希望は思考の奥から湧いてくる

どんなに希望を見出そうとしても思考からは希望は生まれない。希望は思考の奥から湧いてくる。それは自分を生かしているこの世界の法則であり大いなる意思の力。そこから希望は湧いてくる。その力なしでは思考は空虚な空想となっていく。だから、思考は、大いなる意思に沿って展開するといい。そうするときっと、思考は希望の顕れとなり、人生は、人智を超えて無限の可能性に開かれていく。

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上記の言葉が僕に湧いてきたのは、ある日の大人ミーティングでジイジの話を聴いてから。その話はこんな感じの話でした。

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第二次世界大戦。当時の日本人は、全然違う情報を貰って、多少足並みの乱れはあったものの、国中が一丸となって、正しいと信じて、国策として戦争に突入し、その結果、日本中が焼け野原となりました。そしていよいよアメリカ軍が上陸してくるという時、人々はみんな竹やりを作って戦う準備をしていましたが、終戦を迎えて日本は負けました。その後、だんだん分かってきたのは、自分たちが聞いていた情報はまったく嘘だったということです。勝利どころか惨敗で、初めから勝てるわけがなかったのです。それで負けたのだと意気消沈していたところに米兵が上陸してきますが、そうすると日本人は、「男は全部、強制的に去勢される、日本人の種を無くすために。女は、米兵を見たら振り返ってはいけない。振り返ったらOKですよと言っているようなもの。笑うなんて絶対に駄目。もしも米兵が来て自分に近づいてきたら、自分は生理だと言いなさい。」ということがまことしやかに広がったといいます。
実際に米兵が来たらそんなことはなかったのですが、ではその発想はどこから湧いたのかと言ったら、日本人がそういう発想をしていたということです。何も情報がないのにそういう発想が出るということは、自分たちが、米兵が憎くて、「あいつらが来たらこうしてやろう、ああしてやろう」と思っていたからです。自分たちの心がそのような発想を生み出したのです。だから自分が発したことは自分の中にあることです。それを「ああだったから、こうだったから」と理由を話しだしたら、自分と向き合うことにはなりません。

そして、満州からは日本人の引き上げがありましたが、関東軍はソ連兵が満州に侵攻すると、何も言わずに逃げてしまって、残された満蒙開拓団の民間人は、なんか変だと思っていたら、ソ連兵による攻撃を受けて逃げ惑い、中国人は自分たちの田畑を奪いに来るのです。もともと日本人が中国人の田畑を取り上げて開拓に入っていたのだから、奪いに来るのは当然です。それでも中国人は意外に穏やかだったといいますが、ソ連兵は残虐でした。ソ連の精鋭部隊はヨーロッパ戦線に使われていました。そのためシベリアなど東方に向ける軍人が不足し、囚人を使うようになりました。囚人だから秩序が全くありません。もともと犯罪者なのだから、略奪や破壊、殺人、強姦を繰り広げます。満州の日本人はその中を逃げてきました。

人の生き方、死に方にはいろいろありますが、そういうふうに民族全体が狂っていた頃がありました。でもそれは団結することで正義になってきたのです。だから本当に真面目に振り返らなければなりません。戦争で、人類は正義を旗印にどれだけ残虐なことをしてきたか、そういうことを本当の学びとしていくにはどう分析しどう解釈したらいいのか、そういうことをしっかりとやっていかないと、命を懸けて狂った過去の犠牲を蔑ろにすることになります。

中国が建国70周年の式典で、その豊かさと繁栄を祝いましたが、それを誇るのが兵器、軍事力となっています。軍事力をもって何を誇り、祝うというのでしょうか。ですが、それが今の人間の実態です。日本では憲法9条改正の議論がされています。攻撃は最大の防御と言いますが、その奇妙な恐怖から人間が人間を信頼できなくなり、兵器を持って平和が保たれています。これは本当におかしな状態と言えます。

それで最近気づいたことがあるのです。あることに思考を巡らしている時に、思考と思考の隙間に出会います。あることに思考を巡らして一段落した時、次の思考に行く前に思考の隙間があるのです。その時にぱっと湧いてくるものがあります。それは思考ではありません。思考ではないもの。「だからもう一回、一からやり直そう」という想いです。生きていればいろいろなことに出会います。ドジをすることもあります。だからそれを良く振り返ってしっかり腹に落として次に生かすのだと。そういう想いが湧いてくるようになっています。それが生きているという証です。

そこで何回も同じことを繰り返すということは、生きているということに相応しくない思考をしているということです。生きているということは現象に出会うということ、現象に出会うとは、自分の言葉が具現化するということ、そして自分の行動が具現化し、自分自身が具現化します。具現化したことに対して、それを分析し、「だからこう生きるのだ」と学ぶことでヒトは成長していくのです。その繰り返しの中で、いろいろ振り返って、「だから満足だ、だからいい人生だ」と思えた時に逝く。それが人生を全うすることになるのです。

私たちは生きているのが当たり前になっているから、思考しているということは知っていますが、その思考と思考のつなぎ目の空間に生きていることの意味や癖があるということを知らずにいるのです。僕は最近そのことを発見しました。生きるということはそういうことなのです。生きるということは、一つの出来事が終わって死んで。次の出来事に出会い、誕生する。そして成就して終わって死ぬ。瞬間瞬間、生きる死ぬの繰り返しです。人の一生も魂の輪廻もそれと同じことでサイクルが少しずつ長くなっているだけです。つまりは枠の違いです。そして魂という大きな枠で捉える時、死に方の大切さが分かります。死に方を考えるということは、もっと身近な生き方を考えるということで、そしてもっと身近な瞬間瞬間を考えないといけません。この大事な想いは思考では生まれてきません。思考と思考の隙間の気づきによって生まれてくるのです。

魂の輪廻転生の仕組み:木の花ファミリー通信「ある世界とない世界」より


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思考と思考のつなぎ目の空間にある生きていることの意味や癖

そこに意識を向けることで、僕らは思考を自我から取り戻し健全にしていけるのだと思います。そしてそのことが、大型台風をはじめとする数々の災害に見舞われる現代社会の希望となっていくことでしょう。ということでそんな希望を語っている木の花ファミリー通信第99号「カタカムナ」からの文章を紹介してこの原稿は終わろうと思います。

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全身全霊とは、全身を構成する数十兆の細胞がパラボラアンテナとなり、脳の思考ではなく全身で響きを感受し、その響きを自らの命に染みわたらせ、言葉や姿勢を通して表現することを言います。私たち生命は、この世界を単独で生きているのではありません。まず大宇宙があり、その中に銀河があり、太陽系があり、地球生態系があり、人類がいて、私たち一人ひとりが存在しているという生命の序列のもとに生きているのであり、すべての生命は一番の大本である宇宙の根本原理に基づいて存在しているのです。自然界の動物や植物は自我による汚染がないため、細胞のDNAが純粋に宇宙と呼応しています。ですからその生命活動は、教わらずとも宇宙の仕組みを反映し、美しい表現となるのです。それに対し人間は、進化の過程において唯一、思考を持つ生きものとなりました。そしてその思考を自我によって実現する能力を与えられたことで、自らの欲望を満たす快感の虜となり、自我を肥大させ、自らが宇宙と呼応する存在であることを忘れてしまったのです。そして宇宙の根本原理から外れることで、現代人は今、生命世界を汚染し、破壊する存在にまでなっているのです。
人間が再び宇宙と呼応する存在となるために、私たちはもう一度、思考を自我から取り戻す必要があります。自我に翻弄されるのではなく自我をコントロールする立場に立つことで、思考を宇宙と呼応させるのです。その時に宇宙と対話するアンテナの役割となるのが、全身の細胞の中にあるDNAです。私たちが生命として生きる時、全身の細胞は既にその生命原理を持ち合わせ、女は女のように、男は男のように命を表現し、人生を全うします。それと同じように、宇宙生命の一部である私たちのDNAには、宇宙の始まりから終わりまでの情報が眠っているのです。そこには未来への設計図があり、私たちは生命として生きることで、それを体験という形で、次の時代への英知としてさらにDNAに刻んでいくのです。
その自らを自我の囚われから解放した時、私たちは本当の自由を生きることになります。「クニ」という思念をカタカムナでひも解くと、それは国境で区切られた領土のことではなく、自由「ク」が定着した場「ニ」を示しています。それが、クニ(地球)を生きることの真の意味です。自らを解放し、全身全霊をもって宇宙に語りかけ、全身全霊をもって宇宙からのメッセージを受け取るのです。
その時に、宇宙根源の純粋で美しい響きがあなた自身から発せられ、この世界に響き渡ることでしょう。その響きは、世界の歪みを解き、生命に活力を与え、壊れたものは自ずと修復され、正常に戻っていくことでしょう。それが天然循環の世界であり、カタカムナを生きるということなのです。


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