カタカムナを生きる ~自己否定の先にあるもの~

先月、いさどんから木の花ファミリーのみんなにカタカムナプレゼンが4回に分けて行われました。それを受けて、今思うところを書いておきます。プレゼンの中には以下のような記述がありました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

原始の脳も神経も持たない単細胞の生物は、外界の物質が我が身にとって有害か有益かを直観して、「有害な物は避け、有益なものは細胞内に取り込む」という働きを営んできた。

☆彡 ☆彡 ☆彡

これは単細胞生物が環境と響き合っているからであり、思考や感情を超えたところに「生命カン」というものがあることを表しています。現代の人々は日々、前頭葉を使い思惑を巡らせていますが、カタカムナの実践はその状態を超えて、松果体を震わすことです。そうすることで目の前の現実、環境と響き合って生きていく。そして究極的には、大宇宙生命のヒビキを直接感受していくのです。

環境と響き合って適応、そして進化していく「生命カン」

それは現代人が退化させてきているものです。例えば、よくいさどんの話に出てくるのですが、今の社会では子育て本が沢山出版されています。ですが、他の動物でそのようなものに頼って子育てをしているものはいません。動物たちは、本能的に子どもに必要な関わりを察知しているのです。多くの現代人は、目の前の出来事を感じて動くよりも、頭で正解を求めそれに基づいて行動しようとしています。そのような中で失われている「生命カン」。それを取り戻すことがカタカムナの実践と言えます。

その方法は端的に言って、自己否定にあると思っています。自己否定というと「自分は駄目だ」、「自分は出来ない」などの言葉を連想する人が多いと思いますが、ここで言う自己否定とはそのようなものではありません。善悪や能力のあるなしなど、あらゆる価値判断を超えて自分の反応パターンそのものを超えていくのです。

人は日頃、自我に基づいてこの世界を認識し行動していますが、その状態では今の世界の混乱を超えることは出来ません。人間の自我が今の社会を生み出しました。だから今の社会に適応することは出来ますが、その社会は環境破壊や貧困や飢餓、そして戦争や紛争を生み出しているのです。その先に未来を見通すことは出来ません。だから自我に基づいて思考し、この世界に反応している自分を否定し超えていく必要があるのです。自己否定とはそういうことで、自己否定をした先に、奥に眠っている生命カンが働き本当の意味で自分から自由となれるのです。そのことを今年の7月、僕は以下のように書いています。

☆彡 ☆彡 ☆彡


この道は言ってみれば、自己否定の旅だと思っています。それはもっと大きな自分、世界と一つになるための自己否定です。常に否定し続け、それが即、肯定へと変容し続けます。それは自分を手放すことが出来ることへの誇りであり、大いなるものへと自分を委ねる覚悟となります。

この道は山登りに例えられます。山のすそ野は広くどこからも登ることが出来ますが、頂上は一つ。登れば登る程、道は限られていきます。同じように、この道は究めれば究める程、道は狭くなり、今まで良かったことも駄目となり、自らの選択はどんどん限られていきます。

不自由の自由。

一見、不自由に見える心の道ですが、それを進むことが本当の自由への道です。

なんでもいいけど道は一つ。

そんな感じです。

多くの人は自分の想いのままに行動することが自由だと思っています。ですが、思い通りにことが運ぶことはほとんどありません。結果、自らの想いに翻弄され、現実の中で右往左往するのです。平和を求めて争ったり、平和のために核武装したり。人々は自らの想いに翻弄され、それが矛盾に満ちた社会を生み出しているのです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

この世界は人々の意識の総和となっています。多くの人が自らの想いに翻弄されているからこそ、世界全体も混乱の極みにあるのです。

自己否定をし自分の反応パターンを手放し、ただ出会う出来事と響き合っていく。思考や感情を超えたところで直観に従い行動し生命カンを磨いていく。それがカタカムナの実践であり、みんながそのようになった時、みんなで環境と響き合ってこの世界に美しいハーモニーが生まれてことでしょう。ここで2015年7月にいさどんが語ってくれた言葉を紹介したいと思います。

☆彡 ☆彡 ☆彡

常に意識を全体性に持っていく必要があります。あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?それが重要です。個人的願望が全体性と共通していればいいのです。例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、全体性と個人は本来、共通していることなのです。ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

僕はずっと叶わない願いを持っていました。その願いが僕を自分の反応パターンを超えていく自己否定へと導いてくれたのです。もし願いが叶っていたら、僕は今でも目の前の出来事に一喜一憂し翻弄されていることでしょう。ここに至る過程では、何度も何度も自分には生きている意味も価値もないと思ったものですが(間違えた自己否定ですね)、今はただ出会う出来事をいただくだけ、そこに意味と価値を見出しています。思惑や感情を超えたところで現実と向き合って生きています。だから僕はカタカムナを生きていると言えるのです。

自己否定の先に環境と響き合って変化し続ける自分がいます。その行きつく先は大宇宙生命のヒビキ、いつもそこに心を向け続けています。


0 コメント:

Your left Slidebar content. -->