煩悩を無くし絶対有へと至る道

今日はお釈迦様の誕生日。ということで、若かりし頃のジイジとお釈迦さまとの問答を紹介します。

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ジイジ:
ブッダ私に答を下さい。私は今煩悩の流れの中で悩み苦しんでおります。

ブッダ:
答は私の中にはない。お前の進む道にある。人は煩悩に悩み、煩悩に苦しむ、そして煩悩により救われる。それは煩悩がその人間の答であるから。次の答も煩悩によって与えられる。その人間の生き方が一つの問題であり、その生き方が答である。すべての答はその生き方の最後に現わされる。生きるというのは肉体の死ではなく魂の生滅で終りを迎える。一回の肉体の生滅は次の肉体と魂の縁を生む。そして煩悩の続く限り、限りなく肉体から肉体へと悩み苦しみ魂は生き続ける。煩悩のあるかぎり。私にはお前に答えてあげられる答はないのです。お前の生き方と私の生き方が違うように、お前は自分の生き方の中でその答を観、そして、その答からお前の生き方を選び出し、この世の中でたった一つしかないお前の答を得るがよい。その答はお前が今一番強く望んでいる答になるでしょう。強い信念を持ちなさい




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そして、次に紹介するのは、3年前の今日、ジイジに降りてきたお釈迦様の言葉です。

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今、みんながハッピーバースデーを歌ったので、48日が誕生日であるお釈迦様から言葉がありました。
お釈迦様の言葉は、僕の言葉という自負心をもって生きています。なぜ一年を区切りとして誕生日とするのでしょうか。
時は永遠に続いて、一年というのはその中の通過点ですから、一秒でも、一日でも、一ヶ月でも、一年でも、十年でも、一生でも同じなのです。
お釈迦様が伝えられたことは「目覚める」ということ。
目覚めるとはどういうことでしょうか。それは眠っている人が起きて、眠っているうちにわからなかったことを知る。そう思うでしょう。そうすると、肉体をもって生きているということは、今自分が知らないことを知るということになり、「そうだったのか」という目から鱗のような気付きを、みんなは目覚めだと思うのです。
それもそうなのですが、実際には少し違うのです。ここでの目覚めるということは「悟る」ということ。悟るということは「差を取る」ということ。
何と何の差を取るのかというと、お釈迦様は「自分と宇宙」と言われました。自分というものに目覚めると「自我」が発生します。そして常に自らの解釈がこの世界を図っていくのです。
般若心教では・・・
「色即是空 ……ここでいさどんは般若心教のお経を唱え始めました)」
今、「無」ばかり出てきましたね。これは「ない、ない、ない、ない」と言っているのです。それは、自分という意識を持つとこの世界を自らの秤をもって図るのでこの世界と自分に差ができる、ということです。そして、自らの秤を持たないようになる、つまり図る自分がなくなれば、この世界が「ない、ない、ない・・・」と思えるようになるのです。そしてこの世界が「絶対有」であるという状態になるのです。今日はゆう君の誕生日ですからね(チーン 笑)。
そこで、「絶対有」とはどのような「有」かというと、すべてが自分自身である、ということです。
自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。
今日お釈迦様の誕生日を祝い、あきちゃんとゆう君が誕生日にあたってコメントをしたので、今、僕はお釈迦様に代わってコメントしました。
そしてお釈迦様は、己とこの世界(宇宙)はどういう関係なのか、「私は宇宙、宇宙は私。」そうすると、区別はどこにあるのか、「あなたは私、私はあなた」という意味、そして私の存在、私の伝えたこと、私の悟り・意志とは何なのかを語って伝えてくだされ、と言われたので、お釈迦様に代わって代弁させてもらいました。



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お釈迦様はこんなふうに言われています。

人は煩悩に悩み、煩悩に苦しむ、そして煩悩により救われる。それは煩悩がその人間の答であるから。

と同時にこんなふうに言われます。


今、「無」ばかり出てきましたね。これは「ない、ない、ない、ない」と言っているのです。それは、自分という意識を持つとこの世界を自らの秤をもって図るのでこの世界と自分に差ができる、ということです。そして、自らの秤を持たないようになる、つまり図る自分がなくなれば、この世界が「ない、ない、ない・・・」と思えるようになるのです。そしてこの世界が「絶対有」であるという状態になるのです。今日はゆう君の誕生日ですからね(チーン 笑)。
そこで、「絶対有」とはどのような「有」かというと、すべてが自分自身である、ということです。
自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。


煩悩が答。そしてその究極の答は、煩悩を無くし絶対有へと至るトキ、得られるものなのでしょう。ということで、今度は最近、ジイジが語った言葉です。

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スピリチャルなワークショップをする人々は、それを完璧でパーフェクトになる道というが、パーフェクトと言っても常に足りないのだと思う。僕はパーフェクトなんて考えていないが、パーフェクトを目指していく過程が大切だと思っている。だから出来の悪い存在も大切となる。

一つの視点からすると、神様は不完全なものを創ることによって完全への道を示された。生命というものは動くこと、循環することが生命の表現、だから完成された状態でも、未熟でも、そこで止めておくというのは生命ではなくなる。神の実態は経路。神経。循環だから。そうしたら、その経路を移り行くこと、それが時空で宇宙の実態なのだから。そうすると、ひどい話が神の意思と言える。ひどい状態からスタートして、それを知って変化していくことが神の存在の顕れ。だからと言って、ひどいことやっても大丈夫ということではない。ひどい話という実態から進んでいくということ。そうでないと希望も喜びも生まれない。

これが分かれば分かるほど、人間たちにいかに難しいことかと思う。すごく複雑。ちょっと分かるとすごい感動するけれども、こんなに素晴らしいのですよと言えるかと言ったら、そんな単純なものではない。美しいことを語り、美しいイメージに浸ればいいというものではない。

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お釈迦様がジイジに語った言葉。

人は煩悩に悩み、煩悩に苦しむ、そして煩悩により救われる。それは煩悩がその人間の答であるから。

それは煩悩を抱える実態と向き合い、煩悩を超えて、絶対有へと至る道。変化変容を繰り返し時空という神の経路を歩み続ける道なのです。

今日はお釈迦様の誕生日。ということでジイジに降りてきたお釈迦様の言葉を紹介しました(^-^)

先日、木の花ファミリーのみんなと花見に行きました。


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