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僕と父と木の花ファミリー(2)

僕と父と木の花ファミリーに書いたように、僕はつい最近、自分の中で両親と再会する体験をしました。それはこんな感じです。

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近くで暮らしていた頃、僕はずっと「両親は僕が幼児のようであることを望んでいる」と思っていました。そうすれば、僕の世話を思う存分に出来るので。そして、子どもの頃の僕のイメージに固執していると思っていました。僕の世話をしたいという意味で、そういう面は確実にあったと思うのですが、今思うと、彼らの僕への愛着は理屈を超えたもので、だから、僕に対するイメージも特にはなくて、僕がどんな人間でも構わなかったのだろうと思います。そして彼らの僕に対する愛着は彼らの現実で、思うように伝わらないことで苦しんでいたんだろうなとも思います。そういう愛着を誰かに向け、苦しむことは僕にもあって、そう思ったトキ、自分の中で両親と再会したように思えました。

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僕の両親は、僕の想いとは関係なく、僕に愛着を持っていて、そこには共有できるものがありませんでした。そして、僕が大きくなるにつれて、実際の心の距離はどんどん膨らんでいて、そこには冷たい空気が流れていまいした。僕と両親とでは、見ている世界が違っていました。両親の僕への愛着は絶対的でしたが、そういう現実を直視することはなくて、感情の交流という意味では貧しいものでした。そして、それは僕がずっと抱えてきた理屈を超えた愛着にも言えることで、現実の中で他者と共有できる価値のない愛着は彩りがなく貧しいものです。そして、それが僕の人間性の原点となっています。

僕の中での両親との再会は、僕の人間性との出会いであり、それは痛みを伴いましたが、現代社会の反映でもあり、そこと向き合うことが大切だと思いました。人は、便利な世の中を作ることで、好き勝手に想いを持つことが出来るようになりましたが、その結果、社会には分断と孤立が溢れています。物質的には豊かになりましたが、人々の関心は欲得に集まり、精神的にはとても貧しい世界となっています。自分の願いを叶え、何かを獲得することに価値が置かれ、他者と共有する喜びは蔑ろにされています。そういう世界を反映して自分の人間性があり、だからこそ、自分の人間性にメスを入れることは世界にメスを入れることになるのだと思っています。

木の花ファミリーは、すべてを共有することを心掛けているコミュニティです。すべてを共有した上で調和して暮らすためには、一人ひとりが自分の立場を離れ、みんなで共有できる価値を育む必要があります。そのような心を育むことで、分断や孤立へと繋がる貧しい想いを超えていくことが出来るのです。

「本当はそういう暮らしが大切なのかもしれないな。今の社会は全然違うけれども。」

僕を木の花ファミリーに送る道中で、父は僕にそう呟きました。その瞬間、僕らは大事を共有し、心の距離は近づきました。物理的には離れ、それぞれ全く別の道を歩んでいますが、お互いを尊重することで心は近づいているのです。

人は、宇宙や自然の仕組みの中で生かされている。

それはすべてのヒトが共有出来る真理です。そしてそれは「ひとつならりのいのち」を表現していて、この世界の豊かさは循環の中で表現されます。その真理に基づき、みんなが共有できる価値を育んでいこうと思っています。


今朝のお月様。昨日はふたご座満月でした。

僕と父と木の花ファミリー

11月のはじめ、ジイジはこんなことを話していました。

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テレビは今の社会情勢を知るには、すごい情報源だよね。ここにいていろいろなところのことが分かるのだから。でもマスメディアは自分たちの都合のよいニュースを流すのでその点は注意をする必要がある。

この前テレビで、インターネットのいろいろな問題について取り上げていたんだけれども、インターネットの世界では、何か一つのある情報が入ると、それに酔ったように人々は反応して、そればかりを検索するようになる。今のインターネットは何かの情報を検索すると、そういう情報が自動的に集まるようになっている。そうすると、そのような情報ばかりに接して、同じような人たちが集まるようになってくる。集まって、「世の中みんな自分と同じ考えだ」というようになって自分が正しいと思うようになる。ある大学の先生はこのようなことを研究して、何か強い意見があるとみんなが集まってそこに偏った集団が出来る危険があると言っている。そういう例としては、ヘイトスピーチやバッシングなどがあるよね。

それで別の研究者は同じ現象を見て、別の危惧をしている。ネット上では、みんながそれぞれ自分の考えを持っていて、例えば人を批評しても反論が来ない。そうすると相手がどのような感情を持っていて、実際がどうなのかも関係なく、自分の感情でどんどんどんどん主張できるから、自分の考えが暴走していくことになる。それで一方的に言う人がどんどん増えてきて、そこに偏った人たちが集まっていく。そうすると逆に、共通の生き方がなくなっていって、万人に共通したモラルや価値観を持って人々を束ねていく。そういうことが出来なくなってバラバラとなっていく。

片一方では、強い意見があると人が集まって偏ってしまうという現象が起きて、その傾向は逆に、本当に信頼すべき正しい意見がなくなり、バラバラの世界となって表れている。矛盾する問題ばかりが起きているのが今のインターネット社会。そのことに対して現状では打つ手がない。だけれども、ささやかだけれどもこういう世界を創ればいいという答え、それを示す必要がある。

研究者の多くは、自分は賢くて、自分は正しいという立場から意見を述べている。けれども、その前提になっているのは、金や社会的評価が絶対の社会、その中で切り捨てられる人間の本質が見えていない。ものが見えているようで、全く見えていない状態と言える。すごい賢い人たちが集まってすごいバカな世界を創っている。

そこでどうしたらいいかと言ったら、自分たちが生きているではなく、生かされているということを知ること。どんなことをしても時間の流れはどうすることも出来ないし、老いていく自分を止めることは出来ない。人は、宇宙や自然の仕組みの中で生かされている。だから自分が賢くて生きているという錯覚を手放さなければならない。でも今の人間はそれがなかなか出来なくなっている。

人間が自然の恩恵に感謝して、真剣に神経を張り巡らせて生きていた時代、そういう時代から、人間は賢くなって、この世界から不都合なものをなくしていって、気軽に言いたいことを言える世の中になっていった。その結果、一番大事なもの、共通の価値、共通の生き方を失っている。今の社会は人間が賢くなった結果、最も愚かしいところに来ている。

共通の価値観の元に集える場所がなくなったしまった今、そういう場所を生み出しているのがこの場と言える。それはささやかな動きだけれどもとても大切なこと。現代のメディアの情報から、その奥を見ると、この暮らしの大切さの確認となる。

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ここで話は変わって。

最近、自分の中で両親と再会する経験をしました。父親は、「あなたの未熟もみんなに役立つ」にも書いている通り、僕に対してとても強い愛着を持っていました。そして、母親は、表面にはあまり出しませんでしたが、同じように強い愛着を僕に対して持っていました。そんな彼らの気持ちに対して、僕は冷めた視点で眺めていました。彼らは実際の僕を見ているわけではなくて、彼らが創り上げたイメージに愛着していると感じていたからです。それで昔の僕は、実際の自分を見て欲しいと感じていました。

木の花ファミリーに移住する時、両親は大反対をしました。それは木の花の暮らしに対する反対ではなくて、ただただ僕が離れていくことに対する反対でした。それでも僕の意志が固くどうすることも出来ないと分かった時、両親は僕の引っ越しを手伝ってくれました。そして父親は、車に荷物を積んで僕を木の花ファミリーまで送ってくれたのですが、その時、ぽろっと一言、「本当はそういう暮らしが大切なのかもしれないな。今の社会は全然違うけれども。」と呟きました。その一言はとても印象に残っています。

近くで暮らしていた頃、僕はずっと「両親は僕が幼児のようであることを望んでいる」と思っていました。そうすれば、僕の世話を思う存分に出来るので。そして、子どもの頃の僕のイメージに固執していると思っていました。僕の世話をしたいという意味で、そういう面は確実にあったと思うのですが、今思うと、彼らの僕への愛着は理屈を超えたもので、だから、僕に対するイメージも特にはなくて、僕がどんな人間でも構わなかったのだろうと思います。そして彼らの僕に対する愛着は彼らの現実で、思うように伝わらないことで苦しんでいたんだろうなとも思います。そういう愛着を誰かに向け、苦しむことは僕にもあって、そう思ったトキ、自分の中で両親と再会したように思えました。

この理屈を超えた愛着は何なんだろうなと思います。現実の姿と関係がないという意味では、これも一つの幻想で、絶対的なものという感覚に酔いしれているのではないか、そんなふうにも思えます。

ここで話は最初に戻って。

インターネット社会では、人々は好みの情報に酔いしれ、偏っていく傾向があるのですが、それは現実と離れた幻想の世界を生み出していきます。一人ひとりが自分の見ている幻想に愛着を持つことで、社会からは、共通の価値観が失われていきます。今、世界には、他者とは共有できない愛着が溢れているように思えます。それは、人間がこの世界から不都合なものをなくしていった結果、好き勝手な思考が出来るようになったためで、その過程で、共通の価値、共通の生き方が蔑ろにされてきたのです。

僕の両親は、僕の想いとは関係なく、僕に愛着を持ち続けていました。そこに共有できる価値はありません。それでもその想いは両親の生きがいでした。理屈を超えた愛着。それは否定するものではありませんが、誰の幸せにも繫がりません。そして、これは愛着であって愛ではないと思っています。

愛とは、客観性であり、共通の価値であり、すべての人を幸せに導くものです。それは、道理に基づき、理に適ったものです。僕を木の花ファミリーへと送った時の父の言葉。僕は、この言葉から初めて父に「真実を見通す目」を感じました。そして、そこに父の僕に対する愛を垣間見ました。そこには共有できる価値観、客観性があります。

今年の2月、祖母がなくなったため、実家に帰って両親や親戚と会ってきました。親戚たちの僕に対する愛着は強く、多くの人が「いつ戻ってくるの?」と尋ねてくるのですが、両親がそんなことを言うことはありません。そして、すでに退職している父は、毎朝、ジョギングをして汗をかき、一人で車に乗っていろいろなところに出掛け、近くに住む妹家族との交流を楽しみながら健康的な生活をしているようでした。そこに僕は必要ないでしょう。

両親の中に僕に対する愛着がなくなったのかどうかは分かりません。ですが、ほとんど会うことがなく別々の人生を生きる今、それを確認する必要はありません。お互いがそれぞれに相応しい道を歩んでいます。

「本当はそういう暮らしが大切なのかもしれないな。今の社会は全然違うけれども。」

父がそんなことを呟いたのは、あれが最初で最後です。それは一瞬の出来事だけれども僕らは大事を共有しました。それは世間一般の暮らしを楽しむ父の、心の奥底に潜む真実の声だと思っています。

人は、宇宙や自然の仕組みの中で生かされている。

それは客観的事実であり、心を開けば、みんなが共有できる事実です。僕は木の花ファミリーのみんなと、客観性の元に共有出来る価値を積み上げていきます。それは僕だけの志ではなく、両親の心の奥底に眠る志であり、きっと目覚めれば、全人類共通の志ともなるものです。

だから僕はそんなふうに生きていく。

それは天との約束、この世界との約束、父や母との約束、木の花のみんなとの約束、そして自分との約束です。

木の花ファミリーのみんな@サツマイモ収穫

失った善意を取り戻していく

少し前に、木の花ファミリーのみんなと映画『君の名は』を観ました。この映画は2016年に大ヒットしましたが、僕はこの前初めて観ました。この映画、スピリチャルな世界では、イエス・キリストとマグダラのマリアの統合(陰陽・男女の統合)瀬織津姫の復活など、大きな意味を持つものとして語れていますが、こういう言葉に出会った時、自分の都合よく捉えないように注意をする必要があります。神話的なものは宇宙の流れを表しているのであって、宇宙は人間の都合で動いているわけではありません。その流れは人智を超えたものであり、流れにそぐわなければ、滞りに出会うことにもなります。

話は変わって。

今年の8月以降、木の花ファミリー憲章の改定に向けて憲章の検証をしていますが、その中で善意という言葉がクローズアップされています。今の木の花ファミリー憲章、世界観概要の中には「善意」は以下のように表現されています。

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「想い」はあらゆる価値判断を超えた善意と愛、そして調和から成ります。これは自然界から教えてもらえる事実です。自然界では、お互いの存在が生かしあっています。これは利他の精神の顕れです。善意により繋がり、愛が生まれ、愛により絆が生まれ、調和をもたらしているのです。悪、醜、偽、欲、貧など、この世でマイナスの価値を与えられている事柄も、すべてはこの「想い」、善意と愛と調和から生まれています。「想い」に立ち返れば、すべてはひとつなのです。

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善意は愛や調和に先立っています。そして善意という言葉から、3年前の6月、ジイジ(当時はいさどん)が大人ミーティングで語った以下の言葉を思い出しました。

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物事の捉え方はたくさんあってね。

善意で捉えようと思ったら、
この世界にある全てのことは、
善意になるんだよ。

ただ、
人にはそれを善意で捉える力がないだけなんだよ。

宇宙は全て善意でできている。

なぜかというと、
宇宙は調和でできているから。

調和は、
悪意では保てない。

調和は、
善意によってしか、
成り立たない。

だから、
物事を善意で捉えられないときには、
自分が未熟だと思わないといけない。

そこを悪意で捉えるということは、
自分を観ないで、
悪意は相手から来ると思っているのだけど、
悪意は、
自らの未熟さから生まれるものなんだよ。

だから、
自分が言っていることは全て、
自分自身を表しているんだよ。

そこに気付かないと、
自らを改めることはできないね。

人間というものは、
必ず自分の都合の良いように
答えを求めようとするんだよ。

だから、
自分の本心があっても、
そういった人たちは「けど」「でも」と言って、
本心と違う行動を取るんだよ。

そのカラクリをわかって、
自分自身に修正の目を向けられるようになったら、
人は成長できる!

そのためには、
自らの想いをどんどん外に出していって、
まわりからフィードバックをもらい、
客観的な視点を育てていくことが大切だね。




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善意の「ぜん」は、潜象界の「せん」に濁点がついたものです。愛が、「ひふみよいむなやこと」を経た高次の響きである「あ」の位置(い)であり、現象界の根本であるならば、善意は、潜象界の位置、潜象界そのものの響きと言えます。だから善意は愛より先なのです。善意と濁点がついているのは、それが人間の馳せる想いだからです。潜象界は「ない世界」です。「ない」というところですべてを一つにするのが潜象界ならば、善意は、「見える世界」と「見えない世界」からなる現象界(「ある世界」)に存在する人間が、「ない世界」に想いを馳せることで一つに繫がり、「ひとつらなりのいのち」を表現していくものなのです。

イエス・キリストとマグダラのマリアとの結婚、そして瀬織津姫。それらは封印されてきた神話です。権力者となったものたちは、都合の悪い神話を封印してきました。そこには善意がなく、人類は一つの繫がりを失ってきたのです。

それは海洋汚染にも表れています。瀬織津姫は水の神様です。水の神様が封印されることにより水の汚染が広がり、今、プラスティックごみの問題は特に深刻なものとなっています。ごみは繫がりを失うことで生かされなかったものです。だからこの問題は、人々が善意を忘れ、繫がりを喪失した象徴とも言えるのです。

冒頭で僕は、神話を自分の都合で捉えてはいけないと書きました。自分の都合で捉えると、他者の視点が喪失し、繫がりを失うことになります。その結果、瀬織津姫は封印されてきたのです。瀬織津姫の復活。それは自分の都合を超えて、善意で繋がり合う世界を意味しているのだと思います。

善意により繋がり、愛が生まれ、愛により絆が生まれ、調和をもたらされる

心を磨き続けることでそんな世界を表現していこうと思っています。


木の花ファミリーのみんなです。

「分かる」と「分からない」、そして「わく」

節目を迎え、ロータスランドでご馳走になりました。


先日、大人ミーティングにて、「境界線がなくなっていく」をシェアしました。この文章はバチルス菌について書いたものですが、そこにはこんな表現があります。

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Bt毒素は蛾の腸に穴をあけ死に至らしめるのですが、蛾はバチルス菌に害を与えるわけではありません。バチルス菌単体で見たらBt毒素を作る必要性は全くないのです。ですが、バチルス菌は大量のエネルギーを使ってそれをし続けています。ここで考えられるのは、バチルス菌はバチルス菌のためだけに生きているわけではなくて、生態系全体を円滑に循環させるために生きているということです。意味を持たないBt毒素を生み出すバチルス菌の行為は生態系全体で見たら意味を持つのかもしれません。少なくともそれは人間にとっては益となる行為になっています。きっとすべての存在はそのもの単体のために生きているのではなくて、この世界の大いなる循環の中でそれぞれ固有の役割を果たしているのです。自分の存在は他者へと繋がっていきます。そう思うと、この世界から境界はなくなっていきます。

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この文章で僕は、分からないものを分かろうとしていますが、そんな僕の姿勢に対して、ジイジは、「分からないものは分からないで置いておく」大切さを語ってくれました。それはこんな感じでした。

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出会ったことに対しては、それをそのままいただく姿勢が出来ていたとしても、未来に想いを馳せる時、いろいろ想像を巡らす中で分かろうとする心が生じてしまう。分かろうとする心は自我の動きで、人智であり、視野や可能性を狭めることになります。分からない時は分からないで置いておくことが大切で、そうすることで未来に柔軟に対応できるのです。それが究極のいただく姿勢であり、謙虚さです。

分からないことを分からないで置いておく

それは難しいことかもしれません。今の社会は分かろうとすることを評価しています。ですが、それは人間が強くなったからであり、歴史を見ると、強い存在は滅んできたのです。ティラノサウルスをはじめとする恐竜たち、ホモ・エレクトス、ネアンデルタール人などはみんな滅びてきました。そんな中、今の人類、ホモ・サピエンスが生き残ったのは弱かったからであり、弱く助け合う必要があったからです。今、社会が発展し、人間は強い存在となっています。ですが、強さは傲慢さにも繫がり、それが分かろうとする心にも繫がります。

分からないことを分からないで置いておく

それは弱さの自覚であり、謙虚さの顕れであり、とても大切な姿勢なのです。

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「分かる」と「分からない」

カタカムナで見ると、「わ」は空間の縁であり、現象が生じるところです。「分かる」は、宇宙最極小微粒子である「か」が「わ」の位置を維持していること、それは安定と同時に動きがないことも意味します。「分からない」は、宇宙最極小微粒子である「か」が「わ」の位置で質的転換をし、見えないエネルギーとなっている状態、どんなふうにもなり得る可能性を示しています。

大人ミーティングでは「わく(枠・湧く)」という言葉も話題となり、ジイジは以下のように語っています。

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「わ」は現象が生じる縁、そして「く」は自由。「わ」が自我の「わ」ならば、自我の枠の中で自由気ままに動くことになり、それは狭いものであり、世界に混乱を生み出します。ですが、「わ」が宇宙そのものならば、宇宙の法則の中で自由に動くこと、その時、人の中から湧き上がるものがあり、わくわくするのです。

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分からないという謙虚な心が、自我の枠を宇宙へと広げていき、わくわくする心へと繋がっていきます。

最近、自分は一つの節目を迎えました。節目を迎えたということは、自我の枠を広げたということであり、それは自我の視点から見たら、より不自由になったということです。僕は昨年の7月、そのことを以下のように表現しています。

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この道は言ってみれば、自己否定の旅だと思っています。それはもっと大きな自分、世界と一つになるための自己否定です。常に否定し続け、それが即、肯定へと変容し続けます。それは自分を手放すことが出来ることへの誇りであり、大いなるものへと自分を委ねる覚悟となります。

この道は山登りに例えられます。山のすそ野は広くどこからも登ることが出来ますが、頂上は一つ。登れば登る程、道は限られていきます。同じように、この道は究めれば究める程、道は狭くなり、今まで良かったことも駄目となり、自らの選択はどんどん限られていきます。

不自由の自由。

一見、不自由に見える心の道ですが、それを進むことが本当の自由への道です。

なんでもいいけど道は一つ。

そんな感じです。

多くの人は自分の想いのままに行動することが自由だと思っています。ですが、思い通りにことが運ぶことはほとんどありません。結果、自らの想いに翻弄され、現実の中で右往左往するのです。平和を求めて争ったり、平和のために核武装したり。人々は自らの想いに翻弄され、それが矛盾に満ちた社会を生み出しているのです。


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自我の視点から見たら、より不自由になること、それを天の視点から見たら、より確信をもって一つの道を進めるということです。確信をもって進む道は、「分からないことを分からないで置いておく」道です。未来は常に未知なる道で、分からないからこそ、湧き上がるものと出会い、わくわくすることが出来るのです。




見えないものを分かち合う



私たちが日頃多くの皆さんに伝えているデータからすると、地球上の文明には発展と衰退のサイクルがあり、西洋的な文明が主導を握る時代はもはや終焉を迎えました。ですから、今までのように人々が西洋的価値観を盲目的に追いかけるようなことはないと思います。ただ、世界中で今、一番経済的発展が遅れているところがアフリカなのですから、ある程度アフリカにも西洋的発展は今後も必要だと思います。ただ、それは短い期間です。その後に訪れる考え方は、統合的な考え方です。

私たちがここで人々に伝えているメッセージは ──── 「時代は人間たちが創っているのではなく、天体の動きによって地球上の時代が変わっていく」ということです。その視点から観ると、過去の時代についても、今の時代がなぜこのような状態になっているのかも、よく理解できます。

ここではアメリカやヨーロッパの人たちにそういったことを伝えてきました。なぜなら、以前はアメリカやヨーロッパから木の花ファミリーを訪れる人たちが多かったからです。彼らの中にはコミュニティの調査を目的に訪れる人たちが多く、それも重要なことでしたが、最近は東アジアの国からたくさんの人たちが訪れるようになりました。この人たちは新しい時代をどのように生き抜くかを模索し、暮らしのモデルを探しにここを訪れています。

そして、私の中にいつからか「アフリカ」という意識があり、いずれアフリカの人たちが訪れるようになるだろうと思っていました。そうしたら、ウスマンが訪れてくれました。あなたがプレゼンテーションをしてくれたように、アフリカの人々がコミュニティやエコビレッジのような暮らしを必要としていることを聞きました。そして、たまたまガンビアという国は平和で穏やかな国だということでしたが、私たちの持つアフリカのイメージはそういった暮らしをしようにも、治安が不安定で難しい現状にあります。そのような中で、アフリカにこそ、木の花ファミリーのような人々が助け合う暮らしは必要だと思うのです。

アフリカに特徴的なこととして、今、アフリカに4000万人以上の難民がいるということも、それ自体アフリカの問題ではなく、世界の問題だということです。私たちは日本で暮らしていますが、アフリカの問題を地球上の共通した問題として考えていかなければいけないと思ったときに、今までのようにただ物資の支援をするという方法では根本的解決にはなりません。やはり、精神性の支援があって初めて、成立することだと感じました。その精神性を伝える対象の国として、アフリカでもっとも敷居が低いのがガンビアという国なのだろうと今回感じました。

ですから、まさしくあなたはアフリカ代表ですね!あなたは「時の人」です。私たちは時を生きています。今の旬を生きているという意味では、この出会いは本当に大切な出会いです。


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上記は、西アフリカのガンビアから木の花ファミリーを訪れたウスマンに対してジイジが伝えた言葉です。歴史を見ると、東洋文明と西洋文明は二重螺旋を描いて交互に発展と衰退を繰り返して来ましたが、今は東洋文明が発展のトキを迎えています。それは精神的なものが重視される統合の時代が来るということです。

ちなみにウスマンが暮らすアフリカは西洋文明に属するようです。みかちゃんによると、物質文明である西洋は格差を表現するものであり、下部を表す役割としてアフリカは存在して来ました。その格差が埋めるために、アフリカには少しだけ西洋的発展が必要となります。

物質と精神。それは、見えるものと見えないものとも言えます。そして、それは結果と過程とも言えるのではないかと思いました。

結果とは、たいてい目に見えるものであり、表面に現れているものです。その特徴は物質と重なります。だから結果を重視し、結果に囚われる姿勢は、物資的な豊かさを追求し、それに執着する姿勢と重なるのではないかと思いました。結果の奥にはそこに至る過程、プロセスがあります。それは目には見えないかもしれませんが確実のその現象を支えています。

結果ばかりに目を向けると、勝ち負けなどがはっきりし、すべての人の望みを叶えることは出来ません。ですが、そこへと至る過程へ心を向けると、物語が見えてきて、その物語はみんなで共有することが可能となります。だから過程へと目を向けることは人と人とを繋げていきます。

日々の生活の中で、目に見える状況は刻一刻と変化していきます。結果ばかりを重視していると、その変化に心が揺さぶられ、目の前の状況に右往左往することになります。ですが、そこへと至る過程に心を向けていれば、その出来事の根本へと至り、気持ちを落ち着けることが出来ます。

今、精神的なものが重視される時代を迎えています。それは結果を重視し、結果に一喜一憂する姿勢から、過程を重視し、過程を共有する姿勢への転換を意味します。

気候変動、そこから生まれる災害、紛争や社会の分断や孤立。

今、世界には様々な問題が起きています。その結果の部分だけを眺めていると絶望的な気持ちにもなります。ですが、そこへ至る過程に目を向けると、そこから今までの人間の心が見えてきて、学びや洞察が与えられます。それをみんなで共有することは相互理解へと繋がり、一人ひとりの心の変化へと繋がっていきます。そこにこそ、この困難な時代を克服する希望があるのだと思っています。

だから今、アフリカ、そしてこの世界全体にとって本当に必要とされているのは、精神的な支援です。それは日々の暮らしの中で、そして世界各地のニュースに触れる時に、目には見えない奥の心を探求し続ける姿勢を育むことです。だからこそ、そんな実践を続けて、出会う人々とその精神を分かち合っていこうと思っています。


探求を継続していく

ジイジ:
私たちの生にまつわる物理的現象の一から十までのプロセスをたどるとしたら、九のあとは十ではなく・・・0ということになる。一二三四五六七八九で、次は次元が変わって0に行く。そうすると、生が一になる。一二三四五六七八九でひとつのサイクルが終わり、0の段階に入って、一二三四五六七八九・・・と捉えられるのではないか。つまり、九に行って死を迎えると、0になる。そうすると、それはリセットで、また始まるという考え方がそこに秘められているのではないだろうか。


ようこ:
日本人の中には輪廻転生の捉え方が自然と組み込まれていて、西洋だと、たとえば近代キリスト教にはその捉え方はない。一回の人生で終わりと考えられている。

みちよちゃん:
それに対して日本人の死生観は、死んだらそこがスタートで、そこから準備をして次の生につながっていく。

ジイジ:
だから、0というのが準備期間と捉えれば、0一二三四五六七八九となる。

ようこ:
0は何もないみたいだけど、そこには大切な何かがある。

ジイジ:
0があるからこそ、一がある。いきなり、一にはならない。一になるまでの準備期間が本来ある。

ようこ:
0と一二三四五六七八九は、潜象界と現象界のような存在?

ジイジ:
それは潜象界と現象界の話ではなく、現象世界にその仕組みがあるということ。それでも、カタカムナで捉えると、カタカムナはヒから始まる。ヒフミヨイ・・・
そうすると、それがひとつずつずれている可能性がある。ヒは秘かで、まだ動きが何もない状態だから、0とも言える。そうすると、ヒが0とも捉えられる。それで、フの段階で初めて動き出すから、フが一となる。だから、九で統合ということになる。そして、また0に戻る。

みちよちゃん:
それは、日本の数え年と同じような概念だね。

ジイジ:
そうだね。ヒは秘かで、ものの始まりだが、何もない状態。フで初めて動き出す。そうすると、フを二つと捉えるかどうかは微妙なところだ。そういう微妙な位置ということなのだろう。

みちよちゃん:
西洋的と言っていいのかはわからないけれど、細胞分裂的に考えると、ヒは秘かで、あるかどうかわからない状態だけれど、フで細胞分裂が二つになっていくと考えると・・・

ジイジ:
それは、おそらく楢崎皐月が西洋的な物理学者だったから、そのようにしたのだろう。明らかに、ヒはまだ何もない、秘かな状態だ。しかし、楢崎はヒフミヨイ・・・を一二三四五六七八九に当てはめたから、そうなったんだよ。


こういった深い探究は、今までの探究の結果を真理とせず、これからも探究し続けていく姿勢でありたいものだ。


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上記の文章で、ジイジは「九が統合で九の後、新たな0に戻る」と語っていますが、それは、「くみくら」や「エニアグラム」が1~9の数字で成り立っていることと一致していると思いました。例えば、今年の6月、僕は以下のような文章を書いています。

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123(ひふみ)は人、456(よいむ)は国、789(なやこ)は天地と表します。


上記の図(くみくら)はみかちゃんが教えてくれたものですが、ヒト、個人の言葉(ヒ)と心(フ)が一致(統合)することで行動という実り(ミ)となって表れ、クニの言葉(ヨ)と心(イ)が一致(統合)することでクニに実り(ム)がもたらされ、天地の言葉(ナ)と心(ヤ)が一致(統合)することで天地に実り(コ)がもたらされます。

それは同時にヒトとクニが一致(統合)することでもあり、ヒトとクニの統合により天地に実りがもたらされ弥勒(369)の世が実現するのです。ヒフミヨイムナヤコ、ヒト(ヒフミ)、クニ(ヨイム)、天地(ナヤコ)と進むこと(3×3=9)で真の統合(ト・10)へと至ります。




☆彡 ☆彡 ☆彡

9は天地の実り、ですからそれは「コ」ではなく、真の統合(ト・統合)とも言えます。そして「0」へと戻るのです。

ところで2018年は、「2+0+1+8=11・1+1=2」で2の年です。「2」の年の木の花ファミリーのテーマは再スタートです。「2」が動き出す年となっているのは、相反するものの存在で動きが生まれたこの世界の法則と一致しているのではないかと思います。神さましか存在しない世界「1」には、動きも認識もなかったのです。こんなふうに考えると、それぞれの数字は前の数字の特性を持ち合わせているとも思えます。「1」は単独では何も動きが生まれないということで、「0」の特性を持ち合わせています。そして、「2」は、相反するものの存在で初めて動きが生まれるということで「1」の特性を合わせ持っているのです。

ジイジは、

こういった深い探究は、今までの探究の結果を真理とせず、これからも探究し続けていく姿勢でありたいものだ。

と語っています。だから僕も、ジイジの言葉を正解として固定せずに、それをきっかけとして探求し続けていこうと思っています。

話は変わって。今日はティク・ナット・ハンの誕生日です。ティク・ナット・ハンは誕生日を「継続の日」と表現しています。「ありのままに観て、ありのままに聴く」で紹介したティク・ナット・ハンの姿勢、怒り、恐怖、欲望から自由となり、すべてをありのままに観て、ありのままに聴くこと、僕はその実践を継続し続けます。そして、これからもずっとずっと継続していく宇宙の流れの中で、一つの物語を担っていこうと思っています。




変化・変容・変態を繰り返す美しさを表現していく

いさどん(当時のジイジの呼び名)が来るトキに限って失敗する

3年前の大人ミーティングでそんなふうに発言する人がいました。その発言について僕は、「評価を求めて硬くなってしまうからそういうことが起こるのかな?」とジイジに尋ねたことがあります。以下はそんな僕の言葉に対するジイジの回答です。

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僕が行くことで緊張するとかそういうことではなくて、多くの人は自分のやっていることが見えていないのです。そこに僕が行くことによって、見えていなかったことが明らかになるのです。つまり、それまではOKにしていたことが、よく見ることによってOKではなくなるのです。こういう人は普段から失敗をしているのです。

多くの人は自らの欲望のままにそれに翻弄されて生きています。
これは意識が自分にばかり向いている状態です。
この状態では心からの気づきは生まれず、失敗も見えないのです。



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自らの欲望のままに生きるトキ、世界は自分の都合の良いように映ります。失敗など都合の悪い出来事はなかったことにして生きるようにもなります。ありのままにそのトキそのトキのことを語るジイジの存在はそんな人の実態を明らかにします。そういう人にとって明らかになった実態は都合が悪いので、それを受け入れることが出来ず、慌てたり隠そうとしたりすることになるのです。

そんな人間の特徴について、木の花ファミリー通信秋分号「21世紀の死生観 第3部 美しいとは」では以下のように表現されています。

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私たちの肉体は、母親の胎内で受精後、わずか1mmにも満たないほどの小さな生命から、魚類、両生類、爬虫類を経て哺乳類へと至る38億年の生命進化の歴史を胎内でたどり、280日でこの世に誕生します。そして日々、地・水・火・風・空という自然の五大要素の循環の中で、細胞レベルでの生死をくり返しながら、赤ん坊から子どもへ、そして大人へと成長していきます。年月とともに肌にはしわが刻まれ、髪は白くなり、やがて寿命を迎えれば、魂の抜けた肉体は原子レベルへ解体し、次の生命を構成する材料となります。死は、それまでの縁から解き放たれて、生態系の循環の中へと還っていく美しい瞬間です。

このように個々の存在は時の流れと共に変化し続け、その個々の集合体である全体もまた、新陳代謝をくり返しながら、常に新しく生まれ変わり続けています。この、淀みなく変化していく姿が、この世界の美しさです。

美しいとは、すべてが淀みなく流れ、未来へ向かって変化しながら、進化していくことです。それは、宇宙の姿そのものです。宇宙は常に未知なる場所へと進みながら、変化・変容・変態をくり返しています。それは宇宙が生命だからです。生命とは留まることなく変化し続けるものであり、私たちの体は、その仕組みをもっとも身近に現しながら、命とは何か、美しいとは何であるかを、教えてくれているのです。

この美しい世界の中で、人間は極めて特殊な能力を与えられました。

すべてがつながり、循環していく仕組みの中で、自我を持った人間は「自分」というものを特別に意識するようになりました。そしてその高い能力を使い、世界の流れに沿って自らを変化させていくよりも、自分を保ち、世界の側を自らに都合のいいように変化させようと考えるようになったのです。その心は、すべてが変化し続ける流れの中に滞りを生み、様々な矛盾を発生させました。ウソ、かけ引き、争い、孤立。それはつながることが基本である宇宙の本質とは、対極にあるものです。

人は誰しも、美しい世界を求めています。ところが現代社会は、人間の都合を優先した、とても美しいとは言えない世界になってしまいました。美しく整備されて見える都市は、その陰で莫大な量のゴミを出し、美しく装った人々の奥には、争いや孤独、病気や犯罪など、自己中心の心が蔓延しています。流れに逆らい、力ずくで世界を思い通りにしようとすれば、たくさんのエネルギーが必要です。人々はもっともっととかき集め、傷付け、奪い合い、多くの無駄を発生させ、地球や、自分たちの命さえ蝕むようになりました。ところが、世界中がこれほどの問題ごとで溢れかえりながら、人々は問題のあることが当たり前になり、それを自らが創り出していることさえわからなくなってしまったのです。


多くの人は目に見える形を見て「美しい」と言います。しかし真の美しさとは、その奥の「心」にあります。どんなに形を美しく取り繕っても、奥にある心が汚れていれば、それは必ず問題となって自らに返ってきます。ところが自分が汚れているという認識がなければ、自らが出会った問題を他人や世の中のせいにするのです。それどころか、その問題をなかったことにしてしまうのです。

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自分の幸せばかり考えて、意識が自分にばかり向くようになると、世界が自分の色に染まり、自らが問題を創り出していることが見えなくなり、自分の失敗も見えなくなります。そんな人間に対して、宇宙は滞りという「愛」を与えてくれているのです。先の文章に続いて木の花ファミリー通信には以下のように書かれています。

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すべてが淀みなく変化していく流れがこの世界の美しさなら、汚れとは、その流れを滞らせ、宇宙の本質から外れる働きです。現代の人々はこれほどの問題を生み出しながら、その問題の元となる自らの心の汚れを見ることを避けてきました。しかし、宇宙の根本は善意です。体の成り立ちを無視して心が暴走し、暴飲暴食をすれば、体は病気になってそのことを教えてくれるように、人々の心が分離し、自分勝手に生きるようになれば、世界は大きな災害を起こして一人では生きられないことを教え、つながることを促します。つながるとは、命を紡ぐことです。

宇宙はいつでも、私たちがこの大いなる流れから外れ、世界に矛盾をもたらせば、再びその流れへと戻るように導いています。その流れに逆らい、同じ場所に留まろうとする限り、宇宙はあなたに問題ごとを与え続けるでしょう。なぜなら、宇宙はあなたを「一緒に新たな世界へ進もう」といざなっているからです。

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今起きている異常気象や日常生活での失敗は宇宙が与えてくれる「愛」です。宇宙が与えてくれる滞りという「愛」は人間に実態を見るように促します。そして実態は、例えば今、失敗を繰り返していたとしても、変化・変容・変態を繰り返しながら未知なる場所へと向かう宇宙の流れの中にあり、大きな視点に心を開いたら、美しい流れの中で変化していくのです。

今を留めようとする心、都合の良い世界を求める心、そんな心を手放せば、実態の尊さに気づき、思いもよらない出来事を楽しめるようになります。それは宇宙、そして自分の実態である変化・変容・変態を繰り返す美しさの表現となります。

今、世界には多くの問題がありますが、それらと向き合うことで自らと世界の実態を知り、儚く潔く美しく、宇宙の法則のままに生きていけば、きっとすべてが繋がり合う調和した世界が実現することでしょう。

そんな世界に向けて日々の変化を楽しみます(^-^)



あれから3年、今の僕の到達点(2)

ロータスランドの絵。雑多な日常(絵の前の棚)に仏が生まれ宇宙の光が降りてきます。

あれから3年、今の僕の到達点」にも書いたように2015年10月2日は僕にとって大きな転機でした。大人ミーティングでは、僕の話題が多くを占めたのですが、そんな中、みちよちゃんは以下のオーロビルのマザーの言葉を訳していたそうです。

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The Mantras of Bliss and Transformation !

Are you ready to change yourself completely? 
You will have to throw off your ideas,ideals,values,interests,and opinions.
Everything will have to be learnt anew.
If you are ready for all this,then take aplunge;
otherwise don't try to step in.


至福と変容のマントラ

完全にあなたを変化させる準備ができていますか?
あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。
全ては新しいものとして学ぶべきことです。
もしあなたがこうした全てに準備ができていたら、飛び込んで。 
さもなければ、それには踏み込もうとしないことです。

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その言葉はまさに当時の僕に向けられた言葉で、この言葉を受けて、ジイジは以下のように語りました。

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僕があなたに伝えていることは、決してあなたに不愉快を与えるものではありません。どれ程の想いを込めて、そして願って、あなたの追い風になろうとしているか。そういうことが分かったら、今の状態でいる自分が、いかに恥ずかしいことで申し訳ないことであるかに気づくでしょう。

「あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。」というマザーの言葉。それは自我を捨てて、天のままに生きるということです。僕は昔、それを天のマリオネットと表現しました。でも、その考えは今は変わっています。昔、夜、外に出て上を見て、月が出ていれば月、星が出ていれば星、曇っていたら、その上に星や月を想像して語っていました。

「神さま、私はあなたの意志に沿うものです。」

そうすると、そういうことを語っていた時、その間違いに気付きました。「あなたの意志に沿うものです」ということは、あなたという意志があって、そして、それを受けている自分がいるということです。でもよく考えてみたら、あなたという意志はわたしに表れています。だから、本当のそれが通じた時に、私の意志はあなたそのものなのです。

あなたはわたし、わたしはあなた。

その時、「神さま」とそこに気持ちを向けたり、「あなたの意志」というようにそこに特定を持った時に、すでに自分、自我を成立させているのだと気づいたのです。

まわりてめくる。

すべては新しい出来事として学ぶべきことです。常に新鮮で新しい毎日が来るわけですから。

これを世間の価値観で生きる人たちはなんだろう?と思うかもしれませんが、すべての人が行きつく先はそこなのです。まだ社会がそこまで熟していない時に、我々が先駆けとしてこれをやっています。その構造が分かるならば、本当にそのことの貴重さ、尊さ、有難さを思って、あっさり一目散にそこに向かうでしょう。

なかのんはブログで立派なことを書いています。今の状態でそれを書くことは、偽物を書いて罪を犯しているような話で、それは自分の価値をどんどん落としているのです。でも、だからブログを書くなということではないのです。ブログに相応しいものになるとしたら、そんな状態でいるはずはないのです。

そこは僕のためではなく、あなたの価値を上げるということと、世の中の為にあなたに目覚めて欲しいと僕は願っています。

そして価値あるものとしてあなたのいろいろな思いが表現されていく世界を実現しなければなりません。愚かしいところで、目覚めない状態で自分の願いを叶えるということは、自分にとっても世界にとっても何もいいことはありません。そこを分かるということだと思います。

我々は何をするかというと、僕と同じような話をみんなにしろって言っているのではないのです。「みんなで」という気持ちで暮らし、それを人々に見てもらいたいのです。こんな素晴らしい世界がいっぱいに広がって欲しいから、人々に見て欲しいのですよ。たったそれだけです。

それは日常、みんなが気持ちよく「さーと」心が通っていって、「ああこれだったんだね。これがやりたかったんだね。」そういうことを言葉ではなく空気を感じて、「神さまの目的はこういう世界だったんだ」と理解することです。

これはとても身近にあって、アカデミックでもなんでもありません。哲学とか立派な話でもなんでもありません。

「あぁ、いい空気だね。」
「こういうところに生涯身を置きたいね。」
「こういう生き方を自信を持って、安心の場所でやりたいね。」

そう感じたら誰だって出来るんですよ。

僕はこういう話をしばらく避けてきましたが、みんなが僕の気持ちに共鳴するならば、僕からどんどん発信されて、「そうだね、そうだったね。」となるんだったら、いくらでも話す価値があるなと思うのです。

でも待ちの姿勢で話を聴いて、良い話だったねとなって後で忘れていくならば、僕もジレンマを感じてしまいます。みんなで良い響きを生み出していく。そんなふうでありたいです。

なので、お願いだから、人の心を調整するような時間をこの場に持ち込まないで下さい。自分の心は自分で調整して下さい。もうそういう段階です。それでも、残念ながら、充分に果たせなかった時に、それを投げやりにならないで、表に出して、みんなにそれを正す方法を請うて下さい。自分に実力がないのですから。

そして、みんなに助けてもらって、心から「ありがとうございます」と言って進んで下さい。そうしたら、あなたの未熟も「良い場創りに役だったね。」ということになります。

みんなが他者のことを思い合う。そういう心の表現に繋がるのですから。

だから未熟でもいいのです。本当にみんなに託していく。そういう場創りが大切です。そしてそういう場はいつでも表現出来るのです。道を難しい道だと思わないでください。

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マワリテメクル

カタカムナの5首に含まれる一節ですが、これは自転公転の二面性を表していると言われています。一文字ずつ読み解いていくと、「マ」は自転公転の運動によって区切られた空間でありこの世界そのものと言えます。そして現象が生まれる縁(ふち)が「ワ」であり、そこから離れていく動き「リ」により、二面性「テ」が「メ」ばえ、それが自由「ク」を維持している「ル」ということ。つまりそれは、相反するものの存在により絶えず新しいものが生み出されるこの世界の法則を表しています。

「神さま・・・」と対象を固定し呼びかけることは自我を生むことですが、自我があるからこそ認識が生まれます。神さまが自己認識のために完全なる光から闇を分けたように、人は自らを他者から分けることで自分自身を認識します。分けることは分かることに繋がりますが、認識を深めていくと、すべては一つ、分けられないということが見えてきます。分けることにより分けられないということが見えてきて、すべては自分の認識を超えていること、分からないということが分かるのです。

この世界は自分の鏡です。人は世界という鏡を通してのみ自分を知ることが出来ます。だから他者や世界に働きかけることは自分に働きかけることであり、他者や世界からの反応は自分自身の顕れです。そして自分を磨くことは世界を磨くことであり、世界という「鏡(カガミ)」から「我(ガ)」を取ることで「神(カミ)」という尊く美しいものを見出すのです。これらすべて相反する動きの中にあり宇宙は常に新しいところへと向かっているのです。

自我は浮かんでは消える波。自我を捨てるとは波を離れて海である自分に気づくことです。この世界にはたくさんの波、自我が存在しますが、海に至ればすべては一つなのです。波である自我の動きを見通し、他の波と同じように眺めて、表現すること。それが価値あるものとして想いを表現していくことで、僕が実践し続けていくことです。

ということで、ここでちょうど1年前に書いた文章を紹介します。

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きっと自我は人々の未熟としてずっとあり続けます。そして、そこから様々な喜びや苦しみが生まれ続けます。ですが、客観的視点があれば、それらの体験、人びとの未熟をみんなの学びにしていくことが出来ます。未熟があるから想い合える。そんな空気を生み出すことが出来るのです。だから自我はあってもいいのです。自我を持ちながらもそこを超えようとする意志を持つ時、客観的視点がすべての出来事を生かし、豊かな繋がりとなって表現されていくのです。それが生きていることの醍醐味であり、僕ら木の花ファミリーが先駆けとして表現しようとしている世界、「ここはなんだろう・・・あれ?!」という世界です。



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こんな気持ちで、これからも自我の動きを見通すことで、みんなと学び合って豊かな暮らしを表現しようと思っています(^-^)


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