あのね、面白い解説があるんだよ。神という存在と、仏という存在がある。「神」という存在は、この世界の実体。「あってあるもの、なきてなきもの」というように一対になっている、この世界の実体そのものを神と言うんだよ。ところが「仏」という存在は、道なんだよ。何も見えない愚かしいところから、どんどんどんどんこの世界の実体を知って、切り開いて、目覚めていく道のことを仏と言うんだよ。そして神の実体へと近付いていく。
そうすると、実体である神は、そこに在り続けるだけなんだよ。これってむなしいでしょう?神様の領域に在り続けることはむなしいんだよ。しかし、仏という状態は、愚かしいところから実体へと向かう道で、とても希望のあるものであり、それを歩めるのが人間なんだよ。人間は、愚かしいところから神までへも行ける幅の広いもので、神よりももっと豊かなもの ──── その可能性を秘めたものであり、それが「ヒ」から「ト」までを歩む「ヒト」なんだよ。
そういう解釈があるんだよ。そうすると、「人に生まれるってすっごいな ────!!!」と思わない?この宇宙のすべての存在には魂があり、その一つひとつの集合体がこの世界の実体となっている。その一つひとつの魂が、「自分はここだけしかわからない」「自分もここの部分しかわからない」「もっと全部をわかりたい!」と思った時に、人間となって、仏道を歩み始めるんだよ。だから人間に生まれてきたことはとても価値があるんだよ。そして「ヒト」の道を歩むんだ。カタカムナの単音の思念でひも解くと、「ホトケ」とは、気配でしかない実体のない見えないもの(ケ)が統合し(ト)、継続して保たれている状態(ホ)を言うんだよ。
☆彡 ☆彡 ☆彡
この文章は、いさどんブログ「大町道中記② ~心の水爆」からの引用ですが、数日前の大人ミーティングでこの話しがシェアされた時、みかちゃんがホワイトボードに絵を描き始めました。この絵は、真理に至る道として天から直観が降りてくるアメノミナカヌシの道、そして学びを積み上げていく道として、仏の道、クニノトコタチの道を描いています。神には序列があり、天の大神様、地の大神様から貧乏神や疫病神まで幅広く存在しますが、それぞれがそれぞれの位置に留まり高まることも落ちることもありません。ですが、人間はどこまでも高まっていくことが出来ます。そのことをいさどんは以下のように語ります。
☆彡 ☆彡 ☆彡
☆彡 ☆彡 ☆彡
神は実体としてそこにあり続けます。ですが、人間は実体でありながらも実体を超えていく存在です。いさどんは仏のことを「気配でしかない実体のない見えないもの(ケ)が統合し(ト)、継続して保たれている状態(ホ)」とカタカムナで読み解き、「何も見えない愚かしいところから、どんどんどんどんこの世界の実体を知って、切り開いて、目覚めていく道」と表現しています。
「愚か」とは何かと言ったら、それは実体から離れた状態です。自我を与えられた人間は自分独自の視点を持ち、自分独自の世界を生み出すことが出来るようになりました。そのため人々は、一つの出来事に対して、立場や意見の違いによって全く異なる反応をするようになっています。それは人間の持つ可能性であり幅の広さですが、世界は今、その可能性を生かせず混乱を生み出している状態です。ここで、今年の夏、まりちゃんが語っていた言葉を思い出しました。
☆彡 ☆彡 ☆彡
戦争での人間の酷い行いは人間の可能性を示していて、人間はそこまで行くということ。それは誰の中にもあること。それを否定するのではなく、それを知って、淡々と受け取って、だからこそ尊い道を行く。この世界の全部を知って、醜いを否定せずにその上で美しいを表現していく。そこに感情は挟まない。それは受け入れるというのとも少し違う。受け入れるというと「無理して自分の中に入れる」という感じが含まれるが、ただ淡々と「醜い」を見ていって、そして「美しい」を表現する。
それは一人ひとりの人間にも言えて、自分の中の最悪を知って、それを否定せずに認識し、その上で尊い道を行く。酷い自分の実態を知ることが変化、成長への一番の近道。
例えば、「やっていきます!」とか宣言する人とかいるけれども何をやっていくんだろう?と思う。宣言なんかするよりもしっかりと自分を見つめていけば、自ずとやることは見えてきて、変化していく。宣言する人ってけっこう酷い自分を認めずに切り捨てようとしている。それは良いものでありたいと思っているだけで、結局何も変わらない。
自分の中の対極の可能性、醜いを知って、その上で美しいを目指す。ただそれだけ。
みかちゃんの絵です |
この文章は、いさどんブログ「大町道中記② ~心の水爆」からの引用ですが、数日前の大人ミーティングでこの話しがシェアされた時、みかちゃんがホワイトボードに絵を描き始めました。この絵は、真理に至る道として天から直観が降りてくるアメノミナカヌシの道、そして学びを積み上げていく道として、仏の道、クニノトコタチの道を描いています。神には序列があり、天の大神様、地の大神様から貧乏神や疫病神まで幅広く存在しますが、それぞれがそれぞれの位置に留まり高まることも落ちることもありません。ですが、人間はどこまでも高まっていくことが出来ます。そのことをいさどんは以下のように語ります。
☆彡 ☆彡 ☆彡
仏道というのは、下から積み上げていって上へと上がっていく道のこと。上には際限がないから、どこまでも無限に上がっていける。ところが神というのは、みんな神様に語りかける時には上を向くように、上から下へと降りてくる存在なんだよ。神様にもいろいろな位置があって、それぞれの位置から人間のもとへ降りてくる。「あなたはどこから来ましたか?」と尋ねると、意外と全体からすると下の方の神様だったりするんだよ。そういった神々は人間を誘惑し、惑わせ、それがいろいろな宗教の元にもなった。
だけど、仏道というのはそうじゃない。仏道とは「道」であり、下から上へと上がっていくものだから、その道には限りがない。人間がその気になったら、宇宙の根源までも行ってしまう。
☆彡 ☆彡 ☆彡
「愚か」とは何かと言ったら、それは実体から離れた状態です。自我を与えられた人間は自分独自の視点を持ち、自分独自の世界を生み出すことが出来るようになりました。そのため人々は、一つの出来事に対して、立場や意見の違いによって全く異なる反応をするようになっています。それは人間の持つ可能性であり幅の広さですが、世界は今、その可能性を生かせず混乱を生み出している状態です。ここで、今年の夏、まりちゃんが語っていた言葉を思い出しました。
☆彡 ☆彡 ☆彡
戦争での人間の酷い行いは人間の可能性を示していて、人間はそこまで行くということ。それは誰の中にもあること。それを否定するのではなく、それを知って、淡々と受け取って、だからこそ尊い道を行く。この世界の全部を知って、醜いを否定せずにその上で美しいを表現していく。そこに感情は挟まない。それは受け入れるというのとも少し違う。受け入れるというと「無理して自分の中に入れる」という感じが含まれるが、ただ淡々と「醜い」を見ていって、そして「美しい」を表現する。
それは一人ひとりの人間にも言えて、自分の中の最悪を知って、それを否定せずに認識し、その上で尊い道を行く。酷い自分の実態を知ることが変化、成長への一番の近道。
例えば、「やっていきます!」とか宣言する人とかいるけれども何をやっていくんだろう?と思う。宣言なんかするよりもしっかりと自分を見つめていけば、自ずとやることは見えてきて、変化していく。宣言する人ってけっこう酷い自分を認めずに切り捨てようとしている。それは良いものでありたいと思っているだけで、結局何も変わらない。
自分の中の対極の可能性、醜いを知って、その上で美しいを目指す。ただそれだけ。
「醜い」を見ていって、「美しい」を表現するより
☆彡 ☆彡 ☆彡
「自分が・・・」と自分の世界を生み出していく自我は人を「愚か」へと導きます。ですが、「愚か」があるからこそ、その対極である実体の「尊さ」が見えてくるのです。そして「尊さ」を認識した人間は、仏道を歩み、実体である自分を高めていくことも出来ます。それが「ヒフミヨイムナヤコト(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10)」、この宇宙の法則そのものを理解し歩む「ヒト」としての歩みであり、それは無限に続く道なのです。そして、それは頂くことで頂が増していく、いただきます(頂増す)の道です。自我は常に自分の世界を生み出し続けます。ですが、目の前の出来事を、感情を挟まずにただただいただくことで人は実体の認識へと至ります。そして、その認識を、自分を超えて全宇宙へと広げることで無限の成長へと開かれていくのです。
「愚か」から「尊い」が生まれ、実体へと至り実体を成長させる。
自我の愚かさを認識すればするほどその対極である実体の尊さを認識できます。だから「愚か」は「尊い」、そして成長へと至る希望でもあるのです(^-^)
「愚か」から「尊い」が生まれ、実体へと至り実体を成長させる。
自我の愚かさを認識すればするほどその対極である実体の尊さを認識できます。だから「愚か」は「尊い」、そして成長へと至る希望でもあるのです(^-^)
0 コメント: