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「愚か」から「尊い」が生まれ人は成長する



あのね、面白い解説があるんだよ。神という存在と、仏という存在がある。「神」という存在は、この世界の実体。「あってあるもの、なきてなきもの」というように一対になっている、この世界の実体そのものを神と言うんだよ。ところが「仏」という存在は、道なんだよ。何も見えない愚かしいところから、どんどんどんどんこの世界の実体を知って、切り開いて、目覚めていく道のことを仏と言うんだよ。そして神の実体へと近付いていく。

そうすると、実体である神は、そこに在り続けるだけなんだよ。これってむなしいでしょう?神様の領域に在り続けることはむなしいんだよ。しかし、仏という状態は、愚かしいところから実体へと向かう道で、とても希望のあるものであり、それを歩めるのが人間なんだよ。人間は、愚かしいところから神までへも行ける幅の広いもので、神よりももっと豊かなもの ──── その可能性を秘めたものであり、それが「ヒ」から「ト」までを歩む「ヒト」なんだよ。

そういう解釈があるんだよ。そうすると、「人に生まれるってすっごいな ────!!!」と思わない?この宇宙のすべての存在には魂があり、その一つひとつの集合体がこの世界の実体となっている。その一つひとつの魂が、「自分はここだけしかわからない」「自分もここの部分しかわからない」「もっと全部をわかりたい!」と思った時に、人間となって、仏道を歩み始めるんだよ。だから人間に生まれてきたことはとても価値があるんだよ。そして「ヒト」の道を歩むんだ。カタカムナの単音の思念でひも解くと、「ホトケ」とは、気配でしかない実体のない見えないもの(ケ)が統合し(ト)、継続して保たれている状態(ホ)を言うんだよ。

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みかちゃんの絵です

この文章は、いさどんブログ「大町道中記② ~心の水爆」からの引用ですが、数日前の大人ミーティングでこの話しがシェアされた時、みかちゃんがホワイトボードに絵を描き始めました。この絵は、真理に至る道として天から直観が降りてくるアメノミナカヌシの道、そして学びを積み上げていく道として、仏の道、クニノトコタチの道を描いています。神には序列があり、天の大神様、地の大神様から貧乏神や疫病神まで幅広く存在しますが、それぞれがそれぞれの位置に留まり高まることも落ちることもありません。ですが、人間はどこまでも高まっていくことが出来ます。そのことをいさどんは以下のように語ります。

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仏道というのは、下から積み上げていって上へと上がっていく道のこと。上には際限がないから、どこまでも無限に上がっていける。ところが神というのは、みんな神様に語りかける時には上を向くように、上から下へと降りてくる存在なんだよ。神様にもいろいろな位置があって、それぞれの位置から人間のもとへ降りてくる。「あなたはどこから来ましたか?」と尋ねると、意外と全体からすると下の方の神様だったりするんだよ。そういった神々は人間を誘惑し、惑わせ、それがいろいろな宗教の元にもなった。

だけど、仏道というのはそうじゃない。仏道とは「道」であり、下から上へと上がっていくものだから、その道には限りがない。人間がその気になったら、宇宙の根源までも行ってしまう。


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神は実体としてそこにあり続けます。ですが、人間は実体でありながらも実体を超えていく存在です。いさどんは仏のことを「気配でしかない実体のない見えないもの(ケ)が統合し(ト)、継続して保たれている状態(ホ)」とカタカムナで読み解き、「何も見えない愚かしいところから、どんどんどんどんこの世界の実体を知って、切り開いて、目覚めていく道」と表現しています。

「愚か」とは何かと言ったら、それは実体から離れた状態です。自我を与えられた人間は自分独自の視点を持ち、自分独自の世界を生み出すことが出来るようになりました。そのため人々は、一つの出来事に対して、立場や意見の違いによって全く異なる反応をするようになっています。それは人間の持つ可能性であり幅の広さですが、世界は今、その可能性を生かせず混乱を生み出している状態です。ここで、今年の夏、まりちゃんが語っていた言葉を思い出しました。

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戦争での人間の酷い行いは人間の可能性を示していて、人間はそこまで行くということ。それは誰の中にもあること。それを否定するのではなく、それを知って、淡々と受け取って、だからこそ尊い道を行く。この世界の全部を知って、醜いを否定せずにその上で美しいを表現していく。そこに感情は挟まない。それは受け入れるというのとも少し違う。受け入れるというと「無理して自分の中に入れる」という感じが含まれるが、ただ淡々と「醜い」を見ていって、そして「美しい」を表現する。

それは一人ひとりの人間にも言えて、自分の中の最悪を知って、それを否定せずに認識し、その上で尊い道を行く。酷い自分の実態を知ることが変化、成長への一番の近道。

例えば、「やっていきます!」とか宣言する人とかいるけれども何をやっていくんだろう?と思う。宣言なんかするよりもしっかりと自分を見つめていけば、自ずとやることは見えてきて、変化していく。宣言する人ってけっこう酷い自分を認めずに切り捨てようとしている。それは良いものでありたいと思っているだけで、結局何も変わらない。

自分の中の対極の可能性、醜いを知って、その上で美しいを目指す。ただそれだけ。

「醜い」を見ていって、「美しい」を表現するより



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「自分が・・・」と自分の世界を生み出していく自我は人を「愚か」へと導きます。ですが、「愚か」があるからこそ、その対極である実体の「尊さ」が見えてくるのです。そして「尊さ」を認識した人間は、仏道を歩み、実体である自分を高めていくことも出来ます。それが「ヒフミヨイムナヤコト(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10)」、この宇宙の法則そのものを理解し歩む「ヒト」としての歩みであり、それは無限に続く道なのです。そして、それは頂くことで頂が増していく、いただきます(頂増す)の道です。自我は常に自分の世界を生み出し続けます。ですが、目の前の出来事を、感情を挟まずにただただいただくことで人は実体の認識へと至ります。そして、その認識を、自分を超えて全宇宙へと広げることで無限の成長へと開かれていくのです。

「愚か」から「尊い」が生まれ、実体へと至り実体を成長させる。

自我の愚かさを認識すればするほどその対極である実体の尊さを認識できます。だから「愚か」は「尊い」、そして成長へと至る希望でもあるのです(^-^)

他者のために自分を表現していく(2)

・・・人には好きなモノとキライなモノがある。それは自然なことだと思う。人間として。私は以前、「キライなモノは、生きていく上で少ない方がいい。」という考えを持っていた。だから、キライなモノをあまり作らないようにしよう、と思った。ムリしてそうしていたわけではなくて、ごく自然に、そうしていた。

中学生になって、人間関係のはばが広がった。すると、私の考えに一つの影がかかった。

「人をキライになるのはいけないコト??」

私はある人がキライになってしまった。本当に、純粋に。一緒にいると、泣きたくなってくる。私はびっくりしてしまった。・・・人をキライになるのって、こんなに悲しくて苦しくてイヤなことなの?・・・と。なんだか自分が悪いことをしているような、そんな気がしてならない。

「人をキライになるのはよくない?」

「自分の心に正直に、あるがままにしたら?」

2つの心の声が、私の中でグルグル回る。よく分からないのです・・・。どうすればいいのでしょう???人をきらうのは、悪いコトですか?

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この文章は僕が公立中学校で相談員をしていた頃、生徒から貰った匿名の投書です。当時、僕は相談室前に《私はこれが言いたい》と題した紙と投書箱を置いていました。生徒たちは自由に書きたいことを書いて投書箱に投函していました。多い時は1日20通ぐらいの投書が来ていましたが、僕はそのうちの一部を相談室便り『兎の眼』に掲載し紙面上で返事をしていました。その『兎の眼』は全校生徒や教職員に配布され、みんなが心について語り合うきっかけとなっていました。ちなみに当時の僕はこの投書に対して、以下のように返事をしています。

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あなたの言うように、人には好きなものと嫌いなものがあります。そして、それは自然なことです。そういう意味では、人を嫌いになるのは、悪いことではないでしょう。ですが、誰かを嫌いになると、その相手を傷つける恐れがあります。悪口を言ってしまったり、無視してしまったり・・・。もし、そういうことをしないとしても、気づかぬうちに冷たくしてしまうこともありえるでしょう。人を傷つけることは悪いことだと思います。多分、あなたもそう思っているから苦しんでいるのではないでしょうか?本当に難しい問題ですよね。あなたに呼びかけている2つの声は両方とも正しくて間違っているのです。(ややこしい言い方をしてすみません)2つの声、両方とも大切にして下さい。もし、「人を嫌いになるのはよくない」と言う声だけを大切にしていたら、自分の素直な気持ちを失ってしまいます。もし、「自分の心に正直に・・・」という声だけを大切にしたら、むやみに人を傷つけてしまいます。だから、両方の声を大切にして、バランスを取りながら生きていくしかないのです。僕はそうやって生きています。多分、皆もそうだと思うのですが・・・

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今だったらもう少し違う回答をしていますが、これは当時のベストを尽くした回答となっています。『兎の眼』は月に1~2回発行していましたが、毎回、上記のようなやり取りを掲載していました。紹介した投書の数は年間100を下らないと思います。『兎の眼』を発行する際は教育相談主任や管理職のチェックを受け、発行後は全校生徒とその保護者、そして教職員の眼に触れます。それらすべての人を意識して文章を作成することは自分自身を鍛えてくれたと思っています。

今、僕はこうしてブログを書いていますが、その原点はこの『兎の眼』にあると思っています。心理療法の世界では、最初に出会ったクライアントをイニシャルケースと呼び、そこでの経験がその人の心理療法家としての人生に大きな影響を持つと言われていますが(河合隼雄さんの言葉です)、僕にとって『兎の眼』はこのイニシャルケースとなっています。公立中学校での相談員は僕の最初の仕事です。働くことは傍(はた)楽(らく)こと。傍(はた)を楽(らく)にするための最初の一歩となっているのです。

当時、『兎の眼』は自分の想像を超えたものへと育っていきましたが、それは僕の力ではなく生徒からの投書が持つエネルギーによります。投書の持つエネルギー、そして生徒や保護者、教職員の視点が『兎の眼』を育ててくれました。それは、このブログも同じで、これは僕の力で書いているのではなく、いさどんの言葉、そして木の花ファミリーでの生活によって生み出され、育てられているのです。

そして書く目的は、一人の心をみんなで共有することで、共に学び合うきっかけを生み出すことです。『兎の眼』は普段語られない中学生の言葉を紹介することで生徒同士が深いところで語り合うきっかけを作りました。そして、このブログは木の花ファミリーでの暮らしを通した学びを共有することで、読者の学びのきっかけとなるよう心掛けています。

他者のために自分を表現していく

2011年1月にいさどんから貰った言葉。それがこのブログを書く目的であり、僕の人生だと思っています。

今、多くの人が自分のために自分を表現しているのではないかと思います。自分を知って貰いたい。自分の願いや希望を叶えたい。みんなから評価されたい。だから、理解されないと思った時、願いが叶わないと思った時、評価が落ちると思った時は内緒にします。思惑に基づいて表現したりしなかったりで、その結果、人びとは人の心を探り合うようになります。アメリカのトランプ大統領の過激な発言も北朝鮮によるミサイル発射も思惑に基づいた表現であり、世界を危険に晒していますが、それは人々の日常の鏡とも言えます。

だから自分のためではなく他者のために自分を表現していく。

それは何も「他人のためになろう」と意気込むことではなく、客観的視点に立って、そこから見える自分の姿を表現していくのです。客観的視点から見えてくるこの世界の法則性と自分の姿。善悪などの価値判断を超えプロセスを辿ったその姿が他者の学びとなります。この世界の法則は一つ。だけれども、その法則性の上でそれぞれが個性的な道を歩んでいます。それを共有することはとても豊かなことであり、深い学びともなるのです。ここでいさどんが2年前の7月に語ってくれた言葉を思い出したので引用します。

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常に意識を全体性に持っていく必要があります。あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?それが重要です。個人的願望が全体性と共通していればいいのです。例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、全体性と個人は本来、共通していることなのです。ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



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個人的願望がなくなったら自分のために表現する必要がなくなります。他者のために自分を表現していく。それはきっといらなくなった状態でみんなで共通の世界を極めていくことです。みんながそんなふうに自分を表現しみんなで世界を極めていく時、この世界の実相が明らかとなり真の平和が訪れることでしょう。

そんな世界を目指して。

他者のために自分を表現していきます(^-^)



『兎の眼』平成12年11月8日発行(表)



カタカムナを生きる ~天が与えた僕の物語~



昨晩、いさどんによるカタカムナプレゼン第4弾が行われました。プレゼンの冒頭で語られたことは、今の人たちは表面上の出来事に反応しているということ。そのため立場が変わればば意見も変わり、一つの出来事に対して様々な見解が生じることとなっているのです。それが現代社会の混乱となって表れています。

カタカムナを学ぶということは、表面上の出来事の奥に流れる法則性を理解するということ。そして、カタカムナを生きるとは、この世界の法則性、天の意志に基づいて生きていくということです。

ヒフミヨイムナヤコト

プレゼンで世界の始まりから語りだすいさどんの言葉に木の花ファミリー憲章世界観「概要」を思い出しました。以下、引用します。

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宇宙の成り立ちや生命の神秘は、いまのところ科学で完全には解き明かされていません。したがって、それは心を通して認識することになります。

現在、過去、未来、そして全宇宙へと、心はどこまでも思いを馳せることが出来ます。

人間が自らの視点を離れ、この世界をありのままに眺めたときに、一つの大きな法則が見えてきます。また五感を超えた感覚、すなわち直観を通して見出すことが出来る宇宙や生命の姿もあります。私たちがこの憲章で語る宇宙や生命は、こうした方法で導き出したものです。

私たちは宇宙に始まりも終わりもないと考えていますが、ある地点を区切り、そこを「始まり」と見なすことも出来ます。現象をありのままに眺めていると、すべての現象が「想い」という種から生まれていることが見えてきます。宇宙も同じです。「はじめに言葉ありき」と聖書にありますが、言葉とは「想い」のことです。「想い」のみが存在している時点。そこを始まりと見なします。

「想い」は圧縮して爆発し、「相反するもの」を生みだしました。磁石の両極のように、相反するものは惹かれ合い、新たな振動を生みだします。それがこの世界を創っています。

相反する存在により、比較が可能となり価値判断が生まれます。光と闇、善と悪、美と醜、大と小などは比べることによって生まれた価値判断です。

この世界で生かされている人間は「自分」という意識、すなわち自我を持ち、自他を区別するようになりました。それによって所有の概念や欠乏感、そして欲が生まれます。そうした欲にもとづいて、人々が自分に都合の良い世界を作ろうとしてきた結果、人々は病み、争い、自然を壊してきたのです。

自我を通して物事を認識する人間は、こうした現象を「問題事」としてとらえます。それを解決しようと目の前の現象を深く見つめた者は、ある事実に気付いていきます。それは、すべての存在が「想い」から創られているということです。

「想い」はあらゆる価値判断を超えた善意と愛、そして調和から成ります。これは自然界から教えてもらえる事実です。自然界では、お互いの存在が生かしあっています。これは利他の精神の顕れです。善意により繋がり、愛が生まれ、愛により絆が生まれ、調和をもたらしているのです。悪、醜、偽、欲、貧など、この世でマイナスの価値を与えられている事柄も、すべてはこの「想い」、善意と愛と調和から生まれています。「想い」に立ち返れば、すべてはひとつなのです。

私たちは目の前の「問題事」を通して、この世界を創っている「想い」を認識する道を与えられています。「想い」を認識した時、人は善意と愛と調和に目覚めます。これは心磨きの道です。より多くの人が心を磨くようになれば、世界は善意と愛と調和で満たされていくでしょう。それが、私たちの生きている世界なのです。


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ここで語られている「想い」の圧縮とは「ヒフミヨイムナヤ」で飽和安定している状態、そして爆発とは「転がり出る」ことです。このようにして相反するものが存在するこの世界が生まれ続けているのです。

すべての存在が「想い」から創られている。この「想い」とは元の「想い」であり、天の意志とも言えます。個々の人間はそこから分かたれ、自分の「想い」を持つようになります。この自分の「想い」が人との差を強調し「問題事」を生み出してきました。ですが、「問題事」の奥を見通せば、元の「想い」へと至り、そこから世界や自分を見通せば、人との差で協調し繋がり合う豊かさを表現出来るようになるのです。

僕が持っている自分の想い。そこには感情や情動、思考などが含まれ、一つの視点、一つの世界を生み出します。それに囚われず、かと言ってそれを否定するわけでもなく、天の視点に立って、それが何を生み出していくのか、そしてどのように変化していくのかを見ていこうと思っています。その変化変容こそが天が与えた僕の物語。人との差で協調し繋がり合う豊かさを表現する物語です(^-^)



円が縁を紡ぎ、宇宙の中心へと繋がっていく

自分がここにいる理由を考えていた時、「結局、縁なんだよな」という言葉が浮かんで来ました。そして、その言葉をきっかけにいさどんブログ「円が縁を紡ぐ~人間からヒトへ~」を思い出しました。そこにはこんなことが書かれています。

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トキは一方通行に、コッ、コッ、コッ、コッ、と確実に刻まれてゆく。それが昨日から今日、明日へと進むのを一直線に見ているのは、思考の幅が狭いからだ。単純な発想で見ていると左から右に動くように見えるが、ものが動くということは、そこに必ず中心となる一点がある。そして縁のあるものがその周りに集い、回転するという形になって初めて、ものが動くことが持続する。直線ではなく、円運動をしているのだ。
それは「縁」というもので紡がれる。「円運動」とは、「縁運動」でもあるのだ。縁とは、約束事。縁という見えない糸があり、それがバラバラであったものを約束のようにつないで、全体が回り、巻き込んでいく。それはあたかも銀河のようだ。
円の中心の一点は、止まっているかのように見える。しかしその一点も、さらに大きな役割のもとに何かの周りを回っている。中心が止まっている状態になったら、外の円運動も起きない。すべてが連動して動いているからこそ、個々の円も成り立つのだ。

~ 中略 ~

この世界の成り立ちは円運動から成り、それは秩序のもとに、約束通りに動いている。約束通り動くには、軸が必要だ。すべてのものの中心には軸があり、それがもう一つ大きな軸の周りを回っている。地軸があるから地球は自転し、振動し、歳差運動をしながら、太陽の軸のもとにその周りを回っている。そして太陽もまた同じように自転しながらセントラルサン(銀河の中心)の周りを回り、銀河も同じように、さらに大きなものの周りを回っている。単独で存在しているものは何ひとつない。すべてが無限に連鎖して、その関係の中で互いの存在を成り立たせている。ということは、世界がひとつだということだ。

~ 中略 ~


すべての現象は、円運動をしている。その円運動の関係の中で出会う現象に自らがどのような縁を持っているのか ――― 近いのか遠いのか――― それによってトコロが移り変わり、互いに対向発生をしながら円運動を続けていく。それが人生だ。
円(縁)は無限にあり、そのすべての中心をトキ軸が貫いている。つまり、この世界はいたるところがトキ軸だらけだ。我々の体はおよそ60兆個の細胞から成っているが、その細胞の一つひとつをトキ軸が貫いている。なんという宇宙ロマンだろうか。

~ 中略 ~

縁は、意図が働くことで生まれる。意図とは、糸だ。縁という見えない糸がバラバラのものをつなぎ、回転が起きて、現象(形)が生まれる。
人間には、自らが認識している自分と、認識できていない自分とがある。それはどういうことかと言うと、人間はある段階に至ると、それまで認識せずにいた新たな自分を発見する。しかしその自分とは、認識する以前からずっとあり続けたものだ。
現在の自分が成立する以前から、自分というものはある。過去の自分がつくったものが因となり、その結果として現象が現れる。それを因縁という。この世界は、因縁にふさわしく現象が起きる因果応報の仕組みで成り立っている。遠い過去からずっと続いてきた物語として現在があり、今この瞬間も紡いでいる縁が次の出来事につながり、そこからまた新たな縁が生まれて次の出来事へとつながって、物語は未来へと続いていく。因縁の始まりは宇宙の始まりであり、因縁の終わりは宇宙の終わりだ。それは永遠に続くということ。すべての存在は、宇宙の始まりから終わりまでをつないでいるひとコマだ。

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宇宙と自分は一つ。その中で過去から続く因縁によって今この場にいて、そして今の自分の言動が新たな縁を生み出していきます。それは円運動によって究極的には宇宙の中心と繋がっていきます。日々出会う出来事は、視点を高くすれば、無限なる宇宙の円運動のひとコマとして出会っているものであり、それは自らの生の結果でもあります。

何かに出会った時、自分の中にはいろいろな反応が芽生えますが、それは今までの生の結果であり多様な因縁があるからこそ、多様な反応をしているということです。その中で何を選ぶかで解消される因縁もあれば強まる因縁もあります。そして、それは無限に連なる宇宙の中心へと繋がっているのです。

今年の3月21日、太陽が春分点を通過した最初の朝にカフェ&ショップ ロータスランドがオープンしました。そして、5月26日、蟹座新月の日に合同会社ロータスランドが設立されました。この新しい動きを受けて、木の花ファミリーの経理の質と量は変化し、自分にとってはチャレンジの時を迎えています。そして、自分の心の中には様々な感情が芽生えます。自分の今までの生、因縁によって芽生える様々な感情。その中で自分が選んだ感情が波動となって宇宙の中心へと繋がり、この世界の一翼を担っていく。それは本当に些細なものであっても自分一人分、この世界に対する責任です。

僕は毎朝散歩をしていますが、最近は空を羽ばたく鳥がよく目に止まります。鳥瞰図。鳥の視点で自分や周りを常に眺めていること、それは感情に囚われず、ただただ流れのままに展開を見届けいただくこと。それはきっと自分の中の因縁をきれいにしていくことになると思っています。

円が縁を紡ぎ出会った木の花ファミリーの仲間たち。みんなと一緒にたんたんと日々を過ごして、自分の因縁をきれいにして、その波動を宇宙の中心に伝えて、僕は生きていく。

それは宇宙の歴史のひとコマであり宇宙そのものなのだと思っています(^-^)

木の花ファミリーのみんな、玉ねぎの苗取りをしています。

カタカムナを生きる ~神話は更新される~

カタカムナを生きる ~トキのズレ~」に書いたように、先日、いさどんからメンバーに向けてカタカムナプレゼンがされましたが、楢崎皐月氏がカタカムナの解読をする時、日本の神々の名前が参考になったそうです。

アメノミナカヌシ、クニノトコタチ、イサナキ、イサナミ、アマテラス

これら日本の神々は、カタカムナの単音思念で読み解くと、この宇宙の物理性を表しているのです。その物理性から生まれた物語が神話となっています。そのため、神話を読み解くことはこの世界の法則、この世界の奥に流れている意志を読み解くヒントとなるのです。

先日、いさどんは隠された神さまと言われるセオリツヒメについて以下のように読み解いています。

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ヒメとは女性のことだろう?秘かなメ。メは芽が出る・これから始まるということ。ヒとメはどちらかというと陰を示していて、奥にあって現象化の始まり。セは狭い。オはひとまずおいておいて、リは分離、ツは集う・番う。だから、セオリツとヒメのふたつに分けるとすると、セオリツなのかセヲリツなのか。オなのか、ヲなのか?つまり、オは六方向に拡大・収縮という意味で拡大のこと。しかし、それがヲになると、奥に達して収まるという意味でそぎ落とすということになる。男性が拡散することに対して、どちらかというと女性はそれを仕分けて必要なものを収めるということだから、「セヲリツヒメ」ということになる。でも、ヲはなかなか使われないね。トータルしてみると、エネルギーが集中している狭い道、いわば探究の狭い道(セ)の真理の奥に達して収まり(ヲ)、分離して(リ)、集う(ツ)芽(メ)が秘かに出ている(ヒ)。つまり、奥のほうにあって真理の芽がそこで今構えている状態。だから、セヲリツヒメというのは、今はまだなかなか真理が出てこないけれど、それが準備して待っているということ。この世界にはなかなか出てこないのだけれど、いよいよ出てきたら極めて狭くて奥のほうにある真理が引き出されるということだ。

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セヲリツヒメはアマテラスの伴侶です。アマテラスは古事記では女神として描かれていますが、本来は男神だと言われています。そのことはアマテラスという言霊にも表れています。アマテラスをカタカムナの単音で読み解くと以下のようになります。

宇宙空間の(アマ)正と反が露わになった(テ)場所が(ラ)極限に達する(ス)

これは拡散し分離して行く動きと言え、男性性と言えます。女神であるセヲリツヒメが隠され、そして男神であるアマテラスが女神とされている。それは本来、女性の領域であるところにも男性が浸食していることを表していて、男性が支配的となり分断が極みに達している現代社会の状況を表しています。

セヲリツヒメの復活。それは今生まれつつある神話であり、宇宙の物理性、そして時代の表現です。

話しは変わって。

世界の神話の中にはドラゴンスレイヤーに分類される話が多数存在すると言われています。それはどういうものかというと、財宝を守る龍が存在し、人間がその龍を倒し財宝を持ち帰るというものです。僕はこの神話は「現在の人間の特徴」を表しているのではないと思っています。

今、多くの人は自分の外に障害や悪を見出し、それを克服しようとしています。その姿は神話に登場する龍を退治する人間の姿に重なります。今の人間は、英雄になることに憧れ求めていますが、英雄になるためには克服すべき課題や悪を必要とします。そのため世界に課題や悪はなくならず存在し続けます。加えて、彼が英雄となった結果得るものは財宝という自分の望みとなっています。龍は神聖な生き物です。自分の望みを追い求める結果、神聖なものを失っていく。ドラゴンスレイヤーの神話はそのことも示唆しており、それは人々が自分の望みを追い求めた結果、人との繋がりが希薄となり、地球環境が悪化し続ける今の社会となって表れています。これは時代が生み出した人間の形であり、だからこそ世界各地にドラゴンスレイヤーの神話があったのです。

ですが今、新たな神話が生まれ、それは新たな人間の姿を示唆しています。例えば、「虹の戦士」の話。

地球が病んで動物たちが姿を消しはじめるときまさにそのときみんなを救う虹の戦士たちがあらわれる・・・。

そんなふうにアメリカ・インディアンが信じつづけてきた、最後の再生への物語。これは何かを倒すためではなく救うために立ち上がる人間の姿を示しています。そして望みは自分の幸せではなくみんなの幸せです。

そして日本では、艮の金神、国之常立神(クニノトコタチ)の復活です。地の大神様、地球神である国之常立神は、八百万の神々に対して心の掟を厳しく説いていましたが、そのため神々に煙たがられ、艮の方角に封印されました。その際、天の大神様は国之常立神に以下のように伝えたと言います。


「すまないが、一度この世の表から退いてくだされ。しかし、いつか必ず世が立ち行かなくなる時が来る。その時再び現れ、この世界を立て直してくだされ。」

その国之常立神が復活する神話が今、生まれています。富士浅間木の花祭りはそのことを表現するお祭りであり、それは「艮の金神と翁の問答」に表されています。

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艮の金神と翁の問答              

 
  
伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間 ところは当初の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色(こんじき)の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。

金神  

この方(ほう)は、艮の金神と申す。
時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界(みちよかい)。 汝らの宇宙(うつ)、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢れ(けがれ)逆巻く魔釣りの世。

      

艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう

金神
この方(ほう)は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙(うつ)の天意転換(たてなおし)、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢れ(けがれ)汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢れ(けがれ)混じること、適わぬ(かなわぬ)世となるべきなり。古き仕組みに変わりたる、新たな仕組み始まれり。
縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯 済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換(たてなおし)、汝らご用に使うてやる。


一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出る(いでる)と申されるか

金神  

いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人(かみびと)、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。
故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。
神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球(くに)の日月の神々じゃ。
一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹にまことを据えるのじゃ。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。

      

引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。

金神  

一度は渡したその榊。天の元に供えられい

(金神は後ろを向く。翁が榊の枝を金神の腰に差して退場する。
金神、根付きの榊に持ち替えて、四方でへんべいを踏んだ後、神座に戻る)

皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、嬉し嬉し、愉し愉しの世となりて、真(まこと)の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真(まこと)次々現れくるぞ。
あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。
オー、オー、ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト オー。
真(まこと)の神が現れる。神人(かみびと)共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。
真(まこと)の真釣り(まつり)始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。



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虹の戦士も艮の金神の復活も世のため人のために生きる人の姿を示しています。これらは時代が今、生み出している神話であり、この世界の奥にある意志の顕れです。これらの神話が世に広がり、それを生きるものが増えて行った時、世界は自ずから変化していきます。僕ら木の花ファミリーはその先駆けとしてみんなで助け合い学び合う暮らしをしています。それは新たな神話という時代の意志を受けた世直しであり、生きることがそのまま世直しになる暮らしです。





宇宙を生きる(2)

いさどんブログ「21世紀のいのちの捉え方」にはこんな言葉があります。

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死を迎えることは、人生の区切りをつけ、次のステージに行くことでもあるのですから、亡くなった人を見送る人たちは、死者に対して、「こうだったらよかった」「ああだったらよかった」と考えるだけでも、その人が次のステージに行くための後ろ髪を引くことになるのです。

生死の流れからすると、亡くなった人たちは必ず次へ行かなければいけないのです。ですから、そこでは未練を持つのではなく、その人との出会いから感情を入れずに学ぶことが大切なのです。学ぶことがその人の死を生かすことになるのです。

生きている者からすると、その人の生き様を見せてもらったのですから、「あの人はこう生きてこのような結果を迎えたのだから、自分はこのように生きていこう」と自らの生き方につなげ、学ぶことが、人の死を生かすことになるのです。どんな人の生き様であっても、それが殺人者であろうが、自殺した人でも、一つ一つの事例として残された人に見せてくれているのです。

よくある話として、余命3ヶ月と宣告されると、「どのようにその期間を過ごしたらいいのでしょうか?」という質問をご家族から受けることがあります。その時に僕が答えるのは、その人が亡くなっても、その人の生き様(人生経験)は残った人たちの中に生かせるということです。ですから、生きている間にその人を観察し、なぜ今のような状態になっているのかを理解した時に、その人の人生を自分も生きたと捉えることができるのです。
わたしたちは自分ひとり分の人生を歩んでいますが、縁の近い人の生き様は身近で赤裸々に見せてもらっているのですから、それを自分も経験したと同じように捉えることができるのです。ですから、そこから学び、自分のこれからの人生に生かすと、死は世代を超えて生き続けることになるのです。

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この言葉は身近な人の死について語っていますが、日々ニュースから流れる死についても同じことが言えると思います。2年前の今日、パリで同時多発テロが起きました。当時の僕はこのニュースに大きな衝撃を受け上記の文章を踏まえ以下のように書きました。

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人の生死を客観的に捉え、そこから学ぶことが大切です。今回の事件もそんなふうに生かされた時、犠牲者も安穏なる気持ちで次のステージにいけるのだと思います。

僕は客観性に基づく祈りを捧げます。

そしてこの事件を未来に生かしていきたいと思います。

客観性の中で、すべての存在は大いなる循環の中で生かされていきます。一人一人が自分の立場を離れて客観性を育んでいくことが大切です。世界で起きることは常に自分自身への問い掛けとなるのです。


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あれから2年。テロがなくなることはなく今年もパキスタンやソマリア、スペインなど様々な地域でテロが起き続けています。それは人類がテロという悲しい出来事を学びとして生かせていないからだと思います。学びとして生かすためには、それぞれの立場を離れ、過去から未来へと続く流れの中で出来事を捉えていく必要があります。そんな取り組みとして歴史的視点、そして貧困や格差、宗教の違いなど構造的分析がなされていますが、その奥にある一人ひとりの心にメスが入っていないのです。

たとえば「命には囚われない悟り(2)」で取り上げているクラウドアトラスの主人公は、公式ホームページで「世界を救うまでに魂が成長した男」と紹介されています。ですが彼のした行為は、肉親への愛着や執着に基づくもので、敵対するものを悪とし殺害するというものです。映画では全く触れられていませんが、敵対し殺害された人たちにも家族がいて、そこには同じように肉親への愛着や執着が存在するはずなのです。悪とされ排除された側には憎しみが生まれ、その憎しみは人をテロリストへと導く可能性を秘めています。

肉親や身近なものへの愛情から敵対するものを排除する。

もし多くの人がこんな物語を英雄物語として受け入れているとしたら、その心が世界にテロリズムを生み出し続けているのかもしれません。

一人ひとりの心の総和が世界の出来事を生み出しています。だから世界で起きていることを自らの心の反映として一人ひとりがしっかりと向き合うことが大切なのです。そんなふうに生きる時、現象の奥に流れる天の心が見え、この世界の奥深さに気づきます。

その時、人は宇宙と一体、宇宙を生きるようになり、真の調和が実現するのだと思います。

いさどんさつまいも収穫





ドキドキからワクワクへ

瞬間瞬間の選択の連続によって「道」ができる人生ですが、その選択が「愛(ワクワク)の選択」「怖れ(ドキドキ)の選択」によって、進む方向性、待ち受ける結果は180度変わってきます。

何事に対してもできない理由を考えるよりも先にできる方法を考える人は、人生の選択においても愛の選択をする人。

自分はもちろん、誰かや全体もすべてが調和する選択であり、その根底には「自己愛」が満たされており、自分のことよりも全体をバランス良く見れる視点があります。

逆にできる方法を考えるよりも先にできない理由を考える人は、どちらかといえば怖れの選択をする人。

常に「うまくいくはずがない」「失敗するのではないか?」という不安や恐怖の感情にとらわれており、自分自身にも自信がなく、深い部分で自己愛にも欠けている部分があったりもします。

自分に方向性が向いている限りは、自分以外との調和を図ろうにも、潜在意識は常に自分の欲、不足している愛を満たそうと動き、やることなすことすべてが自分のため、エゴの選択へと進むこともあります。


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これは今年の3月に読んだ記事からの引用ですが、「愛の選択=ワクワク」「恐れの選択=ドキドキ」という言葉がとても印象に残っていました。僕は新しい行動をする時、ドキドキすることの方が多かったのですそのドキドキが恐れの選択と表現されているのを見て、自分自身の振り返りをしていました。それで確かに僕の中には「恐れ」の感情があったのですただそれは「うまくいかない」とか「失敗する」とかそういう思考から来る恐れではなく、変化を促されることに対する抵抗のようなものでした。そして、それがどこから来ていたかと言ったら、立脚点の違いから来ていたのだと気づきました。

新しいことを始めようとする時には想いが湧いてくるのですが、その想いの側に立つと「湧く湧く(ワクワク)」した気持ちとなります。そうではなく、思考(今の自分)の位置に立つとその想いは自分の変化を促すものとなり、自分は変化を促される対象、受け身となっていくのです。そんな時、僕はドキドキし、その奥には確かに変化に対する恐怖があったのです。僕は恐怖をコントロールしてきたので、そんな時も行動し結果を楽しんできたのですが、エネルギー的には自分に大きな負担を掛けてきました。そして、「今を生きる」で紹介した状態へと至ったわけです。

自分自身の立ち位置によって湧いてくる想いがワクワクにもなりドキドキにもなるのです。ということは、ワクワク、ドキドキをきっかけに自分自身の立ち位置のチェックが出来ます。そんなふうに自分を見ていきます。そして、僕は今、ドキドキからワクワクへとどんどん移行しているのです。それは新しい体験に常に開かれていくということですね。

そして大切なのは、想いを実現させることではなく想いに心を開くことです。湧いてくる想いから行動する時、いつも思い通りになるわけではありません。予期せぬ出来事に出会うこともあります。そのような時、出会う出来事に心を開いていれば、当初の想いは変化していくものです。当初の想いが自分をどこに導くかは先に行ってみなければ分からないものです。湧いてくる想いの奥には天からのメッセージがあります。それを探り感じることが人生に奥行を与え豊かにしてくれるのです。そんな生き方についていさどんはこんなふうに語っています。

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3次元世界に暮らしながらも人間は物事を2元的に観ている。それは、出会うこととそれに対する自分の反応で物事を見ているから。それで平面的になっていく。だけれども、その奥にはこの世界を動かしている意志がある。出会うこととそれに対する自分の反応、そしてその奥にある意志。それらすべてを意識した時、この世界を立体的に観ることが出来る。

出会うことに反応することで人は一喜一憂する。それが人間で一喜一憂しなければ生きている意味がない。一喜一憂しながらも、出来事の奥にある意志を感じて、一喜一憂している自分を離れて観る。そして流れをいただいていく。それが生きていることの醍醐味で、人生に翻弄されずに楽しむことが出来るようになる。
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現象の奥に流れている意味を感じ探ること。それが人生を立体的にし、この世界の本質探求にも繋がります。そして、それはそのまま自分自身に対する理解ともなっていきます。ここでまたいさどんの言葉を紹介しますね。

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みんな自分が世直しを託されているとは思っていません。
だけれども、みんな間違えなくこの宇宙の法則の中で生きていて、
人類の70億分の1、この世界を託されているのです。

人は育っていく過程で欲求し、欲求を満たしながら成長していきます。
健全な秩序の中で欲求を満たしていく人もいれば、
秩序なく際限なく欲求を満たし求め続ける人もいます。
そういう経験の中で自分という人間性が出来てきます。

その中で、それぞれが自分の成り立ちを振り返って見ると、
それが宇宙の歴史や地球の成り立ちと一緒だということが見えてきます。
この世界は全部相似形なのです。

小さなところの集合が大きなところを創りだし、
大きなところの法則が小さなところに指針を与えています。

13,000年前のカタカムナの時代。
厳しい自然の中、人類は天然の法則を感知してすり抜けてきました。
ですが、その感覚は時代と共に失われてきました。
その叡智が天とつながることで現代に蘇るのです。

カタカムナの生き方を現代に表現していく。
それは、科学が発展したところに天然の精神を加えることです。
これはまさに新しい時代の生き方で、
木の花ファミリーはそれを表現していくのです。

2012年12月21日。太陽系は銀河の冬至を迎えました。
これからは少しずつ明るくなっていきます。
宇宙的には明るくなる現象が起きて、人間を後押しするのです。

健康に生きることは素晴らしいことです。
ですが、ただ健康になりたいだけで終わってしまったら
人生は深まりません。
生きている過程でいただく病気や滞り。
その奥にあるメッセージを理解していくことが大切です。
そこを理解した時に現代人も天然の意識で生きていくことが出来ます。

この世界は心と肉体(物質)で出来ています。
まずは心、魂を磨くことが大切です。
物質のことは考えなくてもいいのです。
今の世の中はまだ物質的豊かさを求めていますが、
そういう世の中はひっくり返ります。

そのようなターニングポイントを今、迎えているのです。

人間の欲が戦争を生み出し、第二次世界大戦で大きな犠牲を出しました。
これは世の中の欲の心が壊れて一度リセットされた状態です。
ですが、戦後の復興は、もう一度、欲の心でなされました
そして、現代の混乱に至っています。

自分の健全、健康を求める心の奥にメッセージがあり、
それを通して自分がどう生きるべきかが見えてきます。
大切なのは、自分が健康に生きることだけではないのです。
自分のことばかり考えることで人間は不健康になっていったのです。
そのからくりを見通すこと。その先に世の中作りがあるのです。

世の中を良くするとみんなが良くなっていくのです。
自分が・・・と考えると住みにくい世の中になっていきます。
自分が・・・という心を超えていく。
それが天と共に生きることです。

 ~ 中略 ~

ここで健全な場を創り出すことが時代の流れをあらわすことになります。
世界のことを思い、自分を超えていく。
そのことが宇宙の中に光をさすことになるのです。

それを本当に信じて取り組むことです。

時代も神も目には見えません。人間の理解を超えています。
ですが、この世界にはそういう秩序が確実にあるのです。
そこに一人一人の人間が理解を示すことが大切です。

宗教はご利益を求める人により発展しましたが、
本来はそういうものではありません。

信仰とは宇宙の法則性の理解です。

法則性を理解し、自分が・・・という心を超えていく。

そのような本当の信仰心の下、天と共に生きていくのです。
それが世直しであり、この世界に平和をもたらします。


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現象の奥に流れているメッセージから自分がどう生きるべきかが見えてきます。そして、そのような心で生きることがそのまま世直しへと繋がります。そんな世直しに向けて。今、僕はワクワクしています(^-^)

木の花ファミリーの子どもたち(なんとなくこの写真を使いたくなりました)





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