泥の中から美しい蓮の花が咲くように(2019年)

たとえばひどいことをしてくる人に出会ったとして、なんてひどいんだと思ったとしても、その人と出会いその反応を引き出しているのは自分です。だから出会う出来事はすべて、自分の鏡、自分自身と言えるのです。

だから甘んじてひどい仕打ちを受け入れるというわけではなくて、その出来事を通してひどい自分を知り、自分が変化していく、そのことが自分の出会う世界を変え、世界全体を変えていくのです。

自然災害や戦争、紛争、そして日々のトラブルなど。現代社会は、失敗や困難で溢れています。そんな中、今の自分のメンツや評価、利益に囚われると、落ち込んだり嫌な気持ちになりますが、過去から未来へと続くプロセスとして見れば、すべての出来事は変化のきっかけ、希望となっていくのです。


ひどい出来事、辛い出来事も心に刻めば、美しい花を咲かせるための糧となります。蓮池に泥があり続けるように、この世界には困難があり続けるのでしょう。ですが、それらを糧にし美しい花を咲かせ続ければ、すべての出来事は恵みとなっていくのです。

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大人ミーティングにて、毎日の生活を美しく生きていくをシェアしたトキ、木の花ファミリーでは、オーロビルのマルティさんをゲストに迎えていました。そして、とても素敵な場が出来上がったので、そこでの話を一部、紹介しますね。

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先日、車を止めてドアを開けた時、ふっと「なんでだろう。どうして人間はこんなに物事をネガティブに捉えるようになってしまったのだろう。」という疑問が湧いてきました。これは明らかに資本主義の影響ですね。資本主義では何か勝ち取ることで成功となります。そのため競争の中で優れていると優越感に浸ることが出来ますが、それは同時に落ちこぼれも生み出しています。そして優れているとされる人たちも、優越感に慣れてしまうと、いつも勝っていなければならない、優れていなければならないという恐怖を抱えることになります。人々が自然と共に生きて来た時代から、お金など物理的な豊かさを求めるようになった時に、自我がどんどん膨らんでいきました。そしてこの膨らんだ自我を常に満たしていないと幸せに感じること出来なくなりました。満たしていくと充分に幸せというふうになるかというとそうではありません。満たしていくと、満たしたものを所有し、それを守ろうとし、もっと満たされたいという欲が生まれて、これが資本主義の際限ない麻薬のような症状となっています。現在の人間は、ある意味、病気になってしまっているのですが、自我でいっぱいのため自分が病気だということが分からなくなってしまっているのです。
僕も現代を生きていますが、宇宙から見た地球の存在する目的という概念を持っています。その視点から見ると、今の人間がこの地球上でやっていることは、この世界が運営されている根本から外れていて、矛盾を発生させているのです。それは、経済、政治、宗教、ありとあらゆるところに蔓延しています。だから今、世界で優れている人として表彰されているノーベル賞受賞者も、それは矛盾の中での評価であり、同じ罪を犯している状態とも言えます。人類は根本から外れた幻の豊かさを見ているのです。本当の豊かさというものは、この生態系にように無限に連鎖していって調和を表現しています。それは、変化はするけれども変わらないものでもあります。何が変わらないかと言ったら、この宇宙の法則や自然生態系の絶対の仕組みを壊さないということです。宇宙に神様がいるとしたら、その意志を沿うこと。絶対に変わらない存在を知った時に、安心して、自由自在に変化変容して進化していける、絶対的に変わらないものを土台に変わっていけるのです。

マルティさん:
1000年前、人々は共に集って暮らしていました。自分たちの持っているものを共有し、地球から本当に必要なものだけ貰って暮らしていました。大地、風、水、火、空気、そのようなものを基盤として暮らしていました。しかし今はそのような姿勢は失われています。ジイジの言うように、今生きているこの世界は本当にネガティブなものです。そして、その責任は資本主義にあります。今やお金や情報が神となってしまっています。今は本当に難しい時代となってしまっています。ですからコミュニティがとても重要となっています。私たちは気候変動や大量絶滅の可能性に直面しています。これから先、私たちが愛する種が生き続けられるか分かりません。だから人々は絶望的になっています。ですが、絶望の反対側には希望があります。それは自分自身の決意によります。コミュニティの暮らしとは自分を超えたものへの決意です。コミュニティで暮らすのは簡単なことではありません。そこで人々は闇の部分と向き合うことになるからです。意識の変容が求められますが、コミュニティでは、そのためにお互いを鏡としていくのです。
健全なコミュニティはいつもひっくり返しをしています。疑問を投げかけ、変化していくのです。それはみんなで共に意識を変容させていくことであり、地球へ影響を与えていきます。だからいつも覚えておいてください。地球は宇宙の中で常に進化しています。そして私たちはいつも宇宙の一部です。
先ほどの文章で、マザーの言葉が紹介されていましたが、マザーはいつも「美しさと完璧さ」ということを言っていました。それは共にあるもので、共に前進させることが出来るのです。

ジイジ:
世界はまったく無駄がなく出来ています。無駄が起きるということは世界の法から外れているということなのです。無駄が起きたら、身体にしろ、社会にしろ、環境にしろ、問題が起きます。それはメッセージなのです。不要なことをしないで道を歩むことが大切です。そうすると、少ないエネルギーで豊かに生きることが出来ます。そぎ落とされて無駄がない、それが美しさなのです。
今の時代は無駄をやることが豊かさだと思っています。不要なことで溢れています。マルティさんがさっき1000年前はもっと自然の中でシンプルに生きていたと話していましたが、1000年前の人々は星々と対話し、自然と共に生きていました。だから無駄がないのです。それは自我を表現するのではなく、命を頂く姿勢です。今の人々は、命どころか、自分の欲まで獲得する姿勢となっています。だから人間はそれだけ霊的には退化しています。ですが、そのことをネガティブに捉える必要はありません。こういう無駄な経験をするということは、その経験の分だけその先に行くということです。1000年前の人たちが優れていたのではなく、あの時代はそうすることしか出来なかったのです。今は無駄をすることを覚えて敢えてそれを乗り越えて次の段階に行く時代です。昔に還るのではなく、進化しているのです。

みかちゃん:
12800年前、ただ美しく優れていたカタカムナの時代から、この闇を経験した後に群れることが出来たら、あの頃よりも進化した群れが絶対に出来ると思います。
今、一人ひとりの器の中は自我でいっぱいに満たされています。だから他者と繋がらずに自分の欲を満たすことが最優先になって、そのためには罪を犯す人まで出てきます。この自我の欲望を満たすことが豊かさ、それが、資本主義が生み出した時代なのだとジイジの話を聴いていて改めて思いました。でも、これから向かう先は、かつてのように器の中の自我はすごく小さくなって、他者のために傍楽(はたらく)ことが生きることの豊かさになる時代に向かっています。そのためにはまず自我がいっぱいに膨らんだ自分を理解することが大切なのだと思いました。
そんなことを思っていたら、「いのちの泉」という歌を思い出しました。こんな歌があったなと。自分が悟ることを求めると、それも自我になります。そうではなく、ただ人のために生きるというような姿勢でつながった時に、そこに神の姿が顕れる。そんなことを歌った歌です。




「いのちの泉」

いのちの泉は何のためにあるの?
いのちの泉はみんなのためにある
このいのちの泉をあなたは誰と飲みますか
ひとりで飲みますか みんなで飲みますか

尽きることのないこの豊かな泉を
みんなで分かち合い 喜び讃え合おう
神がいのちを吹き返す 私たちの中で
いのちの道が開かれる 私たちの中で

私を包み込む穏やかな光
私を貫いていく力強い愛

みんながみんなを見守りながら 
みんなで愛し合う世界が始まる
集い語り合え想い愛し合え 
みんなでひとつになれ
それこそが神の歓び 神の姿

この無限の愛の姿が輪となって
この星の上に広がりますように
この無限の愛の姿が輪となって
この星の上に広がりますように

あなたは私 私はあなた

あなたは私たち 私たちはあなた



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