移ろいゆくものに心奪われることなく死の向こうまで伴える価値を積み上げていく

世界を思惑で染めていく僕は心の道を歩むことが出来ない。なぜなら心の道を歩むとは、この世界をありのままに眺め、ありのままの自分で世界と共に変化することだから。道を歩むことが出来ない自分、その自分は長年共に歩み続けてきた自分であり、離れるのが惜しい気持ちもあるが、袂を分かつトキが来ている。なぜなら、その自分と僕は歩む道が違うのだから。



2019年3月7日、魚座新月の日は朝から雨で、この季節には珍しく雷も鳴りました。そしてその夕方、雨はあがり、空には美しい虹が掛かりました。その虹はまるですべてを洗い流した空を祝福しているかのようでした。(「人類共通の学びを紹介していく」より)

2020年2月24日0時32分、再び魚座新月を迎えました。旧暦ではあれから1年経過したことになりますが、その中間地点ともいえる2019年9月14日魚座満月の日には、こんな文章をUPしています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

目の前の出来事に右往左往せずにプロセスとして見ていく。こんなふうに思っていても、大きな衝撃に出会うと目の前の出来事に右往左往するようになる。大切なことを忘れてしまう。だから大切な姿勢を思い出そう。こんなふうに思考が展開したトキ、それは違うなと思いました。

出会う出来事はすべて自分に相応しく与えられています。大きな衝撃も今までの生の結果として出会うことで、目の前の出来事に右往左往するのは、自分の中の本質が育っていなかった証です。

プロセスとして見ていく。そんなことを語っていても、本質を育むことを怠り、物事に表面的に対応していると、そのうちそういう自分を教えてくれる現象と出会い苦しむことになるのです。その苦しみは天からの恵みとも言えるのですが、苦しみを超えてただ出会う出来事を楽しんでいく。そのようになるためには、それだけ自分の本質を磨く必要があります。

移ろいゆくものに心奪われることなく

これはお釈迦様が語った言葉と言われていますが、こういう聖人聖者が語った言葉を正解とすることは、結局、表面的な対応をしているに過ぎません。正解だと思うことに自分を合わせようとしているだけなので。偉大な言葉は道しるべに過ぎません。この世界に前もって分かる正解はなく、すべては今までの生の結果であり、人の本質はあくまで出会う出来事を通して磨かれていきます。磨いた結果、自ずから悟り(差取り)に至るのが本当です。


☆彡 ☆彡 ☆彡

移ろいゆくものに心奪われることなく、何を大切にするかと言ったら、死の向こうまで伴える価値を積み上げていくことです。ここで、5年前にジイジ(当時はいさどん)が僕に語ってくれた言葉を紹介します。

☆彡 ☆彡 ☆彡


そろそろ人々は、そういった個人的なことを優先して生きることをやめるトキが来ている。結局、人間が個人的なことを優先し、それが70億人集まって、今のような世界を創っているのだから。それと、人間の世界の中でどんなに優劣を競ったところでたかだか知れているよ。そのたかだか知れているところで生きても、いつか自分が霊的な存在になるときに、自らの価値を突きつけられることになるんだよ。

これから大切なのは、つないで、時代を創っていくことなんだよ。

死の向こうまで理解するものたちが生きているからこそ、死の向こうまで伴える価値を積み上げていくことができる。それが人生の勝利者であり、道を目指すものにとって一番大切なことだと思うんだよ。

☆彡 ☆彡 ☆彡

死の向こうまで伴える価値。それは過去から未来へと繋がる大いなる循環、プロセスの中で現象の奥に見いだされます。ここでもう一つ、ジイジが語った言葉を紹介します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

スピリチャルなワークショップをする人々は、それを完璧でパーフェクトになる道というが、パーフェクトと言っても常に足りないのだと思う。僕はパーフェクトなんて考えていないが、パーフェクトを目指していく過程が大切だと思っている。だから出来の悪い存在も大切となる。

一つの視点からすると、神様は不完全なものを創ることによって完全への道を示された。生命というものは動くこと、循環することが生命の表現、だから完成された状態でも、未熟でも、そこで止めておくというのは生命ではなくなる。神の実態は経路。神経。循環だから。そうしたら、その経路を移り行くこと、それが時空で宇宙の実態なのだから。そうすると、ひどい話が神の意思と言える。ひどい状態からスタートして、それを知って変化していくことが神の存在の顕れ。だからと言って、ひどいことやっても大丈夫ということではない。ひどい話という実態から進んでいくということ。そうでないと希望も喜びも生まれない。

これが分かれば分かるほど、人間たちにいかに難しいことかと思う。すごく複雑。ちょっと分かるとすごい感動するけれども、こんなに素晴らしいのですよと言えるかと言ったら、そんな単純なものではない。美しいことを語り、美しいイメージに浸ればいいというものではない。




☆彡 ☆彡 ☆彡


動くこと、変化変容することが生命の表現であり、循環することで神の経路を表現しています。日々の生活をそういうものとして位置付けることできっと意識は今生を超え、人生に大いなる価値を見出せます。

気候変更、戦争や紛争、そしてコロナウイルスなど。今、世界はとてもひどい状態ですが、それを知って変化していくことできっとすべての中に神聖なものを見出すことが出来ます。移ろいゆくものに心奪われると、目の前の出来事の出来不出来に一喜一憂するようになりますが、その奥には、神の経路である時空が広がっています。そこに顕されている神の意思を知り変化していくこと。その変化はきっと魂の履歴として死の向こうまで繋がっていきます。そして、そういうものたちが集まった世界はきっとジイジが語るこんな世界です。

☆彡 ☆彡 ☆彡


僕は話をする時にいつも、頭の中に絵が浮かんでいます。ですから、自分が話している音源を後から聞くと、その時に浮かんでいた映像がリアルに思い出されるのです。そこで僕は自分が話すのを聞きながら、この次に自分は何を言うだろうかと想像します。言葉を聞いて次の言葉を想像すると外れることがありますが、頭の中の絵をもとに次の言葉を想像すると、合っているのです。つまり、そこには何かしらの物語を綴るイメージがあるのです。
今日の話の時にも、僕の中にはあるイメージが浮かんでいました。それは、この道を生き切って晴れ晴れとした気持ちでいつか自分が臨終の床についた時に、深い縁を頂いて共に歩んできた皆へ「よくぞ共に歩んでくれた、ありがとう、私は逝くよ」と別れを告げているイメージ・・・・・・・ではありません(笑)。そもそも、そのような自分のための悟りの段階は、地球に降り立ちヒマラヤの苦行者として生きていた遠い昔に、とうに卒業しているのです。
なぜ涙が出てきたのか。あの時僕の中にあった映像は、目の前にいる一人ひとり皆がその境地に至り、人として生まれてきた目的を達成し、晴れやかに旅立っていく姿でした。それは同時に、今の世の人々 ——— 蛇のあやま知に支配され、溺れている人々が、目覚めることにつながっていく。この道は、そこにつながるために歩むものでなければなりません。
すべての人の道がそこにつながるべきものであるならば、その手掛かりとして、まずはここの人々が、一人ひとりの人生を通し、そういった境地で旅立てる結果を自らにもたらすこと。そのような境地に皆が至り、喜びと共に旅立っていく映像が観えた時、まるで映画を観るように感動したのです。自分自身のことよりも、縁ある魂たちがそのような境地で旅立ってくれることを思うと、喜びが一層増すのです。
光に穢れ混じること、適わぬ世となるべきなり」より


☆彡 ☆彡 ☆彡

人は死ぬ時自分から離れて客観的な視点から自分の人生を振り返りますが、その時、本当の自分と世界の姿を知ります。その視点は万人に共通したもので差がないから「悟り」と呼びますが、多くの人はそこから見える自分と世界の姿に驚愕します。ですが、トキ既に遅し。もう何も出来ません。この視点こそが永遠に続く価値で万物の変化を生み出す土台です。生きながらにしてその視点を得て、その視点から生きることが人生の勝利者となることで、その価値は死の向こう側まで永遠に続いていくのです。
木の花ファミリーのみんなです。


0 コメント:

Your left Slidebar content. -->