわかっていることです。それは、自分が間違っていることを振り返る心があるということです。

ウソをつくと、それは本当のことと違いますから、生きていると必ずその間違いの結果が自分に返ってきます。欲が深い人は、畑で種を播くと、まだ作物が育つ前からたくさん収穫することを考えます。たくさん採るためにはたくさん肥料を入れて大きくしよう!と思うのです。でもそれは、作物のことを考えていません。その人が欲をかいた分、作物は病気になって、本当のことを教えてくれるのです。
ウソも同じです。ウソをつく時には、それを言うことでいいことがあると思っています。だからウソをつくんでしょう?でもウソをつくと、必ず自分が思っていたことと反対の、都合の悪いことが起きます。そこで、ウソをつくのはよくないな、ということを学ぶのです。ということは、みんなはウソつきの練習をしているのです。そのために、そういった仕組みがあるのです。

たくさんウソをつくと、たくさん困ったことが起きるよ。ウソつきの頭をたくさん働かせると、ウソつきの人になっていきます。でもウソをつくのは、ウソつきになるためではなく、ウソをつくとどうなるかということを勉強するためにあるのです。
その時に、自分がウソをついたことがわかっていれば、すぐに勉強ができます。ああ、あのウソがこういう結果になったんだ、と。でも自分がウソをついていることがわからない状態になっている人は、困ったことが起きても人のせいにします。だから、ウソから勉強することができません。そして本当に困った人になります。ジイジはそういう大人にたくさん出会ってきました。
ですから、そういう大人にならないように、ウソをつかないのではなく、練習のためにウソをついてください。そしてウソをつけば必ず困ったことが起きますから、そこでウソをつくとこうなるんだ、ということを勉強してください。
ジイジも子どもの頃にはたくさんウソをつきました。そしてウソをつくとまずいな、ということがわかって、だんだんウソをつかなくなりました。大人は子どもに「ウソをつくな!」と言うけれど、子どもの時にウソをついていないと大人になってからウソをつきますね。それは本当に困った人になりますから、小さいうちに練習としてたくさんウソをついてください。そしてたくさん困ってください。そしてどうして困ったのかといったら、自分がウソをついたからだということに気付いてください。そうしたらきっと、ウソをつかない人になるでしょう。



☆彡 ☆彡 ☆彡

上記はこの夏、ジイジが子どもたちに語った言葉ですが、この言葉は「自覚すること」の大切さを語っているように思えます。この世界は鏡であり、自らが発する想いや響きに相応しい出来事に出会うようになっています。そのため自らの言動を自覚していれば、出会う出来事から自分を知り、この世界の法則を知ることが出来るのです。自らの言動を自覚しておくこと。それはうそをつくか?つかないか?という表面的なことよりもはるかに重要なことだと思います。

例えば、誰かに不快な思いをしたトキ、それを正直に語ることが本当で、隠すことはうそになる。短絡的に考えるとそうなりますが、不快な思いを隠した後、自分の中でその思いを正したならば、隠したことが本当となります。例えば、相手に配慮して伝えないで様子を見ることもありますが、このトキ、伝えないという行為はうそかもしれませんが、相手に配慮する気持ちは本当です。

だから表面的な行為としてのうそ、本当よりも大切なことがあるのです。それが自分の本当を知っていること、自分の言動を自覚すること、自分の心に正直であることです。そして出会う出来事を潔くいただいていけば、自分と世界に対する認識は深まっていきます。

うそ

カタカムナで見ると「渦から逸れる」となります。渦は宇宙雲。万物を生み出す元。それから逸れる行為がうそで、だから反動として元に戻る力が働き、それが滞りとなって表れるのです。うそをつき続けることは元の渦から逸れ続けることです。すると元の心、中心を見失っていくから、自分を見失い、うそをついていることも分からなくなっていくのです。

うそに近い言葉で想像(そうぞう)がありますが、カタカムナで見ると、「逸れた渦、逸れた渦」となります。想像も中心から逸れたものであり本当ではないものです。ですが、そこから中心に戻る過程で思いがけないものを創造(そうぞう)することもあります。

そして、「嘘(うそ)から出た真(まこと)」という言葉あります。

「うそ」は本質から逸れる行為ですが、自分が中心を保っていれば、それが新たなエネルギーとなり「まこと」を生み出すこともあるのです。「まこと」とは「空間から転がり出て統合したもの」。つまりは現象化ですが、芯がしっかりしていたら、逸れる動きは転がり出る動きともなるのでしょう。

だから物事を短絡的には考えないことです。ただ自分の言動を自覚し、責任をもって出会う出来事をいただいていけば、思いもかけないことに出会います。これはすべて自らの心の反映であり、人は思惑を超えた出来事を通して本当の自分を知っていくのです。


0 コメント:

Your left Slidebar content. -->